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クルス・クライストの四女神とカナル帝国記  作者: 椋鳥
第一章 賢者の石
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5 動乱

5 動乱



 クルスの一行は揃ってバレンダウンへと帰還した。それはネメシスの指示によるもので、エドワード・カナルの悪魔化と彼の死に直面したことで、彼女の決意は固まったようであった。


 <銀の蹄亭>にもサンク・キャストルで起きた戦闘と被害に関する情報は届きつつあり、相手が白騎士団ということで<リーグ>のバレンダウン支部はいたく動揺した。<リーグ>は大陸諸国にネットワークを張り巡らせており、当然カナル帝国中にも複数のブランチを所有していた。


 曲がりなりにも<リーグ>の本部機能を潰されたわけで、チャーチドベルンやバレンダウンといったカナルの大支部は兎も角、ベルゲルミル連合王国をはじめとした他国に拠点を構える支部からは、カナルとの決戦やむ無しといった過激な主張までもが飛び出した。


 カナルの国内も激震に見舞われていた。名のある貴族や騎士とて今回の騒ぎに寝耳に水と驚くケースが続出し、帝都には連日のように早馬が飛んだ。民草は国内に滞留する不穏な空気を肌で感じ始め、聖神カナンに祈りを捧げる時間が増える一方となった。そして、徐々にではあったが交易や生産活動も細り出した。


「<疫病神>よ。サンク・キャストルのエックス参謀からあんた宛に密書が届いた。これだ」


「彼は無事だったのか?あそこを抜け出す時に見当たらなかったから、てっきり戦死なり獄死なりしたものとばかり」


 クルスの言葉に副支部長は髭面を歪ませて笑みを形作った。


「あの<脱兎(ライトニングスピード)>が?<疫病神>、それは物を知らな過ぎるという話だろう。エックス参謀はあれで逃げの名手なのさ」


 太い腕とごつごつした手で差し出された封書をカウンター越しに受け取り、クルスはその場で開封した。隣では、ノエルがつまらなそうにして果実飲料で満たされた杯を弄んでいた。


「なんですって?サンク・キャストルからの近況報告?」


 ノエルはそれほど興味も無いようで、手紙を読み込んでいるクルスの横顔を眺めながら形式的に訊ねた。クルスは手紙をノエルに差し出すと、副支部長へと向き直った。


「帝都の悪魔退治にカナル中の傭兵を動かすとの仰せだ。ここも忙しくなるぞ」


「……お前さんから聞いても半信半疑だったんだがな。参謀が判断されたというなら、本当の事なんだろうよ。よりによってチャーチドベルンに悪魔なんてのも……参る話だ」


「本当に参るのはこれからさ。どうやら、相手はかの悪魔の王アスタロテらしいからな。さて、どれだけ戦力をかき集めれば伐てるのだろうな?」


「……頭が痛い」


 言って、禿げ上がった額に手を置いて副支部長は奥へと下がった。


 副支部長にかけた言葉とは裏腹、クルスはエックスの心意気に感銘を受けていた。利己主義・功利主義に陥りがちな傭兵の中にあって、上位悪魔との対決に踏み切るという決断は賞賛に値した。


(この流れ、無駄には出来ない。奴がカナルの地下で蠢動していると言うのなら、今度こそ完膚なきまで叩きのめす)


「クルス。傭兵たちの指揮権をお姫様に託すって書いてあるけど?」


 ノエルが手紙の内容に関して質問した。エックスの言うところによれば、カナルの全土からスコア600を上回る傭兵を集結させるという。便宜上、チャーチドベルン支部の副支部長に<リーグ>傭兵団の統括を任せるが、指揮権はネメシスに付託するものと記載されていた。


「ネメシス様は父君たる総督を動かして、バレンダウン中の騎士を出撃させるおつもりなのさ。つまり、騎士団に加えて傭兵団も傘下入りし、より多くの剣でチャーチドベルンの悪魔を狙うという筋書きだ」


「白騎士団は?」


「この流れだと敵になる。そして白騎士団とぶつかっては勝ち目が薄い」


「何で?」


「つまるところ、軍組織としての練度の差だな。個の武勇ならスコアの高い傭兵に分があるかもしれないが、集団戦闘は勝手が違う。何百何千という騎士や戦士同士がぶつかる場で、個人が戦況を左右することはまずない。統制のとれた部隊運用や機を見るに敏な全体把握が必要となるから、そういった意味で傭兵は俄然不利だ」


 クルスの説明は真っ当なもので、バーテンダーも食器を洗いながらに頷いて聞いていた。一方のノエルは不思議がり、単純に思い付いた問いを発した。そこに邪気はなかったが為、クルスは面食らってしまった。


「クルスは戦争にも詳しいのね。傭兵になる前は騎士だったとか?」


「……まあ。そんな時期も、あるにはあった」


「部隊を率いて悪魔とも戦っていたの?」


「そうだな。辛い……戦いばかりだったように思う」


 クルスがそう言うと、珍しくも近くのテーブルに着いた傭兵然とした三人組が絡んできた。


「<疫病神>をお抱えになんぞしようものなら、その国の騎士団はひでえ目に遭いそうだな」


「違いない。<人喰い>討伐隊があわや待ち伏せに遭って全滅、とかな。ははは」


「どうせそこでも女遊びにだけは励んでいたんだろうよ。なあ、色男。それとも何か?厄介は女にまで及んだか?」


 三人組は人目を憚らずに笑声を上げ、あからさまにクルスを蔑視した。男たちは何れも筋骨逞しく、支部では名の知れた歴戦の傭兵であった。バーテンも彼らのスコアを知る故にたしなめることが出来ず、クルスに対して済まなそうに顔を伏せた。


 酒が入っての無礼でありクルスは一々取り合わなかったが、寂しそうに一言「そうかもな」とだけ返して沈鬱な表情を浮かべた。この反応にはちょっかいを出した側も気勢を削がれ、クルスへの興味を失った。ノエルは保護欲を刺激されたのかクルスの腕をとり、半ば強引に<銀の蹄亭>から彼を連れ出した。


「……どこに連れていくつもりだ?酒代も払ってない」


「どうせまた後で顔を出すんでしょ。ネメシス様たちが帰ってくるまで時間はあるし、取り敢えず私を楽しいところに案内して。これでも人間の街はほとんど未経験なんだから」


 ノエルの言うことは事実で、彼女が森を出てからまともに喋った人間はクルスらがはじめてと言って差し支えなかった。いわんや、街や都市の内部など知らないことだらけであった。


 萌木色の短衣の上に青紫色をした袖無しの外套を羽織っただけという軽装で、ノエルは軽快にステップを踏んで街路を先へと歩いた。クルスはノエルの金髪の残光を追うようにして後に付いていき、彼女が指を差して訊ねる一つ一つに丁寧な解説をしてやった。


 露店に並ぶ果実を手にとってはこれは何だと質問し、綿の織物や輝石の装飾品を眺めては綺麗だとはしゃいで止まないノエルを見ていて、クルスは飽きがこなかった。


(驚いたな。エルフも生まれつき博識というわけではないのだろうが。ここまで人間社会を珍しがられると、逆に悪い気はしないものだ)


 クルスが過去に出会ったエルフはそれほど多くはなかったが、少なくともノエルのように情緒豊かで好奇心を前面に出すタイプはいなかった。冷静沈着で、どことなく人間を見下した高圧的なオーラを放つ傾向が顕著であったなとクルスは回想した。


「……あれは?」


「ドワーフの、武器商人だろう」


 ノエルがクルスへと促した先、道の真ん中を、少年と変わらぬ背丈で胴回りや四肢の不相応に重厚な男がのそのそと歩いていた。剣や槍、弓矢などを大筒に纏めて背負っており、種族特有の灰髪は鞣し革の帽子で大半が隠されていた。


 ドワーフの工芸技術は粋であるとされ、剣の一本をとっても微細な意匠の加工までよく手が行き届いていて、戦士間での人気は上々であった。鉱物に関する知識も豊富で、鍛治の分野で彼らに対抗できる人間は非常に少なかった。


「野蛮な種族……」


 あからさまな嫌悪を表情に出したノエルに、クルスは意地悪な問いを投げ掛けてみた。


「彼らの造る家屋や家具も大人気だぞ。特に都会の中流から上流にかけての階級で需要が高い。人くくりにして毛嫌いするのはどうかな?」


「嫌いなものは嫌いなの!これは理屈じゃないんだから」


「それでは仕方ないな。彼らに頼んで君の彫像でも造らせたら、さぞかし美しい品が仕上がると思うが」


「そんなの、欲しいの?」


「くれるものなら。美しいものを眺めていると心が洗われるからな」


「本人がこうして目の前にいるのに、偶像が欲しいですって?全然意味が分からないわ」


 理解不能といった具合に眉をひそめ、ノエルはすたこら歩き出した。偶像崇拝の文化がなく物品の所有欲求にも乏しいエルフを相手にしては、クルスのお世辞も形無しであった。


(エルフとドワーフの仲が悪いのは生来のものとされている。おれが口先だけで懐柔を試みるのは、流石に虫が良過ぎたな)


 クルスは軽く嘆息し、店先を回ってあれこれと物色を始めたノエルに追い付いた。そして自分もそれとなく売り物に目をやった。


 自然と古代遺跡の発掘品に注意を引かれ、クルスは無意識の内に魔法結晶を探し求めていた。


「お兄さん、何かお探しかい?うちは発掘だけじゃなくて、マジックアイテムの精製までやってるから何でも揃うよ」


 クルスは店主の声掛けで我に返ると、「いや、いいんだ」とだけ返礼してそそくさとその場を離れた。端から見ていたノエルがどうかしたのかと寄ってきた。


「ノエル。……賢者の石、手にしていてどうだった?」


「どうって?私は使ってないけど」


「お前の父は、石が無限の魔法力を供給するというような主旨の話をしていた。所持していただけで、何かわからなかったか?」


「さあ……意識して干渉しないようにしていたから。何て言うか、貫禄みたいなものは感じたけれど」


 ノエルの言葉に曖昧に頷くと、クルスはそれきりこの話題を口にしなかった。



***



 ネメシスは連日連夜バレンタウン城に詰め、総督たる父を宥めることや自領の引き締めを図った。バレンタウン所属の騎士やマジックマスターを対チャーチドベルンの戦地に送り込むには、一定の情報を与えて士気を向上させる必要があった。幸いなことに、バレンダウンでのネメシスの人気は不動のもので、彼女の訴えに耳を貸さない者は少なかった。バレンダウンの騎士隊長・ルカの支持を受けられたことも良い方向に働いた。


 また、ネメシスはカナル全土の諸侯に檄文を送り、チャーチドベルンで起きている諸事を伝えて味方を募った。ネメシスとて白騎士団を敵に回して無事に事を為せるとは思っておらず、彼女が国内でどれだけの対悪魔勢力を糾合出来るかに勝敗は委ねられた格好であった。


 短期決戦で事を収めねばアケナス諸国の介入を許すとして、外交的な行動は極力差し控えられた。ボードレールらベルゲルミルの一行は、ネメシスらに危ういところを救われたことに一定の恩義を感じているようで、表立っては共同歩調を維持する向きを見せていた。


 護衛として張り付いていたアムネリアを解放し、マジックマスター・フィニスだけを伴って城の私室へと帰り着いたネメシスは、上衣をはだけるなり一つ伸びをした。フィニスは主の疲労を慮り、湯編みの準備を整えるよう侍女の一人に命じた。


「フィニス、有り難う。貴女も一日働きづめでしたから、疲れたでしょう?先に汗を流して休みなさい」


「何を仰います。姫様こそ、かように過酷な折衝を続けては御体に障ります。直ぐにでも御休みになって下さい」


 フィニスは決して引かぬという強い意思を瞳に宿して言った。ネメシスは柔らかい笑顔で肩を竦めた。


「私は……クルスと少し話をしたいのです」


「このような時間に、ですか?」


「日中は打合せをする暇も作れないでしょう?明日からは五百を越える騎士の出撃準備もあります」


「そのような……何も姫様が自ら為さらずとも、私やルカ隊長が段取り致します故」


「なりません。地位には責任が伴います。私はそれを放棄してまで今の立場に甘んずる気は毛頭無いのです。フィニス、大事な話をしたいのです。クルス一人をここに呼び寄せてください」


 ネメシスの態度に抗いようのない気迫を感じとり、フィニスは素直にその命に従った。人を遣り、クルスだけをフルカウルの城内へと招き入れた。


 一口にネメシスの私室と言ってもフルカウル城は広く、彼女個人の占有領域だけで応接間に居間、寝室、ダイニングキッチン、浴室、テラスといった具合に、そこらの貴人の邸宅以上に充実した空間と設備を誇った。居間へと通されたクルスはそこで懐かしさを想起させられた。それは先日訪れた帝宮内のバレンダウン伯爵邸で、ネメシスの部屋に立ち入った際に匂った経験に因るものであった。


(月華蓮の蜜のような、仄かに甘い香りがする)


「クルス。時間的に、ウェリントンは帝宮へ賢者の石を届け終えたと見て間違いありません」


 薄い絹の寝間着の上に真っ赤なガウンを羽織っただけという刺激的な格好をしたネメシスを前にして、如何にクルスと言えども堂々鑑賞するわけにはいかなかった。居間のソファに斜めに向き合う形で身を埋める二人であったが、視線は交わることなく、ネメシスが一方的にクルスに熱い視線を送っていた。


「ええ。我々がバレンダウンに逗留すること既に十四日。余程回り道をしていない限りはチャーチドベルンに着いていることでしょう」


「ウェリントンは言いました。帝宮にいる悪魔のことを知っていると。しかし、それと皇帝陛下が関わっていることまで理解しているかどうかは別です……」


「彼はどのような人物なのです?見たところ四十には届かないようですが、あの地位にしてあの技前。只者ではないでしょう」


 クルスは難しい顔をして訊ねた。自身が最高峰の剣士と認めるアムネリアと互角に斬り合え、アムネリアよりも持久力に恵まれているのだから、クルスとしては白騎士団の団長を軽視はできなかった。


「武人として、剣の力量に度胸に、そして部隊統率の手腕にも定評があります。一代で功を成し准男爵位を授与されていますが、彼はより上の位階を望んでいると聞いたことがあります」


「それは爵位の話ですか?」


「おそらくは。というのも騎士としてはウェリントンがカナルで筆頭です。しかし、爵位は門地により取得制限がありますから、彼が准男爵号を与えられたこととて特例に当たります。男爵や子爵、更には伯爵や侯爵など所謂諸侯と呼ばれる地位を欲するのであれば、超法規的な道を探るしかないでしょう」


「……それでは皇帝陛下に談判をした可能性が生じます。賢者の石を奪還することと引き替えに、爵位を賜りたいと。前提として、ウェリントンが権力者に媚びへつらう人格の所有者ということにはなりますが。悪魔と結託していようが気にも止めず、帝宮に近付き栄達を望む、と」


 クルスの指摘に、ネメシスは軽く首を傾げた。


「……冷静で剛毅で、思慮深さを感じさせる将軍だったように思われます。今回のように露骨に、皇帝陛下の権力を笠に着た発言が彼の口から飛び出すなど、未だに信じられません」


 クルスは頷いて見せたが、自分がネメシスの愚痴聞きに呼ばれたのではないことくらい承知の上であった。それでも彼女が本題へと入るまでにしばしの時間を必要とした。


(気丈に振る舞ってはいるが、婚約者を亡くして間がないんだ。動揺していない方がおかしい)


 先に悪魔・ゲヘナの仮面の下がエドワード皇太子と判明し、それが為に帝宮の大魔打倒を誓ったネメシスであった。しかし彼女は二十歳にもならぬ身であり、決起へと向かって精力的に働く姿を見せつけられて、クルスは痛々しさを覚えずにはいられなかった。


「……クルス?どうして私の目を見て話してくれないのです?」


「別に、そんなことは。……いえ、部屋着の貴婦人を前にしては、一介の傭兵はこうもなります」


「違いますね。そんなことで臆する貴方ではないでしょう。私に気遣いは無用です。婚約者を亡くした可哀想な女。寂しさを紛らす為に、無理をして戦の準備に勤しんでいる。貴方が抱いているであろうその手の同情こそ、周囲の無理解というものです」


 ネメシスは話の内容とは違えて明るい微笑を浮かべた。


「皇太子殿下と許嫁の関係にあった方は、私の他にもう御二人いらっしゃいます。侯爵公女と女男爵。それに私を含めた三者が、門地と年齢的な釣り合いから皇太子妃候補に選ばれただけなのです」


「……それが貴族の社交というものでしょう。恋愛感情は欠片もおありにならなかったので?」


「とてもお優しく聡明な方ではありました。パーティーで御一緒した際に、長話をさせていただいたくらいではありますが。……愛情を育む程に共に過ごした時間は多くなかった。ですから、非情に思われるかもしれませんが、私はあれから慟哭すら出来ていないのです」


 そう告白し、ネメシスはそっと目を閉じた。クルスは野暮な相槌を差し控えた。彼女の意見をこの場で肯定することも否定することも、決して正しい選択だとは思えなかったからだ。


 当たり障りのない近況報告を差し挟み、ネメシスはクルスへと召還の意図を申し伝えた。クルスはその申し出に二、三修正を提示し、それが認められるや全てを受諾をした。そして夜更けに一人、騒がすことなくフルカウル城を辞した。



***



 ウェリントンの思惑は、クルスやネメシスが推測した域を遥かに超越した代物であった。


「我が望みは唯の一つです、陛下。貴方の至高の座。それをお譲りいただきたい」


 玉座のカナル皇帝は身動ぎをせず、ひざまずいた姿勢から己を射る<白虎>の苛烈な眼光に耐えていた。正確には、それを楽しんでいた。


 皇帝は齢五十を過ぎたばかりのはずであったが、ウェリントンは外見ではなく皇帝の内から迸る覇気を見逃してはいなかった。


「下賤の身で余の地位を欲するとは、気でも触れたか!……と、普通ならばそう一喝するのであろうがな。賢者の石を持ち帰ったそなただ。ここは不問に付そうぞ」


 ウェリントンは主上の許諾を待たずに立ち上がり、あろうことか腰元から剣を抜き放った。そして鋭い目付きとは裏腹に、努めて落ち着いた態度で問答を続けた。


「些か芝居掛かっているが、確かに陛下の立ち居振舞いではある。これで貴様の全身から洩れ出る武の臭いさえ感じ得なかったなら、例え賢者の石を捜索しようともその正体に辿り着けてはいなかったろう。素直に認めた方が身のためだぞ」


 ウェリントンの正面からの威嚇に、皇帝は皺の目立つ口許を歪め、機嫌も良さそうに顎髭をしごいた。


「内外に配置された騎士はそなたの手に因るものだな?力ずくで余の地位を奪うことも辞さないと、ウェリントン卿はそう言っているわけだ」


「演技を続ける必要はないと言ったぞ、悪魔よ。いくら陛下の物真似が上手くとも、既に私は貴様の真の姿を捉えている。マジックマスターであれば、賢者の石の魔法力をそのように使うことも出来るらしい。そう、今となっては擬態も無意味だ。……とは言え、私は率先して貴様と闘おうとここを訪れたわけではない」


「ほぅ。では何の為だ?」


「貴様はカナル皇帝の地位などに執着はするまい?そこで取引だ。賢者の石は渡す。その代わり、禅譲という形で帝位を私に下ろして貰おう」


 ひた隠していた野心を剥き出しにし、ウェリントンの瞳はぎらついていた。王侯ならぬ身の彼がその野望を明確に口にしたのは、正真正銘この場がはじめてのことであった。


 前例がないわけではなかった。アケナス諸国のどこを眺めても千年と続いた王朝は無く、簒奪や征服、内乱や勃興により血統の断絶は散見された。


 カナル帝国こそ二百年という長い歴史を持つものの、皇統を途絶えさせぬことが何より優先され、時には市井の出の后より生まれし御子が帝位を継いだという事実すら存在した。それは血筋の正統性よりも統治システムの確実な継承が先決したという証に他ならなかった。


 皇帝、もとい皇帝を喰った悪魔は、ここで世にもおぞましい声音へとたち戻って応じた。その声のあまりの禍々しさに、ウェリントンの眉がぴくりと動いた。


「取引に応じるメリットが、こちらにはないようだが?……我が名はアスタロト。お前たち卑小な人間が悪魔の王と畏敬し、恐怖と絶望を寄せる偉大なる超越者よ」


「何と……とでも驚けば良いのか?闘る気なら、こちらはそれでも構わないが」


 悪魔の王と聞けどもウェリントンの闘志に揺らぎはなく、銀の剣を持つ手に力が込められた。帝宮周辺に詰めている騎士とマジックマスターは総数一千近くに上り、それは皇帝を人質にとった悪魔を征伐するという名目の下、ウェリントンによって招聘されていた。その武力はチャーチドベルンのほぼ全戦力と言って差し支えなかった。


 ウェリントンからすれば、取引に応じた上で悪魔がチャーチドベルンを去れば、自身がスムーズに権力を手にすることが出来て良し。己が意に従わないようであればこれを倒し、武力を盾に摂政位にでも就任して新たな皇統を守り立てる腹積もりであった。何れにせよカナル帝国軍の精鋭を集めることに成功した上、賢者の石という手札もあり、彼は相手が悪魔の王であっても敗北を喫する計算などしていなかった。


 魔境大戦の折、カナルやベルゲルミルといった軍事偏重の大国は本格参戦を見合わせていた。己が腕一本で、十天君を擁するベルゲルミルとも互角に渡り合ってきたウェリントンの自信は強堅であった。彼はどの騎士団、どの悪魔が敵となろうと、自身の剣と才覚で粉砕出来ぬものなどないと自負しており、魔境大戦に加わっていたならば、必ずや悪魔の王を討ち果たせた筈との確信すら抱いていた。


 事実、彼はアケナス全土でも抜きん出た実力者であった。座したままの悪魔の王とウェリントンは長いこと睨み合っていた。


 帝宮の随所で臨戦態勢にある白騎士団の面々は皆、集中を切らさずに主将の指示を待ち続けた。それは永劫とも思える長い時間に感じられた。



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