天の座-2
***
凍結湖への道すがら、八人は馬脚を揃えながらも口数が目に見えて減っていた。クラナドヘ上がるまでは戦闘行為に及ばないと暗黙の了解が為されており、野営や食料の融通においてのみ奇妙な助け合いが成立していた。
中でも勢力を越えた融和に努めていたのがイシュタル・アヴェンシスで、彼女はラファエルの傍らにありながらクルスやアムネリア、アンフィスバエナとも頻繁に交流を持った。クルスとは共に旅し、アンフィスバエナとは十天君同士であったことが、ここでの潤滑油となり得た主因であった。
近くなった雨を避けるべく夜を押して南進した先の休息では、精霊の力を借りて火を起こすノエルに対してイシュタルは皆に毛布を配って回った。小川の畔でクルスにも手渡しがてら、ミスティン方面の状況に関して話を振ってみた。
「ライカーン副将の銀翼騎士団にファーロイ公子とイグニソス卿を同行させたのは、ミスティン騎士団の守戦に不安を覚えたからですか?」
「それもあるが、一番には魔神の霧対策だ。ミスティン騎士団には神剣があり、ヴァンシュテルン将軍もいる。向こうの戦況が不明な今、銀翼騎士団にあっさり寝返られては困るからな。あのイグニソスなら、魔法の実力的にそれほど心配はない」
「だからと言って、まさか賢者の石まで預けてしまうなんて・・・・・・」
クルスは霧への防備にとイグニソスに賢者の石を持たせ、自分は竜玉のみを携帯していた。これにはアムネリアやノエルも難しい顔をしたものだが、そこはクルスの判断に従った。
せり出した崖が屋根代わりとなり、クルスらは強くなる一方の雨足から逃げ延びることが出来た。雨粒の飛散で地面は煙り、めいめいの視界をうっすらと白く染め上げていた。
「雨が弱くなったら出発するぞ。最短経路で竜王の穴蔵を目指すから、ミスティンの動静は最後まで分からず仕舞いだ。結局のところ、四柱を失った魔神がどう出るものかも天運に任せる他はない。行き当たりばったりとは、正にこんなことを言うのだろうな」
クルスが自嘲気味に言うが、然程悲観的な声色でもなかったので、イシュタルはこれを黙殺した。そうしておいて、至極単純な疑問をぶつけてみた。
「私や、ラファエル様を憎んでいますか?」
「どうして?」
「銀翼騎士団は幾度もカナル軍と剣を交えています。私の雨騎士団もそうです。お互い様ではありますが、多くの血が流されました」
「本当にお互い様だ。おれとアムだって、ラファエル・ラグナロックの腹心を殺している。そんなことを言い始めたら、おれはベルゲルミル連合諸国の全騎士を滅ぼさなくてはならなくなる」
「・・・・・・立場が変われば、過去の恩讐も変えざるを得ません」
「そういうことだな」
「折角明快な敵が現れたのですから、人間同士で無駄に争いたくはないものですね」
イシュタルの表情に影が差し、泣き笑いのような形が作られた。そうして彼女が毛布配りを再開したので、クルスは用意していた返答を飲み込んだ。
(ラファエル・ラグナロックは、どうしてこいつを連れてきた?どう見てもアケナスの覇権如きに執着する女じゃない。無駄も何も、この後待ち受ける争いに正義や正解なんて存在しない。奴は男同士の自我のぶつかり合いに、進んで恋人を巻き込みたいのか?・・・・・・いや、男も女も十天君。一般論で推し量れるものでもないか)
クルスが思案した通り、イシュタルは出発前にラファエルから残るよう命じられていた。氷青の瞳を昂らせ、イシュタルは素直に首肯せずここにあった。
イシュタルにとってアムネリアやクルスとの交誼は決して軽いものではなかったが、ラファエルのそれと比較するに値しなかった。彼女の最後の希望がラファエルなのであり、どれだけ気乗りのしない環境にあろうと、その芯がぶれることだけは有り得なかった。
魔境の西側外縁部を南下し、アケナスの中央地帯を通過した頃合いで、野良と思しき悪魔の一群と遭遇した。パーティーは一流どころの集まりであり、アンフィスバエナとリーバーマンが魔法で散らした後、各個撃破であっさりと打ち果たした。
対魔防衛ラインに属する小国支配下の町へと落ち着いたのは、すっかり日が暮れた夜のことであった。一行の馬を買い換える為にクルスとイシュタルが夜間ながらに家々を訪問して回り、他の面子はそれぞれ空き宿に入って体を休めた。
野宿でないのは久方振りで、アムネリアはゆっくり湯浴みなどして心身を落ち着かせた。かつての同志が部屋を訪ねてきたのは、火照った身体の静まった頃合いであった。
「かけろ、とは言わん。そなたに限って、湯上がりの女の部屋に長居をしようとも思うまい?〈鬼道〉よ」
「ええ。立ち話で構いません。一つ提案があります。クラナドで暴力沙汰になった時の為、協定を結んでおきたいのです」
「私でなくクルスに頼むのだな」
「ミスティンの第二王女の件があって、彼は私の話を冷静には聞いてくれないでしょう。ずばりですが、〈翼将〉を共同して退けませんか?」
やはりそれかと、アムネリアは椅子の背凭れに体重を預けた。クルスがイーノを過大に評価するように、元十天君のアムネリアらはラファエルの底知れぬ戦闘力を警戒していた。
「〈フォルトリウ〉には〈幻魔騎士〉がおろう。互いに負けず劣らずの強者と思えるが」
「正直なところ、イーノ・ドルチェの腹の内は読めません。混沌の君が連れてきただけなのですから、当然と言えば当然です」
「〈翼将〉と組んでそなたらを一網打尽にするという手もある。無論、逆にこちらが標的となる可能性とて否めないがな。・・・・・・つまりは、盛大な化かし合いになるということだ。そもそも信頼関係がないのだから、協定など結ぶべくもない」
「私と貴女は、共に〈慈航〉に近い同志でした。それをもって信用には足りませんか?」
「・・・・・・足りぬな。道半ばで倒れられた陛下の意を汲むことなど、今の私には畏れ多い」
アムネリアの黒瞳が発した光は苛烈なもので、閉じたアンフィスバエナの目にもその熱は感じられた。アンフィスバエナは小さく頷くと、この男にらしくない凄味のある笑みを浮かべ、杖先で床を一度叩いた。乾いた打撃音が部屋に響いた。
「流さねばならぬ血は最小限に。貴女とであれば、もう少し建設的に話し合えるものと思っていましたが」
「勘が鈍ったのではないか?私は、徹頭徹尾クルスの味方だ」
「宜しい!本懐です。ならば私も魔法の真髄をもって、全力で貴女たちの相手をすることにしましょう」
アンフィスバエナは踵を返し、そのまま静かに立ち去った。アムネリアに特に感慨はなく、ただアンフィスバエナが仮初めにも自分のことを同志であると表明したことに対して、不思議とそれほどの嫌悪を感じなかった。
***
「・・・・・・まさか、三柱を尽く撃破しちゃうなんてね。君たちの実力を見誤っていたよ」
呆気にとられたといった表情で迎えた竜王に、クルスは手持ちの竜玉をそっと手渡した。イーノとエデンは竜王の傍らでその様子を窺っており、ここに役者と舞台装置が全て出揃った。
竜王は余計な前置き無しに、人のものならぬ言語で詠唱を始めた。ノエルが「精霊言語に近いと思う」とクルスに耳打ちすると、耳聡く聞き付けたリーバーマンが「古代に行き来のあったという、精霊界の魔法言語だ」と補足を入れた。
凍結湖に穿たれた縦穴の、至る壁面に刻まれた魔方陣が光を放ち、一斉に一つの魔法を起動させた。たちどころに魔法力の流れを読んだアンフィスバエナが、その場の全員に説明する意図でもって、魔法が効力を発揮する直前の現況を説明した。
「この氷穴自体が巨大な転移装置なのでしょうね。力場を形成する為に回流する魔法力は、我々の常識とかけ離れた物量です。そう。先の戦場で〈パンデモニウム〉が音も無しに悪魔を召喚した時と似たプレッシャーを感じます」
「おい。全員が確かに上へと上がれるんだろうな?」
イーノはアンフィスバエナと竜王、どちらにともなく訊ねた。その目は抜けなくクルスやラファエルの挙動を追っており、場の主導権を決して譲らぬという意思の表れであった。
足下から、壁から、天から遍く光が降り注ぎ、氷の台座が据えられた広間は幻想的なまでに眩い虹色に染め上げられた。
「ここいら一帯にいる、僕とリヴ以外の全ての生命体がクラナドヘと移されるだろう。遥かなる天上の楽園へと、ね・・・・・・」
その竜王の声は誰の頭の中にも響いたが、既に視界は光に埋め尽くされて用を為していなかった。クルスは全身の内臓がかき混ぜられるかのような不快を感じ、低く呻き声を漏らした。そうして視覚が復活を果たした時には、目に映る景色は一変していた。
「これは・・・・・・クルスよ。どういうことだ?」
アムネリアに念を押されるまでもなく、クルスも周囲を忙しなく見回して疑念を募らせた。城跡と思しきそこは柱や屋根といった構造物が片端から崩れて廃墟と化しており、白を基調とした建材があちらこちらに散乱して積み上がっていた。どうやら城跡の周囲は岩石の台地に囲まれているようで、薄くぼんやりとした空の色と合わせてクルスの記憶に符合した。
かつてアムネリアと共に訪れたクラナドの地形と照合こそ済んだものの、崩壊している建物や、足下に転がる残骸をどう解釈したものか、クルスには判断がつきかねた。
「クルス。この人達が天使なの?」
ノエルは、そこかしこに倒れ伏した銀髪の白衣姿をした者たちを指して言った。皆が血の海に沈んでおり、一見して絶命しているのだと分かった。
ラファエルは臆することなく一人一人を改めていたが、何事か気付いたようでクルスらに呼び掛けた。
「この三人の遺体を見比べてみろ。大層な高齢者が二人と初老が一人。何れも男性だが、明らかに年齢が異なって見える」
「それがどうかし・・・・・・ん?」
「あっ!」
クルスに続き、ノエルも驚きの声を上げた。ラファエルは頷くと、勿体ぶらずに奇妙な事象を指摘した。
「顔の造形が不自然な程に一致している。親子などというレベルではない。まるで三人とも、同一人物かのようだ」
「・・・・・・それだけじゃない。この顔は、イビナ・シュタイナー先生だ。先生そのものじゃないか!」
押し黙ったままのイーノも状況には困惑しているようで、辺りに倒れている老人たちへと次々に視線を転じた。別の遺体を確認したアムネリアが、クルスを手招きして新たな事実を告げた。
「覚えているか?我等がビフレストを通ってここを訪れた時のことを。おそらくは遠景に浮かぶ岩の台地を歩いたのであろうが、小屋で天使を名乗る老人と出会った」
「ああ」
「この遺体と、向こうに転がっているもう一つの遺体。どちらもあの時の老人と同じ面相をしている」
クルスはアムネリアの足下の遺体を確認し、その意見に同意した。そしてアンフィスバエナへと問いを発した。
「ドッペルゲンガーやホムンクルスというのは、わざわざ血液を放流して活動を停止するものか?それも魔法力を欠片も残さずに、固体を維持したままで」
「やりよう次第だとは思いますがね。しかし禁術で同位体を創造するとしたら、見た目の年齢に差異を設ける必要はないでしょう。そして、こちらに〈幻魔騎士〉がいる手前、集団幻覚にかけられている可能性も低い。つまりは現実の、それこそ生身の話だという推論が導かれます」
アンフィスバエナの言が意味するところは、イビナ・シュタイナーや小屋の老人といった天使は、何れも一個体として生存しながらに、遺伝的に等しい群を複数構成しているということに他ならなかった。
イシュタルが危急を感じさせる声音で注意を発した。
「それよりも、何でここに天使の死体が並んでいるのかということの方が大事では?血液の凝固状態を見るに、それほど時間も経っていません。仮に天使種族を殺して回っている者があるとして、まだ近くに潜んでいておかしくはない」
それを聞いたイーノは、目だけでエデンを捜した。ちょうど瓦礫の向こうからひょっこり顔を出したエデンが、師の向ける視線に気付いて畏まった。
「予備軍どもは?」
「全員がちゃんと付いて来てました。竜王の移送方陣は凄いですねえ。逃げられても困るので、魔法で眠らせて幻術で隠しておきましたよ」
「よし」
二人のやり取りを聞いていたクルスらは、イーノの用意した天使の代行人員こと、イビナの落胤たちが無事にクラナドヘ上ってきている状況を把握した。如何にしてクラナドの統治システムへ干渉するのかは分からなかったが、やれることと天使種族の必要数が比例関係にあるということだけは共通認識となっていた。
気配を最初に察知したのはラファエルで、半壊した建物の高い位置に人影が認められた。細身であれど手には長い得物が握られていて、その刃で天使たちを斬り刻んだのだと想像された。
現れたハーフエルフ、ゼロの外見をした相手に最初に声を掛けたのは、意外にもイーノであった。かつての仲間を前にしてか、クルスに先んじてイーノが啖呵を切った。
「どうやらあんたが博士らしいな。ちょっと見ぬ間に随分と様変わりしたもんだ。確か前回、友情分の義理を果たすと言っていなかったか?この奇行が、まさかヴァティへの手向けだとでも?」
「サラスヴァティへの義理なら果たしたさ。そこの小僧をディアネに会わせてやった。後は、私が何をしたいか考えてみた」
「霧の臭いもふんぷんによく言う。魔神に降って、心底から堕天使に落ちぶれたのだろうが。言った筈だ。あんたの出る幕はないとな。老人は大人しく余生を過ごしていればいい」
イーノの喧嘩腰の姿勢にも柳に風といった体で、ゼロの身形をしたイビナは抜き身の剣を下段に構えたまま悠然と問答に応じた。クルスやアムネリアは、イビナの持つ剣が魔剣ダーインスレイヴであると気付いていた。
「魔神ベルゲルミルには、ここへと運んで貰っただけだ。あれはここへは上って来られない仕様のようだからな」
「ご苦労なこった。それで、魔神の手を借りてまで何をしに来た?」
「今日ここで、天使を全滅させようかと思ってな」
露店商に野菜を買いに来たとでも言うような口振りで、イビナは臆面もなく言い放った。流石のイーノも言葉を失い、目を見開いて容姿の変貌したかつての仲間を凝視した。
アンフィスバエナやリーバーマンは、事が穏健に運びはしないだろうと察し、無言で戦闘態勢を整えていた。
「御老人。ネメシス様はどこにおわす?」
因縁ある二人に割り込む形で、アムネリアが静かに問い掛けた。それを聞いたアイザックは、己が醜態を思い返し、剣を握る手に力を込めた。
イビナは瞳に興味深そうな色を浮かべると、アムネリアではなくクルスを見下ろす形で話し始めた。
「この体の持ち主は高い精神力を有していてな。私の支配に抵抗するばかりか、知識を無理矢理共有し、秘蔵の神器や必勝の策をお前たちへと授けた。だから、ここでぶつかることになると分かっていた。カナルの皇帝は、その為のただの保険だ」
刹那、アムネリアはクルスの手首を掴んだ。そうして彼の暴発を寸前で抑止すると、努めて感情を圧し殺した声で先を続けた。
「つまり、敵対すればネメシス様を人質にとると?・・・・・・それが為に、レベッカ・スワンチカをも殺害したというわけか」
「お前たちの怒りは正当なものだ。だが、私は私の信念に基づいて行動している。謝罪する気もなければ、ここで引く気もない」
「話を具体に戻す。そなたに敵対をしなければ、ネメシス様は無事に返して貰えるのだな?」
「約束しよう。・・・・・・が、その程度の人質など、考慮に値しないと考える輩が多そうだぞ?」
アムネリアは頷き、ノエルとアイザックを近くに招き寄せた。片手は依然クルスの手を取っていた。カナルのパーティーと向き合う形で、〈フォルトリウ〉やレイバートンの面々は各々が武器を手に取った。
代表して声を発したのはやはりラファエル・ラグナロックで、その反応は粗方アムネリアの予想した通りと言えた。
「アムネリア・ファラウェイ。事はカナル一国の問題ではない。今更後戻りの出来ぬことは分かっているな?」
そこには微塵も動揺が見られず、傍らで天弓フェイルノートを構えるイシュタルだけが口を真一文字に結び、緊張ある面持ちをして事態を見守っていた。
アムネリアはちらりとクルスの目を見て意思を確認した。ノエルとアイザックは、はじめからそうすると示し合わせていたかのように、細剣と長剣をそれぞれ中段に構えて前に出た。
最後に、アムネリアがクルスの手を一度強く握ってから離し、流れるような動作で腰の剣を抜いた。
「答えは、これだ。クルスがネメシス様の身命を第一に選んだ。私たちは皆、この者の決定に殉ずると決めている。もはや問答は不要。いざ!」




