6 玉石混淆
6 玉石混淆
魔神伐つべし。カナル帝国皇帝ネメシスの号令は、チャーチドベルンよりアケナス全土へと伝播した。帝都バレンダウンの官吏は余すところなくアケナス諸国に飛び、イオニウムに陣取る邪悪の排斥を説いて回った。
ミスティン王国や旧ベルゲルミル連合王国諸国、<リーグ>といった影響力の大なる諸派がそれに歩調を合わせた為、大陸の意思が一つの大きな奔流と化ける兆しが見え始めた。ドワーフやエルフ、妖精といった種族もネメシスの激に陰ながら同調を表明し、大陸を震撼させた魔境大戦以来の大規模な紛争が目前に迫った。
しかし、対魔神の流れに抗う勢力もまた動きを表面化させた。巨人王国は表立って軍勢を北へと動かし、魔境の悪魔は境を接する周辺国への攻勢を強めた。
カナル帝国の対魔神前線基地であるチャーチドベルンにはひっきりなしに人が出入りをし、宮殿内外を問わず怒号や掛け声、悲鳴に歓声が飛び交っていた。ところ構わず早馬が行き来して道を塞ぎ、不穏な情勢から物価の高騰した市場には沈澱した暗い雰囲気が漂っていた。
クルス・クライストらの帰陣はひっそりとなされた。迎えたアムネリアの配慮でどうにかベッドのある部屋が割り当てられると、巨人国から魔境、凍結湖と働きづめであった面々は、一人を除き泥のように眠りについた。
「寝ていないんじゃないか?随分と顔色が良くない。おれの知っているアムは、永遠の十代のようにきめが細かく美しい肌艶を存分に見せびらかしていた」
「人を不埒者のように言うでない。今が肝腎だと分かっているからこそ、誰もが少しずつ無理をしている。私も領分に従っているに過ぎん」
「ふむ。寝不足は美容の大敵と聞く。アムの負担はおれが預かるから、一時休んでいてくれ」
夜の宮殿内、ネメシスの私室前まで案内されると、クルスはアムネリアへの気遣いを口にした。しかし、アムネリアはその言葉を額面通りには受け取らなかった。
「クルスよ。私が同席していると困る話があるのだな?さしずめ秘境で知り得た情報を盾に陛下に関係を迫るといったところか」
縁に彫金の施された朱塗りの扉は瀟洒で、それを隔てた先に皇帝が居るという現実も忘れ、クルスは盛大に肩を落とした。アムネリアが冗談を交えながらも彼の意図を正確に捉えている点が難題であった。
「あのな……おれがアムに、今更何を隠す必要がある?公明正大、単に体調を心配しているだけさ」
「そなたが保身に明るくないことを知っている。良いか。自己犠牲は決して美しい志などではないぞ?」
「なんのことだ?」
「女心の分からぬそなたではあるまい。死なば悲しむ女がいるのだから、くれぐれも無茶は自重することだ」
アムネリアは微笑を湛え、クルスの言に従う形で踵を返した。
「ちなみに、悲しむ女の中には当然アムも含まれているのだろう?」
「付き合いが数日来の野良犬とて、視界から永遠に失われれば寂しく感じられるというもの。ましてやそなたとは知り合って長い。愚問にも程があるな」
野良犬で例えている点に釈然としないものを感じたが、クルスはその場を離れるアムネリアの覇気の薄れた足取りを最後まで見送った。
(何日寝ていないとああなる?あの気丈なアムが、今にも膝から崩れ落ちそうじゃないか)
ノックをした扉の向こうから入室許可を得ると、クルスはネメシスの私室に足を踏み入れた。ガウンを羽織った寝間着姿のネメシスに椅子を勧められ、クルスは主と向き合う形で腰を落ち着けた。
皇帝の私室といっても部屋はそれほどに広くなく、寝室が別になっている以外は旅亭の部屋と変わりなかった。クルスを悩ませたのは視界に収まる皇帝の薄着と、室内に充満する彼女の芳しい香り。理性に退場を促しかねないこの美女との邂逅を、クルスは不本意ながら早く終わらせるべきと結論付けた。
簡易の報告こそ事前に入れてあったが、クルスは自分の口から魔神とクラナドに関わる一連をネメシスに説明した。サラスヴァティやラクシュミのことを言及するに心は痛んだが、彼は何事も秘めずに全てを打ち明けた。
「そうですか……」
ネメシスは双眸を閉じ、頭を整理する為にしばし黙した。クルスは彼女の思考を妨げぬよう、身動ぎせずその場に留まった。
やがて碧眼に光が点り、それはクルスを真っ直ぐに見据えた。ネメシスがまずはじめに何を口にするものか、クルスにはだいたい想像がついていた。
「ネメシス様?」
「クルス。誰を新しき神とするのです?<フォルトリウ>にその役目を預ける気がないのであれば、重要なのはその一点だけでしょう。魔神や四柱、ウェリントンらは結局のところ打倒する以外に選択肢がありませんから」
(やはり……思い至るか。だからこそ、アムをこの場に連れ込みたくはなかった)
クルスの逡巡を見て取り、ネメシスが椅子ごと前に出て畳み掛けた。
「貴方は虫の良いことを考えていますね?きっと己がその役を買って出て、女たちを巻き込まぬよう済ませるつもりでいるのでしょう?笑止な話です。神の大役、私も立候補させていただきます」
「それは駄目です。お分かりでしょう?カナルを率いる陛下には、戦後アケナスの実質的指導者を引き受けていただかなくてはなりません。魔神を退けたとて、一度諸国に波及した混乱はそう簡単に鎮まらない。誰かが陣頭に立って、統治の正常化を働き掛ける必要があります」
「では、アムネリアやノエルだけを伴うのですか?私だけ除け者にして?」
「そのつもりもありません。リヴァイプ神は言いました。聖神は、クラナドの力が分散し過ぎた故に魔神ベルゲルミルを討ち果たせなかったと嘆いていたと。その理屈を信じるならば、神など少なければ少ないほど良い」
「クルス。貴方が唯一神を気取るというのですか?この大陸に、唯一絶対の神として君臨すると?」
「皆の前に、二度とこの姿を見せないと誓います。神は信仰の対象として人々の心うちに住まうくらいがちょうどいい。ことが成功した暁に、再び地上とクラナドが繋がることはありません」
クルスは予め用意していた台詞を読み上げるかのように、すらすらと応答を重ねた。その度にネメシスの表情が険しさを増したが、クルスは見ぬ振りを決め込んだ。
「……何れにしても、まだ竜玉を入手してもいなければ、天使予備軍を擁する<フォルトリウ>を出し抜けたわけでもありませんから。これはあくまで予定であり、私見です」
「……先の戦で多くの臣下を失いました。アルテ・ミーメやセイクリッド・アーチャー。ベンも戦死し、フィニスは未だ行方知れず。私は、ここで貴方まで手放すつもりはありませんよ。クルス」
「心配めされるな。陛下とカナルの御為に剣を振るいます。その延長線上で、私が魔神を滅ぼすというだけのこと」
「私の前からいなくなることを許しません」
ネメシスの顔は間近に迫っており、怒気を孕んだ吐息がクルスの面を優しく撫でた。
「陛下。しかし……」
「サラスヴァティ・レインやラクシュミ・レインの献身が貴方を突き動かしている点は理解出来ます。ですが、私は嫌なのです。アケナスの存続という代えのきかない大義を盾にして、貴方は自己犠牲の精神を如何無く発揮する。では私の気持ちは?アムネリアの、ノエルの気持ちはどうなるのです?皆貴方に命や尊厳を救われ、今後も貴方と共に生きたいと願う者です。こんな想いを抱かせておいて、貴方は全てを捨てて孤独に生きる道を選ぶというのですか?」
クルスは一度息を飲み、それでも彼なりの反論を淡々と口にした。
「ディアネ神と会って、思ったことがあります。彼女はミーミルの泉で独り、何百年にも渡ってシュラク神の怨念を封じ込めてきた。聖神をはじめとした仲間は皆クラナドから追放され、文字通り独りで使命を果たし続けているのです。彼女がそれを止めたとして誰も気付きはしませんし、女神に文句を言う術など元々ない。それでもディアネ神は、アケナスを四柱暴虐の悪夢から遠ざける為だけに全力を尽くしてきた。間も無く迎えるであろう自身の限界まで、事を諦める気配は微塵も感じられなかった。……つまるところ、おれはそういう信念を貫ける者に心惹かれるのだろうと。レイン姉妹がそうであったように」
「クルス……」
「バレンダウンで御会いして以来陛下に捧げてきた忠義の志、些かも揺らいではおりません。自分に出せる最大限の力でもって、此度も陛下とカナルを守ると誓います」
ネメシスはクルスの目をじっと見詰め、そこに曲げられぬ断固とした信念を感じ取った。碧眼に自然と涙が盛り上り、彼女の頬を伝い落ちた。
「……分かっては、いました。私の言葉では貴方に届かない。戦場で肩を並べて剣を振るい、共に命を秤に掛けることの出来ぬ私には、貴方を引き止める資格も無いのだと」
言って、ネメシスはクルスにすがり付くようにしてしなだれかかった。クルスはそれを優しく抱き止め、ネメシスが泣くに任せた。
***
「アイザック!よく無事だったな」
<リーグ>のチャーチドベルン支部を訪ねたクルスは、エックスの傍らに見知った戦士の姿を認めて表情を綻ばせた。クルスに付いてきたノエルやフラニルも、アイザックとの再会を心から喜んだ。
「ああ」
万魔殿から放たれた悪魔軍に蹂躙されたカナル軍にあって、アイザックは奇跡的に生還を遂げていた。だがその理由を告げるにおいて、彼の見せた表情が沈痛さの程度を物語っていた。
「……マルチナがおれを逃がしてくれた。あいつは、悪魔に囲まれて身動きの取れなくなったおれを救出し、おれの代わりに死んだ。おれはその場から逃げることしか出来なかった。あいつの逃げて、という声だけが今も耳の奥で燻っている」
「アイザック……」
下手な慰めは控え、クルスはアイザックの肩を軽く叩くとエックスの向かいに腰を下ろした。エックスは部屋から人払いをしており、五人以外に人影はなかった。
「マルチナはアリシャ共和国の出身でした。父がアリシャの軍人だったことから、女だてらに剣術道場に通っていたのだとか。南部の小国であったアリシャは隣国に滅ぼされ、彼女は傭兵に身をやつした。……私の記憶にはそうあります」
「流石に<リーグ>の参謀ともなると、一傭兵の経歴まで完璧に把握しているものなんだな」
「いいえ。彼女は逸材でしたから。腕の立つだけではなく、頭の回転が速く人柄にも優れていました。稀有な例なのですよ。アイザックとの協業に至っては、<リーグ>への貢献大なりと評せられます」
クルスはエックスのマルチナ評に黙って頷いた。そして、いきなり本題を切り出した。
「東に行って貰いたい。サルマン・ジーノをシスカバリ支部に帰してある。彼と謀って東部の傭兵をまとめて来て欲しい」
エックスは眼鏡を人差し指で押し上げ、落ち着いた声音で問いを返した。
「<リーグ>の力を結集させるというわけですね?」
「そうだ」
「私に期待しているのはそれだけの働きですか?随分と易しい依頼のようですが」
「……フラニルとレイを同行させる。アルヴヘイムの妖精たちも連れ出してくれ。オルトリープという協力者を頼れば道はある」
「御安い御用です。危急存亡の折こそ傭兵の存在感を高める良い機会。この<脱兎>が確かに承りました」
涼しい顔をして言うエックスに、クルスは驚きを禁じ得なかった。<リーグ>で参謀という要職に就くエックスを、クルスは抜け目のない現実主義者であると定義していた。状況が状況とは言え、殆ど金にならないようなこの要請にすんなり耳を貸すような事態は想定していなかった。
クルスの心理を見越してか、エックスは笑みを浮かべて言葉を付け加えた。
「勿論打算はありますよ。壊滅したサンク・キャストルの復興を考えるに、魔神が退場した後の世で権勢を欲しいままにするであろうカナル皇帝に貸しを作っておくことは急務です。その点、皇帝陛下の信任が厚い貴方は<リーグ>にとり最重要な構成員。貴方の頼みを聞くこと即ち<リーグ>の益となるわけです」
エックスのもって回った言い草には、ノエルですら噴き出すのを我慢出来なかった。
(もっともらしいことを言って。みんなクルスのことが好きなだけなんじゃないの。この男しかり、ネメシス様しかり。ヴァンシュテルン将軍もサルマンも。アムネリアは……よく分からないけれど。誰も彼も、クルスの成すことを手伝いたくて仕方がないんだわ)
エックスと<リーグ>の協力を取り付けたクルスは、ノエルを伴っての北進の準備を進めた。夜半のチャーチドベルンは肌寒く、宮殿端の仮設テントに寝所を得たクルスは、珍しく寝付けぬとあって外気に当たることを選択した。
半ば強引に同じテントへ転がり込んできたノエルは寝入っており、彼女を起こさぬようクルスは静かに抜け出した。星空の下で深呼吸をしていると、それが為に眠れなかったものかと疑いたくなるようなタイミングで、人魂と思しき不思議な物体が姿を現した。
攻撃を仕掛けてくるでもないそれは、魔法の光球にしては白けており、炎とは随分異なる調子で揺らめいていた。ふらふらとクルスの側に近付くや、一気に変形して人型を再現した。
そこに結ばれた像は、クルスもよく知る人物そのものであった。
「フィニス!」




