サラスヴァティ-3
***
(あなたは、豊饒と大地の女神ディアネだな?)
『そうです。クルス・クライスト。カナンに愛されし人の子よ』
(カナン……ヴァティのことらしいが。確かに彼女より愛情を注がれたからこそ、今のおれがある。そして、その愛情を継いでくれたのがラクシだ。ラクシが四柱の転生体だろうがおれの感謝は変わらない。<戦乙女>は永遠におれの守護神だ)
『違うと言いましたよ。あなたはカナンに愛され、カナンに護られ続けたのです。そして此度は闇の眷属の力添えにより私と見えました』
クルスの眼前に女が一人、長い黒髪を流れるに任せ、悠然とそこに佇んでいた。白を基調とした軽妙な短衣の上から深緑色の上衣を羽織り、麗らかな面には透明な微笑を湛えていた。
予告なしに現れたものだが、実体のあるものかクルスには判断がつきかねた。ただ、目を引き付けて止まない清楚な美貌はとても人間の技とは思えなかった。
(ディアネ、か……)
『この仮面に見覚えは?』
ディアネがクルスへと提示したのは、釣鐘型の特徴ある仮面であった。
(混沌の君!奴もここに来ているのか?)
『あなたがここを目指すと知って、いてもたってもいられず駆け付けたというところでしょう』
(……何故仮面だけがここにある?奴はどこに)
『消えました。文字通り消失したのです。あれは実体を維持するに限界を迎えていましたから。あなたを私の下へと導いて、命数を使い果たしたのでしょう』
(なに?混沌の君がおれを導いただと?何の話だ!)
『泉で闇に囚われたあなたを救った者がありませんでしたか?ただの人間一人が私の下へ辿り着くなど到底不可能です。あれがあなたに働きかけ、こうして目通りが叶いました』
クルスはディアネの言葉を一字一句逃さず聞き、ゆっくりと内容を咀嚼していた。信じようもなかったが、一つの推論が頭に浮かんだ。それはクルスにとりどうにも受け入れ難い話であった。
『そう。ラクシュミ・レインです。あれが最後にあなたを導いたのですよ。その脱け殻が、これというわけです』
(……何を言っている?混沌の君の正体がラクシで、彼女が最後におれを助けたとでも?馬鹿馬鹿しい。ラクシはビフレストへ至るまで絶えずおれと一緒だった。そう、混沌の君と一戦交えたこともある)
『あなたをマスターと仰いでいた<戦乙女>。あなたを守護したあの存在こそがカナンです。そう、彼女は先にビフレストの手前で消失してしまいましたね』
(……理解できん)
『クラナドより帰還したカナンもまたこの地を目指したのですよ。連れの騎士は流石に無理でしたが、彼女は一人私の下へとやってきました。転生体にもそれなりの神通力があるものです。ただし、人間の身であることに変わりはありませんから、それなりの話です』
ディアネの澄み切った黒瞳に吸い込まれるようにして、クルスの全感覚は言葉の紡がれる彼女の唇に集中した。
『彼女の人間としての肉体は耐久限界を超えつつありました。そこで私は旧き友に提案したのです。この奈落の仮面を被らば、二度と外すことはできませんが、しばらくの間は魂を留めておける。古代の魔法やマジックアイテムの扱いに通じたカナンは、直ぐに私の真意を了解しました。その折でした。ニナ・ヴィーキナで、あなたたちの決戦が勃発したのは』
クルスやラクシュミと義勇兵たちが悪魔の王アスタロテに挑んだ決戦。魔境大戦が終盤である凄惨な戦いの記憶は、未だにクルスの中に燻っていた。
『大魔法のオーバーロードは、私やカナンの下にも伝わりました。私たちが一番に恐れたのは、ラクシュミへのバックファイアが四柱の封印に干渉しないかということ。膨大な魔法力が転生体であるラクシュミへと流れ込めば、それが凶悪な力に転化する未来も想定し得ました。それでカナン同意の下、窮余の計を用いることにしました。既に制御不能となりつつあったラクシュミの精神と、人間ながらにミーミルの泉を突破できる高次の制御能力を有するカナンの精神。これを強制的に交替させたのです』
(そんな……馬鹿な……)
『精神のみこちらに飛ばされてきた形のラクシュミははじめ錯乱状態で、そうして全てを理解した後も現世から消えつつある新しい肉体を嘆きました。ですが、そこはカナンの妹です。カナンがそうしたように、アケナスを守るための行動を開始するまでにそれほど時間はかかりませんでした』
(混沌の君の正体が、ヴァティの身体とラクシの精神だと……。それなら、ニナ・ヴィーキナで<戦乙女>と化した後もおれと共にあったのは……)
『カナン。すなわち、サラスヴァティですよ。彼女であればこそ、禁術で従神へと昇華したラクシュミの身体を現世に留まらせ、あなたの制御下にも在り続けられた。それだけではありません。あの場で大魔法のオーバーロードが起きていたなら、あなたも巻き添えとなり消し飛んでいた筈です』
クルスの頭は真っ白になりかけており、思考がまともに働かないでいた。ディアネはそれを気にかける様子もなく先を続けた。
『あなたはニナ・ヴィーキナからビフレストに到るまでカナンに守られ、先般もまたラクシュミに助けられたわけです。そうして五体満足を保ったままで私を前にして、あなたは一体何を望むのです?』
ラクシュミだと思い込んでいた<戦乙女>の精神はサラスヴァティのもので、また何度か対峙した混沌の君こそがラクシュミであると聞かされたクルスは、心中で長年の誤解と折り合いをつけられなかった。ラクシュミが側にいてくれたからこそニナ・ヴィーキナの悲劇を乗り越えられたのであって、このような結末を迎えてはまるで自分は道化だと、クルスは自己を酷く卑下した。
それでも自分事で全てを停滞させるわけにはいかぬと、クルスは残り少ない理性を総動員してディアネに具申した。
(……魔神を打倒するのに、どうか力を貸して欲しい。<フォルトリウ>がクラナドで新しき神を誕生させれば、あなたは力を失うものと聞いている。ならば、力を維持している今が反攻するに最後の機会ではないか?)
『私がここを離れれば、澱みしシュラクの想念が直ちに四つ身へ届き得ましょう。何のことはありません。封印とは、私がここでそれを押し止めているだけのことなのですから』
(シュラクの想念……)
『ベルゲルミルの企みによりカナンとシュラクは袂を分かちました。勢力で劣るシュラクは背水の陣で臨み、敗れ、肉体をアケナス各地へと四散させた。その欠片が四柱と呼ばれし大魔で、肝腎のシュラクの想念は未だこの地にあります。これが好きにすれば、大魔の力は最大限に発揮されます』
(万魔殿は解放されたと聞いたが?現にカナル軍は敗れている)
『カナル軍を破った後、万魔殿の悪魔はアケナス全土を侵略しましたか?そうはなっていないでしょう。あくまでディスペンストの守りが解かれただけのこと。ここに渦巻くシュラクの想念なくして、あれが真に力を発現することなど有り得ません』
(……ということは、あなたがこの地で踏ん張っている限りは、四柱が本格的に動き出すことはないと?)
ディアネは微笑みを浮かべ頷いて見せた。それでも、クルスの気分は一向に晴れなかった。
(あなたは、ここでいつまでシュラクを抑えていられるのだ?)
『先程あなたが言った通りですよ、クルス・クライスト。クラナドでアケナスの統治システムが上書きされれば、私とシュラクは世界に干渉する権限を失います。単にそれまでの話です。それでなくとも、あと五年と経ずして私の存在は滅びましょう。これは精神の寿命とでも言うべきもので、避けようがない運命です』
(ちょっと待て!クラナドでシステムに手を加えれば、やはりシュラクも影響力を手放すのだな?四柱にはそれが及ばないとも聞いたが、そもそもシュラクの想念が消失したなら奴等は全力を出せない。そういうことだな?)
『そうです。私とシュラクが共にアケナスを去れば、それは今の状態を維持するに等しいと言えましょう。クラナドにシステムを上書きし実行する余力が残されているのなら、それが最善の策と思われます』
クルスはここで方針を定めた。混沌の君ことラクシュミのやろうとしていたことは間違っておらず、いま一度クラナドに上る必要があると考えられた。
だが、それでは誰が新しい神として相応しいのか。その神の力は果たしてベルゲルミルに通じるものか。クルスの不安は少しも尽きなかった。それはディアネにも伝わったようで、彼女は事実だけを脚色なく伝えた。
『遥か昔、カナンが主神のリーダー足り得たのは、あの者が類い稀なる知性と人間的魅力を持ち合わせていたに止まらず、人間の枠に当てはまらない超感覚を備えていたことが大きかったように思えます。現代で例えるならラーマ・フライマがそれに近い素養を持っているのでしょうが、言っても詮無きこと。ベルゲルミルに侵されたフライマが神格を得ることなど、今更不可能ですから』
(……そもそも、あなた以外の神は何故神格を失った?ヴァティのように転生している者もいるのだろうが、きっかけとなった<フィンブルの夜>とは一体何だ?天使たちは何を企んだ?)
ディアネはその問いに対して回答する気配を見せなかった。彼女が口にしたのは、クルスの求めとは異なる衝撃の事実であった。
『魔神ベルゲルミルは太古よりアケナスにあった、まさに真祖とも呼べる存在。カナンや私ですら滅ぼす手立ては見出だせませんでした。ラクシュミにもそう告げました。彼女はより強力な神々を誕生させてかの魔神にぶつけるつもりでいたようです』
それがルガード一味を巻き込み、<フォルトリウ>に参画した理由かと、クルスは一定程度得心した。
『クルス・クライスト。あなたはここを出てクラナドを目指すのでしょうね。ですが、その後ベルゲルミルとの対決を選んではなりません。ベルゲルミルの手下を倒すことは出来ても、本体を撃破すれば、結局その者が新たな憑依となるだけのこと。悲劇は永久に連鎖する。誰にも制することなど叶いません』
(……本当に、クラナドに対抗手段はないのか?)
クルスは再び話題をクラナドへと転じた。今となっては、自分とアムネリアを迎えた天使を名乗る老人がとても胡散臭く感じられた。そして、イビナの語る「天使は統治システムに取り込まれない」という言葉の意味を深く考えさせられた。即ち、天使には神々の及ぼす影響力を無効化する力が備わっているのみならず、戦術上の対抗手段も持っているのではないかという疑いを抱いた。
『……私は気の遠くなるような歳月をここで過ごしてきました。そのため<フィンブルの夜>も当事者足り得ません。凍結湖に竜王を訪ねなさい。かの者であれば、あなたをクラナドに導く助けとなりましょう』
(凍結湖……それは四柱の一角じゃないのか?そんな奴が助けになるって?)
『あなたが戦ったレイバートンの宰相。あの者も竜王には謁見しているのです。それでいて、凍結湖近隣の谷に監視網を設え、動向を追い続けてもいました。流石の手腕です』
(ラファエル・ラグナロックが、竜王と……)
クルスの視界が突如ぼやけ、それに伴いディアネの姿形は見失われた。同時に胸が締め付けられて、呼吸に支障を来し始めた。
『ラクシュミの残存思念が尽きます。これ以上ここに留まると、あなたは人間としての生を全う出来ません。泉の外に放ちますよ』
(ディアネよ!ゼロというハーフエルフを知らないか?俺より先にここへ向かったのだが……)
クルスはディアネに問いたい幾つもの疑問をはね除けて、必死の形相でゼロの安否を訊ねた。
『ラクシュミが泉の外へと誘いました。あなたの連れが回収したようですから、問題はありませんよ』
(そうか……ラクシが)
『さようなら、クルス・クライスト。もう二度と会うこともないでしょう。あなたの行く先に光のあらんことを望みます』
その言葉を最後に、クルスの意識は途絶した。
気が付いた時にはクルスはベッドに寝かされており、枕元の丸椅子に腰掛けたノエルが一人舟を漕いでいた。恐らく魔境の街中であろうと検討をつけ、クルスは上半身を起こして静かな声色でノエルに話し掛けた。
「……あ、クルス!大丈夫なの?」
「寝覚めは悪くない。これもディアネの計らいか」
「ディアネ神と会えたのね!すぐみんなを……」
「待て。ゼロは?」
クルスの問いに、ノエルはしっかり頷いて答えた。
「隣で寝てるわ。イビナ・シュタイナー博士が診てくれて。心配ないだろうって」
「そうか。良かった……」
クルスはほっとして肩の力を抜いた。そうすると今度はディアネから聞かされた諸事が頭の中を回り始め、特に<戦乙女>の件を受け止めるには覚悟が足りなかった。
「……どうしたの?」
「少しの間でいい。一人にして貰えるか?」
ニナ・ヴィーキナの決戦からこちら、ずっとクルスに従い共にあったのはサラスヴァティ・レインであった。ラクシュミ・レインは救われた精神でサラスヴァティの意志を継ぎ、<フォルトリウ>に参加をしてまでビフレストを目指した。そうした真実は、二人と接点の在り続けたクルスにとって残酷な現実でしかなかった。
感情のうねりはクルスの心をバラバラに砕かんと荒れ狂い、ともするとその発露から涙が溢れ出そうであった。
ノエルが素直に席を外した後、クルスは独り号泣した。
(どうして……何も教えてくれなかった?おれが……おれの未熟さが招いた悲劇じゃないか。ヴァティ、ラクシ……いくらなんでも冷たいだろう?おれに内緒で二人だけで、世界の重荷を全て背負おうだなんて)
クルスは二人の愛情をひと欠片も疑っていなかった。それ故姉妹の選択に恨み節を溢そうとも、本気で非難をすることなど埒外であると弁えていた。
ニナ・ヴィーキナで多大な犠牲を払った自分にそれ以上の負担を掛けないよう、二人は真相を明かさないことと示し合わせていたに違いないと、クルスはそう確信した。サラスヴァティはラクシュミの替わりに<戦乙女>ラクシュミとしてクルスを守り、ラクシュミが混沌の君を名乗ってサラスヴァティの目的であるアケナスの救済へと動いた。そのラクシュミの働きに、まるで誘蛾灯にかかる虫のように引き寄せられたことこそが、クルスに運命の存在を強く意識させるのであった。
(おれたちの縁は<パス>のように安易に切れたりはしない。ただの人間一人であるおれでは力不足なのかもしれないが、ちゃんと意志は継がせてもらうよ。これまでありがとう。感謝の言葉しか……今は……)




