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クルス・クライストの四女神とカナル帝国記  作者: 椋鳥
第六章 霧と幻の輪舞曲
105/132

  サラスヴァティ-2

***



 悪魔を名乗る初老の男に案内され、クルスらは魔境の街中を堂々歩いた。物珍しいのはお互い様で、一行は住人たちから注目を集めたが、その視線の送り主もまたクルスらにまじまじと観察された。


「<鳥人>や<鬼人>まで、そのままの姿でいるとはな……悪魔の見本市のようだ」


「クルスさん、あいつらに知性ってあるんでしたっけ?」


 クルスはフラニルの問いに「ない」とは言い切れなかった。長屋のように列なった家々の戸口に覗くのは人間だけでなく、確かに悪魔の姿が多々混じっていた。


(こんな社会があると、どうして認められる?<フォルトリウ>の連中はここの存在を知っていたが故に、魔境の保護を唱えたというのか?まさかな……)


「……善良な悪魔がいるのなら、もしかして種族の補完は成立するのかしら?」


「ノエルさん、それは僕も思いました。少なくとも、ここの住人からは敵意をまるで感じない。聖地の力を広く転用出来たなら、魔境の解放も夢物語じゃあないのでは?」


 ゼロとサルマンは道端にたむろする人々を物珍しそうに眺めていた。罪人や冒険者の出自と思われる人間ですら、自分達を遠巻きに眺めたまま近付く気配はなかった。


 困惑状態のクルスに代わって、レベッカが彼女らしい断定的な口調で皆の姿勢を詰った。


「奇妙な人里を発見したからと言って、今さら宗旨を変えられるわけでもなし。悪魔に多少善人がいようとも、それと魔神の横暴は無関係と割り切るべきだ。我々の目的を見失うな。今は泉の奥にディアネ神を臨むのが最優先事項であろう」


 これにはクルスをはじめとした一同もはっとさせられた。レベッカは気概を前面に出すタイプの騎士で、不測の事態にあっては彼女のようにぶれない人格が頼もしく映った。


「着いた。あの柵の向こう、木々を分け入った先が聖地となる」


 悪魔を名乗る男の指したそこには木で拵えられた柵が連綿と続き、その先に繁る林への道を閉ざしていた。


「この先に、ミーミルの泉とやらがあるんだな?」


 サルマンが逸って聞く。魔境を走破したことは彼にとって夢見心地であり、一傭兵として得難い経験を積むことが出来たと興奮気味であった。


「ある。だが忠告はした。聖地に足を踏み入れなば、間違いなく正気を失う。人の身体を保てる保証もない」


「クルス……どうするの?この人の言う通り、精霊たちもここから先へは進めないって」


「ノエル。これは賭なんだ。一か八かを試すなら、おれがやる」


「駄目です」


 ゼロが初めてクルスの意見を掣肘した。彼女の碧色をした瞳は強い意思を宿しており、危地にマスターたるクルスを遣れはしないという決意が明らかであった。


「貴方が失われれば、パーティーは持続出来ません。いえ……それだけでなく、カナルやミスティンの結束も反故になります。全てが水の泡です」


「だがな、ゼロ。誰かがやらなければならないことだし、ここで何としても女神の助力を得たい。それを提唱したおれが、ここまで来て逃げるわけにはいかない」


「ですから、私が行きます」


 言うが早いか、ゼロが敏捷な身のこなしで、大人の背丈ほどもある木柵を易々と超えて行った。


「待て!ゼロ、戻れ!」


 追い掛けようとしたクルスを、フラニルとサルマンががっちり肩を押さえて止めた。


「落ち着いてください!無策で二人も先には行かせられませんよ!」


「クルス・クライスト、お前まで暴走するのは無しだ!」


「離せ!ゼロが……!」


 クルスは表情にありありと焦りを浮かべ、しがみつく二人を必死に引き剥がしにかかった。ノエルとレベッカはどうしようもなく脱力してその光景を眺めていた。


「ゼロ……」


 ノエルの悲しげな呟きに反応したわけでもなかろうが、彼女の視線の先、柵向こうに広がる深緑の入り口に、先程までは見当たらぬ人影が浮かび上がった。それこそ真に唐突な出現であった。


「小僧、仲間を見捨てたくなければ来るが良い」


「……イビナ・シュタイナー博士!先生が、何故ここに?」


 前触れなしにこうして再会した知己を、クルスは純然たる驚きと喜びをもって迎えた。一方のイビナは、深い皺の刻まれた顔を更に厳めしくして催促した。


「黙れ。来るのか来ないのか。ハーフエルフの娘を見捨てるのか見捨てないのか、どちらだ?」


 イビナの登場で呆けた仲間たちの手を振り切り、クルスは柵をひとっ跳びに越えた。


「悪いな。ちょっと行ってくる。ノエル、留守を頼む!」


「気を付けて!」


 ノエルの絶叫に近い激励を背に受けて、クルスは踵を返したイビナに続いて樹林へと進入した。


 木々の間をすり抜けていく内に、クルスの身体に異変が生じ始めた。動悸は強まり、酷い目眩に襲われた。


 クルスの動きが鈍ったことを確かめてから、イビナは足を止めて語りかけた。


「ここは魔境の深奥だ。死と夜を司るシュラク神の怨念が渦巻いている。貴様のように人間の身で訪れれば、ただではすまない。しかし、同時に与る恩恵もある。分かるな?」


 まるで生徒に講義をする教師のように、イビナは苦しむクルスを気にかけず問い掛けた。


「……ディアネ神の存在。ううっ……」


「そうだ。悪魔が改心する作用こそ正にディアネの力の余波であろう。貴様の助かる道は一つ。ミーミルの泉より迸る女神の波動を感じ取るのだ。シュラクの瘴気に囚われたままなら、貴様の旅路はここで仕舞いだ」


「先生は……なんで……何とも、ない?」


「シュラクたち主神はアケナスへ君臨するにクラナドの統治システムを用いたという。システムを運用するは天使。すなわち、天使はシステムに取り込まれない、言わば治外法権の立場にある。まあ、シュラクの力が及ばない代わりに、ディアネの力もまた無効となるがね」


 イビナは堂々告げ、自身が天使かそれに類する存在であると明かした。


「さあ、小僧。ここで朽ちるも貴様次第だが、先を行ったハーフエルフの娘はどうしたであろうな?」


「ゼロ……」


 クルスは栗色の髪をした寡黙なハーフエルフのイメージを強く思い描き、彼女を救う信念を燃やした。勇者サラスヴァティとその妹に世話になっていた自分が、豊饒と大地の女神が放つ息吹を感じ取ることが出来ないなどと、考えだにしなかった。


 全身をきつく締め上げる呪いの力に全霊で抗い、クルスは林の枝葉を優しく撫でる温かい気配を前に心を研ぎ澄ませた。


(感じるぞ……母なる大地の雄大さと慈しみ……全てを赦し包み込む霊気。これが……ディアネの力……)


 イビナは徐々に元気を取り戻して行く生徒の様子を、彼らしくない柔和な表情を浮かべて眺めていた。



***



 林間に佇むその水面は揺蕩うこともなく静かで、無色透明であるも底を覗くことは深過ぎて叶わなかった。静謐の極致たる空間に足を踏み入れたクルスは、心が洗われこそしたもののゼロの姿がどこにもないことに焦燥を募らせた。


「ほう。あの娘、存外猛き心の持ち主であったようだな。この地に到達して正気を保っていられた人間など、私は一人しか知らん」


「ヴァティのことか?彼女は魔境で果てたと聞いているが」


「違う。イーノだ。あれこそ真に強き人間だ。サラスヴァティはそもそもからして超常の存在。彼女もお前と同じようにディアネとの邂逅を求めてここを訪れた。クラナドから帰還したあの者をそう仕向けたのは、今となっては私に違いない」


「……ヴァティは、ディアネ神と会えたのか?」


「分からん。だが、彼女との<パス>は微弱ながらに最近まで繋がっていたのだ。それが消えた。つまり、サラスヴァティは正真正銘死んだものと思われる」


 イビナは天を仰ぎ見た。ミーミルの泉の真上だけは枝葉が遮っておらず、真っ青な空が一面に開けていた。


「イーノは私を恨んだ。あれは私がこの数百年で遺した落胤とその系譜を探し当てた。天使の血を引くその者たちに、新しき統治のシステムを運用させようという狙いだろう」


「……古城に連れてきた一党が、それか。それにしてもまさか、先生が天使だったとは」


 クルスはクラナドで唯一接触した天使の言葉を反芻していた。六百年前に地上へ捨てられた天使がいて、その消息が分かったらしきこと。その間にクラナドを訪れた地上人はサラスヴァティただ一人という事実。


 クラナドの天使はサラスヴァティを通じて、かつて地上へ落とされたイビナの所在を知ったに違いないとクルスは確信した。


「さあ、小僧。どうするのだ?勇者サラスヴァティすらも成功したか定かではない神への拝謁。貴様はどう選択する?」


「そうだな。ここまで来たら考えても仕方がない。……行ってくるよ、先生。万が一、ゼロが現れたなら頼む」


「ああ」


 クルスは装備を解いて裸になり、泉の水面を凝視した。深呼吸を幾つかして、魔法で呼吸の補助を確保してから飛び込んだ。


 水中にも関わらず、視界は鮮明であった。先をいくらでも見通せそうなほどに澄んでいたが、泉の底はクルスの目に一向に飛び込んで来なかった。


 自分の呼吸以外に音は無く、水深が下がるに従って光も弱くなってきた。生命の息遣いが全く感じられず、次第にクルスの心に不安が渦巻いてきた。


(……苦しい。どうやら魔法の効き目が薄まっているらしいな。呼吸が切れたら終わりだが……)


 暗闇へと落ち行くその間、クルスはこれまで自分を支えてくれた女性の面影を追っていた。何れの美貌も現れてはすぐに消え、その笑顔を網膜に焼き付けたいと思っても、次から次に新しいイメージが像を結ぶため実現を見なかった。


 師であり親代わりでもあるサラスヴァティ・レイン。自らの半身とも言うべきラクシュミ・レイン。<リーグ>に加入して最初に任務を共にしたクーデリア。バレンダウンの歌姫エリン。カナルの女男爵シャルディ。エリシオンの女神官エルナル・セス。リン・ラビオリ。アムネリア・ファラウェイ。ノエル。ネメシス・バレンダウン。フィニス・ジブリール。マルチナ。アルテ・ミーメ。ゼロ。アンナ。エレノア・ヴァンシュテルン。レルシェ。イシュタル・アヴェンシス・アルケミア。オルトリープ。シエラ。レベッカ・スワンチカ。


 サラスヴァティに始まり、実に多くの女性に助けられた人生であったと、クルスは自身を果報者と認めた。そうして、儚くも亡くなってしまった女たちの下へ、ようやく自分も駆け付けることが叶いそうだと安堵する一幕があった。


『まだ、逝くには早いわ』


(……アムか?)


『……呆れた。何という浮気者かしら』


(ラクシ!その声はラクシだな?……ならばここは、黄泉の国か?)


『何を惚けているの?貴方はいま、泉の深淵に向かっているのでしょう?』


(……そうだが。もう何も感覚が無くてね。君の顔を思い浮かべていた)


『私たちの、でしょう?アムって言ったわ。アムネリア・ファラウェイ。彼女、若いしたいそうな美人だものね』


(ラクシ、あのな……。おれとアムは、そういう誤解を招くような仲じゃないぞ?)


『知ってる。でも、もういいの。貴方には自由になって欲しい。私やヴァティになんて縛られず、好きに生きて』


(何を言っている?おれは今まで好きに生きてきた。これからもそうだ)


『クルス……生きて。私の願いは、それだけ』


(……おい、ラクシ!どこにいる?顔を見せてくれ!ラクシ!)


 クルスは叫んだ。そうしてだんだんと意識が鮮明さを取り戻していった。


 彼の目に映ったものは、輪郭の無いぼやけた光がそこかしこで明滅している不思議な景色であった。自らの身体にも手足が見当たらず、ただ意識だけがはっきりと己のそこに在ることを訴えていた。


(これは……精神世界のようなものか?)


 どうやら水中とも感触が違うようで、クルスはまずゼロの無事を確かめにかかった。しかし自分の居場所も分からなければ、何をどうしてよいかも分からず、結局周囲を観察するに止めた。


 点いたり消えたりする光の内に何事か意味はあるものかとよく目を凝らしてみるのだが、クルスに読み取れるものはなかった。果たして自分は本当に生きているのだろうかと自問するに至り、ともすれば塞ぎ込みかけた。


(そもそもラクシはどこから語りかけてきた?あれは夢か?……いや、それにしては記憶がはっきりし過ぎている。ラクシの魂魄は、実はあの時古城で失われていなかったのか……)


 ラクシュミのことを強く想うにつれ、クルスの視界に変化が現れた。相変わらず何もない世界で光だけが点滅を繰り返しているのだが、遂にクルスの肉体が確認され、着衣のない裸でそこに立っていた。


 ラクシュミが鍵であると結論付けたクルスは、彼女のことを強く念じた。そうすることで彼の中でもやもやしていた不安が払われ、何故だかゼロの無事を確信するに至った。


(ラクシが力を貸してくれている!やはり彼女は神たる身として健在なのだ)


『それは違います。クルス・クライストよ』


 頭の中に直接響いた威厳のある声に心当たりはなかったが、クルスはそれをディアネ神のものであると断定した。


 そして彼は正しかった。


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