4 サラスヴァティ
4 サラスヴァティ
ミスティン王都アグスティへと入ったクルスは、過労で青白い顔をしたエレノアを気遣いつつも巨人国で起きた顛末を報告した。そこで始めてカナル軍の大敗について聞かされ、犠牲のあまりの大きさに慟哭した。
悪魔からの追撃がない点は一同に不審を抱かせるに十分であったが、とは言え見守る以外にないので当面警戒を続けることで意見は一致した。
イオニウムへの監視はバイ・ラバイが部隊を率いて当たっていたので、エレノアは主に外交分野に精力を傾けているとのことであった。クルスはエレノアを半ば無理矢理に彼女の私室へ引っ張っていくと、一人用の簡素なベッドに放り込んだ。
「……カナル皇帝の近臣がミスティンの将軍を襲う、ですか。ゴシップとしてこれ以上のネタはありませんね」
「いいから寝ていろ。アケナスの苦難を女一人で背負う必要などない。貴女は勇者サラスヴァティ・レインじゃないんだ」
「……チャーチドベルンから、諸国連携の深化を打診されました。あちらこちらの首脳を説き伏せねばならないのですよ」
クルスは上半身を起こしているエレノアの肩に手をかけ、そっと枕まで押し倒してやった。
「亡夫にされて以来の待遇です」
クルスは一先ずその発言を無視した。
「外交はアンナ王女にやらせる。意欲はあるんだ。彼女にも、それくらい期待して良いだろう?」
「この姿を見られたら、王女殿下の貴方に対する信頼は地に堕ちるのでは?……フフ。冗談はそれくらいにしますね。好意に甘えて、少しばかり休ませていただきます」
「それがいい。朗報を持ち帰らせる」
「そちらは万事託します」
目を閉じたエレノアが直ぐに寝息を立て始めたので、クルスは静かに部屋を辞した。扉の外には怖い顔をした女たちが彼を待ち陣取っていた。
まずはノエルが頬を膨らませて嫌味をぶつけた。
「クルスに女性を無理矢理ベッドへ連れ込む趣味があったなんてね。……将軍も将軍だわ。たいして抵抗もしないで。実は満更でもなかったんじゃないの?」
「あのな……」
続けてイシュタル・アヴェンシスが溜め息と共に苦言を呈した。
「やるにせよ、もう少し人目を憚ったらどうなんです?城中がこの話で持ちきりになれば、何れカナル皇帝の耳にも入ります。困るのは貴方ですよ?」
「……だからな」
最後に、レベッカ・スワンチカが汚いものでも見るかのような目付きで冷たく吐き捨てた。
「クライスト。卿はいささか女に色目を使い過ぎるきらいがある。痛い目を見る前に、生き方を改めるべきだと思うぞ」
「……了解した」
肩を落としたクルスは騎士団庁舎にアンナを訪ねて後、ノエルとレベッカを引き連れてアグスティ市内へと繰り出した。魔境行きの支度をするのが急務であり、ゼロやフラニル、サルマンといった仲間たちと合流すると<リーグ>の支部に腰を落ち着けた。
見た目にすっかり復旧を果たしたアグスティ支部はクルスらを歓迎し、ほとんど貸し切りのような態勢で旅支度にも協力を買って出た。出発の明朝までが残された少ない憩いの時間であり、一行は上半身を深くソファに沈め振る舞われた珈琲で舌を湿らせた。
「<雨弓>は置いていくので良かったの?連れて行いけば貴重な戦力でしょうに」
ノエルは珈琲でなく蜂蜜を溶かした白湯を口にしながらクルスに訊ねた。イシュタル・アヴェンシスをアグスティに残すことは<北将>の要請で、渋る十天君をクルスが説得した経緯があった。
「バランスの問題だ。……犠牲になったフィニスやアルテ・ミーメは余人をもって代え難いが、カナルにはまだアムがいる。ヴァンシュテルン将軍とイシュタル・アヴェンシスがいればアグスティも堅牢。魔境に入るといっても、何もおれたちは化物を討伐しに行くわけではないのだからな」
「その割に、同行者はマジックマスターに偏っている気がするんだけど?」
「そんなことはないさ。前衛はレベッカとサルマン、それにおれで十分だ。何ならゼロだって剣は使えるんだし。……それより、ワルドはどうしたんだ?」
クルスの問いにノエルは首を横に振った。代わりにフラニルが、如何にも不思議だという表情を作って答えた。
「消えちゃったんですよね……忽然と。サイ・アデル騎士団を撃退したところまでは活躍していたんですが。まさか、勝手にカナルに向かったとか?」
「もしそうなら、ネメシス様の下へやったレイやシエラと道中で接触出来ているかもな。あの男のことだ。一人でも、野盗の類いに後れをとったりはしないだろう」
「そうね。あれだけしぶといんだから、心配はいらないわ」
ノエルの太鼓判にゼロも同意を表明した。クルスはワルドのスカウト技能を当てにしていたが、何だかんだでミスティン王国まで付いてきたサルマンがそれを代行するに違いないと楽観視もしていた。
レベッカは、ワルドが元主君である<不死>を制したのだとノエルから聞かされ、彼の人物像に興味を抱いた。しかしそれ以上に、クルスがエレノアやアンナと度を超えて親しい様を目の当たりにし、それに止まらず僚友たるイシュタルとも気脈を通じていると見て心底驚いていた。
「……一口に魔境と言っても、その実態は全く知られていない。かくいう私も北西外縁部を偵察したくらいが精々。クライスト、保有している情報を開示しろ」
レベッカは詰問したが、声の調子や表情に挑戦的な色はなかった。
「聞きかじりですまないが、遠巻きにでも目にしたことのある者は知っている通り、基本は広大な原生林だ。古代より人間の入植を拒み続け、手付かずで時の過ぎた天然自然の世界。アケナスの中央に広がり、その面積はカナル帝国全土にも匹敵する。無数に棲息している悪魔は派閥ごと魔境の各地に散らばっていて、深奥にはミーミルの泉と呼ばれる聖地があると言う」
「魔境に聖地か。冗談なら安っぽい話だ」
サルマンが茶々を入れた。クルスは軽く頷いて先を続けた。
「魔境大戦の折も、アケナス諸国は魔境より溢れ出した一部の悪魔と戦ったに過ぎない。攻略を意図をもって中に足を踏み入れたというのは、ヴァティの一味しか実例を知らない。いや……ノエルはボードレールたちと魔境に潜ったんだったか?」
「ええ。でも奥までは行っていないわ。ウェリントンを追って、外縁部から少し中に入っただけ。森は私達の領分なんだけど、随分気味の悪かった記憶が残ってる。自然にも関わらず、邪気というかおぞましい気配が止まなくて。息をしているだけで、何か魂が少しずつ闇に侵食されているかのような……」
ノエルの解説は抽象的ではあったが、皆に人里離れた魔境の悪印象を決定付けた。フラニルは「神官を同行させた方がいいんじゃ……」と弱気に呟いたが、それに答える者はなかった。
***
鬱蒼と茂る樹木の枝葉を掻き分けつつの進軍は、クルスらの肌を切り傷や擦り傷で充満させた。予めレンジャー仕様で全身を防護する装備を採用していたものだが、例えば露出した顔や、暑さに耐えきれずに装備を解いた箇所が草木に打たれ続ける羽目に陥った。
それでも軽装を貫くノエルとゼロは流石で、悪魔の本拠であっても森林である以上は歩行に困難を感じている様子がなかった。それとは反対に、レベッカなどは足下の難儀や閉塞感に心底辟易させられていた。
五日が経過してなお悪魔による襲撃は散発的で、ここまで下級悪魔だけを四度にわたり撃退していた。カナル軍が無数の悪魔に打ち破られたと聞いていた一行は、それと対照的な状況に肩透かしを食わされた格好となった。
「方角は……まだ魔境の中央を向いているんだよな?」
「当然でしょ。クルス、まさか私とゼロの感覚を疑ってる?」
「いや、そんなことはない。ただ俺はもう完全に方向感覚を失っているんだ。頼りはノエルとゼロだけさ」
「どうだか」
ノエルは上目遣いにクルスを見詰め、微笑を浮かべて軽快にステップを踏んだ。ノエルとゼロの足取りは他の者と比べて格段に軽やかで、疲労の色濃いフラニルなどは呆気にとられてその後ろ姿を目で追った。
「磁場が狂っています。方向感覚を維持するのはエルフでも大変です。人間ではとても踏破は出来ないでしょう」
ゼロが真面目くさった態度で解説し、隣を恐る恐る歩んでいるサルマンは大いに納得したという顔付きで頷いた。
「……このままミーミルの泉とやらに到着できたなら、拍子抜けもいいところだな」
最後尾を固めていたレベッカは、評判とまるで異なる魔境の温さ加減を揶揄するかのように呟いた。前を行くサルマンがそれに反応し、「楽に終わればそれが一番さ」と大人の返し文句を口にした。
原生林主体の景観であっても、地形は折々で起伏を伴った。流れる川に遭遇することもあれば、不意に木々が失われ、開けた台地に様変わりすることもあった。
天候は空が覗いた範囲では快晴が続いており、ノエルの言うには進捗は順調とのことであった。クルスたちの目指す先は魔境のちょうど中央地点で、泉の位置はかつてクルスがサラスヴァティより聞かされた話を拠り所としていた。
サラスヴァティ曰く、「魔境のちょうど真ん中にあるのよ。聖地や神座ってそういう律儀なところが可愛いわよね」ということで、クルスはその言を薄弱な根拠とは見なさなかった。
そうしてさらに二日の行程を経てたどり着いた場所は、形容のし難い不思議な景観で一行の目を白黒させた。
「これは……街、なのか?」
「クルスさん、こんなことが……。でも、危険を顧みず魔境に挑む冒険者の話とか、犯罪者が逃亡先に選ぶなんて話とかも聞きます。ほとんどが遭難して、魔境からは帰らぬままだと……」
「フラニル。ここが、そいつらの築いた街だと?」
「分かりません……ですがこの光景が幻覚でなければ、人間の営みは確かにあるように見えます……」
クルスとフラニルが話している通り、そこには街が存在した。樹林の拓けた様子は明らかに人の手が加えられており、木造平屋の建物が見渡す限りに乱造されていた。
道は剥き出しの地面ではあるが、歩きやすいよう地ならしが行き届いていた。特筆すべきは街中を流れる用水路で、これの整備されている実態から文明社会の有無は歴然と言えた。
クルスらの視界には道行く人間の姿も多数映っていて、ここが魔境だという現実を忘れそうになった。彼らは知る由もなかったが、かつて戦ったルガード一味の女戦士・ベルディナはこの街の出身であった。
「予想外よね……悪魔とも、共生出来たりするのかしら?」
ノエルの疑問はもっともで、魔境すなわち悪魔の巣窟と捉えるにおいて、街の治安が如何にして守られているのか皆が疑問に感じる点であった。
「そうだな……皆も知っての通り、上級悪魔は総じて高い知性を持つ。もっとも、人間と同居した例など聞いたこともないが……」
そこまで言って、クルスはイーノから聞かされた話を思い返していた。ラクシュミ・レインが四柱の転生体であり、彼女と内縁関係にあった自分は共生の一つの証左とならないのであろうかと。
「来るぞ」
レベッカの注意を待つまでもなく、皆が近付いてくる人影を認めていた。
「十人ちょうどね。見える範囲に伏兵はいないようよ」
「ノエル、魔法の類いは?」
「ないわ。ねえ、ゼロ?」
「はい。ですが、精霊たちから街の奥へと近付かぬよう警告が発せられています」
見たところ非武装の、一般人然とした十人は急ぐことなくクルスらの前まで歩み寄って来た。何れも軽装の普段着姿で、先頭に立つ初老の男がリーダーと思われた。
「余所者だな。ここまで辿り着いた一団は久方振りだ」
相手より先に声が掛かったため、クルスがそれに応じる形で問答は開始された。
「帰れ、とは言わないでくれよ。おれは<リーグ>の傭兵クルス・クライスト。ミーミルの泉に用があってここまで来た」
「聖地に……。止める気はないが、死にに行くようなものだな」
「どこにある?ここが魔境の中央地点の筈だ。精霊たちが警戒しているという、街の奥にあるんじゃないのか?」
「そうだ。別に立ち入りを禁じてはいないが、近寄れば瘴気に当てられて悪魔へと変貌しよう」
「ほう。悪魔と言えば、見たところお前たちは人間のようだが、ここでは悪魔はどうしているんだ?外からの落伍者が集落を形成したとして、悪魔を撃退できる術などないだろう?」
「聖地だ。あれの存在が悪魔をおいそれとは近付けさせない。仮に近付けたとして、邪気を払われて害意をまるごと失う」
「なに?」
「まともな者が近付けば、発狂して悪魔へと変じよう。逆に悪魔が接近すれば、浄化されて狂気を無くす。あれはそういうものだ」
淡々と話す男にクルスは強い違和感を覚えていた。男からは自分達に対する警戒心が全く読み取れず、態度からは何事も隠す気のないように思われた。
ノエルは持ち前の直感から男の正体を嗅ぎ付けており、クルスの背を指で突いて知らせた。
「……クルス。この男、上位の悪魔かもしれない」
「……ほう。あれか、人間に化けることの出来る稀少種か?」
「よくわかったな、森の娘よ。……だが、こちらに戦うつもりはないぞ」
上位の悪魔と聞いて武器を構えたレベッカやゼロにも関心がない様子で、男は動じることなくクルスとの対話を続行した。
「先程も言ったが、聖地は悪魔の心をも浄めたもう。隠す必要はなく、言ってみれば私もその該当者だ」
「お前は本当に悪魔か?」
「この街の住人の半数は悪魔だよ。お主らの想像する悪魔とは異なり、ただ穏やかに暮らしたいと願うだけの、実に無気力な存在だがね」
「その顔色を信じたい。ならば、聖地とやらに案内を頼めるか?」
「お安い御用だ。その代わり、街中で騒ぎは起こさないで欲しい。悪魔といっても、全てが私のように変体の技能を身に付けているわけではないのでな……」




