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T R A B A N T  作者: pochi.
9/9

Phase_07:IDENTITY

カクヨム掲載作品です。

「……ひとりしか、いないって?」


 喉の奥がひりつき、言葉が掠れる。胸の内で心臓が一瞬止まったように感じながら、ハンスはやっと絞り出した。


「そうだよ。なんでそんなに狼狽えてるの? ……セルが意図的に操作されてたとして、それが出来るのなんてひとりだって言ってるんだ。──ここまで言ったら、分かるでしょ?」


 ハンスの動揺する声に一笑し、ラビは睨み付けるような視線を彼に向けた。処置台の上で蹲るように座りながら掠れた声で話す彼は、いつも明るい調子でなんだかんだ場の空気を温めていた彼とは別人だった。


 全員の視線が、ゆっくりと一点に集中する。その先に居るのは──ケルビンだ。彼はスキャンしたラビのバイタル情報を確認していてモニターを見ていたため、ハンスたちには背を向けている。まるで”我関せず”とした様子にも見え、ハンスの背筋に冷たいものが伝う。しかし同時に湧き上がったのは疑問だ。ケルビンは、覚醒後すぐにラビの救助に加わり適切な処置をした。ハンスはその時の彼を、まるで救世主のように感じたほどだ。


「ま、待ってくれ。──ケルビンはお前を助けた張本人だ。お前を殺せなくて悔しがるんなら、蘇生措置なんてしなきゃ良かった話だろ?」

「そんなの、君が僕を助けちゃったから仕方なくに決まってる!みんなが見てる前で、蘇生措置しないなんてこと出来るわけがない。失敗を装うとしたって、それもいつバレるか分かんないんだから」


 ラビの頑なな態度に、ハンスは尻込みしていた。命に関わることがあったとはいえ、何故こうもケルビンを疑うのかが理解できない。──そして同時に理解しがたいのは、当のケルビンが黙っていることだった。


 ケルビンはモニター画面から振り返り、静かにそこに立ち尽くしていた。一方的なラビの主張を許し、静かな瞳で彼を見据え、その意図は外からは窺えない。ハンスは立ち上がると彼に近寄り、その肩を掴んだ。


「おい、お前もなんとか言ったらどうなんだよ。めちゃくちゃ言われてるんだぞ」


 ケルビンは、わずかに眉根を寄せると目を伏せる。そしてそっとハンスの手を肩から外すと、そのままその手で自分の腕を握りしめる。


「──いえ、セルの管理は私が行うものですから……結果的には私の責任でもあるでしょう」


 わずかに声を震わせながら、ケルビンは受け入れるようなことを言う。ハンスはたまらず言い返す。


「いや、なんでそうなるんだよ? 不具合なんだろ? コイツはお前がわざとラビのセルを操作して、殺そうとしたって言ってんだぞ?責任云々の話じゃねえよ」


 どこか諦めたように何も自己弁護しようとしないケルビンに、ハンスは苛立ちを覚える。それは、焦りと疑問に満ちた苛立ちだ。間近に立っていたエヴァも、同じような表情で固唾を飲んで見守っている。しかしラビは止まらない。


「ほら、否定しないってことはやっぱりそういうことじゃん!」

「お前はちょっと黙ってろよ!」


 尚も攻め続けようとしたラビを、ハンスが制止する。声を荒げて振り返ったハンスを見たラビは、一瞬傷ついたような表情を見せる。それを見て、ハンスは思わず口籠った。


「あ、いや……お前が怖かったのは分かる。けど、ケルビンがそんなことする理由が無ぇだろ?」


 ハンスが声を落としてそう言うが、ラビは膝を抱えて顔を埋めると、そのまま何も言わなくなる。完全な拒絶の反応に、ハンスは漏れそうになった溜息呑み込んだ。助けを求めるようにエヴァに視線を向けるが、エヴァも肩を竦めてお手上げ状態だ。ケルビンもそれ以上何も発さず、室内に重い空気が降りる。


「──なあ、いったんみんな、落ち着かないか?」


 緩やかに沈黙を破ったのはアランだった。ラビ以外の視線を受け止め、微笑みを携えながらゆっくりとラビに近づく。そして処置台に浅く腰掛けると、様子を窺うようにして彼に語りかけた。


「ラビ、君も。苦しかったのが怖かったんだよな? けど、助かったんだからもう大丈夫。──誰も君を害そうなんて思ってない。よく考えて」


 穏やかな声でそう言い、ラビの頭に手を置く。まるで小さな子供に対する接し方だが、今のラビには効果的のようだった。アランの行動を許しているようで、その手は振り払われない。


「いったん休もう。カフェテリアにでも行って……君は、チョコレートドリンクが好きだったな。それでも飲んで、まずは落ち着こう」

「……一人になりたい」


 アランの提案をか細い声で断るラビは顔を上げない。しかしアランは尚も彼に優しく語りかける。


「じゃあここに居るかい?」

「居たくない」

「──じゃあ、歩ける?」


 ラビは顔を埋めたまま首を横にふる。するとアランはラビに背を向け、「ほら」と声をかけた。手を後ろにかざし、ラビを背負う体勢をとる。


「連れて行くから、とりあえずカフェテリアに行こう」


 すると、渋々といったかたちではあったが、ラビは俯いたまま素直にアランの背に寄りかかった。アランは「よいしょ」と言って立ち上がると、アランたちを振り返る。


「じゃあ、ちょっと行ってくる」


 そう言うと、アランはゆっくり歩を進めながらリフトへと向かっていった。取り残された三人は呆然とそれを目で追っていたが、ハンスが「…ガキかよ」と呟くと、エヴァがその腰を軽く叩いた。


「──アランに任せましょう。得意でしょ、……誰かさんのおかげで」


 エヴァの嫌味に舌打ちしながらも、ハンスは普段のやりとりに僅かに安堵する。そして、黙ったままのケルビンを見やった。


「お前も気にすんなよ」


 そう声を掛けるが、ケルビンは眼鏡のブリッジを上げると、くるりと踵を返した。


「──セルの具合を見てきます」

「それなら私も……」

「レムと行いますので、どうかお気になさらず」


 ステイシスルームに向かおうとするケルビンにエヴァが続こうとするが、彼は振り返りもせず断ると、そのまま歩き去って行く。声だけは丁寧なのに、その背中は固く強張っている。


 ハンスとエヴァは、思わず顔を見合わせた。





 エヴォリス内にただならぬ空気が漂っていようとも、任務は続行しなければならない。快適な船内設備のおかげで一瞬、危機感を忘れそうになるが、ここは宇宙の真っ只中だ。覚醒直後の混乱で確認できなかったルートや進行状況を確かめるため、ハンスはエヴァと連れ立ってコックピットへ向かった。


 レムのボディが二人を迎え、ハンスは普段アランが使う操縦席に腰を下ろす。窓の向こうには、視界を覆うほど巨大な木星が浮かんでいた。位置を確認すると、無事、木星の公転軌道を捕え、目標ポイントに到達している。


「レム、しばらく位置を保持してくれ。それと、リクスに接近が遅れるって伝えてくれるか」

「了解、ハンス」


 指示を出すと、レムのレンズがハンスを捉え、LEDが点滅した。隣でエヴァがぽつりと口を開く。


「ねえ、セルの異常って……レムは気づかなかったのかしら」


 ハンスはレムを見上げながら肩をすくめる。


「どうだろうな。セルがアラートを鳴らしてないわけだし……」

「まあ、そうね。セルを通してレムが私たちのバイタルを見ているなら、気づかない可能性もあるか」


 エヴァも自分を納得させるように苦笑した。口元だけが微かに上がり、複雑な心境をうかがわせる。


「リクスによれば、許容時間は15時間以内が限界だそうです」

「──了解。再発進予定時刻が決まったら伝えるって言っといてくれ」


 再びレムが通信モードに入り、ひと通りの作業を終えたハンスは深く息を吐いた。


「──でも、そうだよな。俺らって今、レム以前に機械に命を預けてるわけで……不具合でどうこうなったら、たまったもんじゃない」


 エヴァは横顔を木星の渦に向けたまま言う。


「ええ。今ここで木星を見られるのも、過酷な宇宙環境に耐えうるエヴォリスがあってこそ。致命的な不具合が起きれば、すべてが一瞬で”無”になるわ」


 ハンスが横目に様子を窺うと、どこか遠い目をした彼女が映る。


「でも、機械だって完璧じゃない。おかしくなることだってある。……だから私がいて、今のラビには──アランが必要なのかもね」


 エヴァは肩をすくめ、もの寂しげに笑った。ハンスはその横顔から目を逸らし、別の不安に包まれる。


「実際どうなんだよ、レム」


 ハンスの声に、レムのレンズが向けられる。LEDが一瞬イエローに点滅した。


「どの件についてですか?」

「ラビのセルの件だ」

「……セルナンバー3のバイタルログは常に正常でした。ただ、モニター表示と信号に齟齬があったようです」

「信号が遮断されてたわけじゃないのね」

「ええ、そうです」


 エヴァも会話に加わり、レムのレンズはそちらに向く。ハンスは小さく「そうか」と呟いた。たまたまラビのセルだけに不具合が起き、レムは気づかなかった。だが、全員に起こる可能性もある──そう考えると背筋に悪寒が走る。


「ラビは大丈夫かしら」

 エヴァがそっと呟いた。ハンスは木星を見つめながら答える。


「死にかけたとはいえ、なんであんなガキみたいにケルビンを責めたんだろうな、アイツ」

「きっと、昔に何かあったんじゃない?…それで過去の夢を見た、とか。覚醒直後に”戻りたくない”って言ってたし」


 意外にもラビに寄り添うような事を言うエヴァに、ハンスは思わず彼女の横顔を見た。エヴァはそれに気づかない。


「──彼にも、何か抱えているものがあるのかも」

「彼”にも”?」


 自嘲気味に言ったエヴァの言葉に反応し、ハンスはすかさず問いかける。


「……お前にも?」


 ハンスは視線を外さずに見つめる。再び顔を上げた彼女はハッとして眉根を寄せ、無表情を作ろうとしているが失敗したように揺れていた。


「──アランに、許容時間が15時間だと伝えたほうがいいんじゃない?」

「おい!」


 そう言うと、エヴァは腰のベルトを外し、ハンドレールを伝ってコックピットから去ろうとした。ハンスは追いつけず、大声で彼女の背中に呼びかけるしかない。完全に姿が見えなくなると、舌打ちして向き直る。八つ当たりのように腕を上げるが、無重力ではままならない。


「んだよ、結局逃げるのかよ……」


 その姿を、レムのレンズがじっと見つめていた。





 それから一時間を過ぎたあたりでアランから連絡があった。やり場のない感情を発散するためにトレーニングルームで体を動かしていたハンスは、一時中断してイヤホンで彼の声を受け取る。アランの声は穏やかで、その声音からラビの状態が良好だと暗に予想出来た。


「ハンス、とりあえずいったん大丈夫そうだ。ストルムに向かおう」

「アイツ、どんな感じ?」


 身支度を整えながら、ハンスは取り乱していたラビの姿を思い浮かべた。そして通信をつなぎながら、一度シャワーを浴びるために自室へと向かう。アランは少しだけ声を抑えてそれに応えた。


「やっぱり、命に関わることが初めてだったこともあって……過剰に混乱してたみたいなんだ。今は……あんなこと言うんじゃなかったって後悔してるよ。──ケルビンは?」


 アランの言葉に軽く驚きながら、自室へと入る。あれだけ混乱状態だったラビに”後悔してる”とまで言わしめたアランの手腕に、”もはやお前がカウンセラーをやれよ”と思わず心の中で突っ込んだ。


「多分メディカルルーム。とりあえずセンサー問題は結局エヴァにも頼んで解決したみてぇだけど、不安がるようなら次からは隊長のセルを使うことを勧めるって言ってたぜ」


 飛び出すようにコックピットを出た後、エヴァはステイシスルームに向かったらしい。結局レムも含めた二人と一体で調査した結果、セル内の異常検知システムに誤作動が生じ、正常バイタル時のデータがループしていたようだ。エヴァは度重なる信号エラーを懸念して、そのままエンジンコアルームでレムとの接続経路確認に向かった。


 その一連の報告をハンスにしていたケルビンの声は、相変わらず冷静だった。顔は見えずとも、凛としたポーカーフェイスが思い浮かぶ。しかし同時に、エヴァが言っていた「何か抱えてるのかも」という言葉が脳内を翳める。外面は普通に見えても、心までそうとは限らない。特にケルビンはカウンセリングも行う医者の立場なので尚更だ。


「そうか。確かにそれがいいかもな。伝えておこう」

「ああ、頼む。再開なんだけど、二十分後でもいいか」

「了解」


 通信を終えると、ほどなく、アランから航行再開時間の全体メッセージが届く。それを確認したハンスはさっさとシャワーを済ませると、スマートスーツに着替えてコックピット へ向かった。



 五分前にコックピットに着くとすでにエヴァがいて、自分のシートで機器チェックをしていた。入ってきたハンスを一瞥するが、特に手を止めることはない。ハンスはまた拒絶モードに入ってしまったエヴァに内心辟易しながら副操縦席に座った。


 次に入室したのはケルビンだ。ハンスが思わず体を捻って振り向けば、彼は黙してエヴァの後方にある自分のシートに座る。もともと白い顔が蒼白にも見えて、ハンスの心臓が一瞬重い音を立てた。


 そして、ほとんど時間通りにアランとラビがやってきた。アランの後ろに隠れるようにして入室したラビは、彼に促されるようにケルビンの傍に立つと、「ごめん」と小さく謝罪する。


「あんなこと、言うつもり無かったんだ。言うべきじゃなかった。……ごめん」


 態度が様変わりしているラビに身を見開きながら様子を窺っていたハンスの脇を通り抜け、アランが操縦席に着く。アランと目が合うと、彼は穏やかに微笑んだ。


「──いえ。どうか気にしないでください。……本当に」


 ケルビンの固い声が聞こえたので再び振り向いてそちらを窺えば、ケルビンはどこか困ったようにわずかに口角を上げ、ラビと向かい合っていた。そのぎこちなさを不思議に思っていると、隣のアランがその場の空気を変えるように大きな声を出した。


「さ、じゃあストルムに向かおう。ラビ、シートに着いてベルト締めて」

「うん」


 素直に返事をすると、大人しくラビが席に着く。それを確認すると、アランは操縦桿を握ってHUD画面を確認する。


「よし。ハンス、レム、よろしく」


 アランの掛け声で、エヴォリスは接近アプローチに向けて再び推進を始めた。





 リクスからの信号を受けながら、エヴォリスは危なげなくストルム付近へと到着した。接続ラインを繋げ船の位置を固定すると、人員移動用チューブがエアロックに無事接続される。巨大な木星からの圧迫されるような存在感に見張られながら、クルーたちは堅牢な木星ステーション「ストルム」へと移動する。


 アンネルよりも居住区画が狭いストルムは、一度訪れただけであっても充分勝手知ったる場所たり得る。一連の騒動を経たクルーたちはアンネル到着時とは違い、少しだけ歩み寄りの雰囲気を漂わせていた。互いに口数も増え、些細な事で小さく笑い合う。しかしハンスにはそれが、まるであるべき姿を無理に取り戻そうとしているようにも見える。居心地の悪さをそこはかとなく感じながら、黙々とパーソナルケースを抱えて自室とする部屋にPIコアを登録した。


 ヴィクターの死からここまで、立て続けに不運が起こった。そもそも”アランの同行者”として作戦に志願した側面の大きいハンスにとって、OSX-9は単なる目的地でしかなかった。彼の星がどんな特性を持っているのか、人類移住は可能なのか…そんなことはただの任務程度にしか思っておらず、むしろ道中のクルーたちとのやりとりや宇宙空間での生活の方に新鮮な興味を覚えていた。


 しかしそれが破綻し始めると、途端に”一体あの星は何だったのか”と疑問が浮かぶ。それはラビから聞かされた”不自然な自然の特徴”の情報も相まって、ハンスの中で大きく膨らんでいた。

 ──まるで、神殿のような星だった。祈りを捧げるべき神聖な場所で不当な採集を行った。──あまつさえ、それを持ち帰った自分たちに災いが降りかかっているかのように感じる。振り向けばじっとあの星がこちらを見据えているような感覚──それは目前に迫る、目のような渦を巻く木星ですら、その視線を代弁しているかのようだった。


 部屋にいると考えに押しつぶされそうだったハンスは、当てもなくコモンレイヤーを歩き、結局ラウンジに入ってソファに体を預けた。窓を埋め尽くすような木星から逃れるように目を閉じる。そして、瞼の裏に往路でのやり取りを断片的に思い描いていた。


 ふと、音の無い空間に布擦れの気配を感じ、ハンスは目を開けた。入口に白い切れ端が覗いたかと思うと、明るい金髪がチラつく。黙って様子を見ていると、遠慮がちにラウンジを覗き込んだのはラビだった。随分と人が変わったような行動に軽く眉を上げていると、ラビは決心したかのように今度は堂々と入室し、断りなくハンスの向かい側に腰掛けた。


「……あのさ。さっきはその……悪かったよ」


 黙って見守るハンスの耳に、少し口を尖らせたようなラビの声が届く。ケルビンに謝罪していた時の殊勝さはどこへやら、といった態度に、ハンスは自分が気を許されているのか舐められているのか分からずわずかに呆れ顔を浮かべる。そして溜息の後、背もたれに預けていた身を起こした。


「いいよ別に。俺が責められてたわけじゃねぇし」


 ハンスがそう言うと、ラビは視線を彷徨わせながらまだ何か言いたそうに口元を動かす。あまりにその時間が長かったのでハンスが腰を持ち上げかける仕草をすると、途端に「待った!」と制止がかかる。ハンスは再び溜息を吐き、ソファに腰を落ち着けた。


「ったく、何なんだよ」

「これ見て」


 OSX-9付近でサンプルの異様な特性を見せた時のように、ラビは徐に白衣のポケットを探り出した。取り出されたのは石でも他のサンプルでもなく、白磁にコバルトブルーで繊細な花の絵が描かれた古いティーカップだ。その意外性にハンスが思わず顔を寄せれば、ラビは手首を捻って底面が見えるように目の前に突き出す。そこには、大半が掠れてしまった黒い文字が並ぶ。判別できたのは、文字の間に挟まれるようにして記された”RABI”という表記だけだった。


 ハンスが反射的にラビを見やる。するとラビは、カップを手元に戻しながら小さく笑った。


「これ、……行きにアランにもちょっとだけ見せたことがあるんだけど、二百年前ぐらい前の骨董品らしい。僕が子供の頃に暮らしてた家で手に入れて、それ以来ずっと持ってるやつ」

「……へえ」


 突然始まったカップの説明に戸惑いながら、ハンスは曖昧な相槌を打つ。だが回りくどい切り出し方をする理由が察せるような気がして、さしあたって彼の言葉を待つことにする。


「──で、さっき見せたのが、僕の名前。……ハイラントに来た時に、僕自身がこのカップから取って僕につけた名前」


 ラビはそう続け、カップの底を指でなぞった。そして畏ったようにひとつ咳払いをする。


「僕、七歳の時にハイラントに移住する前は、普通に両親のところに暮らしてたんだよ。両親は……なんかまあ、武器商人みたいなことしてて、結構良い住処にいたんだと思う」


 そうして、言葉を選ぶように小さくラビは語り始めた。


 

 ラビは幼少期のほとんど全てと言ってもいいほどの時間を、たった一つの部屋の中で過ごしたのだという。そしてその間彼の世話をしたのは両親ではなく使用人で、彼の世界には自分とその使用人の二人しか存在しなかった。ラビは何も疑問を持つことなく部屋で過ごし、使用人からあてがわれる様々な物品を観察、分解したり、部屋に飾ったり、棄てられた本を読んだりして時間を費やしていた、ということだった。ハンスは話を聞きながら、彼の偏執的な部分の原点を垣間見た気がしていた。


「信じなくてもいいけど、僕、お腹の中にいた時の記憶があるんだ。両親は僕が出来てすごく楽しそうだったんだけど、産まれた途端に嫌になっちゃったみたいでさ。それで、使用人してたマルタって人が僕の世話をしてくれたわけ。……僕はマリーって呼んでたけど、別れた後でその愛称はおかしかったって知ってちょっと恥ずかしかった」


 ラビは茶化すように言って肩を竦める。ハンスは相槌を打つように瞬きをして、黙って彼の話に耳を傾けていた。


「マリーは優しかったんだけど、外は危険だからって部屋から出してくれなかった。なんかちょっと過保護ではあってさ。たまに僕のことを違う名前で呼んだりするし、何で?って聞いたら、生まれてすぐの子供を亡くしたことがあったらしくて……それで、しばらくマリーの言うことを聞いてたんだ。でもある日マリーが外鍵を忘れてった時があって、僕はその時からバレずにちょくちょく部屋を抜け出すようになった。それで、大体自分の家のことが分かってきたあたりで、”コレ”を持ってきたおじいちゃんと会ったんだ」


 そう言ってラビは持っていたカップを軽く持ち上げる。


「後から分かった事だけど、僕の両親は政府機関と繋がってたんだ。武器の素材になるものや物資と引き換えに型落ちの銃とかを受け取って外に流してた。外の住人にはその物資とかと物々交換で武器を渡してたってわけね。政府機関としては外の人間同士が勝手にやりあってくれれば自分のエリアは守られるし、万が一襲われても型落ち武器持った有象無象が、性能の高い武器を装備した軍人に勝てるわけないから、軍の効果で市民を統率させることが出来る。そういう、ひとつのサークルが秘密裏に築かれてたみたいなんだけど……」


 自分の話以外になると途端に饒舌になり、身振りを交えて前のめりな姿勢になるラビ。ハンスは半分耳を傾けながらも、そこに何かしら照れのようなものがあるように感じる。ラビは自身でそれに気づいたのか、言葉を切って乾いた笑いを小さく漏らすと、話を戻す。


「……あ、で、そのおじいちゃんっていうのが、最近家の周りが物騒になったからって、僕の家の噂を聞いて家の骨董品とかを集めて持って来たっていう人だったんだ。パートナーを守るためにも銃が欲しいって。……でも、僕の両親は鼻で笑って追い返してた。僕はそれをこっそり見てて、なんかその骨董品が欲しくなって、他の部屋から盗んだ拳銃持ってその人の後を付けて、物々交換で、このカップを貰った」


 ラビの話を聞きながら、ハンスはほとんど兄の後ろに隠れいていた頃の幼少期を思い出していた。恐らく自分と同じ歳の頃、目の前の少年は全く違う環境で、ほとんど一人で生きていた。そのことに、表現し難い複雑な感情を覚える。そこには、意外性や感心…わずかな嫉妬心があったかもしれない。


「僕のやったことは結局両親にバレたんだけど、両親は歳の割に口が立って行動力のある僕に利用価値を覚えてね。それからは交渉ごととかがあれば呼ばれることもあったんだ。掌返すように優しくなってさ……マリーからも、離された。で、そのあたりでハイラントの外部交流セクター職員が訪ねて来たんだ。──それで、僕は見出された。両親は、提示された見返りにあっさり僕を売ったよ。僕もあの家に未練は無かった。……マリーのことは、ちょっと寂しかったかもしれないけど」


 ラビは再び肩を竦める。


「身ひとつでハイラントに行くつもりだったけど、これだけ何だか手放せなくてさ。どうせだから新天地で新しい僕になろうと思って、”ラビ”って名前を貰ったんだ」


 手に取ったカップを眺めながら、ラビは懐かしそうに微笑む。幼少期の記憶が薄いハンスには、故郷から持ち込んだ物…まして思い出の品などは無い。もちろん、故郷が壊滅して身ひとつでハイラントに行かなければならなかったという理由もある。だがアランには秘密基地から持ち出した本があり、エヴァには、彼女の亡くなった兄との写真があるのをハンスは知っている。ハンスにはほとんど秘密基地の記憶しかなく、両親の顔すらもはや朧げだ。


「──で、今のお前は新しい自分って事なのか?」

「うん。今、そうなった」

「今?」


 ハンスは眉を顰める。ラビはカップを白衣のポケットにしまうと、くすりと笑う。


「──正確には、さっきかな。僕さ、ハイラントに来て色んなものに興味を持てて、色んなことが出来て嬉しくて仕方なかったんだ。だから興味が湧くことなら何だってやったけど、結局、あそこでは僕の能力を認めてくれる人はいても、僕を見てくれる人は居なかった。……っていうのに宇宙に出てから初めて気づいてさ。エヴォリスに乗って初めて、僕はラビになれたって思った。君たちはちゃんと”僕”と話してくれたからね。……でも、僕さっきの冬眠で夢を見たんだ。”もう君の役目は終わったから、元の家に帰っていいんだよ”って言われる夢」


 覚醒直後、ラビは苦しみながらも「戻りたくない」と繰り返した。それは、両親のいる家に帰りたくない、という事だったようだ。掠れる呼吸とともに辛うじて吐き出されていたうわ言は、彼の強固な拒絶の表れだったのだろう。


「そしたら僕はいつの間にか死にかけてて、セルにありえない不具合があって、ああもう僕用済みなのかってパニックになっちゃって……ケルビンはハイラントの人間だし──誰かを敵にしないと、自分を保てなかったのかも」

「──なるほどな」


 ハンスが頭を掻いて、どう言葉を発しようかと考えあぐねいていると、そんな様子を見たラビが、”いつもの彼”らしくにやりと笑った。


「ケルビンを責めたし、ハンスにも怒鳴ったから……二人は気にしてるよねってアランに言ったんだ。そしたら、”君の思っている事を全部話してみたらいい”って助言をくれた。ケルビンは誠実だし、ハンスは優しいから分かってくれるよって」


 その言葉を聞いて、ハンスは舌打ちをして目を逸らす。ラビは軽く声を上げて笑うと、「じゃ、そういうことだから!」と勝手に切り上げて立ち上がった。


「言っとくけど、こういうのもうこれっきりだからね!」


 そう言い捨てて踵を返すラビの背に、ハンスは思わず声をかけた。


「おい、ケルビンにはもう話したのか?」


 するとラビは足を止める。振り返って頬を掻き、煮え切らない表情をして瞳を上に向けた。


「さっき話そうとしたんだけど、その件はもう本当にいいからって突っぱねられた。あなたがひとつも悪くないのは分かってますって」

「ふうん……」


 ハンスはそれを聞いて意外に思う。他人の話はむしろ聞くタイプの人間だと思っていたからだ。しかし考える前にラビが再度話を切り上げた。


「じゃあ、僕行くよ」

「あ、おい」

「時間、ありがと!」


 そう言うとラビは、今度こそ返事も引き止めの声も聞き入れずに小走りに部屋を出て行った。呆然と見送ったハンスは取り残される。ラウンジに入った時に感じていた計り知れない恐れのようなものは、いつの間にか拭い去られていた。




 不穏な姿に見える木星の監視下にあるようなストルム。その雰囲気に呑まれるように恐れに似たものを感じていたハンスだったが、ラビとの会話を経てからはそれもいくらか軽減した。彼も本来の調子を取り戻したようで、翌日には全体的に往路での雰囲気を取り戻しつつあった。しかしハンスは、その日常のさなかに垣間見える小さな異変を見るたびに、再び胸の奥にこびりつくような感情を覚えていた。


 ラビはあれから、何かを探るような「秘密の話」は持ちかけて来ない。逆になぜあの時は熱が入ったように、自分に対して持論を語るような真似をしたのかとハンスは疑問だったが、ラビの過去を聞く事で答えが見えた気がしていた。


 彼は新たな発見に興奮し、ヴィクターの事故でそれが何か繋がっているのではないかと思いつき、自分の中で仮説が積み上がるにつれ、それを吐露せずにはいられなかったのだろう。秘密の共有者に自身が選ばれたことに関してハンスはあまり納得はしていなかったが、その見立ては正しいはずだとほとんど確信していた。


 しかしやはり、ハンスにとって分からないのはエヴァだ。彼女はどうやらあのアランにも何も胸の内を話しておらず、むしろヴィクターの遺体発見時以来、取り乱した様子すら見せていないようなのだ。ハンスはストルム滞在中、アランにそれとなくエヴァの話を出してみた。しかし彼は軽く驚いたような表情を見せ、「気をつけて見てみるよ」と言っただけだった。アランに対しては徹底して不穏な部分を見せないようにしているのか、自分が何か関係しているのか……ハンスには分かり得ないが、彼は”エヴァが何かを秘めている”と思った自身の直感を信じて疑わなかった。


 ハンスはまるで、自分だけがたったひとり煮え切らないものを胸の内に抱えているのかと、もどかしさを覚える。日常が戻りつつある中で、アンネルの時のようにあてもなくストルム内を歩きながら時間を過ごす。そんな時、たまたま彷徨いていたコントロールレイヤーでケルビンの姿を発見した。観測スペースの椅子に姿勢良く腰掛け、首だけを観測窓に向けて静かに木星を眺めている後頭部が見える。いつも抱えているタブレットは伏せられた状態でテーブルに綺麗に置かれており、何か作業の途中であるような様子も窺えない。


 木星の渦や縞模様で埋め尽くされた観測窓を背景にしたその光景は、まるで静止画のようだった。印象的であるはずなのにどこか希薄な、異様さすら滲む。普段は気になればとりあえず声をかけるハンスだが、それが躊躇われたのか、足を止めたままただ少し遠くからその姿を眺めた。


 すると、突然静かにケルビンが振り返り、ハンスと目が合う。思わずハンスが肩を跳ねさせると、ケルビンは気にも止めず音もなく立ち上がり、伏せられたタブレットをいつも通り小脇に抱える。そして、人工重力を感じさせない足取りでハンスに近づくと、冷静な紫の瞳でひたと彼を見据えた。


「何かありましたか?」

「あ、いや別に」


 声もいつも通り冷静だが、ハンスは若干の冷ややかさを感じて曖昧に相槌を打つ。ケルビンは「そうですか」と一言こぼすと、眼鏡のブリッジを上げた。


「──エヴォリスに戻る時間も迫っています。帰還の準備はお早めに」


 ケルビンはハンスの返事を待たず、そう言い残してエレベーターを呼び、その場を去る。取り残されたハンスは、「そういえばあいつも何か……異様に”普通”だよな……」と独りごちた。





 かくして、クルーたちは無事補給を終えたエヴォリスに戻ることとなる。吹っ切れたのか”そう見せている”だけなのかは分からないが、ラビがリクスに明るく別れの挨拶を送り、再びチューブを渡って母船へと帰還する。ハンスはエアロックを抜けると、船体設備やエンジン等のチェックで散っていくエヴァやケルビンと別れ、フェリスへのルート設定のためにアランと連れ立ってコックピットへ向かった。


 ラビはてっきりラボに向かうものかと思われたが、意外にもハンスたちに着いていく形でコックピットへと訪れていた。大人しく自分のシートに収まるとベルトを締め、身体を固定したまま膝を抱えている。作業の傍、どうしてもそのもの珍しい姿が視界にチラつき、ハンスは思わず一度「何か用か」と声をかける。しかしラビは「作業しなよ」と言うだけで、その場から動こうとはしなかった。


 程なくしてルート設定が終わり、冬眠までのチェック待ちとなった。エヴァやケルビンから返事があるまではしばし空き時間だ。アランはひとつ手を叩くと、一度身体を捻って後ろを振り返り、ラビがまだそこにいるのを確認すると、シートごとそちらに回転させた。


「……どうしたんだ、ラビ?」


 アランが穏やかに問いかける。ラビは一度顔を上げるも、視線を少し彷徨わせた後に結局逸らす。


「……ほんとに、セルって直った?流石の僕でもあんな装置のことまでは分からないから、君らの言ってることを信じるしかないんだけどさ」


 ぼそりと小さく呟かれた言葉に、ハンスはアラと顔を見合わせる。そしてアランと同じようにシートを回転させてラビへと向き直った。居心地悪そうなのは、仲間であるはずのクルーを信じたいのに、信じられない気まずさから来るものだろう。ラビが単純な人間だったならこうはならなかっただろうが、彼がそうなり切れない人間だということをハンスは往路で思い知らされている。


「エヴァとケルビンは直ったって言ってるよ。……でも不具合なんて絶対起きねぇって断言出来るわけでもねぇし…突然起こるもんだからな。出発前だってコアの信号遮断があったわけだし」

「ハンス」


 ハンスはラビの性質を考慮し、敢えて現実思考で応えた。しかしアランからは軽く咎めるように呼びかけられて、眉を上げて肩を竦める。当のラビは不満げにするでも怯えるでもなく、眉を顰めていた。


「コアの信号遮断?」


 まるで今知ったと言わんばかりの反応に、ハンスは怪訝な表情を浮かべる。


「いや、聞いてなかったのか?エヴァが言ってただろ。お前その時は居たよな?…アラート直後には音沙汰なかったけど」


 ハンスは記憶を辿る。アラート問題が解決した後、コアに来たのはエヴァとケルビンだ。アランはトーラスで聞いていたがすぐにリブートが完了したのでストレージを確認しに行ったと言っていた。そしてヴィクターの件があり、事後説明の時にこちらからの連絡を受ける形で初めてラビは姿を現した。そして諸々の報告を受けた後に、エヴァから信号遮断の件は聞いているはずだった。しかも彼は、ハンスが改めて「どこにいたんだ」と聞いた時にはそれに答えず、はぐらかしている。


「……聞いてなかった」


 罰が悪そうにラビは言った。さすがにラビの様子まで逐一覚えていないハンスは、その返答に思わず「はあ?」と声が出る。その隣でアランが、じっとラビに視線を置く。ラビはそれを受けて一度口元を引き結び、やがて苦虫を噛み潰したような顔で口を開いた。


「だって、ヴィクターにあんなことがあったとはいえ、……帰還するなんて、って思っちゃったから。それが分かった瞬間、なんか……別のこと考えてた」


 さらに小声でラビはそう言うと、拳を握って顔を上げる。


「でもそれについては今はいいじゃん。信号遮断って何が原因?」


 再びまともに答えないラビに対して舌打ちが出そうになるのを堪え、ハンスは小さな溜息で誤魔化す。


「原因は不明。エヴァは、OSX-9に向かった探査機が不具合起こしてるって事前報告もあるから関連あるかもって言ってたけど」

「確かにそんな報告はあったけど、でも……」


 ラビは顎を摘んで俯く。頭の中では思考が渦巻いているであろうことが伺えて、ハンスはそれ以上何も言えなくなる。思わず隣を見ればまたもやアランと顔を見合わせる羽目になり、二人は眉を上げた。


「ええと、ラビ……?」

「──ねえ、僕やっぱりセルに入りたくない」


 アランが控えめに呼びかけると、ラビは突拍子もない事を言い出した。確かに命に関わる不具合とかち合ったとはいえ、本気で言っているのだとすればかなり非現実的だ。ラビにしては”らしくない”発言であり、現実よりも感情が勝っている状態なのがわかる。ハンスとアランは再び目を合わせると、ハンスは顔を顰め、アランは苦笑した。


「分かってると思うが無理だぞ。俺らはセルの外では高速噴射移動に耐えられない。あと数ヶ月で地球に帰還するには高速噴射以外あり得ない。イオンプラズマエンジンでのんびり移動してたら俺らはこの船の中で寿命で死ぬことになる。……その前に燃料と食料が尽きて宇宙の藻屑になるんだろうけど」

「……まあ、分かるよ。あんなことがあったんだし、そう思うのは仕方ない。ただ、地球に無事帰るためにはどうしてもセルに入る必要があるんだ。エヴァとケルビンを信じよう」


 ハンスとアランが口々にラビを説得するが、彼の表情に変化は無かった。普段の調子を取り戻した様子ではあったが、セルに入るとなると話は別のようだった。


「ヴィクター隊長のセルでも駄目かい?」


 アランが続け様に聞くも、ラビは返事をしなかった。まるで、自分をコントロール出来なくなっているような様子だった。──「大丈夫」と言いたいのに言えない、というような。するとアランはそんなラビを見て微笑み、「よし」と一声上げると、懐から端末を取り出して操作を始めた。ほどなくしてハンスやラビの端末が通知音を鳴らす。ハンスが画面を確認すれが、”作業が終わり次第、全員コックピット集合”という全体メッセージが表示された。


「何する気だ?」

「まあまあ」


 ハンスとラビが訝しむ表情を浮かべるなか、アランだけは穏やかに微笑んでいた。





 作業を終えたエヴァとケルビンは、程なくしてメッセージに従ってコックピットに現れた。二人ともアランの突然の連絡に戸惑っていたようだが、彼の表情が穏やかなのを確認すると明らかに安堵した様子を見せた。どうやら何か問題でも生じたのかと微かに思っていたらしい。クルーたちはシートを回転させて向かい合って座る。そう指示したのはアランで、ひとまず二人は素直に指示に従った。


「よし、揃ったな」


 縁を描くように向かい合ったクルーをぐるりと眺め、アランは満足そうに微笑む。そして、注目を集めるように軽く両手を広げて見せた。


「一体、何なの?」


 とうとうエヴァがそう言ってハンスに戸惑いの視線を向ける。何も聞かされていないハンスは肩を竦めて首を小さく横に振った。


「フェリスへのルートも決まって、俺らはこれからセルに入って冬眠しなくちゃならないんだが…あんなことがあって、ラビが怖がっていてね」


 アランの発言に、ラビは思わず焦ったようにアランを睨む。しかし何か言う前にエヴァとケルビンが神妙な面持ちで彼を見やると、縮こまったように視線を下げて黙り込んだ。当のアランはしれっとそれらを受け流すと、さらに続けた。


「そこで、ひとつ提案があるんだ。──レム、おいで」

「はい、アラン」


 徐にアランが体を捻って振り返り、コックピットのコンソールにはめ込まれているレムのボディに声をかけた。するとレムはすんなりとそれに応え、ボディが機械音を立てて軽く持ち上がる。そしてコンソールの下を潜り抜けるようにして着脱動作を終え、アランとハンスの間までやって来た。アランはその黒い半透明の頭を撫でるようにして手を置くと、レムのレンズがわずかにアランに向けられる。その様子を見ている他のクルーたちの脳内には疑問符しか浮かばない。


「もともと俺らはセルの性能を信じて冬眠してたけど、そうじゃなくて、レムを信じて命を預けることにしないか?──クルーとAIという関係性じゃなくて、”友人”として」


 アランの発言内容は、突拍子もなく意表を突くものだった。コックピット内の空気が瞬間的に停止し、レムがクルーたちを見回すレンズの音だけが控えめに辺りに響く。我に返ったように発言したのはラビだった。


「──何言ってんの、アラン?」


 心底戸惑ったようなラビの表情に、ハンスは思わず吹き出しそうになる。彼も漏れなくアランの発言には驚いたが、慣れているようで立ち直りは早かった。程なくして彼の耳には、エヴァの溜息の音も入り込む。


「いや、この何でも出来るスーパーフレンドのレムなら、ラビも信頼出来るんじゃないかと思ってな。レムと俺らはもう、友人と言っても過言じゃないだろう?」

「えー……、うーん、どうなんだろう……」

「ラビ、心外です。わたしはあなたとはラボでも散々お話しを──」

「ああー!! ストップストップ! 友人っていうのはそうだと思ってるよ! でもセルが不具合を知らせないんじゃ、結局レムに頼んでもさぁ……」


 アランの問いかけに煮え切らない反応をしたラビに対し、レムが何か言おうとしたのをラビが大声で制止する。あまりの声量に思わず目を伏せたハンスたちだったが、その後すぐ尻窄まりになる声に呼応するように目を開く。ラビは感情が忙しく、今度はすっかり眉尻を下げて困り切った顔をしている。


「だからレムに頼むんだよ、ラビ。セルの情報で判断するんじゃなくて、”俺たちの様子をしっかり見ててくれ”ってね──友人として。その代わり俺らも友人として、レムにしっかり感謝の意を示すこと」


 ラビがレムと見つめ合うなか、ハンス、エヴァ、ケルビンはひっそりと目を合わせた。アランの言動は、まさしくラビに対する気休めでしかなかった。AIに感情的な繋がりを求めたところで彼らは性能通りにしか動けない。しかし、ここはラビをどうにか説得仕切るほかなく、アランはその切り口としてレムを使っている。レムの意味深な発言もあったが、もともとラビはレムと距離が近かった。そんな彼には確かにうってつけの方法なのかもしれない。


 三人は視線を流し合い、まるで以心伝心のように互いの胸の内を確かめ合った。そして、黙ってアランに協力することにした。


「レム、どうかな?頼めそうかい?」

「ええ、もちろんですアラン。お任せください」


 アランの問いかけにレムは即答する。アランが笑ってラビを見やれば、彼は感情を押さえ込むように口元に力を入れて小さくひとつ頷いた。するとアランも首肯し返してから再びレムに問いかける。


「レム、手を出せるかい?」


 すると、ボディの側面から機械音と共に、骨組みのようなアームが現れた。アランが自らの手を差し出すと、レムも四つ又に分かれた先端部分をそちらに向ける。するとアランはそのうちの一本を握って軽く振った。


「改めて友人の証に握手だ、レム。推進しながらですまないが冬眠中、俺たちの事を頼むな」


 そう言って、ゆっくりと手を離す。レムは握られたアームの先端をレンズに寄せ、確認するように回転させる。まるで初めての出来事に戸惑っているかのような動作だ。


「了解、アラン。わたしたちはすでに友人ですよ。あなた方がエヴォリスに来たその時から」


 レムのレンズがアランを見上げる。するとアランはハンスたちにも手を差し伸べた。


「さあレム、みんなとも」


 無重力状態のコックピットで満足に動けるのは、磁気を帯びた足を持つレムだけだ。レムはシートに座ってベルトを締めているクルーたちの方へレンズを回すと、ハンスの方から順に手を差し伸べて回った。


「よろしく、ハンス」

「──……ああ、頼んだ」

「はい、お任せください」


 ハンスは調子を合わせながらも、その光景に呆気にとられていた。まさかロボットと友人関係を結び握手をするなど、初めての体験だ。レムはレンズ脇のLEDを点滅させながら、エヴァ、ケルビンと順に握手をして回る。エヴァもケルビンも、ハンスと同じような表情で彼と握手を交わしていた。


「よろしく、エヴァ」

「機械と友人なんてなったことないから、うまく出来るかわからないけど」

「問題ありません、これからですよ」


 戸惑うエヴァに、レムは頼もしげに応える。


「よろしく、ケルビン」

「……え、ええ、引き続き、よろしくお願いします」

「恐れる事はありませんよ」


 ぎこちないケルビンにも、レムはポジティブに対応した。

 そして最後にレムはラビの元へ。ラビはゆっくりとレムの差し出されたアームを握る。


「ご安心を、ラビ。わたしを信じてください。必ずあなたがたを無事に地球までお連れします」

「──うん、いつもありがとう、レム」


 完全に不安を拭い去ったわけではないようなものの、ひとまず迷いは捨て去ることが出来たようだ。ラビは目元に入っていた力を抜き、小さく笑っていた。


「よしじゃあ、気が変わらないうちに冬眠してしまおう」


 アランがそう言ってベルトを外してシートから体を解放する。それに倣うかたちで早速冬眠準備に入るため、クルーたちは順にコックピットから退出する。レムは再びコンソールへ戻ると、そんな彼らを見送るようにレンズを回転させていた。


 ドアを潜る際、ハンスは掌をまじまじと見つめるケルビンの前をすり抜けようとして止まる。見下ろしていることでわずかに伏せられて見える瞳にまるで生気が感じられないような気がしたのだ。


「ケルビン、行くぞ」

「──そうですね」


 顔を上げると普段通りだったので、ハンスは気のせいだったかと思い直す。先を譲って見る後ろ姿や足取りにも不自然さは無い。杞憂だったかと心の中でひと息つきながら、後を追うようにしてメディカルルームへと向かった。


 やがて、木星の一端から流星のように、小さな光が飛び出す。瞬く間に木星から距離を取り、小惑星帯を縫うように軌道を描く。エヴォリスはしっかりと前を見据え、音のない宇宙空間を駆け抜けていく。その腕の内に大切な仲間を抱えながら、ただ一心に。





 ハンスは、徐々に脳が意識を取り戻すような感覚を覚えたかと思うと、次の瞬間にはもう目を開いていた。セルの蓋が解放され、ステイシスルームの天井が視界に映る。まだ薄暗く調光された室内で瞬きを数度繰り返し、ゆっくりと身を起こす。セルは一つを除いて既に開かれている。ラビは結局ヴィクターのセルを使用したため、今回閉じられたままなのは元々ラビの使用していたセルだ。


 周囲を見渡せば、ラビやエヴァ、ケルビンはまだセルに横たわっていた。念のためそれぞれのモニターで”PENDING”や”ERROR”の文字が無いか確認し、全て正常に稼働していることに安堵する。アランはもう起き出していて、ケルビンのデスクで端末を立ち上げているのがガラス壁越しに見える。どうやら現在地を確認しているようだ。珍しく覚醒の早かったハンスは、ゆっくりとアランの元へ向かった。


「ああ、おはようハンス」

「ああ。今回は何も問題無かったみたいだな」

「──レムを信じて正解だったな」


 アランはそう言ってくすりと笑う。画面を見れば現在地も予定通り、フェリスから約1万キロ離れた位置を示していた。やがて、ラビやエヴァも覚醒し、珍しく最後に体を起こしたのはケルビンとなった。無事に目覚めることが出来、歓喜のあまり天井に向かってレムに礼を告げるラビの声が開け放したドアから聞こえる。そんな彼に苦笑しながら、エヴァもゆっくりと地に足をつけて立ち上がり、ハンスたちの元へ歩き出した。


 ふと、セルに腰掛けたまま額を押さえるケルビンに目を止めたエヴァが足を止めた。その姿になんとなく目を向けたハンスもそちらへ向かう。ケルビンは体調や呼吸が落ち着かないというわけではなく、単純に肉体疲労が蓄積しているようだった。


「……すみません、私は元々簡易冬眠で眠っていますから、みなさんよりか少し肉体の消耗が激しいのです。しばらくじっとしていれば元に戻ります」

「でも、今まで別に大丈夫そうだったのに」


 いつの間にか自分のセルから立ち上がっていたラビも寄って来て、眉を顰める。すると、隣にいたエヴァが彼の肩を軽く叩いた。


「もう何度も冬眠を繰り返してるから、疲労が蓄積したのかも。──あっちに移動するなら、肩を貸すわよ」


 エヴァはそう言って手を差し出すが、ケルビンはやんわりとそれを制した。


「いえ、ここで」

「──そう?」


 ケルビンはひとまず立ち上がる前にセルで回復を待つようだ。エヴァやラビが後ろ髪引かれるように退出するなか、ハンスはドアを覗き込むようにして彼に声をかけた。


「なんか飲むもんとかいるか?」


 ケルビンは黙って首を横に振る。ハンスは密かに一瞬だけ天を仰いだ。


「じゃあ必要だと思った時動けなかったら呼べよ」


 それだけ言い残すと、ハンスも彼を置いて医療室の方へと向かう。そこではエヴァとラビがバイタルスキャナーを使ってメディカルチェックを互いに行っていた。ハンスも途中からそれに混ざる。アランはもう終えたということだったので、三人はそれぞれ自分のデータをスキャナーに残した。ケルビンが回復後にそれを見て、問題があれば後から声がかかるだろう。どのみち彼が回復するまでは動けないため、ハンスたちは各々回復に時間を当てることにした。ストルムの時と同様、レムを介してフェムと通信して接近までの限界時間だけ共有する。船はしばらく惰性運動のまま待機させる指示を出して、ハンスたちは一段落つくことにした。


 後から行く、と言ったアランをメディカルルームに残し、ハンス・エヴァ・ラビの三人はリフトに乗り込んだ。ラビは運動がてら歩いてラボに向かうと言って二人と別れる。冬眠を無事乗り越え、すっかりいつもの調子を戻したラビの後ろ姿を、ハンスとエヴァは並んで見送った。


「──なんか、感慨深いわ」

「何が?」

「昔のアランを見ているようだった」


 エヴァは、回廊のずっと先を眺めながらぽつりと言った。ラビの姿がラボへ消えた後も視線をそのまま残し、まるでその残像を追うかのように軽く目を伏せる。ハンスもその視線を追って遠くを見ようとしたが、すぐに諦めて窓側の壁面に寄り掛かった。


「……さっきの?」

「そう、冬眠前の。──アランは昔から、あんたが私に言い負かされて泣いたりすると必ずああやって元気付けてた。私が兄さんと会えなくて落ち込んでる時も同じ」


 夢心地のような、ぼんやりとした語り口調でエヴァは言った。


「変わらない人って、存在するのね」


 エヴァはそう言ってハンスの隣に立ち、窓の外を眺めた。外には暗い星空が広がっている。巨大惑星付近と違い、随分と落ち着いたエリアまで戻ることが出来た。視界を埋め尽くす惑星や、土星の環のような目を疑うほどの圧倒的な光景は無くなり、今は角度や場所によっては姿を消す火星がぼんやりと浮かぶのみだ。その雰囲気に呑まれてか、エヴァは冗舌になっているようだった。


「私、変わらないことっていけないことだと思ってた。人は変わるものだから、変わるべきだって。──アランを否定してるわけじゃないのよ。彼は昔から大人だったし。でも、ああいう不変的なものって、安堵感を与えてくれるんだって、彼を見ていると……そう思うの」


 ハンスは口を挟めばまた逃げられるような気がして、黙って彼女の言葉に耳を傾けた。視線もなるべく合わせずに、ただ腕を組んで動かずそこにいた。エヴァはそんなハンスを意識しているのかしていないのか、ただ外を見つめている。


「私もあんたも、変わっちゃったから……アランは戸惑ったでしょうね」


 エヴァの言葉に触発されて、ハンスは過去を思い出す。まだ同居しているときにまずエヴァが変わった。仕事についたという切っ掛けもあったのだろうが、あれだけアランに懐いていたのにほとんど音沙汰が無くなった。声をかけてもあまり反応がなかったからなのか、アランは時折ハンスに「最近エヴァと話してるか」などとやんわり探りを入れるような発言をするほどだった。しかしその後間もなくしてハンスも同居を解消したので、今になって考えればアランは孤独を感じたことだろうとハンスは思う。


 エヴァも自分も、大人になるためにはアランから距離を取る必要があったのかもしれない。それほど彼の世話になりっぱなしだった。本人が世話を焼くことを厭わない性格なので、自ら出ていくしか無かったのだ。


「──あ、噂をすればアランじゃない?」


 ふと、エヴァが窓の外を指差す。振り向いてその指し示す方向を見れば、移動ポッドが稼働しているのが見える。窓側の側面を通過するポッドはラボを越え、その先の方へと姿を小さく変えていく。一瞬見えただけの後ろ姿だったが、濃いブラウンの短髪と背丈から、あれはメディカルルームから退室したアランだと分かる。彼が向かう先は、ユーティリティやストレージモジュールが並ぶエリアだった。


「ケルビンは大丈夫なのかしら」


 彼が退室したということは、ケルビンは今メディカルルームに一人で居ることになる。それを思ったのか、エヴァが呟いた。


「気になるなら断られても付いててやればいいだろ」


 思わず漏れた呆れたようなハンスの声に、エヴァは力の抜けた顔から一転して仏頂面となる。ハンスは勢いよく合わされた視線に若干身を引きながらも、物怖じせずに対峙した。


「……医者の彼にどうにかなられても困るから、やっぱり様子を見にいくわ」


 エヴァはそう言うと、足早にメディカルルームの方へと戻り、リフトを呼び出して床下に消えていく。ハンスは壁に寄り掛かったまま俯いて、大きな溜息を着きながら首の後ろを雑に掻いた。そして気を取り直すようにその足を、エヴァとは反対方向のカフェテリアに向ける。気付けのコーヒーでも口にしたい気分であった。




 ハンスがカフェテリアに足を向けてコーヒーを用意していると、ラボに行っていたはずのラビが勢いよく入って来た。今度はポッドを使用したらしく、息切れはしていない。ラビは入室するなりハンスを発見すると、ぴたりと止まって眉を持ち上げた。


「あれ、ハンスじゃん。……エヴァは?」

「……ケルビンとこ」

「え、何かあったの?」

「違ぇよ。アランがメディカルルームから出てったから」

「ふうん?なんだ、一瞬また喧嘩みたいなことしたのかと思った。前もここでなんか言い争ってたじゃん」


 ハンスとやりとりをしながら、ラビは着替えた白衣から例のカップを取り出してチョコレートドリンクを手際良く用意する。ハンスは往路で食事をしながらエヴァと軽く言い争った記憶を思い出した。あの時は途中でラビが入って来て、ひとつ分空いた自分とエヴァの間の席に堂々と座って食事を始めたのだ。あの頃のハンスは率直に、なんて空気を読まないやつなんだとラビを評していた。


「別に言い争ってなんかねぇよ。あの時も」

「そうなの?あの感じが日常会話だとしたらちょっとドン引きって感じだったけどね」


 先にハンスがカウンターに腰かけると、そのひとつ空けた隣にラビは座った。てっきりすぐに出ていくと思っていたハンスは、不思議に思いながらもカップを口に運ぶ。冬眠を乗り越えたラビの物言いは無事、順調に遠慮が無くなってきている。そのことに安堵すべきか辟易すべきか、ハンスは脳内で軽く葛藤した。


「で、アランはコックピット?」

「……いや、ストレージとかあっちの方に向かってったのは見た」

「へえ、往路じゃコックピットの番人かってほどあそこに入り浸ってたのに、なんか変わったね」


 つい先程エヴァと”アランは変わらない”という話をしていたからか、なんとなしにラビが言った”変わった”という正反対の言葉が耳にやけに残る。するとそれに呼応して、ハンスの脳はフラッシュバックするかのようにいくつかの映像を映し出した。


 ヴィクターの遺体発見時、その後の点検作業時、そして今──ハンスが見ただけでもアランは度々ストレージ方面へ足を向けているようだった。そしてそれは、往路では見ることのない姿だった。一体なぜ──単なる偶然か? とハンスがぼうっと考えていると、返事をしないハンスを見かねたラビが「おーい」と返事を促した。


「急に黙るのやめてくれない?」

「──いや、確かにそうだよなと思ったんだよ」

「は、何が?」

「アランのことだ」


 ラビは小首を傾げる。自分の言葉を意外にも重く受け止めたハンスに対し、若干の戸惑いが見える。ハンスはラビの方に体を向けると、カップをカウンターに置いて頬杖をついた。


「気のせいかもしれないが……復路になってからよくストレージの方に行くんだよ、アイツ。それがちょっと、気になってな」

「──ま、ストレージとかユーティリティなんて僕らあんまり用事無いもんね」


 ラビはカップを傾けて頷きながら、しばし思考を巡らせた。そして、すぐに思いついたように小さく「あ」と声を漏らす。ハンスに向き直ったラビは、ニヤリと笑みを浮かべていた。


「ねえ、もしかしてアラン、内緒でOSX-9から持ち込んだ物でもあるんじゃない?」

「はあ?」


 ハンスは、ラビの意表をつく発言に間の抜けた声を上げた。ラビの言うように、アランが秘密裏に何かを持ち込むんでいたと仮定するには障害が多すぎる。何故ならOSX-9から持ち込んだものはまずイージスで除染作業を経てエヴォリスに送られる。その際のチェックを潜り抜け、ラビのホワイトルームという最大の難関も突破しなければならない。もちろんスーツに潜ませていたとしてもエアロックで弾かれるため、死角はほぼ無いと言ってもいい。それら全てを織り込み済みのはずのラビが、そんな発言をするのは意外だった。


「いや、無理だろ普通に」

「分かんないよ?僕らも気づかない抜け道があるのかも。アランも一見無害に見えて、実は策士だったりして」

「お前、散々世話になっておいて……」

「あはは、それとこれとは話は別だって。ちゃんと感謝はしてるよ。……でもあれで策士タイプだったら、ちょっとすごいなって思ってさ」


 ラビは面白そうに笑いながらそう言って、カップの中身を飲み干す。席を立ってキッチンで軽く水洗いしたカップを白衣のポケットに突っ込んだ。


「じゃ、僕行くね!まあ、気になるなら本人に直接聞いてみたらいいんじゃない?」


 まるで用事でも思い出したかのようにラビはそう言い残し、手を振ってカフェテリアを小走りに出ていく。ハンスは呆気に取られながら溜息を吐き、自分もコーヒーを飲み干してカップを片付けた。


 そのままじっとしている気分でもなく、回廊を歩く。緩やかなカーブを描く通路を進みながら、頭の中では行き先ではなくラビとの会話を反芻する。ラビは、アランが策士ならすごいと面白そうだったが、あの場にエヴァが居たなら彼女はすかさず「そんなはずはない」と反論しただろう。ハンスは、ちょうどその中間の感情の中にいた。面白いとまでは思えないが、もしアランが自分の知らない顔を持っていたら──あり得ない話ではない。もちろんあれはラビの冗談としか受け取れないが、もし違う顔を持っているのなら、その一面を、少し覗き見たい気はしていた。


 ハンスの足は自然と、ストレージの方に向いていた。ゆっくりと進むうち、視界の先に影が見えて思わず足を止める。廊下の真ん中に立ち尽くしているアランの姿を発見したのだ。反射神経で思わず内側の壁に張り付き、彼の視界から極力外れるような動きをとる。しかし幸い、そっと窺ってみてもアランがハンスに気付くことはなかった。ハンスからはじっと床を見下ろすアランの横姿が見えるのみだ。その床には、ストレージへと繋がるリフトのハッチがある。


 真っ直ぐ立ち尽くし、ただハッチを見下ろすアランはどこか奇妙にも映った。まさに寸前まで考えていたアランの”知らない一面”を、文字通り覗き見ているような状態だった。息を潜めた自分に驚きながらも、ハンスはただ動かないアランを注視した。


 いくばくか時間が経った頃、アランが不意にハンスの方へ首を傾けた。それまで無表情だったものが、ハンスの姿を認めたことで穏やかに変化する。そして、そのまま歩み寄ってくるアランに対してハンスは、半歩後ずさった。


「──あ、兄貴……?」

「どうした、ハンス?」


 思わず、ハンスの口から昔の呼び方が漏れる。アランはハンスの様子を不思議がりながらも、いつも通り声を掛ける。ハンスがアランを”兄貴”と呼ぶのを勝手にやめてからというもの、癖で誤って”兄貴”と呼びかけてしまうハンスをアランはその度に軽く揶揄っていた。「”兄貴”はやめたんじゃなかったか、ハンス?」と、そう言っては懐かしそうにするのが常だった。しかし、ハンスは久しくこの言い間違いをしていない。それだからか、アランは微笑むだけだった。


「いや、こんな所で何してんのかと思って」

「それはお互い様なんじゃないか?」


 アランはそう言ってハンスの肩を軽く叩く。その手を視線で追いつつ、ハンスは「ああ」と曖昧に応える。


「俺はコックピットへ行くけど、お前はどうする?」


 アランはいたって普通にハンスと接している。ハンスは考えを振り払うように軽く首を降った。


「俺は、……いったん部屋に戻る」

「部屋に? ……だとしたら通り過ぎてるが、呆けたまま歩いてたのか?」

「……そうかもな」


 アランは揶揄うように笑うと、「じゃあ」と一言残して近場のポッド乗降口へと向かって行く。ハンスはそれを見送ると、アランの乗ったポッドが中央コアのドッキングハブに消えるまで、静かに視線で追った。




 部屋に戻ると告げたハンスだったが、結局その足で向かった先はメディカルルームだった。リフトから降りて来たハンスに気づき、カウンセリングスペースの椅子に座っていたエヴァが振り向く。ハンスは片手を上げて軽く声をかけた。


「よ。様子はどうだ?」


 視線を医療室の方に向けると、ケルビンがベッドに腰掛け、スキャナーのモニターでメディカルチェックのデータを確認していた。冬眠用のスーツは脱ぎ、いつもの白衣姿に戻っている。動作には問題はなさそうだ。


「結局様子見に来るんじゃない」


 半眼でハンスを見据えるエヴァの視線を肩を竦めて躱し、応えを求めるようにケルビンの方を見やった。


「先程も言った通り、単なる肉体疲労ですから」


 ケルビンはそう言って眼鏡のブリッジを上げる。すると、傍のエヴァが横から付け加えた。


「今はもう回復したとはいえ、疲労の蓄積なら少し長めに休んだ方がいいと説得していたところよ。彼、自分の事で任務を滞らせるようなことは出来ないって言い張るから」


 いかにもケルビンが良いそうなことだ。思わず溜息を漏らしたハンスは、それを誤魔化すように首の後ろを雑に掻いた。


「あー、今回は別に焦らなくてもいい。何なら丸一日休んでも問題ないぜ。少なくとも明日の夜に減速開始すれば、火星の静止軌道には問題なく入れる計算だし」


 ハンスは気休めの言葉を彼に投げるが、納得しきる説得には至らなかったようだ。ケルビンは複雑そうにわずかに眉間に皺を寄せていた。


「ですが不測の事態を考えると、何事も前倒しに動く方が安全です。ですから──」


 尚も抵抗するケルビンの言葉を遮るように、ハンスの端末の通知音が鳴らした。「悪ぃ」と一言、懐から端末を取り出して画面を確認する。ラビからのメッセージのようだった。ちょうど良いとばかりにハンスは小さく笑いを漏らすと、ケルビンに向かって端末を小さく掲げてみせた。


「ラビからお呼び出しだ。──まあアイツも何だかんだあった後だし、ちょっくら相手してくるよ。だからお前もこれを機会に休んじまいな」


 ハンスはそう言うと、来たばかりのメディカルルームを後にする。背中越しに聞こえるエヴァの「何しに来たのかわからないわね」とケルビンに投げかける声を背に、ハンスはポッドを呼び出し、行き先をラボへと向かった。





 ハンスがラボに入るのは初めてだった。メディカルルームと同じような白い空間を見回しながら中央に置かれた実験台に近づく。メディカルルームのようにガラス壁で遮られたホワイトルーム、壁面を埋めるように積まれたサンプル保管庫、そして奥の壁に設置されたモニターと、その下にはカウンターのようなデスク。ケルビンが管理するメディカルルームと圧倒的に異なるのは、その散らかり具合だ。冬眠を挟むたびに整理と散乱を繰り返しているのがありありと分かる。モニター付近やデスクに散らばる謎のスケッチ、形の異なる何台もの顕微鏡、実験道具……視界を埋め尽くすような情報量にハンスは目眩を覚える。


「あ、ハンス!早く早く」


 デスク前の椅子に座っていたラビがハンスに気付いて振り向き、大ぶりな動作で手招きする。呆気に取られながら周囲を見渡しつつ、ハンスは招かれるままに彼の元へとゆっくり近寄った。


「お前これ、ちゃんと管理出来てんのか……?」

「どこに何があるのかぐらいちゃんと覚えてるよ。それよりこれこれ!」


 小言をあしらって、ラビは目の前のモニターを指差す。画面に移されたウィンドウには、細かい英数字の文字列がずらりと並んでいる。ハンスは思わず目を細めて顔を寄せた。


「これ、ストレージの搬入ログか……?」

「そう。でさ、──ほらここ。イージスからの移送ログを遡ってみたんだけど、謎の”医療廃棄物”があるんだ」


 ラビが指し示したのは、食糧や生活関連の道具、機器、医療道具…そんなものに混じって並んでいたクライオケースのログだった。”医療廃棄物”とタグ付けされ、レムの監査を通ってコードとラベルが追加されている。


「これがどうしたんだよ?」

「ええ? 変だと思わないの?」

「……単なる医療廃棄物なんじゃねぇのか? 文字通り」


 ラビは微妙な反応を示すハンスに盛大な溜息を吐くと、肩を竦めてやれやれと首を横に振った。そのラビの態度を見たハンスの眉間に、盛大に皺が寄せられる。


「あのさあ、クライオケースに入れる医療廃棄物って何? 普通バイオパックとか小型コンテナに入れるものだよ。大体、ケルビンはイージスで特殊な医療行為はしてないし、そもそも医療廃棄物っていう項目じたいがちょっと怪しいと僕は思ったんだけど」


 ラビの最もな意見に、ハンスは眉間の皺はそのまま片眉を上げた。


「じゃあ、ケルビンが怪しいモン持ち込んでるって?」

「違うよ! もしケルビンが怪しい物をクライオケースに入れて秘密裏に持ち込むなら、もっとそれらしいタグ付けして完璧に偽装するはずだよ」

「うーん、まあ……」

「それに、そもそも自分の領域に関するタグ付けすらしないと思う」

「あのな、勿体ぶらずにさっと言えよ。面倒な奴だな」

「……ねえハンス、もしかしてもうさっきの会話、忘れたの?」


 ヒントを小出しにするようなやり方が焦れったくなったハンスが投げやりに応えると、ラビは困り果てたように眉根を下げ、肩を落として首を垂れた。言われたハンスが顰めっ面で目を伏せて思い出そうとする素振りを見せると、顔を上げて声を潜める。


「アランがストレージに行く理由。──これかもしれないよ。見にいってみようよ」


 まるで悪戯の共犯者に誘うような物言いだった。ハンスは会話の内容を無事思い出しつつ、ラビの真意に気付く。彼は恐らくカフェテリアでの会話から何となしにストレージのログを見て、気になるケースを発見してしまったのだ。そして今、アランの名を利用して、まさにハンスを共犯者にしようとしているのだ。


 ハンスは「一人で確認しに行けよ」とも言えたが、結局共に確認しに行くことにした。先刻ケルビンに対して自分で言った通り、色々あったラビに付き合ってやろうと思ったのだ。


 二人は早速連れ立ってポッドに乗り込み、ストレージへと向かう。ストレージは、普段ほとんどクルーが訪れない場所だ。普段船内を歩き回ることの多いエヴァやケルビンが立ち入るのも、エナジーリザーブなどの点検関連の場所のみで、倉庫部分までは入らない。備蓄関連はレムに頼めば自動的にサプライ作業をしてくれるため、いちいち倉庫にまで物を取りに行く必要が無いのだ。


 薄暗い倉庫エリアにハンスとラビが一歩足を踏み入れると、自動的にライトが調光されてすぐに視界がクリアになる。無重力対応ラックに整然と並べられた各種ケース。明るいのに静かで、同じような景色が続く色の無い空間は、不気味さすら覚えるほどだった。


「え、えっとー……セクター06の……はあ、なんかもうきっちりし過ぎてて気持ち悪くて落ち着かないよ」


 ラックのナンバーを確認しながら先頭を歩くラビが恐る恐る倉庫を進む。後に続くハンスを含め、二人分の足音がやけに響く。時折地面から唸るような機械音がするのは、床下に各モジュールを繋ぐサプライ用の小型リニアレールがあるからだろう。そのためオートサプライ機能が働くたびに、どこかしらでひとりでに音が鳴っているのだ。


「ラック9、スロット一、二、三……あった、六番目」


 人一人分の通路を何度が曲がりながら進み、奥まった部分に来たところでラビは足を止める。ちょうど二人でも手の届く高さに、想像よりも大きな直方体のケースが固定されていた。長辺は身長163センチのラビとさほど変わらない、そこそこ厚みのあるダークグレーのケースだ。二人は思わず顔を見合わせた。


「……結構でかいな」

「うん。ますます医療廃棄物って何?って感じ」


 同調し合いながらもケースの固定を解除し、両端を二人で持って地面に下ろす。ラビは小柄ではあるが、男二人で持ち上げても結構な重量がある。


「さあて、一体何が入ってるのかなぁ」


 ラビは期待に満ちた表情で唇をひと舐めし、両手を摩る。完全に興味本位となっている様子を半眼で眺めながら、ハンスは腕を組んでケースのロック解除を待つ。


 ラビがPIコアを蓋部分に翳し、クルー権限でロックが解除される。空気音とともに蓋がわずかに浮き、その隙間から冷気が漏れる。まるで宝箱を開くようにラビが両手で一気に蓋を持ち上げると、温度差で辺りに冷気が充満する。ラビは屈んだまま両手を握って前のめりに、ハンスは腕を組んで立ったまま何となしに、視界が晴れるのを待つ。


「え、……うわあ!!!」


 突然、ラビが絶叫と共に尻餅をつき、そのままハンスの方に這うようにして距離を取った。突然の出来事にわずかに肩を跳ねさせながら、ハンスはそんなラビの頭頂部を見下ろす。揶揄ってやろうかと思ったが、過呼吸でも起こすのではないかという息の荒れ様に、怪訝な表情を浮かべてクライオケースに視線を移す。


 視界が晴れたその先に、凍りついたものの姿があった。いまだに漏れる冷気を纏いながら、身体を折り畳むようにして、そこにあるもの。──まるでケースという繭の中に閉じこもって眠るように横たわるものには既視感があった。


 いや、既視感などではない。ハンスは信じられない光景に、声すら上げられなかった。全身の感覚が消え失せ、聴覚すら霧散し、ただ目に映るものだけに神経が集中する。青白い肌、霜のこびり付いた髪や睫毛、固まったままの衣服──一見眠っているようにも見えるが、所々はケースの内側に霜と共に張り付き、それがもう生命活動をしていないことを、ありありと見せつけている。


「ア、アラン──……?」


 絞り出されたかのように、酷く掠れた声がハンスから漏れる。彼には目を閉じた横顔や服装だけで嫌でも理解出来たが、理解し難い現実だった。それどころか、夢なのではないかと淡い期待すら湧いては消える。動けずにいるアランの隣で、口元を抑えて尻餅をついていたラビが先に我に返った。彼は四つん這いでケースに近づくと、躊躇なく凍りついた頬に触れる。顔を確認しようとするが硬直して動かせず、見える部分の霜を払う。その動作は焦燥に満ちていた。


「ま、待って…ほんとに、ほんとにこれアラン?…嘘だよね、だってこれ──」


 その先の言葉を飲み込んで、ラビは振り返って立ち尽くすハンスを見上げた。ハンスは未だに黙したまま微動だにしない。再びラビはケースに向き直ると、今度は確認作業のような手つきで折り畳まれた身体の状態を調べ始める。そして悲痛な表情で即座に蓋を閉じた。


「ハンス、ねえ、しっかりしてよ」


 ラビが何も反応しないハンスのパンツを裾に手を伸ばし、何度か引いて声をかける。しかしハンスは理解できない現実にただ立ち尽くすのみだ。


 その時、端末の通知音が倉庫内に響いた。音の出所はハンスのパンツのポケットだ。反応の鈍いハンスの代わりにラビが動き、端末を取り出して画面を見る。その表示を見てラビは驚愕に目を見開いた。


 ”アラン”


 そう表示されている。ラビは自分の息が荒くなるのを必死に抑え、固唾を飲み込んで通信を繋げた。


『ああハンス、減速開始予定は何時頃とフェムに伝えようか? ケルビンに聞くと突っぱねられそうだし、俺らで決めてしまって、ゆっくり休ませた方がいいと思うんだが…』


 紛れもないアランの声が端末から発せられる。ラビが反射的にハンスを見上げると、ようやく視線が合う。二人とも一様に驚愕と戸惑いの入り混じった表情を浮かべていた。


『……ハンス?』


 こちらが反応しないので、アランが呼びかけてくる。ラビは端末を握る手に力が篭るのをもう片方の手で抑えるようにして、必死に平常時を装った。


「あ、アラン? あのさ、今ハンスちょっと手が離せないっぽくて…僕から伝えて、あとで連絡させるよ!」

『ラビ?──手が離せないっていうのは?』

「なんか話し込んでてさ。とりあえずそういうことだから切るね!」


 ラビはそうして返事を待たず、通信を切る。その手は微かに震えていた。


「何だよこれ……どうなってんだ……?」


 ようやくハンスが再起動するかのように動き出した。ラビはそんな彼に端末を返しながら、心臓のあたりを握りしめる。


「──とりあえず、エヴァとケルビンを呼ぼう。状況を、整理しないと…」


 ラビはそう言って言葉を詰まらせ、ケースを見下ろす。ハンスもその視線を追って、閉じた蓋の間から冷気が漏れ出す氷の棺を見下ろした。




 慌ただしい足音が倉庫内に突然響く。ハンスとラビがメッセージで呼び出したエヴァとケルビンだろう。その音の乱れようから、焦りや恐怖が感じられる。閉じたケースの傍に佇むハンスとラビは、連絡を送った後にはいくらか持ち直し、黙して二人を待っていた。それ故に、足音と共に荒れた息遣いまでが彼らの耳に届く。


 クライオケースのある区画に最初に飛び込んできたのはエヴァだった。乱れた呼吸を整えようともせずにハンスとラビの間を通り抜け、倒れ込むようにクライオケースに飛びつく。程なくしてケルビンが飛び出すように姿を現した。


「メッセージの内容は、本当なのですか──?」

「……アラン!!」


 ケルビンが怪訝な表情でハンスに問いかけた時、蓋を開いたエヴァの悲痛な叫びがその場の空気を劈いた。その声が、再びハンスにそこにある現実を知らしめる。声を殺すように泣くエヴァは、アランの顔を確かめるように必死に触れる。その取り乱し様は尋常じゃなく、ハンスの心臓は再び重く早鐘を打ち、目頭に熱が篭る。震えそうになる手を握りしめ、歯噛みして耐える。胸の奥をかき乱すのは、目の前の彼女の絶望する姿だった。恐怖と戸惑いに押しつぶされそうになりながらも、彼女の悲痛な声で悲しみがそれらを突き破ろうとする。しかし、ハンスが彼女のように崩れ落ちずにいられるのは、不可解な事実があるからだった。


「ケルビンに検分して欲しい。僕の見立てに間違いが無ければ、死後かなりの時間が経ってる。そもそもこのケースはイージスから移送されてるんだ。だから…」


 ラビが疲れ切った表情でケルビンを見上げ、沈んだ声でそう告げる。ケルビンが弾かれたようにケースへ駆け寄るので、ハンスはエヴァの腕を掴んでアランから引き剥がした。


「ごめんなさい、ごめんなさい…どうしてアランなの、それなら私が死ぬべきなのに、どうして……」


 エヴァは最早立ち上がることも出来ない。されるがままに腕を引かれるが、そのまま床に蹲ってうわ言を繰り返す。ハンスとラビが静かに顔を見合わせている間に、ケルビンは素早く遺体を検分して蓋を閉じた。


「明確な死亡推定時刻は分かりませんが、確かにかなりの時間が経っているようです。ラビの情報が確かなら、数ヶ月…解凍するのは危険ですので、心苦しいですが、このまま保管するほかありません……」


 冷静ながらも呆然とした声でケルビンが告げる。しばし、しんとした空間にエヴァの押し殺した声が響く。ラビがエヴァを気にかけながらも、促すようにハンスに視線を投げる。ハンスはエヴァの腕を掴んだままその場に屈むと、震える肩を軽く支えながらケルビンに向き直った。


「……俺らがここでこれを発見した後、アランから通信があった。妄言かって思うかもしれないが、アランは今…コックピットに居るはずだ」

「──…一体、どういうことなんです?」


 ケルビンが眉を顰める。肩を竦めたラビは力なく吐息のような笑いを漏らした。


「ケースの中のアランとコックピットのアラン。馬鹿げたこと言ってるって思うだろうけど、アランが二人居るんだよ」


 蹲っていたエヴァが顔を上げる。涙に塗れた呆然とした顔が、すがるような目でラビを見つめる。あまりの状態のエヴァに、ラビが苦悩の表情を浮かべてハンスに視線を送る。


 その時だった。離れた距離から扉の開閉音が聞こえ、全員が息を潜める。布擦れの音すら警戒するようにその場に固まり、その後に続いた静かな足音に耳を攲てる。ハンスはゆっくりと立ち上がり、レッグホルスターから慎重にテーザーを取り出して構えた。誰かが固唾を飲むような喉の音が聞こえ、足音が近づいてくる。ハンスはその時に備え、引き金に指を置いた。


「ど、どうしたんだ、ハンス?」


 現れたのは、ハンスとラビの予想通りアランだった。彼はケースの中のアランと寸分違わない姿で、銃口を向けるハンスに驚いて足を止めて両手を上げる。まだ半信半疑だったエヴァとケルビンは、そのアランの姿を見て目を見開いた。確かにアランは目の前にいて、動いていた。


「なあ、これは一体──…」

「動くな」


 ハンスが低い声でアランの言葉を遮り、構える腕に力を込める。アランは反射的に口を噤み、半歩後ずさった。


「そこから一歩も前に出るな。ゆっくり下がれ」


 エヴァたちを背に庇いながら、顎をしゃくって行動を促す。そのこめかみを一筋の汗が伝い落ちる。アランは困惑に眉尻を下げながらも手を上げたまま、ハンスに従ってまた半歩後ずさる。そのままハンスは歩を進め、じわじわとアランを追い詰める。アランの背が壁に当たると、ハンスは視界にアランを捉えたまま外さずに、後方のエヴァたちに向かって声を上げた。


「お前ら先にここから出てろ! 尋問するなら俺に通信を繋げて外からやってくれ。スピーカーにする。……お前は絶対にそのまま動くなよ」


 最後に目の前のアランに対して言い放ち、ハンスは背後の気配を探る。立ち上がる音や忍び声が聞こえ、次いで足音が耳に入る。安堵したのも束の間、すぐ背後からエヴァの声が響いた。


「ま、待ってハンス! アランに銃口なんか向けないで!」

「下がってろエヴァ!」


 ハンスは肩を掴まれるが銃口と視線は離さず、片手でその手を振り払う。尚もハンスに詰め寄ろうとするエヴァを、ラビとケルビンが制止する。


「待ってハンス、やめて! やめなさい!」

「こいつが本当にアランかどうか分かんねぇんだよ! いいから下がってろ、俺が何とかする」


 遠ざかっていくエヴァの声に向けてハンスはそう告げると、やがてしんと静まりかえった室内で銃を構え直した。


「で、お前は誰なんだ?」

「誰って、…どうしたんだハンス?」


 アランはハンスから見て、純粋に困惑しているようにしか思えなかった。だが背後には確かにケースに入れられたアランも居る。困惑と苛立ちに歯噛みしながらも、ハンスは目の前のアランに鋭い視線を向け続ける。


 ハンスの端末が再び鳴る。懐から取り出してアランから視線を外さない位置まで持ち上げて片手で操作すると、ハンスは再びそれを懐にしまう。


「おい、いいぞ」


 ハンスが端末に向けて声を掛けると、ラビの声がそこから発せられた。


『まず聞くんだけど……君ってアラン?』


 窺うような声でラビが聞くと、アランはハンスを見据えて訴えた。


「俺はアランだ。……一体どうしたんだ、みんなして」


 眉尻を下げたまま眉間に皺を寄せ、心の底から戸惑っているのが見て取れる。ハンスの記憶の中にも存在する、困り果てたアランの表情とそれが一致する。目の前のアランは何から何まで”アラン”でしかない。その事がハンスを躊躇わせるが、最大の疑惑は晴さなければならない。


『じゃああのクライオケースは? 医療廃棄物って登録されてたけど、今聞いたらケルビンはやってないって。君が移送させたんじゃないの?』

「お前がストレージを気にしてるの、俺も気がかりではあったんだ。まさか、こんなのが隠されてるとは思いもしなかったけどな」


 ラビの声がアランを問い詰め、ハンスがさらに追い詰める。アランは視線を泳がせる事なく、ただ一心に、訴えるような視線を目の前のハンスに向けていた。


「──何の事を言っているのか分からない。何があったんだ? まず銃を下ろしてくれ、ハンス」

「気安く呼ぶな! お前がアランだって証拠が無い」

「証拠も何も、俺はここに居るだろう」

「じゃああのケースの中のアランは何なんだよ!」


 必死に訴えかけてくるアランの態度に戸惑い、ハンスの銃口がわずかにブレる。話は平行線のまま進まない。彼が「何を言っているのか分からない」と訴えるのが、どうにも嘘とは思えない。


『レム、そいつのPIコア情報確認できる?』

「はい、ラビ」


 端末からラビの声が聞こえ、すぐに天井からレムの応える声がする。わずかな張り詰めた沈黙の後、レムから衝撃の事実が放たれる。


「PIコア情報は、正真正銘ハイラント所属、PIランク3、アラン・ローワンです」


 端末の向こうからラビたちの戸惑う声が聞こえるなか、ハンスも同様に驚愕した。PIコアは手に埋め込まれたチップだ。ハイラントならまだしも、宇宙空間の限られたどの設備においても用意するのは不可能だ。それが一致するとなると、いよいよ目の前のアランは”アラン”としか言いようがなくなる。恐怖よりも混乱が勝ち始め、銃を持つ手が重みを増す。PIコアは生体反応と同期しているのでケースの中のアランのものまでは確認出来ない。しかし仮に本物から抜き取って移植出来たとしても、本人以外では反応しないため、偽装は不可能だ。


 ハンスは銃口は下げずに引き金から指を離した。アランはそれには気づかず、必死な視線をハンスに向ける。彼がクライオケースの事を知らないなら誰がそれを移送したのか、そもそも中に押し込められたアランはアラン本人なのか。何も進展しないまま、無惨に時だけが過ぎる。


『ハンス、そのアランが武器を持ってないなら、いったん銃口を下げて欲しい』


 状況を一変させたのは、端末からのラビの指示だった。ハンスは僅かに戸惑いの声を漏らすが、彼の「いいから」という強い口調に後押しされ、アランの身体検査を始める。彼は危険物は所持していなかったが、ハンスは一度距離を取って再び銃を構えた。


「お前は、本当にアランなのか?何かを企んでるわけじゃないのか?」


 一度下げかけた手を再び上げて、アランは「俺はアランだ、何も企んでなんかない」と首を横に振る。理屈よりも感情が勝った根拠のない弁明が、その必死さを物語っている。


『ねえアラン、君が本当にアランなら、信じたい。──友人として』

「ああ、問題ない」


 ラビの静かな声に、アランはゆっくりと首肯する。ハンスはそのあまりにも無害な様子を逆に訝しみながらも、緊張や恐怖を体から押し出すように長い息を吐く。そして殊更ゆっくりと銃口を下ろした。


 明らかに安堵の表情を浮かべ、アランも手を下ろす。ハンスに近づこうとするが、彼の反射的に身を引くような動作を目の当たりにして踏みとどまる。傷ついたようなアランの表情は、ハンスが過去に「家を出る」と伝えた時に見た表情と重なった。思わず舌打ちが漏れる。取り繕うように首を振ってアランを促すと、ハンスはひとまずストレージを出ることにした。




 通路で待機していた三人と合流する。膝を抱えて壁際に蹲るエヴァの肩をケルビンがそっと支えている。ラビはその傍に寄りかかるように立ち、重苦しい空気の中で小さく息を吐いた。


「──正直、セルの不具合なんか吹っ飛ぶくらい、今人生で一番……混乱してる」


 力の抜けた声でラビがそう呟く。アランはそんな彼に困惑の表情を見せながら、エヴァを見下ろした。顔を上げた彼女の頬は、ひどく涙に濡れている。ハンスは初めて見る表情に目を奪われながらも、エヴァに近づこうと足を進めたアランの腕を取って制止した。


「俺はまだ確信が持てない」


 振り向いたアランにキッパリと告げる。今この現状の中で彼の心に残るのは、復路で感じたアランへの違和感だ。アランがアランらしく振る舞うほど、それが虚構に感じられて苛立つ。ハンスの鋭い目に射抜かれたアランは、黙り込んで足を止める。空気が張り詰める中、割り込むようにラビが「ねえ」とハンスに呼びかけた。


「……ケースの中のアランの、皮膚組織が欲しい」

「──何だと?」

「ケースの中のアランが本物なのか、それともこっちが本物なのか、わかるかもしれない。──ケルビン、凍ったまま少し削るくらいだったら大丈夫?」


 とんでもない事を言い出すラビに、ハンスの目が見開かれる。エヴァもラビに向き直り、驚愕の表情を見せる。だがラビの目の光には、冗談でも茶化しているわけでもなく、また、ただの興味本位でもないという真剣さが滲んでいた。


「──え、ええ……損傷が広がるので完全解凍は危険ですが、削る、もしくは局所的に温めて採るのであれば問題ありません」

「じゃあ、ケースをメディカルルームに移そう。メス貸してほしい」


 若干の動揺を見せつつも、ケルビンが冷静に答える。二人の間で着々と進められていく展開に、ハンスは思わず口を挟んだ。


「こんな時に実験か?」


 エヴァもラビに我が目を疑うような顔を向ける。しかしラビは冷静に首を横に振った。


「実験は実験かもしれないけど、これはアランの正体を証明するためのプロセスだよ」


 ラビはそう言ってアランを見上げる。アランはもはや黙って彼らを見守ることしか出来ずにいるのか、ずっとそこに立ち尽くしていた。


「レム、例のクライオケース、メディカルルームに……」

「いや、俺が運ぶ」


 ラビがレムに向かって指示を出し切る前に、舌打ちをしたハンスが踵を返してストレージのドアをくぐる。ラビの表情から好奇心以外の意図を感じ、言い分に従うほかないと判断したからだ。ケルビンがその後を追い、中から「手伝います」という声が届く。やがてケースを抱えて出て来た二人と共に、五人はポッドに乗ってメディカルルームへと移動した。




 閉じられた医療室の中で、ラビとケルビンが組織サンプルの採取作業をしている。白い扉の先にどんな光景があるのか想像しながら、カウンセリングスペースで待機しているハンスは壁に寄りかかり、腕を組んで深呼吸をした。椅子に腰掛けたエヴァも、その間に佇むアランも何も語らない。無音の空間で、大袈裟な息遣いはやけに響いた。


 ケースを処置台に運び込んだ後、ハンスはその場に残って採取作業を見守ろうかと考えていた。しかし、結局は外に出て作業を彼らに任せることにした。エヴァはあれからケースに触れてさえいない。運び込む際も医療室には立ち入らず、遠くから静かに様子を窺うだけだった。ハンスにはそれが現実逃避に映り、すると、自分も現実逃避がしたくてケースから離れたのだと気づいて自嘲する。


 傍に立っているアランは何を考えているのか分からない。微かに眉根を寄せてはいるが、ただ呆然とそこに居るだけのようにも見える。ハンスにはそれが解せなかった。ケースの件は分かっておらず、明確な弁明もしない。なのに自分がアランだということだけは主張し、まるでこちらがおかしくなったとばかりに困惑している。


 仮に思考を放棄して、ケースの中のアランを精巧な人形だとするならば、傍のアランはアランなのだろう。しかし、実際のケースの中身はアランの遺体だ。多くの遺体を目にして来たハンスはその経験則から、容易に現実逃避が出来なくなっている。


 沈黙の中、医療室の扉が開いた。処置台からケースは消えているので、ヴィクターと同じユニットに入れられたのだろう。小さなケースを手にしたラビは、医療室から出ると真っ先にアランの元へ駆け寄り、彼を屈ませると、その頭から髪の毛を一本抜く。


「じゃ、ちょっと待ってて」


 そう言い残すとラビは小走りにポッドへと向かい、ラボへと消えて行った。


 残されたハンスたち四人の間には再び静寂が下りる。自分たちはともかく、何も知らないはずがないアランが何も語らないことに痺れを切らしたハンスは、そこでようやくアランを鋭い視線で流し見た。


「OSX-9で、何があったのか言ってみろよ」


 どうしても警戒心が拭えず、冷淡な物言いになるハンス。アランは困惑の面持ちで言葉を受け止める。しかし後の発言で、それがハンスの態度によるものではない事が分かった。


「何があったかって……お前たちは採集に出かけて行って、俺はイージスで待機してた。エヴァが外殻を補強して──何か挙げるとするなら、ヴィクター隊長に異変があった事くらいしか……」


 クライオケースはイージスの設備で、OSX-9から出た後にエヴォリスに移送された。つまりOSX-9で何かがあってそのような処置がされた筈だ。中に眠っていたのがアランならば彼に何かがあった筈だが、今目の前にいるアランの発言にはその要素が無く、それが何とも要領を得ない。


「……私は待機組だったけど、異変は感じなかった。もちろん常に一緒だったわけじゃないけど、見ていない間に襲われたという事も無いと思う。アランはイージスの中に居たし、エアロックは閉じられてたはず」


 掠れた声でエヴァが補填する。目元は赤いが、いくらか冷静さを取り戻したようだ。


「そもそも、OSX-9で生体反応は確認出来ていませんでした。確かにあの星自体、自然とは言い難い特徴を有していましたが……生命体がいたなら、何某かの反応は得られたはずです」


 断言したケルビンの表情は、怪訝そうに歪んでいた。否定要素の中に異物のように混入する微かな可能性が、疑念や恐怖を呼び起こす。その度に、今立っているアランという存在の否定要素が、ハンスの中でただ深まっていく。再び室内に静寂が訪れ、しばし微かな空調の音だけがその場に残る。


 しかしそこで、ハンスはある事を閃いた。何故そこまですぐに思い至らなかったのかと目を瞠りながら、俯いて考え込んでいた顔を勢いよく上げる。そこに視線が集まった時、タイミングが良いのか悪いのか、ラビが戻って来た。


「ケルビン、ちょっと端末貸して」


 部屋に入るなり言うだけ言って返事を待たず、ラビはデスクトップ端末に自分の端末を接続した。殺風景な画面に次々とウィンドウが出現する。そこには文字の羅列とともに写真や顕微鏡画像など、様々なデータが映し出されていた。


 自然と全員がラビの周囲に集まり、モニター画面を注視する。ラビは必要なウィンドウを選ぶと振り返り、画面を見せるように身体を引いた。


「まずこれ、OSX-9で採ったサンプルのデータ。まだ完璧じゃないから提出はしてないけど……見て。例えばこの葉っぱ、気功や細胞の形がやけに整ってるんだけど、内部まで同じ構造が続いてる。あとこの石、一見配列がランダムだけど、鉱石結晶の形にパターン性がある」


 ウィンドウを次々に動かして見せながら、ラビが早口で説明を重ねる。めまぐるしい彼の行動にエヴァやケルビンは困惑しながらも文字や画像を目で追った。予め説明を受けたことのあるハンスの脳にはその情報がすんなり入ってくるが、初めて聞かされる二人は理解が追いつかないことだろう。


「その他、氷、砂、樹皮…あそこで採ったもののほとんどに、何らかの規則性があって整えられてる。そして不純物が無い。つまり何が言いたいかっていうと、あの星って無菌の箱庭って感じなんだよ。前にも話したけど、自然の在り方としては不自然極まりないってわけ。……で、次、これ見て」


 数あるウィンドウの一番上に、二つの画像が並べられる。理解し難い白黒の画像にハンスは眉を顰めるが、ラビは淡々と説明を続ける。


「生きてるアランの髪の毛と、遺体から採った皮膚サンプル。髪の毛の方は、微細構造にパターンがある。つまりさっき見せた、サンプルと同じ特徴があるんだよ」


 ハンスは目を見開く。詳細までは把握できるはずもないので確証には至らないが、確かに表示された髪の毛の顕微鏡画像には、小さな隆起や規則的な結晶模様のようなものが、ある程度パターン化されて並んでいる。


「──つまり、こちらのアランには……OSX-9のサンプルと同じ性質があるということですか……?」


 ケルビンが愕然とした表情で呟く。そして、後方から軽く覗き込むように屈んでいたアランを見やった。


 全員の視線がアランに集中する。頭の先から爪先まで見ても、目の前にいるのはアランでしかない。イージスやエヴォリスを操縦し、普通に会話もしていた。それが何かしらの生命体であるかもしれないと思い至っても、俄かには信じられない。ハンスはアランと、過去にまつわる会話すらしているのだ。


「……ま、待って。待ってちょうだい。じゃあ、アランはやっぱり……」


 エヴァの顔が一気に歪む。そして、再び潤み始めたすがるような瞳を必死に目の前のアランに向ける。アランは呆けたような無表情で、ただじっと画面の顕微鏡画像を見つめている。


 ハンスは咄嗟にホルスターに手をかけようとした。しかし、ラビが「待って」と言葉で制する。


「このアランが何かしらの生命体だったとして、僕らを生かそうとしてくれたのも確かなんだよ。何か目論見があるなら聞き出さないと」


 ラビはそう言ってアランに向き直る。アランに敵意が全く無いのは確かだった。今も無防備にただ呆然と佇むだけで、何か行動を起こそうとするでもない。それが逆に不気味だと言ってしまえばそれまでだが、攻撃は尚早かもしれない。ハンスは歯噛みしながらそっとホルスターから手を離した。


「──本当に、君たちの言っている事が……分からないんだ」


 ぽつりと、アランの口から呟く声が漏れる。画面を見つめたまま、心がここに在るのかのかどうか分からない。


「俺は、イージスのコックピットで……眠っていたんだ。起きて気がついたら、ただコックピットに立っていた。そのあたりの記憶は曖昧で──今はただ、みんなと地球に帰りたい。それだけなんだ」

「地球に行くのが目的ってこと? それって本当に? 僕は少なくとも、ヴィクターの死は事故なんかじゃなくて君が原因だと思ってるんだけど」

「……は?」


 掌を返すように疑いの言葉を投げかけるラビから衝撃の発言が出て、思わずハンスはラビを睨んだ。もうハンスは何を信じていいのか分からず、苛立ちを隠せずにいる。ラビは勤めて冷静にハンスを見据えた。そうして視線でハンスの口を塞ぐと、再びアランを見上げた。


「幻視を消そうとして銃を撃った……そういう話だったけど、違うんじゃない? 君は僕たちを瓦解させるためにまず指揮官を消す必要があった。そして僕たちの信頼を得ながらひとりずつ、また消して行くつもりだったんじゃないの?」


 アランの表情がようやく変化を見せる。悲痛に歪んだ顔でラビの瞳を見つめ、何度か小さく首を横に振る。言葉を発さないまま口を不規則に開閉させる姿は、”困惑しきるアラン”そのものだった。そんな彼の様子を見たラビは、非情なまでの追求をしたとは思えない寂しげな表情で小さく笑う。


「──違うって、言ってほしいけど」

「違うわ」


 しかし、アランの代わりに応えたのは硬質なエヴァの声だった。椅子から立ち上がり、アランを背に庇うようにして彼の前に立つ。今にもこぼれ落ちそうな涙を堪えるように瞬きを重ね、しかし凛とした表情でハンスたちの前に立ちはだかる。そして肩を大きく動かしながら何度か息を整えると、噛み締めるように喉を鳴らした。


「……ヴィクター隊長は、私が殺した」


 小さく、だがはっきりと低い声で断言したエヴァの声は、ハンスの胸に重くのしかかった。しかし、すぐにまた急激に苛立ちが蘇る。


「は? お前、そいつをアランってことにしたくてデタラメ言ってんじゃねぇだろうな!?」


 そう言ってエヴァの腕を掴んで強く引こうとするが、エヴァはそれを強く振り払うと、ハンスを睨み上げた。


「嘘じゃない! 言えなかったけど、嘘じゃない……私のせいだから、彼は悪くない……」


 そう言ってエヴァはとうとう涙を流し、その場に屈み込む。押し殺すような泣き声が響くなか、ハンスは呆然とアランを見やる。しかし彼も戸惑うように眉根を寄せているので、状況を飲み込めずにいる様子だった。


「ね、ねえ……いったん、全部整理しない? エヴァの言ってる事が嘘じゃないなら、何があったか話してよ」


 まったく予想外の所から衝撃の真実が出て来たことに呆けていたラビが頬を引きつらせながら遠慮がちに言った。一変して困惑の状況となった室内で、五人はそれぞれいったん腰を落ち着け、情報を整理することにした。





 狭いカウンセリングルームに椅子を持ち寄り、エヴァを中心に、アラン、ハンス、ラビ、ケルビンとざっくりとした輪を描いて座る。その間にエヴァはひきつる喉を何とか押さえつけ、平常を取り戻しつつあった。ラビのデータが表示されたままだったモニター画面を、近くに座ったケルビンがスリープ状態にする。そして、エヴァの話を聞く空間が整った。


「……エヴォリスに戻った後、ヴィクター隊長から個人メッセージが来たの。──これよ」


 エヴァは懐から取り出した端末を操作し、メッセージ画面を全員に共有する。ハンスが自分の端末に転送されたメッセージを確認すると、それは「ロッカールームで話がある」という、差出人がヴィクターの端的な一文だった。全員が目を通したのを確認し、エヴァは話を再開する。


「もともと……ヴィクター隊長とは往路で何度か個人的な話をしていたの。だから、その時もその話の続きなのかと思ったわ。──呼び出してまで? と疑問には感じたけど」


 エヴァは自嘲するように小さく笑みを溢す。


「それで、ロッカールームに行ったら……お前に渡すものがあるって言われて、彼が自分のロッカーを指差すから、開けようとした。そしたら開かなくて……不思議に思って振り返ろうとしたら、──銃を、突きつけられてた」


 エヴァは言葉を詰まらせながらも何とか言い切り、落ち着かないように自分の腕を摩った。ハンスは全く予想がつかない事実を突きつけられて驚愕しつつも、復路でのエヴァの異変に納得した。彼女はこれをずっと隠していたから頑なに自分を避けるようなことをしたのだ。


 彼女の語られる言葉に、全員が黙って耳を傾けた。時折たどたどしくなりながらも、彼女は理路整然と順を追って説明したからだ。時折溢す彼女自身の感情も相まって、口を挟む余地が無かった。





 エヴァは突然後頭部に当てられた硬質な感触の正体を察し、一瞬にして全身の血が引くような感覚を覚える。反射的に動作は止まり、ロッカーの取手にかけられた手が震える。


「──手を上げてゆっくり振り向け」


 地を這うような低い声だった。何とか瞳だけで背後を窺おうとしているエヴァに、有無を言わさない命令が下される。途端に早鐘を打つ心臓も、痺れ切ったように感覚を無くす手も、回らない頭も全て無視して、ただその言葉に従って恐る恐る振り向く。


 目の前にいたのは、厳格でありつつもどこか父性を感じさせるような人物ではなかった。まるで積年の恨みを抱えた宿敵と対峙しているような目でエヴァを見下ろし、振り返ったその額に銃口を突きつけるヴィクターは、ただの冷酷非情な軍人でしかない。


 荒がる息を抑えようとして呼吸が極端に早まる。恐怖と緊張とこれまでとの落差に、全身からどっと汗が吹き出す。エヴァは言葉を発せず、ただ呼吸を繰り返しながらヴィクターを注視する他なかった。


「渡したいのはこれだ」


 ひどく落ち着いた声でヴィクターはそう言うと、空いている方の手で懐から一枚の紙片を取り出してチラつかせる。そして徐にそれを床に放った。


「見ろ」


 ひらひらと舞いながらエヴァの足元に落ちたそれを、エヴァは瞳だけ動かして何とか確認する。頭を動かせば間違って引き金を引かれてしまうのではないかと恐怖が拭えない。


 しかし、落とされた紙片を見たエヴァの目は恐怖が霧散するほどさらに驚愕に見開かれた。それには見覚えがある──いや、それどころではない。この先も変わらす永遠に記憶に新しいもの──実の兄とのポラロイド写真だった。幼少期に兄と顔を寄せ、画角が失敗した方を自分が持ち、ローワン兄弟の父が撮ってくれた綺麗な写りのものを兄が持っている……対の写真の片割れだ。自分の方はケースに入れていつも懐に忍ばせている。落ちているのは、兄が持っていたはずの方だった。


「どうして俺が持ってるか分かるか?」


 静かな声に、エヴァは顔を歪めながら小さく首を横に振る。思考がまとまらず、かろうじて応えることしか出来ない。ヴィクターは突きつけた銃を持つ手を全くぶれさせることなく、油断がない。


「──俺が奪ったからだ。跪いて諦め切ったお前の兄にこうして銃を突きつけ、引き金を引いた後にな」

「……う、嘘──」

「嘘じゃない。気付いていたんだろう? 俺がただ親切でお前たちを助けたわけじゃなかったと。自分の手で殲滅した組織の生き残りと意図せず遭遇したのにも関わらずガキだからと殺せず、まるで懺悔でもするかのように連れ帰っただけだったと。それで贖罪が果たされると思っている浅はかな人間だと、お前は気付いていたはずだ」


 額の感触が強まる。詰め寄るようにほとんど息継ぎもせず語るヴィクターは、エヴァの目には静かに狂っているように見えた。ヴィクターが感じている哀しさや虚しさのようなものは、以前から何となく読み取っていた。しかし彼の作り出している現状がエヴァの余裕を締め付け、思考と発言の隙を与えてくれない。


「お前は俺に同情していたかもしれない。だが、これを見ても尚俺に同情出来るか? お前の兄はたった一人生き残ったところを俺に見つかり、絶望の表情を浮かべて膝を着いた。だが戦意を喪失していても奴はヴァインの一員だ。俺は躊躇なく引き金を引いた。絶命してうつ伏せに倒れ込んだ奴の体を転がして、懐から溢れて来たのがそれだ」


 エヴァの目尻に涙が滲む。それを見てにやりと笑みを浮かべると、ヴィクターはさらに続けた。


「気まぐれに拾ってみたが、その後お前たちと遭遇してお前が写真の中の子供だとすぐに分かった。そしてその子供はいずれ真実を知り、俺を殺しにくるだろうと思っていた」

「殺さない……そんなこと出来ない」


 震える声で何とかそう応えると、ヴィクターは突然激情する。空いている方の手でエヴァの首を鷲掴み、容赦無く力を込める。利き手でもないにも関わらず、あっという間にエヴァの顔は赤く染まっていく。


「殺さない?随分情け深いことだ。お前はたった一人の兄弟を無残に殺した相手に寛容になれるのか?──俺はもううんざりだ。お前たち兄弟は俺の夢にまで現れて結局俺を責める。もう終わりにしたい」

「は、放して……」


 エヴァが声にならない声で訴える。ヴィクターはひどく顔を歪ませた。


「武器になるものは持ってるだろう? 放して欲しければ俺を殺せ。でないとこのままお前を殺す」


 冷え切った視線で見下ろされるも、エヴァは何とか小さく首を横に振る。すると突然、ヴィクターは銃口を外して一発発砲した。


「──俺は本気だ。お前は俺のために自分の命を捨てられるのか? 仇である俺に、兄のようにむざむざ殺されるのか?」


 視界が薄れ、引き剥がそうとヴィクターの腕を掴む手の感覚も遠くなっていく。窮地に立たされたエヴァは、とうとう片手を外してツールベルトを探る。手間取りながらもラチェットレンチを取り外すと、力の限り側頭部に叩きつけた。


 呻き声とともに腕が外れ、エヴァはその場に座り込んで激しく咳き込んだ。落とされた写真を目前にして、急に喉に押し込まれる酸素に目眩を覚えながらもそれを拾い上げ、おぼつかない足取りで出口へと向かう。ヴィクターは倒れ込んだまま呻き声をあげるだけで立ち上がる素振りがない。しかしまたいつ不意打ちをされるかと恐ろしくなったエヴァは、何とかリフトに乗り込んで回廊に逃げ切った。




「──……そこで、アラートが鳴った。状況から考えて、私がすべきことは目の前の救助活動だった。……でも、アラートを優先した。あいつが……あの人が兄さんを殺したんだって思ったら、少し放置するぐらいの復讐は赦されるって」


 聞きながら、ハンスはアラートでエンジンコアに駆けつけた時のエヴァの姿を思い出していた。彼女は冷静に対処しながらもどこか息を切らしていて、それは急いで駆けつけたからだと思っていた。しかし、その後アランからの連絡でヴィクターの死が知らされた時の動揺は顕著だった。それが、彼女の語る経緯の信憑性を物語っていた。


「でも、まさかそれが原因で死んでしまうなんて予想もしてなかった。不思議よね……あの時の私は予想もしなかったの。後のことなんて考えてなかった。だから死んでるって聞いて、遺体を見て、打ちのめされた。でも、これは彼が望んだことだって言い聞かせて正当化して、誰にも何も言えなかった。それなのに冬眠中、夢すら見なかった。自分が非情な人間なんだと思い知ったわ」


 エヴァの言葉が途切れ、辺りを痛いほどの沈黙が支配する。命の危機に晒されていたとはいえ、エヴァの感情を優先するような行動にハンスは驚いていた。それはラビも同様で、普段の饒舌さが再び形を潜めて口をもごつかせている。


 傍のアランの横顔は、驚きというよりもどこか哀しみを帯びたものだった。その表情から、ハンスはアランの感情が手にとるように分かる。彼はヴィクターの精神状態やエヴァの心情に寄り添い、その全てに情けをかけているのだ。だがそのアランも本当のアランではない可能性が高い。ハンスの胸の内は嵐のようにざわついていた。


「──非情な選択はしたけど、非情な人間ではないんじゃないか?」


 アランは静かにそう言った。途端に、無表情を貫いていたエヴァが眉尻を下げ、瞳がみるみる赤く染まる。


「今こうして君が後悔しているのを見ていると、非情な人間とは思えない」


 エヴァの瞳から涙の粒が落ちる。その目は、アランを信頼しきっている純粋なものだった。


 しかしハンスは思う。エヴァを赦すか判断をすべきヴィクターはもういない。彼が望んでいたことだとしても、彼女の罪が消えることは無い。今こうして慰められたところで、彼女は一生この罪を背負って生きていくことになるだろう。エヴァの性分から考えても、ふと思い出しては罪の念に囚われ、打ちひしがれることだろう。


「──エヴァの証言が正しいって証拠、これの他に何かある?」


 アランとエヴァの様子を眺めていると、隣のラビが遠慮がちに端末を持ち上げ、メッセージ画面を見せながら軽く振った。エヴァは涙を拭うとツールベルトから話にも出て来ていたラチェットレンチを取り外す。


「あれから使って無いし、そのままにしてある。詳しく調べたら何か残ってるかも」


 差し出されたラビはそれを受け取ると、大きく溜息を吐いた。


「一旦、感情の話は抜きにして事実ベースで考えよう。エヴァの話通りなら、アランは本当にただの第一発見者ってことになる。──めちゃくちゃ白いじゃん」


 ラビの言うことは最もだった。アランの行動は不可解な部分もあるが、それは本物のアランではないという理由から来るもので、加害性が全く無い。しかも遭遇した一連の騒動──特にラビの件に関しては、彼が主導となって解決したと言ってもいい。航行のの要である操縦士という立場を悪用するでもなく、本当に”ただ生活しているだけ”なのだ。


「あと、ひとつ言っておく。もしアランが誰にも襲われてないなら、──心臓の持病が発症したって可能性はある。だからと言ってじゃあ何でこいつがこんな姿でここに居るんだって話ではあるけど」


 ハンスが先ほど閃いた事をラビに伝える。本物のアランではないという疑いは強いが、害が無いのは明白なため、その分の溜飲は下がる一方だ。


「心臓の持病なんてあったの? それでよく作戦参加の許可通ったね」

「俺も発症してるのは見た事ないから、詳しい病名とかは知らねえけど」

「──俺自身、あまり記憶に無いんだ。まだハンスやエヴァが生まれる前の幼少期に発症して死にかけて、施設の蘇生装置のおかげて助かったらしい。だから母さんには激しい運動は控えろって言われたっきり発症したことがないし、バイタルに異常が出た事も無い」


 疑惑のアランが事もなげに昔の記憶を語る。その情報がいちいちハンスの記憶とリンクして混乱する。しかもアランにとっては自分の死因について話しているも同然のはずなのに、まるで他人事のように話す姿は異様にも感じる。


「そんな持病なんてある? ねえ、ケルビン──ケルビン?」


 ラビが隣のケルビンに話しかけると、彼は我に返ったように肩をひくつかせた。ハンスはそんな彼を見て、そういえばずっとダンマリだったと不思議に思う。


「……何ですか?」

「だからぁ、アランの心臓の持病の話! ……聞いてないなんてことある?」

「アランの持病……? データにそのような記録は無かったように思いますが」


 ケルビンの答えに、ラビが大袈裟に驚く。ハンスが思わずアランを見やると、彼は諦めたように苦笑した。


「病名は知らないし、記憶の限りでは発症した事がないから、報告してないんだ」

「でも、そういうのってメディカルチェックで引っかかったりしないの?」


 怪訝そうに表情を歪めるラビの隣で、ケルビンは眼鏡のブリッジを上げた。


「症状がほぼ無く、突然死のリスクがある心疾患は確かに存在します。不整脈の一種で、心臓疾患という情報を元に注意深く検査を行わなければほぼ見つからないというものです」


 ケルビンの言葉に、ハンスとラビは顔を見合わせた。


「正直わけがわんねえよ。ケースの件を抜きにしたら、こいつはマジでアランでしかない」

「──じゃあ、データ上はサンプルと同じ性質を持ってるし、アランの遺体も確かにあるし、アランじゃないって可能性は限りなく高いっていうかもうほぼアランじゃない状況ではあるんだけど、弟であるハンスから見ても本物のアランと寸分違わないってこと?」

「……ああ、そうだ」


 ラビは眉根を寄せ、身を乗り出してまじまじとアランを見上げる。アランは困ったように笑い返すだけだった。


「──お前、本当に何も裏は無いんだな?」

「裏なんて無い。ずっと、俺は俺でしかないんだから」


 真摯な眼差しに、ハンスは項垂れるほかなかった。アランは確かに遺体と成り果てた。それを目の当たりにして現実逃避をしかけるほど衝撃を受けたはずなのに、目の前には寸分違わないアランが居る。彼を”アラン”としていいものかと悩むも、会話や記憶が彼そのものなので認めざるを得ない。


 エヴァはヴィクターの件もあり、ショックから無意識に逃れようとしているのかアランを信じきっている。ならばケースの中のアランはどうなるのだとハンスの心に暗い染みが浮かび上がるが、ひとまずそれは度外視することにした。


「──エヴァ、お前のやったことはお前自身がよく分かってるはずだ。隊長の心までなんか分かんねぇけど、まあ、とにかくお前が罪だと感じてるなら、背負うべきだ」

「……ええ」


 ハンスは真剣な目を向けつつも、どこかぶっきらぼうに言葉を切る。エヴァは目を伏せて深く頷く。


「俺だって同じだ。遠征で何人も手にかけて来た。──それを今更、痛感してる」


 ハンスとエヴァの瞳が混じり合う。再び重苦しい空気が流れたところで、ラビの咳払いが沈黙を破った。


「じゃあとにかく、アランはひとまず味方。僕らは予定通り地球に帰還する。これでいい?」

「まあ、それしかないだろ。コイツをエシュロンにどう報告したもんかって最大の問題はあるがな」


 室内に穏やかな空気が戻る。謎は残るが進むしか道はない。宇宙空間では特別な対処も不可能だ。全ては、ハイラントへ戻らなければ判明しないだろう。ハンスは気を取り直すようにうなじを掻くと、ケルビンに視線を移した。


「──で、お前はもう平気なのかよ? さっきからわりと黙ってるけど……問題ねぇなら減速開始時間決めようぜ」


 そう言って立ち上がる。しかしケルビンは不気味なほどの無表情で姿勢よく椅子に座っているだけでハンスには応えない。視界の端で、アランとエヴァが語り合うのに、席を立ったラビが混ざるのが見える。正確にはアランではないのかもしれないが、確かに記憶の通りのアランと変わりないことに、どうやら安堵したらしい。


 しかしケルビンだけが、まるで別世界に居るかのように置物じみた姿でそこにいた。眉を潜めながら、再度ハンスは呼びかける。


「おい、ケルビン? やっぱりダメそうか?」


 それにも彼は応えない。しかし今度は、ひどく緩慢な動作で立ち上がり、デスクの前に立つ。そして一番上の引き出しを徐に引き、中から銀色の小さなケースを取り出した。ハンスはそれに何となく見覚えがあった。珍しくケルビンのデスクが散らかっていたときに雑然と置かれていたケースだ。


 ケルビンはそれをゆっくりと開く。意識の外から操作されているかのような動作にハンスは思わず唾を飲み込む。手元の隙間からちらりと見えたのはどうやらシリンジで、ケルビンはそれを手に取ってゆっくりと持ち上げる。その持ち方に違和感を覚えたと同時に、そのシリンジはケルビン自らの手で彼の首に刺されようとした。


「おい! 何してんだお前!!」


 咄嗟の反射神経でハンスがケルビンを突き飛ばす。ほとんど無意識状態だったケルビンはデスクに転げ、そのまま反動で地面に倒れ込んだ。デスクの上に置いてあったシリンジのケースやその中身、ケルビンが常に抱えている彼のタブレットがけたたましい音を立てて床に落ちる。ハンスの大声と騒音に驚いたエヴァたちは驚いて黙り込み、呆気に取られた表情でハンスとケルビンに向き直った。


「ど、どうしたの? 今度は何だよ……」


 ラビが弱々しい声でハンスに尋ねる。ハンスが言葉に詰まっていると、倒れ込んだケルビンの方から小さく笑うような声が漏れる。


「フフ、ハハハ……」


 それはほとんどが吐息で声もなく、小さく肩を揺らすだけのものだった。その表情はまるで、絶望の淵に立った幽鬼のようだ。


「──他の誰でもない、不適合者は私だったわけだ……」


 ケルビンは小さく吐き捨てるように言って、ゆっくりと上体を起こす。彼がいつも掛けている眼鏡は外れ、足元に転がっている。誰もが異様な光景に怪訝な目を向けるなか、ケルビンは手元に落ちて液晶にヒビの入ったタブレットに手を伸ばす。



[15:20:00] COMMAND: SUBJECT INVALID - EXECUTE

[15:25:00] COMMAND: SUBJECT INVALID - EXECUTE

[15:30:00] COMMAND: SUBJECT INVALID - EXECUTE

[15:35:00] COMMAND: SUBJECT INVALID - EXECUTE

[15:40:00] COMMAND: SUBJECT INVALID - EXECUTE

[15:45:00] COMMAND: SUBJECT INVALID - EXECUTE

[15:50:00] COMMAND: SUBJECT INVALID - EXECUTE

[15:55:00] COMMAND: SUBJECT INVALID - EXECUTE

[16:00:00] COMMAND: SUBJECT INVALID - EXECUTE



 その画面には、病的なほどの指令が連続して出されている。屈み込んでそれを見たハンスは、力なく項垂れるケルビンを呆然と眺めた。


 彼が何を抱えているのかはこれだけではわからない。ただ彼の姿がどうしてかハンスの中で、使い物にならなくなってハイラントの外壁から放り出された軍人の姿と重なり、胸の奥に息苦しさが広がった。規則や命令に押し潰される者の絶望──それを目の当たりにして、どうしていいのか分からず、ただ困惑するしかない。それ以上の言葉も行動も、どうしても出て来なかった。


 計画的出生者である彼ですら外部招致者と変わらぬ精神的重圧に晒され得るとは、ハンスには考えも及ばなかった。沈黙の中で彼を見下ろすクルーたちの間に、言葉にできない重みが落ちていく。


 何も出来ない、されど目を逸らすこともできない──その絶望感だけが、ゆっくりと宇宙空間の静寂に溶けていった。



な、長かった……

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