Phase_06:FRACTURE
カクヨム掲載作品です。
ハンスたちはストレージモジュールからブリーフィングルームへと移動した。円卓を囲んだのは、エヴォリスに到着した直後のすり合わせ以来だろうか。あの時は打ち解けていないが故の静けさが漂っていたが、此度は全く別の、重苦しい沈黙が部屋を支配していた。
五人は着席しているが、誰も口を開かない。そのような気詰まりな”間”が生じるのは初めてであった。もともとブリーフィング中などでもほとんど発言することのなかったヴィクターだったが、その”隊長”としての影響力は大きかったようだ。しかしこの場は、ヴィクターの補佐的な役割も担っていたケルビンが仕切るのが妥当だろう。彼自身それを理解しているようで、逡巡した後に重々しく口を開いた。
「まず皆さんに報告しておきます。──エシュロンから、帰還命令が出されました」
溜息のような音が聞こえるだけで、誰も応えない。互いに視線を交わしながら、言葉を発せないでいた。
「我々が収集したサンプルのリストは、私から予め報告を上げていました。エシュロンはそのリストと現状を鑑みて、それで充分と判断したようです。解析や追加観察はスキップし、直ちに帰還するように、とのことでした」
「──ま、そうなるだろうね」
不服そうに椅子にもたれていたラビが、そう言い捨てる。その隣に座るアランはふと顔を上げ、わずかに身を乗り出した。
「じゃあ、もうこのまますぐ帰還準備に入るのかい?」
「ええ…ただ、せめて今日だけでも時間を置くべきかと考えているのですが…皆さんはどう思われますか?」
「いっつも決定事項しか言わないのに、僕らに意見を聞くなんて珍しい」
「──あくまでこれは、不測の事態ですから」
ラビの皮肉に、ケルビンは目を伏せて冷静に応える。ハンスはそんな二人を交互に見やると、その若干棘のあるような空気感に、内心で困惑した。
「いいんじゃねぇの。気を取り直すためにも、一晩ぐらいは」
ハンスがそうケルビンに投げかけると、ケルビンはハンスを見返して小さく頷く。そしてアランたちにも促すような視線を送り、返事を待った。
「──私はいつでもいい」
「そうだな。いったん、時間を置いた方がいいのかもな」
エヴァとアランが口々に応える。ずっと何かを思考するように俯いていたラビは、最後に全員からの視線を受けて顔を上げた。
「…明日のいつ?」
「アンネルまでは冬眠ですから、夜…二十時の定刻としましょう」
「わかった、了解」
観念したように了承したラビは、払うように小さく手を上げて悔しそうに俯いた。研究員のラビは、OSX-9を”興味対象”として最も心待ちにしていた。惑星調査が頓挫し、しまいには予定期間よりも早く帰還命令が出たとなると複雑なのだろう。彼には帰還後にサンプルの調査という役目が与えられるだろうが、アークウェイ作戦での彼の役目はもう、ほとんど終わったと言っても過言ではなかった。
「では予定通り、往路の折り返しという形で帰還します。最初のアンネルだけはOSX-9滞在分のエネルギーも補填するため、滞在が長くなるでしょう」
「わかった。…それで、──いったん解散ってことでいいのかな?」
「──ひとつ忠告させて」
話し合いが終わろうかと言う時になって、腕を組んで黙って座っていたエヴァが口を開いた。彼女は目で注意を促すようにひとりひとり一瞥する。
「さっきの停電だけど、エンジンコアにある配電機器に信号遮断の形跡があった。原因は不明。でも、事前情報で無人探査機が異常を起こしたっていう項目があったから、もしかしたらOSX-9の影響によるものかもしれない。今後起こらないとも言えないし、次は直接エンジンに影響が出てくるかもしれない。…それだけ留意しておいて」
落ち着いた、淡々とした声音で静かに提言するエヴァ。その声に是認が耳を済ませた。顔色はまだ戻らないようだが、ひとまず冷静に脳は働いているようだ。ヴィクターの死による衝撃か、目に見えて様子がおかしかったエヴァが気がかりだったハンスは、横顔を眺めながら心の中で胸を撫で下ろす。エヴァは主にエンジンコアに駆けつけなかった二人に対して説明するように発言していたが、二人からは特別大きな反応は返ってこず、一様に「了解」と応えただけだった。
「では、各自休息を取りつつ、帰還準備に入りましょう。こんな時ですが、食事を取ることも忘れずに。冬眠期間のバイタル異常のリスクを上げないためにも、くれぐれも健康管理は怠らないようにしてください。また、何かあれば…私はメディカルルームにおりますので、気軽にお訪ねください」
ケルビンの言葉で、その場は解散となる。ハンスたちはブリーフィングルームを出ると、そこから先はしばらく自由行動だ。ポッドに乗り込むエヴァとケルビンの行き先は、どこかしらの現場とメディカルルームだろう。ハンスとアラン、ラビはそれには同乗せず、リフトで回廊に上がった。ハンスはラビに、先刻ストレージで囁きかけてきた意味深な問いかけについて、その真意を探るために声をかけようとした。だがアランが残ったことで、どうしようかと考えあぐねいた。
ストレージのリフトはメディカルルーム同様、荷物の搬入出を考慮して大きめに設計してある。三人はやや窮屈ではあるがリフトに同乗し、回廊へゆっくりと上がっていく。その間も空気は重いまま、わずかな沈黙の時間となる。
床が開き、リフトが回廊に到着すると、アランはひとりさっさと歩を進めようとした。気づいたハンスがその背中に呼びかけると、アランは不思議そうに振り返る。
「ん、何だ?」
「いや、──お前、どこに行くのかと思って」
微笑むアランに少々吃りながら尋ねれば、アランはそんなハンスの様子に苦笑し、肩を竦めた。
「確認作業の続きを。エヴァが言っていた”信号遮断”も気になるし、エナジーリザーブとユーティリティも見回ってみるよ」
アランはそう言って背中越しに手を振り、返事を待たず回廊を進んでいく。ハンスは呆然とその後ろ姿を見送った後、思わず隣で黙っているラビを見下ろした。ラビはまるで観察するようにアランの姿を見据えていた。
「──なあ、お前さっきの、どういう意味だったんだよ」
ラビの側頭部に向かって呼び掛ければ、ラビは覗き込むように首を傾けながらハンスを見上げた。どこか冷めたような、探るような瞳でじっと見つめられ、ハンスがわずかにたじろぐ。眉を顰めて顎を引くハンスの様子に、ラビはフン、と鼻息をひとつ漏らす。そして今度は半分まぶたを落としてニヤリと笑った。
「言葉通りの意味だよ。ま、もし僕の話を聞きたいならコモンラウンジに行こう」
ラビはそう言うと、アラン同様ハンスの返事を待たずして踵を返し、アランとは逆方向に歩を進める。ハンスは腰に手を当てて天を仰ぐと、そのまま首を急降下させて大きくため息を吐いた。そしてラビの方へと足を向けながら、肩越しにアランの行った方向を振り返る。その背中はもう小さくなっていた。ハンスは後ろ髪引かれるようにして向き直ると、もうだいぶ先を行くラビを小走りに追いかけた。
リフトで無人のコモンラウンジに降りると、二人はキッチンで飲み物を用意してからラウンジに移動する。カフェテリアはラウンジよりも突然人が入ってくる可能性が高いからだ。ハンスは、ラビが回廊からこの場所に移動した理由を察していた。人目と監視を避けるためだ。コモンラウンジは丸ごとプライベート区画となっており、一度入ればレムの監視から外れる。回廊などの移動区画は監視エリアに認定されているので、最悪レムが見ているか、ログが残される可能性がある。ラビがそれを避けたがったのは、主にレムや他のクルーに秘匿したいことがあるに違いない。ただ、ハンスはラビが自分だけにそれを打ち明けようとしている心理までは読み取れなかった。
互いに自分の飲み物を用意してラウンジへ向かう。キッチンの食洗機で自分の私物である白磁のカップを目にしたラビは、目を見開いてハンスを見やったが、ハンスが顎をしゃくってさっさとしろと促したので、淡々とカップにチョコレートドリンクを注いだ。
ソファに向かい合って座り、互いにカップを啜る。ちびちびとコーヒーを啜るハンスの目の前で、ラビは一気にドリンクを飲み干した。盛大に息を吐き、カップをテーブルに置く。
「はあ…なんか、僕の知らない間にとんでもないことになってたんだね」
ラビはそう言ってソファにもたれ、足を投げ出す。その態度に、ハンスはカップを持ったまま眉を吊り上げた。
「お前そういやあの時コアに来なかったけど、担当じゃないからお任せしますってスタンスなのか?少なくとも何があったか聞くのに連絡ぐらい寄越すだろ普通」
「…まあいいじゃんそれは。僕らしくてさ」
「お前らしさで片付けてんじゃねぇ」
ハンスが舌打ちし、カップをテーブルに置くと、ラビが身を乗り出した。どうやら本題に入るらしい。ハンスは溜息を吐き、腕を組んで言葉を待った。
「ハンスはさ、本当にヴィクターが転倒して、頭ぶつけて、そのまま死んだと思う?」
「そりゃ、本来の隊長なら受け身の一つでも取れるだろうが…聞いた限りの精神状態だったなら、正直納得は出来る」
「なんで?」
「お前は知らないかもしれないが…戦場だと、居るんだよ。もう自分じゃ何もコントロール出来ねぇ奴が」
ハンスは瞼の裏に過去を映す。彼が何度も対峙したヴァインの中には、”苦しみに耐えられなかった人間”が多くいた。致命傷を負っても笑い続ける者、足元もおぼつかないのに銃を持つ手だけは正確に動く者、上体を屈めたまま静止し、まるで立ったまま死んでいるかのような状態の者──。ハンスはそんな人間と相対するたび、これが人間なのかと衝撃を受けた。
ハイラントではまず見られない光景が、外の世界にはありありと存在する。ヴィクターは、そんな人間を”人間である事を放棄せざるを得なかった者”だと言った。飢餓、病、いつ襲われて死ぬか分からない恐怖──それらは精神を蝕み、身体機能を奪っていく。引き金を引けずにいたハンスの目の前で、ヴィクターは躊躇なく発砲した。「自分の制御が出来なくなったら、人間は終わりだ」と彼は言い、その姿は苦しみから解放する儀式を終えたかのように厳かだった。
「じゃあ、ヴィクターは…自分で自分をコントロール出来ない状態にまでなってて、それで倒れて死んだって──ハンスはそう思うわけね」
ラビが念を押す用に言い、真っ直ぐハンスを見据える。ハンスは沈黙で応じるしかなかった。
「ふうん…僕は、ヴィクターは不意打ちされたんじゃないかと思ってるよ」
「不意打ち?」
「うん。僕想像してみたんだ。もし誰かがすごく何かに怯えてたら、防衛本能で体が縮こまって、周りを警戒して自分を守ろうとすると思うんだ。ヴィクターは軍人で、夢ですら影と”戦ってた”んでしょ?だからどんなに精神が不安定になってても、倒れて頭打って死ぬなんてことはありえないんじゃない?」
ラビの発言には一理ある。確かに悪夢に苛まれ、幻視もあったとはいえ、ヴィクターはほとんど平常を保っていた。だから、何が幻視で何が現実かははっきりしない。
「ちょっと、これ見て欲しいんだけど」
ラビは白衣のポケットから小石を取り出し、テーブルに置く。ハンスはそれを見て身を乗り出す。
「これ、君があの時僕を驚かしたから汚しちゃったサンプルなんだけど」
「…染みが無いってことは、綺麗に拭けたのか?」
「──いや、見てて。いいかい、これは君だけに見せるんだからね」
ラビはハンスのカップを手に取ると、残っていたコーヒーを敢えて石の上に溢した。ハンスがわけもわからずそれに注目していると、不可思議な現象が起きた。
「ね、びっくりしたでしょ」
「──ああ、…どうなってんだ、これ?」
ラビが溢した液体は、石に吸い込まれるように消え、テーブル上に跳ねた分だけが残されていた。ハンスは目を見開く。
「ちなみにこの石、成分的には花崗岩で、コーヒーの染みはつきやすい。でも見てよ。染みがつくどころか、水分が跡形もなく消え去ってる。これって、どういうことか分かる?」
「いや、…どういうことなんだよ?」
「見た目は普通でも、作り物じみてるってことさ」
ラビはナノスキャン顕微鏡で石の結晶を観察した結果、通常ランダムなはずの結晶の形が均一であることを発見した。自然ではありえない配置だ。葉、樹皮、砂、土なども同様で、ラビはそれを何らかの技術の可能性として説明する。
「まあ、何となくわかってくれればいいよ。自然に見えて、技術で作られたような特徴があるってこと。…でもそれって?例えば何らかの技術で自然を再現してるのか、または何らかの技術で自然に手を加えて、均一性を持ったものが生み出されたのか。…まあ、そこまでは分かんないけど」
散々説明を受けたハンスは頭がだるくなるが、ラビに奪われたカップを取り戻すと、残った中身を全て飲み干した。
「でさ、葉とか樹皮とか、僕らが集めたサンプル全部にも均一性があるんだ」
ラビはテーブルの小石を手に取り、ハンスに見せながら言った。
「均一性?」
「うん。葉脈の分岐角度とか、砂の粒の形とか、自然にあるはずなのに一定のパターンが見えるんだよ。言うなれば、自然だけどちょっと計算されてるっぽい感じ」
ハンスは眉を顰める。
「…自然を計算って?」
「君の所属する第三部隊で例えてみるなら、全員同じ格好をしてるけど並んでない、逆に格好は少し違うのに整列してる、みたいな。あ、全員ハンスとそっくり同じ顔してるけど服装も行動もてんでバラバラ、みたいなのもあったな。とにかくサンプルもそれと似てて、自然に見えるけど、よく見ると規則性があるんだ」
ラビは手元の小石をくるりと回す。
「この石も見た目は普通の花崗岩。中にはいろんな結晶がバラバラに混じってる。でも結晶の形が全部同じで、自然じゃありえない」
「…なるほど、見た目と中身が違うってことか」
「そうそう。だから僕は、これも何らかの技術で自然を作ったり、加工したりした結果じゃないかと思ってる。経緯は分からないけどね。だってあそこには生物がいなかったから」
ハンスは肩を竦めた。
「まあ、それは分かったが…それと隊長の件と、何の関係があるんだよ?」
ハンスが問いかけると、ラビは少し間を置いて答えた。
「うん、だからさ。これが”技術”だとしたら、ヴィクターは何らかの技術の一端を見てしまったんじゃないかと思ってね」
「…は?」
「いや、つまり自然をここまで分子レベルで再現してるんだとしたら、それは僕らが辿り着けてない境地の技術だよ。それが自然だけに使われてるとは思えない。ヴィクターだけがOSX-9やロッカールームで、その一部を目撃したんじゃないかっていう、僕の想像ね。この技術の先にいる、”何か”の可能性を示唆するものだとしたら──」
秘密を共有するように、ラビは人差し指を口元に寄せた。そしてじっとハンスの瞳を見上げ、口角を持ち上げる。ハンスは彼の自信に満ちているようで不安定な表情を、どう受け止めて良いものか戸惑った。
「ちなみにこれは君にだけ話すことだから、絶対に他の人には言わないこと」
「…は?何で」
ハンスが顔を顰めると、ラビは楽しげに笑った。
「いいから。君は無闇に今聞いたことを言いふらさないように」
その笑みにとこか計算めいたものを感じ、ハンスは思わず眉を潜めた。朗らかな戒めは、煙のようにハンスに纏わりついた。彼はラビの表情を、最後まで曖昧にしか読み取ることができなかった。
図らずもラビと秘密の共有をしたハンスは、ラウンジで彼と別れると当てもなく回廊を歩いた。自室に戻ろうかとも思ったが、どうにも体を動かしていた方が脳の整理も出来る気がして足が向かなかったのだ。
回廊を進みながら窓の外を眺める。輪の中心にある白い中央コアが、その先のまるで地球のようなOSX-9を背景にしている。その光景は、地球を出発してすぐの順応期間に見た光景と重なった。ラビの言うようにあの美しかった自然が何らかの技術によるものだとすれば、惑星ひとつをそれで覆える技術力とはいったいどれだけのものなのだろうか。窓に手をついて、ハンスは地球に似た星をじっと見つめた。青く発光するような惑星が、まるで棄てられたようにそこに浮いている。
しばらく歩き続けていると、メディカルルームのハッチが見えた。そういえば先刻のブリーフィングでケルビンが、「メディカルルームにいる」と言っていた。ラビの話の整合生を高めるために、彼から話を聞くのもいいかもしれないと思ったハンスは自然と、リフトの乗降パネルを押していた。
メディカルルームに着くと、ケルビンはデスクに向かって作業をしていたようだ。ハンスがリフトから降りてくるのに気づくと振り返り、デスクトップをスリープ状態にして彼を迎える。
「…どうされました?」
「どうされましたって…ちょっとお前に聞きたいことがあってさ」
リフトから降りてハンスがデスクに歩み寄ると、ケルビンは傍に置かれていた椅子を指して彼に席を勧める。ハンスは素直に従い、座ったが良いが考えがまとまらずに口籠った。まるでカウンセリング風景だが、ケルビンは何も言わず、黙ってハンスの言葉を待っていた。
「…その、隊長の件なんだけど」
「ええ」
「どういう状況だったと思う?」
ハンスが腕を組み、しばし瞳を彷徨わせてからケルビンを流し見て言った。ケルビンは即答せずに眼鏡のブリッジを上げた。
「…それは、ロッカールームでの件のことを言っていますか?」
「ああ。隊長の行動を…ちょっと洗ってみたくて」
「何故?」
「本当に幻視ってやつで気が狂って発砲したのか、それで足元がおぼつかなくなって倒れて頭を打ったのかって…ちょっと確かめたくなってさ」
苦笑まじりにのハンスに、ケルビンは小さく息を吐いて視線を逸らす。そして、デスクの脇に伏せていたタブレットを手に取りながら言った。
「──それは、あなたが発言した意見だったはずでは?」
「そうなんだけど、よくよく考えたらやっぱ謎があるな、と思ってな」
「…謎、ですか?」
タブレットを弄りながら応対していたケルビンが、ハンスを一瞥する。一瞬ぎくりとしたハンスだったが、咳払いで誤魔化すとさらに続けた。
「いや、例えばな?倒れてた向きと位置とか、弾丸の軌道的に、ロッカールームから出ようとしていたところ、背後に気配を感じて発砲したって感じだろ?で、一発しか撃ってないから、銃が効かないと分かって退却しようと振り返り、足がもつれて転倒。──これが状況から見える隊長の一連の行動なんだけどさ」
ケルビンは黙ってハンスの意見に耳を傾けている。時折タブレットを一瞥し、指先を動かしながら。
「──でも、よくよく考えたら…打ってるのは側頭部だし、足がもつれたぐらいだったら反射的に手が出て致命傷は免れる気がするんだよ。だから、俺が思うに隊長は…床に側頭部を叩きつけられたか、そもそも倒れる前にはもう意識が無かったか、どっちかの可能性も捨て切れないんじゃ無いかって…」
「…それは、何とも非現実的ではありませんか」
ハンスの言葉を、ケルビンの静かな声が遮った。彼はひたとハンスを見据える。
「あなたの考えに沿うのであれば、”影”は幻視ではなく、実在する何かである必要があります。そのような存在を確認すればレムが我々に報告するはずですが、現状それもありません」
ケルビンはデスクにタブレットを伏せて置き、両手を膝の上に揃えて姿勢を正す。口調は柔らかで言葉も丁寧であるのに、どこか圧を感じるような気がしたハンスは、思わず閉口した。
「それでも”何か”が存在すると主張するのであれば、…考えたくもない、最悪な候補が上がりそうですが」
「──は、はは」
ハンスは無意識的に、誤魔化すように小さく笑いを漏らした。いつもの冷静なケルビンの視線が、鋭く感じたからだ。しかしハンスのそのような様子を見ると、ケルビンは呆れたように溜息を溢す。その時にはもう、剣呑な空気は消えていた。
「もしあなたがヴィクター隊長の名誉のためにも正確な死因が知りたいのなら、それはハイラントに帰還した後に判明するでしょう。どのみちここでは、限界がありますから」
「…まあ、確かにそうではあるな」
「いずれにせよ現状、私の見解では”幻視による錯乱”としか言えません。──強制覚醒時の彼の様子は、そう判断するに足るような状態でした」
「そうなのか…」
ハンスは、直接ヴィクターの取り乱した様子を見ていない。これまで同じ隊で任務についたなかでもそうだ。これに関してはケルビンの証言を受け入れるしかなく、ハンス自身が直接感じていたヴィクターの微細な違和感も、その錯乱に起因するものだと思わざるをえなかった。
「──なあ、お前俺には協力を求めてきたくせに、なんで隊長のそういうの教えてくれなかったんだよ」
ハンスはわずかに眉を寄せ、ケルビンに小さな疑問を投げかけた。するとケルビンはわずかに目を伏せ、苦笑を混じらせた。
「…あなたは意外にも直情で、それで彼を刺激してしまうかと思ったからですよ。──今となっては、それを劇薬として使用するべきだったのかと…後悔せざるをえませんがね」
そう言って姿勢を正す彼は、いつも通り冷静で、理性的で、やはり頼りになる医官に見えた。けれど同時に、ハンスの胸の奥にはざらついた感覚が蟠る。その正体は分からず、神経が過敏になっているのだと思い至る。
彼はそれに触れようとして手を引くように、心の中で打ち消した。
靄がかった感覚を抱えたままメディカルルームを出てケルビンと別れたハンスは、ポッドを利用してストレージに向かうことにした。とにかく一人でいると思考の沼に嵌りかねず、作業をすれば業務に支障をきたすのではないかと危惧したためだ。彼はアランが別れ際に「エナジーリザーブなどを見て回る」と言っていた記憶を反芻して、まずそこに向かった。居なければ、その隣のユーティリティだろう。
ハンスはポッドに乗りながら、ふらふらと船内を歩き回るようなアランの行動を珍しく思っていた。彼は食事や運動など、決められたルーティン以外はコックピットに居るような人物だ。ずっと無重力状態の場所にいるのは推奨されていないので時折トーラス部分に移っているようだったが、それでもコモンラウンジで過ごすかトレーニングルームにいるかの二択と言っても過言ではなかった。それ故に彼の居場所は分かりやすかった。
OSX-9から戻ってから、アランが操縦以外でコックピットのシートに座した時間はごくわずかだ。もしかしたら往路にここで過ごしすぎた反動で心境が変わったのかも知れなかったが、ハンスはほんの少しだけ気になっていた。
ストレージモジュールに到着し、通路を進んで一番奥のエナジーリザーブへと向かう。そこは蓄電装置と変換装置が並ぶ、いわゆるエネルギーの備蓄倉庫である。ドアが開いた先にいたのは考えていた人物ではなく、エヴァだった。彼女は点検用端末を操作しながら、黙々と装置の確認作業を行なっているようだった。ハンスの入室にも気づかず、背を向けたままでいる。
ハンスはその後ろ姿を眺めながら、遺体発見時の彼女の取り乱しようを思い出した。ショックを受けたようにロッカールームを飛び出し、その後落ち着きを取り戻したように見えてからはほとんど無言。まるで、作戦開始から間もない頃の彼女に逆戻りしたかのような雰囲気を醸し出している。
「こっちも問題無さそうか?」
壁に肩を寄りかからせ、ハンスは遠慮なく背後から声をかけた。エヴァはひくりと動きを一瞬止めたが、振り返らずに作業を再開する。
「ええ」
「──へえ。じゃあ、一体原因は何だったんだろうな」
わざとらしくハンスが問いかけるが、エヴァの目がハンスを捉えることは無かった。
「さあね」
取りつく島もない応対に、ハンスは思わず舌打ちが出そうになる。このエヴァの態度は、ハイラントにいる間、急に態度を変えた時の彼女そのものだった。”彼女の頑なな支柱は、天井を床を排除しない限り倒れない”──往路でラビに言われたことをハンスは思い出す。一度消えかけたと思っていた支柱が、また強度を増したらしい。
「──何か用なの?」
いつまでも黙ってその場に留まるハンスの気配が消えないのを察したエヴァが、短く問いかけた。暗に「用がないなら去れ」と言っている。
「いや、アランがこの辺見て回るって言ってたから来たら、お前がいたんだよ」
「私が来たときには居なかったわよ。…個人端末に連絡すれば?」
そこでまた会話が終わる。ハンスの言葉に明確な答えを出すだけで、それ以外のことを拒絶している。ハンスの口が、不服そうに引き結ばれた。
「──なあ、あんな事があったからしょうがねぇんだけどさ。…疲れてる?」
こみ上げそうなものを吐き出すように大きく深呼吸をした後、ハンスはさらに会話を続けようとした。エヴァは変わらず、タブレットと機器に視線を往復させるのみだった。
「そうね。もうすぐ冬眠だし、これが済んだら一服するわ」
接触不良を起こしたように、細切れの会話が続く。ハンスは諦めたように頭を掻くと、「ああ、そうしろよ」と言い捨てる。
「ったく、どいつもこいつも…」
ぼんやりとした苛立ちが胸に残り、思考の靄が少しだけ濃くなったまま、彼はストレージを後にした。
刻々と時間は過ぎていき、食事の推奨時間に入る。クルーたちはその二時間の間に、各々で食事を済ませる必要がある。アランを探そうと思っていたハンスだったが、ひとまずコモンラウンジに戻ることにした。
先ほどは、アランがストレージへ向かうと言って別れてから時間が経っていたのでポッドを使って移動したが、ハンスは再び、ストレージからコモンラウンジまで回廊を歩く。誰かと遭遇してもおかしくない時間帯だが、回廊は籠もったような静寂に包まれている。嫌でも誰かと遭遇した往路での記憶を辿りながら、ふと思い当たる。
「そういえば隊長とはあんま鉢合わせすること無かったな…」
そう呟くと、思わず言葉が漏れていたことに驚いて口を結ぶ。コックピットにはアランがいて、ラウンジでラビに声をかけられ、すでにエヴァが食事をしているカフェテリアでテーブルを共にする…往路では、そんな邂逅が多かった。しかし思えば、ヴィクターとはあまり遭遇していない。彼は基本的に単独行動が多かった。よく「自室に戻る」とも言っていたので、もしかしたらほとんど自室にいたのかも知れない。
ヴィクターの私生活を知らないからという理由であまり気に留めていなかったが、もしかしたら一人になりたがっていたのかもしれない。そしてそれが、意図しないサインだった可能性もあった。ハンスは今更になって、”ヴィクターだから”と信頼し過ぎていた事を後悔していた。
一人になりたがるといえば、エヴァだ。彼女はハイラントにいる時からそのような節があった。かつては、忙しい合間にも自然と付き合いがあった。だがある日を境に、ふいに途切れた。声をかけても、どこかに壁がある。──何も言わず、勝手に距離を置いて、理由も教えない。ただの沈黙に見えて、その実は緩やかな拒絶だった。アランも気付いていてハンスにそれとなく知らせてきた。兄離れの渦中にいたハンスですら、彼女の変化を見過ごせないほどだった。──今のエヴァは、あの時のエヴァだ。
コモンラウンジに着くと、案の定そこは無人だった。ハンスは溜息をついてキッチンへ向かい、気の乗らない食事の準備をし始める。加水食品にお湯を入れ、サーバーからドリンクを注ぎ、ナッツなどの袋を開封しながら、ハンスは気付くと無意識に溜息を吐いていた。往路でも独りで食事をする時間はあったが、今は妙に味気なく感じられた。
ハンスがのろのろと食事を口に運んでいると、カフェテリアの扉が開かれた。ハンスが肩を跳ねさせると、フォークで掬っていたボイルした野菜がプレートに落ちる。入って来たのは、今までどこに潜んでいたのか分からなかったアランだった。
「ああ、ハンス…お疲れ」
アランは片手を軽く上げてそう言うと、キッチンに向かう。そして、キッチン台をなぞるようにしてドロワーを引き、確かめるようにプレートやカトラリー、カップを台の上に乗せていく。ハンスは「おう」と一言だけ返事をしてから、その動作を何となく目で追った。慎重な動作でアランの夕食プレートは完成され、彼は片手でそれを持ってカウンターまで移動すると、スツールひとつ分空けた席に着いた。
「確認作業どうだったんだよ」
「ん?ああ、問題なかった」
加工肉をフォークでほぐしながら、アランは目線は手元に置いたまま応えた。
「エヴァも同じ事してたぜ。…ていうか、任せておいたらいいだろ」
「うんまあ、いろいろ見ておきたくてな」
そう言って、アランはちまちまと肉を口に運ぶ。ハンスはそんな彼を横目に見ながら、コーヒーの入ったカップを傾ける。まるで食事も確認作業の一貫なのかと錯覚するほど、アランの仕草は注意深いものだった。
「…お前さ、アラート鳴った時何処いたんだよ?」
大方の食事を終えたハンスが、ナッツを摘みながら自然を装って尋ねる。彼は、エンジンコアにアランが来なかった事を殊更に気にかけていた。対するアランは悠然と食事を進めていた。
「アラートが鳴った時は…ユーティリティに居たな」
「エンジンコアの異常って言ってたのに何で来なかった?」
「…移動しようとはしていたんだが、レムのリブート中の連絡があったから、ひとまずは大丈夫だと思ってな」
「で、その後隊長見つけたのか」
「ああ、一応エナジーリザーブを見ようかと思ったら、その前にな」
その時の事を思い出したのか、アランの手がしばし止まる。ハンスは失敗したと思い、口を噤む。ナッツを摘む振りをしてアランを流し見たが、その表情に落ち込んでいる様子がないことに安堵する。とにかく彼は、騒動の前にはユーティリティに居た。それが分かっただけでもよしとして、ハンスは溜息を吐いた。ユーティリティはストレージの隣に位置しているが、作業区画だ。
ハンスは、いつの間にかアランを探るような事をしている自分に内心で驚いていた。ヴィクターが亡くなったことで、無意識のうちに感じている不安を解消したいのか、何か安心材料が欲しいのか…ハンス自身、気付いていない。無言でプレートに乗った食事をさっと片付け、ハンスは最後にコーヒーを飲み干した。そして、目を閉じて大きく鼻から息を吸い、ゆっくりと吐き出す。そして、切り替えるように立ち上がると、その場を片付け始める。
「先にコックピット行ってるわ」
キッチンで諸々の処理をしながら、片手間にアランに伝える。顔を上げたアランの手元のプレートには、まだだいぶ食べ物が残されている。ハンスはそれを見て軽く目を瞠り、苦笑した。
「…お前、食うの随分遅くなったんだな」
ハンスは、今更になってそんなことに気づいたことに妙な可笑しさを感じた。当たり前の話だが、アランやエヴァとほとんど連まなくなった事で、改めて気付くことがある。アランが昔の話をよく持ちかけてくる気持ちが初めて理解できた気がして、自分にも同じ一面があったのかと思うと笑いがこみ上げたのだ。
「そんなことない。最近はこんなものだったよ」
つられて微笑むアランに軽く手を振って、ハンスはカフェテリアを後にした。昔のような距離感が戻ったような気がしたが、その感覚は不思議とすぐに霧散した。
ハンスがコックピットでアンネルまでのルート確認をしていると、ふと、レムのボディが眠っているように微動だにしていないことに気付いた。いつもは話してなくてもLEDが点滅し、レンズがわずかに移動するようなモーター音が聞こえるのだが、それが無い。モニターにルートラインを表示させ完了させるが、何も話さない。怪訝そうにシートから身を乗り出し、軽く頭を小突いてみると、小さく電子音を鳴らしながらレンズが起動した。
「はい、何かご用ですか?」
「いや、お前なんかアラート以来静かだからさ」
ハンスの言葉を受け、レムのLEDがイエローに点滅する。細かい電子音が鳴り、レンズが小刻みに動作する。
「静かにしているように見えたのでしょうか?わたしはあなた方に話しかけられた時、いつもお相手していますよ」
「…そうだったっけか。いつの間にか勝手に喋ってるイメージあったわ」
小突いた手を引っ込めながら、ハンスはモニターを操作して画面をウィンドウに移す。そして、再びレムを見やってそちらを指さした。
「ほら、ルートと予定時間。これでいいよな?」
「はい、問題ありません。ハンス、ウィンドウに映さずとも、わたしはエヴォリスの情報は把握出来ますよ」
「……そうだよな、分かってるけどさ」
ハンスは、デジタル映像で再現された地球までの惑星全体図と経路図を同時に視界に入れる。HUDの画面が、これから地球に帰還することをハンスに強く実感させた。OSX-9が地球と似ているせいで、まるで地球から地球に向かって帰還するような、奇妙な絵面だ。
帰ったらどうなるのだろうか、とハンスは漠然と考える。所属している第三部隊の隊長はもういない。新たな隊長が据えられるのか、隊員の中の誰かが繰り上がるのかは不明だが、その先どうやって生きていくのか全く思い浮かばない。ハンスにとって第三部隊で印象深かったのはヴィクターだけで、それほど多くない隊員の中には名前すらうろ覚えの者がいるくらいだ。まるで支柱を失ったような状況で、未来が一気に不鮮明になった。
このままずっと、同じような日々が続いていくものだと思っていた。──宇宙に飛び出したところで、行って帰ってくればまた同じ生活が待っているのだと。だが、たった一人を失うことが、こんなにも自らに影響するのかと、どこか遠い視線でハンスはぼんやりと思考を巡らせていた。冬眠中の日数を計算に入れなければ、あと八回眠ればもう地球だ。気持ちの整理をつけるには、あまりに短い時間のように感じた。
程なくしてアランがコックピットにやって来た。ハンドレールを順に辿りながらウィンドウに映されたHUDを見て、何度か首肯する。操縦席に着くとハンス同様ベルトを締め、コンソールをチェックをしながら操縦機器の最終確認を始めた。どこか懐かしげに機器に触れるアランを横目で見ていたハンスは、呆れたように小さく笑った。
「また、秘密基地の事考えてんのか?」
「え?」
「お前、最初の時も言ってたよな。どんだけ好きだったんだよ、あのコックピット」
「──ああ、そうだな…忘れられないよ。あれは、夢みたいな場所だった」
記憶を辿るように、アランは遠い目をしてウィンドウの外の宇宙を眺めた。彼が宝物のように手中に収めているあの廃旅客機のコックピットは、実はハンスにとってはあまり印象強くない。ハンスは幼少期、あれはアランの場所だと認識していたからだ。
「あの時は、空を飛ぶのが夢だった。──それが叶って、空を飛ぶどころかその先の宇宙を飛んでるんだけどな。…だから、今度はひとまず地球に帰る事を夢にしようと思う。あの時の感覚を忘れないように」
少し戯けた口調でそう言って、アランは穏やかに笑う。ハンスは以前なら、「またその話かよ」と邪険にしただろう。だがアランの微笑を前にして、なぜかそれが出来なくなっていた。その邪険にするような言葉が自然と頭に浮かばないのだ。
「…お前らしいな、アラン。──お前らしい」
まるで言い聞かせるようにそう独りごち、ハンスは小さく数度頷いた。その言葉で自分を納得させようとしているかのように。
とうとうOSX-9から離れる時が来た。イージスで飛び立った時から十時間も経っていない事が不思議なほど、衝撃的で妙に長い時間がようやく過ぎた。クルーたちはメディカルチェックを終え、冬眠用のスーツに装着し、ステイシスルームに集合している。何度か冬眠を重ねる事で冗談すら言い合っていた冬眠前のやりとりが、今は無い。部屋の奥で一つだけ蓋の開けられていない、稼働する予定のないセルがひっそりと存在感を滲ませており、そこから何か放出されているのかと思うほど、室内にはじっとりとした空気が漂っていた。
エヴァとラビがさっさとセルへと入り、横になって待機する。いつも必要以上に口数が多いラビが、何も発さずにさっさと行動する姿は、ハンスには異様に映った。アランはマイペースにまじまじとセルを眺めながらもゆっくりとセルに入る。自らのセルの前でひとりひとりの動きをぼんやりと眺めていたハンスも、促されるように中に入った。
「通常睡眠を何度か挟みましたので、緊張なさっている方もいるかもしれませんが、どうかリラックスしてください。──それでは皆さん、アンネル付近でまたお会いしましょう」
ケルビンの静かな声がやけに部屋に響く。誰も何も言わないまま、ゆっくりと全てのセルが閉じられる。ハンスは視界が暗くなり、眠りが近づくような感覚を覚えるにつれ、力を抜こうとするあまり瞼や肩が逆に強張った。どうにかしなければと脳内で思っているうちに、意識は暗く落ちていく。そうして、”エヴォリスの夜”が始まった。
ハンスは夕暮れの日差しを瞼に感じ、眠い目を擦りながらなんとか開く。目の前に翳した手は小さく、昔の記憶が蘇り、混乱する。寄りかかっていた支えが小さく動き、そこでその支えが人であることに気づく。ハンスが顔を上げるよりも前に、その人物が声を立てた。
「ようやく起きたの?」
懐かしい、聞き覚えのある声だ。驚いて身を起こせば、目の前にはかつて感情に従って豊かな表情を見せていたエヴァの姿があった。勝気そうなブラウンの瞳が印象的だ。彼女の兄に毎日やってもらっているというポニーテールの長い髪、毛布やガラクタ、拾い物の本などが乱雑に広げられた狭いコックピット──これは、まだ五歳にも満たない時の記憶だ、とハンスは思う。
しかし、自由に動けていると思ったのは錯覚だった。意思に反して視界は移動し、声を出そうにも口が開かない。あくまでハンスは記憶の中の自分に介入できず、内在した意識となっていたようだ。ハンスの目が、操縦席に座るかつての兄の姿を捉える。彼は子供の頃から背が高かったが、大人から運動を禁じられているためか、外見の印象は力仕事を手伝う同年代の子供たちより頼りなかった。しかしその分大らかで穏やかなのは、今も昔も変わらない。
西日の差し込んだ操縦席で古びた本を読んでいたアランは、それをゆっくりと閉じてハンスを振り返る。横顔に赤い光を受けながら、彼は穏やかに微笑んだ。
「おはようハンス。エヴァが随分暇してたみたいだよ」
「ハンスは寝てるし、アランはここが好きだから、私はここから出られないの!」
「──さっきはここでいいって言ってたのに?」
「だって、外で遊んできていいよって言われたって、一人じゃつまんないもん」
ハンスの目の前で、かつての二人がやりとりしている。アランが少し揶揄うようにエヴァをあしらい、エヴァが意地を張るのはもはや定番の流れだった。
「ねえ、ハンスも起きたことだし、この部屋の飾りを探しに行こうよ」
何も言わないハンスの隣で、エヴァがアランに進言する。意識の中でハンスは過去のハンスの動きに身を任せながら、今まさに妙なかたちで蘇っている記憶に浸る。今思えばエヴァは、自分が兄と禄に会えない寂しさを埋めるためか、アランによく懐いていた。そして幼少期のハンスは、彗星のように現れて自分たち兄弟を振り回すエヴァに引け目を感じていた。彼女の強引さと行動力は、内向的過ぎた過去のハンスには酷だったのだ。
この時も、エヴァが暗に外に出たいと言ったことに対して拒否反応を示し、ハンスはコックピットの隅で膝を抱えた。エヴァは呆れた表情で肩を竦める。アランは苦笑した。
「エヴァ、夕方以降は柵の中でも危険だからって君のお兄さんも言ってたろ?飾り探しはやるなら明日、外が明るくなってからだね」
アランがやんわりとエヴァに言い聞かせると、エヴァは口を尖らせた。
「じゃあ、何かおもしろい話してよ」
「うーん、そうだなぁ。じゃあ戻りながら、この飛行機の話でもしてあげようか」
もともとハンスが起きたら戻るつもりだったのか、アランはそう言って立ち上がりながらハンスやエヴァを促した。エヴァが小さくため息をついて掛けていた毛布を畳んで脇に寄せる。ハンスも黙ってそれに倣い、三人は客席を通って出入口から伸びるエアステップを下りる。
滑走路の脇に放棄された秘密基地を後にし、滑走路を横目に空港跡地へ戻りながら、アランは躍るような口調で語る。
「父さんの話だと、そこの広い滑走路で助走をつけてから、飛行機は空を飛ぶんだって。こういう、俺らの住んでるところみたいな場所が世界にはたくさんあって、いろんな人が飛行機に乗ってあちこち飛んでいたそうだよ」
「じゃあ、私たちの秘密基地も空を飛べるの?」
「いや、あれはもう壊れちゃってるからダメなんだ。…でも、もし空を飛べたら、安全に柵の外に出られるかもしれないな」
アランとエヴァの話に耳を傾けながら、幼いハンスは滑走路を眺めた。もう日が落ちようとしている広大なその場所で、新品の秘密基地が助走をつけて飛んでいく姿を想像しながら──。
シーンは変わる。四方が白く、小さめのリビング。ソファベッドに寝ていたハンスが起き上がると、見覚えのある風景が広がる。備え付けの白いテーブル、壁のモニター…小さなキッチンの奥には、バスルームへと続くドアがある。ソファ部分の青いラグや、古い本が数冊しか並んでいないモニター下のラックはアランが申請して追加したもので、ここはハイラントの、アランの部屋だ。
ハンスは教育育成セクターの教育課程を受ける間、アランの部屋に寝泊まりしていた。アランも働く前は数年間同じ課程を受けていて、その間身寄りのないハンスたちはランク3の養父の元で生活していた。しかしアランが仕事に就いた事を切っ掛けに二人は二人だけで暮らす事にしたのだ。エヴァにも同じように養母がついていて、彼女はそこで暮らしていた。
始めはアランもランク1で、同居するには狭い部屋で生活する事になった。しかしすぐに彼はランクをひとつ上げ、今居る少し広い部屋へと移動することが出来た。ハンスは兄に着いていく形で、世話になっている状態であった。
夢の中のハンスはソファベッドから起き上がると、個人端末で時間を確認し、それと同時にとある通知画面を開く。それは、”警衛セクター適正”の適正診断書だ。そこで、意識の中のハンスはそれが十五の時の記憶だと察する。この時の彼は、その適正が出たことで、ある決心をしていた。
ハンスの足はバスルームへ向かう。そして洗面台に手をつき、鏡の中の自分と向き合う。伸びた髪が肩に垂れっぱなしになっている。当時のハンスは生活においてアランの世話になりきっている状態であることに息苦しさを感じていた。感性調整セクターには髪を整えてくれる人物や機械も存在し、ランクによっては利用可能だ。ハンスは扶養されている状態であったため、アランのランク権限を借りれば利用出来たがそれを拒否していた。おかげでたまに自分で鋏を入れるぐらいしかしていない髪は伸びっぱなしな事が多かった。
鏡の中の自分と睨み合っていたハンスは徐に髪の上半分をゴムでまとめ上げ、鏡の傍の棚に入れられたバリカンを手に取った。アランがたまに自分用に使用していた物だ。調整用のコームを取り外し、垂らしていた下半分に躊躇なくバリカンを入れ始める。意識の中でアランはこの時の心情を思い出していた。──その日、一人で暮らす事をアランに言おうと思っていた。その決意表明と自分の中での確固たる意志の証明として、髪を切ったのだ。感性調整セクターが出していたヘアスタイル一覧の中で、目を惹かれたものを思い浮かべながらバリカンを入れ、とうとう鏡に映った姿が昨日までの自分とは別人となる。
「何してるんだ、ハンス?」
電子音で目が覚めたのか、いつの間にかアランがバスルームに来ていた。洗面台や床に散乱した髪を見下ろしながら、呆気にとられている。彼の記憶の限りでは、ハンスはこのような突拍子もない行動に出るのは初めてだったはずだ。
「ちゃんと片付けるよ」
「いや、それはそうなんだが…どうしたんだ、こんな早朝から」
床の髪を足で寄せながら頭や服に残った毛を払いつつ、平然としているハンスの行動が読めずにアランは戸惑っている。ハンスはパンツのポケットに入れていた端末を取り出し、あの適正診断書の通知を画面に表示させ、アランに見せつける。するとアランは驚いたように目を見開いた。
「俺、出て行こうと思ってるんだ」
端末をポケットに戻しながら日常会話のように伝える。アランは一度目を逸らしたが、すぐにハンスに向き直って苦笑した。
「…なんか、急過ぎないか?」
「俺はもともと決めてたよ。適性が出たらこの部屋を出るんだって」
「…そうだったのか」
バスルームの出入り口にいたアランの脇をすり抜け、ハンスはすぐ傍のクローゼットからクリーナーを取り出して淡々と掃除を始める。気配が消えないのでそちらを一瞥すると、アランは半ば呆然と、片付けられていく床を見下ろしていた。
「成人するまでは、ここから通えばいいんじゃないか?警衛セクターってことは、軍に入るようなものだろう」
あらかた掃除が終わった頃、アランから控えめな声がかかる。当時のハンスはこの曖昧なアランの態度にいい知れない苛立ちを感じ、明確な線引きをするように宣言した。
「俺はひとりでも生きていけるよ、”アラン”」
ハイラントに来てからは背伸びをするように”兄貴”と呼んでいた。しかし、ひとりで生きていく証として、それを辞める。真っ直ぐと見上げたアランの表情は、わずかに傷ついたよううに揺れた。沈黙が落ちたのち、彼は諦めたように笑った。
「──そうか、寂しくなるな」
「時期が分かったら、また言う」
ハンスが急ぐようにそう決断したのは、同年のエヴァが構造管理セクター適性を受けてすぐに職員となり、養母の元を出たことを知ったからという理由もあった。アランはそれを察していたのかもしれなかった。
そして後日、ほとんど無い私物をまとめて部屋を出る時にアランから掛けられた言葉は今でも鮮明に覚えている。
「ハンス、くれぐれも身体に気をつけてな」
ランク1から生活が始まるハンスは、ランク2であるアランと生活圏が変わる。セクターも異なる二人が、ハイラント内で邂逅する確率はかなり下がるだろう。アランに背を向けて出ていくハンスの荷物の底には、密かに忍ばせた古びた小説──追いすがるようで、突き放したはずの自分が情けなくなった。
それは兄のラックからくすねたものだった。
光に満たされるような感覚の後、突如として闇に転落し──次に目に入ったのは、優しく調光されたステイシスルームの室内灯だった。ハンスは横たわったまま天井を眺め、夢という名の記憶の旅からすぐには抜け出せずにいた。
他のセルでも覚醒が始まり、声が重なり始める。それもどこかモヤがかったような、まるで水中にいるような感覚でしか受け止められない。ハンスは宇宙に出てから初めて夢を見た。何故今、突然あんな夢を見たのかとぼんやり考えるが思考はまとまらない。いつかの冬眠で、ラビが「二度寝したい」と言っていた事を思い出し、ハンスは今だけは彼に同意できると脳の片隅で賛同していた。
「全員バイタル正常範囲内です。あのような事がありましたので懸念はありましたが、問題なさそうでなによりです」
セルの情報をタブレットに落とし込んでいるのか、画面を見ながらケルビンが言う。セルから出たアランたちは、そのままメディカルチェックを行うために医療室へと向かった。ケルビンはふと、寝転がったままのハンスに気付いて足を止める。天井を見ていたハンスの瞳はゆっくりと、自分のセルを覗き込むケルビンを捉えた。
「どうしました、ハンス?起き上がれませんか?」
「──いや」
ハンスはそう言って、ゆっくりと身を起こす。体が重いのは毎回だが、脳まで重量を増したかのようにわずかに頭がふらついた。しかし手足は問題なく動かせそうで、それを確かめるように手を握ったり、その場で足踏みをする。様子を窺っていたケルビンはその様子を注意深く観察していた。
「バイタルは終始落ち着いていたようでしたが…」
「いや、宇宙に来て初めて夢を見たから」
そう言ってようやく起き上がり、軽くストレッチをする。ケルビンはわずかに目を細めた。
「歩けそうでしたらメディカルチェックを行いますので、奥へどうぞ」
そう言い残して一歩引き、ハンスに先に行くよう促す。素直に従い、ハンスはゆっくりと奥の医療室へと歩いた。
覚醒プロセスは問題なく実行され、彼らをとりまく現状とは裏腹にクルーの健康状態も良好だった。往路なら冬眠後はカウンセリングの流れだったが、ケルビンは復路ではそれを行うつもりがないらしく、特別クルーたちに声は掛からなかった。
マニュアル航行のエヴォリスは、アランの操縦とハンスのサポートによって微調整を重ねながら、アンネルとのドッキングを完了させる。シアとの連携がうまく取れず多少もたつく部分があったアランだったが、ヴィクターの死が彼をそうさせているなら仕方のない事なのだろう。かくして、クルーたちは再びアンネルへと移動した。
OSX-9滞在分のエネルギーなどを補給するため、唯一アンネルだけは二日間の滞在予定となっている。往路では何人か集まってどこかへ行ったり話をしたりした。しまいにはバイオミール品評会なるものまでラビ主催のもと行われたほどだ。しかし、今の彼らはアンネルに移るなり、ほとんど他人を避けるかのようにまとまりなく解散した。
ハンスは、パーソナルケースを自室に移し、中身を開く。夢の影響なのか、前まではそこまで持ち歩かなかった例の小説を今回は持ってきていたのでそれを取り出す。地球時間にして夕刻である現在に合わせ、室内灯は白熱に近い色温度で調光されていた。しかしハンスが本を開くと色温度が徐々に上がっていく。部屋にはほとんどベッドしか無いので靴を脱いで寝転がり読書の体勢をとると、唐突に続きを読み始めた。
他にどんなラインナップがあったのかは知らないが、ハンスがあの時手に取った本のストーリーはパンデミックものだった。正体不明のウイルスが世界中に蔓延し、姿形が大きく変形した人間の成れの果てが非感染者を次々と襲う。主人公の若者ははじめパートナーを連れてなんとか逃げ延びるばかりだったが、しだいに生存者どうし集まることでウイルスの謎が解き明かされていき、立ち向かうようになっていく。字を目で追うのが苦手であり、尚且つ物語の中で語られるものの想像がいまいち掴めないため、ハンスはほとんど中身を読んでいなかった。アークウェイ作戦でなら時間が作れるだろうと思い持ち込んではみたものの、手に取る機会は稀で、一晩に一頁も危ういレベルだった。
字を眺めているとだんだんと瞼が落ちようとする。冬眠後は生体リズムを取り戻すため、なるべく起きておかなければならない。このまま眠ってしまえば睡眠サイクルがずれ、ケルビンから小言が飛ぶかもしれない。ハンスがそんな事を思っていると、端末から通知音が鳴る。軽くハッとしたハンスは、本をベッドの上に伏せて起き上がった。カウンターデスクに置いていた端末を取って画面を確認すると、ラビから個人通信の履歴があった。
「──今度は一体何なんだ…?」
そう独りごちてメッセージを確認すると、《ROOM NO.B2》と短かく表示される。これは、彼の部屋だろう。ハンスはBブースの一番奥であるルーム5にPIコアを登録しているので、三つ隣だ。つまり、”その場所に来い”という事を言いたいらしい。わざわざ端末にメッセージで個人的に呼び出しているところから考えるに、また秘密の共有をしようとしているのかもしれない。ハンスは若干げんなりしながらも、素直に指示に従って部屋を出た。
「ようこそハンス」
部屋と尋ねると、ラビはカウンターテーブルの前に窮屈に置かれていた椅子に腰掛けてハンスを迎えた。うっすら笑いながら座る事を促され、溜息を吐きながらドア近くのベッドの端に浅く腰掛ける。
「やっぱり、君は来てくれると思ったよ。きっと、僕の推測を少なからず”無きにしも非ず”だなって思ってるだろうと予想してたからね」
「お前の推測って、”未知の生命体”説ってやつ?」
胡散臭そうに顔を顰めたハンスだったが、目の前のラビは怯む事なく微笑みを絶やさないまま足を組んだ。長い白衣の裾が足元でもたついている。
「そう、よく覚えてたじゃん。あの続きで、ちょっと分かった事があったから共有しようと思ってね」
「はあ…それで、また今回もここだけの話って?」
「当たり前じゃん」
「──何で俺なんだよ。ケルビンに話したほうが良くないか?」
部屋には来たものの、話が始まると拒否するような言動を始めるハンス。するとラビは笑顔を急に収め、眉根を寄せた。
「ケルビンは一番ダメだよ。彼はエシュロンと密接につながる上級職員だよ?この情報が渡ったら、あっちからどういう命令が下されるかわからない。──ま、とは言っても、そもそもこの話じたい、信じるかどうか分からないんだけどね」
ラビの反応を見るに、どうやらラビはエシュロンに情報が渡る事を危惧しているらしい。渡ったところでどういう命令が下されるのか、ハンスには想像もつかなかった。しかしラビは知られてしまってはまずいと考えているようだ。
ラビはハンスが黙って小さく息を吐き、反論を止めたことで了承と受け取ったのか、嬉々として話を始めた。
「まず、ヴィクターが”何か”を見たと仮定して、僕はあの後、それが船内に潜んでいるのか可能な限り調査した。OSX-9滞在期間中のイージスのデータにもアクセスしてみたんだけど、不思議なことに一切ログ無し。出入りは僕たちクルーとレムのボディ、そしてカーゴベイに保管されたサンプルたちのみだった。その後、イージスからエヴォリスへの物資移送に関してもログと照合してみたけど、不審な物とか追加されてるものは無かった」
淡々とした口調で、ケースのナンバーやその中身をまで報告しているラビだが、手元には端末やメモの類は一切存在しない。まるで頭の中に全てのデータが入っているかのようにスラスラと言葉を紡ぐ目の前の少年に、今更ながらハンスは舌を巻く思いだった。彼はもう、それまで言われたことの二割は耳を通して頭を貫通し、脳に留めておけないでいた。
「で、じゃあサンプルに紛失物が無いかもって思って見てみたけど、全部きっかりケースの中に納められてた。つまり簡単に言うと、僕ら意外に船を出入りしたのはサンプルのケース群のみで、ひとつも無くなってないってこと」
「…じゃあ、杞憂だったってことなんじゃないか?」
腕を組んでハンスが問いかけると、ラビは大きく首を横に振る。
「杞憂じゃないよ。だって、ヴィクターは”影を見た”んだろう?恐らく、実際のところは”影もしくは影を連想させるもの”って感じなんだだろうけど…つまり、自然になり切れる技術で作られた”何か”は、その影に準ずるものにもなれるって仮定出来ない?──僕らや荷物に紛れてひっそりこっそりログに検出されない方法で侵入してたかもしれない」
突然話が空想的に転換したような気がしたハンスは、溜息を着いて肩を竦めた。
「ラビ、お前らしくねぇよ。そんなもん、ログに残される前にレムに検知されてエアロックで弾かれるだろ」
「…あ、気付いた?」
「お前、俺がいつでもお前の希望通りの反応寄越すような単純な奴だと思うなよ?」
ハンスが呆れ半分で退出しようと腰を持ち上げかけた時、ラビから制止の声がかかった。その表情がやや緊張を帯びているように見え、思わずハンスは動作を止める。ラビは組んでいた足を外して居住まいを正すと、小さく瀬気晴らしをした。場の空気が変わったように感じたハンスは、無意識に喉を慣らした。
「イージスやらエヴォリスやら、とにかくわかる範囲で全てのエリアを調べたんだ──何かが居ないかって。そしたら、意図せず妙な事が分かったんだよ」
ラビはいつになく真剣な表情で、これからする発言をしてしまってもよいものか考えあぐめるように口籠る。自然と身を寄せて耳を傾けていたハンスは胸がざわつき、酷く体が緊張するような感覚を覚えた。
「ストレージ周辺のセキュリティシステムが結構不具合出てて復旧するのに時間が掛かったんだけど…当日のストレージの監視ログに、エヴァとアランの情報があったんだ」
ハンスの心臓が重く音を立て、同時に締め付けられるように痛む。「だから何だ?」という情報ではない。途端に酸素濃度が薄れたのでは無いかと勘違いするような息苦しささえ覚える。
「……つまり、何が言いたいんだ」
嫌な想像が膨らむばかりで、何とかそれを否定する言葉を発してくれと願うように、ハンスは問いかける。だがラビから明確に言語化されることによって、ハンスの心は闇に放られることとなる。
「ヴィクターがストレージに入った後、エヴァが入って、エヴァが出て行って、アランが入ってる。その後ハンスたちが入った記録があるから、ヴィクターはストレージに入ってから少なくとも一度もモジュールからは出ていない」
ハンスは、麻痺するような脳を叱咤して想像を巡らせる。ラビの情報が真実なら、第一発見者のアランは除外できるにしても、エヴァはかなり怪しい動きをしている。遺体発見事の取り乱しようや、その後の頑なな態度が──まさに”何か”してしまったと思わせるものばかりだった。
「──お前、その情報どうやって?」
苦し紛れに声を絞り出して問いかける。するとラビは事もなげに答えた。
「レムだよ。僕とレムは仲が良いのは知ってるだろ?だからレムに協力してもらって、いろいろ調べてたんだ」
「仲が良いって言ったって、レムはAIだろ?──大体、ロッカールームは監視対象外なのに何でそんなログが残ってるんだ?」
語気が強まるハンスにも全く動じす、ラビは淡々とハンスの質問に答える。彼はほとんど手振りを加えず、脳内の記憶だけを選び取って言葉にしている。ハンスの瞳をじっと見据えながら話す姿はどこか不自然で、まるで用意された答えを語るようで気味が悪い。ハンスの脳はその全てを追いきれず、視界が揺らぐように感じた。ラビから言葉が発されるほどに動悸が静かに速さを増す。
「そうだよ、ロッカールームは監視対象外。でも、回廊やポッドのログを調べればストレージモジュール自体の出入りにはPIコアのログが残される。監視映像はサーマルカメラだから熱源情報になるけど、それでもPIコア情報で誰かは把握できる。さっき言った二人は、確実にストレージに出入りしてるよ」
ハンスはとうとう何も発することが出来なくなった。自分の中の何かが、瓦礫のように崩れていくような気さえしていた。まだ明確な情報ではないのことは確かだ。まだ最悪の事態に陥ったわけではない。ハンスがそう心に言い聞かせようとしても、エヴァの態度がそれを否定する。
「僕はそれを見た時思ったんだ。──奇妙な構造の自然サンプルも奇妙な惑星も本当に”そういうもの”ってだけで、未知の生命体がどうこうなんて話、やっぱりもしかしたら僕の妄想でしか無かったのかも…ってね」
ラビの大きな眼孔に嵌ったアースアイが、まるで残像のようにハンスの脳内に刻まれた。
呆然とB2ルームを後にしたハンスは、部屋に戻る気にもなれずに彷徨う足に従った。感覚ではほんの数日前に訪れたアンネルが、まるで遠い過去の郷愁を思い起こさせる場所のように思えた。何も考えずに足を進めていると回廊を何周も周回しそうになり、ハンスは観測モジュールで足を止めた。PIコアでロックを解除し、静寂と神秘が入り混じる空間を思い浮かべる。あの土星の姿が目に入ると、少しだけ心が引き締まる気がした。圧倒されるような存在感に、自分の中の靄のような心の重さを霧散させようとしたのかもしれない。
ドアが開くと、そこには観測窓を前にしたエヴァの後ろ姿があった。土星のうっすらとした縞模様を背景に、影のように佇む彼女に、ハンスの心臓がまた音を立てる。
ドアの前に立ったまま動けずにいるハンスに気づいたのか、エヴァがゆっくりと振り返った。白い室内灯の下、感情を失ったような瞳がハンスを捉える。そして、何か反応するでもなく音もなく足を進め、ハンスに──ドアに近づいた。
無意識に、ハンスは小さく一歩後ずさる。エヴァは気にも留めず、その脇をすり抜けようとした。ハンスは咄嗟にその手を掴む。すると、驚くほどの反射で、エヴァがその手を振り払った。
時間が止まったように、二人はその場に固まる。ハンスはエヴァの瞳がわずかに慄いているのを見た。彼女は掴まれた腕を自分の腕で握りしめ、視線を泳がせてから冷たい目でハンスを見上げた。
「──何?」
ナイフのような声がハンスを刺す。振り払われた腕を所在なく見やりながら、ハンスは何も言えなかった。本当は何があったのか聞き出してやりたい。抱えてるものがあるなら何とかしたいと思う。しかし今のエヴァには、それをさせない圧がある。
「…用がある時は、まず声をかけて」
何も言わないハンスを待つでもなく、エヴァはそう言い捨てると、足早にその場を去った。目の前で閉じられたドアにハンスは軽く触れる。それに反応してドアが再び開かれると、肩を跳ねさせ、思わず一歩後ずさる。目の前に立つのはアランだった。もともと無表情でも口角が上がっているタイプだが、その微笑んだような表情が妙な不安を呼び起こす。
「お前、びっくりさせんなよ」
「エヴァが難しい顔して出て行ったが…喧嘩か?」
ハンスの言葉を気にせず、アランはまるで子供に話しかけるような調子で問いかける。そうした彼の”ズレ”は、ハンスに過去を思い起こさせた。修復できない亀裂が入ったと思うような言い合いも、いつもアランの「喧嘩か?」で、ただの子供の喧嘩になり下がったのだ。
「違う」
ハンスは低く答えた。
「お前たちは昔から、ちょっとしたことですぐ喧嘩してたからなぁ。普段は大人しいお前も、珍しく声を荒げたりして・・まあ、仲が良い証拠かな」
ハンスの返事をただの反論と捉える呑気なアランに、まるで二人から離れようとばかりしていた過去の自分が蘇る。そして、眉間に力を入れると、自分の感情が押さえきれず、制御できない言葉が自動的に口をついた。
「本当に仲が良いなら、喧嘩ばっかり繰り返してもお互い信頼しあってるはずだ」
思ったよりも低い声に、ハンス自身驚いた。勢いのまま、今のエヴァに全幅の信頼を置けない現実を、まるで八つ当たりのように吐き出す。
「でも俺は今のエヴァに全幅の頼を置けないし、…あいつもどうせそうだから、何か隠してる──これのどこが仲が良いって?」
それだけ言い捨てると、ハンスはアランの横をすり抜ける。土星を見ようという気持ちは消え失せ、迷いなく自室へ向かう。もう、冬眠までひたすらルーティーンをこなすだけの機械になりたい──投げやりな感情が、ハンスの全身を満たしていた。
明朝、アラームの直前に目を覚ましたハンスは、ベッドの上で半身を起こし、呆けた顔で軽く目を擦った。ほとんど自室に篭って過ごした先日、読みかけの本はカウンターテーブルに放り、音楽に逃げ込むことで気を紛らわせていた。──結局眠くなってしまい、途中まで読んだページの半分で寝入ったのだ。
夢もなく眠ったことで、あれだけ荒れていた感情は不思議とずいぶん鎮まっていた。不信感までがあっさり消えたわけではないが、感情が先立つことはないだろう。ハンスはそう思いながら髪をまとめ、身支度を整える。
朝食のカフェテリアに入ると、そこにはすでにケルビンが居た。だが、いつも通り整った朝食プレートではなく、固形バーのバイオミールを齧っているだけだった。ハンスの入室に気づくと、軽く挨拶を返して再び食事に戻る。義務的な所作のように見えたが、どこか心ここにあらず──そんな雰囲気が漂っていた。
ハンスは思い返す。先日アンネルで解散して以来、ケルビンの姿を見ていない。自分がほとんど部屋に籠っていたからかもしれないが、普段ならもっと存在感があったはずだ。往路では中継ステーション内をよく歩き回っていたので、遭遇する機会も多かった。
ハンスは無言のまま食事を揃え、スツールひとつ分余裕を取って腰を下ろした。固形バーを口に運ぶケルビンのスピードは、いつもより遅い。普段ならとっくに食事を終えて作業に取りかかっているだろうに。
「──なあ、それ、気に入ったのか?」
思わず、取り留めのない質問を口にした。
ケルビンの横顔が一瞬こちらに向く。いつも通りに見えるが、声に芯がなく、どこか空虚に感じられる。
「──それ、とは?」
「バイオミール」
短く答えた後、ケルビンはフォークで固形バーを手に取り、視線を落とす。
「ええ、まあ……あまり時間を費やしたくなかったので、選んだだけです」
ハンスはなんとなく安心する一方で、時間を費やしたくないと言いながらも緩慢に食事をする姿に、やはりどこか違和感を覚える。医者であるケルビンが、ヴィクターの死を自分たちとは違う角度で受け止め、慌ただしくエシュロンとやりとりしているのでは──そう勘ぐってしまう。
「なんか、エシュロンから無茶言われたりしてんのか?」
思わず口にした質問に、ケルビンは動きを止め、紫の瞳をわずかに見開いた。その微妙な変化は、ハンスにとって小さな衝撃だった。
「──なんか手助けが必要か?」
返事を待たずに問いかけると、ケルビンは瞬きをして視線を外す。
「いいえ。──エシュロンは、身の丈に合わない指示は下しませんので」
やけに落ち着いた声音で、さらに付け加えた。
「あなたの助けには及びません」
残りのバーを口に放り込み、端末を抱え、ケルビンはスツールから立ち上がる。小さく「では」と言い置いて立ち去ったその背中に、ハンスは言葉を返せず、ただ食事を再開するしかなかった。
「……そういや俺、エシュロンって会ったこと無えけど、どんな奴なんだろ」
問いかけに応えたのは、ざわめく空気だけだった。
まるで無人のステーション内で過ごすかのように静かなアンネルでの時間は、あっという間に過ぎた。ハンスは途中、思わずAIであるシアと語ろうなどと妙な思いつきが自分の脳内で生まれて自分自身に驚いた。しかし中継ステーションのAIがレムのようにお喋りでないのは往路で把握済みだ。結局一人で過ごしたいと思いながら話し相手を無意識に探している自分に、ハンスは嫌気がさしていた。
定刻通り補給作業は完了し、シアの報告がステーションないに響く。それまでに身の回りの整理をしていたクルーたちは、往路同様、移動用の連絡通路を介してエヴォリスに帰還した。これでもう、アンネルとはお別れだ。またハイラントから土星軌道外への有人探査が命じられれば来る可能性はあるだろうが、それがない限り、この場所とは永遠の別れとなる。エヴォリストは違い、生活するには味気ない施設だが、惑星のそばに止まっていると言う特別な立地は、後ろ髪を引かせる魅力があった。
ハンスとアランがコックピットでルート調整をし、エヴァが点検作業であちこち動き回る。ケルビンは補給状況を確認するためストレージのエナジーリザーブへ向かい、ラビはラボに一直線に向かう。──エヴォリスに戻ると、まるで流れ作業のように誰もが定位置につき、次の冬眠までの準備に取り掛かる。途方もない距離を高速で移動するためとはいえ、まるで眠るために生活しているようなエヴォリスで過ごす時間は、規則正しいはずなのに昼夜が逆転しているような矛盾すら感じる。そんなことを思いながらもハンスは、食事やトレーニングなど、しっかりと冬眠までのルーティーンをこなした。
相変わらずコックピットでアランと肩を並べる以外クルーと会わなかったハンスは、ステイシスルームで否応なしに顔を合わせた。今後もこんなことがただ続いていくのかとうんざりしながらもメディカルチェックを終え、セルに入る。往路と違って流れ作業のようにプロセスが進められ、二度目のエヴォリスの夜が始まった。
──そして、再び朝が来たかのように、視界が白む。セルの蓋が開かれ、朝の日差しかのように柔らかい室内の光が、覚醒をさらに促す。今回は夢を見ずに目を覚ましたハンスは半身を起こし、辺りを見回した。向かいではエヴァが同じように半身を起こして起き上がっており、開かれた蓋で見えないが、アランも起き出しているような音が聞こえる。いつも真っ先に起きてタブレット片手にバイタルをチェックいているケルビンはどうやら今回は覚醒が遅いらしく、姿が見えなかった。
身体の感覚を取り戻しながら地に足をつけ、立ち上がる。先に起きていたアランが部屋の奥へと足を進めるのを横目に、ハンスはエヴァの様子を窺った。頑なにハンスを避け続けるエヴァの心情を探るには、もはや観察するしか手立てはない。そして小さな変化を見過ごさず、何かあれば必要に応じて強引に話を切り出すのだ。そんな風に思いながら気付かれないよう、ストレッチを挟みながらハンスは密かにエヴァを目で追った。今のところ、動作に不自然なところは見られない。そうしているのも束の間に、アランの声がその場の空気を凍らせた。
「なあ、ラビの様子がおかしくないか?なんか、助けを求めているような気がするんだが──」
ハンスは真っ先に動き出した。体が軋むのも忘れてラビのセルに駆け寄ると、開かれたセルの中を確認する。セルの中で、ラビは固まったように眠っている。呼吸が小さく、起きる気配が感じられない。セルは、覚醒プロセスを踏まないと開かないはずだ。何か誤作動が起きたのかとラビのセルのモニターをアランの脇から覗き込む。赤い文字が表示された画面を見たハンスの目は、驚愕に見開かれた。
「おい何突っ立ってんだ、そう思ってるんだったら動け!」
思わずハンスの声が荒げられる。突き飛ばすようにモニター画面の前を陣取ると、画面が伝える異常をなんとか読み取ろうとした。ハンスには詳細が分からないが、どうやら覚醒プロセスに抜けがあり、そのエラーを無視する形で進行されたため、セルが起きていないラビを起きているものとして認識しているらしい。”DONE”というグリーンの文字が並ぶ中、一つ分のプロセスだけ赤い文字で”PENDING”と表示されている。誤作動を起こしているはずなのにアラートを出さないのは、明らかにおかしかった。
「おいラビ、起きろ!」
ハンスは慌ててラビのスーツと繋がれたままになっているいくつかの管を引き抜いた。ぐったりとした体をセルから引き摺り出し、頬を叩いて覚醒を促そうとしつつも心拍を確認する。鼓動は弱い。ハンスの大声にエヴァは弾かれたように動き、ケルビンのセルへと駆ける。ちょうど身を起こしたところだったようで、エヴァが冷静に状況を説明する声がハンスの耳の片隅で聞こえた。
「一体、これは…」
多少よろめきながらラビのモニターに飛びついたケルビンは、すぐさま行動に移った。モニター脇の小さなパネルを操作して小さなハッチを解放する。するとそこから医療用キットのようなボックスを取り出し、中からシリンジを選び取る。
すぐにケルビンがそのシリンジに入った薬剤をラビに投与すると、しばらくして彼は突然急激な呼吸を始めた。力なく下されていた腕は心臓を握りしめるように自らの胸元を鷲掴み、激しく咳き込む。目は一度見開かれたが、あまりの呼吸の苦しさに、今度は硬く閉じられる。
「ラビ、苦しいですが出来るだけ身体の力を抜いて、深呼吸を試みてください。大丈夫です、あなたの状態は徐々に問題なく落ち着きます」
冷静にラビに呼びかけながら、ケルビンはハンスにストレッチャーを持ってくるよう指示を出す。ハンスは慌てて頷くと、踵を返して医療室へと走る。まるでラビの呼吸困難が移ったかのように呼吸が荒くなり始め、思い出したように心臓が爆音を立てる。ストレッチャーを展開しながら、ハンスは深呼吸を繰り返した。
「もうやだ、あそこには戻りたくない、戻りたくない…」
ステイシスルームに戻ると、苦しげな呼吸の合間にラビのうわ言が聞こえる。ケルビンはこちらを認識しているのかどうかも危ういラビに声をかけ続け、アランの手を借りてさっとラビをストレッチャーに横たえた。出来るだけ楽な姿勢を取らせたまま医療室に運ぶ措置だ。しかし処置台へ運ばれる頃にはラビの呼吸は落ち着き始め、意識はほとんど覚醒に向かっているようだった。まるで長距離の全力疾走を終えたような状態のラビは、自らストレッチャーから処置台へと転がるように移動した。
「なに、これ…どうなってんの」
酷く掠れた小さな声でそう呟いたラビは、処置台を取り囲むように自分を見下ろすハンスたちに疲れ切った目を向けた。
「──良かった、あなたの代謝能力の高さに助けられました。ハンスが彼をセルから引き剥がしてくれていたのも良かった」
「…で、一体なんでこうなったの?」
ケルビンがそう言ってひとまず胸を撫で下ろす。まだ予断は許さないが、視覚や発声に問題は無さそうだ。ケルビンがバイタルスキャンの準備を始めるなか、流石のエヴァも安堵の息を漏らしつつ冷静に尋ねた。
「モニター確認したら、なんかよく分かんねぇけど一個だけ”PENDING”って赤い文字があったから…誤作動なんじゃないかと思うんだが」
「ええ、その通りです」
バイタルスキャナーを手にしたケルビンが、ラビをスキャンしながら静かにハンスの意見を肯定した。そしてそのまま捕捉するように説明を続ける。
「簡易的にしか見られていませんが、代謝刺激剤のプロセスが保留中であるのにその先のプロセスが進行してしまったため、ラビが低代謝・低酸素状態のままセルが開かれる結果となった…ということのようです。あのままセルにつないだまま安静にさせていたら、窒息や循環不全の可能性もありました」
「つまり、ハンスがセルから引き出して正解だったってわけね…。衝撃が刺激になって、覚醒の切っ掛けが出来た?」
「ええ。ですから、緊急用の覚醒誘導剤を投与しました。持ち堪えられたのは、ラビの代謝の強さのおかげです」
ケルビンとエヴァの間で冷静に状況のすり合わせが行われるなか、ハンスは力が抜けたようにその場に屈み込んだ。首を垂れ、一際深く域を吐き出す。
「命に関わる管轄外のことは、もうこれっきりにしてくれ──」
そう言って顔を上げたハンスは、一歩下がったところで立ち尽くすアランと目が会う。どこか呆然とした表情をしている。
「アラン、どうした」
思わず声をかけると、アランは胸に手を当て、今更安堵したような息を吐いた。
「いや、突然のことで…動揺してしまって──すまない」
彼はそう言うと、口を噤んでしまう。訝しげにハンスが立ち上がったところで、もうだいぶ落ち着いて冷静さを取り戻したラビが声を発した。聞いたこともない、彼にしては低い声が、声量も無いのに室内に重く響く。
「──絶対におかしい」
ラビはそう言って、酷く緩慢な動作ながらも半身を起こした。誰もがそれをまるで儀式のように見守る。
「プロセスがスキップされてるのに進行自体は進む誤作動って──それ本気で言ってる?機械のプロセスは、各段階が完了して初めて次が進むんだ。”DONE”の文字が並んでないのに、次が勝手に動くなんてあり得ない──」
ラビの爛爛としたアースアイが一人一人を順に射抜く。まるで全てを警戒するように、その視線だけで相手との距離を保つ野生動物のそれだ。
「きっと、”これ”をやった奴は僕が生きてたことを絶対に悔やんでる」
「──でも、じゃあ…一体誰が…」
ハンスがようやく息を呑んで声を発すると、ラビはハンスに照準を合わせた。先ほどまで生死の境にいた者とは思えないほど、目には力が込もり、鋭く研ぎ澄まされている。
「──そんなの、ひとりしかいないよね?」
自嘲するように微笑んだラビに、ハンスは狂気すら見た気がした。
室内には、重力が増したような、じっとりと重苦しい空気で満たされた──。
今回は亀裂がテーマです。前回の出来事がきっかけで、クルーたちがそれぞれ抱える葛藤が交差して亀裂が深まっていく。
事の大きさに関わらず、ひとつのことが起因となって少人数の中で不信感が募っていくのってだいぶ苦痛ですよね。しかも宇宙空間で、宇宙船の中という抜け出せない密室状態。
自分がこのクルーの一員だとしたら、誰が一番怖いと思いますか?