Phase_04:OSX-9
カクヨム掲載小説です。
《Day 1》
荘厳な土星の見守るアンネルでの一夜を過ごし、クルーたちは再びエヴォリスに戻り、L2地点から深宇宙に向けて出発する。エシュロンが観測したOSX-9の予測地点は、土星から七億キロ離れた場所にある。彼らは静かに佇む薄く色づいた土星に別れを告げ、再び眠りに就くために身支度を始めた。
いつものように律儀なケルビンの挨拶と共に彼らはセルに入り、蓋が閉じられると、ゆっくりと目を閉じる。そして、各セルのバイタルが安定していることを確認したケルビンが、最後に静かに自らのセルに入る。管理AIのレムが、彼らの冬眠が完了したのを確認するとトーラスの回転を止め、エンジンを切り替える。間も無く、瞬く間に母船は、目標地点へと高速噴射移動を開始した。
暗く、静かな宇宙に小さな閃光が走るように、エヴォリスは推進する。太陽から離れているはずの母船は、まるで箒星のような残像を残すようにして、七億キロという途方もない距離を、未知惑星付近まで一気に詰めた。
──そして、再び覚醒の時が来た。トーラスが回転を始め、各モジュールの機能が再開されるうちに覚醒プロトコルが施される。室内灯が点灯し、クルーたちを迎える準備が整えられたステイシス ルームでは、ケルビン、ヴィクター…と、順々に覚醒が始まった。
セルから足を出し、感覚を整えていたケルビンは、耳の片隅に聞こえたセルの開放音を捉えた。重い体を持ち上げて振り返れば、部屋の奥のセルが蓋を開けていることに安堵する。ヴィクターは問題なく冬眠を乗り越えられたようだ。その後、エヴァ、ハンス、ラビ、アランと次々にセルの扉が開かれる。ケルビンが黙って様子を伺っていれば、皆一様に、まるで自室で目覚めたかのように身を起こしていた。ハンスは涙が滲むほどの豪快な欠伸をかまし、ラビも欠伸をしながら相変わらず両手を上げて体を伸ばしていた。
「おはようございます、みなさん。今回も無事ですね」
「おはよー。ふあーあ、よく寝た」
「さて、今回は予定通り行けたかな?」
「船体の機能も不備がなければいいけど」
「ああ、体が痛え」
各々好きに口を開きながら起き上がるのを、部屋の片隅でヴィクターが黙って見守っている。ケルビンがそちらを盗み見れば、どうやら見た目には不調が現れていないようだった。一息つきながら、ステイシスルームを出ていくアランたちに続く。ケルビンのデスクに腰掛け、早速端末から進行状況を確認しようとするアランの傍でハンスが同じように起動を待つ。そんな二人を追い越して、エヴァはその奥のメディカルスペースへと移動する。どうやらさっさとメディカルチェックを済ませたいらしい。ラビも面倒そうにしながら、そんな彼女に続いた。
最後にステイシスルームから出てきたヴィクターは、若干重そうな動作でメディカルスペースへ向かった。その理由を知っているのはケルビンだけだ。ヴィクターのセルの設定は”簡易冬眠”のままにしてあった。彼は夢を見ずに冬眠を終えた代償ともいえる、身体的な重みを感じている。
そうして、まるで小康状態のように、和やかな空気のもとにメディカルチェックは問題なく終了した。クルーたちは持ち場につくために移動ポッドを呼び、経由地を入力する。そして、ポッドがレールを移動し始めた時。窓の外を見やった一同は、一様に瞠目した。
「え⁈…ちょっと待って、僕ら──ちゃんと各惑星のステーションに滞在して、土星の奥に来たはずだよね?」
「──…ああ、ルートも問題なく通過してる。ログも、推進距離も、全てが俺たちの軌跡を証明してるはずだ。…だけど、これは──」
言葉を失う彼らだったが、ラビとアランはそう言って窓に齧り付いた。そうこうしているうちに、ポッドは最初の経由地点であるコモンラウンジの扉へ到着した。ここを指定したのはラビだ。だが、一服するどころではなくなってしまったラビは、結局そこでは降りなかった。ストレージに向かおうとしていたヴィクター、ユーティリティで降りるはずのエヴァも同様で、彼らは一度、最終停留地である中央コアまで同乗することとなった。
無重力の中、バーを掴みながら泳ぐようにしてコックピットに向かう。誰もが急くように体を動かしていた。そしてコックピット の窓と、その上のハニカム構造の窓から改めて見る前方の光景に、目を奪われた。
「──これは、”地球”だ…」
自分のシートの背もたれを掴みながら、ハンスが呟いた。しかし、それに即座に応える者はなかった。誰もが口を開きかけて、しかし音は出さず、息だけが吐き出される。
彼の言う通り、──そしてクルーたち全員が目にした通り、そこには、”地球”が存在していたのだ。
衝撃は消えなかったが、推進は必須である。アランとハンスは無理矢理に脳に平静を呼び戻し、操縦席に着いてマニュアル操縦を開始した。エヴォリスは、OSX-9から訳二万キロ離れた静止軌道で待機となる。まず現地点よりもOSX-9に接近し、探査船イージスの降下地点を決定しなければならない。
アランとハンスが固唾を飲みながらエヴォリスを推進させる間、後部シートでは他の四人が座席を回転させ、互いに向き合うようにして簡易的なブリーフィングスペースとしていた。そして、あの不気味で神秘的な”地球”について、分かる範囲での情報を集めていた。母船AIのレムは、操縦席に挟まる形で収まったボディで操縦士たちとやり取りしつつ、データで四人に情報を送った。
「太陽から二十億キロも離れているというのに、あのように──我々が地球付近のエヴォリスから見たそれと同じように見えるのは…かなり、考えづらいものですね」
タブレットに送られるレムからの情報に目を通しながら、ケルビンが呟いた。流石の彼も、異様な光景に動揺を隠せずにいるらしい。エヴァはそんな彼の言葉を受け、再びハニカム窓を振り返る。確かに、自分たちが地球を出発した後、初めてエヴォリスから見た地球──まるで発光しているようなその姿が思い起こされる。
「法則を、無視してる?」
視線を戻したエヴァがそう問えば、ケルビンは一度顔を上げて彼女を見やってから、念押しのように「ええ」と応えた。
「確かに、今まで通ってきた惑星はさ、”酸化鉄で赤く見える岩石惑星だよ”、”めちゃくちゃ巨大で嵐ばっかりのガス惑星だよ””中心はガス惑星で、周りの輪っかは公転してる小さな岩石と氷の粒だよ”って言われたら素直に”YES”って思えたけど、──これはちょっと、神秘的すぎかも」
相変わらずの饒舌だが、ラビもしっかりその不可解さに直面しているようだ。今のことろ、興味からくる高揚よりも、そちらの方が勝っているらしい。
「…夢でも、見ているようだな」
ヴィクターの低い呟きが漏れる。まるで、上下も左右もない暗い宇宙で方向感覚を失うような光景に、彼ほどの軍人でさえ揺らいでいる。そこにある未知惑星は、幻惑のようでありながら、道標の灯台のようでもあった。
やがて、エヴォリスはOSX-9の周囲2万キロ地点へと辿り着く。アランの操縦とハンスの補佐で、その周囲を母船がゆっくりと旋回する。レムはその視覚情報を解析し、逐一コックピットのウィンドウや、ケルビンのタブレットにそれを送った。
「どの地点に降りようか?…というか、これ、イージスで下りられるのか?もし見た目通り地球と同じ構造なら──大気圏を突破するのは無理じゃないか?」
コックピットから隣のハンス、後部の四人に向かってアランが声を掛ける。すると、天井からレムの声がそれに応えた。
「大気層の薄い部分が存在します。地球のおよそ0.78倍、組成も酸素比率が若干低く、摩擦熱は搭載の耐熱コートの許容範囲内です」
「…ってことは、そこを潜れば、なんとかなりそうか?」
「とはいえ、こっちに戻ることも考えると、結構ギリギリね」
アランとエヴァは即座に反応し、対処法を話し合う。ハンスはその間、レムから送られるOSX-9の地形図に目を通している。
「降下後、損傷具合を見て修理しつつ補強し、帰還に備えることになりそうですね」
「なら、大掛かりになることも考慮して修復用ツールをイージスに足しておくわ」
ケルビンに応え、エヴァが即座にシートのベルトを外して行動に出る。彼女は早速、部品を選別し、レムに指示を出してイージスに移送するためにストレージへと向かうようだ。
「事前情報にもありましたが、接近した無人探査機の損傷や、エラーなども見られています。その大気層の弱い部分から降下するとして、我々がまず安全な状況下でそれを行えるかどうかも調査しなければ」
ケルビンは、何かしらの”存在”による攻撃を危ぶんでいる。当初は特殊な磁場や重力によるものと踏んでいたのだが、実際のOSX-9を目にすると、損傷は大気層によるものだとしても、エラーの説明がつかない。現状の自分たちは無事だが、これ以上近づけば何かが起こる可能性は捨てきれない。
「イージスに迎撃システムは無いからな。降下するまではアランの腕と、イージスの頑強さが便りだ。降下後に起こる可能性のある危険に対しては、俺らで迎撃するしかない。…念のため、エヴォリスの武器を積んでおくか」
「隊長、俺は」
「お前はここにいろ。移送した武器のリストは端末に送っておく」
ヴィクターがそう言い、エヴァに次いでコックピット を退出する。ハンスから声がかかるが、制止して単独でストレージへと向かって行った。もし降下後に戦闘があるとすれば、戦うのはヴィクターとハンスだ。ハンスは「了解」と応えてまたすぐモニターへと視線を戻した。
「現状、知的生命体の存在は確認出来ません。文明的なリソースも検出されていません。周囲の電磁波や熱パターンは自然現象によるものと判断されます」
「…そうなのですか?──では、エラーとは一体何だったんだ…」
「証拠が無ぇんじゃ、いくら考えたって答えなんか出ないんじゃねえか?」
クルーたちの話し合いを聞いていたレムから、再び声がかかる。”知的生命体は居ない”という情報に、ケルビンは引っ掛かりを感じていたが、楽観ともとれるようなハンスの発言に、をれを飲み込むしかなかった。
「──で、どこに降りるよ?良さそうな場所はいくつかあるぜ。特に良いのが、平地で、森と海が対極して存在してるっぽいポイント」
「どこだ?──…ああ、ここなら大気圏の突破地点からもそう離れてないな。エヴォリスは突入地点の延長上に置いておいて、大気圏突破後に滑空でそこまで行こうか。──どうだろう?」
ローワン兄弟がモニターで拡大図などを見ながら相談し、アランが最後に全員に向かって声をかける。すると、まるで大人たちが大人の話し合いをしている最中に黙って待機している子供のように静かだったラビが、ようやく口を開いた。
「いいね!森があるなら川もあるかも…それに海も近いってかなりの好条件だよ」
「…ええ、ではそのような行程で。ヴィクター隊長とエヴァが戻り次第、降下作戦と最終的なイージスの搭載物を共有し、降下後の行動についてもある程度話し合いをしましょう」
そうしてエヴォリスはレムのナビゲーションにより、距離を保ちながら大気層の薄いポイントへと場所を移した。見た目には判断できないが、レムの画像データから、まるでポッカリと穴が空いたかのようにそのポイントが存在するのが分かる。
アランは操縦桿を握りながら、何か誘われているような感覚を覚えていた。
クルーたちは必要な装備を整え、ドッキングハブから探査船イージスに乗り込む。今回はステーション移動時には着いてこなかったレムも一緒だ。その愛らしくも見えるボディが、そのことをより一層証明していた。
エヴォリスから切り離され、イージスが推進を開始する。コックピットはエヴォリスよりもだいぶ小さいが、それでも十分なスペースがある。エヴォリスが規格外なだけで、イージスもそこそこの大きさを持つスペースプレーン型の探査船だ。OSX-9滞在やサンプル回収を考慮して、必要最低限の施設は整えられている。個室とまではいかないが、二段ベッドのようなプライベート空間が確保できるクルールームやシャワーブース、トイレ、簡易キッチンがある関係上、水再生ユニットなどのユーティリティシステムも搭載されており、ストレージの傍には除染作業も可能なラボ兼作業台もある。通路は狭く、スペースは全て小規模となるが、それでも十分な設備の整った船だ。
クルーたちはコックピットの座席に着き、窓の外に気をやりながらもアランの操縦を見守った。彼はOSX-9に近づきながら、レムのデータを参考に、大気層の薄いホールへと船を進める。そしてとうとう降下地点まで辿り着くと、一度、クルーたちを振り返って「行くぞ」と告げた。
イージスが垂直下降を始める。重力や空気抵抗を利用し、大気の壁に体当たりを試みる。摩擦熱が生じ、まるで隕石のように船は大地を目掛けて下降する。短時間だけ、船内にアラートが鳴り響く。高熱や衝撃によるものだ。
レムから科学的なお墨付きを貰っているとはいえ、窓から見える光景と船へと掛かる衝撃は、下手をすれば冷静さを欠くことが出来るレベルである。ラビですら、黙ってアランの操縦の成功を、固唾を飲んで祈るほどだった。
そして、吐き出されるようにして視界は、青空となる。衝撃が突然止み、アラートが消える。イージスの翼が展開し、即時に滑空操縦に切り替わった。イージスから見える景色は、まるで地球そのものだ。遠くの下方には海が見え、水面が太陽光を反射して小さく煌めいている。
大陸、山、砂漠、平原…通過する途中に目に映るものは、全て既知のものだった。それは、一様にクルーたちを驚かせた。遠くには、寒冷地だろう白い大地も垣間見える。
「ちょっとこれはホントに、…マジで地球だろ」
無事大気圏を抜けたことに胸を撫で下ろしつつも滑空操縦を続けるアランの横で、補佐をしつつも素直な感情がハンスから漏らされた。
「ねえ、この環境で生物いないってホントにホント?まあ確かに、文明的な物は一切見えないけどさ」
「それより、こんなに快晴ってあり得るの?ここって土星より太陽から遠いのよ」
次々にラビやエヴァが感想を漏らしていく。ケルビンやヴィクターですら、口を開けて茫然と目下の景色に囚われた。イージスはそのまま予定していたランディングポイント付近へと辿り着き、高度を下げる。地面に近づけば近づくほど、そこは”地球”でしかなかった。
土埃とともに、イージスがOSX-9に足を付けた。完全に停止すると、船体を大地に固定する。そこは、広範囲に広がる草の無い平地だ。しかし、少し歩けば雑草の生える平原となり、その先には丘陵地帯も見える。その隣には森が存在し、針葉樹や広葉樹がきれいに分布していた。
そして、その対極の場所に位置するのは、青い海だ。遠く、平地のその先に見える海は、汚れひとつなく美しい。まるで、放射能や瓦礫など、度重なる争いの果てに汚染に塗れた現状の地球から汚泥を全て取り払ったような景色が、そこかしこに広がっていた。
「現状で観測出来たOSX-9の環境データを報告します。重力は地球の0,98G、気温二十五度、湿度五十パーセント。その他、酸素二十一パーセント、窒素七十八パーセント、微量成分一パーセント。有害物質は検出されません」
レムから、驚きの報告が出された。頭のレンズを動かしながら話すレムのボディに、クルーの視線が集まる。この報告で分かるのは、この場所が、紛れもなくほとんど地球と同じ環境にあるということだ。程なくして彼らは互いに顔を見合わせた。
「…いや、マジで地球なのかよ」
「しかも、本当の地球と違って、いたって健康だ」
「地球の黄金比が、こんな場所で形成される可能性があるんですか?…あり得ません」
「──だが、事実なんだろう?」
「にわかには信じがたいわ」
「えーと、じゃあ、証明のためにスーツなしで外歩ける勇気のある人ー?」
各々が驚き慄くなか、ラビの素っ飛んだ提案がその空気をぶち壊す。挙手を求めるようにして上げられたラビの手以外、挙手されることはない。
「馬鹿言わないでよ」
「うーん、確かに…流石に数値上大丈夫と言われても、その勇気は出ないなぁ。外は凄く綺麗だし、直接空気を吸ってみたくはあるけど」
飴と鞭のようなエヴァとアランの指摘がラビに飛ばされる。ラビはにやにやと肩を竦めた。
「ま、まあ…とにかく準備を始めましょう。我々の目的は、サンプルを採取し、分析することですから」
自らをも落ち着けるように、眼鏡のブリッジを持ち上げながらケルビンが言った。そして、いよいよ未知惑星OSX-9に降り立つため、各々準備が開始された。
スーツロッカーにて、クルーたちはヴェイルスーツを装着した。一見スマートながらも多機能を搭載したスーツの表面は、重厚なグレーを帯びたファインセラミックスだ。それは、メンバーによって僅かに光沢が色分けされていた。
スーツの下にはナノファイバー製のボディスーツを着る。よって、ヴェイルスーツが収められたスーツロッカーは男女共用だ。白色電灯の下、光の角度によって表面の光沢が強く色づく。コバルトブルーの光沢を持つスーツを着たアランは、ヘルメットを手にしたままそれぞれのカラーリングを眺めた。
「まあ、特に色分けに意味は無いんだろうけど…なんとなくみんな、”らしい”感じがするな」
ハンスはターコイズブルー、エヴァはパール、ラビはジョンブリアン、ケルビンはヴァイオレット、ヴィクターはバーガンディ。あまりそのことについて意識していなかった面々は、まじまじと自分のスーツと他人のスーツを見比べた。
「…ヘルメットで頭までしっかり覆うんだから、瞬時に誰か分かるようにっていう、単なる目印じゃない?」
呆れたようにエヴァが言う。アランは「まあね」と苦笑した。
「ねえ、そんなことより早く行こうよ。もたもたしてると暗くなっちゃう──今何時?」
「地球時間はここでは意味を為しませんよ、ラビ」
「あ、そっか」
エヴォリスでは慎重だったクルーたちは、無事着陸を果たしたこと、OSX-9の美しさ、未知惑星への興味の三重効果で今や和やかな雰囲気となっていた。そしてヘルメットを装着し、エアロックへと向かう。地球環境と条件が同じであるOSX-9では、重厚なエアロックも単なる外と内を隔てる扉でしかない。そして、彼らはレムのボディも連れ、いよいよ未知なる大地へと足を踏み下ろした。
「じゃあ、私はシールドの損傷具合をチェックするから、探索はよろしく。何かあればお互い連絡を取りましょう」
一様にヴェイルスーツを着て外に出たクルーだったが、エヴァは船外作業のため探索には出ない。持ち出していたツールボックスを引きながら、探索組に別れを告げる。互いにヘルメット通信機ごしの会話なので、互いの距離はさほど関係無い。
そしていざと言う時のため、アランももとより船周辺に留まる予定である。彼はエヴァの作業で助けが必要な場合は彼女を手伝い、それ以外の時間はレムのボディから取り出したドローンの情報を得ながら遠隔的に周辺を探索する。よって彼もまた、遠出するヴィクター、ハンス、ラビ、ケルビン、そしてレムのボディに軽く挨拶をした。
「俺の方でも何か見つけたら、そっちに連絡するよ」
ドローンは遠出組も所持しているが、彼らは初めに森側の陸地を攻めるようなので、アランは海側を主に見る予定だ。互いに手を振り、何やら言い合いながら陸地の奥へと向かっていく弟たちを見送るハンスは、眩しそうに目を細めた。距離が離れれば、通信範囲は制限される。彼らが全体通信用のボタンを押しながら話さない限り、もう彼らの声はこちらには届かない。
「何だか、本当に久しぶりに…外に出た気がするな」
遠い目をしたアランを横目に、エヴァはツールボックスを開ける。中から個人端末よりも少し大きいサイズ感の、タブレットのようなものを取り出す。外殻チェック用のハンドヘルドデバイスだ。タッチパネル操作で修復箇所をスキャンし、軽微な傷ならばナノコーティングのナノマシン状態を活性化・誘導をさせ、自動で修復する。しかし、降下の際にアラートが鳴っていたことを考えると、それだけでは到底追いつかない程の損傷はしているだろう。見た目からもそれが分かる。
「──私たち、ハイラントに移住してからはずっと塔の中だったからね」
「ああ、しかも俺とエヴァは、STRセクター職員として…アンダーデッキに勤務してたしな」
作業をしつつもエヴァが応える。アランは苦笑しながら、ドローンと自分の端末を同期させ、画面を共有する。アランの肩に止まっていた小さなドローンは静かに飛び上がり、颯爽と空中を駆けて行く。アランはそのドローンの視界を端末越しに観察する。
平野を駆ける映像は、エヴォリスのトレーニングルームで、トレーニング中にモニター画面に映されていたものと酷似していた。もはや地球上のどこに残されているのか分からない、広大な自然をイメージしたハイラント製の映像と同じ景色が、この場には存在するのだ。
「…状態はどんな感じ?」
アランは端末の映像を眺めながら、エヴァを見ず、通信機に頼った呼びかけをする。エヴァもまたデバイスのチェックと操作を行いながら、それに応えた。
「結構亀裂が出来てるから、レーザーガンで溶接するわ。その後、補修パネルで帰りに備えて補強する。申し訳ないけど、私はここにいる間、補修作業しか出来ないと思う」
「…帰りは何か起きても不時着も出来ないからな。君が頼りだよ、エヴァリン」
イージスはエヴォリスにドッキングせねばならず、それには船体の状態を保つ必要がある。OSX-9への着陸は無事出来たわけだが、帰りに損傷が広がって、エヴォリスと繋がれなくなるという状況になるのは避けなければならない。宇宙には不時着できる土台が無いのだ。その責任がエヴァの補強とアランの操縦にかかっている。
「じゃ、私は修復作業に入るわね」
デバイスであらかたのスキャンとナノマシンの誘導を済ませたエヴァは、スーツの脚部にあるスイッチを押し、磁気を発生させる。これにより、イージスの上部へ上がっても簡単には落下しないよう、足が船体に半固定される状態になる。そのままボックスから取り出したツールガンをスーツのホルダーに装着し、エヴァはアランを振り返った。明るい光の下、暗い色のバイザーは外の景色を反射させ、内部の人間の表情までは定かでは無くなる。互いのスーツの色と、通信機からの声が相手を認識する数少ないツールとなる。
「ああ、行ってらっしゃい」
通信機から流れたアランの声は穏やかで、エヴァはバイザーの先にアランの微笑みを見た気がした。ひとつうなずき返し、そのままイージスの外郭を登っていく。残されたアランは、端末に送られるドローンの映像を鑑賞しながら、散歩をするように船の周りを散策し始めた。
一方探索に出た四人と一体は、一名を除き、賑やかに探索を開始していた。会話は通信なのでその声が周囲に響くわけでは無いが、当人たちはまるで自然の中で普通に会話している感覚で接している。きょろきょろと忙しなく辺りを観察するラビの行動はスーツを介して見るとなんとも滑稽に映り、そんなラビをハンスが揶揄ったのがきっかけだった。
「スーツが色分けされてなくても、お前は行動見てりゃ一発で判別出来るな」
「もしかしてそれ、僕を揶揄ってる?」
「まあ、半分は」
「全く、こんな風にロマンの無い大人にはなりたくないね。こーんな意味わかんない星に来て、なんでそんな普通でいられるんだよ」
「俺だって降りる前は感動してただろ」
「じゃあなんで今は我に返ってんの?」
「──ここがあまりに地球過ぎてな。なんでこんなスーツなんか着て歩いてんのか…こっちの方が異様に感じるぐらいだ」
たしかに、広大な自然を歩くスーツ姿の一行を目の当たりにした第三者が居たとすれば、その人物は彼らを不審者だと思っただろう。だが、ここにそのような存在は居ない。静かな自然だけが、そこにあるのみだ。言い合いをする二人の傍らでは、ケルビンの独り言と、それに応えるレムの冷静なやり取りが繰り広げられていた。
「土があり、草木が植生しているということは、それだけの環境があるということ…今のところ兆候は無さそうですが、雨も降る…?花が咲いている…受粉するのに虫の習性を必要とするものもあるが、生物の痕跡が無い。──本当に、全く生物が居ないのか…?」
「現状、生物の痕跡は無いようです。排出物の痕跡もありません」
「このようなバッグに詰める程度のサンプルだけで、この星の調査を終えていいのでしょうか…」
「イージスやエヴォリスに搭載できるサンプルの量は限られています。滞在期間に持ち寄ったサンプルは、厳選して保管することになります」
そんな彼らの後ろを歩きながら、ヴィクターはぼんやりと周囲を見渡していた。彼は、まっさらな自然に目だけでなく、心すら奪われているようだった。塔内で生活が完結する住民と違い、掃討作戦でハイラントの敷地外に出る機会の多かったヴィクターは、その一環で自然の有様を垣間見ることもあった。しかしそれは、鬱蒼と茂った森や、荒れた山…その他は、都会などの文明を突き抜けてそれを破壊するように締め付け、生い茂る植物の姿だ。今ここに広がっている雄大なものとは大きく異なる、苦しげにも見える自然。
しかしこの星の自然は、まるで自分たちと同じように呼吸しているのを感じられるほど、生き生きとしているように見えた。文明など異質なものだと突きつけられているようだった。不測の事態に備えて携帯しているパルスライフルなど、不釣り合いの極みであるように、ヴィクターは感じていた。
丘陵地帯へ辿り着くと、レムのボディから二機目のドローンが排出される。先行部隊として、ドローンは森の方へと流れるように入っていく。その場に残ったクルーたちにはラビの指示が飛んでいた。
「じゃあ各自、サンプル採取といこう。ハンス、君は主に土。十センチ程度までの表層と、五十センチ以上掘ったところの深層部分をそれぞれチューブに採取して」
「…スコップで、五十センチ以上?」
「そう!頑張って」
「…」
採取道具を運んでいたレムから小ぶりのスコップを差し出されたハンスは、盛大にげんなりしながらそれを受け取った。
「ケルビンは、植物サンプル。小さくて容器に入れられる範囲のものを、株ごと小分けにして欲しい」
「ええ、わかりました」
ケルビンには、ハンスのそれよりも小型のスコップが渡される。それを受け取ると、早速周囲を見渡して目星をつけ始めた。
「ヴィクターは、…そうだなあ、歴戦の軍人の索敵能力で、本当に生物がいないのか周囲を警戒しつつ小石とか、大きめの岩石があれば削って採取してくれないかな」
「…分かった」
ヴィクターには、チゼルと小型のハンマーが渡される。索敵は、ヘルメットの顳顬部分に内蔵されたスコープを双眼鏡代わりとして使用する。スコープからの情報は、バイザー内のHUD画面に映される仕組みだ。
彼らにはそれぞれ採取用の容器が配られ、それをバッグに保管している。バッグは腰回りに装着できるもので、全て内部は遮光や保温管理ができ、各自最大四つまで装着可能だ。採取した小型サンプルの入った各容器はこのバッグに一時的に保管され、イージスのカーゴベイで処理された後、ストレージへと分類されて運ばれる。
ラビはレムを連れ、大気サンプルの収集とドローンを駆使した森の事前調査を行うようだ。とはいえ、酸素濃度や気温・湿度などの数値は採取済みであるが、それに加え、エリアごとに特殊ケースに空気を入れて密閉することで、更なる解析を行うのだ。
各々散開し、通信範囲内で会話を挟みつつ、作業に入る。広大な自然の中で蠢くスーツ姿は明らかに異質で、どこか滑稽だ。草や土を踏み締める音や、土を掘る音、岩を砕く音──そんな、彼らから発せられる音だけが、青空のもと、周囲に響いていた。
彼らの作業は、まるで地球を再確認するかのような、不可思議なものとなっていた。
採集作業を終えた探索組が戻ると、エヴァやアランも作業を中断し、一度ブリーフィングを行うこととなった。彼らはコックピットに集まり、シートを互いに向き合わせてそこを簡易的な会議室とした。ラビが、除染作業を終えてケースに移し換えたサンプル群をカートに乗せて持ち込み、中心に据える。そして、彼がまず最初に口火を切った。
「…みんな、おかしいと思ってることあるよね?」
まるで確定事項であるかのような問いかけだったが、誰もが一つ首肯した。そして、コックピットのウィンドウから外を眺める。そこには、相変わらず快晴の空の下である景色が広がっていた。
「──我々が降下してから既に数時間以上経過していますが、一向に日が暮れる気配がありませんね。というかそもそも、太陽のような光源らしきものが確認出来ていません。地上の物体には影があるので、空が明るいのは確かなはずなのですが…」
ケルビンが戸惑いつつも冷静に把握している状況を述べる。彼らは降下して以降、いくら作業をしていても日が暮れない事に違和感を覚え、レムのログから滞在時間を逆算して驚いたのだ。日の高い内に辿り着き、そこから作業を開始したと思っていたのにも関わらず、空は青いままだった。その影響か体内時計が狂い、クルー達は事実に気づいた途端、どっと疲れがこみ上げる気分を味わった。
「スーツの機能が良いのも相まって、体温が常に快適に保たれてるから余計に分かりづらいのよね。私も時間については失念していたわ。アランが疑問を投げてくるまで作業に没頭していて気付けなかった」
「僕ら下手したら、寝ずに作業出来ちゃってたかもね」
「──昼が続く事に関しては、自転速度が恐ろしく遅いか、そもそも自転していないという可能性が考えられますね」
「太陽が見えないのにこんなに明るい理由って説明つく?」
「可能性があるとすれば、大気が、太陽光を拡張し、光を拡散させている──などでしょうか?」
「それって普通の大気じゃ無理だよね?しかも僕ら、大気が薄いところを潜ってここまで来たんだよ?」
「うーん…」
エヴァが疲れ切ったような様子で溜息を吐き、ラビは茶化すような発言をして小さく肩を竦め、ケルビンがお構いなしに推論を述べる。そして、広義では研究者の部類であるラビとケルビンが、そのまま可能性を話し合う。雑談と共有、推測が入り混じった会議は、纏まっていないようで思いの外スムーズに進んでいた。
「…でも、おかしいのはそれだけじゃない。ちょっとさ、ここで一旦この星の疑問点を挙げていかない?」
ラビの提案により、クルーから声が上がっていく。それが積み重なっていくのに比例して、見た目は美しいこの星の異様さが増していった。
まず挙げられたのは、風が無いことだ。森の木々が揺れる様子もなく、草は彼らが傍で動いた時にしか動かない。ヘルメットの聴覚機能からも、外には風やそれが影響して発生するような音がひとつも無かった。
次に、ラビから本当に生物が存在しない事が挙げられた。どうやら顕微鏡を通してみても、微生物ひとつ確認出来なかったようだ。土を掘ったハンスやケルビンも虫を一度も見ていない。周囲を細かく探索していたヴィクターは、野生動物が動く時の草木の動きなども見られなかったと言った。残留組のエヴァはもちろん、ドローンを通して海側を探索していたアランも、海鳥一羽見ていなかった。
そして最後に、どこを歩こうが気温や湿度などが一定だという事だ。海辺や丘陵地帯、森──すべてで全く同じ数値が出たのだ。気温二十五度、湿度七十八パーセント…ありがたい数値であるはずなのに、異様さと不気味さを醸し出していた。
「──…つまり、どういう事なんだ?」
「楽観視するなら、楽園だよ楽園。微生物すら存在しないのはいただけないけど、そうだな…超快適な宿泊施設って感じ?」
疑問点が出されたところで首を傾げるハンスに、ラビが身を乗り出して応える。ハンスは眉根を寄せて腕を組んだ。
「宇宙にあるハイラント…みたいなもんか?」
「あ、それ、言い得て妙だね」
難しい顔をして言葉を捻り出したハンスを指差し、ラビが同意する。全員がしっくり来たというようにひとつ頷いた。
「しかし、ハイラントは人工物です。ですが、ここにはそういったものの形跡は無い──つまり、あくまで自然の産物という事になります。地球よりもハイスペックな星が、こんな場所に突如として観測された…ということは、これは…太陽系外の星である可能性はありませんか」
「快適イコールハイスペックとは一概には言えないからアレだけど、まあでも、別の銀河系ではこういう星が自然発生しているって可能性はあるのかな?──どうやってここに出現したのかは全然分かんないけど」
話を展開させたところで、明確な答えは得られないという状況が続く。疑問を挙げては首を捻り、見解を述べては唸る──ブリーフィングはいつしか膠着状態となっていた。
「とりあえず、明日以降はどうしようか?海側周辺の映像記録はある程度撮れてるから、海側へ探索に出る?」
気を取り直すようにアランが提案する。するとケルビンとラビが顔を見合わせた。
「二手に分かれようか?」
「そうですね。森側の探索も済んでいませんし」
二人が頷き合って提案すると、ヴィクターがそれに呼応した。
「なら俺とハンスは分かれて行動だ。探索中、何があるか分からんからな。念のため戦闘員は分けて配置した方が良い」
「了解です」
明快な指示出しに、ハンスが即答する。その様子を見たアランは、彼らがハイラントの第三部隊としてどのようなやりとりをしているのか、覗き見したような気分を味わっていた。
「じゃあ、今日はもう一旦休もうか。外はまだ全然明るいけど──地球時間は…」
「地球時間は、現在二十時七分です」
アランの問いかけに、レムが応える。端末で確認しようとしていたアランは、レムの存在を思い出して目を見開いて振り返り、「ありがとう」と礼を告げる。時間を知ったラビは、大袈裟に驚きの声を上げた。
「ええ、そんなに夜なの?──ああ、外見るの止めよう。調子狂って眠れなくなる」
「…ひとまず我々は、地球時間に合わせて行動するのが良さそうですね。アランの言う通り今日はもう、食事をとって休みましょう。それで構いませんか、ヴィクター隊長?」
眼鏡のブリッジを上げながらケルビンが、隣のヴィクターに問いかける。黙してブリーフィングのやりとりを見守っていたヴィクターは、目を閉じて首肯し、「ああ」と短く返事をした。それを合図に、スイッチが入ったように椅子から立ち上がったラビは、鼻歌混じりにサンプルのカートを押しながらラボの方へと消えていく。他のクルーたちも、続々と立ち上がってはシートを元に戻し、キッチンへと向かう。
そんな彼らを、コックピットに装着されたレムは見送る形となる。最後尾にいたアランがふと振り返り、レムに笑いかけた。
「それじゃあレム、また明日」
「ええ、みなさん──また明日」
こうして、波乱も予想していたOSX-9探索は、それに反して不気味なスタートを切ったのだった。
《Day 2》
翌朝、相変わらずの快晴。クルーたちは身支度と食事を終えると、スーツに着替え、早速探索に出発した。先日同様アランとエヴァはイージスに残って各々作業となるが、遠出する者は森側と海側に分かれ、それぞれ目的地点へと歩き出す。
レムの情報によれば、ここまで一切日の光が陰る事はなく、夜は来なかったということだった。つまり、地球時間にしてほぼ一日中、昼が続いている状態だ。稼働と休息のバランスをとり、健全な生活を心がけなければならない彼らは、地球時間に合わせてイージスの船内で光の遮断や調光をすることで時間経過を演出するしか無かった。
エヴァが修復作業に入るのを見送ると、アランは周囲を軽く散策してからコックピットに戻った。今回は海側と森側両方に探索組が別れるため、彼は遠隔での探索も行わない。レムもボディとともに外出しているため、静かなコックピットの中で、この惑星のデータをまとめることにしたようだ。スーツロッカーにてヴェイルスーツを脱ぎ、ヘルメットだけを抱えてボディスーツ姿でコックピットへと向かう。エヴァは作業の補助が必要なときに通信を使うだろうと踏んだためだ。
アランは操縦席に座り、コックピットのウィンドウにHUDを表示させ、先日、探索組が撮影した丘陵地帯や森に飛ばしたというドローンの映像を眺める。無人の自然の景色が続く中、時折、スーツ姿ではあるが、ハンスやラビ、ケルビン、ヴィクターの姿が映る。慎重に種類の違う草を株ごと採取するため作業をするケルビン、バイザースコープを使っているのか、顳顬部分を押さえながら遠くを観察し、その延長線で小石を拾い、岩を砕くヴィクター。レムの視点で見上げるラビは、あちこち指差しながら採取方法に指示を出しつつ、どこか楽しげに空気調査用のケースを扱っている。
レムの視界の端でちまちまと土を掘るハンスを見て、思わずアランは小さく笑った。今や見る影もなく意外に思えるが、もともとハンスは幼少期から細かい作業が得意で、とにかく臆病なほどに慎重だった。幼少期の彼は小さなものが好きで、彼にとって大事な物を瓶に詰めて集めては、物陰に蹲み込んでそれを床や地面に並べ、よく鑑賞していた。アランもそれを何度か見せて貰ったことがあったが、それは何の変哲もない、角の丸くなった石であったり、ナットだったり、ガラス玉だったり──側から見ればゴミでしかないようなものばかりだった。しかし彼は幼いながらにそのゴミに何か特徴を発見し、それを宝物のように扱っていたのだ。
過去の幼い弟が、もうすっかり成長した現在の弟の姿に重なる。映像の中の探索風景が、いつの間にかアランの中で、子供の頃の映像に変わり始める。いつも、ハンスとエヴァとともに居た。コミュニティの施設で割り当てられた部屋、空港跡地のひび割れた滑走路、打ち棄てられた旅客機のコックピット──三人だけの秘密基地。
目的地に無事辿り着けたこと、──その目的地が、こんなにも地球と酷似しているのに美しい自然に囲まれて静かであること。そして、過去を思い起こさせるような映像…アランはここに来て、安らかな気持ちに浸っていた。これまで気付かぬうちに溜まっていた疲労を思い出すかのように、眠気まで襲ってくるほどだった。──そして、そのまま映像から流れてくる仲間たちの声に浸り、目を閉じた。
外装修復に専念していたエヴァは、細かい傷のチェックと溶接を終え、最終確認としてデバイスで全体をスキャンした。一見すると修理完了のように映るが、ここからさらに補強作業がある。”ようやく本題に入れる”と、スーツの中で大きく深呼吸をし、エヴァは船体に寄りかかって周囲を見渡した。
青い空や、遠くの木々、青々とした平原、海──青い水面が陽光を跳ね返し、白くきらめく光景。思えば、到着してから満足に周囲を観察していなかった。エヴァはそんなふうに思いながら、改めてこの星が、奇妙でありながらも美しいということを思い知る。
エヴァは、本物の海を見たことが無かった。アランたちと暮らしていた空港跡地は内陸だったうえに、放射能汚染エリアを警戒する大人たちによって、敷地外に出ることは禁止されていたからだ。そして、その故郷が破壊され、ハイラントに移住してからはずっと塔の中の生活だった。ノートリウムやトレーニングルームなどのコモンエリアに、視覚的なリラックス効果を狙った自然風景の映像を流すモニターは存在したので、作り物の広大な自然風景は見たことがあった。だが、実際の彼女は人工物に囲まれた、白く美しい塔の中でしか生きていなかった。──このOSX-9で、それを思い知った。
「なんでこんな星が存在するのかって思うけど──…そんなことどうでもよくなってくるわね…」
エヴァの呟きがヘルメットの中でこぼれ落ちる。同時にエヴァは、開放感のようなものを覚えていた。これまで自分自身、頑なになっていたと思っていたことなどが、全て霧散していくような、浄化されるような感覚だった。
「こんなに遠くを見つめたこと、──無かったな」
意識が遠くなるような錯覚を覚え、エヴァは我に帰るように頭を振った。寄りかかっていた背を外殻から離し、短く息を吐く。そして、通信機に触れて徐に通信を開始した。
「──アラン、今どこにいる?パネルの運び出し手伝ってくれない?」
身に付けていたツールをボックスに戻しながら声を掛けるが、応答が無い。何度か呼びかけてみたが、結果は変わらなかった。アランは本日、ほとんど待機状態の予定だ。探索組を送り出してからかなりの時間が経っているし、もしかすると時間を持て余しているのかもしれないと思い当たったエヴァは、小さく溜息を吐いた。
「まさか、ここが快適すぎて居眠りしてる?」
とう独り言ちながら、エヴァはエアロックへ向かい、イージス内に戻るとヘルメットを取り外した。それを小脇に抱え、スーツ姿のままスーツロッカー、無人のクルールームと軽く確認するが、見当たらない。
「アラン?──外に出ていったわけじゃないわよね?」
簡易キッチンと、念のためラボも確認するが、静まり返っている。最後にコックピットの扉を開けると、操縦席の背もたれから、彼の後頭部が覗いている。エヴァはわざと大きく咳払いをした。
「アラン、ここにいたの」
ウィンドウのHUDに、先日探索分の映像記録が再生されている。どうやらこれを見ながら寝落ちていたようだ。エヴァの声かけで起きたのか、アランはゆっくりとエヴァを振り返った。
「…ごめん、呼んでた?」
「ええ、通信で何度か。──ちゃんとヘルメットは持って来てるんじゃない。寝てたのね」
「ああ、なんだか気持ちよくなってしまって」
「──まあ、わからなくもないけど、ね」
エヴァはそう言って、アランの隣──ハンスのシートに座った。HUDの映像を見れば、レム視点での採取の様子が流されている。奥の方でしゃがみ込み、ちまちまと土を掘るハンスの姿を見つけると、エヴァは思わず小さく吹き出した。突然笑い出したエヴァに、アランが不思議そうな目を向ける。エヴァはアランに視線を返すと、苦笑しながら肩を竦めた。
「…ハンスって何で、あんな縮こまるようなしゃがみ方するのかしらね」
茶化すようにエヴァが言えば、アランも口元に拳を当てて吹き出した。
「エヴァも思った?──昔から変わらないよな」
変わったことが多いが、変わらないものもある。エヴァは、アンネルでのヴィクターとのやり取りを反芻していた。そして、成長するにつれ変わってしまった”今の自分”の中にも、もしかしたら”昔の自分”が潜んでいるのかもしれないと、小さく安堵する。
「ねえ、──私ちょっと休憩するから、それが終わったら補修作業を手伝ってくれない?」
「ああ、そういう用だったんだな。もちろん」
アランがHUDをオフにして、エヴァとともに立ち上がる。彼もキッチンで一息つけるようだ。
「操縦ばかりしてて、技術者の腕がなまってないと良いわね」
「それは…否めないかもなあ」
そんなことを言い合いながら、連れ立ってキッチンに向かう二人の後ろ姿は、まるで過去に一瞬戻ったかのような空気を醸し出していた。
ハンスとケルビンは、先日ドローンで下見をした森に向かって歩いていた。ハンスの肩には、そのドローンが乗っている。彼らのバイザーにはHUDでルートや地形図が表示されており、二人はそれを頼りに指示されたサンプルを採取する。
「…ドローンの情報では、小川があるということでしたが…海もあり湧水も存在する──この星はとんでもない逸物ですね。多少不可解な点はありますが…まさに、”浄化された地球”と言えるでしょう」
ハンスの通信機からケルビンの声が聞こえる。二人は現在、不測の事態に備えて互いの通信を解放しているため、小さな独り言ですら相手に伝わってしまう。ケルビンがハンスに話しかけたかどうかは微妙なラインだったが、ハンスはその呟きに応えた。
「エシュロンが好きそうだよな。良かったじゃねぇか、人類が無事移住出来そうでさ」
「そう断言するのは時期尚早です」
あくまでケルビンは冷静だ。ハンスは出発前の訓練の時から、こういった彼の性分を、単純にただ冷徹で硬質なものだと思って遠ざけていた。しかし、否応なしに同じ船に乗り、限られた空間で生活を共にすることで、単純にそうではないと思い直した。彼は確かに冷徹だが、実はある種の──天然素材だと。
するとどういうわけか、彼に対して容易に反論や突っ込み、揶揄いが出来るようになった。認識とは、不思議なものである。
「でも、実際どうなんだよ?人間が住める数値は揃ってて、敵も居ない。森の方にも、動く影ひとつ無い。──風が無いから、すぐ分かる」
「ええ、まるで宇宙空間のように静かです。正直なところ、現段階では人類に害は無さそうです」
「──ヘルメット取ってみるか?」
「…ご冗談を」
二人は歩き進み、やがて森へと足を運び入れる。ドローンがハンスの肩からごく小さな音を上げて飛び上がり、二人はその後を追随する。木々が生い茂りながらも不思議と視界の効いた、不思議な森だ。ハンスはバイザースコープをサーマルビジョンと細かく切り替えながら周囲を索敵するが、何も見当たらない。それなのに、森は全く鬱蒼とした雰囲気が無い。
「何ていうか、妙だな」
道無き道を進みながらハンスが呟く。ケルビンは、周囲に視線を巡らせている彼を横目で見やった。
「──ずっと、妙ですけどね」
「いや、森の感じというか…俺は掃討作戦でちょくちょく防護壁の外に出る機会があって…、──お前、”ヴァイン”って知ってるだろ?」
「…ええ、存じ上げています。──人類滅亡を企てる、カルト組織のようなもの…ですね」
「そう。で、俺はダート部隊として、ハイラントの指示で危険エリアになってるところのヴァインを、何回か潰しに行った事があって、──その中にこういう、森で暮らしてる奴らがいてさ」
ハンスの話を聞きながら、ケルビンは脳内アーカイブのページを捲る。人類を根絶やしにするために広範囲に渡り個別の組織形態を形成し、周囲の人間を襲撃して回る──そして、最期には自分たちが自決をする事で、その使命を遂げる。”ヴァイン”とは、そのような狂人的な思想を掲げた、大地に蔓延る”蔦”のような集団だ。
しかもケルビンの知る限り、この”ヴァイン”という名は、彼ら自身が名乗っている訳ではない。彼らはただ、自分たちを”アヴァラムの実”と呼び、アヴァラムの胎に還ることで、最終的には自分たちを五次元的存在に昇華させると提言している。”アヴァラム”とは彼らが信仰している、枝だけが複雑に天に伸びた、漆黒の神木だ。
ハンスの言っている、森に住むヴァインは、第三者からは”野生型”と呼ばれている。ヴァインは集団によって独自のコミュニティを形成しており、他には都市部の跡地を利用して組織された”都市型”と、特定の住処を持たず流動的な動きをする”流動型”がある。森に住む野生型は、総じて最も残虐性があり、ほとんど原始的な生活をしていると言われている。
「野生型、と呼ばれるヴァインですね」
「ああ。そいつらを追って初めて森に入ったりしたんだけど、もっと何かこう…ヤバかったんだよな。草木が生えすぎててごちゃごちゃしてたり、枯れ木とか倒木の残骸が混じってたり、枯葉が敷き詰まってたり…とっ散らかってる感じっていうのか?」
「ええ」
「で、俺らは草とか枯葉を踏む音とかで索敵したりしてさ。とにかく視界が悪い所が多いから、住処にしてる分相手の独壇場になっちまうし、奴らの武器は弓とか槍とか、音が最小限の武器しか使ってこねぇし…まあ大変だったんだよ」
ハンスはその時のことを思い浮かべながら森を見渡すが、あの時の緊張感はここでは全く感じていなかった。不思議と、”ここには危険が無い”と勘が働く。これを、彼は違和感に思っているようだった。
「でもここは本当に、何も無い。結構無防備な野生動物もいねぇし緊張感が無い。…枯れ木も枯れ葉も見当たらねぇ。何て言ったらいいか…汚い場所が無い?」
「──それは、同感です」
「だから、俺もどう警戒していいか戸惑うよ」
ハンスは最後に肩を竦め、溜息を吐いた。バイザー越しの彼の表情ははっきりとしないが、ケルビンの所感では、どうやらハンスは拍子抜けしているようだった。
そうこうしていると、目的の川に辿り着く。上流から緩やかに流れる小川のせせらぎは静かな森でやけに耳に響き、二人は川の姿が見えないうちからその存在を認知出来た。石の上を流れる水は透き通り、温度を測れば水温は十五度だった。早速、ケルビンは腰に携帯しているケースの一つから透明のエアロックボトルを取り出した。水深のある箇所へと移動し、水面近くにボトルを沈めて蓋を開け、ある程度中身が満たされたところで蓋を閉める。するとプシュ、と空気音が鳴り、中身が真空に保たれた。
「これ、底にある小石とかも取っとくか?」
「ええ、お願いします。あとは…もう少し周囲探索をしつつ樹皮や葉も採取しましょう」
「はあ、…なんか、銃なんか持ってても使わなそうだな。単なる荷物でしかない」
「いざという時に戦えるのはあなただけなのですから、戻るまではそのつもりでいていただきたいものですが」
「…はいはい」
森を散策しながら、淡々と採取作業が進む。二人は今作戦が初対面で付き合いが短いうえに、互いに精密作業に集中するタイプのようだ。通信がつながっているのにも関わらず、ほとんど雑談無く手を動かしていた。
ある程度森の探索を終えると、数時間が経過していることに気付く。相変わらず木の隙間から見える空は快晴で、夜が来る気配は無い。ハンスはバイザーの時刻表示を見て思い出すように疲労を感じだ。”明るさが変わる”という地球では当たり前の現象が無ければ、人間の感覚はいとも簡単に狂わされるのだと実感する。
「一度、戻りましょうか」
「ああ」
来たのとは違うルートでドローンを先頭にして二人は再び森を進む。帰りはサンプルを所持しているので、その足取りは少し慎重だ。柔い木漏れ日の下を歩きながら、ふと、ケルビンが口を開いた。
「軍人としてのあなたにお伺いしたいのですが」
「何だよ」
「──…戦場とは、過酷なものですか?…命の駆け引きをなさるわけですから、そうであるとは思いますが…例えば、精神的に」
突然の問いかけに、ハンスは面食らったようにヘルメットの中で目を見開いた。ケルビンは前を向いたままなのでその表情は窺えない。しかし落ち着いた声音から、何気なく聞いてきたのだとハンスは認識した。先程、自分がヴァインの話をしたからかもしれない、と。
ただ、ハンスにとってケルビンの質問は彼らしくなく漠然としていて、どう答えたものかと逡巡する。カウンセラーでもある相手の意図を読み取ろうとしてみるが、材料が少なすぎてハンスはすぐに諦めるほかなかった。
「そりゃまあ、殺るか殺られるかっていうタフな役職だけど…さっきも言った野生型との戦闘は特に骨が折れたし。でも、正直ハイラントの武器とチームの統率があれば、結構楽勝なんだ。戦闘と戦術の基礎さえ身についてれば、余裕で勝てる。現に俺はデカい怪我もしたことねぇし、俺のいる第三部隊は特にそんな感じ」
事もなげに応えるハンスに、ケルビンが振り向いた。静かに彼を見据え、「そうですか」と、ぽつりと言葉を返す。ハンスが眉を顰めたところで、ケルビンの目線は再び前方に戻された。
「で、この質問って何の意図があるんだよ?」
「──いえ、地球に残して来た患者の中には、過酷な環境に押し潰されてしまう方々がいましたので、あなたはどうなのかと」
「ふうん?ま、俺は今言った通りかな」
ケルビンは力なく、だがそれを悟られないよう平然と「そうなんですね」と相槌を打った。ハンスのように然程戦場を苦に思わない人物が居る一方で、何やら戦場の記憶に苛まれ、精神に異常を来すヴィクターのような歴戦の軍人も存在する。
並び立って歩きながらケルビンは、あの時悪夢に囚われそうになっていたヴィクターの姿を、脳の片隅で思い返していた。
一方、海側へ向かうのはヴィクター、ラビの二人と、レムである。彼らが海までに辿るのは、多少坂があるくらいの平坦な道だ。道といってももちろん舗装されていたり、獣の歩いた跡があるわけではない。あくまで、彼らのバイザーに表示されているルートという意味での道である。
体格差のある二人だが、ラビは逸る気持ちが足取りに出ているのか、ペースが早い。おかげでヴィクターはごく自然な歩幅で歩く事が出来ている。相変わらずバイザースコープにチラつく異常は無く、至って平和な道のりだ。
レムはラビの傍についていた。作戦開始当初から何故かラビはレムに親しげに接し、レムはAIにしてはそれに付き合うような素振りを見せている。ヴィクターにしてみれば相容れないものではあるが、ラビの子供じみた性格は、彼が政府組織の軍人として所属していたコミュニティの子供達を思い起こさせるものだった。
この二人がペアの場合、必ず雑談の口火を切るのはラビになる。先ほどからああでもないこうでもないと独り言のように話しているラビだが、それに律儀に相槌を打っているのはレムだった。ヴィクターはラビの相手をレムに任せ、自分は後方で周囲を警戒するという名目のもと、会話を回避していた。
「──ねえ、ヴィクターもそう思わない?」
突然ラビに問いかけられ、ヴィクターは眉を顰めた。ラビが何について同意を求めて来たのか全く想像がつかないようだった。
「うわ、聞いてないよこの人!僕ら二人しかいないっていうのにさ」
「…レムと話していただろう」
「だからって三人しかいないのに、何で蚊帳の外になれると思えるかなぁ」
「…」
すぐに二の句を告げなくなり、ヴィクターは口を引き結ぶ。直接体験したわけではないが、端から見ているばかりだったヴィクターにも充分に伝わっていることがある。それは、ラビには下手に言い返してもさらに言い返される傾向があるということだ。
「あのね、この星って今のところ不気味なぐらい生物がいないだろ?でも、これだけのものが揃ってて生物がいないって、正直意味わかんないじゃん。でさ、もし僕らみたいな知的生命体がどこかに潜んでたとしてさ、潜伏先候補ってどこだと思うかなって話してたんだよ。で、僕は地下だと思ったってわけ」
「…地下?」
「そう!この雄大な自然は見せかけで、敢えてそのまま放置してる。で、僕らみたいな来訪者に”何もないですよ”って思わせる。けれどもなんと、本当の生活空間は全部地下にありました!ってオチ、ありそうじゃない?」
「──…無いだろうな」
しっかり間を置いた後にばっさりと切り捨てるヴィクターだったが、ラビはそれににやりと笑い返してみせた。始めからヴィクターは否定すると分かっている反応である。だが、話は止まらない。
「わかんないよ?僕らだって、地下二十キロのところにある滑走路の開始地点から宇宙に飛び出して来たんだ。もしかしたら、この地面の下に、超ハイテク文明が稼働してるかもしれない」
「…そうだとして、俺たちを放置する理由は?」
「争い事が嫌いなんじゃない?僕らの地球だって争いが起こりまくってああなったんでしょ?そういうのが予見出来てたとしたら、ここには誰とも争わない構造の文明が眠ってるのかもしれないよ」
「荒唐無稽な話だ」
「…ふふ、どうだろうね」
ラビは終始楽しげに口角を上げている。そんな彼の背中を追いながら、ヴィクターは場の空気にそぐわない重々しい息を吐いた。
「間もなく、目標地点です」
レムがボディの側面から多機能アームを出現させ、アンテナのように伸ばしたそれで前方を指し示す。そこには白い砂浜と、水面をきらめかせた静かな青い海が広がっていた。
「わお、これが本物の海かぁ。圧巻だね」
外部招致でハイラントに移住したラビだが、どうやら海を見るのは初めてのようだ。彼のことなので、興味や好奇心からアーカイブのデータで画像くらいは見た事があるのだろう。それにコモンエリアにも、在りし日の自然とともに海の映像は時々流される。だがやはり本物の自然というのは、いくら性能の良い本物のような映像でも補えない何かがあるようだ。
「さて、じゃあ海との感動の対面はこれぐらいにして、早速サンプル収集に入ろうか」
到達するまでは感動するような反応を示していたラビだったが、海に着くなり発した第一声は現実的なものだった。彼は早速レムからのデータをHUDで確認しつつ、ドローンを飛ばす位置についてレムと相談し始めた。そんなラビを端目に、ヴィクターは広大な海を眺める。彼は海を見るのが初めてでは無いが、落ち着いて眺めたことは無かった。政府組織のコニュニティは内陸地だったため、初めて海を見たのがハイラントで命じられた掃討作戦時だったからだ。
水平線を見失うかのような空と海の青が、あの悪夢で見た、何も無い真っ白な空間を思い起こさせる。思わず身動ぐと、足元の砂の音をヘルメットの聴覚補正機能が広い、我に返る。往路での最後の冬眠じでは乗り越えていたはずのあの悪夢の空間が、このような平和な場所で蘇ったことに動揺する。しかしそんな戸惑いも長くは続かなかった。原因は、ラビである。
「ヴィクター、エアロックボトルで海の水取ってくれない?ちょっと深さのある所に行かないとダメだから、そっちのが適任でしょ」
「…わかった」
砂に足をとられながら、ラビの指示に従い波打ち際へと移動する。しかしそこで、ふと気づいてヴィクターはまじまじと視線を落とした。側から見ると下を向いて佇み、動きを止めたスーツ姿という格好で、後に続いていたラビはそんなヴィクターを怪訝そうに見上げた。
「なんかあった?」
「いや…この海、波が無いんだな。どうりで静かなわけだ」
「え?」
「だがそうか…こうも風が無いのでは、波も起こらない筈だ」
「波というのは、主に風によって海面に乱れが起こり、上下運動をすることを言います。通常の海ならば、どこでも波を確認する事が出来ます」
「…ああ、なるほどね。そっか、水で起こる原理が、こんな大きい海でも起こるのか。で、それが無いってことは、普通じゃないってことね」
一人で納得しているヴィクターの言い分を補足するように、レムがラビに説明を加える。ラビの理解は早かった。
「ま、じゃあヴィクター、膝ぐらいまでの所に行って、ボトルを沈めてから蓋を開いて、水が入ったら蓋閉めて。そしたら勝手に中身を真空状態にしてくれるから、それが終わったらすぐケースに戻して」
矢継ぎ早にラビから指示が出て、ヴィクターはスーツ姿の足を海水に浸す。そして、水圧を感じながらも指示通りの場所で足を止め、海水を採取した。何回かそれを繰り返すと、砂地に戻る。海はヴィクターの足が水を跳ね除ける音だけ溢すのみで、あとは静かなものだった。
「よし、オッケー。じゃ、次は…砂浜を探索して何か見つけたらとりあえずそれは採取するとして…──あ、ヴィクター、次砂の採取ね。砂はボトルの八分目ぐらいにおさめておいて」
ドローンから送られてくる映像を見ながら唸りつつ、ラビがヴィクターに次の指示を出す。ヴィクターは大きく溜息をつき、別のケースから取り出したエアロックボトルの蓋を開け、砂地にそのまま突っ込むようにして採取し始めた。
「ちょ、ちょっとちょっと、砂はスコップとかで丁寧に入れてよ!蓋の間に砂が詰まりまくったりしたら不具合起こしかねないんだからさぁ」
「…何だと」
「全部同じやり方なわけないじゃん!もー、レム、指導してあげて」
「了解、ラビ。頑張りましょう、ヴィクター」
突然大声で行動を嗜め始めるラビに、ヴィクターが通信機のボリュームを下げる。するとレムが、砂地でも安定した推進力でヴィクターの傍に移動して、彼を飄々と励ました。
「…で、どうやればいいんだ」
げんなりとしながらも、ヴィクターはレムの指示に従い、採集作業を再開した。
ヴィクターはレムの指示通りに、ラビはドローンに指示を出しながら、二人は海辺の採集作業をあらかた終えた。時間が経つことを忘れるような何も変わらない景色のなか、彼らはレムが定期的に伝える経過時間を目安にしている。作業は順調に進んだが、成果はあまり振るわなかった。何故なら、採取する物があまり無かったからだ。ラビは見える範囲の砂浜や海面を、ドローンを駆使して探索していたが、漂流物一つ存在しなかったのだ。あるのは海水、砂浜、陸地の岩石などくらいのものだった。透明度が高い海の見える範囲には、海藻らしきものも存在せず、魚や貝などの生物ももちろんいない。おかげでラビは途中から、砂浜に近い場所に生えた、内陸や森などとは植生の異なる植物のサンプルを採取していた。
終始穏やかに進んでいたかと思われた海側の採集だったが、ヴィクターにとってはそうではなかった。時間が経ち、作業に集中して会話もなくなり、静寂が続くにつれ、ヴィクターは内心でどこか恐怖心のような感覚を膨張させていた。砂浜に、自分たち以外の黒い影が──あの、佇むだけで何もせず、こちらを見るような黒い影が、視界の端にちらつくような気さえして、ヴィクターは途中、手が震え出さないか懸念したほどだった。
背中に携えた銃に手が伸びて、取り返しのつかないことをしてしまわないか──焦燥を浮かべる表情は、幸いにもバイザーに隠れて周囲に知れることは無かった。が、ヴィクターは次第に呼吸や心拍が乱れていたようで、それを聞き取ったレムから声がかかる。
「ヴィクター、呼吸が乱れていますが、大丈夫ですか?」
「──…いや、ああ…」
呼吸を落ち着けようと深呼吸を試みるが、それすらままならない。次第に、海の奥から影が流れてくるような幻影すら目にしたような感覚に陥り、バイザーのHUDがいつか”それ”を認識し、強調表示してしまうのではないかと、ありもしない想像が止まらなくなる。
それは突然の、病的とも言える異変だった。額を抑えたいのにヘルメットが邪魔をする。地球と同じ条件の星だ、そんなもの取ってしまえと脳内に指示が飛ばされ、追い出すように頭を振る。精神が蝕まれるにつれ、視界の影が増えているように感じる。それらは全て、等しく自分をじっと見ている──ヴィクターはそこでようやく、後ずさるように足を引いた。
傍で、レムがラビを呼んでいる。「ああ、呼ぶな」と思いつつ、「誰かにどうにかしてほしい」とも思う。ヴィクターが忙しなく視線を動かす中、砂浜から少し離れていたラビが駆けて来た。
「なになに、どうしたの?」
「ラビ、ヴィクターの体調が急変しています。呼吸と心拍に乱れが生じているようです」
「なんで急に⁉︎…ケルビン居ないのに」
「直ちに救援を呼びますか?しばらく安静にしますか?」
「僕何かしたほうがいい?」
ラビとレムの話し合いが、ヴィクターを正気に戻し始める。どうやら音があることによって状態が緩和するようだ。頭の片隅では冷静にそんなことを考えながら、ヴィクターは絞り出すように「しばらく座らせてくれ」と発言した。
白い砂浜の上、ヴィクターが蹲るように胡座をかく。レムが隣に寄り添い、ラビは向かい側に同じように胡座をかいた。ヴェイルスーツはその可動域にも適応する。ヴィクターは楽な体勢がとれたことにより、次第に落ち着き始めた。
「どうしたの?もしかして、バイザー取っちゃった?」
「…いや」
「バイザーは取っても問題ありません。大気条件は、地球と同じです」
「うんレム、それはそうなんだろうけどね」
ラビの声が心なしか動揺している。しかしどこか間の抜けたラビとレムのやり取りを聞きながら、ヴィクターは再度周囲を見渡した。影は消えたようだが、視線を感じるような感覚が残っている。そのことに、ヴィクターは自らを冷笑した。
それを冷笑と捉えず、自分たちの会話が笑いにつながったと勘違いしたのか、ラビは安堵の溜息を吐いた。そして、再度ヴィクターに向き直る。
「バイザー取ってないなら、急に体調悪くなったとか?」
「いや…まあ、そうなんだが、一つ聞いてもいいか」
「なに?」
俯いていた顔を上げ、ヴィクターが真っ直ぐにラビを見た。バイザー越しではあるが、ラビはその表情から、とりあえず彼が持ち直したのだと察する。そして、普段通りの声音を取り戻し、続きを促す。ヴィクターは少し視線を外して言い淀んでから、ぼそりと呟くように言った。
「──…お前は、何か視線を感じないか?」
ラビは、大きく目を見開いた。
地球時間にして昼過ぎ、一度イージスに戻ったクルーたちは、収集したものをカーゴベイに一度移し、食事をとることとなった。自然と互いの探索結果や、船の修復状況などの報告も兼ねた、ブリーフィングも同時に行うこととなる。
エヴァがまず脱出に充分な補修作業の五割がたを終えたところだと報告し、探索組の報告を促す。すると、互いに先日と同じような報告を出し合うような結果となった。自然はあるのに、それが綺麗すぎること、風や、波が無いこと──採集物も一見すると地球にあるものと同じで、ハンスなどは目に見えた手応えの無さに辟易すらしていた。
ラビがケルビンに事情を話し、ヴィクターはクルールームで休むこととなった。念のためメディカルチェックを行なったが問題はなく、ひとまず軽く休んでから食事をとるようにケルビンから申し出たのだ。ヴィクターは頷き、静かにクルールームに消えたため、食事の席には同席していない。それをいいことに、ラビが少し声を潜めてこう言ったのだ。
「もしかしたら、この星には何かがいるかもしれない」
「──どういう事です?」
「いや、ヴィクターが言ってたんだよね。視線を感じるって」
バイオミールを口にしながら、ラビは不敵に笑う。ハンスやエヴァ、アランは怪訝そうに眉根を寄せたが、ケルビンだけはどこか硬い表情でその言葉を受け止めていた。
「視線?俺何も感じなかったけど」
「ハンスが未熟なんじゃない?ヴィクターは歴戦の軍人なんでしょ?もしかしたら、第六感ってやつかも!」
「…お前、覚えておけよ」
言い合いを始めそうになったハンスとラビに、ケルビンが咳払いで水をさす。すると二人は同時にケルビンを見て、すごすごと口を閉じた。
「視線を感じただけですか?──それとも、具体的に何かを見たと?」
「いや、視線を感じるだけだって。しかもすごいよ、なんっっにもない海辺でさ、いろんなところから感じたって言うから…これは僕の仮説が当たっちゃうかもと思って」
「あなたの仮説?」
わくわくとした様子で話すラビに、エヴァの冷静な言葉が続く。その表情は、どこか辟易した様子にも見えた。
「途中にも話してたんだ。これだけ生命にとって好条件な星があって、生命がいないなんてありえない。実はこの星には何もないと思わせるために敢えて表面に自然を残したまま、地下に潜んでる知的生命体がいるんじゃないかって」
「──はあ、暴論だったわね」
ヴィクターに荒唐無稽とバッサリ切られたラビの持論は、またしてもエヴァに一蹴される。しかしそれでもラビは笑みを携えていた。
「まあまあ。その論が飛躍してるとしても、なんかこう、潜んでる生命体っていうのは存在する可能性出てきたんじゃない?──軍人の第六感を信じるならね」
「もっと、理論的な見解を述べるべきです」
「でも一応未知惑星なわけだし、僕らの常識から外れた存在がいてもおかしくはないからね」
「まあ、それはそうね」
ハンスはもそもそとバイオミールαを咀嚼しながらラビの持論を話半分で聞いていたが、ヴィクターの名が出てくるなら話は別だった。同じ舞台で何度も戦闘に出た経験のあるハンスは、彼の野生の勘とも言うべき直感を信頼していたからだ。エヴァも、常識から外れた何かがあるという点においてはラビに同意のようだった。
「じゃあ、まあ…午後はどうする?収集が進んだなら、場所を移してみるかい?」
「いえ、それは明日にしましょう。午後は収集した物の簡易的な解析を進めつつ、修復と別エリアの地形確認などを行うということでいかがですか?隊長のお体も優れないようですし」
「そうね。…ちなみに、修復作業中でも大気圏を出ないなら通常の飛行は可能だから、移動するならいつでもいいわよ」
エヴァの報告に、アランが頷く。ひとまずヴィクターの様子を伺いつつ、この周辺の最終確認と次地点の候補、収集物の解析を午後から行うこととして、クルーたちはその場を締めた。それぞれ充分に休憩を取ってから再び各々の持ち場へと移動していく。
ヴィクターの様子を見ることとなったケルビンだけは、終始硬い表情だ。何度かクルールームの扉の様子を見るが、音沙汰はない。──あの日、ヴィクターがバイタル異常を起こした冬眠で、彼が見た悪夢の話が蘇る。彼が譫言のように語った、物言わぬ影と戦ったという内容のものだ。
ケルビンは、これ以上ヴィクターのカウンセリングをしていいものか、珍しくすぐに答えを出せないでいた。
《Day 3》
明朝、地球時間に合わせて調光されたクルールーム。二段ベッド型の個人スペースから次々とクルーたちが起床する。だが、一番出入口に近い位置にある二基のベッドは遮断もされず、空のままだった。
昨日、体調を崩したヴィクターは、結局午後の探索を欠席し、船内で休養した。アランとエヴァに彼を任せ、残りのハンス・ラビ・ケルビン・レムは周辺の最終探索と、エヴォリスを利用したOSX-9の地形調査を行なった。
レムが得た上空データには、地球と同様の両極の氷、北部の寒冷地、広大な砂漠らしきエリアが記録されていた。それらをもとに、本日はヴィクターの様子を見ながら異なる気候エリアを探索することとなった。
ケルビンとヴィクターは医療室で寝泊りしている。医療室のベッドは本来寝具ではないが、相部屋を避けるため、そしてヴィクター本人の希望もあってその形になった。
規則正しいエヴァにつられ、アラン、ハンス、ラビが起き出す。食事を済ませ、エヴァの点検が済めば、あとは出発準備だけ。イージスでの生活も、彼らにとっては日常生活の舞台となりつつあった。
スーツを着て外に出たエヴァを見送り、コックピットの操縦席に座って機材に触れるアランを横目に、ハンスとラビは連れ立って一度医療室の様子を見に行った。ロック中のドアにベルを鳴らすと、ケルビンが中から表れる。中を覗けば、ヴィクターは処置台に横たわり、シーツにくるまれて眠っていた。
「…隊長の様子は?」
ハンスが声を潜め、遠慮がちにケルビンに尋ねる。すると、ケルビンは眼鏡のブリッジを持ち上げ、一呼吸おいてからハンスに向き直った。
「──正直に申し上げます。…あまり、いいとは言えません。薬で眠らせていますが、休息になっているか定かではありません」
「じゃあ、ほとんど眠れてないってことか?」
「ええ、まあ──…全体的に言えばそうなります」
その発言内容から、ハンスは平然と応えるケルビンにも疲労が滲んでいるように見えた。そして、初めて見る弱ったヴィクターに視線を移し、そのまま閉口する。彼にとって完全無欠であったヴィクターは、静かに瞳を閉じ、微動だにせず眠っていた。
「…やっぱりさ、第六感が働き過ぎてるんじゃない?」
ハンスの傍でラビが囁く。「視線を感じる」というヴィクターの発言を、彼はまだ気にしていた。そしてそれは、”見えない何か”の存在を肯定する証拠の可能性があると認識しているのだ。
「戦士の勘が、未知生物の存在を示してるのかも。それで無意識的に危機を察知して、こうやって動けなくなってるとか?」
「ですがそう仮定しても、生物の痕跡は皆無です。あなたが先日言っていた”地下コミュニティ説”も、レムの検知には引っかかりませんでした」
「いやでも、捨て切れないよ。逆に言えばそれが何よりの証拠かもしれないじゃん」
「生物の痕跡が無いのが生物が存在する証拠…?それって、論理が破綻してないか?」
ラビの持論にハンスは首を捻る。
「まあ、移動してみれば何か分かるでしょ。最悪、最終地点で敵認識されて急に攻撃されるかも」
「…何でお前はそう、ちょっと楽しそうなんだよ。言っとくが隊長がこんなだと戦えるの俺だけだぞ。守り切れるか保障はないから、最低限自衛しろよ」
「研究者に向かってテーザーで自衛しろ?…難易度高過ぎ!」
ラビはそう抗議しつつもやはりどこか楽しげだ。
そんな軽口と共に、ハンスは再び眠るヴィクターを一瞥した。
準備を終えて間も無く、イージスはまず白一色の大地に降り立った。空気は澄んでいるが、レムの計測では気温二十五度のまま。にもかかわらず、目の前には分厚い氷原が広がっていた。
気候の助けもあり、エヴァは難なく探査中の補修作業を進め、イージスは帰還に向けて着々と補強されていく。アランが船内でヴィクターの様子を見るなか、他クルーたちは氷塊を削っていた。ハンスがコアドリルを使用するのを、ラビとケルビンが見守る。音を立てて透明な破片が飛び散り、ラビがスーツ越しにそれを真っ先に拾い上げる。するとそれはひと呼吸置いてからじわりと水滴を滲ませた。
「この温度で氷が保たれるのは…あり得ませんね」
「ここに来て”あり得ない”が口癖になりそう」
そんなことを言いながら、ラビは採集ケースに氷片を収めた。
休息を挟んで次に訪れたのは黄金色の地平線が延々と続く砂漠地帯だった。やはり温度は二十五度。乾いた空気すら感じられず、そもそも風が無い。砂は手に乗せた途端、スーツの隙間を縫うようにしてサラサラと落ちるのみで、特に異常は感じられなかった。ただ、岩陰に群生するサボテンだけが鮮やかな緑を保っていた。
「砂漠ってもっとこう…暑いもんなんじゃないのか?ハイラント周辺の荒野も砂漠ってほどじゃ無いけど同じ色してるのに、もっと暑いよな?」
「日中と夜の寒暖差も激しいといいますが…夜が来ないので検証も出来ませんね」
砂をボトルに採取しながら呟くハンスに、ケルビンが疑問を添える。お互い本物の砂漠を見たことが無いため推測となるため、解答は出てこない。
「ま、ラッキーってことにしとこうよ」
ラビがそう言ってにやりと笑う。その声はやけに遠く、相変わらず青一色の空に溶けていった。
地球時間の夕刻過ぎには予定していた全ての探索を終え、イージスは再びランディングポイントへと帰還した。一貫して静寂に包まれた、穏やかな採集作業であった。ラビが危惧していた未知生物の痕跡も相変わらず見つからない。クルーたちはもはや、”何も無いこと”に対して若干の疲労すら感じていた。
そんな中僥倖だったのは、探索の合間に進められていたエヴァの補修作業が終了したということだ。船の帰還の準備は整った。あとは残りのどのエリアを探索し、何を採集すべきかである。クルーたちは前日同様コックピットのシートを向かい合わせ、集めた情報を精査するブリーフィングを開始した。
まずは、ラビによる解析結果だ。彼はここまで来て、律儀に除染作業を挟むべきなのかと疑問を呈するという研究者にあるまじき発言をしつつ、手慣れた作業でサンプルを解析した。そしてまたしても苦虫を噛み潰したような顔をする。全て、数値上はごく普通の物質として記録するほかなかったからだ。
「…本来、数値に問題無いのは喜ばしいはずのことなんですが」
「なんか、不気味っちゃ不気味だよな」
ラビの解析結果に目を通しながら、ケルビンとハンスがそんな事を呟く。アランはさっと目を通しただけで、コックピットのウィンドウを振り返り、変わらぬ晴天の景色をぼんやりと眺めていた。
つまり結果として、人類が移住するのに申し分のない星としか言えないのだ。だがそれ故に不気味さが蔓延るのも確かで、異様であることも否めない。この言いようのない肌感がエシュロンに伝わるのかどうか──下手に報告をすれば、追加物資を送られた上で実験的に生活してみろと命じられそうだとハンスは内心で盛大な溜息を吐いた。
「──ひとつ、よろしいでしょうか?」
ハンスがげんなりしていると、ケルビンの声がその場の空気を遮断した。周囲の目線が彼に集中する。ケルビンは一度、空のシートを一瞥してからクルーを見回した。
「…一度、エヴォリスに帰還しましょう」
静かな提案が、クルーたちの空気を軽く締める。そして、全員が一様に、今回探索に一度も同行していない人物の顔を思い浮かべた。全員の瞳が、ケルビンの発言の真意を見抜いていた。
「…ヴィクター隊長?」
エヴァが懸念を帯びた表情でケルビンを見つめる。ケルビンは小さく首肯すると、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「薬で眠っている間は問題ないようなのですが、意識が浮上するとどうもままならないようで…どうやらこの星の環境が、彼をそうさせている可能性が否めないのです」
「まあ、こっち来て急にだもんね」
ラビの発言に、ケルビンは誤魔化すように目を逸らす。ひとつ咳払いをすると、そのままアランに視線を移す。アランはいまだ、ウィンドウの外を眺めていた。
「──アラン?」
「…ん、何だ?」
「我々が探索に出ている間、ヴィクター隊長の様子は問題なかったんですよね?」
「ああ、眠っているだけだったからな」
「…ですが、探索中常に眠っていただく事も出来ません」
ケルビンは、その事実に小さく息を吐く。彼自身が診る限りでも、意識を遮断しているかのように眠っている間は、ヴィクターは正常なのだ。得体の知れない星で、エヴォリスよりも狭い空間の中、何か問題が起きれば対処が遅れることもある。ケルビンが考慮して導き出した最善策は、ヴィクターをとにかく眠らせることだった。冬眠時、夢に囚われていた彼の姿も知っているのでケルビンとしては博打のようなものだったが、結果として現状は乗り越えた。だがそれが続くとも限らない。
「ま、僕はいいよ。最低限のサンプルは取れたと思うし、エヴォリスのラボでもっとよく解析したいって気もする」
ラビが事もなげにそう言った。彼が一番渋りそうだと思っていたエヴァは静かに面食らう。だが次の発言でその瞼は半分閉じられた。
「それにさ、とりあえず探索予定期間はエヴォリス滞在って感じにして、なんか足りない物があったらまた降りればいいじゃん。そのための備蓄ぐらいはあるでしょ?」
「…大気圏を抜ける度に外殻の修理をするのよ。そのうちガタが来てOSX-9から出られなくなった…なんてことにならなきゃいいけど」
エヴァが冷静に釘を刺すと、ラビは大袈裟に肩を竦める。しかしその場は和む事なく、まるで重力が積み重なったような空気となった。気を取り直すように、今度はアランが咳払いをした。
「じゃあ、一旦戻ろう。この星にいることが問題なら、とりあえず出てしまった方がいい」
清々しい声でそう言って、クルーたちを見渡す。同意を求めるような視線に、エヴァやハンスも頷くほかなかった。ヴィクター不在のブリーフィングは、彼が不在のまま、”エヴォリス帰還”という結論を出して終了することとなった。
かくして、朝を待たずに離陸の準備が進められた。薬で眠るヴィクターはクルールームのベッドに移送し、離陸時のGに備えて固定する。体を動かされても目を覚さないヴィクターはそれだけ薬が効いてよく眠っているようだった。
クルーたちは船内の備品の固定作業を終えると、コックピットのシートに自らの体を収めて固定する。レムのボディも操縦席の間にドッキングされ、イージスのシステムがライフラインから推進中心に変更されていく。
アランは、確認作業をするように慎重に操縦席のパネルや操縦桿に触れる。隣のハンスがシステムの確認作業をしながらそんな彼の姿を一瞥した。
「大丈夫そうか?」
「ああ、問題ないよ」
ハンスの問いかけに、アランはにこやかに応える。そして、一度後部シートを振り返り、「準備はいいね?」と一言告げる。エヴァたちが首肯するのを確認すると、今度は力強く操縦桿を握った。
イージスは平地を滑走路にして高速で飛び立つ。高度を保ちつつ水平滑空で速度を稼ぎ、その間で何度か姿勢制御を挟む。重力加速度が上がり、ボディスーツが衝撃を吸収し始める。そしてイージスは、慣性制御を作動させてピッチアップ転換をし、数秒で垂直上昇を開始する。そこからはスピードを保ったまま、数分とたたずして大気圏外へと脱出するのだ。
まさにそのさなか、ウィンドウの外の様子を瞳だけで注意深く窺っていたハンスは違和感を覚えた。しかし速度の衝撃で会話はままならず、違和感を拭えぬうちに機体は重力圏を抜け、無重力に包まれる。宇宙へと放り出されたイージスは再び姿勢制御を何度か行いながら、待機中のエヴォリスへと進路を変えた。
「…なんか、降りた時より楽だったよな。Gのかかり方っていうか、圧迫感が弱かったっていうか…スルっと抜けた感じ」
推進が安定したところで、ハンスが違和感を共有した。後ろを振り返れば、エヴァやケルビンも頷いた。
「…降りた時より衝撃が緩和されてる、って言ったらいいのかしら?スムーズだったわね」
「大気圏が不安定なのでしょうか?」
「地上は安定してたのに、大気圏は不安定なの?それなら地上にも影響出てそうだと思うんだけどねぇ」
後部座席の面々が口々に発言していると、アランの穏やかな笑い声がそれを遮った。アランは操縦桿を握ってエヴォリスに狙いを定めながら、ちらりと視線だけを後方に向けるように動かした。
「エヴァの腕がよかったんじゃないか?ずっと外殻補修をしてくれてただろう」
すると、エヴァは呆れたように溜息を吐いて腕を組んだ。
「そう言ってもらえるのはありがたいけど、いくら外殻を補強しても衝撃は変わらないわよ、アラン。技術者としてはいただけない発言ね」
そして、片眉を上げて苦笑する。エヴォリスの位置データをモニターで確認しつつ、どんな反応をするかとハンスがアランを横目に見れば、彼は楽しげに微笑んでいた。
「まいったな、本当だ」
イージスのコックピットは、奇妙な星を後にして穏やかな空気となっていた。やがてウィンドウには、白く輪を描くようなエヴォリスの影が映り始める。ハンスは、目の前に広がるエヴォリスの輪郭を見つめながら、不可思議なOSX-9の経験を反芻していた。奇妙な安心感と、まだ解き明かされていない違和感が同時に胸を占める。眼前にはあたかも本当の地球を出発し、初めてエヴォリスと相対した時のような光景が広がっている。しかし、その状況は確かに変容していた。
──そして焦点は、とある青年に定められた。
ようやく未知惑星OSX-9(通称:ナンバーナイン/ナイン)に到着しました…
ここまでで前半と中間地点が終了となり、物語の土台の積み上げが一段落ついた、という感じです。
次章から後半戦ですが、もしお時間ありましたらどうぞお付き合いください。