Phase_03:ANNEL
カクヨム掲載作品です。
https://kakuyomu.jp/works/16818792435867573678
《STURMコントロールレイヤー:制御スペース》
制御スペースのシートに座り、エヴァはぼんやりとモニター画面越しに木星を眺めていた。ストルムに取り付けられた観測用カメラからの映像の脇には、雷探知機からの映像がサブモニターで映されている。外殻に設置された各種パネルで受け取ったエネルギーの数値が画面上に記され、忙しなく変動していた。過酷な環境でもそこからエネルギーを吸収し、自らの糧とする──そして、そのエネルギーを分け与えることも可能とする中継ステーションの壮麗さ。合理を積み上げて作られたひとつの美を、エヴァは今更になってまざまざと実感していた。
今朝は定時よりほんの少しだけ早くエヴァは目覚めた。洗面スペースが混み合う前に身支度を済ませ、カフェテリアで朝食を摂った。そのままラウンジに移動して窓から外を眺めていたのだが、どうにも心が落ち着かなかった。前日にヴィクターから言われた事を思い返してしまうのだ。こうして制御スペースでモニター画面を眺めながら、数字の変動を目で追っている方が多少ましだった。
「──リクス」
「はい、御用は何でしょう?」
メインコンソールにエヴァが呼びかけば、すぐにリクスの中性的な声が応える。しかし、ボディは使用されない限り作動しないようだった。
「…パネルの作動状況を聞きたい」
「了解しました」
少しの間をおいて、再びリクスが結果の報告を始めた。
「パネル群13~22が稼働中。プラズマ収束も安定しています。すべて基準帯域内にて推移。変動は最小レベルです」
「雷のエネルギーも吸収してるのよね?」
「探知衛星は帯電反応が観測されていないため、現在給電を中断しています」
「そう。…あまり稼働しないものなのかしら?」
「現在放電頻度が低下傾向にあります。次のピーク予測は8時間32分後です」
「──赤外線吸収パネルは?」
「パネル群31~34が稼働中。放熱エネルギーからの変換効率は平均七十一パーセントです」
リクスの答えを耳に流し入れながら、エヴァは時折時間をかけて質問内容を変える。それを投げかけて答えを得るという、淡々とした作業を重ねていく。
「──エヴォリスへのエネルギー供給状況は?」
「エヴォリスエナジーリザーブへの補填率は現在八十五パーセント。エヴォリス・ストルムともに、正常に作動中。プロセス完了まで四十七分です」
必要な答えだけが正確に返ってくる。そして、それを理解できる。これが、エヴァの精神安定剤になって久しい。解答を終えたリクスが沈黙すると、エヴァは目を閉じた。リクスとの無機質なやりとりは、ある種薬のようなものだった。
「正午過ぎにエヴォリスへ移動準備、移動後は、エナジーリザーブとエンジンコアの点検…夜には冬眠…」
先の予定を呟きながら、作業風景を瞼の裏に描く。ボルトひとつ締める作業すら、彼女にとっては安定材料だ。自らの手で修理される機器や安定していくシステムは、彼女自身と同義だった。
《STURMコモンレイヤー:ラウンジ》
定刻通り起床したアランは、朝食のため訪れたカフェテリアから退出する際、ラウンジの小さなソファで一人深く座り込むヴィクターを発見した。宇宙で見るヴィクターの、こんなふうに”休んでいる”姿は、アランにとってどこか珍しかった。思いがけず足をそちらへ向けると、気配と足音で気づいたのか、ヴィクターがアランを振り返った。窓の外の背景は相変わらず不気味なほど巨大な木星が浮いている。その畏怖の象徴のような姿がヴィクターと重なり、アランはほんの一瞬だけ足が止まった。
「すみません、休憩中でしたよね」
「…いや、いい」
「つい、足が向いてしまいました。少しの間、ご一緒しても?」
「ああ」
相変わらず寡黙な男だ、とアランは思う。だが、不思議と萎縮はしない。それはアランが少年時代、彼に救助されてからの関係だからかもしれなかった。
ゆっくりと向かいのソファに座り、何となしに窓の外を眺める。ヴィクターは端末を取り出して操作しながら画面に集中している。窓の外の宇宙空間と内側の日常が同居していることに現実味を感じ難くなったアランは、ちらりと横目でヴィクターを一瞥した。
「……次に眠ったら土星で、その後はいよいよOSX-9なんですね」
しみじみとアランが話かける。ヴィクターはわずかに視線を上げたがすぐにまた画面に戻し、「そうだな」とだけ応えた。アランはくすりと笑うと、背もたれに大きく寄り掛かる。
「地球と酷似した惑星か…どんな星なんでしょうね」
「酷似していたとしても、土星軌道外じゃ暗い星だろう。観測上酷似しているとはいえ地球と全く同じ星なわけがない」
取り留めのない話題を投げかけながら、アランはヴィクターの反応を見た。どうやら直ちに席を立つわけでも、会話に応じないわけでも無いらしい。
この歴戦の軍人が、冷徹に見えて実はそうではないことをアランは知っている。生き残りである自分たち三人を救助した──それだけではない。ハンスやエヴァが知っているかどうか定かではないが、ハイラントが外部の人間を”救助”が理由で受け入れた記録は無い。それは、アラン自身が中央管制(CTL)セクターのAIから直接知らされたことだ。
ヴィクターによってハイラントに連れられた時、アランは十三歳、ハンスとエヴァはほんの五歳だった。防護外壁の第一ゲートでAIスキャンを受けたあと、第二ゲートで無機質な音声が響いたのだ。「救助により例外的に受け入れる。残りたくば成果を見せよ」と。──それが、歓迎でも救済でもないという事を、アランだけはその時すぐに理解した。だがその一方で、この破格の待遇の一端にはヴィクターの存在があったのだろう。
それからアランは、教育育成(EDU)セクターのプログラムを受けることとなったハンスやエヴァより先に簡易的な適性テストを受けた後、STRセクターに配属され、勤務することとなった。初めのうちは生活のために我武者らに働いたが、そのうち、自分も何かの”役目の一端”を背負えていることに喜びを覚えるようになった。働きに応じてランクが上がれば自由な時間も増える。そのリフレクションタイムに受けられる講習や訓練の候補に”パイロット”の項目を見つけた時、自分は此処に来る運命だったのだとさえ思った。
しかし、拾った責任なのか、自分を何かと気にかけてくれるヴィクターは言った。”パイロット候補者はスケープゴートに成りかねない”と。計画的出生者──いわゆる”純正ハイラント人”が配置される役職は主に管理職や研究職だ。他は、優れた身体特性を持つように遺伝子配合された軍人。危地に送られるのは”外部招致者”──つまり外の人間だ。当時、パイロットの需要といえば宇宙船での操縦を想定したもののみだった。地球上を飛び回る外部交流(EXL)セクターの送迎パイロットは全て軍人で、それで事足りていたからだ。…それでも、アランは空を求めた。
実際にこのメンバーで宇宙に来てみて、アランにはぼんやりと思うことがあった。ハイラントは、”最初からこうするつもり”で救助された自分たちを受け入れたのではないか、ということだ。ハイラントが、アランの夢を知っていた筈がない。だが救助された三人のうち、誰かひとりでも操縦訓練に誘導出来れば、残りの二人は同行を求める可能性が高いと踏んだのではないか。ハンスが戦闘機にも触れられるDEFセクター、自分とエヴァが機械に強いSTRセクターに配属されたというのが何よりの証拠という気がしてならなかった。
しかし、結果としてアランは志願した。同郷の三人のうち、自分だけが宇宙へ飛び立つのもいいと思っていた。だがどこかで、自分が志願した事を知ればハンスやエヴァはついて来てくれるのではないかとも思っていた。ハイラントで年を重ねるごとに、三人の関係性は微妙に変わっていた。離れかけていた距離を取り戻せる場所があるなら、それが宇宙という危地でも構わないという思いすらあったかもしれない──それはアラン自身でも驚くほど、暗い感情だった。
目の前のヴィクターは、後見人のように全てを取り持ってくれた。アランはこのヴィクターと、巻き込んでしまったハンスやエヴァに対し、感謝と後ろめたさを同時に抱いている。
「──小さなものでも、成果があればいいですね」
アランは、窓の外を眺めながら呟いた。あの二人のためにも何かを持ち帰らなければ──そんな風に思いながら。アランの内面を見抜くかのように、ヴィクターは端末から顔を上げてその横顔を見やった。
「最大目的はOSX-9の調査だが……俺たちが宇宙を渡れている事も、ひとつの成果だ」
ここまで来た以上、剥き出しのまま進むしかない──アランは、そんなふうに背中を押されたような気がしていた。
《STURM-エヴォリス》
地球時間での夕方過ぎになると、クルーたちは夕食を済ませた後、再び連絡通路を渡りエヴォリスへと移動した。その慣れた行程も、木星の存在が新奇なものにしてくれる。レムが出迎えの挨拶をすれば、クルーたちに日常が戻る。精神的には数日間しか滞在していない筈なのにそう思えるのは、身体が実際の数十日間を体感しているからなのか、彼らにとってエヴォリスが宇宙で唯一の場所であるからなのか、あるいはそのどちらの理由も含んでいるのか──自然と任務に移るアランやハンス、エヴァと、早速研究室に向かうラビ、コックピットで様子を伺うヴィクターと、その傍で船体の状況をチェックするケルビン…各々配置につくクルーたち。彼らを乗せたエヴォリスは、次に土星軌道上の中継ステーション「アンネル」に向けて出発する準備を開始した。
木星軌道から土星軌道までは、小惑星帯のような物理的障害物はあまり無い。その代わり、木星の強力な重力圏ではルートが逸れた場合、再捕捉や脱出に多大な燃料を消費する可能性がある。よってルートを逸れず正確に船体を制御しなければならないが、木星由来の放射線帯ではかなりの電磁干渉が予測されるため、EPSシールド装置の安定に注力する必要がある。つまり、まず速やかに木星の重力圏外に脱出する必要性があるのだ。
フェリスから出発した時と違い、ステーション出発から冬眠までのイオンプラズマエンジン航行は行われない。速やかに船体確認を行い、脱出のルートを決定後、クルーたちは冬眠となる。ルートが決まるまでは各自が自由に時間を使えるが、集合がかけられればメディカルルームに集合する。
コックピットではレムにより、木星の潮汐力から算出した重力圏外脱出ルートと、重力損失を最小限としたアンネルまでの軌道の解析結果が表示されていた。コックピットのウィンドウに出された経路図と航行時間を確認し、ローワン兄弟とヴィクター、ケルビンで最終確認が行われる。火星から木星間の小惑星帯ほどではないが、不安定な小惑星帯も存在する。それらはストルムの観測データから位置を計測済みだ。
「よし、ルートは問題無さそうだな。ありがとう、レム」
「これがわたしの役目ですから」
「はは、冬眠中も引き続き頼んだよ」
決定したルートをインプットした後、アランとレムがそんなやりとりをする。ここまで来て、レムもクルーの一員として染まりつつあるようだ。
「では、エンジンコアに問題がなければメディカルルームに集合しましょう」
エンジンコアはエヴァが最終チェック中である。ケルビンが個人端末に連絡することにして、四人は一足先にメディカルルームへと向かうためコックピットを移動してポッドに乗り込んだ。
「そういえばラビのやつ、帰って早々ラボに籠ってんのか」
ポッドがエヴォリス外をスライドする間、ハンスが呟く。小さく溜息をついて腕を組み、それに応えたのはケルビンだ。
「まあ彼の仕事は調査や研究ですから、今のうちにラボに慣れていただくのがよいでしょう」
そんな物言いにハンスはわずかな違和感を覚え、思わずそちらに視線を移す。ケルビンは丸窓の外を静かに眺めていた。
「随分気安くなったもんだな、ドクター」
茶化すようにハンスがそう言えば、ケルビンの落ち着いた瞳がすっとそちらに移動する。しかし反応といえばそれだけだった。
「同じ船の中で共同生活をしているうえに、カウンセリングも重ねていますからね。個人の特性に対する適切な対処も容易に可能というものです」
その返答に、ハンスはつまらなそうに目を細めた。傍でアランがくすりと笑う。
「お前がそうやって突っかかるのも珍しいな」
「…ふん」
指摘されたハンスは、肩を竦めてやり過ごす。そうこうしているうちにメディカルルームへと到着した。
メディカルルームに保管されているステイシスセル用のスーツに着替え、一足先にメディカルチェックを済ませる。その間、エヴァから”異常なし”と報告を受けたケルビンが、ラビにも連絡して集合をかけた。程なくしてエヴァとラビも到着し、同様にセルに入る準備を済ませる。そして、メディカルルームのベッドや椅子に各々腰かける形で簡易的なブリーフィングが行われた。
「──というわけで、ルート取りは決まったよ。メインルートを順行出来ればまた一ヶ月以内にはアンネル付近だ。次は土星が見られるぞ」
「なんか、途中で通過する惑星が印象的すぎて、本来の目的忘れそう」
アランの説明を一通り聞いた後、ラビがそう言って笑う。反応を待つように視線をぐるりと回したが、特別返ってくる言葉は無かった。肩を竦めたラビはさらに続けた。
「ストルムでは散々木星鑑賞出来たけど、実際ここらへんも危ないんだね。エヴォリスとかステーションが性能良すぎて忘れそうになるけど」
「安定した周回軌道にいるストルムと違い、我々は重力圏外に向かわなくてはなりませんからね」
「木星の”懐”にいるうちは木星も大目に見て守ってくれるけど、そこから出ていこうとすると木星は厳しくなるし、出ていく側も離れ難くなって大変ってことだな」
「…なにその共依存者たちの厄介な関係性みたいな例え。アランってほんと、人に例えるの好きだよね」
冗談を交わしつつ、クルーたちはステイシスルームへと移動する。ほとんど睡眠と起床を繰り返すだけの生活となっているが、これも任務の一環だ。部屋のベッドに入るようにして、各々が指定のセルへと横たわる。例によってケルビンが全てのセルを最終チェックし、冬眠前に声かけをした。
「セルは全て正常に稼働──バイタル異常無し。ではみなさん、また次の地点でお会いしましょう」
ケルビンの一声の後、ラビが再び明るく「おやすみ」と手を振り、セルが閉じられていく。眠りに就く前のわずかなひととき。就寝の挨拶を言い合って同じ部屋のベッドに入るような──それは、彼らの世界には存在しない、”旅の夜”のようなものだったかもしれない。
全てのセルが閉じられ、安定して作動しているのを確認すると、ケルビンも静かにセルに入る。誰の声も届かないその静けさに包まれながら、ケルビンもまた、今日の役目を終えるように眠りに就いた。
《エヴォリストーラスモジュール:ステイシスルーム》
室内灯の落とされた静寂のステイシスルームでは、それぞれのセルのバイタルリングが呼吸をするようにゆっくりと明滅している。回転が停止したトーラス部は、現在無重力状態だ。船体は高速噴射と慣性移動を繰り返し、土星中継ステーション「アンネル」へと進行している。
しかし、六つのセルのうち、奥の一機に突如異変が発生した。バイタルリングのLEDがブルーグリーンからグリーンへ、そしてイエローへと急激に色を変えていく。それに合わせ、モニターに映された脳波や心拍数、血中酸素濃度などの数値やグラフも同様に表示色が変化する。バイタルリングの明滅に合わせてセルから鳴っている規則的な機械音が、徐々に注意を知らせるように間隔を早める。やがてリングの色がレッドに変化し、激しく点滅する。同時に警告音もピークに達するように音を高め、切迫した状況を周囲に知らせた。
音も衝撃も無く、エヴォリスが減速する。同時にトーラスの回転が開始され、室内に重力が戻る。すると室内灯が自動で点灯し、もうひとつのセルが機動を変えるような機械音を立てる──ケルビンのセルだ。
ケルビンは急速に訪れた覚醒による頭痛に苛まれながらも瞳を開いた。耳にレムからの通信が流れ込む。
『セルのバイタル異常を検出──ケルビン、緊急対応をお願いします』
その文言に、ケルビンの脳が急速に起動する。枕元に設置されたセル内モニターの表示で、すぐさま問題のセル──ヴィクターのそれに接続し、通信を試みた。
「ヴィクター隊長、聞こえますか、どうされました?」
語りかけながらセルの解放操作を行い、ヴィクターのバイタル数値を確認する。ヴィクターからの反応は無い。ケルビンは逸る気持ちで開かれたセルから出るために身を起こすが、刺すような頭痛にまず額を抑えた。室内はビープ音で満たされ、赤く明滅する視界がケルビンの意識を支配する。そのまま多少ふらつきながらもアランやハンスのセルに掴まりながら、最奥のヴィクターのセルまで駆け寄った。
モニターには、ヴィクターが危険状態であることを如実に物語る数値がはじき出されていた。脳波には不規則波が見られ、心拍数には急上昇からドロップしたようなログが見られた。血中酸素濃度は低下傾向となっており、呼吸にも乱れが生じている様子だ。
「レム過剰状態が起こっている──夢による影響…抜け出せないでいるのか?」
呼吸や心拍の状態から状況が切迫していることを悟り、ケルビンは投薬鎮静という判断を捨てる。覚醒直後でわななく指先を叱咤してセルを操作し、緊急措置として強制覚醒プロトコルを決行した。
セルの機械音が変わり、わずかに軋むような音を立ててゆっくりと蓋が開く。わずかな微小な気圧の変化に、ケルビンの耳が軽く詰まった。そしてビープ音とバイタルリングの赤い点滅が停止する。すると、静かに目を閉じて横たわっているヴィクターの目が開かれ、それまで呼吸を忘れていたかのように大袈裟に息を吸った。そのまま過呼吸寸前の浅く速い呼吸が続く。目は見開かれ、瞳は焦点が合わないのか忙しなくうろつく。身体には硬直しているかのように力が入り、どっと顔面に汗が滲んだ。
「ヴィクター隊長、聞こえますか?ここがどこだか分かりますか?」
セルの傍でモニターの数値を確認しながら、ケルビンが落ち着いた声かけを繰り返す。しかしヴィクターは苦しげに息をするなかで、何度か小さく「許してくれ」と吐き出すのみで、声かけに対して応えはしなかった。
数十秒ほどかけて数値や状態が安定し始めると、ヴィクターの瞳はようやくケルビンを捉えた。脱力した体は動かせないようで、頭部だけをなんとか僅かに動かして周囲を呆然と確認している。
「……ここは……?」
「エヴォリスのステイシスルームです。──ご自身の名前を言えますか?フルネームで」
「…ヴィクター…、ソーン……」
「では、私の事はわかりますか?」
「──ケルビンだ…」
「はい、いいでしょう。──レム、照明を最小限に」
ケルビンはそう言うと、力が抜けたかのように長い息を吐き、隣にあるハンスのセルに寄りかかった。指示を受けたレムにより、室内が薄暗く設定される。ヴィクターはそんななかで、彼の様子をぼんやりと眺めていた。ケルビンは急ぐあまり眼鏡を掛けていなかった。裸眼の状態をヴィクターは見たことが無いはずだったが、声と顔立ちで判断したのだろう。意識は問題なさそうだった。
「──どう言う状況だ…?」
ヴィクターがか細い声でケルビンに問いかける。ケルビンは目頭を抑えて何度か瞬きをした後、真っ直ぐな視線をヴィクターに向けた。
「ログによれば現在は冬眠開始から十四日後です。あなたの異常をセルが感知し、緊急措置が必要と判断したレムにより、わたしだけが覚醒されました。緊急的な覚醒プロトコルに従い、現在はエンジンをイオンプラズマ炉に切り替え、トーラスを回転させている状態です」
「俺は、死んだのか?」
「…いいえ、あなたは生きています。でなければ私と会話できるはずがありません」
「──敵は?」
「現状、存在していません。OSX-9に何らかの生命体が存在した場合、敵となる可能性はあるかもしれませんが」
「OSX-9…」
「そうです、ヴィクター隊長。我々は正体不明惑星OSX-9の有人探査のため集められたクルーです。土星軌道外にある彼の星に向かうため、先日木星中継ステーション『ストルム』を出発しました。現在は土星中継ステーション『アンネル』に向けて、木星~土星間を航行中です」
「ストルムを出たのか…」
まだ頭が混乱しているのか、ヴィクターの受け応えはちぐはぐだった。ケルビンは彼の意識を”こちら側”に修正するため、ゆっくりと殊更丁寧に応対する。いくつか問答を重ねる中で、ケルビンはヴィクターの夢が、戦闘に関わるものだろうと当たりをつけていた。
「しばらくはそのままの体勢で安静に。強制覚醒は誰にとっても身体の負担となります。──リクライニングだけ、少し起こしますか?」
「…ああ、頼む」
指先を動かすのも億劫だという様子のヴィクターに、ケルビンは懸命に声をかけ続ける。夢の影響で突然の錯乱状態を引き起こすようにも見えないが、彼は弱っていても軍人だ。慎重に観察しながらセルを操作し、ヴィクターの姿勢を少しだけ持ち上げさせる。そして再びハンスのセルに寄りかかる形で距離を取った。ゆっくりと瞬きを繰り返すヴィクターを見下ろしながら少し考えるような間を置き、決心したかのように一つ息を吐く。
「──ヴィクター隊長、…差し支えなければ、今の感覚や、思いをお伺いしてもいいでしょうか?」
「…今の感覚…?」
「ええ、覚醒プロセスの一環として…身体の感覚や、──そうですね、何か、記憶に残っている映像や感情などあれば、お話し願えませんか?」
ケルビンはゆっくりと言葉を紡ぐ。ヴィクターは天井を見つめたまま瞼を動かしながら、ぎこちないながらも少しずつ、語り始めた。通常のカウンセリングでは多くを語りたがらなかったヴィクターだが、どうやら未だ、意識が浮遊しているような状態のようだ。
「…手足は、疲労感がある。筋肉痛のような──痛みだ」
「緊張状態にあった、ということでしょう。なぜそのような状態になったのだと思いますか?」
「それは、……戦っていたからだ」
「戦っていた…何と戦っていたんですか?」
「──敵だ」
「襲撃してくる相手に対抗していた?」
「…影が、消えない。俺をずっと──ただ見てくる。蹴散らすのに武器が必要で、それを俺は持っていた」
天井を見つめながらまるで懺悔のように辿々しく語るヴィクターに、常時の威厳は無かった。ただ夢に苛まれた孤独な男の姿がそこにあるだけだ。ケルビンは注意深く探りを入れていく。語りを止めさせてはならない。なぜなら正気に戻れは彼はまた、口を閉ざすに違いないからだ。
「その”影”に見覚えはありますか?」
「…いや、顔はない。──けれど、見覚えはある…」
「特定の誰か、ということでしょうか」
「一人なんかじゃない。──何も無い空間に、敷き詰められている…」
ケルビンはヴィクターの証言を元に、彼が何か亡霊のようなものを妄想し、それに囚われているのではないかと推測した。DEFセクターの軍人の中でも、”外の人間”の一部に見られた──心的外傷に酷似している。基本的に精神に揺らぎのない計画的出生者と違い、外から招致した人間にはこうした症状を訴える者が複数存在したのだ。死んだ者に囚われる者、常に意識が過敏になる者、外傷が無いにもかかわらず、生活が困難なほど身体的な障害が表れる者もいた。──本来こういった人間は、観察(OBS)セクターによって弾かれ、文字通り”外の世界”に放り出される。だがケルビンは研究のためとエシュロンに提案することで、彼らに心理的なアプローチを試みるなどしていたのだ。
ヴィクターは、数ある部隊の中でも掃討作戦に多く関わった人間だ。しかも、ハイラントに移住する前も軍人だったという。長年に渡って蓄積し、蓋をしてきた感情が、”冬眠”をトリガーにとうとう溢れ出したのかも知れなかった。
「沢山の影に囲まれていた、ということですね」
「ああ、大勢だ──大勢だが、一人だった。全員、同じ顔をしていた」
「──あなたはそこから逃げるのではなく、戦ったのですね。…それは、責任感からですか?──それとも、恐怖から?」
「…わからない、どちらもだ」
「お持ちになっていた武器は、ご自分で用意された物ですか?それとも、誰かに与えられたものだと感じましたか?」
「──最初から、持っていた…それだけは」
「大勢の影の中に、あなたご自身の姿を見たことは、ありますか?」
「無い…俺じゃないことは、確かだ…」
ぼんやりと、ヴィクターはケルビンの問いかけに応える。それは普段の彼からは想像出来ない姿だった。レイヤーの一切かかっていない、彼の脳から直接発せられるかのような、単純な感覚や感情の吐露だ。それはもしかすると、彼自身も蓋をして閉じ込めている、深層の部分かもしれなかった。
「あなたは、大勢の影を、蹴散らさずにはいられなかった…そう思われましたか?」
「敵を排除するのが、俺の仕事だ」
「武器は、何を?」
「MRS-09……”NARAK”だ」
「DEFセクターの主要武器ですね。──蹴散らすとき、どんな感情がおありでしたか?…怒り、哀しみ、あるいは──空虚なものだった?」
「──分からない。ただ…すまないと思っていた」
「それは、罪悪感のような感覚でしょうか」
「”奴ら”を影にした時は……ただ、任務だった。だが今は──すまなかったと思っている」
「……その倒された影たちは、あなたに何かを訴えましたか?それか、あなたが何かを訴えかけたことはありますか?」
「影は、何も言わない…俺も何も話さない。俺たちは、別の場所に居る。──俺から歩み寄れば、意思疎通も出来るはずだ」
ケルビンは、一度質問を止めた。ヴィクターが影に歩み寄ろうとしているのかそうでないのか、確認するのが躊躇われたからだ。だが、それもほんの一瞬だった。
「あなたはそれを──」
「おい、そこ」
ケルビンの声を遮り、ヴィクターが緩慢な動作で腕を持ち上げた。そして、部屋の最奥である角を指差す。もちろん、ただ白い壁の角があるのみだ。しかしヴィクターはしっかりと視線を合わせるように、指先の一点を見つめていた。
「──影が、一体残っている」
ケルビンは、心臓が一度、重く鳴ったような気がした。ヴィクターの視線を追って部屋の隅を見るが、何も無い。そもそも現在、ヴィクターに光の刺激を与えないため、室内照明を限りなく落としている状態で全体的に薄暗いのだ。それなのに、彼は確かに影を見ていた。
「…影は、何か言っていますか?」
思わず固唾を飲み、ケルビンが声のトーンを落とす。
「──いや、何も」
じっと部屋の隅を見つめるヴィクターの視線はそこで停止され、動かない。まるで対峙しているかのように、指し示しすために上げた腕を下ろしても、視線だけはそこに据えていた。
「ヴィクター隊長」
今度はしっかりとした声で、ケルビンはヴィクターの名を呼んだ。力の抜けたヴィクターの瞼がぴくりと痙攣するように動く。そして、部屋の隅から剥がした視線をケルビンに向けた時、その瞳はわずかに見開かれた。
「こちらを見てください。私の目が、見えますね?」
「──ああ」
するとケルビンは、今度はヴィクターの手を取ってセルの縁に触れさせた。
「このセルの感触、分かりますか?」
「ああ、問題無い──俺は…」
マット加工された縁を軽く摩りながら、ヴィクターはたった今意識が戻ったかのような、戸惑いの表情を見せた。その様子を確認したケルビンは、この時間がひとまず終了したことを悟る。
「ヴィクター隊長、あちらに何か見えますか?」
ケルビンが、つい先程ヴィクターが指し示した部屋の隅を指差して尋ねた。ヴィクターはそちらを一瞥してから視線を手元に戻し、「…いや」と小さく応える。そして額に手を当て、身を起こそうとした。
「ゆっくり、──レム、照明を徐々に戻してください」
ヴィクターを介助しつつ、ケルビンがレムに指示をする。するとじわじわと照明が明るくなり、室内が明るく満たされた。
「足は動かせますか?」
「…ああ」
「では、一度ここを出ましょうか。問題なく歩けそうなら、カフェテリアに行きましょう。軽い水分補給を」
ゆっくりとセルから足を下ろしたヴィクターは、地面を確かめるように何度か爪先で叩く。その肩を支えつつケルビンは、そう彼に申し出た。
「──…ああ、そうだな」
まるで観念したかのように、ヴィクターは”そうするほかない”といった様子で、眉を潜めてそれに応えた。
《エヴォリストーラスモジュール:カフェテリア》
重そうな動作ではあったが、ヴィクターはセルから立ち上がり、歩を進めることが出来た。ケルビンの介助は手を軽く払うようにして断り、ゆっくりと足を動かす。ケルビンとヴィクター以外のセルは閉じられ、ブルーグリーンのバイタルリングが緩やかに明滅していた。通りがかりに手をついたハンスのセルのウィンドウを覗けば、目を閉じて眠る顔だけがかろうじて見えた。
メディカルルームからポッドを利用し、コモンラウンジのモジュールへと移動する。リフトで回廊に出て歩いてもそう遠くない距離ではあるが、ヴィクターを配慮してのことだ。ポッドの丸窓から、木星が見える。つい先日には圧倒的なスケールで迫っていたその巨体は、今や月よりも小さく、漆黒の宇宙に淡く浮かんでいた。あの、轟音が聞こえてきそうなほど不気味に蠢いていた縞模様も、遠ざかるにつれて色彩を失い、ただ光を反射する静かな影のように変わっていた。
カフェテリアに着くと、ケルビンはヴィクターをソファに座らせ、カップを二つ用意して常温の水を入れる。それを持ってテーブルへ置くと、自分は向かいに腰を下ろした。
「どうぞ。飲む際は、ゆっくりと少しずつ流し込むようにしてください。急激な摂取は吐き気に繋がりますので」
ヴィクターは黙ってカップを手に取り、指示通り、舐めるように一口水を飲んだ。そして、喉を通って胃に到達するまで確認するかのように動きを止める。しかし、体調の変化は見られないようだった。その様子を観察しながら、ケルビンも自らの喉を潤した。
普段ならば日常の空間に、冬眠用スーツという同じ格好をした二人が向かい合っている。ケルビンはセルの中に眼鏡を置いたままだ。カフェテリアは少々異質な雰囲気に包まれていた。
「──…俺は、何かお前に話したか?」
移動中からずっと黙っていたヴィクターが、カップを置いて不意にケルビンに問いかけた。怒気は無いが、かすかに息を抑えたような間がある。まるで、自分でも覚えのない一線を超えたのではないかと自問しているかのようだった。ケルビンはカップを持ったままその手を膝に収めると、一拍置いて彼に視線を合わせた。表情を崩さないまま、淡々と応じる。
「建設的な内容は、何も。バイタルの反応から、夢に強く囚われていたと判断したのですが…」
わずかに間を空けて、言葉を足す。
「”影”、という言葉を何度か繰り返しておられました。──それだけです」
ヴィクターの眉が微かに動く。視線をケルビンに固定したまま、何度か小さく首肯する。そして、短く「そうか」と応えた。
「お前は俺に何を問いかけた?」
「…あなたの意識が不明瞭だったため、ご自身の名前が分かるか、他者の認識が可能か、などの確認を取りました。あとは、身体的な質問を少々」
ヴィクターは聞きながら、記憶を捻り出そうとするかのように眉間に力を入れている。そんな彼を注意深くひたと見据えながら、ケルビンは静かに言葉を加えた。
「冬眠明けに混乱される方は多いですし、夢に感情を引きずられるのも珍しくはありません。私があなたに投げかかけた言葉は、あなたを現実に引き戻す項目に関するもののみです」
ケルビンはきっぱりとそう言い切ると、ソファの背もたれに寄りかかった。そんな何気ない行為でも、普段姿勢の正しい彼にしては珍しく目に映る。明らかに変わった雰囲気に、ヴィクターが怪訝そうな瞳を向けた。
「少しお休みになれば、意識もすっきりされるはずです。今はまだ強制覚醒から時間が経っていませんし…休憩中は、私のことは忘れていただいても構いませんよ。あなたがこちらでお休みになるなら、私は別室へ移動します」
「いや、今は例外的に微速航行してるだけだろう。俺のことは構わん、冬眠を再開しろ」
組んだ指先に力を込め、睨むようにしてケルビンに訴える。語気がわずかに強まっており、これは彼が強引に何かを誤魔化す時に行う癖だとケルビンは認識している。宇宙に出てから何度も経験させられたことだった。
「それに関しましては医師として賛成しかねます。強制覚醒後は少なくとも数時間は時間を置いて、メディカルチェックを問題なく通過した後に行うべきです。ご安心くを、航行管理に支障は出ませんので」
反論の余地がないヴィクターは、ケルビンから視線を外して黙り込んだ。吐き捨てるような溜息とともに、背もたれに背を預ける。それ以降何も言わなくなったので、ケルビンはカップに残った水を飲み干すと、静かに立ち上がった。
「では、私はメディカルルームにおりますので、何かありましたらそちらに。頃合いを見て、こちらから再度ご連絡差し上げます」
そう言ってキッチンにカップを片付けると、ケルビンは悠然とカフェテリアから退室した。ヴィクターはそれに視線を返すだけ返した後、頭まで背もたれに預けて天井を見つめる。
まるで、天井をスクリーンに何かを見ているかのように、ただじっと、見つめていた。
《エヴォリストーラスモジュール:メディカルルーム》
ケルビンはメディカルルームに戻ると、一度ステイシスルームの様子を確認した。静かに、正常に稼働している四機のモニターを順繰りに見て廻り、ヴィクターのセルの再調整を行う。それは、セルの設定を”軽冬眠”から”簡易冬眠”に変更するものだった。
航行中の冬眠においてクルーたちは、省エネルギー化と精神的ストレス軽減のため、体温・代謝・脳波を制御して休眠状態に近づける”軽冬眠”の処置をされている。意識は完全に喪失した状態で、生命維持を自動化されたセルに依存する。対して、医療的な緊急対応が起こることを想定し、ケルビンは”簡易冬眠”で眠っていた。これは、最低限の意識を残し、浅い代謝低下と神経反応遅延による”半休眠”状態を維持するもので、外部刺激で一時的に意識を引き上げることも可能だが、その分、肉体的には継続的な負荷が蓄積される。長期間での使用は軽冬眠よりも身体的負荷がかかるが、精神的なリスクは低い。つまりバランス型である軽冬眠が推奨されるが、例外的にケルビンは簡易冬眠で済ませている、ということだ。ケルビンはこの、簡易冬眠の”精神的リスクの低さ”を利用するため、ヴィクターのセルの設定を変更する判断をしたのだった。
「ヴィクターの身体的なポテンシャルは高い。──ただ、どういうわけか…夢に囚われやすい状態にある。今はこうすることが、最も効率が良いはずだ」
自身に言い聞かせるように、モニターをタッチして設定を変更していく。一通り作業が終わると、個人端末の通知音が鳴る。セルのボックスに入れたままとなっていたそれを取りに自らのセルへと向かい、ついでに眼鏡も手に取って掛ける。顛末の画面を見れば、レムからの通信だった。
『ケルビン、ヴィクターのセルの設定が変更されています』
「ええ、問題ありません。精神的リスクを考慮して私の方で判断しました。管理プロトコルを変更しておいてください」
『了解しました』
「──ヴィクター隊長は、今どちらに?」
『生体反応は、カフェテリアにありますよ』
「そうですか…」
コモンラウンジは業務区画外に設定されているため、レムは監視カメラで生体反応までしか把握出来ない。欲を言えば様子を伺っておきたいケルビンだったが、居場所を把握できるだけでもよしとした。
レムとの通信を切ると、ステイシスルームから出てカウンセリングスペースのデスクへ向かい、椅子に座ってデスクトップの電源を入れる。即座に起動した画面を操作し、ケルビンはクルーのプロフィールにアクセスした。それはエシュロンから提出された事前情報で、一度出発前に目を通したものだ。ヴィクターのページを展開すれば、証明写真と名前、所属などのほか、身体データ、性格区分…と簡易的な情報が整然と並ぶ。来歴も、”2135年、外部政府組織より招致”としか無い。
「誠実性が高く、神経症傾向は低め、…安定・慎重型──何かを背負う可能性が高い特徴ではあるが…そのデータは出ていない。冬眠との相性が極端に悪いのか、現状の環境が起因しているのか…他にも何か?」
ヴィクターのこれまでの行動を見るに、ローワン兄弟とエヴァに対する何か特別な感情があるのは確かだった。それは、彼がその三人を救助してハイラントに連れてきたからだということを、ケルビンも把握していた。だが、ヴィクターがどこから三人を救助してきたのか…深い思考を巡らせれば、それは予想がつく。
ヴィクターがハイラントの外に出る目的は、”掃討作戦”のみだ。平和的な集落を襲い、野盗のような行為と殺戮を行う不穏因子を、エシュロンの権限で掃討する。つまり、最悪のケースを考えれば、三人の関係者たちの命を奪った上で彼らを救助した可能性もある。
計画的出生者である軍人は、この掃討作戦を正当な任務と認識し、使命感を抱いて遂行している。同じ計画的出生者であるケルビンにとっても、破壊や強奪、殺戮を生活に組み込んでいるような人間の掃討は、合理性のある判断だと認識している。だが、”外の人間”は違う。数体の心的外傷ケースから考えると、そもそもどんな理由があろうと、”他人を殺める”という行為そのものをストレスに感じてしまう場合がある。
これが、ケルビンにとって、外の人間の不可解さであり、興味深さだった。戦いや襲撃、掃討に恐怖を覚えて心的外傷を負う者もいる一方で、不穏因子のように、それらに対して快楽や興奮を覚える者も存在する。未だに深く調べたくもあるが、それは、過去にエシュロンから禁じられた行為だ。
「ヴィクターも、正しく、”外の人間”だった──。ハイラントの生活が長いとはいえ、人格が形成されてから招致された彼は…幼少時代にハイラントに移住した三人とは違うのかもしれない」
そして、精神に蓋をしたまま戦い続けた。どういう状況だったのか定かではないが、子供と遭遇して手にかけられず、救助した。──おそらく、全てが終わった後に。
ヴィクターは強制覚醒の時、小さく「すまない」と言っていた。そして、彼を囲む影、それを倒す行為。完全につなげることはできないが、全体的に考えると、大まかなヴィクターの心理状況は把握出来そうだった。
「軍人は、任務に正当性と使命感を抱けなければ、心的外傷を負うリスクが高まる。──そして、それはエシュロンへの信頼感にも繋がる…」
ケルビンは、カウンセリングの報告書を送るたびにエシュロンから返されるメッセージを思い出す。”不穏因子のへの警戒と対処”──服にこびりついた染みのような一文だ。
「まさか……──まさか」
ケルビンは、自分の吐き出す呼吸が、どこか震えているように感じた。
警戒と対処のその先に、どんな命が下されるのか──まだ明言されていないことに、少し安堵している自分がいる。しかしその一方で、彼は自身でも知らぬうちに、確かに恐怖を覚えていた。
《エヴォリストーラスモジュール:ステイシスルーム》
エヴォリスは土星軌道圏内に入り、アンネル補足フェーズに入るためエンジンを変換し、トーラスの回転を再開した。アンネル到着予定の一時間前に合わせて覚醒誘導が行われ、クルーたちは順に目を覚ます。今回も誰もが何も問題なく覚醒し、アランやハンスはカウンセリングスペースにあるケルビンの端末でルート確認を行なっていた。
「ふああ、今回もまた、一晩で一ヶ月分の睡眠を達成出来たんだねぇ」
身体を伸ばしながらラビが大きく欠伸をする。毎回起き抜けによく喋る彼だが、まるで寝足りないという様子なのもお馴染みの光景だ。それを見たエヴァが呆れたような表情でゆっくりと身体をほぐしていると、ふと、アランがケルビンに問いかけた。
「いや、確かにアンネル到着予定から逆算した覚醒タイミングは合ってたけど、予定にはラグが生じてるみたいだな…何かあったんだろうか?」
「ああ、それはおそらく…生体リズムの平均値が一時的に乱れていたようで、レムの方でセルの調整を入れた記録がありました。みなさんが覚醒する前、私の方にも簡単な報告が来ていましたが、特に問題は無かったかと」
ケルビンが眼鏡のブリッジを上げながら応えると、ラビが驚いて目を見開く。
「ええ?!それって問題無いって言えるの?」
「現状私たちが何の問題もなく覚醒しているのですから、言えますよ。──セル調整をする際、限定的にイオンプラズマエンジンに切り替えたようです。それで、到着予定時刻に差異が生じたものかと」
ケルビンがアランにそう報告すると、アランは「そうか」と笑って息を吐く。
「つまり僕らって、生体リズムが乱れても…眠ったままレムに命を委ねてるってわけで──」
「──今更だけどな」
わざと仰々しく言ってみせるラビに、ハンスの指摘が飛ぶ。穏やかな空気のクルーたちを背後から見ながら、ヴィクターは記憶を遡っていた。
緊急覚醒をしてから地球時間でほとんど1日かけて、ヴィクターは再度セルに入る事となったが、その前に何度かケルビンと問答があった。はじめは数時間で彼の元へ向かったヴィクターだったが、ケルビンの方からストップがかけられた。ヴィクターにとっては充分すぎる休憩時間が取られ、ようやく連絡が来たのが丸一日経とうとしていたタイミングだった。
ほとんど別々の場所で過ごしていた二人がステイシスルームに再度集合し、セルの準備が整えられる。他の四人が静かに眠るなか、最初に口を開いたのはケルビンだった。
「──今回の強制覚醒で、行程にわずかな差異が生じることになるでしょう。軽微なものではありますが、指摘される可能性は高いです。…その際、事実をそのまま報告しても問題はありませんか?」
ヴィクターのセルに手をついて、ケルビンが振り返る。彼からそのような確認をされることが予想外だったヴィクターは、わずかに目を瞠る。そしてヴィクターは、ケルビンがそのような配慮をする程に自身が取り乱していたのかと、眉間に力を入れた。
「……いや、駄目だ」
「ならば、詳細は伏せましょう」
あっさりと了承したケルビンは、セルの蓋を開き、ヴィクターを中へと促す。直前に、”セルに入ることに恐怖を感じるか”と質問されたが、それは無いと応えた。事実、ベッドに入るような感覚で、ヴィクターはセル内部に横たわる。
「では、蓋を閉じます。よろしいですか?」
「──ああ、やってくれ」
そう答えながら僅かに目を伏せる。逐一動作の確認を入れてくるケルビンの態度に、ヴィクターは自分が心療措置を受けているという感覚が強まり、態度を硬くした。ケルビンは返事をすると、ゆっくりと蓋が閉じられる。セル内処置が順調に進められ、次第に暗くなる視界を感じながら、ヴィクターは眠りに就いた。
そして夢も見ず、長く眠った感覚もなく、ヴィクターは覚醒プロセスを通過した。身体の疲労感は少々強かったが、脳は気持ちよく目覚めた感覚があった。それは彼にとって久しく感じるものだった。
今、ケルビンは約束通り、自分たちに起きた事を誤魔化した。それは彼の分野に基づいたもっともらしく聞こえる上手いやり方だった。しかもレムの判断にしているところが秀逸だ。ヴィクターはケルビンが、このような対応が可能な人間だったのかと内心では驚いていた。
「じゃ、各自さっさと持ち場につこうぜ」
ハンスの一声で、クルーたちが動き出す。
「その前に、メディカルチェックですよ」
そう言って医療室へと向かおうとするケルビンが、ヴィクターの視線に気づいたかのように不意に振り向く。ヴィクターは何も返せなかったが、ケルビンは小さく首肯しただけだった。
《ANNEL:コントロールレイヤー》
最終調整に入るコックピットでは、再び全員がシートに着いてウィンドウの外を眺めていた。アランが軌道を微調整するなか、視界の向こうには静かに気高く光る土星が浮かんでいる。柔らかな乳白色の姿を太陽光に反射させ、闇の深くに浮かぶ土星は、神秘的でどこか現実感を欠いていた。巨大であるにも関わらず、静かで、まるで宇宙が夢の世界であるかのような錯覚を覚えさせる。火星の岩石惑星としての存在感や木星の圧迫感とは違った、異質な存在のような雰囲気を醸し出している。嘘のように整ったリングが、土星をそのように魅せているのかもしれない。
アンネルは、この土星のほとんどL2地点に静止しているが、潮汐発電やエネルギー収集、または太陽風回避など様々な理由により位置を微調整しているステーションだ。形状は十字形で、主軸である円筒形に交差するようにして観測モジュール群が付属されている。エヴォリスとほぼ同等の大きさとなるが形状的に姿勢制御を慎重に行わなければならず、尚且つアンネルのAIであるSYRから送られてくる最新のナビゲーションデータを細かく入手しながら接近予測をしなければならない。よって、これまでで最もドッキングに慎重を期する必要がある。しかもレムが言うには、シアは少々”気難しい”らしいのだ。
「アンネルの制御AIであるシアは、土星やリング、各衛星のデータを観測しながらエネルギー収集をしているだけでなく、深宇宙の微弱な放射エネルギーも回収している”観測型”ステーションの中枢です。よって、観測中の干渉を好みません。また、侵入速度や角度、振動パターン全てにおいて厳しい閾値が設定され、高度な操作が要求されます」
「へえ、まあいつものように中継ステーションのAIは声が違うだけで淡々としてるんだろうけど、なんかシアって奴は人一倍気難しそうだね」
レムの説明に対して、ラビがそんな感想を述べていた。つまるところ、アランはハンスが確認したシアからの最新データを考慮しながら、その都度指定された姿勢制御をこなし、シアの要求に応えなければならないのだ。これまであれやこれやと作業しつつも会話に参加していた彼も、流石に今回は口数が減っている。ローワン兄弟の業務的なやりとりが淡々と続けられている背後では、相変わらずのんびりとしたラビの声がその雰囲気を和らげていた。
「それにしても土星は安心して見られるね。不思議だなぁ、何だってこんな違いがあるんだろう?木星はあんなに不気味だったのに」
「色の単一性と、環や縞模様の整然とした印象がそう感じさせるのでしょうね」
環の上層を舐めるように移動し、数千キロ先のアンネルへとエヴォリスは進路を進める。やがて視界の先に十字形の、白銀にも見える人工物が姿を現した。ほとんど金色に輝いて見えた土星はアンネルが近づくにつれ暗闇の星となる。逆光の位置から見る土星や周囲の環は、日の出を思い起こさせる光によって縁取りを際立たせ、まるで深宇宙との境界線のような光景をクルーたちに見せた。
慎重な操作でアンネルに接近するに連れ、誰もが口を噤んだ。ハンスやレムの報告とアランの応答だけが室内を揺蕩う。やがて、アランの操縦によりエヴォリスは、無事アンネルに最大限接近した位置で停止した。アンネルから伸ばされる人員用連絡通路も問題なくドッキングされ、エヴァの最終確認の後、クルーたちはドッキングハブへと移動する。連絡通路やアンネルのエアロックなどはこれまでと変わらないものだった。だが、制御AIであるシアの声が室内に響くと、そこがアンネルだと実感させた。
「連絡通路解除、補給用回路の接続開始。ようこそ、こちらは土星ステーション『ANNEL』。私は制御AI『SYR』です」
レムよりも低い声がクルーたちを迎える。業務的な挨拶から、ラビの”気難しい”という表現が妙に調和していた。
アンネルは主要部分である円筒の構造は他のステーションとほぼ変わりないが、付属している観測モジュールにも入れるようになっている。そのため、コモンレイヤーの一部に観測モジュールへの入り口が設けられており、それが他ステーションとの違いだ。観測モジュールは多数の小さな窓と、モジュールの先端にあるハニカム形式の窓により土星やその衛星を様々な位置から捉えることが可能となっており、窓の周囲にあるパネルやアンテナから得た情報などを表示する簡易的なコンソールも設置されている。将来的に人間による観測も視野に入れた構造だった。とはいえ長期滞在は想定されておらず、宿泊施設はこれまでと同様最低限となっていた。
クルーたちはコントロールレイヤーへ移動し、制御スペースへと向かうと、コンソールに待機しているレムと同様のボディの前に集まった。モニターにはストルム同様様々な要素から発電したエネルギー数値や観測状況などが表示されている。窓の外には逆光になった土星と、その周囲にある薄い環が大胆に見えていた。
「改めてようこそアンネルへ。クルーのパーソナルケースは移送を完了しました。中央設備は他ステーションと変わりありません。観測モジュールへ移動の際は、PIコアが鍵となっています。扉前のスキャナーに翳して解錠してください」
ストルム同様、ボディは微動だにせず声だけが室内に響く。レムが収納時でもよく頭部を動かすので、クルーたちはどうしてもAIと話す時にボディに視線を送ってしまう。しかしステーションに来るたびにレムの方が変わり者のAIだということを思い知らされた。
「じゃあ、各自明日まで自由時間とするが、ここを出発すればいよいよ次はOSX-9だ。心の準備をしておけよ」
シアからの業務連絡が終わると、ヴィクターがそう言ってさっさとエレベーターへと向かって行った。
「僕、観測モジュール行ってみようかな。先端部分がエヴォリスのコックピットよりも大きいハニカム窓で、宇宙に立ってる気分が味わえるらしいよ。──レムが言ってた」
「それは興味深いけど、私はあなたがいない時に見に行くことにするわ。隣でうるさそうだから」
「…ま、否定はしないけどね」
ラビとエヴァでそんなやり取りをしている傍で、アランが微笑ましげにそれを見ている。ハンスも、珍しくラビの相手をしているエヴァに小さく驚いているようだ。ケルビンはタブレットを片手に観測スペースへと静かに移動して行った。
「私はこれで」
「じゃあ俺もお先」
ケルビンがその場を離れたことによって解散の雰囲気になり、エヴァがコモンレイヤーに降りるためエレベーターに向かうのにハンスが倣う。
「僕も僕も!」
と、二人に駆け寄るラビが続き、そんな三人の後ろ姿をアランは笑って見送る。
「俺はしばらくしたら降りるよ」
伺うように振り返ったエヴァに、アランはそう言って手を振った。
《ANNELコモンレイヤー:観測モジュール》
コモンレイヤーに降りると、エレベーターの周囲は回廊というよりハブスペースのような空間となっていた。ベンチとして利用できるバーがいくつかある程度だったが、空間が広く保たれており、各施設へのアクセスが容易になっている。それらのドアより二回りほど大きく重厚なものが、観測モジュールへ続くドアだ。傍にはスキャナーが設置されており、ハンスとラビはラビを先頭に中へと入った。
長い直線の通路の両側には丸窓が規則的に設置され、壁の一方にはコンソールや椅子が並ぶ。最奥では例のハニカム式の観測窓が二人を出迎えていた。その向こうに、暗がりの土星が静かに浮いている。
「おお、これは何というか…肝が冷える構造だね!」
最奥に駆けて行くラビの弾む声が響く。ハンスは丸窓をひとつずつ覗き込みながらゆっくりと後に続いた。
最奥の観測窓は、ラビがすっぽり収まってしまうほどだった。太く頑丈なフレームに守られているとはいえ、その先に見える巨大な土星を目の前にすると心許なくも感じる。ハンスは恐る恐る窓に近づいた。
圧倒的な迫力で見る宇宙の景色に恐れ入る。それには遅すぎるタイミングだったが、これまで船やステーションに守られていたからこそ宇宙空間を普通に航行出来ていたのだと改めて実感した。興味津々で下方向まで覗き込むラビの背後から、ハンスは伺うようにして宇宙を見た。
「見て、土星の周りを回ってる衛星…あの、向こうの小さい点のやつ、そうじゃない?」
ラビが遠くを指差す。確かに、環の近くに点のようなものが見えた。遠近感も上下左右も、空間の認識を脅かす景色に、ハンスは今更ながら目眩を覚える。あの点も、近寄れば巨大な物体なのだ。
「お前よく躊躇なく身を乗り出せるな」
「──あのさ、別に僕窓に損傷与えてないし、もしここがちょっとでも壊れたら、モジュールごと御陀仏なんだよ。しっかりしてよパイロット」
「サブパイロットな」
「うわ、かっこ悪」
しばらく観測窓を眺めた後、ラビは今度はコンソールに目をつけて椅子に座った。計器やデジタル表記を理解しているかどうか定かではないが、興味津々で画面を眺める。ハンスはその背後で壁に背を預け、観測窓の向こうを見ながらぼそりと言った。
「OSX -9か…。もしそこが人の住める環境だったら、俺らって将来そこに移住することになるのか?」
ハンスは、ほとんどアランやエヴァに付き添う目的で今作戦に志願したため、実のところ、大目的である標的OSX-9には然程興味を持っていなかった。どちらかというと眉唾ものと思っている節があったのだ。”地球と酷似した星”とは言うが、全く同じ星というわけでも無いだろう。太陽から遠い場所にある限り、全く同じ条件の星にはならないはずだ。
また移住可能だったとして、そこに新たな展望を抱けずにもいた。新しい未来への希望や期待を持つより、現状があればそれでいいという思いの方が強かったのだ。アランと決定的に違う部分だ。そしてそれは、己の欠落した部分だともハンスは思っていた。
「さあね。でもまあ、”表向き”には人類が移住出来る可能性アリって話なんでしょ、エシュロン的には?僕は住むかどうかはどうでもいいけど──どんな星か、っていう興味はあるよ。…ハンスは、全然無さそうだけど」
ラビがハンスの内心を突くような発言をしたので、思わずハンスはラビを振り返った。ラビは体を捻って背後のハンスに視線を向けていたので、自然と目が合う。
「──まあ俺は、補助役だしな」
「ふうん。…ねえハンスってさ、ここまでいくつか惑星見てきて、宇宙空間を旅して、景色とかに圧倒されるだけで終わってる?例えば、あの土星の環。──あの上に乗れないかなとか、木星とか土星みたいなとんでもないガス惑星に降り立ってみたいなとか、思わない?…いや、実際は行けないよ?行けないけど、想像するだけ」
ラビは背もたれに肘をついて、ハンスにどこか探るような、挑戦的なような視線を向けた。口角は僅かに上がっており、楽しげに試すような表情にも見える。ハンスは居心地悪そうに腕を組むと、軽く舌打ちをした。
「…それって、意味あんのか?現実じゃどうにもならねぇだろ」
「あるよ。もしかしたらそういう発想がきっかけで、何千年後とかには人間は、宇宙船なんか乗らずにスーツひとつで宇宙をどこまでも好きなように移動できるようになるかもしれない」
「──そんな、馬鹿な話あるかよ」
「だから、わかんないじゃん?でも想像するのは自由だよ。それって楽しくない?」
ハンスは眉根を寄せて、ラビから視線を逸らす。珍しく返答を待つようにラビが黙っているので、「──さあな」と素っ気ない応えだけを返す。ラビは肩を竦め、仰々しく溜息を吐いた。両手を持ち上げて首を振り、何とも演技臭い仕草を加える。
「…ま、実際僕もOSX-9に”住む・住まない”ってことには興味ない。どんな星か調べ尽くすために”長期滞在”するって話なら全然アリだけどね」
「…お前ってマジで変なとこ熱入れるよな」
鬱陶しさと困惑が入り混じった何とも複雑な表情で、ハンスはラビに視線を戻した。しかしラビは、”変”と言われればそれがエネルギーとなる変わった少年だった。ハンスの発言に、にやりと笑みを深める。
「…エヴァは居なくて正解だったな」
「いや、失敗だったね。君らみたいな超リアリストたちにとって、僕の考えはランク4並みの講義になるはずだよ」
得意げにそう言うと、ラビは座面に膝をついて完全にハンスに体を向けた。そして背もたれに両肘をつき、身を乗り出すようにして声を抑え、「ねえ」と突然態度を変えた。ハンスは怪訝そうに少し上体を屈めてラビに耳を寄せる。ラビは口元に手を当てて、密談を持ちかけるように続けた。
「ここだけの話さ、エシュロンも、実はそんなにOSX-9に興味無いんじゃないかって思ってるんだ」
その発言に、ハンスは思わず身を引いた。ラビは相変わらず不敵な笑みを浮かべながら、そんなハンスの様子を伺う。あまりに確信めいた言い方をするので、ハンスは片眉を上げた。
「──興味が無ぇのに、俺らをこんなとこまで送り出したのか?…バカな」
「アークウェイ作戦ってさ、正体不明惑星を調査して、サンプルを持ち帰るってやつでしょ?エシュロンも”人類移住の可能性”がどうとか言ってるし。だから僕らも、地球がダメになる前に別の星で一からやり直すつもりなんだって思うけど──…でも考えてみてよ?本当に人類移住計画を本格的に進めようとするなら、地球のサンプルを何かしら船に積むと思わない?植物サンプル、生態サンプル、基地のベースメント…色々思い浮かぶけど、エヴォリスってそういうの一切積んでないだろ?」
いつになく冷静な口調でラビがテンポよく持論を述べる。言われたハンスは黙り込んだ。よく分からないが一理あるといった体で、腕組みをしたまま肩を竦めてみせた。そんな彼を見上げ、ラビは更に続ける。
「いくら技術があるからって、人類初の惑星間移動だよ?何があるか分からないんだから、積めるものは積むべきと思わない?せっかくエヴォリスっていう立派な…僕らだけじゃ持て余すぐらいの宇宙船だってあるんだしさ」
「──まあ、確かに?」
「移住が目的だとしたら、僕なら万が一送り出したクルーが戻れなくなった時の事も視野に入れて、別の星で人類が繁栄出来るような物資を積むよ。今後も同じように惑星間移動が成功し続ける見込みがあったとしてもね」
意外な用心深さを見せるラビに、ハンスは目を瞠った。何も応えない彼に、ラビは小さく肩を竦める。
「つまり僕が言いたいのは、副次目的だった惑星間移動の方が、エシュロンにとっては主目的だったんじゃないかってこと。OSX-9は、単なる口実だったのかも」
「…そんな事ってあるか?」
「あるよ。OSX-9っていう星が急に現れたから、それを大義名分にして有人惑星間移動のテストをしよう──みたいな?」
ハンスは組んでいた腕を解いて何か言おうとして──何も言えなかった。量の掌を上に向けて首を横に振る。すると突然、ラビはわざと大袈裟な音を立てて手をひとつ叩いてみせた。
「あくまで僕の想像ね!出発前にケルビンも言ってたじゃん?──想像を展開させすぎると致命傷になるから最善じゃないってさ。例え想像通りだったとしても僕は宇宙に出た事を後悔しないし、OSX-9への興味は薄れないから…今の話はハンスをビビらせただけだになったかな?」
「別にビビってねぇよ」
「へえ、そう」
反射的に反論するハンスに、ラビは意地悪く口角を上げた。そしてくるりと体を回転させ、コンソールに向き直る。その目前にある丸窓から宇宙を見遣って、頭の後ろで手を組んだ。
「僕は、ハイラントの技術は信頼してる。利用できるものは利用して、自分の興味を満たしたい。──OSX-9が待ち遠しい。きっと、この船で誰よりもそう思ってるのは僕だと思うよ」
ラビはそう言って、突然眠ったかのように黙り込んだ。もしかしたら思考の海に身を投げたのかもしれない。
ハンスは何も返さず、傍の観測窓から土星を眺めた。ハンスの意思に関係なく、ただ土星はそこに存在していて、ハンスを見ている。彼はその現状と対峙するしか無いのだった。
《ANNELコントロールレイヤー:観測スペース》
アランがケルビンに追随するかたちで観測スペースに行くと、彼は椅子に座ってタブレットを操作しているようだった。普段から何かと報告事項が多そうなので、今回もそれだろう。アランはわざと足音を響かせて存在を知らせるようにしてそちらへ近づき、ケルビンが気づいて顔を上げる。いつも通りの落ち着いた表情からは、胸の内を図ることはかなわない。
「ちょっといいか?」
「私に何か用ですか?」
アランが声をかければ、ケルビンは眼鏡のブリッジを持ち上げながらそれに応えた。タブレットは伏せてテーブルの脇に置いている。アランは彼の向かいに座ると、テーブルに両肘をついた。
「今回の道中の件なんだが──ああ、セルの生体リズムがどうこうって話な。…レムが調整したから遅れが出たって君は言ってたけど、トーラスを回転させてたってログがあった」
観測窓の先にある土星を眺めながらそう切り出したアランは、一度区切ってからケルビンを流し見た。彼のレンズ越しの紫の瞳はひとつも揺らがない。アランは再び窓の外に視線を戻し、話を続ける。
「トーラスの回転が必要だったってことは、人工重力が必要なほどの事態があったってことで、誰か冬眠を解除して起きたのかと思ったんだが…もしかして、ケルビン?」
向かいからは身動ぐ音ひとつしない。ケルビンはただ静かにアランの問いかけを受けているようだった。
「いいえ。──あくまでレムの判断ですから私からは推測しか申し上げられませんが…恐らく、調整の際に緊急事態に陥る事を考慮したのかと思います。セルに問題が起きて私が覚醒することになったとして、直ちに作業に入れるように」
「…じゃあ、別に…本当に軽微な調整ってだけで、何も問題は起こらなかった?」
アランは今度は視線で探るように問いかける。ケルビンは溜息をひとつ吐くと、静かに腕を組んだ。
「あなたもご存知かと思いますが、高速噴射中のレムは他に気を回せません。セルに限らず、船に何か問題が生じた場合はイオンプラズマエンジンにまず切り替えてから対処に入る設定になっています」
「──まあ、そうなんだけどな」
「…何か、気になることでもあるのですか?」
逆にケルビンから鋭い視線を返されて、アランは小さく肩を竦めた。そして、誤魔化すように苦笑する。そんなアランの行動を観察するように、ケルビンは目で追う。
「──あなたは、私を疑っているのですか?」
煮え切らない態度で即答しないアランに、ケルビンは質問を重ねた。それには慌ててしっかり否定を入れ、アランは椅子の背もたれに寄りかかる。いつも落ち着いた表情を崩さないケルビンが、どこか怒っているようにアランには見えた。
「君が嘘を吐ける人間じゃないのは分かってるよ。──本当に何も無かったならいいんだ。冬眠中の問題なんて、心配になるだろ?」
「…ハンスや、エヴァに何かあったのではないかと勘繰ったということですか?」
「……うんまあ、そんなところかな」
穏やかに弁明したアランだったが、ケルビンからの視線は鋭いままだった。居心地の悪くなったアランは眉尻を下げて顎を少し引く。まるで内面を逐一観察しているかのようにアランを見ていたケルビンは、やがて諦めたように溜息を吐いた。
「──そういうことにしておきましょう。…あなたは嘘が上手いのか下手なのか、私には分かりかねます」
「ええ?そうかな」
「あなたは明確な物言いをする裏に、本音を潜ませている節がありますから」
ケルビンにしては珍しい露骨な物言いに、アランは思わず笑いを漏らした。──内心では少し驚いていたが、それを隠すように。
「急に心理分析するのやめてくれないか?…怖いから」
「あなたにはこれぐらいが丁度いいと思ったまでです」
しれっと返されたアランは、観念したように「参ったな」と呟いた。──その手は、無意識のうちに自らの心臓を撫でていた。
《ANNELコモンレイヤー:ラウンジ》
ハンスやラビが観測モジュールに入って行ったのを個室ブースの入り口から目にしていたエヴァは、端末の画面を操作しながらラウンジへと移動した。奥のソファに座ると、端末をツナギのポケットに入れて大きく息を吐く。吹っ切るように窓の外を見やったエヴァのブラウンの瞳には土星が反射していいる。引き結ばれた口元から、その表情はどこか緊張した面持ちに見えた。
程なくして、ラウンジに入室する者があった。重い靴音を忍ばせながら姿を現したのは、ヴィクターだ。エヴァの様子を見ると、パネルを操作してラウンジの扉を閉め、ロックをかけた。居住まいを正すエヴァに視線を移しながら彼女の元へ歩み寄ると、その向かいのソファに座る。そして、重い空気を背中に纏ったヴィクターは小さく、「何の用だ」とエヴァに問いかけた。
「──ストルムの、ストレージブースでの件…覚えてますか?」
エヴァはその時のことを脳内に反芻するかのように少し瞳を泳がせた後、真っ直ぐヴィクターを見上げた。ヴィクターはそんな彼女のどこか真摯な眼差しを、静かに受け止めた。
「私の、…何というか、──本質について…言及されたでしょう」
「──ああ」
ヴィクターは腕を組み、ほとんど吐息のような声で応える。脳内ではあの時の事を反芻していた。あの時、自分が彼女に投げかけた言葉──「その抑揚のない刹那的な感情は、過去に全てを奪われたことが原因か?」という、まるで”そうであって欲しい”と願うような問いかけを。
彼の全くブレない厳格な空気に少し躊躇うように瞼を伏せたエヴァだったが、すぐに意志の定まったような表情を呼び戻した。
「あの時、私は思わず逃げるようにしてあの場を離れましたが…その後、ふと思ったんです。あなたは、何で突然私にあんな話を振ってきたんだろうって」
あの日、ストルムのストレージブースで荷物を整理しながら、ヴィクターは過去の話を持ち出しつつ、エヴァの現状について言及したのだ。エヴァはあの空間から脱出した後部屋に戻り、感情を落ち着けながら頭の中の整理をしていた。そして、ヴィクターの言動に少し、違和感を持った。
「私は、ヴィクター隊長が…私に──私の現状に、どこか納得していないというか…何か、”本当のエヴァリン・カーはそんなんじゃない”って言いたかったように感じたんです。故郷が崩壊さえしなければ、私は今の私にはなり得なかったから、今の私は私じゃない──と」
どう言葉で表現していいものか、エヴァ自身も分かっていないようだった。どんな表現を使えば一番伝わりやすいのか、ひとつひとつ言葉を選ぶような。だが、ヴィクターには伝わっているようで、彼は怪訝そうな表情ひとつ浮かべていなかった。どこか悟ったような、静かな表情のままエヴァの言葉を聞いていた。
「──それは、何故なのか…聞いても良いものか、悩んだんです。その、──自惚れじゃなければ、あなたは私やローワン兄弟の事をとても気にかけてくださっていたと思うから」
エヴァは珍しく手振りを添え、訴えるように言葉を紡いだ。ヴィクターは、彼女が最終的に何を言いたいのか、それとも尋ねたいのか──彼女の言葉を咀嚼しながら、ただ、待っていた。
「でも、そのことは…別によくて、私たちは今の距離感でやっていくのが良いと思うから、深く事情を聞くのはやめようという結論に至りました。──でも、ひとつだけどうしてもお伺いしたいことと、お伝えしたいことがあったんです。だから、お呼びしました」
「…そうか」
エヴァは、自分が喋りすぎている事をどこか恥ずかしがるように、最終的には報告のような文言で言葉を閉じた。ヴィクターは短くそれに返事を添える。そこにはエヴァを揶揄するような感情は見られない。エヴァは、自分が会ったことのない父親象を思い浮かべ、自分が子供になったような気分に陥っていた。
「──隊長は、死ぬべき人間は存在すると思いますか?」
ヴィクターの瞳がわずかに揺れた。まるでわずかな時間、時が止まったかのように沈黙が降りる。エヴァは一瞬、ヴィクターの精神がここではない何処かへ旅立ったような感覚を覚えた。目線が合っているのに、こちらを見ていない…そんな様子の彼に、わずかに眉根を寄せる。自分の質問の意図を更に加えようと口を開きかけた時、ヴィクターが身動ぎした。組んでいた腕を解き、膝の上に力なく乗せ、背もたれに体重を預ける。そしてゆっくりと儀式のように、窓の外に視線を向けた。まるで窓の暗い宇宙をスクリーン代わりに、過去の映像を映写しているようだった。
「…存在する」
それは、重い一言だった。エヴァは、彼の声音や表情から、それが”エシュロンの意思によるもの”ではないと嗅ぎ取っていた。正義感や正当性だけで応えているように見えなかったのだ。
エヴァは、何かを吹っ切るように小さく笑った。息を吐き出すようにひとつ笑ってから、余韻のように更に小さく笑う──自分を納得させるような仕草だった。ヴィクターが怪訝そうにそんなエヴァに視線を移す。彼女の目は、僅かに潤んでいた。
「ヴィクター隊長、私は外的環境に左右されてこうなったわけじゃありません。──これが正真正銘本当の自分だって、正面から真っ直ぐに断言出来る。良い悪いとか、正誤なんか何もない、──ただそういう事実として、理解してほしいです」
「…何が言いたいんだ?」
ヴィクターが思わずそう問い掛ければ、エヴァはまたひとつ笑いを漏らした。そして、肩を小さく竦める。
「──あの時、よくよく思い出してみれば何か、──私のことで、思い詰めているように見えたので…。だから、しっかり宣言しておこうと思ったんです。…私は、枝分かれしたどの道を選んで歩いても今の私になったはずだ、ってね」
ヴィクターにはそんな彼女が、吹っ切れた表情のようでもあり、どこか自分に言い聞かせているようにも映った。眩しくもあり、遠くもあり、やはり──どこかに何かを取り落としてきたような、迷子にも見える。それにヴィクター自身が、”こうあるべき”と彼女に何かを押し付けるのは違うと分かっていつつ、修正したいと思ってしまうのは、自分の罪のせいだということを、重々理解していた。
真綿でくるんだような空気がその場に流れた時、二人の端末から同時に通知音が鳴った。切り替えるように同時に端末を確認すれば、そこにはラビからのメッセージが届いていた。
「──ラビ?」
「…俺もだ。──今度は何の用だ?」
二人の画面には、『ブリーフィングスペース集合!』という文字が表示されている。ラビから召集がかかったようだ。
二人は視線を合わせ、訝しみながらも立ち上がった。そしてメッセージの指示通りに上層のコントロールレイヤーに向かう。二人の会話は奇しくも再び途切れた形となったが、前回のヴィクターに対して、エヴァはアンサーを伝えることは出来た。
エヴァは、変わらないヴィクターの横顔を垣間見た。──少なくともエヴァは、どこか胸がすくような感覚を覚えていた。
あの日ストルムで、何も言えずに背を向けた時とは違っていた。今の彼女は、自分の足でドアをくぐり、振り返ることもなく進んでいる。
《ANNELコントロールレイヤー:ブリーフィングスペース》
「それでは、これよりバイオミール品評会を始めます!」
ラビに召集されたクルーたちは、コントロールレイヤーのブリーフィングスペースの異様な光景に唖然とした。中央に設置されたテーブルにはいくつか用意された食器と、ステーションに備蓄されている保存食が並べられている。全て掌より少し大きい程度の樹脂製容器に密封された、ハイラント特製のバイオミールである。
バイオミールは、いわゆる宇宙食だ。湿度・温度・放射線などが完全制御された保管ユニット”バイオスロット”に種類別に保管されている。個別には水分・酸素・酵素を完全に遮断するバイオポッドに密閉されている。
「ちなみにβとγは開封済みだから、中身は出来てるからね」
バイオミールには三種類の食感が存在する。固形バー状のα、ゼリー状のβ、ペースト状のγだ。そのまま開封出来るαと違い、加水食品とも言えるβ、γは専用のデバイス開封が必須で、開封後十数秒で中身が完成する仕組みとなっている。
「…まあつまり、開けてしまってるから…誰かが食べなきゃいけないってことだよな?」
「まあね」
アランが頬を掻きながら苦笑した。ラビはそんな彼にこともなげに返事をしながら、重ねてあった大きめの皿を三枚並べ、その上に開封したバイオミールの中身を少しずつ出していく。同じような怪訝そうな表情を浮かべていたケルビンとエヴァは、眉をひそめながらそれを見守っている。
「──味や食感などは地上で実証済みです。これに何の意味が?」
「意味なんて無い。お遊びなんでしょ」
溜息を吐きながらエヴァが視線を上げると、そこにはラビの背後で腕を組んで皿を覗き込み、興味無さそうに装っているハンスの姿があった。彼がラビと行動していた事を知っているエヴァは、どういう会話の流れでこうなったのか大体の予想が付いた。おおかたラビがバイオミールの話を持ち出して食べてみたいと訴え、面倒と思いつつも興味を拭えなかったハンスが、ラビに手を貸したのだろう。ラビの手によって、ペースト状のγがバイオポッドの吸水口から皿にひり出される。その光景に思わず顔を顰めるハンスを、エヴァは半眼で眺めた。
一枚目の皿には固形物のαがナイフで分割され、二枚目と三枚目の皿にはβとγがそれぞれフレーバーごとに開けられた。傍のカップに人数分のコーヒースプーンが入れてあるので、βとγはそれぞれそれで掬って味見をするスタイルにするようだ。
「実証済みだとか意味が無いとかさぁ、君らってちゃんと自分の舌で味わった上で言ってるわけ?」
ラビが、スプーンの入ったカップをまずエヴァとケルビンに向ける。何が何でもこの品評会に参加させるという意思を携えた視線に負け、二人は渋々一本ずつスプーンを抜き取った。次いでラビは、静かに着席していたヴィクターにもカップを向ける。ヴィクターは小さく溜息を吐きはしたが、黙ってスプーンを抜き取った。
「感想は、誰に報告すればいいのかな?」
快くスプーンを受け取りながら、アランがラビに問いかける。すると、ハンスにスプーンを差し出しつつ自分の分も手に取ったラビは再度平然とケルビンを指差した。
「ケルビンじゃない?」
「──ですから、すでに実証されているものについて、報告する必要性も義務もありません。これは娯楽の一種ということなのでは?」
「実証ってさ、”この味を再現します”って作ったものに対して”その味になってます”ってだけのやつでしょ?それが美味いか不味いかとか、好きか嫌いかっていう嗜好についてはどうせ言及してないよ。それを、今ここで品評するんだから必要性はある!…義務は無いけど」
「では、ここでのデータはぜひ、ご自身でまとめてください」
「はは、メモの準備が必要だったな、ラビ?」
「──僕にはこの頭があれば充分」
会話が繰り広げられる中、品評会の準備が整った。三枚の皿に、カラフルとは言い難い、どこかグロテスクにも映るラインナップが乗せられいてる。ラビが教鞭のようにスプーンでひとつずつ指し示しながら、フレーバーの説明を開始した。
「αのフレーバーは、ココア・フルーツ・プレーン・セサミ・チーズ。口の中の水分奪われそうだけど、味はまあまあ無難なのが揃ってる印象だね」
ダークブラウン、オレンジ、ベージュ、グレー、イエローのバーがそれぞれ一口大の人数分にカットされ、整然と並べられている。ラビは頓着の内容に見えるが、研究者らしい几帳面さもしっかり持ち合わせているようだ。
「βは、シトラス・ベリー・エレクトラ・モカ・ダージリンだね。これは勇気が要るよ。シトラス・ベリーはあまりに科学的な色してるし、モカ・ダージリンに関してはもう…見た目が終わってる」
「コーヒーと紅茶を再現したものですよ。それに、こうして皿に盛るから受け付けないのでは?」
「──受け付けないってところには同意っぽいのがな」
食べる前から酷評を述べるラビに、冷静なケルビンのフォローが入る。それにハンスの鋭い指摘が加わり、アランが思わず吹き出した。
「最後はγ。フレーバーはナッツ・コーン・ココア・フルーツ・ミート。…これはもう、正直、色んな意味でコメントがしづらい。ひとつ言えるとしたら、ミートが鬼門だってこと」
「ですから、本来はポッドから直接摂取するものなんです。…外見で味の良し悪しを決めつけるものではありません」
「だったらわざわざ色を寄せるようなことしなくても良くない?」
「──色彩情報は味の判断をするのに重要な材料なのですよ」
かくして、多少の口論を挟みつつも、品評会は開始された。
「ではまず、αから。どうする、順番決める?」
「品評するということでしたら、同じフレーバーを全員で順々に摂取していくのが、意見交換もしやすく効率的なのでは?」
「いいだろ別に好きに食っていけば。まどろっこしいのは御免だ」
ケルビンの意見を一蹴したハンスの一声で、一斉に皿に手が伸ばされる。ヴィクターが着席しているので、必然的にその周りを囲むような形となっていた。全員がそれぞれブロックを口に含んで咀嚼するなか、ケルビンは顎を摘んでじっと皿の上を見つめている。
「…あなた、何してるの?」
「いえ、どの順で摂取するのが最も品評に適しているか、すこし迷ったものですから」
「──はあ?」
「味が濃いものを先に摂取してしまえば、薄いものに関して正確に味を判断出来ない可能性があるかと」
「そんな真面目なものじゃないわよ。単なるお試し会ってだけなんだから」
気づいたエヴァが怪訝そうに問い掛ければ、ケルビンは眼鏡のブリッジを持ち上げて至極当然といった体で応える。エヴァは思わず瞠目して咽せかけ、それを咳払いで誤魔化した。その傍らでは、フルーツのブロックをまじまじと見つめながらアランとラビが首を捻っていた。
「フルーツは、これは…何の味なんだ?とりあえず甘いって感じだけど」
「うーん、ミックスって感じなのかなぁ?特定の味っていう気はしない。…アランは、フルーツはあんまりって感じ?」
「いや?俺はαは全部いけるかな。強いて言うならプレーンが好みっていうぐらいだ」
フルーツ味に言及するアランとラビの横では、ハンスはヴィクターの様子を伺っていた。どうやら彼は、ココアにもフルーツにも手を伸ばしていないようだった。
正確には、手を伸ばしかけては止め、また伸ばしかけては止め…。それを何度か繰り返した末に、とうとう完全に静止したのだ。証拠に、1ブロックずつ皿の上にきれいに残されている。
「あの…隊長?」
「……俺は甘い物は好かん」
「あー、…えっと、──おいラビ、お前残り食えよ。いつもアホみたいに飯でも菓子ばっか食ってるだろ」
「はあー?食べてるけど、アホみたいっていうのは余計じゃない?」
αの皿が空けば、次はβだ。彼らはスプーンを手に取り、少しずつ掬って味を確かめる。αの時とは違い、明確に嫌悪感を訴える者が出始めたのはここからだった。
「うん…まあ、コーヒー…なのか?」
「私に言わせればこれはコーヒーもどきとしか言いようがないわね。ただ苦くしてカフェイン入れておいたってだけ」
「──そういえばエヴァは、コーヒーが好きだったな」
「だからこそ、ゼリー状にしてまで飲もうとは思わないのよ」
モカ味をコーヒーと認定しようとするアランをエヴァが止める。その眉間は盛大に寄せられていて、アランは苦笑した。
「こんなもん、食った気がしねえよ」
「摂取即完了型の食品ですからね。咀嚼の必要性が無く、食事というよりは栄養摂取のみに特化し、効率性を重視しています」
「──俺は無理。エレクトラぐらいしかまともに飲めない」
「確かに、味は誇張されているように感じますね」
ハンスはどうやらゼリー飲料は好まなかったらしい。エレクトラは、唯一透明で、何かの味を再現したものではない。電解質が多く、人工的な甘みのある清涼味だ。そんな彼の意見に、ケルビンも一定の歩み寄りを見せていた。
「うーん、やっぱりこういうゼリー状食品の甘さってちょっと酸味を感じるよね。嫌いじゃないけど、αの甘みの方が好きかな。あ、でもベリーは結構容赦ない甘さかも…あと、モカもダージリンもちょっと甘くなってるの何でなんだろう?飲みやすさ重視?」
ひとりぶつぶつと分析を進めるラビの傍では、ヴィクターが腕を組んで微動だにしていなかった。完全に拒否の姿勢である。頑なな態度に気づいたラビは、呆れたように肩を竦めた。
「ねえ、本当に甘いものは一切口にしないの?こーんなスプーンに一口以下の量でも?…いい大人がさぁ」
「…経験豊富な大人だから分かる。これは俺には合わない、とな」
「それ、結構言い訳にしか聞こえないんだけど」
「お前はガキなんだから、この機会に存分に色んな味を体験しておくんだな」
「…そういうことにしておいてあげるよ、もう」
体良くラビに自分の分を押し付けたヴィクターは、もうβの皿を見ていなかった。βの皿が空くと、最後はγの皿だ。ラビがコメントがしづらいと言った通り、何とも言えない彩が白い皿に広がっていた。
「さあて、問題のγだけど…正直ナッツとココア以外は未知でしかないね。この二つはパンに塗って食べれそうだもん」
なんとかコメントを捻り出し、ラビが先陣を切る形で全員が口にしていく。
「…まあ、ナッツとココアとコーンは、許容範囲内ね」
「…でも、これ単体で食うのは結構キツくねぇ?」
「…それは、完全に同意」
静かに感想を述べるハンスとエヴァ。フルーツとミートに関しては、食したうえでその存在を無かったことにしているようだ。どこか虚無な表情がそれを物語っていた。
「うっわ、何これ⁈僕こういうの一番許せないんだけど」
「──急に大声を出さないでください。…どうしました?」
「この、コーンってやつ、スープとお菓子とどっちを想定してんの?スープならもっと塩っぱくていいし、お菓子ならもっと甘くていいのに!ベリーの大胆さはどこへ行ったんだ」
「…単純に、素材の味を再現しただけなのでは?」
舌を出して最大限の嫌悪感を表情で示したラビに対し、若干引き気味のケルビンが戸惑いつつフォローを入れる。ケルビンにとって、彼のように味への拘りから突然感情を上下させる感覚は理解し難いものであり、戸惑いの胤なのだ。
そしてその傍らでは、ミートを口にしたヴィクターが眉間を抑えて首を垂れていた。盛大な溜息が彼の感情を物語っている。アランはそんなヴィクターが、もうこれ以外のγ食品を食べられない事を察して苦笑した。
「──ヴィクター隊長、とりあえず残りは俺が食べておきますんで」
「……」
「まあでも、どれも結構食べられなくもない物ですよ。非常時には、きちんと食べてくださいね」
そうして、ラビ主催のバイオミール品評会は、きちんと全ての皿を空にする形で終了した。皿とスプーン、バイオポッドをまとめると、ラビは全員を着席させ、自分は起立してひとつ、仰々しく咳払いをした。
「では、全員の評価を聞きたいと思います。じゃあ、アランからどうぞ」
何を再現しているのか、少し声のトーンを低くして、ラビは演技臭い口調でアランに問いかける。アランはそれに付き合うようで、「はい」とひとつ返事を添えた。
「俺は、別に食べられないものは無かったかな。ひとつ選ばないものを挙げるとすれば、γのココアかも。γの中では一際甘い分、口にまとわりつく感じがして」
「確かに、もったりしすぎ感はあったね。でも僕はあれ、結構好きだった。はい次、ハンス君」
テーブルに手をついて身を乗り出し、ラビがハンスを指差す。アランと違って付き合う気のないハンスは小さく舌打ちをしたが、意見を言わなければ話が進まないので渋々感想を述べた。
「俺は”食った感”があるα一択だな。選べる環境なら他は選ばない。もうβとかγしか存在しないってんなら食うって感じだけど、吐き気を催すほどの嫌悪感はどれも無かった」
「へえ、それは意外。でも、身体が資本の人間には腹持ち良さそうなαが一番いいのかもね。じゃあ次、エヴァ」
エヴァもハンス同様、ラビのショーに乗る気は無いようで、淡々と業務報告のように感想を述べた。
「水分摂取との兼ね合いも考えると、最も効率的なのはβね。でも、再現系の味は私的には失敗してると思う。だから、βのエレクトラだけあれば充分」
「はい、エヴァ的模範解答ありがとう。食事の嗜好に興味なさそうなのにβのモカには過剰反応してたけど、絶対あれが決め手になってると思う。じゃあケルビン」
ケルビンは行儀良く着席し、実のところ他人の意見に対して目を光らせているようだった。──もしかしたら後日本当に報告書などを作りかねないほどに。
「──そうですね、全てにおいて、少し味が過剰に再現されているようには感じました。しかしこれは、少量の食事で満足感を得られるような配慮と考えられます。つまり相対的に見れば、妥当です。フレーバーに関しても、誰にとっても好めるものが存在する時点で、及第点と言えると思います」
「こうは言ってるけど僕は見たよ。濃い味系のやつは苦手そうにしてた──特にベリーはね。ま、ケルビンの論で言うなら、それでも他に好んで食べられるものが存在するなら及第点ってことね。じゃあラスト、ヴィクター!」
相変わらず、隊長であり、一番の目上の人間であるヴィクターに対してもラビ節は飛ばされる。ヴィクターはここまでそれに対して一切言及しなかったが、此度もそのようだ。彼は腕を組み、他クルーの視線を受け、瞼を伏せた。
「………甘い物は食えん。──以上だ」
しん、と空気が一瞬静まりかえったが、その空気はラビの声にかき消された。
「ええー、それだけ⁈まあ実際食べてなかったからそう言うしかないんだろうけどそれだけ?」
「αの甘くない系のやつは食ってたよ。だからつまり、そういうことだろ」
「それより、君の意見はどうなんだ、ラビ?一番興味あるけど」
助け舟のつもりがあるのかないのかは不明だが、息の合ったローワン兄弟の援護射撃により、ラビからヴィクターへの訴えははじき出された。わずかに口を尖らせたラビだったが、再び咳払いをひとつすると、居住まいを正す。そして両手を腰に当て、ふんぞり返るように背筋を伸ばし、得意げに口の片端を持ち上げる。
「──甘いもの好きの僕としては、苦手な甘さがある事を発見させてくれたγのコーンには感謝しかない。あれは再現系の中でも、何を再現したいのか意図が読めなかった。まだミートの方が分かりやすかったよ。…何でペーストでその味やったのかだけはわからなかったけどね」
そう前置きをして、ラビはぐるりとクルーたちを見渡した。若干名興味なさそうな顔をしているが、そんなことはお構いなしである。
「つまりこのバイオミールは、味の品評会が出来ている時点で及第点もしくはそれ以上ってことだ!一名効率重視の意見を言っている者もいたが、行動が物語っている!明らかに好き嫌いでモカを避けてたからね」
「…うるさいわね」
キャラクターが定まらない中途半端な演技をしながら自分を刺してきたラビに、エヴァがすかさず反応する。
「確かに、モカの品評には熱が入ってたな」
「やめてよ」
アランがその時のことを思い出しながら笑う。今度は諫めるように、エヴァはアランを静止する。そんなやりとりを眺めながら、ケルビンは冷静に眼鏡のブリッジを上げ、軽く挙手をした。
「──それで、この品評会はこの後どうなるのですか?」
クルーたちの目がケルビンに集まってから、ラビに移された。突然声をかけられたラビは、どこか間の抜けたような表情でクルーを見渡し、最後にテーブルの端に寄せられた食器類を見やった。そして、平然と腕を組んだ。
「どうなるって──終わりだよ」
再び、しん、と時が止まったように室内が静まり返る。誰もがラビから視線を外せないでいるなか、ハンスだけがその沈黙を破った。
「は?いや、何だったんだよこの時間⁈」
「品評会なんだから食べた感想言い合ったら終わりなのは当たり前じゃん!ていうか内心興味津々だったくせに、僕ばっかりが試食に乗り気だった空気にするのやめてよね!」
発起人である二人が言い合いを始める。その傍で、エヴァは口元を抑えて眉根を寄せた。そして、アランやケルビン、ヴィクターに向かって問いかける。
「ねえ、終わりなら下でコーヒーでも飲まない?…口の中をリセットしたい」
「ああ、それは賛成」
「品評会というのは、感想を述べた後に今後の展開を話し合うものなのでは…?」
アランは即答し、すぐに席を立つ。ケルビンもぼそりとつぶやきながらそれに倣う。そうして退出の流れになると、言い合いをしていた二人はピタリとそれをやめた。自分たちがキッチンから持ち出した食器を二人で分け、エレベーターへと向かう四人の後に追随する。こうして、突発的に開始されたバイオミール品評会は、突発的に終了した。
品評会の賑わいを忘れたかのように静まりかえったエレベーター内で、ケルビンが思い出したように軽く手を叩く。五人の視線が彼に集中すると、至極冷静な表情で、ケルビンは淡々とクルーに告げた。
「みなさん、バイオミールはひとつ食すだけでもかなりの栄養素とカロリーを摂取できます。したがって、今晩は食事を摂取せずとも良いでしょう。他の宇宙食も基本は少量の食事で栄養素やカロリーが摂れる設計となっておりますので、これ以上は過多になってしまいますからね」
それは、無慈悲な宣告であった。彼らは意図せず、バイオミールで一食分の食事を終えたのだ。
「エヴォリスから持ち込んだ分の夕食は、戻すことにしましょう」
エレベーターから出ると、ラビはすっかり肩を落としていた。ハンスもどことなくげんなりしている。
「宇宙でやることじゃなかったね」
「…ああ、地球でやるべきだった」
そんな二人の後悔の念を聞きながら、アランたちは苦笑しつつカフェテリアへ向かう。
まだ夜は長いのだが、彼らはこれから、一際味わってコーヒーを飲むことになるだろう。
《エヴォリストーラスモジュール:メディカルルーム》
クルーたちが土星の陰で意図せず賑やかな夕食を摂り、眠りについた頃。エヴォリスはエネルギー補給のため、同じく眠ったように静かに佇んでいた。人間の居ない船内は非常灯や誘導灯だけが怪しく光り、まるでその躯体ごと、宇宙の闇に溶け込もうとしているようだった。
メディカルルームでは、呼吸するように淡く明滅するステイシスセルの青白い光によって、室内がまるで海底のように蠢いているようだった。そして、管理者が不在中のメディカルルームで、電源の落とされていた端末が、再び一人でに起動する。画面に次々に浮かび上がるウィンドウは、例によってクルーのカウンセリングログだ。
音声認識により文字化されたそれは、ケルビンによって添削・整理され、報告用ログとしてすでに仕上げられていた。──そしてそれはまた、一人でにスクロールを始める。ステイシスセルの静かな呼吸音しかない空間に、端末のモーター音やファンの音が微かに追加される。時刻は地球時間に換算すると、深夜である。こうして再び、秘密の夜の時間が始まった。
◉対象者:アラン
「やあ、今回もまたよろしく、ケルビン」
「ええ、どうぞ」
「しかし、冬眠前の簡易的なカウンセリングも合わせたら四回目か?…ともすれば随分慣れたものだよ」
「あなたの心持ちの話ですか?」
「ああ。正直、もうドクターってイメージが消えそうだよ。初回は本当に、緊張したもんだ」
「…まあ、ハイラントではPIコアのお陰で、特にかしこまったカウンセリングは行いませんからね」
「今まで意識してこなかったけど、そっちの方がよく考えたら怖いよな。知らない間に自分を分析されてるってことだし」
「私としましては、効率と効果を鑑みれば、PIコアを介した間接的な分析の方がより良いと思いますけどね」
「ははは、…でも、どんな形であろうと”対話”っていうのは大事なんだなって思ったよ。現に俺は君の見方が変わったし、君もそうなんじゃないか?」
「──成程、一理ありますね。確かにあなたは初回のカウンセリングでは緊張されているようでしたし、今回は前回を上回って饒舌です」
「…で、今回は何を聞かれるんだ?」
「──そうですね、では、通常睡眠時のことでもお伺いしましょう。一度も詳しくお伺いしていませんでしたね」
「ああ、ステーションでの事か」
「ええ。まあ正直…エヴォリスの環境に慣れていると手狭な部屋ですし、閉塞感などあったのではないかと」
「とは言ってもなあ、エヴォリスの自室で寝たのって最初の順応期間の時ぐらいだし、そんなにギャップは感じなかったよ。普通に、”ああ、今日はここで寝るんだな”って思った。ベッドだけの狭い部屋だけど、それはそれで秘密基地みたいで、特に閉塞感は無かったな」
「眠れないとか、夢を見たとか、そういったこともありませんでしたか?」
「無い無い!基本的にぐっすり快適に過ごしてたよ。自分自身、こんなに柔軟性があったんだって驚いてる」
「そうですか。…私は正直、ステーションの個室は”快適”というより”業務的”と感じましたけどね。あくまで一般論での話ですが」
「まあ、確かに寝るだけの部屋って感じではあるけど、自分だけの空間だから、たった一泊でもちょっと愛着が湧くかな」
「愛着が湧く…」
「ああ。それで言うと、訪れた場所とか、自分の使った物とか、全部に愛着が湧いてるのかもな。感覚的には、まだ短い付き合いの筈なんだけど」
「それは、とてもあなたらしい感覚と言えるでしょうね。人に対しても物に対しても、瞬時に距離を詰め、測ることが出来る──あなたは、周囲に対して最も適した人物になることが出来る」
「…そんな大仰なものじゃないよ」
「ひとつ、懸念点があるとすれば…あなたは、あなた自身に対しても無意識に”それ”を発揮しているのではないかということです」
「どういう事だ?」
「あなたのような方の変化に気づける者はほとんどいないでしょう。同様に、あなた自身、ご自身の異変に気づけていない可能性があります」
「──…うーん、でもそれなら…無意識のうちに、身体的な症状として表れるんじゃないか?それこそ、不眠だとか、食欲不振だとか、そういった形でさ」
「ええ、多くは、そういうものですがね」
「俺は、そういうの、本当に全く無いんだよ」
「…」
「”今”が、本当に楽しいと思う。──…戻りたくないと、思うぐらいには」
「戻りたくない…地球にですか?」
「ああ、うん…まあ、今のは言葉の綾でさ。それぐらい、問題なしってことだ」
「──”問題なし”…普段からよくその言葉を仰いますね」
「え?…問題なかったら問題なしって言うだろう?」
「ええ、そうですね……」
「──どうかしたかい?」
「…いえ、”問題ありません”よ」
「ははは、ならいいんだけど」
「──では、一旦カウンセリングは終了で良いでしょう。今回もお疲れ様です、アラン」
「毎回、ただの世間話みたいになってる気がするんだが、これでいいのかい?」
「こうして特別に時間を設けて行うだけで効果的なので大丈夫ですよ。むしろ、世間話に毎回お呼び立てする形になって申し訳ないのですが」
「いや、それは全然問題ないよ。──あ」
「フフ、では、お戻りいただいて結構ですよ」
「ああ、ありがとう。…また次回」
◉対象者:ハンス
「どうぞ、おかけください」
「はあ、またこの時間が来たか」
「…もはや辟易しているといったご様子ですね。前回までは緊張されていたと思ったのですが」
「正直緊張はもう無ぇよ。毎回大した事聞かれねぇし」
「些細なことから情報を見抜くのが目的ですからね」
「……」
「それでは、始めても?」
「はいはい」
「あなたは今回の冬眠も問題なく覚醒されていましたね。体調もいたって健康。精神面も、まあ…多少の無骨さはあれど、全体的には安定しているようにお見受けします」
「──お前ってさ、俺に対して何か容赦無くなったよな。…あとラビ」
「…おや、そう思われますか?」
「思うよ。まあ、初回の妙に歩み寄ってくる感じは正直気味悪かったから、別にいいんだけど」
「それは失礼しました。私にも相手を測る時間が必要でしたからね」
「──ま、いいよ。それで、また体調がどうこうって話?」
「そうですね。数値上では適正値ど真ん中の値が出ていましたが、身体に違和感は?」
「無ぇな」
「…でしょうね。外見に異常も現れていませんし、それが健康である証拠でしょう。…精神面に関しても、あなたは──表情が正直で…隠し事が苦手のようですし、私としては、有りのままを見て診断して良さそうだと思っています」
「…何かちょっと引っかかる言い方するよなほんと」
「では、そんなあなたに今回私がお伺いしたかった件なのですが…クルーの中で話づらくなった人物などはいますか?」
「…え」
「私の所見を述べます。あなたは一見近寄りがたい印象をお持ちですが、他人との関係値を築くことに関してはむしろ積極的に見えます。受動的ではありますが、必ず相手と対話をする傾向がある」
「……表現がややこしいな」
「ざっくり申し上げると、”自分からは行かないが、他人が踏み込んできても拒まない”…と、いったところでしょうか」
「…」
「ですからそんなあなたが…ここまでの宇宙での生活を経て、話しづらくなった人物がいるかどうか、お伺いしておこうと思いまして」
「俺としては、別に俺自身何も変わってねぇと思ってるけど」
「──では、ヴィクター隊長に関しても?」
「…何で、隊長が?」
「前回のカウンセリングで、彼を”らしくない”とおっしゃっていたので、何かその後変化はあったのかと」
「隊長は、もともと声かけづらい存在だったよ。寡黙だし、雲の上の人物って感じだし、立場的にも。──むしろ、隊長の雰囲気が変わったって思った時、前よりちょっと声かけやすくなったぐらいだ」
「…それは、興味深いですね」
「お前とかラビの観察癖が移ったのかもな」
「ふむ、ではひとつ忠告しておきます。あなたのような方は、故意に他人を観察するのに向いていません。ただ自然に、対話するだけで望む結果を得られるはずですから、過度な歩み寄りは控えた方がいいですよ」
「……つまり、どういう事だよ?」
「あなたは分かりやすい人ですので、他人を詮索するのに向きません。そういう事は、──ラビに任せておきましょう」
「──…はあ。終わり終わり。もうこの辺でいいだろ」
「ええ、私もそう思っていたところです」
「ったく、何なんだよ。これマジでカウンセリングなのか?」
「今回も、非常に有益な情報を得られましたよ。…お疲れ様でした」
◉対象者:エヴァリン
「お疲れ様です、エヴァ」
「…前にも思ったけど、あなた、それ育ててるの?」
「…?──ああ、スパティフィラムの事ですか?」
「ええ。──それ、本物?」
「そうですよ。今作戦での任期が一年前後という事でしたので、経過観察を試みようと思いまして、私物として持ち込みました」
「冬眠中はどうしてるのよ?」
「実は、こちらに。──この引き出しの中が丸々、プラントポットの固定用のスペースになっているのです。電源が内蔵されていて、時間により植物育成用LEDが消灯と点灯を繰り返します。自動給水用のディスペンサーもついているんですよ」
「……随分、大掛かりなのね」
「大掛かりと言うほどでもありませんよ」
「宇宙栽培のテストも兼ねてたりするの?」
「…まあ、そうとも取れますね。実際、このポットに入っているのは培地で、本物の土ではありません。これは実際ハイラントでも使われているものですが、宇宙でも通用するか、試しているという側面もあっていいでしょう」
「──へぇ…緑茶、だっけ?あれの件といい、意外と人間臭くて正直戸惑うわ」
「お互い同じ人間ではありませんか。──エヴァは、何か私物を持ち込んだりしていないのですか?」
「…特に何も。工具ぐらいね」
「手に馴染むものをお持ちになったんですね。私見ですが、実にあなたらしいと存じます。では何か、趣味などは?」
「さあ?機械をいじっている時が一番落ち着くというぐらいね」
「そうですか。では、今の役職は天職なのですね」
「──どうかしら?…適正テストの結果だから」
「………まあ、雑談はこれくらいにしておきまして、心身のことについてお伺いしても?」
「ああごめんなさい、どうぞ」
「今回の冬眠についても覚醒プロセスに異常なし、バイタルも正常値でした。少々問題があったのは、初回だけでしたね」
「…今回って全く異常なしって言えるの?セルの調整をしたって言ってたけど」
「それは、機械的な問題であって、人体的な問題ではありません。後者なら私がレムによって覚醒されていますから」
「機器の問題って、大丈夫なの?」
「ええ。例えばあるセルに軽微なズレが生じ、それが他のセルに移りそうなところを修正するためにエンジンを切り替えた、というものですから。むしろ、レムは最良の判断をしたと思いますよ」
「──冬眠中は無防備に機械に身を任せるしか無いから、異常は勘弁してほしいわ」
「それは、ごもっともです。推進とバイタルが衝突する状況では、レムは推進ではなく、クルーの生命維持を優先するよう設計されています。つまり、現状我々が無事稼働出来ている事が、レムが正常である証左になっていると思いませんか?」
「ええ、まあ…それは、そうね」
「そうです。──…ちなみに、エヴァ。これは仮定の話なのですが…例えば、クルーの中に精神面において”正常ではない”人物が現れたとして、その誰かが、”自分は眠りから目覚めたく無かった”と言ったら、あなたはどう思いますか?」
「──え?何よ、突然」
「これは、カウンセリングですからね。その時のことを思い浮かべて、どう思うか、想像してみてください」
「その、”誰か”って?例えば誰?」
「それは、あなたにお任せします。私には、あなたが”どう思うか”だけを教えていただければ」
「……そうね、人による、かも。基本的にはその人の望みを尊重したいけど」
「──説得したくなる人もいる、と?」
「…」
「失礼ながら、私の所見では、あなたは他人との間にかなり距離を置く傾向があるように思います。…そんなあなたが、”説得したくなる”人というのは、──かなり特別な存在なのでしょうね」
「…ねえ、この質問ってどういう意図があるの?」
「意図…ということでしたら、対話することでしょうか」
「は?」
「──正直、初回に比べると随分抵抗なくお話いただけていることに、かなりの進歩を感じています」
「……じゃあもう、それが分かったところで、終わりってことでいいのかしら?」
「そうですね、今日のところは終了で良いでしょう。ありがとうございました」
「…はあ、何か調子が狂うわ」
◉対象者:ラビ
「ハーイ、ドクターケルビン。お待たせ」
「…時間通りですので、特にお待ちしてませんでしたがね」
「またそういうこと言う」
「全く、時間を守らなかったのは最初だけ──つまり、あれは意図的にやった事だった、ということでしょう?」
「うんまあ、そういうことでいいんじゃない?」
「…理解しかねます」
「理解しちゃったらつまんなくない?」
「はあ、──…あなたは最初から、そうやって随分と楽しそうに過ごしていらっしゃいましたね」
「楽しそうにっていうか、実際楽しいからね。ここはハイラントより随分閉鎖的なところだけど、お楽しみ要素が豊富に揃ってるよ」
「その、お楽しみ要素について、具体的なものを挙げていただけますか?参考にさせてください」
「絶対参考にしないよね?──まあいいけど。…前回も言ったけど、全部興味深くて面白いって感じるから、具体的に挙げろって言われたら話すごく長くなるよ」
「では、上位三つまでとさせていただきましょう」
「オーケー、じゃあまず三位から。──これは宇宙空間だね。最初は景色が味気ないと思ったけど、地球とか、他の惑星を間近で見た時は感動だったし、分野を変えて突き詰めたくなるほど興味深かった」
「…宇宙最大の謎である重力に関して、その有り余る興味で挑んでいただければ、飛躍的な宇宙開発が成し遂げられるかもしれませんね」
「まあでもそこは僕、RESセクターの実験とかも好きだからさ。重力一辺倒になるとすぐ飽きると思うよ」
「解明出来ずとも、ですか?」
「うん。”今ここまでわかってればいいじゃん”って思っちゃうかも」
「…難解な方ですね。何でも知りたがる傾向があるのに、完全な解明には執着しない──と」
「うーん、気が短いのかな?ま、それはそれとして次に二位!これは、OSX-9かな」
「おや、今回の主目的であるOSX-9が二位。…その熱量が本物であることを、エシュロンが理解していると良いのですがね」
「正確には一位と二位は同率だけど、ここはこっちを二位にしとくかなぁってくらいかな。…地球と酷似ってどれくらい?どんな見た目してて、どんな生物がいる?って、今から考えてもわくわくする」
「どの程度のパーセンテージで人類移住の可能性があるのか、興味深くはありますね」
「その辺、僕はエシュロンが結構冷静すぎて、本当は何がしたいのか疑問に思うところもあるけど。…でもそんなのどうでもよくて、全然乗っかっていいって思えるほどには熱量持ってるよ」
「…なるほど」
「で、一位はやっぱり人間観察かなぁ。地球じゃここまで面白い人たちは揃わなかったから──久しぶりに人と喋ってる感覚があって、観察冥利に尽きるって感じ」
「──そうおっしゃると思いました。それで、どの程度観察は進みましたか?」
「うーん、明確な答えは要らないんだ、正直。毎回更新されてく方が楽しいし…だから、進捗は永遠に0パーセントって感じかな。あ、でもここ最近の発見は、ヴィクターが意外と僕の態度を何とも思ってないってことかな!」
「いちいち注意しても仕方がないとお考えなのでは?」
「それにしたって、嫌だったらそういうのって絶対態度に出るものだよ。でも、そんな雰囲気は全然感じないっていうのに、最近やっと気づいたね」
「…それでも、進捗は更新されない、と?」
「うん、そう。ケルビンも心しておいた方がいいよ。なんかカウンセリングとかって変にレッテルが凝り固まってそうなイメージあるし」
「ご忠告、痛み入ります」
「──で、今日は何を聞かれるの?」
「……まさか、今からカウンセリング開始だとお思いですか?」
「え、なんかいつも聞くじゃん、バイタルがどうとか、冬眠がどうとかの話」
「ええまあ、お伺いはしますけどね」
「ちなみに、今回も全部正常だっただろ?僕、今回も夢は見られなかったんだ。その後の眠気も体調不良も無し。ま、その辺は聞くまでも無いって感じなんだろうけど」
「ええ、至って健康そうですね。あなたは、何か不調があればそれを隠さず、意見を求めるために躊躇なく他人に症状を伝えるでしょう。その辺のことに関しては、私は最もあなたを信頼しています」
「ってことはつまり、信頼できない人間もいる、と」
「それはそうでしょう。それに隠すばかりではなく、気づかないまま放置される場合もありますから。あなたのように異変に敏感で、言語化に特化した人材は貴重です」
「うわ、手放しの賛辞ってなんか…不気味」
「──多少言動に問題はありますがね」
「ああ、安心した。それそれ」
「おかしな人ですね。賛辞は喜ばしいものなのではないですか?」
「いや、褒めてばっかりの奴には…裏があるもんだよ」
「…」
「まあ、ここのみんなは結構僕に容赦無いし、そこらへんは、信頼してるんだ」
「──そういうケースも、あるものなんですね」
「で、あとは?何か言うことある?」
「いえ、もう結構ですよ。お疲れ様でした」
「…ねえ、ケルビンって毎回突然ぶった切るけど、みんなのカウンセリングでもそうなの?」
「守秘義務がありますので、それにはお答えできません」
「はあ、まあ…じゃあ、今回はこれで終わりって事でいいんだね?」
「ええ、ご退出いただいて結構です」
「はあーい。…何か話し足りないから、この後誰か探しに行こうかな」
◉対象者:ヴィクター
「お疲れ様です、ヴィクター隊長。…その後、体調はいかがですか?」
「…異常は無いな」
「そうですか、安心しました。最終的な覚醒プロセスは順調、バイタルも平常値でした。──身体的な疲労感などは感じますか?」
「──そうだな、起きた直後は体がやけに重かったが、今はもう治まった」
「過度な眠気なども感じませんか?」
「無い」
「承知しました。…まだこれ以降も、冬眠は複数回挟みます。とりわけアンネル出発後が直近の冬眠で、明後日には開始されます。睡眠や食事、適度な運動を心がけ、常にリラックス出来るようにケアを行ってください」
「ああ、分かっている」
「……何か、地球から持ち込んでいるものなどはありますか?──趣味や、心が落ち着く物など」
「──…銃だな」
「銃ですか⁈…それは、エシュロンに報告している物ですよね?」
「ああ」
「エヴォリスにも武器は搭載されています。…何故、地球から銃を?」
「不測の事態に備えて、手に馴染むものが良いと申請したら、通ったのでな。拳銃だ──V-9 Veritas。今も懐に持っている」
「…ハイラントの武器ではありませんね?」
「政府機関にいた頃から使ってる拳銃だ。特別外部招致者として、エシュロンからは持ち込みをもともと認められていた」
「──実弾銃は、船内では使用不可です。もし使う機会があったとして、それはOSX-9上に限られますよ」
「重々承知だ。そもそも魔除けとして持ってるだけだからな。弾は装填している分だけで、マガジンは持ち込んでない」
「……何故、今になってそのような事実を明かしたのですか?」
「お前が、地球から何を持ち込んだか聞いてきたからな」
「以前のあなたならば、使用する時まで秘匿したでしょう。…何か心境の変化がおありだったんですか?」
「お前は、どう思う?」
「はい?」
「俺に、どういう心境の変化があったと思う?」
「──…それは」
「心当たりがあるだろう?」
「あなたが……セル内で異常を起こしたこと、でしょうか」
「そうか。何故そう思ったのか教えてくれ。あの時の俺は狂っていたか?どんな様子で、お前に何を口走ったんだ?──あの時お前は、”影という言葉を繰り返していたぐらいで、建設的な内容は何も無い”と言ったが、…あれは嘘だな?」
「何故、そんな…」
「お前は俺の何を知ったんだ?──今、ここで言え」
「……大量の、同じ顔をした影に囲まれ、持っていた武器で対抗したと。──影の表現については不明瞭でした。顔がないと言った後に、一人だけど全員同じ顔をしていたと、そのような発言がありましたので。…証言の最中に、部屋の隅に影が残っていると──幻覚を見ている様子もありました。意識が明確になられてからは、ご記憶の通りです」
「──なるほどな」
「ここまで申し上げたのでお伺いしますが、一体、どのような夢を見られたのです?」
「話した通りだ。何も無い空間に大量の影がいて、そこに放り出された俺は、無差別に殺りまくった。…それだけの話だ」
「…うわ言で、”許してくれ”とも仰っていました。どなたに向けた謝罪だったのですか?」
「──…フッ、さあな。心当たりが多すぎて見当もつかん」
「…ヴィクター隊長、あなたは…過度なストレスを感じてはいませんか?悪夢に囚われ続ければ、REM過剰状態に陥り、脳波や心拍に多大な影響を及ぼします。単なる眠りが、命の危機に直結する場合もあるのです。…真剣に、現状の問題を解決するため、ご協力いただけませんか?」
「それは、症例が欲しいのか?それとも、お前の単なる好奇心か?」
「──私に関しては、使命から…という認識をしていただいて構いません。ですが、あなたの身を心から案じている人間も存在します。ですからあなた自身、ストレスの原因について何か思い当たることなどがあれば、教えていただきたいのです」
「…残念だが、俺にも…不明瞭でな」
「ええ」
「突然湧いて出てきた感情なのか、もうずっと前から苛まれ続けていたのか」
「──深層心理に近い、と?」
「…そうかもな。だが、今回のことでスッキリしたんだ」
「と、言いますと?」
「今後はもう、こんな事は起こらんだろう」
「…あなたは以前も、そのような事を仰いました。二回目の覚醒を無事終え、小康状態となっていた時、”次の冬眠も問題無い”と。──ですが今回、このような結果となった。正直なところ、あまり信頼性を感じられません」
「夢を、見なかったからな」
「夢?」
「そうだ。再冬眠の時は、夢を全く見ずに覚醒を迎えられた。──俺を苛んでいた夢が、消えた」
「つまり、ストレスの根本が絶たれたと?…今回のことでですか?」
「俺は、そう──どこか確信している。…まあ、次の冬眠で、お前自身の目で確認してくれ」
「ですが、もっとよく、内観すべきではないかと私は思います」
「いや、俺がうわ言でお前に言ったことと、今話したことが全てだ。…冬眠は避けられん。お前は俺を今度こそ信じて、やるしかない」
「…」
「手間をかけるかもしれんが、な」
「……では、もしまた問題が起こった時は、また同じように対処して…その先は共に、どうすべきか模索するとお約束ください」
「ああ、そうなったらな」
「通常の生活では、くれぐれも食事と睡眠を怠らないように。少しでも何か異変があれば、必ず私に報告をしてください。でなければ、あなたに関しては、PIコアの情報開示をエシュロンに申請します」
「…それは、何とも恐ろしい脅しだな」
「警告と言っていただきたいですね」
「フン──じゃあもう、こんな所でいいか?」
「ええ。ゆっくりと休息を取り、…可能ならば、他のクルーと積極的に会話することも考慮に入れてみてください。気分転換になるかもしれません」
「ああ、気が向いたらな」