Phase_01:FERRIS
進行状況に応じて設定を以下で公開中
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《Day1 中央コア:コックピット》
シートには二人の操縦士が着席している。片方の青年は操縦桿を握りながら船のセッティングを調整し、隣の青年はモニター画面でルートを確認しているようだ。
指示と確認、レムの声だけが短く響く、静かな空間だ。わずかな機械音や操作音などがそれを助長している。メインウィンドウの端にルートラインが追加され、前後不覚になりがちな宇宙船の進行が視覚化される。フェリスまでの距離は途方もないが、数日後に始まる人工冬眠がそれを解決してくれる。
「空よりも上に来てしまったな」
操縦桿を握るアランがそう呟く。ごく小さな声だったにもかかわらず、やけに響くようだった。隣で操作中だったハンスが手を止めて、アランに振り向いた。その気配を察して、アランは穏やかな微笑みを携えてハンスと視線を合わせた。
「覚えてるか?子供の頃の」
ハンスの口元がわずかに引き結ばれ、視線が外される。そのまま「ああ」と短く答えた。
「空に行きたがってたのはお前だけだったろ、アラン」
「ああ。あんなに立派なコックピットに居たのに、興味を示したのは俺だけだったな。あんなに大きなものが空を飛べるなんて…って、想像するだけで面白かったのに…お前とエヴァは布で覆ってせっせと家作りしてた」
アランの視線が前方に戻る。懐かしげに微笑んで、視線は遠く、過去に向けられているようだった。ハンスは作業をしながら黙って耳を傾けていた。
「でも、先に空を飛んだのはお前だった」
「ただのファム・フライトだろ」
ハンスの眉間に力が入る。意図せずアランの横顔を睨むようなかたちとなるが、アランは気にしない様子で再びハンスに視線を映した。
「──俺はどこか嬉しかったよ。何だかんだ、お前とは距離を感じてた時だったからな。エヴァは反抗期だから気にするなって言ってたけど」
それを効いたハンスが小さく舌打ちをしたので、アランは吹き出すように小さく笑った。
「──こうやって、コックピットでまた肩を並べられるとは想像もしなかった。それも、実際に操縦して、宇宙空間で。エヴァと三人、全く違う空間であの時と同じ状況になってる。人生って不思議だよな」
まるで独白のように紡がれるアランの言葉に、ハンスは小さく「そうだな」とだけ答えた。
《Day1 中央コア:点検用エアロック-トーラスモジュール》
『もう大丈夫そうかい、エヴァ?』
「ええ、ありがとう」
外郭チェック作業に出ていたエヴァは、エアロックを抜けてスーツのロックを解除し始めていた。無線からアランの声が聞こえ、短くそれに答える。
ヘルメットを外し、他の細々とした装備まで全てロッカーに丁寧に収めていく。工具もひとつずつツールベルトに固定されているか確認し、大振りのものはロッカーへ。使用頻度が高い物はツナギ越しに装着した。上半身だけをくつろげ、袖をウエストで縛ったところでようやく一息をつく。上は黒いTシャツ姿となったエヴァは、シニヨンに纏めていた黒い長髪を一度ほどき、再度結び直した。
ロッカールームの扉を抜けると、無人の廊下となる。少し進んで、ブリーフィングスペースを通り抜けた先にはコックピットがある。今そこで、幼なじみであるアランとハンスが進路をフェリスに向け、発進準備をしているはずだ。逡巡してから、エヴァは静かにドッキングハブへと移動し、トーラスモジュールへと向かうためポッドに乗り込んだ。
「外郭作業について何か問題はありましたか?」
「いいえ。構造もチェックリストも事前情報と一致した。後は念のため、トーラスモジュール内の確認もしたいんだけど」
ポッド内でレムからそう通信を受け、壁際に佇んでいたエヴァは窓から外を眺めながら応答する。
「インフラ系統は現在、順調に稼働中です」
「自分で弄れる箇所だけ目で確認しておきたいのよ。あなたと違って、人間は一度経験することで次の行動の効率化が図れるのよ」
「了解、エヴァ。認識を修正します」
ラビとのやり取りを忠実に守ろうと歩み寄るAIに、エヴァは小さく肩を竦めた。存外話し相手になりつつあることに内心の驚きを秘めながら。
ポッドは、インフラ系統の管理用設備が整えられた倉庫区画モジュールへと滑り込む。エヴァは速やかに移動すると、配電設備や水再生ユニットがまとめられたスペースを、端末の情報と見比べながら黙々と確認し始めた。
一通りの確認作業を終え、エヴァは最終的にカフェテリアへと落ち着いた。誰もが作業中らしく、無人のカフェテリアの扉を抜け、キッチンスペースへと足を運ぶ。マグネット固定されている常設カップを棚から取り出し、ドリンクサーバーでコーヒーを選んでカップを設置すると、注がれる音にぼんやりと耳を傾ける。湯気と共に香ばしい香りがエヴァの鼻をくすぐる。
コーヒーのカップを手に、すぐそばのカウンター席へと腰を落ち着ける。一口コーヒーを啜ると、カウンターから窓の外の宇宙風景をそっと見やった。そしてふと、思い出したようにジップ付きの後ろポケットからカードケースのようなものを取り出し、黙ってそれおを眺める。中身は写真で、青年と少女が笑顔で並んで写っていた。
彼女の表情がわずかに動く。眉根がわずかに寄せられ、瞬きを忘れた瞳はどこか潤んでいるようにも見える。そのまま時が止まったかのように微動だにせず、その後ろ姿はどこか孤独だ。コーヒーから立ち上る湯気だけがただ、その場にゆらゆらと揺れていた。
《Day1 トーラスモジュール:ラボ》
金髪の少年は、癖毛を揺らしながら鼻歌まじりに自らの秘密基地を確認していた。壁際に寄せられた観察窓付きのサンプル保管庫の数々と、部屋の中央に鎮座する観察・分析用ベンチ、その上に置かれた顕微観察ユニットや再構成分析装置、遠隔操作用アームなど最新機器が整然と並べられたクリーンな部屋だ。隣にはホワイトルームがあり、そちら側は窓越しに遠隔作業が可能な操作機器が設置され、その対面の壁には巨大なモニターが現在地の宇宙風景を映し出している。
ラビは、モジュール内貨物リフトでコアを通して運ばれていたパーソナルケースのロックを解除した。中は見た目を気にせず梱包されたいくつかの部品、スケッチブック、鉛筆、古びた白磁のティーカップなど、雑多なラインナップが敷き詰められている。梱包材を剥いては床に放りながら、ベンチの上に地球から持ち込んだ物たちを並べていく。最後に梱包材をまとめてパーソナルケースに詰め込むと、それを隅に追いやった。
「さあてと、準備開始──と、その前に…」
ラビは宇宙空間を写すモニターを操作し、通信を繋げる。相手はレムだ。
「おーい、レム!聞こえる?」
『はい、ラビ、どうしましたか?』
一拍おいて、画面上にレムのボディが映される。実際のコックピットからの映像ではない。レムの話に合わせてレンズやボディが動く、通信用映像だ。
「ちょっと頼みたいことがあるんだけどさ。協力してくれない?」
『依頼内容によりますよ』
「特別任務。予定には入ってないんだけど、通常航行中、スペースデブリとか小さい隕石とかを拾って僕に送ってほしいんだ」
『…効率的な航行計画に影響が出る恐れがあります』
「ずっとじゃないから!タイミング見計らって短時間で終わるように頼むし。OSX-9に着く前に、ホワイトルームとかラボの機器とか、触って練習しておきたいんだ。効率的な採取作業と研究作業が出来るようにっていう、訓練だよ訓練。君、ドローン搭載してるって言ってたよね?」
『事前の作業確認、という事ですね。了解、ラビ。それでは採取時間は一度につき10分~15分以内に収めてください。回収したサンプルは中央コアの回収ポッドに移送し、そこからホワイトルームへと転送します』
「意外と話分かるね、レム。じゃあよろしく!いろいろ準備できたらまた連絡するよ」
『お待ちしています』
通信を終えると、モニター画面が再度宇宙空間に戻る。ラビは占めたとばかりににやりと笑い、満足そうにベンチに広げた私物たちを片付けに入った。スケッチとペンはベンチに備えられた引き出しの一番上に、部品は一番下に。そのほか、移動できる機器は自分の使いやすいようにどんどん動かしていく。直線に沿って美しく設置されていた機器たちは、あっという間に生活感に溢れた配置に並べられた。
「じゃあいろいろやる前に、一旦カフェテリアでも見に行こうかなぁ」
ラビはそう呟くと、持ち込みのカップを手に取ってラボを出る。後には嵐が去ったような光景だけが残された。見事な散らかり具合だが、彼にとっては整然とした研究基地が、これでひとまず完成したようだった。
《Day1 中央コア:エンジンコアルーム》
天井の高い真四角のコア内は、まるでハイラントのアンダーデッキ、セキュリティハブ内のような静けさがある。ダークグレーの壁面に囲まれて浮かぶように二つのエンジンコアが繋がれ、一定の低い機械音を放っている。モニター画面や、通路のルートを示すインディケーターラインが、色温が高く設定された室内灯の中で機械的に光り、入室者を迎えた。
「インディケーターラインの識別ですが、赤が核融合炉系統、青がイオン・プラズマエンジン炉系統のものです。白熱色のラインは総合的な機器に通じています。チェックやメンテナンス等で対象の機器に向かう際のガイドラインとなりますので、ご確認を」
入室したのは二人。屈強な男性と、それとは正反対の眼鏡をかけた青年だ。タブレットを操作しつつ、青年──ケルビンが、隣の隊長──ヴィクターを案内しているようだ。
「…圧巻だな」
「ええ。ここはハイラントの叡智が詰められた場所です。作業効率を考慮し、この場だけは常に重力装置が働いています。アランやハンス、エヴァにはすでに一通りの確認はしていただきました。ヴィクター隊長も、不測の事態が起きた場合に機器に触れる可能性があるかもしれませんので、念のため目を通しておいてください。操作補助はレムがしてくれるでしょう」
エンジンコアを見上げていたヴィクターの瞼がほんの少しだけ下げられるのを、ケルビンは横目で見た。そして、ラインに沿って歩み始めたヴィクターの背を、半歩下がって着いていく。まるで何かの儀式であるかのようにゆっくりと確認作業を進めるヴィクターを、レンズ越しに観察した。
「ハイラントの叡智、か」
「…何か?」
「いや」
室内を一通り確認し終え、ヴィクターが誰に聞かせるでもなく呟いたのを、ケルビンがすかさず拾う。しかし、胸の内を測ることは叶わなかった。
もとより、この歴戦の軍人が寡黙であることをケルビンは知っていた。医療行為を通して面識があるのだ。それはハンスも同様で、こちらも寡黙ではあったが、ちょっとした表情や仕草で感情が読みやすかった。
ヴィクターは、自分のような人間と少なからず距離を保っている部分があり、年齢差も相まって感情が読みづらい。注意深く観察したいところだが、そうするとそれまで察してさらに距離を離される恐れすらある。
「──もし体調に違和感があれば言ってください。遠心力以外の重力装置に関しては、違和感が体調不良に繋がる可能性もありますから」
「大丈夫だ、問題ない」
まるでケルビンの言葉尻にかぶせるようにして、ヴィクターは即答した。ケルビンは、彼の視界に入らないよう、密かに小さく息を吐く。
「では、設備確認がお済みでしたらこれ以降は順応期間となりますので、まずは休憩なさってはいかがでしょうか?」
「ああ」
タブレットを小脇に抱えて眼鏡のブリッジを持ち上げるケルビンを振り返り、ヴィクターは短い返事をひとつだけ返す。そしてエンジンルームを退出し、そのままドッキングハブの方向へと消えていく。その背が見えなくなるまで、ケルビンは黙ってその場で見送った。
《Day2 トーラスモジュール:コモンラウンジ・カフェテリア》
カフェテリアの窓際に設置されたソファシートとローテーブル。そこに腰掛け、アランはハーブティ片手に休憩を取っていた。現在通常航行はオートパイロットとなっている。今朝目覚めてから一度コックピットで進路の確認を済ませていた。つい先程のことだ。
窓の外は相変わらずの宇宙空間だが、船内や端末には地球時間が設定されている。外は暗くとも、現在の時刻は午前中だ。
アランは端末の画面に指を滑らせながら、フォトファイルを眺めていた。ハイラント内に限られてはいるが、食事や各施設、防護壁内の外の風景など、写真は様々だ。過去を遡っていくと、少年の後ろ姿や、少女が笑ってピースサインをしている姿などがちらほらと写り出す。それを見ると、アランの口元は綻び、小さく笑いすら漏れた。
ふと、カフェテリアの扉が開く。アランがファイルを閉じてそちらを振り向くと、エヴァが入室したところだった。彼女はソファシートのアランを一瞥すると、「おはよう」と短く挨拶をしてキッチンへと向かった。
「おはようエヴァ、早いね」
「あなたほどじゃないわ」
応答しながら、てきぱきと飲み物を用意し、冷蔵庫を開いて食事を取り出すエヴァの姿を、なんとなしにアランは目で追った。エヴァが準備の過程で顔を上げた時、その視線が邂逅する。エヴァはそこに余韻を残しながらも視線を外し、用意したものを持ってアランの向かいに座った。
「あなた、朝食は?」
「さっきエナジーブロックを少々」
「めずらしいわね」
座るなり、まるで時間制限のある義務かのようにエヴァが食事を始めた。ベーグルにフレーバーペーストを挟んだ簡易的な物とコーヒー。ハイラントのノートリウムで用意された、ワンプレートにバランスよく配置された食事とは違って、彼女自身が効率を考えて用意したものだ。
「まあ、ここでの食事は限られてるだろう?」
「それにしたって、ブロックって」
「──君に何か言う権利はあるかな?」
アランがエヴァの手中にあるベーグルを指差して笑う。エヴァはそれを目で追ってから、諦めたようにため息を吐いた。
「これから作業かい?」
「ええ。軽くトレーニングを挟んで、レムについてもらってエンジンルームの再確認をするつもり」
「相変わらず真面目だな」
エヴァは早々に皿を空にすると、ようやくコーヒーを口に運んだ。しばしの沈黙が訪れる。カップの中身を半分ほど減らしたエヴァが、ふと窓の外を見やった。
「…昨日は眠れた?」
そのままぽつりと尋ねられ、アランは背もたれに寄りかかる。
「ああ、案外快適で驚いたよ。ハイラントとそう変わらない生活が、こんな宇宙空間で送れるなんてね」
「──そう」
笑って答えるアランに視線を向けて、エヴァはひとつうなずいた。それ以上何も言わないので、会話が途切れる。アランは腿の上に置いていた手の指先を何となしにさすりながら、エヴァを見た。
「君は、眠れてるかい?」
「…当然」
感情の乗らないような瞳を向けられ、アランは少し目を細める。
「たまにはハーブティでも飲むといい。ケルビンに”コーヒーの消費量が激しい”って言われる前にね。メディカルチェックも控えてることだし」
優しく語りかけるアランを、エヴァはどこか遠い目で見ていた。そして、視線を落とす。空になったカップの底に蟠っているわずかな液体を誤魔化すように、手元を揺らして馴染ませる。
「そうするわ」
そう言ってぎこちなく小さく笑い、エヴァは席を立った。空になった食器をキッチンの食洗機に入れると、またアランに視線を向ける。去り際に「じゃあまた」と言い残して扉の向こうに消えていくエヴァ。そんな彼女を軽く手を振って見送ったアランは、再び端末のファイルを立ち上げ、冷め切ったハーブティを口に運んだ。
《Day2 トーラスモジュール:ラウンジ》
カフェテリアの向かいにあるラウンジで、ハンスはソファーシートに浅く座り、半ば寝そべるように寄りかかって目を閉じていた。両耳につけたイヤホンからは、感性調整セクターで作曲されたテンポの速い曲が流れている。腹の上で組んだ指先が、時々リズムを刻むように軽く動く。傍の座面に置かれた端末画面には、再生中の音楽のジャケットと、再生時間が表示されている。
すると突然、音が遮断されてハンスは目を見開いた。気配を感じた方に視線を移せば、そこにはハンスの端末を手に取って悪戯っぽく笑うラビの姿があった。
「おい何すんだよ」
「やあっと人が居たよ!ねえ、この船六人しか乗ってないのに広すぎなんじゃない?全っ然人と会わないんだけど、みんなどこで何してるの?」
ハンスの訴えを完全に無視したラビが、奪っていたハンスの端末を元あった場所にぽいと投げ、向かいに勢いよく座った。盛大に顔を顰めながらも、ハンスはイヤホンを外してホルダーに収める。一旦姿勢を元に戻して首に手を当て数回捻ってほぐし、今度は普通に寄りかかった。
「お前が気まぐれに行動しなきゃ誰かしらと時間が被ることだってあるだろ」
「ああ、起床とか食事のタイミング?そういえば推奨時間とかケルビンから貰ってたけど、ハンスってそれ、ちゃんと守ってるの?」
「定期的にコックピット行くからな。──ていうか、何の用だよ?」
「え?」
「用があるから人探してたんじゃないのかよ?」
腕を組んで訝しむハンスに、ラビは首を傾げる。ソファの上に胡座をかいて、すっかりリラックスモードである。
「別に用事なんて無いよ。人がいないなぁと思って軽く探してたらここでハンスを見つけたから、それで一旦目的達成ってかんじ」
まるでそれが当然というようにラビがにやりと笑うので、ハンスは盛大に溜息を吐いた。
「地球時間15:07、ハンス・ローワンとラウンジで遭遇。ソファで半分寝そべって音楽鑑賞をしている。聴いてる音楽は感覚調整(SEN)セクターで作られた…ロック系の音楽だね。DEFセクターの戦闘員に対して効果が期待されるものの一つ。リラックス目的というよりは、鼓舞するための音楽だ。観察結果はこんなところかな?」
饒舌に自分の様子を語られたハンスは、居心地悪そうに居住いを正した。そして徐にホルダーに戻していたイヤホンを取り出して耳に装着し、端末を手に取って、まさに帰り支度を始める。
「あれ、どっか行くの?」
「部屋だよ部屋。お前がここにいたら気が休まらねえだろ」
そう言って立ち上がり、背中越しに一つ手を振ってラウンジを去っていく。ラビはつまらなそうに肩を竦め、今度はソファに横になった。直線的な造りが多い宇宙船内部で、カフェテリアとラウンジだけは角が少なく、滑らかな印象がある。そんな天井を眺めながら、自分の端末を取り出す。操作して音楽ファイルを開くと、そこに映されたラインナップは、主に周波数が混じったものだ。周波数のみのものすらある。それらが、一時間、二時間、三時間…と再生時間ごとに分類されていた。
「今度、周波数が脳に与える影響を解きながら、こういう音楽を勧めてみよう。どんな反応するだろう?」
ラビは意地の悪い笑みを浮かべながら、そのまま静かに目を閉じた。
《Day2 トーラスモジュール:回廊-メディカルルーム》
ハンスはラウンジを出て、移動用ポッドには乗らずに回廊に出るリフトを使用した。頭上のハッチが開き、歩行用の回廊に出たところで床が戻る。片方の壁には窓が整然と配置され、そこから中央コアや、トーラスを繋ぐ支柱が見える。窓の外はいつも夜の景色だ。
廊下を進み、自室のあるモジュールへと向かう。六人分の部屋とトレーニングルームが入っているハビタットモジュールは、数ある中でも大きい方だ。部屋はベッドやPC端末とその周辺機器、小型の冷蔵庫、私物を配置してもスペースに余裕がある間取りの上、扉で区切った先にはシャワーブースとトイレが完備されている。ほとんどハイラントで一人暮らしをするのと変わらない環境なのだ。それが廊下を挟んで三部屋ずつ、計六部屋分並び、モジュールの端には二部屋分のトレーニングルームまである。ハビタットはそれだけ大きいのだ。
大小様々ではあるが、トーラスにはそれぞれの用途ごとにこのようなモジュールが輪を描いているため、廊下を歩いて進むとなると、そこそこの距離になる。幸いカフェテリアやラウンジのあるコモンラウンジとハビタットは隣同士なので、ハンスの足であれば1分もかからず移動できるが、ハンスは殊更ゆっくりと足を進めた。廊下はトーラスモジュールの床ほど重力が効いていないので、その足取りはどこか軽く、且つ慎重だ。
ハビタットモジュールのハッチに着くと、すぐそばの壁に設置されたパネルを操作しようと手をかけた。ハッチの枠とパネルはインディケーターラインで結ばれており、開閉の合図はライトの色と小さな警告音で知らされる。赤が閉じた状態で、パネルを操作すれば開いているうちはそれがグリーンになる。蓋を開いてパネルを押そうとした時、その先のハッチの音が鳴り、グリーンのライトと共にリフトで上がってくる人物がいた。針金でも仕込んでいるのかと思うほど、背筋の整った男──ケルビンだ。ハンスはそちらを一瞥したが、声をかけるでもなくパネルを押そうとした。しかしその前に、ハンスに気づいたケルビンの方から声がかかった。
「少しお時間をいいですか、ハンス?」
声の届く位置まで小走りにハンスの元に近づき、呼び止める。ハンスは眉根を寄せて振り向いた。
「あんたはちゃんと用があるんだろうな」
「何の話です?用がなければ呼び止めません」
ごもっともな返事に、ハンスは難しい表情を浮かべる。ケルビンの瞳に若干の戸惑いが表れた。
「──ここでいいのか?」
「ええ、…いえ、そうですね──メディカルルームにお越しいただいても?時間はそれほどかかりません」
メディカルルームはハビタットに隣接しているうちのひとつだ。先程ケルビンが出てきたハッチがそれだった。
「まあ、少しなら」
「ありがとうございます、では」
了承が得られたと分かった途端にケルビンが踵を返すので、ハンスはそれに倣った。メディカルモジュールのハッチまで移動すると、二人で並んで下りていく。リフトはせいぜい二人が並べるほどの広さしか無いのだが、メディカルモジュールだけは搬送時のことを考慮して少し広めだ。二人の間には、何となく人一人分の間隔が空いていた。
リフトから降りれば、そこはもうすでにメディカルルームだ。ガラス壁に隔たれた形でステイシスセルが並ぶステイシスルームが隣接している。ハンスは思わずガラス越しに、整然と並べられたステイシスセルに目をやった。純白の空間に純白のカプセルが静かに存在している。左右に三機ずつ、中央の通路部分を頭に、足を壁面に向ける形で置かれているためセルの側面しか見えないが、まるで大きな揺り籠のようだ。
「ハンス?」
背後から声がかかり、ハンスは反射的に振り向いた。一番奥はメディカルスペースだが、その手前のカウンセリングスペースの椅子にケルビンがすでに腰掛けていた。
「何か気になることでも?」
ハンスがリフトを降りたきり、ステイシスルームに釘付けになっていたのを見てケルビンは目を細める。ハンスは視線を逸らして短く「いや」とだけ短く答えた。
「…まあ、お座りください」
ケルビンのそばに置かれた椅子を促され、素直に従う。ケルビンの背後のデスクは、無重力状態になることが考慮されているのか、固定された端末機器以外の無駄なものが置かれていない。唯一ハンスの目を惹いたのは、少し大きめの葉が何枚か生えている小さなプラントポットだ。全てが白い部屋の中、デスクの片隅で小さく主張するグリーンは一際目につくものだった。
「用というのは、ヴィクター隊長のことです」
再び別のものに意識を奪われていたハンスに、冷静な声がかかる。引き戻されるように視線を移すと、ケルビンはひたとハンスを見つめていた。
「隊長の?」
「ええ。まだ昨日の今日ではありますが、私の所見では少し…様子がおかしかったように見えたものですから。同じ部隊におられた貴方にお話をお伺いしたかったのです」
「…と、言われてもな」
「部隊にいた頃から、あまり交流が無かったと?」
「ああ。喋る機会っつってもほぼ仕事関連の指示とか報告ぐらいだからな」
「そうですか。では過去にあなたから見て、何か印象に残ることはありませんでしたか?」
「──いや…ていうか、様子がおかしかったって例えば?」
「体の不調を気にかけると必ず拒絶が入ります。あとは──独り言のような、呟きをたまに溢す。感情の抑制が追いつかずに漏れ出てしまった、というようなものでしょうか。私は何か、不調を隠しているように思えたのですが、あの方は以前からそういう傾向があるのですか?」
ハンスは少し考えたが、答えはすぐだった。
「そもそも、隊長のそういう部分を見たことがない。無口なのもそうだが、隊長の不調を見たことがないし、そういう予兆みたいなのを感じたこともない」
「なるほど。ではあなた自身が先程私が申し上げたヴィクター隊長の様子を見たとしたら、彼の様子が気掛かりになりますか?」
「まあ…な。ん?とは思うかもな」
「承知しました。──現状足取りもしっかりしていますし、健康面に問題はなさそうですから、やはり時間をかけるべきなのでしょうね」
この時間を切り上げようとするケルビンに、ハンスは面食らう。話が長そうでいて、必要最低限で終わらせるタイプのようだ。
「じゃあ、戻るけど」
「ええ、お時間いただきありがとうございました」
ケルビンはそう言うと立ち上がり、リフトへ向かうと立ち止まり、見送りの体勢に入る。ハンスは軽く戸惑いながらもそれに従い、リフトへと乗り込んだ。
「あなたから見て、何か気になることがありましたらお知らせください。医療的観点からも心身への負担を見逃したくはないのですが、私個人ではままならないこともありますので。あなたのご意見も参考にさせてください」
リフトを上昇させる前に、ケルビンは真っ直ぐにハンスを見据えてそう言った。「わかった」と短く返事をすれば、リフトはゆっくりと上がっていく。再び回廊に出たところで、ハンスは大きく深呼吸をした。
「なんか、改めて…いろんな奴がいるよな…」
そう呟きを残し、もともと目的地だったハビタットへと戻って行く。その時ハンスは脳の片隅に、防護外壁でのことを思い出していた。突然アランが作戦参加を希望していると自分に伝え、協力を要請するように話を持ちかけてきた、ヴィクターの横顔を──。
《Day2 トーラスモジュール:ハビタットRoom1》
壁に沿う形で固定されたベッドに一人の男が眠っている。かろうじて足を伸ばして眠れるはずだが、壁を向き、若干体を屈ませている。室内灯は点けられたまで、白色電灯が彼のわずかに苦悶を浮かべた表情を映し出している。部屋はもともと設置されていた機器以外はほとんど何もない。デスク付近にある椅子の背もたれに服が少々掛けられているのみで、部屋の奥に置かれたパーソナルケースは閉じられたままだ。デスク端末のモニターはスリープモードで、画面の端には何枚かポストイットが貼られており、そこには設備関連のメモがあった。各設備名が箇条書きにされ、そのいくつかにチェックマークが記されている。
このRoom1は隊長であるヴィクターの私室だ。枕元に置かれた個人端末の時刻表示は午前三時四五分──深夜である。ヴィクターは目を閉じていたが、その瞼や眉間に時折力が入っているようだった。どうやら夢を見ており、それが悪夢の類であると伺える。彼が脳内で見ている光景は、戦いの記憶だ。ゲリラ戦や防衛戦、親しげな若い隊員、庇われて地面に倒れ込む自分の視界と、その若い隊員の何も映さない開いた瞳──スライドのように断片的な絵がループする。やがて若い女性が、生気の無い目を向けて口元だけを歪ませて笑う姿のスライドが足される。そして、何も知らないような幼い子供が純粋な目で見上げてくる姿も。
そして場面は切り替わり、走馬灯のように景色が流れる。すべては戦いの記憶だ。やがて、めまぐるしく流れる映像がピタリと止まると、ヴィクターは死体の転がる場所で、一人の若者を見下ろしていた。満身創痍で座り込み、諦めたように項垂れる頭部に銃を突きつけ、単なる手続きであるかのようにその引き金を引く。事切れてうつ伏せに倒れ込む体を足で転がし、仰向けにしたところで、その手に握っているものに気付く。指を剥がして手に取ったのは、一枚のポラロイド写真だった。持ち主の青年の隣で幼い少女が笑っている。それを、ヴィクターは空虚な目で見つめていた。
シーンは変わり、死体を避けながら周囲を確認している場面となる。すると、建物の隙間からこちらを覗き込む少年の姿を発見する。思考が停止したような少年の元へ歩み寄り「お前だけか」と尋ねれば、少年はヴィクターをとある場所へと導いた。
それは、廃旅客機のコックピットだった。中では、年端もいかない少年少女が身を寄せ合ってこちらを見ていた。何も知らない六つの瞳が、やがてヴィクターの脳内を支配する。不安げな視線は次第に空虚なものとなり、ただ、ヴィクターを静かに見据えるだけとなった。
突然、周囲の景色が暗闇に変わる。浮かび上がるように立っている少年少女は、まるで人形のような目でこちらを見ている。ヴィクターの足はその場に縫い付けられたように動かなくなり、囚われたように視線を外せなくなる。ただ心だけは、解放されたがっていた。
映像がブラックアウトし、ヴィクターは飛び起きた。暗闇の世界が、白色電灯に照らされた部屋に戻ってくる。思い出したように忙しなく息をする。眠りながら、呼吸を忘れていたのかもしれなかった。半身を起こしたまま、額に手を当てて思考を整理する。枕元の端末を探るように手に取り、画面を確認した。時刻は午前五時を過ぎたところであった。
ヴィクターは大きく息を吐くと、緩慢な動作で立ち上がった。そのまま部屋の扉へと思い足取りで向かう。ヴィクターが退出し、閉じられた扉の向こうから水音が聞こえ始める。その音はしばしの間、一定の音だけを奏でていた。
《Day3 トーラスモジュール:カフェテリア》
トレーニングを終えて自室でシャワーを済ませた後、昼食でカフェテリアを訪れたハンスは、カウンターで食事を摂っているエヴァと遭遇した。「おう」と声をかけるハンスに、エヴァは視線を合わせて手振りで答える。そのままハンスはキッチンの棚からランチプレートを取り出し、フリーズドライのビーフストロガノフや野菜ペースト、缶詰のパンなどを用意していく。それほどきつくない、わずかな食事の香りがその場に漂う。最後にフルーツドリンクをカップに入れ、それをカウンターに移し、エヴァとはスツールひとつ分空けた席に座った。
エヴァはペーストを塗ったパンに、チャウダー、アーモンド、コーヒーといったラインナップのようだ。二人の食事は沈黙から始まったが、口火をきったのはハンスだった。
「お前さ、後悔してる?」
ナッツを口に運んでいたエヴァは、それをコーヒーで流し込むと、ハンスに視線を移した。
「してない。あそこに居るより今の方がずっとマシ」
「違う、アランを止められなかったことだよ」
冷静に返したエヴァだったが、ハンスの次の言葉にピタリと動きが止まる。そして、ゆっくりとカップをカウンターに置き、その中身をじっと見つめる。ハンスは急かすことなく、食事を進めることで言葉を待った。
ほどなくして、再起動したかのようにエヴァがハンスを見やった。その視線を受け止め、目で先を促す。エヴァはひとつ息を吐くと、カウンターに頬杖をついた。
「正直複雑よ。彼がようやく好きなことに打ち込めてる──それは、いいことだと思う。けど、身体のこともあるし」
「…持病はあるが、別に病弱ってわけじゃなかったろ。激しい運動が出来ないだけで」
「まあ、そうだけど」
「発射のGだって耐えた。ミッション中は激しい運動するわけでもない。そりゃリスクはあるが…それは俺らだって条件はほとんど同じだろ?それに、アイツは自分の事は一番分かってるはずだ」
エヴァはちらりとハンスを一瞥したが、すぐにコーヒーカップに視線を落とした。そんな彼女を横目で見やって、ハンスは小さく舌打ちをする。
「お前さ、もう割り切れよ。ハッキリ物は言わねえし、引っかかるような態度取られると目に付くだろ。──前も言ったけど、やっぱ変わったよ、お前」
「私がいつ引っかかるような態度取ったっていうのよ?あんたの目、節穴なんじゃないの?」
「アランの奴だって気付いてる。お前、俺のこと反抗期だなんだってあいつに言ったらしいが、お前こそ反抗期だろ」
いつの間にか二人とも食事の手が止まり、自然と語気を強めていく。お互いカウンターに片肘をついて向かい合い、言葉を発するごとに眉間に皺が寄せられる。
「兄さん兄さんって後ろに隠れてたのに、急に”アラン”なんて呼び捨て始めて距離とったあんたが、反抗期じゃなかったらなんだっていうの?私は違う」
「俺は一人で立てるようになっただけで、一人になろうとはしてない。お前と違ってな」
再び、カフェテリアが静寂に包まれる。同時に視線が外され、二人は各々食事を再開した。食器が鳴らす小さな音だけが響き、それが静けさを強調する。気づまりな空気を、扉の開閉音が切り裂いた。現れたのはラビだ。リズムを刻むように勢いよく一歩立ち入るが、傍のカウンターの微妙な空気に立ち止まる。ハンスとエヴァも突然の入室者に驚き、しばし動きを止めた。ラビは始め大きく目を瞠っていたが、すぐにそれを細めた。
「何この空気」
間の抜けた声でそう言うと、ラビはキッチンの冷蔵庫を漁り始めた。ランチプレートにチョコレートやアーモンド、ソフトクッキーが盛られていく。言い合いをしていた二人は、その異様なラインナップが出来上がって行くのを茫然と見守っていた。
「なんかさあ、君らって本当、ハイラントの人間って感じだよね。無駄なことは言いませんししません、みたいなさ」
言いながら、カップにココアが注がれる。カップはラビの持ち込みで、古びた白磁にコバルトブルーで繊細な絵が描かれた陶器だ。出来上がったものを手に取ると、ラビはハンスとエヴァの間に空けられていたスツールに座った。
「そこに座るのかよ」
「え、ダメなの?」
早速クッキーをかじり始めているラビが、ハンスを振り返って首を傾げる。ハンスは前日のことを思い出し、諦めたように深くため息をついた。対してエヴァの眉がぴくりと動く。
すると、ガタリ、とスツールを引く音がした。エヴァが席を立ち、足早にキッチンへと向かい、食洗機に使用済みの食器を入れていく。今度はハンスとエヴァの二人がそれを見守っていると、エヴァは「お先に」と一言残して退出した。
「行っちゃったよ」
クッキーをココアで喉に流しながらそれを見送ったラビがそう言った。ハンスは気を取り直すかのように「そうだな」と答えて食事を再開する。
「あの人ってさ、言っちゃ何だけどケルビンより機械的だよね。僕の分析だと”あえてそうしてる”って感じするけど、ハンス何か知ってる?」
「──知るかよ」
「ふうーん、なんか複雑ってこと?別に詮索する気はないけど」
「複雑なのはアイツだけだ」
「まあそんな感じだよねぇ。ハンスはポーカーフェイスに見えて実は分かりやすいタイプだし」
「ガキのお前に分かりやすいなんて言われたかないな」
「ほら、そうやってちゃんと反応が返ってくるから分かりやすいんだよね」
ぐ、とハンスの言葉が詰まり、フォークを握る手に力が篭る。にやにやとラビに見上げられ、小さく舌打ちをした。
「逆にああいうエヴァみたいな手応えないタイプはさ、”状況を作り出す”ことが感情を吐露するきっかけになる場合が多いよね。自分の中で絶対に揺るがない、何か柱みたいなものがあるんだよ。言葉で多少揺らいでも、絶対に折れないやつ。そういう人はさ、その柱が通ってる天井と床を壊さないと本性が出てこないってわけ」
「お前まさか話聞いてたか?」
「内容までは聞こえてないよ。何か言い争ってるのかなぁ、ぐらい」
フン、と諦めたように息を吐き、食事を終えたハンスは席を立ち、そのまま片付けのためにキッチンへと向かう。食洗機へ食器を入れるハンスに、ラビは続けた。
「もしハンスがエヴァに何か聞きたいなら、不可能に近いと思うよ。もしかしたらしばらく放っておくのが一番いいのかも」
作業を終えたハンスは、一度キッチンに両手をついてラビを見据えた。
「この限られた空間で、完全放置ってのは無理な話だろ」
それだけ言い残し、ハンスもカフェテリアを出て行く。そんなハンスを見送りながら、ラビはクッキーをもう一枚口に運んだ。
「アラン・ハンス・エヴァ──本当、面白い組み合わせだよね」
《Day3 トーラスモジュール:トレーニングルーム》
Tシャツにジャージとラフな姿のアランが自室から出て、ハビタットの奥のトレーニングルームへ向かう。扉の先にはマルチウェイトリグでバーベルを持ち上げ、重量トレーニングを行うヴィクターの姿があった。ヴィクターはアランの入室に気づくが少し顎を持ち上げて確認したのみで、トレーニングの手は止めない。
「どうも、ヴィクター隊長」
アランは一言挨拶を残し、エルゴメーターに跨がる。ハンドルの上部に設置されたモニターを操作して負荷と時間を設定すると、次に画面の設定を選ぶ。トレーニングが開始され、アランがペダルを漕ぎ始めると、画面は青空の下、草原の中央に真っ直ぐ伸びる土の道に変化する。草原を走るイメージスクリーンだ。スピーカーから風の音もわずかに聞こえてくる。画面下の表示メーターには、バイタルや残り時間、距離、カロリーなどの数値が映し出されている。ヴィクターの重量志向とは違い、アランは調整用・必要最低限のメニューのようだ。
アランがトレーニングを進めていると、途中でヴィクターがバーベルをラックに戻し、体を起こした。そばに掛けておいたタオルでわずかな汗を拭いながら、アランに視線を移す。画面の奥の視線に気づいたアランはひょいとそちらに視線を合わせると、苦笑した。
「すみません、音、気になりました?」
「──いや、いい」
アランが走りながら画面操作の手を伸ばそうとするのを、ヴィクターは短く止めた。どうやら単なるインターバルのようだ。アランは「そうですか?」と、言われた通り手を止めた。ヴィクターはベンチに座ったまま、端末を取り出して何やら操作し始める。アランはそんな彼を視界の端で気にしつつも、目線を草原の画面に戻した。
しばらく、真空の宇宙空間に浮かぶ人工物の一角とは思えないほど、穏やかな自然の音が室内を満たす。エルゴメーターの機械音が、むしろ不釣り合いだと錯覚するほどである。しかしその静けさに気まずさを感じたのか、アランがヴィクターに声を掛けた。
「トレーニング終了ですか?」
声をかけられると思っていなかったのか、ヴィクターが少し眉を潜めながらアランを見て「ああ」とだけ返事をする。再び端末に集中し始めるヴィクターに、アランは続けた。
「ここって、対人訓練スペースもありますけど、正直使うのは隊長とハンスぐらいですよね?─どんな訓練をするんです?」
再び、ヴィクターが画面からアランへと視線を移す。今度は無表情ながら、どこか穏やかな雰囲気だった。
「──単なる体術訓練だ。掃討作戦ではあまり出番は無いが、接近戦に強い方が戦闘員としては優秀だからな。ナイフの訓練もする」
「へえ、そうなんですね。…ハンスはどうです?」
「まあパワーに欠けるが、速さとセンスはそこそこだな」
「技巧派ってことでしょうか?想像つかないな」
「自分をよく理解してる。力押しが無理なら別角度からという応用力があるから簡単には腐らない。それがあいつの強みではあるな」
「力押しが無理なら──ね」
「お前より随分現実志向だ」
ヴィクターはそう言うと、また端末の操作に戻る。アランは苦笑だけ返すだけしてペダルを漕ぎながら、気づけば視線が画面を超えて空間の一点に定まっていた。思考が何処かへ置き去りにされたまま、ただ脚だけが動いているようだった。
画面の中のような広大な草原を、アランは見たことがなかった。自分が幼少期に過ごしたコミュニティは空港跡地で、周囲は防衛線に囲まれていた。広大な景色のはずの滑走路も、廃旅客機やその残骸が点々として、人工物の間を縫うようにして草木が覗くだけだった。
敷地の外へ出たことはない。親からは、「外は危険だ」と散々言われてきたし、身体のことを考えると、外に興味は持っても「出よう」とまで思えるほどの行動力は持てなかった。ただひたすら年下の弟や幼馴染を連れて世話をしながら、望みのない空想を気休めにするしかなかったのだ。──あの、秘密基地の中で。
ハンスは当時、極端に内向的な子供だった。勝気なエヴァに揶揄われてもほとんど言い返さずアランの背に隠れていたので、アランがエヴァを優しく諫めることが多かった。故郷が滅び、ハイラントへ移住し、やっと自分に出来ることと出会えたアランが仕事に打ち込みながら「あの時の望み」を叶える手立てを探っているうちに、ハンスは成長していた。「兄さん」から「兄貴」、そこから「アラン」と呼び名を変えるごとに、知らない人間になっていくような寂しさすら感じた。
エヴァも同じだ。あんなに感情豊かでムードメーカーだった少女が、頑なに心を閉じるようになった。こちらを気にかける様子はある。だが、記憶の中で無邪気に笑う彼女はもういない。二人ともいつの間にか胸の内に何かを抱え、それを自分に開示せずとも自らの足で立って生きている。それはアランにとって、誇りに思うと同時に寂寥の種であった。空を求めるようになったのが”夢”という原動力からなのか焦りからなのか、アランは次第にわからなくなっていた。
「おい」
突然ヴィクターの声が耳に入り、アランは弾かれたようにそちらに目を向けた。いつの間にかヴィクターはトレーニングルームを退出するところだったようだ。慌てたように笑い、「何です?」と返す。するとヴィクターは小さく息を一つ吐いた。
「──俺はお前を、愚かだとは思わん」
それだけ言い残し、ヴィクターはトレーニングルームを去って行く。アランはその言葉を咀嚼するのに時間を要した。なぜ突然そのようなことを言われたのか不可解であると同時に、自分の思考がトリップしていたのを気にしたのかもしれない、と思い至る。アランには、この作戦に志願するためヴィクターに直談判するという強行作戦に出た過去がある。エシュロンの判断は”保留”だった。それをヴィクターは”許可”にしてくれた。どういうトリックを使ったのかは不明だが、自分の望みをかなえてくれたのだ。
「これが昔からの”夢”だったはずだけど、何で望んだのかは今でも分からない。それでも愚かじゃないって言えますかね…」
アランの呟きが、風や草の音とともにしばし漂い、やがて霧散した。
《Day3 トーラスモジュール:メディカルルーム》
無機質な白で統一されたメディカルルーム。そこでケルビンは一人、デスクトップモニターに向かっていた。キーボードの脇にあるタッチパッドを指先で軽く叩くように操作して、画面の中のウィンドウを行き来する。レムから送られた船内設備の作動状況のログチェックを終え、次にキーボードをタイピングしてクルーへ所感をまとめる。これはあくまでも”ケルビンから見たクルーの所感”であり、カウンセラーとしてのレポートとは別のようだ。しかし彼の職業上、その内容は端的且つ業務的である。ポン、と軽い電子音が鳴り、次々に脳内の記録を画面上にまとめていたケルビンは、タッチパッドを操作し、即座に新たなウィンドウを開く。新着通信の通知だった。
送信主はエシュロン──彼の直属の上司だ。しかし、その姿をケルビンは見たことが無い。ケルビンはハイラントで生まれ育った生粋の”ハイラント人”だ。ハイラントの外輪防護壁の外には出たことがなく、デジタル上の情報しか知り得ない。だがそんな彼でもエシュロンの正体は把握していない。
「──不穏因子への警戒と対処、か」
画面の履歴から見ても、ケルビンはエヴォリスに来てから何度かエシュロンと通信を交わしていた。そこで必ず最後に、エシュロンから念を押すように指示されるのは”不穏因子への警戒と対処”だ。タッチパッドの指をゆっくりとなぞると、同様に画面上のカーソルが緩やかにその一文をなぞる。通信画面が彼の眼鏡を通して、その紫の瞳にじりじりと反射していた。
ケルビンには”姓”が無い。それは彼が遺伝子操作で生まれた『計画的出生者』だからだ。優れた遺伝子の組み合わせによって生まれたケルビンは、エシュロンが生み出した最高傑作とも呼ばれる存在だった。ハイラントの住人は、ほとんどが彼と同じような計画的出生者だ。まるで実験のように掛け合わされた遺伝子の細胞が成長し、作られた存在。故にケルビンと同様に姓を持たない。これを、外の人間は”ハイラント人”と呼んでいるのだ。
しかしそれでも全てが優秀に育つわけでは無い。中でもケルビンは少年時代から類稀な知能であらゆるものを吸収し、知性を披露した。医療分野での課程を十歳になる頃にはすでに習得し、PIランクは最高ランクである4となった。十八歳で医療や薬物生成の他に生態心理学の分野にも手を広げ、最終肩書きは”上級臨床監察医”となった。実験的なアートや音楽などを研究・実践するSENセクターやSTRセクターにも監修として携わり、二十八歳の若さでほとんど全てを管理するような立場にまで上り詰めたのだ。
ケルビンに奢りは無い。見栄や狡猾さも無い。ただ、どこまでも続く新雪を踏み締めて進み、足跡を残すように生きてきた。そして彼はこれからも道をただ残して行くのだ。
「現状、個人的所感では不穏因子の兆候はなし。──しかし、いくら私以外の人間が”外の人間”とはいえ、何故こうも…?」
エシュロンへの報告を終えて通信画面を閉じ、ケルビンは座っていた椅子の背もたれに寄りかかり顎を摘んだ。それでも彼の姿勢はまっすぐ保たれていた。
「しかも、懸念材料を減らして効率を重視するなら、何故このような編成にしたのだろう…」
彼にしては珍しく独りごちる。そして、その疑問に答える者はいない。
ただ見守るように、プラントポットのスパティフィラムがデスクの傍で佇むだけだった。
《メディカルモジュール:ステイシスルーム内》
順応期間は、エヴォリス・クルー共に特に問題なく順調に過ぎた。ケルビンによるメディカルチェックと個人カウンセリングを終え、クルーたちはとうとう人工冬眠に入ることとなる。今後フェリス付近まではエヴォリスのエンジンが核融合炉に接続され、トーラスの回転は止まり、最大加速の無重力期間となる。クルーはそれを人工冬眠でスキップするのだ。
白一色のメディカルルームの一角、ガラス壁の向こう側には、人数分の人工冬眠装置──ステイシスセルが並んでいる。普段は閉じられている蓋は開いた状態で、蓋の裏に取り付けられた窓や装置などが、白い空間の中で物々しい雰囲気を醸し出していた。カプセルのようなステイシスセルは、リクライニングシートの可動域を守るような形をしている。よって頭部側だけ少し盛り上がったような形状で、管理用装置とモニターが設けられているため、通路側に向けられて設置されている。全体的に丸みを帯びて、表面は卵の殻を連想させるような、つるりとしつつマットな材質だ。天井からの青白いLEDも反射せず滲んでいる。
クルーたちは出入口のあるカウンセリングスペースからガラスのゲートを抜け、ステイシスルームへと入った。足元の床の感触が、リノリウムからビニール床に変わる。レムかケルビンが設定したであろう、落ち着いたヒーリングミュージックがごく控えめに流されている。何故か神聖さすら感じられる部屋だ。
「なんか揃って同じ恰好してるの新鮮っていうか、懐かしさすら感じるね」
シャトルで地球を出発した時以降はお互いバラバラな格好をしていたためか、ラビがそんなことを言った。アランが小さく笑う。
「それだけここでの生活があまりにも普段通りというか、宇宙にいるってこと以外、普通だったってことだな」
「そうだよね、まだ3日しか経ってないのに、変な心理状況だよ。しかも外はずっと夜で、時間を教えてくれるのは数字のデジタル表示だけだし」
「そして今日からはコレに入って人工冬眠だ。起きるのは…おおよそ一ヶ月後ぐらいか…」
「冬眠中は、”時間と感覚の誤差による精神と身体に起こる影響”について考えてみようかな」
「そんな時間はありませんよ。あなた方は眠りにつき、目が覚めた時にはフェリス付近に到着している、それだけです。そもそも夢の中で何かを考察しようとしても、それは不可能ですよ」
「ねえ、本当にこの人冗談通じないって」
アランとラビがステイシスセルのそばで話していると、ガラス壁付近のメインモニターで作業中だったケルビンから指摘が入る。ラビが口を尖らせつつもどこか楽しげにケルビンを揶揄って、アランが苦笑した。
「で、私はどのセルに入ればいいの?」
半ば呆れた表情でエヴァが腕を組んでいる。ハンスはその傍で少し緊張気味に佇み、ヴィクターはガラス壁に凭れながら腕を組んで黙ってクルーの様子を見守っていた。
「ええ、では、入り口から見て右側手前のセルからアラン、ハンス、ヴィクター隊長、どうぞ。その向かい、左奥からラビ、エヴァ、私という位置で。私は無重力時の緊急事態に備えて制御モニター付近、メインパイロットのアランはその際操縦の可能性があるので入り口付近の配置となっています。レムの危険レベルの判断によっては、緊急時の覚醒人数は最低限とされますので」
「ふうん、まあ場所はどうでもいいけど。僕は一番奥ね、オーケー」
意気揚揚と奥に進むラビにエヴァが倣い、黙って配置につく。エヴァの向かいのセルが自分の入るものだと分かったハンスは、まじまじとセルを観察し始めた。ヴィクターは預けていた背を起こし、その脇を通り過ぎる。通路は入り口から奥に向かって部屋の中央に一本伸びているもののみだ。部屋はさほど広く無いので通路も人が少し避けながらすれ違えるほどの広さしかない。最後に配置についたヴィクターは奥から全体を見渡した。
「じゃあ中に入れ。…お前は様子見で最後か、ケルビン?」
「ええ、念のため皆さんの冬眠レベルが安定したのを確認してから私も装置に入ります」
ヴィクターがクルーに指示すると、ラビ、エヴァ、ハンスが装置の中に入って上体を起こしたまま待機した。尋ねられたケルビンはモニターの前でそのままだ。
「俺が先に寝ちゃって本当に大丈夫なのかい?」
「ええ。ご確認済みと思いますが、核融合エンジンの切り替えタイミングは”全員の冬眠レベルが安定した後”とレムに設定してあります。問題ありません」
アランの質問にケルビンは冷静に答える。
「その、何かこう、自分で操縦してるのもあって、”オートで宇宙を高速航行”って現実を目前にしてどうしてもね。いや、すまない。じゃあお先に失礼するよ、ケルビン」
「ええ、ご安心をアラン」
アランが頬を掻きながら苦笑して横になる。続いてエヴァ、ヴィクターがセルの陰へと姿を消す。ラビは、「じゃあみんなおやすみ!」と一言残してから横になった。最後のハンスは起こしていた上体をひねり、ケルビンに振り返る。
「なあ、その…緊急時に起こされる場合って、俺も?」
「それが妥当と判断した場合は、そうなります」
「そうか…わかった」
そう返すと、ハンスもゆっくりと身を横たえる。冬眠の準備はほぼ整った。それを確認したケルビンは部屋の中央に移動すると、タブレットを片手に眼鏡のブリッジを上げた。
「それでは皆さん、カバーが閉じると体が固定され、低体温誘導のための投薬が行われます。意識はそのままゆっくりと睡眠状態に向かってゆくでしょう。エヴォリスが目標地点付近に到達すると覚醒誘導が開始され、みなさんはその後起床することになります。それでは、また次の地点でお会いしましょう」
それだけ言うとケルビンはメインモニターに戻る。程なくして一斉にステイシスセルの蓋がゆっくり閉じられる。完全に閉じたことを知らせる、軽いスチーム噴射のような機械音を最後に、室内はヒーリングミュージック音のみの静寂の空間となった。
ケルビンは手前からゆっくりと各セルのモニターを操作し、身体の固定や投薬が為されているか確認して行く。モニターに連なる行程に”DONE”の表示が追加されるのを見ながら、セル本体のモニター付近に取り付けられた、リング状のLEDライトを観察する。バイタルサインを示すライトはまるで呼吸のように緩やかに点滅している。これがグリーンであれば中の人間は安全ということだ。
「全員無事全ての行程を通過、バイタルサインに異常なし…」
モニターやバイタルサインを注意深く観察しながら待機していると、次第に意識レベルがスリープ状態に入ったことを知らせる音が鳴り始める。
「ラビ、エヴァ、アラン、ハンス、ヴィクター…。──安定していると思っていたハンスのスリープ状態が遅めだったのは意外だが…緊張によるものだろうか?覚醒後のカウンセリング内容を少し変更するか」
呟きながら自身のタブレットに課程を記録し、全員が問題なくスリープ状態に入ったことを確認すると、ケルビンも自らのセルに身を委ねた。セル内にも設置されたカバーの開閉パネルを押して、冬眠の準備に入る。カバーがゆっくり閉じて行くのを見ながら、ケルビンは眼鏡を外して傍に丁寧に置く。固定装置などに影響のない場所は把握済みだ。
「おやすみケルビン」
完全に蓋が閉じる寸前、レムの声が耳に入る。それを聞きながら、ケルビンはゆっくりと目を閉じた。
ケルビンのステイシスセルが彼のスリープ状態を知らせると、部屋の光が一段落ち、呼吸のように灯るバイタルサインだけが残った。音も、気配も、全てが眠りに落ちる。レムが高速移動に備えてエヴォリスの制御を切り替えていく。トーラスの回転は止まり、無重力状態となるが、ケルビンのデスクに置かれたプラントポットは静かにそこに固定されていた。
暗闇の視界に、声だけが響く。
「エヴァ、エヴァ」
それは自分を呼んでいる。柔らかく、穏やかな男性の声だ。だがエヴァの体は重く、瞼は張り付いたように開かない。体を揺さぶられ、ようやく意識が覚醒する。すると目の前には、仕方なさそうに笑う、歳の離れた彼女の兄がいた。
「無理に起こしてすまんな、エヴァ。これから兄さんは遠征だから、出発前に挨拶しておきたくて」
「また?」
目を擦りながら上体を起こすと、頭を優しく撫でられる。それを、エヴァは掴んで離させて兄を睨んだ。その口は拗ねたように尖っている。
「ごめんな。でもお前にはローワン兄弟がいるだろ?アランは面倒見もいいし、俺のいない間は言うこと聞いて、遊んでもらって楽しく過ごせ」
「いつ帰ってくる?」
シーツを握りしめたまま、エヴァの表情は変わらない。兄は肩を竦めると、懐から一枚の写真を取り出した。そしてそれをエヴァに見せる。するとエヴァも、枕元に置いたポーチを探って一枚の写真をすぐさま取り出した。
「まだ分からないが…お互い会えない時はこれをお互いだと思って持ち歩く。すまないがそれで我慢してくれな、エヴァ。俺は大人だし、ここで暮らすためには仕事が必要で、それで遠くに行って戦わなきゃいけない時もあるんだ。お前だってローワン兄弟だっていずれそうなる。それまでは子どもらしく遊んでな」
「──…わかった。早く帰ってきてね」
「ああ、なるべくそうするから」
写真を突き合わせてから指切りをすると、「じゃあな」と言い残して兄は部屋を出て行った。エヴァはその後ろ姿が無くなっても、その背中を追うように部屋の入り口から目を離さなかった。
シーンは変わる。旅客機のコックピットだ。全ての機能が停止した廃旅客機の秘密基地。片方のシートはリクライニングが倒され、装置を覆うように作り上げた布と、汚れた玩具と本や雑誌の要塞と化している。そのシートの上で布に包まり、エヴァは眠っていたらしい。目を覚まして横を見れば、同じような状態でハンスが眠っている。今にもこちらに寄りかかってきそうなほど、頭の動きが安定していない。目の前には、もう一つの倒していない方のシートに座るアランがいた。操縦桿に寄りかかりながら、窓の外を眺めている。燃えるような夕日が差して、逆光になっていて表情は窺えない。アランの視線を追って窓の外を見てみたが、滑走路と何もない空があるだけだった。身動ぎしたことでアランがエヴァの起床に気づく。
「よく寝てたねエヴァ。ハンスはまだ起きなそうだな…」
そこで、ハンスの頭がとうとうエヴァの肩に収まった。それを見て、エヴァはため息を吐く。
「ねえアラン、たまには外で遊ぼうよ。ハンスに付き合っていっつもこうやってここに篭ってたらもったいなくない?アランはみんなとも仲良いのに」
すると、アランは笑った。逆光で定かではなかったが、どこか悲しげで、エヴァはぎくりと肩に力が入った。
「いや、別にハンスに合わせてるわけじゃないんだ。どちらかというと俺に付き合ってもらってるって方が正しいというか…エヴァには退屈だった?」
「…ううん、別に」
「ごめんね、それに俺の方は外がちょっと…苦手でさ。──もしエヴァが外で遊びたかったら、行ってきてもいいよ」
決まりが悪くなったエヴァは口を噤む。アランは優しく笑って窓の外に向き直った。
「…あたしも別に外はそんなに好きじゃない」
ぼそりとエヴァから発された言葉に、アランは思わず吹き出した。
「そうなの?じゃあさっきは俺を思って言ってくれたわけか」
「そう。だから、ここでいい」
目を逸らしつつもちらちらをアランを伺いながらそんなことを言うエヴァにを見て、アランは楽しそうに笑った。
また、シーンが変わる。エヴァはSTRセクターの技術者として、アンダーデッキの製造ラインで機械制御と監督作業をしていた。すると、同じ業務を行っていた男性が話しかけてきた。不思議なことに、顔はノイズがかかったように忙しなくブレて判然としなかった。
「エヴァリン、ランチ一緒にどう?」
「あなた、ランクいくつ?」
「安心してよ、この間3に上がったから」
「じゃあ残念ね。私2だから」
「え?」
男の声は心底意外だ、というように跳ね上がっていた。ランクが違えば食事が出来るノートリウムが異なる。つまり男の誘いは成立しないのだ。
「君、能力でいったら俺より全然上なのに…意外だ」
「悪いわね」
男に軽薄さは感じられない。純粋に親交を深めようと声をかけたが、思わぬ形で断られて驚いている様子だった。しかし、その後呟いた言葉はエヴァの人生を揺るがす一言となった。
「やっぱりいくら能力が高くても、出自によってはそれが相殺されるのかな?気の毒だな」
「…どういうこと?外の人間なら他にもいるわよ」
「いや、君ってさ、DEFセクターのヴィクター隊長が連れてきたってやつの一人だろ?あそこから来た人間をエシュロンが受け入れたのは驚いたけど、やっぱり制限はあるのかなって」
「わけがわからない。説明してくれる?」
部品や機器製造を行うロボットの機械音と、大型装置の稼働音が響いているのに、エヴァの耳には男の言葉しか入らなかった。監督作業も投げ出して、視線が、ブレた顔に釘付けとなる。そうするとそのブレが、どんどん加速するように酷くなっていく。その声もなぜか、こもったように不鮮明になる。
「あの時ヴィクター隊長は”ヴァイン”の”都市型ポッド”の一つを殲滅する部隊として派遣されてたんだ。君には悪いけど、滅ぼされて当然の場所だよ。君が小さな子供でたまたま発見したから助けただけなのかと思ってたけど、そうか、何も知らなかったのか」
「──…”ヴァイン”の、”ポッド”?」
「そう、悪名高きカルト集団ヴァイン。奴らは人類の完全滅亡を望んでるっていうとんでもない集団だよ。人里を襲いまくって地球上の人間を全員掃討したら、最後に自分たちも自決するっていうかなり狂った思想を持ってるって話さ。あと、ええと何だっけ?…ああそうだ、そしたら人は五次元的な存在に復活して地球は救われるとかなんとか。君、助けられて正解だったよ。あんな所で育ってたら、戦って死ぬか、生き残っても最後には自決しなきゃいけなかったんだからね。ヴィクター隊長のおかげで今こうしてここで平和に暮らせてるってわけだ」
エヴァは途中から意識が、言葉の意味と衝撃的な事実に支配されていた。そして、景色が溶けるように黒く塗りつぶされていき、やがて全てが闇に染まりきると、酷く心地いいと感じる。自分しかいない無音の暗闇で、懐を探る。丁寧にケースに収められた写真を手に取って眺める。もうだいぶ表面が赤みを帯びているが、子供の時につけた皺以外は見られない。その中で楽しそうに笑う、エヴァと兄。兄が見つけたというポラロイドカメラを使えるか確認するために、試しに撮ったものだった。自撮りの要領でレンズを自分に向けて、エヴァの肩を寄せた兄。笑ってポーズを取れと言われ、兄に抱きついて顔の近くでピースをした。画角は失敗で、二人の顔は中央より少し下になってしまい、頭の上に無駄な余白が出来ていた。後でアランとハンスの父親がちゃんと撮ってくれた一枚は兄が持っている。エヴァは「どっちが欲しい?」と兄に言われ、それよりこちらの方が好きだから、と不格好な方の写真を選んだのだ。
写真の中の兄の顔にノイズが走る。あの男のようにブレてしまわないかと慌てて懐に戻す。どちらに進めばいいのか分からない。歩かなければと思うのに、一歩が踏み出せない。そんな中、また声が響いた。暗闇の視界に、ただ自分を呼ぶ声が響く。今度はどこか、ぶっきらぼうな印象のある、これもよく知った声だった。
「エヴァ、おいエヴァ」
目覚めると、真っ白な世界を背景に、見知った顔が覗き込む姿が見えた。ツーブロックで残した長髪を、全て一つにまとめた髪型、日に焼けた肌。彼が急にそんな髪型にした時、思わずそれに触れたことがあった。すると彼は、「これはツーブロックのマンバンスタイル」と返してきた。
「起きてんのか、これ」
「ハンス、エヴァはどうだ?こっちの方は予定通りだそうだ。レムに確認したらちゃんと目標地点だった」
「おう、こいつも起きたっぽい」
そんなやりとりが聞こえ、エヴァは緩慢な動作で身を起こした。
「…ええと、おはよう」
「ああ。お前意識バグってないよな?」
「ええ、問題ない」
声をかけていたのはハンスだった。エヴァが辺りを見渡せば、見える限りでケルビン、アラン、ハンスのセルは閉じられていた。腕や手指、足が動くのを確認してからゆっくりとセルを出ると、エヴァのセルの蓋が閉じる。隣のセルではラビの様子を伺っているのか、ケルビンが何やらモニター操作中で、ヴィクターのセルも閉じられていた。
「はあ…ったく、最初の冬眠から問題ありまくりで先行き不安だと思う所だった」
ケルビンのセルに寄りかかって腕を組み、ハンスがため息を吐く。アランはケルビンのデスクにあるモニターを利用してレムと状況確認中だったようで、開かれたガラス壁の扉越しに話していたらしい。ヴィクターの姿は無い。
「隊長は、ちょっと負担があったらしくて奥のメディカルルームでチェック中。ラビはお前と同じで覚醒でグダってたんだが、見ての通り駄々こねてるだけだった」
視線で気づいたのか、ハンスは背後を親指で指し示しながら小さな声でヴィクターの件を話すと、今度は顎をしゃくってエヴァの背後にあるラビのセルを指しながらラビについて愚痴を言った。振り返れば、それまでは気づかなかったが、ラビのむずがるような声が聞こえてきた。
「ねえまだ眠いって言ってんじゃん…なんで二度寝させてくれないんだよ」
「ですから先ほど申し上げた通り、回復プロセスの妨げになるからです。覚醒後はまず生理機能やバイタルを段階的に再起動させなければなりません。一晩寝て起きるのとは訳が違います。このまま眠れば昏睡や心停止の恐れだってあるんですよ」
「もー、わかった!わかったって」
そんなやりとりの後、まるでゾンビのように体を起こしたラビは、両手を天井に伸ばして大欠伸をした。その後、ケルビンが呆れからか安堵からか、大きく息を吐いたような音が聞こえる。まるで小さな子供のようにそのまま目を擦ろうとするラビに、ケルビンの追い討ちが襲った。
「目を擦ると角膜が傷ついて視力に影響が──」
「起きた途端小言ばっかりで起きるの嫌になるんだけど!」
「小言ではありません、医者として忠告しているだけです」
ケルビンのもっともな返しに、ラビは観念したように笑った。つられてハンスが小さく吹き出す。エヴァは軽くその場でストレッチをしながら、自分も同じ目に合っていたかもしれないと心の中で肩を竦めた。
「ヴィクター隊長は大丈夫そうなの?」
「まあ、一応…ケルビンが言うには、数値的には正常範囲内らしい。だから、なんか夢でも見たんだろうってさ」
「夢…ね」
「お前見た?」
「さあ?分からないわ」
「ふうん。ま、とにかく、優秀なドクターの言う通り二度寝は厳禁らしいから、奥でしばらく休むってさ」
ハンスはそう言うと、ステイシスルームを出てアランの元へと向かい、エヴァもそれに倣う。デスクへ行けばアランから「おはよう」と微笑みかけられ、エヴァは軽く笑って同じように挨拶を返した。ステイシスルーム内からは未だに言い合う声が漏れ聞こえる。
「ラビ、あなたが最後となりました。セルは一度閉じて次の冬眠に向けて再調整しなければなりません。体調に問題なければ退出をお願いします」
「はいはいドクター、ほら見て、全然しっかり自分の足で立てたよ。全く問題ない。カフェテリア行って目覚めの一杯でも飲もうかなぁ。ねえ、そういう時間ある?」
「はあ…まああなたはパイロットや整備士ではありませんので、問題はありませんが」
「オッケー、じゃあちょっと行ってくる」
「待ってください、まずメディカルチェックを受けてからです。すぐ終わります。──エヴァ、あなたもですよ」
デスクでアランたちと話していたエヴァに、ステイシスルームから出てきたケルビンから声がかかる。アランとハンスを見やれば、「俺らはもう終わったよ」と告げられた。エヴァの視界がブレる。姿は変わったが、あの頃と変わらない光景が、そこにあった。
《中央コア:コックピット》
エヴォリスはクルーがステイシスセルに入っている間、レムの手によって予定通り航行し、無事目標地点へと到着いていた。ケルビンによれば、緊急の覚醒も無かったようだ。アランとハンスがコックピットで手動制御の確認と次のポイントまでのオートパイロットを設定し終えた後、クルーは一度ブリーフィングルームに集まり、簡易的な打ち合わせをした。その頃には体調が優れないと言っていたヴィクターも姿を現し、問題なく回復し、復帰したと告げられる。エヴァとラビも、問題なくメディカルチェックを通過出来たようだった。
テーブルの中央にレムのホログラムが現れ、レンズを回しながら「おはようございます、みなさん」と挨拶をする。するとラビが身を乗り出してその姿をまじまじと見つめた。
「僕らにとっては一晩だったけど、君にとっては久しぶりなんだよね、レム?それってどんな気分?」
「わたしにとって時間は、処理される事象の連なりに過ぎません。経過の長短に主観的な差異は存在しませんよ」
「あれ、ちょっとよそよそしくなった?」
「そんなことはありません。寂しかったですよ、ラビ」
「ははは、良かったなラビ。ちゃんとアレンジが効いてるみたいだ」
二人のやりとりにアランが笑い、ハンスも声には出さないが意地悪そうににやついた。エヴァも呆れたような苦笑を漏らす。そんな彼らをヴィクターは黙してやり過ごし、その脇でケルビンが咳払いをした。
「では、これより数時間後にフェリスに到着となります。みなさん、始めに申し上げた通り、私物の整理と私室の固定作業は徹底してください。それから、フェリスに着く前に一度カウンセリングを行います。時間は追ってご連絡しますので、端末でご確認ください」
「またドクターとお喋りの時間かあ」
クルーは冬眠前と、順応期間中にそれぞれカウンセリングを受けていた。簡易的なもので、短ければ数分で終わるような内容だ。元々クルーで特別体調不良や精神不調を訴える者がおらず、またそのような外見的傾向も見られなかったので、ケルビンとしてはほとんど業務的なもので終わらせていた。ラビなどは「ドクターとおしゃべりタイム」などと言って話を長引かせようとしていたが、ケルビンはばっさりと終わらせたらしい。その時のことをラビが話し始めた。
「僕のカウンセリングの時にさ、せっかくだから冬眠中は明晰夢でも見て考え事しようかなって言ったんだ。そしたらケルビンが、「それならきちんと睡眠周期を守って、レム睡眠の範囲内でお願いします。では、お疲れ様でした」だよ?普通もうちょっと乗ってくれない?寝る前に言った時もバッサリだったし」
なかなか完成度の高いケルビンの真似を披露しながら語られるエピソードに、思わず吹き出したハンスがとっさに口元を隠す。アランなどはその隣で盛大に笑った。
「おしゃべりが希望でしたらあなたの順序は最後にしましょうか。後があっては滞りますから」
当のケルビンは全くもって冷静にそう返すのみだった。今度はラビが吹き出す。
「僕ちょっとケルビンって面白いかも、とか思ってきた」
「評価いただき光栄です。──ただし業務には支障のない範囲でお願いしますね。…ではヴィクター隊長、連絡事項としてはこのくらいでしょうか?」
ラビの笑い声が響く中、ケルビンはヴィクターに伺いを立てる。ヴィクターは頷いて短く返事をした。
「──ねえ、この程度の連絡事項なら端末に送ってくれたらそれでいいんだけど」
エヴァが腕を組んでケルビンに訴える。
「効率で言えばその通りなのですが、特に冬眠後は他人とのコミュニケーションも重要な覚醒プロセスとなります。結果的にはこちらの方が効率的であるかもしれません」
「…そうね、分かったわ」
ケルビンの静かな瞳がエヴァを射抜くようにひたと見つる。目が合った彼女はわずかに瞼を下げてそれを受けた後、するりと視線を外す。
「じゃあ、一旦解散とする。現在地球時間午前10時35分、通常の起床後とそう変わらん時間帯だ。ベッドには入るなよ」
ヴィクターがそう言って立ち上がると、全員がそれに倣って解散となった。リフトで回廊に上がる者、移動ポッドに乗り込む者、それぞれが各々の行動を取るために散り散りになる。高速移動で時間だけが止まったようだったエヴォリスに再び活気が満ちるのは、出発時からほとんど一ヶ月ぶりのことだった。
《FRRIS:コントロールレイヤー》
火星中継ステーション『フェリス』。事前情報の資料画像では、白い円筒形の先端に八枚の巨大パネルが花開くように付属した、まるで宇宙に浮かぶ金属の花のような形状のステーションだった。エヴォリスがマニュアル制御に変わり、じわじわと接近するにつれ、その全貌が暗闇にうっすらと浮かび上がる。その頃にはアランやハンスだけでなく、クルー全員がコックピットのウィンドウからそんな光景を眺めていた。
「あれがフェリスかぁ。データでは画像処理されてもっと明るく見えたけど…そうだよね、実際はやっぱり薄暗いよね」
「そうだな。ほら、向こうのほうにぼんやり見える赤い球体、あれが火星だ」
「…なんか、リアルだけどリアルじゃない感じ。僕でもうまく表現できないな」
無重力状態のコックピットで大人しくシートに座っているラビが、せめてもの行動で身を乗り出しながら窓に食いついている。一度背後を振り向いてその光景を見たアランはくすりと笑って、フェリスの奥の火星を指さした。ラビは眩しくもないのに額に手をかざしてさらに身を乗り出す。そうしたところでいくらも景色は変わらないのに、珍しく感情が先行しているようだ。
「アラン、フェリスからの誘導信号とリンクした」
「了解、誘導軌道に入る」
エヴォリスへのドッキング時と同様、見えない道標に従い、アランは機体をフェリス付近に滑り込ませる。円筒形の本体下部、ドッキングレイヤーのハブに狙いを定めて操縦桿を操り、だんだんとフェリスの姿が大きくなっていく。近づくにつれ、滑らかに見えた円筒形の本体の所々には、ウィンドウや装置が付属しているのが判明する。データ上のメカニカルフラワーは、確かにそこに存在していた。
エヴォリスがフェリスに可能な限り接近する。互いのドッキングハブを近づけるためにエヴォリスは反転するような形となったが、上下左右など無い宇宙空間では問題ない。アランがフェリスの軌道に合わせてエヴォリスを制御すると、フェリスから人員用連絡通路がゆっくりとこちらに伸ばされた。
「連絡通路ドッキング開始」
制御モニターでエアロックを確認しながらエヴァが告げる。共有している外部映像から、連絡通路とエアロックが接続されるのが確認出来る。無音の映像だが、重苦しい接続音が聞こえてくるようだった。
「接続完了。空気圧調整開始──オーケー、問題なさそうよ」
モニターと制御パネルを確認しながらエヴァが静かに宣言した。ふう、とアランが一息吐く。すると、パイロットシートの間でレムがレンズをわずかに動かした。ドーム状の頭部にある小さなセンサーLEDが黄色く点滅した後、またグリーンの点灯状態に戻る。
「エアロックが正常に接続されました。みなさん、フェリスに到着です。お疲れ様でした」
「レムもついてくるの?」
「わたしはエヴォリスに残ります。フェリスでは、『フェム』がみなさんをお迎えしますよ」
蛇腹のようでありチューブでもあるような、窓の無い連絡通路をクルーたちは漂いながら進んでいく。LEDが灯されたこの通路が、宇宙空間で二つの場所を結ぶ細い管だということは、内部からでは想像もつかないだろう。進んだ先のエアロックへ到着すると、そこはエヴォリスより少し暗い程度のダークグレーの内壁の空間だった。重力フィールド発生装置のおかげで緩やかに無重力から重力フィールドに変化していく空間に合わせ、クルーたちは体勢を整えた。
『ようこそ、フェリスへ。みなさま、お待ちしておりました』
柔らかな女性モデルのAI音声が響く。おそらくこれが、レムの言っていたフェリスの制御AI『フェム』なのだろう。
扉の先に出ると、エレベーターの乗降エリアから待機していたエレベーターに乗り、中層階を越えて上層階へ。到着したのは、フェリスのメインコントロールルームだ。円形スペースの中央にあるエレベーター部分からクルーたちがぐるりと辺りを見渡せば、壁を仕切りにして三つのスペースに分かれた室内が見渡せた。一際大きな窓が取り付けられた観測スペース、モニターやテーブル、椅子が置かれたブリーフィングスペース、そして、巨大モニターと制御パネルやシートが並んだ制御スペース。この制御スペースのモニター前に、レムと同じように小さなボディが接続されていた。
ケルビンがそちらへ足を向けると、周りを見渡していた他のクルーたちがそれに続く。すると、ドーム型の頭部にあるレンズが小刻みに動き、小さなLEDライトが黄色く点滅する。レムと全く同じ外見と動作のため既視感があるが、発せられる声は女性のものだ。
「はじめまして、クルーのみなさま。わたしは火星中継ステーション『フェリス』制御AI、”Functional Emotive Matrix”です。どうぞ、フェムとお呼びください」
正式名称で名乗るフェムに、ラビが片眉を持ち上げた。しかし、口出しはしない。するとフェムは淡々と報告を続けた。
「みなさまのパーソナルケースは、コモンレイヤーのストレージブースに転送済みですので、お受け取りください。船内経路図を端末にお送りしておきます」
「補給とステイシス調整にかかる時間はどれくらいになりそうですか?」
ケルビンの問いに、頭部のLEDを点滅させた後すぐにフェムは返答した。
「明日には全ての行程が完了します。みなさまとは短いお付き合いとなりますが、快適な時間をお過ごしいただけるよう、お手伝いいたします」
「じゃあ、荷物を纏める奴は下へ。あとは見学なり何なり、好きに過ごしていい。自由行動だ」
ヴィクターの一声で、一時解散となる。ハンスは珍しく大人しくしているラビを一瞥した。
「お前、あいつには口出ししないのな」
「うーん、何ていうか、ちょっと手強そう。相手は機械なのに変な話だけど」
ラビはそう言うと肩を竦め、観測スペースへと向かう。アランはここに止まるようで、制御パネルやモニターを観察するように見渡していた。ヴィクターとエヴァはまず荷物を整理するためか、エレベーターで階下に降りて行く。ケルビンは全てのスペースの確認作業なのか、タブレットを片手にこのコントロールレイヤー内を一周するようだ。
手持ち無沙汰となったハンスは、とりあえずステーション内を見て回ることにした。まずはコントロールスペース。アランが物珍しげにパネルやモニターを眺めている傍らで、モニターを見上げる。画面の両端に数字や文字の羅列が並んでおり、その数字は動かないもの、絶えず変動するものと様々あった。その背景は外郭に取り付けられたカメラからの映像だろう、その一部が映されたものがいくつか表示されている。花開くようなパネルの裏側の映像では、太陽の光をシルバーの素材が反射させており、ハンスはそれに映像美のようなものを感じた。
「このパネルはほとんどが太陽熱エネルギー蓄電用のものだってな。あとは通信用とか…機能性を考えてこうなっただけなのかもしれないが、綺麗だったな。月並みだけど」
モニターの映像に見入っているハンスの様子に、アランが声をかけた。ハンスが声の方を振り向くと、アランが同じように映像を眺めていた。ハンスはすぐに視線を画面に戻す。
「SENセクターのデザインだろ」
「…人間はここには常駐しないのに?」
「俺らみたいな宇宙初心者を迎えるためとか」
「ああ、なるほど。それなら効果は抜群だったなぁ」
そんなことを話していると、設備チェックをしていたケルビンがやって来た。
「宇宙ステーションに関しては、SENセクターのデザイン考案は含まれていないはずですよ。目的に応じた設計上こうなったようです。フェリスは中継ステーションの中でも一番古い型で、さらに先にあるストルムやアンネルのステーション構築にも貢献したようですよ」
ハンスが半眼となって振り返れば、眼鏡のブリッジを上げながら当然のように情報を開示するケルビンの立ち姿があった。そんなハンスに気付き、アランが小さく笑う。
「どのぐらい前から始まったんだ?」
アランがケルビンに尋ねると、彼は顎を摘んで少し俯いた。
「正確なアーカイブは不明ですが、数十年前──私やあなた方はもちろん、ヴィクター隊長すら生まれていない段階から、徐々に製造と構築は進められていたようですね。もともと、移住可能な星の調査や、スペースコロニー計画の初期段階として造られたもの、ということでした」
「え、じゃあ、最終的には冥王星ステーションなんていう構想もあったりするのかい?」
「冥王星周辺への中継ステーション建設は、エネルギー補給、通信遅延、構造耐久性など、複数の要素が課題となるため、現時点では非現実的です。…ただ、エシュロンがフェリスなどを設計したような段階的拡張計画を採るなら、可能性がゼロとは限りません。例えば恒星間探査が現実化する段階になれば──あるいは」
「なんだか不思議な感じだな。ハイラントの防護外壁の外は乱世みたいなものだって聞くけど、エシュロンは宇宙に目を向けていられるってさ。こうして俺らもここまで来てるし」
両手を腰に当て、アランがしみじみとそう言ってモニターを見上げた。わずかに見える、フェリスの外殻の向こう側は確かに宇宙空間だ。エヴォリスのコックピットから見えた、掌大の火星も、全てが現実。ハンスは脳内で、ラビが「リアルだけどリアルじゃない」と言ったのを思い出し、言い得て妙だと今更共感した。
《FERRIS:コモンレイヤー》
先に下りることにしたヴィクターとエヴァが乗ったエレベーター内は、稼働音以外は沈黙に満たされていた。たった一階層降りるだけの距離がやけに長く感じる。二人とも左右の壁に肩を寄りかからせ、次に扉が開くのをひたすら待った。
コモンレイヤーに着くと、それを知らせる電子音が鳴り、扉が開く。エヴァはヴィクターを先に促してから自分も降り、円形の通路を、ヴィクターの背を追う形で進んだ。通路はそこそこ広いが、エヴォリスほどの開放感は無かった。円形の外側がそれぞれのスペースになっているためだろう。何枚かある扉の一つであるストレージブースにヴィクターが入って行き、エヴァもそれに続く。奥行きはあるが幅が極端に狭い、必要最低限の広さしかない部屋の中に、六つのパーソナルケースが並べられていた。二人はネームタグを確認してそれぞれ自分のケースを持ち上げると、今度はエヴァを先頭に退出する。この間、会話は一切起こらなかった。
再度通路を進み、次にプライベートルームへ。A、Bと表記された扉が該当の扉だ。その奥にはそれぞれ奥に向かって五部屋ずつ並んでいる。エヴァがAの前で歩みを止めると、ヴィクターはBの扉の前で止まる。配慮なのかは不明だが、どうやら別のブースを選ぶようだった。
「部屋は好きな場所を選べ。ドアのセンサーにPIコアをかざせば認証されて、ここにいるうちはその部屋がお前の個室になる」
「ええ、把握しています」
「そうか」
扉に入る前に、ヴィクターからエヴァにようやく声がかかった。じっと目を見つめて話すので、ただの連絡事項が重要任務かのように耳に響く。エヴァが短く返答すると、ヴィクターは扉の奥へと消えた。
エヴァはA扉に入り、最奥の部屋を選んで扉に左の手の甲を翳す。すると手の甲の一部が一瞬、淡い青に光る。すぐに電子音がして、扉が開かれた。プライベートルームの中は、ほとんどがベッドで占められており、ベッドに座したまま作業が出来るよう、もう片方の壁にはカウンターのようなテーブルがはめられていた。ケースは部屋の奥に設置箇所があり、部屋の内装はそんなものだった。扉が開いた瞬間に転倒したLEDは白熱色で、狭くとも落ち着いた雰囲気が保たれていた。
エヴァはケースを所定の位置に置くだけ置いて、すぐに外に出た。すると、誰もいないと思っていた廊下で再びヴィクターと遭遇する。彼もエヴァと同様に、荷物だけ置いて出て来たようだった。無意識に視線が合う。先に口を開いたのはやはりヴィクターだった。
「お前も上か?」
「ええ」
返事をすると、ヴィクターは踵を返してエレベーターへと歩いて行く。またもや彼の背を追うように、エヴァがそれについて行く。しかし今度は無言の同行とはならなかった。
「その、──その後、体調の方はどうです?」
戸惑いがちな声を背中に受け、ヴィクターは振り返ろうとして視線だけ動かし、止めた。
「お前が気にすることじゃないな」
背中越しの声を聞いたエヴァは、視線を落としてわずかにため息をつく。
「──まあ、業務に支障がないのならそれで」
たったそれだけの会話の間に二人はエレベータに到着し、また箱の中に入る。同じ昇降時間を、同じ体勢で今度は上がっていく。エレベーターを降りると、制御スペースで兄弟とケルビンが談話し、観測スペースではラビが窓の外を眺めていた。ヴィクターは黙ってブリーフィングルームへ歩いて行く。それを目で追っていると、彼の存在に気づいたケルビンが振り返り、ブリーフィングスペースへと足を向けた。その姿を、じっとエヴァは追う。テーブルで向かい合って座る二人は、何やら会話をしているが詳細は聞こえない。ただ、ケルビンの方からヴィクターに会話を投げているのは見て取れた。
エヴァは、数年前の出来事を思い出していた。防護壁整備の修理作業でSTRセクターから派遣された時のことだ。ちょうど、現場監督をしていたのがヴィクターだったことがあった。彼の部隊に入っていたハンスは他の部下とともに別の現場に移しており、彼だけが現場に残っていた、ということらしかった。
エヴァは、幼少期に自分たち幼馴染をこの場所に避難させてくれた人間がヴィクターであることは知っていたが、それは五歳の時のおぼろげな記憶でしかなかった。物心ついていたアランはヴィクターを尊敬している節があったが、エヴァにはそこまでの印象は無かった。ハンスもそれは同様だったようだが、彼にDEFセクター適正が現れてセクターでの訓練メニューが追加されるようになってからは、ヴィクターがよく気にかけてくれいていたと話していたことがある。ヴィクターに対して特別尊敬の念も無く、接点も無かったエヴァは、彼のことを知る由も無かった。しかし、もしかしたら自分も気にかけられていたのかもしれない、と思うようになるきっかけとなったのが、この修理派遣での邂逅だった。
「随分手際がいいんだな」
作業中、部屋の隅で待機していたヴィクターから声をかけられたのだ。思わず手を止めて振り返ると、腕を組んで壁に寄りかかっていた彼は表情を変える事なく続けたのだ。
「腕がいいのにPIランクが上がらない職員がいる、と噂を聞いたことがあってな。どんなものかと打診した」
そこでエヴァは、”ハンスだ”と心の中で舌打ちした。この事情を知っているのは幼馴染みぐらいで、目の前の男と一番接点があるのはハンスだからだ。
「敢えて、か?」
何も答えないエヴァを気にせず、ヴィクターは質問を重ねてくる。ゆかりはあるが、ほとんど初対面のようなものだ。エヴァは、彼に内情を話すつもりは一切無かった。
「さあ。エシュロンの評価基準に当てはまらないのでは?」
「エシュロンの評価基準は”能力”だ。そして次に、ハイラントの体制に逆らう意思が無く、潜在的犯罪者でない者が来る」
「…私が、後者の基準で弾かれていると?」
「だから、敢えてかと聞いた」
つまり、ヴィクターは「能力は充分なのにランクで足踏みをしてるのはわざとか」とエヴァに問うているのだ。そしてその理由も知りたがっているようだ、とエヴァは察した。
「──ヴィクター隊長、その…あなたが私たちをあの場所から救ってくれたことは知ってます。感謝もしてる。でも、私はもう子供じゃないし、あなたが拾った責任を取る必要も無い。私は私で生きて行くだけですから、事情は気にしないでください」
「──単なる、興味だったんだがな」
「なら、こう言っておきます。私は別に生活の質に興味が無い。”今”がずっと続いても、それで良いと思ってる」
作業に戻りながら、エヴァは視線を外したまま続けた。ヴィクターは黙ってそれを許す。
「”思考と創造”の時間も要らない。エシュロンがこういう人間のランクを、技術評価だけで上げるとは思えません」
「…そうか」
”思考と創造”を目的とした『リフレクションタイム』。これはランク3以降で導入されるもので、アランはこれを利用して操縦訓練を行なっているとエヴァは聞いている。それを、ヴィクターも把握しているはずだ。その影響なのか知らないが、ハンスも戦闘機操縦のプランを取ったと言っていた。つまり、兄弟は何かしらの”先の展望”を持っている。「お前には何もないのか」と問われたような気がして、エヴァは作業の手を少しだけ速めた。
実際、観察(OBS)セクターからの打診はあった。それは要約すると、「”規定外業務”は逸脱とみなされるため、これを改善しない限りはランクに変動は無い」という内容のものだった。明確にランクが上がる条件を出されたが故に、エヴァはそれに従わずにいた。彼女にとっては、仕事そのものが生きがいだったからだ。
その後はヴィクターから何も指摘を受けることなく、修理は滞りなく完了し、二人は挨拶をして別れた。そこからアークウェイ作戦の顔合わせがあるまで、エヴァにヴィクターと関わるきっかけは訪れなかった。修理で邂逅した日から、どこかで見守られているのかもしれないという余韻を残しながらも遠い存在として認識していた。だがそのさなかに、自らの出自の真実を知ったのだった。
「ああエヴァ、君もこれから見学か?」
声をかけられ、エヴァは自分がエレベーター前で突っ立っていたことに気づく。制御スペースから、兄弟がこちらを見ていた。エヴァはこの二人に、未だに自分が知った事実を打ち明けられないでいる。
《FERRIS:コントロールレイヤー》
操作台に両手で頬杖をつき、ラビは観測窓から外の宇宙を眺めていた。地球から離れたこの場所は、太陽からさらに遠く離れている。それが、代わり映えのない景色からでも理解することが出来る。遠くにぼんやり浮かぶ火星の球体──指で摘んで手の内に出来そうだと思えるほど現実味が感じられず、同時に、これが本物の景色なのだと自らの常識を修正する。
ラビは、これまでに一度大きな”常識の修正”をしたことがあった。自分が幼少期生まれ育った屋敷での閉じた生活…部屋に篭り、収集物に囲まれながら、それらを調べたり眺めたりして過ごしたあの頃の自分。両親は、”ままごとの延長線上”で自分を作った、とラビは気づいていた。彼には夢か幻か、胎内で聞いたような声や、新生児の映像の記憶がある。それは断片的なものだが、つなぎ合わせると「つまりそういうことなのだろう」と想像できたのだ。ラビを育てたのは両親ではなく、小さな孫を失ったという年嵩の使用人だった。その女性があの部屋で、隠れるようにラビを世話したのだ。
不思議と反発心などは湧かなかった。使用人が持ってくるおもちゃ代わりのガラクタが彼にとっては宝にであり、それに触れていれば満たされていた。”危険だから”と閉じられていた窓から景色を覗いたことはない。たまに使用人が施錠を忘れた時に部屋を抜け出して屋敷の外を眺めたが、屋敷の敷地外──外の世界は瓦礫と、その隙間から復活した自然に満たされていた。両親が特別な取引をしていること、それには危険が伴うことは、早い段階で気づくことが出来た。そしてある日、”自分が選んだ収集物”を求めてその世界に一歩足を踏み入れる行動を取った。
あれが、ラビにとって転機だった。ハイラントから来た派遣隊にスカウトされ、結果的に両親に売られることとなったわけだが、その出来事があったからこそ今自分はこの場所にいる──ラビはそんなことを考えながら宇宙の景色を眺めていた。
「この後は木星、土星を見て…いよいよOSX-9かあ。早く着かないかなぁ…」
ラビの独り言に答えるものは無い。その事実に小さくため息を吐く。
「──レムなら勝手に、”当該惑星への到着予定は約四ヶ月後ですよ”とか言ってきそうなもんだけど…。フェムっておそらく呼びかけないと応えないタイプなんだろうな」
「お呼びですか?」
今度はラビの発言を拾ったフェムが応えた。どこからともなく聞こえてきた声に、ラビは眉を潜めて目を閉じた。
「今のは別に呼んだんじゃないんだけど」
「失礼しました」
ラビが小さく訴えれば、空間には再び静寂が訪れた。
《エヴォリス:メディカルモジュール》
回転が止められ、無重力状態となったメディカルモジュール内。室内灯は落とされ、隣のステイシスルームからは、調整中のステイシスセルが緩やかにLEDライトを点滅させているのがガラス越しに伺える。
ケルビンのデスクにある物言わぬデスクトップモニターは、誰の指示もなく、静かに起動する。画面に現れたのは、数時間前のカウンセリングログだ。文字化されたデータは程なくして、ゆっくりとスクロールを始めた。
◉対象者:アラン
「お疲れ様です。どうぞ、おかけください」
「…ああ」
「お時間いただきありがとうございます。では早速、形式的な質問から始めてもよろしいですか?」
「構わないよ」
「まず、実際に宇宙空間に来て、訓練とは違った実感があったかと思います。何か不安や緊張を感じることはありましたか?」
「…強いて言うなら”今”、かなぁ…はは」
「お察ししますが、これはメディカルチェックの延長線のようなものです。YES/NOのご返答でも事足ります」
「いや、すまない。──まあ、実際の操縦に気を張ったぐらいで、ここでの生活に関してはそんなに違和感は無いんだ。体調も良いはず」
「では、夢を見ずに熟睡出来る?冬眠後の不調なども無いですか?」
「そうだね、今のところは」
「”今のところ”というのは、単なる現実的観測ですか?それとも何か特別な不安がおありですか?」
「え?…ああ、現実的観測…で、合ってるかな、うん。もしかしたら次の冬眠では緊張して眠れなくなるかもしれないし」
「現状、体調面においては問題ありませんよ。一度目を成功させているなら過度に心配することはないでしょう。ですがもしその時になって何か変調に見舞われたらセルに入る順番を考慮するなどの対策を設けましょう。誰かが先に入って眠るのを見届けてからの方が安心出来る、などあれば対応します」
「ああ、気にしないでくれ。その…”不安や緊張がある”、と言った方がいいかと思っただけなんだ」
「──不安が無いことが不安、という事でしょうか?」
「いや、まあ…どうかな?」
「アラン、カウンセリングは正直な事を話していただければそれで問題はありません。あなた自身が現状を良好だと感じているなら、それは大変結構なことです。あなたの精神はご自身が思うよりタフだった、という事でしょう」
「はは、ありがとう」
「──では、今回はここまでにしましょうか」
「もう終わりか?…よかった」
「ええ、大丈夫です。──セルに入る順番はどうなさいますか?」
「はは、いつでもいいよ」
◉対象者:ハンス
「お時間いただきありがとうございます、ハンス。どうぞおかけください」
「──俺って何番目?」
「…前回も気にしていましたが、何か問題が?」
「いや」
「…ちなみに申し上げますと、あなたはお二人目です。先程アランのカウンセリングを終えたところですよ」
「へえ。次は誰とか決まってるのか?」
「特別決めてませんが、各自の作業時間を考慮しています。──何か関係が?」
「…いや」
「──ひとつ断言させて頂くと、私が個人のカウンセリング内容を他者に開示することはありませんし、”誰かの回答を踏まえての質問”をあなたに投げかける事もありません。形式的な項目と、それに付随する項目をお聞きするだけですよ」
「ああ、わかった」
「では、始めても?」
「いいぜ」
「まず、実際に宇宙空間に来て何か不安や緊張を感じた事はありますか?」
「特に無いな」
「では、睡眠障害などはありますか?冬眠前、冬眠後どちらについてもお伺いしたいです」
「それも無い」
「承知しました。あなたは実際、操縦補助もスムーズでしたね。お若いのに肝が据わっていらっしゃる」
「俺ら、そう歳変わらないよな…?」
「──では、今後について何か特別気になる点などもございませんか?例えば次回の冬眠や、中継ステーションに移動する際の懸念点など、何でもいいのですが」
「それは、──全く無いってわけじゃないが…」
「差し支えなければお伺いしても?あなたは訓練から一貫して、身体的・精神的にも、課題の残るような評価は無いとありますよ」
「まあ、俺に関しては…な」
「──何か別の懸念事項がおありですか?」
「いや、…無いな」
「…そうですか。それは大変結構なことです。過度に不安を認識すれば、悪い結果を招きかねませんしね。もし精神がマイナス面に傾きそうになったとしても、それを解消しうる方法があれば問題はありません。──何か個人的に地球から持ち込んだ物は?例えばリラックス出来る物とか」
「色々あるけど…」
「例えば何か一つ挙げるとしたら?」
「まあ、変わった物で言うなら、小説。紙のやつ」
「小説?それは意外ですね」
「意外って何だよ。…俺がガキの頃住んでたとこから持って来たらしい。多分アランのやつだよ。最近何となく読み始めて、途中だったから」
「…内容は問いませんが、文字を追い、その世界に入り込むという行為は脳の整理に最適です。良い物を持ち込みましたね」
「はいはい」
「では、くれぐれも本に熱中して睡眠に障害をきたす、なんて事が無いように、適度な読書をお勧めします」
「…もうやってるよ」
「──では、こんなところで良いでしょう。10分を予定していましたが、そんなに必要ありませんでしたね」
「こんなんでいいいのか?」
「内容が薄ければ、早く終わります」
「…」
「悪いことではありませんよ。順調な証拠です。では、お疲れ様でした」
◉対象者:エヴァリン
「お疲れ様です、お時間いただきありがとうございます。では、こちらに」
「ええ、ありがとう。ところでこのカウンセリング、どのくらいの時間を想定してるのかしら?」
「──大体10分から15分を目安としています。あまり長くても冗長ですし、短すぎても意味がありませんので」
「なるほどね」
「10分は長いと感じますか?」
「…いいえ。余裕をもって作業準備するのにかかる時間とそう変わらないから」
「確かに、そう考えれば一瞬ですね」
「──本題に入りましょう。私から話を振っておいて悪いけど」
「ええ、では…実際に宇宙空間で過ごすことに対する緊張や不安など、何かしら不調と感じる点はありますか?」
「特に無いわ。訓練通りやれてる」
「外殻点検作業も行ったようですが、真空状態の不安定な状況でも特に問題はない?」
「そうね。環境は違っても、扱う道具はそう変わらないし」
「さすがです。事実、作業工程も無駄なく完璧と、レムからも報告がありました。──こちらから聞いたわけではないんですがね」
「…」
「では、作業は問題ないとして…睡眠障害などはいかがです?あなたは覚醒に時間がかかっていましたが」
「元々寝つきが良い方じゃないの。それが祟ったのかもしれないけど…でも、前からそうだから、変わりないと答えておくわ」
「夢は見ますか?」
「……いいえ」
「では、そうですね…人間関係で疲れる、という事はありますか?」
「は?」
「ハイラントのように大勢が集団で生活するのとは訳が違いますからね。少人数且つ限られた空間での集団生活は、他者との距離が否応なしに狭まります。それに関して疲れを感じる、などあれば」
「──いえ、別に。個人スペースは確保できるから、問題は無いわ」
「…そうですか、それは良かった。この分ですと、冬眠自体に関する恐怖心や抵抗感もあまり無いようにお見受け出来ますが」
「そうね、無いわ」
「承知しました。敢えて懸念事項を挙げるとすれば、睡眠に関してですね。トレーニングメニューの負荷を少しだけ上げる、睡眠時間を設定し、3時間前の入浴を徹底する、なども効果的かと思います。必要があれば睡眠導入剤もお渡し出来ますが」
「あまり薬には頼りたくないわ。というか、今までやって来れてるから」
「念のため、ですよ。カフェインの摂取も極力控えること。──あとは、就寝時、何も考えないことです」
「何も考えない?」
「そう。寝つきの悪い方の大半は、ベッドに入って、思考の沼に嵌るのです。そうしてもがくうちに、朝が来る」
「…」
「ですから、目を閉じて…そうですね、自分が何も無い宇宙空間に漂っている姿を想像することに努める。そうすれば、気づかないうちに眠れるかもしれません」
「それ、私個人の対処法として提案してるの?」
「そう聞こえたならすみません。ですが残念ながらこれは、ほとんどマニュアル対処法のようなものですよ」
「…そう」
「──もう充分でしょう。最後は少し立ち入ったような話になってしまいすみません」
「…もうそろそろ10分?」
「ええ。ほぼ予定通りです。宇宙空間には適応されているようなので、特段問題はないでしょう──今回は、ですが」
「…」
「お疲れ様でした、エヴァ」
「──ええ、ありがとう…じゃあ」
◉対象者:ラビ
「ドクターケルビン、入ってもいい?」
「ラビ、時間より少し早いですよ」
「いいじゃん、時間ぴったりじゃなくても。それとも、時間通りに始めなきゃいけないルールでもある?」
「そんなものはありませんよ。あなたに合わせて提案し、了承を得た時刻です。…まあ、他者との調和のための基本的な配慮とは言えますが。数分であれば誤差ですから、…どうぞ」
「ふうん」
「形式的なことを二、三聞くぐらいですからね、仰々しくするものでもありませんし」
「形式的っていえば、体の不調とか、精神的な不安とか、そんな話?」
「概ねそのようなことですね」
「なら僕は特に無いかなあ。重力の変わり目でちょっと酔うなあってぐらい。でもその酔う感じも新鮮だから、精神的なストレスにはならないっていうか」
「身体に不調をきたすのが、特殊環境下であるなら心地よくも感じる、と?」
「そんな感じ。地球と違うところがあればある程度楽しいって思うんだけど、体は追いついてない、みたいな?」
「あなたが、何かに夢中になると生活に支障をきたす性質の人間である事は承知しています。睡眠はきちんととれていたんですか?」
「寝つきはいいよ。睡眠時間も取れてるし。まあ冬眠から覚めた直後は眠くて眠くてしょうがなかったけど、今は全然平気だし。だから、単純に慣れるまでの辛抱なのかなって思ってる。ケルビンこそどうなの?涼しい顔しちゃってるけどさ」
「私は特別不調なことなどありませんよ。こうして任務も滞りなく遂行出来ています」
「へえ、すごいね。ケルビンってさ、具合悪くなったり精神が乱れる時とかあったりするの?例えばイライラするとかさあ」
「苛立ちや焦燥は日常生活において何かしらの負の要因を招きかねませんからね。経験したことがありません」
「ええ?そんなことってあるの?だって人生自分の思い通りに行くことばかりじゃなくない?それでもそのスタンス崩さないの?」
「不測の事態には対応を模索するだけですよ。それで言うなら、たった今この現状をどう対処するべきか、考えねばなりませんね」
「はいはい、あと聞きたい事は?」
「先ほど冬眠の件についてお話しされていましたが、セルに入ることに対して不安に感じることなどはありますか?」
「うーん、まあ装置の中に閉じ込められるっていうのは単純に抵抗感あるけど、まあ入ってる間僕は寝てるだけだからなあ。次こそ夢で記憶の整理でもしようかな、って思うぐらい」
「本当にそんなことが自発的に可能なんですか?」
「たまたまそういう状況になったことがあってさ──夢の中で自分自身、”これは夢だ”ってわかってて、記憶のデータを辿ってるって感覚ね。それで起きた時に、ああこれが脳の記憶整理、夢の本質かって思ったんだ。次フェリスを出たらまたすぐセルに入るでしょ?だから少し楽しみではあるかな」
「明晰夢、といわれるものですね」
「そうそう、ケルビンはどんな夢見たことある?」
「私は夢を見た記憶がありませんね」
「え、人生で一度も⁈──やっぱケルビンって僕にとっては特異な存在だわ。だって僕のデータと全然違うところに居るんだもん」
「その言葉はそっくり返させていただきますよ。──まあ、不調を訴えている割には、それをも凌ぐ興味のお陰で適応できている、というところでしょうか。…問題なさそうですね」
「え、なんか締めに入ってない?」
「お疲れ様でした、ラビ。カウンセリングは終了です」
「もう?とりあえず今はこのぐらいでいいかなって感じ?」
「あなたが自発的に情報を提供して下さるお陰で、大変スムーズに進行出来ました。実に助かりました」
「記録も取ってない感じだしさぁ…ケルビンってもしかして僕と同じタイプだったりする?」
「どういうタイプです?」
「脳にデータを記憶しておくタイプってこと。目に見えるものに残さないで、自分だけで情報を握るのが好きなのかなと思って」
「であれば私はあなたとは違いますね。報告書は残しますから」
「そういうことじゃないんだって分かってるよね⁈──まあいいや、まだカウンセリングは回数あるんでしょ?今日はこの辺で引き下がろう」
「ええ、楽しみにしています。ではどうぞ、お引き取りを」
「はいはい、またね」
◉対象者:ヴィクター
「お疲れ様です、ヴィクター隊長。どうぞおかけください」
「俺が最後か?」
「ええまあ…結果的にはそうなりましたが、意図したものではありません」
「…で、何を聞かれるんだ?」
「まず環境に適応できていると自覚しているか、お伺いしたいですね。現状、体調に違和感はありませんか?」
「さっきメディカルチェックをしただろう」
「数値的には問題ありませんでした。覚醒後の不調もごく一時的なものだったと存じます。ただ、感覚と乖離していないかの確認です。体調面だけでなくとも、集中力が途切れるとか、やけに眠いとか、そんな事でも構いません」
「無い」
「では、覚醒時の状態の予兆なども無かった?」
「そうだ」
「実際セルに入ったことによる不安や緊張などは──」
「無い」
「…なるほど。──随分あっさりと終わってしまいそうです。…もし差し支えなければ。個人的な関心からひとつお伺いしてもよろしいでしょうか?カウンセリングとは別件です」
「──手短にな」
「今回の任務にあたり、あなたはエシュロンに”監視範囲の制限”を申請されたとおっしゃっていましたが…」
「それがどうした?」
「いえ、単純にあなたは…ハイラントでの生活に違和感がおありだったのかと思いまして」
「特段、嫌気が指している…なんて事は無いがな」
「──意図は、あの時お話の通りですか?」
「そうだ。簡単な話だ。今回の作戦のクルーがお前みたいなエリートばかりだったなら口は出さなかった。決まってみればお前以外”外の人間”だったんでな、ハイラントから遠く離れる危険任務中ぐらい監視を緩めてやった方が作業精度が上がると考えたまでだ」
「では、それ以外の深い意味は無い、と」
「あると思うか?」
「…いいえ、私としては”管理外”というのが初めての試みですので、敢えてそうする特別な理由がおありなのかと思ったのですが、あなた方にとってはそうではないのですね」
「…そういう事だ。お前も初めての試みを堪能してみるといい」
「──そうですね。記録でも取って報告書に纏めてみることにします」
「…じゃあ、──こんなところでいいか?」
「ええ。お時間いただきありがとうございました。では」
変わらぬ景色の中、クルーたちはフェリスにて眠りにつく。冬眠を経たとしても、日常のリズムを崩してはならないのだ。彼らが眠る間、静かに機械だけは動き続ける。そうしてまた日の昇らない朝が来れば、クルーたちは起き出して任務を続行する。──それが再び長期的な冬眠に入ることだとしても。
そして彼らは、まるで夢と現実の境を漂うように、暗い宇宙を進んでいくのだ。