Phase_00:LAUNCH
1人の青年がノートリウムで静かに食事を摂っている。仕切りが無く開放感のある天井の高いホールは、テーブルや椅子、食器類に至るまで白で統一されている。壁の一面だけは全体が大窓になっており、そこから見える景色だけはスクリーンのように色づいているが、それでも土だけの広野と空、遠くに見えるコンクリートの防護壁のみだ。自然光と白色照明に照らされたこの部屋は凹凸が曖昧で平坦に見える。本日は快晴。地上500m以上の高さにあるこの場所では、窓の外の青空すら単色の紙を貼り付けた作り物のようだ。
4人がけの席には青年しか座っていない。周囲には同じく食事中の姿が多数見受けられる。彼のように1人で時間を過ごす者もいれば、複数人のグループで同じテーブルについている者たちも見受けられるが、誰もが静かに食事を摂っていた。
ふと、足音が青年に近づいて来る。しっかりとした足取りのそれに、青年はほんの一瞬反応を見せただけだった。しかし、足音は彼の向かい側で止まり、食事のトレーがテーブルに追加される。そこで初めて視線を上げれば、そこには1人の女性が立っていた。
「隣、いい?」
有無を言わせない視線で見下ろされた青年は、持っていたフォークで彼女のトレーを軽く指し示す。
「…もう置いてるだろ」
それだけ言って食事を再開した青年に、女性は逡巡するように視線を外したが、すぐに椅子を引いて席についた。
ボイルされた野菜をつつく青年の向かいで、女性はスープに入れたスプーンを小さく泳がせるだけで口には運ばない。一瞥だけして構わず食事を続ける青年に、ようやく声がかかる。
「ちゃんと止めたの?」
青年の手が止まる。今度はしっかり視線をやれば、真っ直ぐな視線と目が合った。
「は?」
「ハンス、とぼけないで。アランの事よ」
女性の目つきが鋭利になる。わずかに寄せられた眉間をひたと見つめながら、青年──ハンスはフォークを持った手を置いた。
「聞いてるはずでしょ?心臓に爆弾を抱えてる人間が宇宙に行くなんて無謀だし、正気じゃない。メディカルチェックだってギリギリの評価だったはず。何よりなぜこの状態の彼にエシュロンからの許可が下りたのか不思議でならないけど…アランは、あんたが止めた上で参加を望んでるの?それとも止めなかった?」
「止めたよ…一応は。でもお前も知ってるだろエヴァ?アランは空を飛びたがってた。ガキの頃から、あの秘密基地で…」
「旅客機と宇宙船のコックピットじゃ話が違うわ。取り返しのつかないことになったら…」
「アイツが我を通すなんて初めての事だった。説得なんて無意味だと思ったんだ、途中から」
静かに絡み合った視線を、先に外したのは女性──エヴァの方だった。
「命に関わる事なのよ?…あんたは兄弟なのに、たったひとりの」
「だから俺もサブで念のため着いてってやるんだよ。お前もだろ?」
「私は…ただ、指示が下りたから行くだけよ」
エヴァは呟くようにそう言って、スープを一口スプーンで掬った。ハンスはため息をひとつ吐くと椅子の背もたれに背を預けた。
「なあ、ここにいるとさ、”幸せって何なんだ”って思う時、ないか?」
エヴァが手を止めて顔を上げる。ハンスは窓の外に顔を向け、遠くを見ていた。
「ここは争いも無ぇし、疑問さえ持たなきゃ苦しみも無い。誰もが与えられたものを受け入れて満足そうに見える。でも結局、”お前の能力に見合った役職だ”って上から割り振られたことを淡々とこなしてるだけだ──エシュロンの言う通りに」
独り言のようにハンスから紡がれる言葉を、エヴァは黙って聞いていた。今その他にこの空間で響いているのは、わずかな機械音と、カトラリーの鳴る音だけだ。
「アランは違った。普段優等生なくせに、この件だけは譲らなかった。あんなアランは、初めて見たんだ。だから俺は、じゃあ行けよって言った」
「──そう」
エヴァはそれだけ返して、諦めたように息を吐いた。そしてもう一度、今度は深呼吸するように大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。そして、スプーンを再びスープに沈め、小さく吐き捨てるようにこう言った。
「バカね」
そして、2人のテーブルにも沈黙の食事風景が戻る。彼らの会話を盗み聞く者は、この塔には誰一人存在しない。
ここは、荒廃した地球で唯一発展した、”秩序”と”統制”の象徴である白亜の理想郷──『ハイラント』なのだ。
かつて地球では、資源、領土、思想を巡り、各国が代理戦争を繰り返した。表面上は”地域紛争”であったとしても、その背後には常に大国の意図が潜んでいた。
やがて、とある”ならず者国家”が制止を無視する形で核兵器を使用。それを契機に複数の大国が連鎖的に報復に踏み込む他ない状況に陥った。やがてそれは地球規模の戦争となり、破壊は文明を超え、環境と、人間の尊厳を崩壊させた。
──人類史上最大の愚行は、記録ではなく封印の対象となったのだった。
2157年──地球の破壊率が80パーセントに到達しようと言う頃には、人類の文明レベルはほとんど崩壊していた。放射能汚染区域の合間を縫うようにして住処を探し、汚染におびえながら廃墟を修復し、わずかな作物と酪農で命を繋いでいた。荒れ果てた集団が平和な集落を容赦無く襲い、襲撃を受けた側は武器を手に取って応戦する──破壊と略奪が蔓延したこの世界において、戦いとはもはや防衛本能に過ぎなかった。文明を失った結果争いは小規模に留まり、大規模な虐殺が起きることはなかったが、一方ではその予兆もあった。「地球を破壊した人間は異端の存在であり、滅びるべきだ」と主張する集団が現れたのだ。もはやいまだに人類が滅びていないのは、文明が存在しないがゆえだった。
しかし、ハイラントだけは違っていた。地表から剣のように何本も突き出す、天を衝く白亜の塔。それは、かつての文明を遥かに凌ぐ高度な技術によって築かれた、まさに”理想郷”だった。世界中の文明の残滓を吸い上げて完成した楽園は、やがてその目を宇宙へと向ける。標的となったのは、遠方で観測された正体不明の惑星──新たな希望か、それともさらなる愚行なのか、それはまだ誰にもわからない。
地下2000メートル付近、地下施設アンダーデッキ内最終セキュリティハブ。壁面や床はダークグレーで覆われ、天井が広く設けられた円筒形の空間には、白いLEDライトが所々に設置されているのみで少々薄暗い。ここからさらに地下に存在する構造ライン、観測ラインなど、各層へ続くセキュリティ降下チューブ用の分岐路が存在する。作業者は地上からの人員用リニアリフターでまずここに降り立ち、スーツアップルームにて装備を整え、最終セキュリティを抜けた後に各セクションへと下りていく。
そのセキュリティハブの一角に、ハイセキュリティのV.A.L乗降口はあった。このヴァーティカル・アクセス・ランチャーは、地下20kmにあるスペースプレーン乗降口までの距離を10分程度で下降する。この普段は誰も出入りしない特別区画に、現在6名の人物が集合していた。
彼らは一様に、地球から宇宙までを1着で移行可能な統合型スマートスーツに身を包み、静かに、しかし張り詰めた緊張感を纏いながら最終チェックを進めていた。
「では、お一人ずつゲートを通過してください」
ストラップで固定された眼鏡のブリッジを上げながら、片方の黒髪を耳にかけた切れ長の目を持つ男がクルーたちを促す。声は柔らかいテノールであるのに姿勢が異様なほどに正しく、どこか硬質な印象のある人物だ。すると、小柄な少年が隣に立つ人物を肘で小突いた。
「お先にどうぞ」
少年は額を出した長めの癖毛を撫でつけながら、仰々しい動作で先を促す。促された青年は一瞬たじろいだ。
「では、アラン・ローワン、どうぞ。流れを乱したくありませんので、その後はハンス、エヴァ、ラビ、ヴィクター隊長と続いてください」
「ああ、了解」
腰ほどの高さの細い柱の間を、アランと呼ばれた青年が通過する。すると瞬時にスキャンされた情報を元に、柱のランプがグリーンに点灯した。アランは安堵したように胸に手を当て、小さく息を吐く。しかし振り返る時には穏やかな笑みを浮かべて次の人物を待ち受けた。その後も順調に、ハンス、エヴァ、ラビ、ヴィクターと問題なく通過する。振り返ったラビが、その場で手元のタブレットを操作して最終確認を行なっている眼鏡の人物に呼びかけた。
「ドクターケルビン、流れが乱れてるよ?」
「ええ、分かっています」
ケルビンと呼ばれた男が、タブレットを小脇に抱えてゲートを問題なく通過する。そして再びタブレットを軽く操作して小脇に抱え直した。
「全員異常なし、ですね」
「ああ、いよいよ飛び立つ時が来たな」
最も背が高く、屈強な壮年男性が低い声で静かに答える。彼はこのクルーをまとめる隊長らしく、厳格な空気を醸し出していた。全員が緊張の面持ちで頷く。約一名、ラビを除いては。
リフトの乗降扉が音もなく開かれる。内部は一見普通のエレベーターだが、これは局所的な人工重力を用いることで、地上のエレベーター同様の快適な空間を保ったまま、高速で人員を下降させる高性能リフトだ。扉の前方だけが窓になっているが外はレール部分が見えるのみで、他はハブ同様にダークグレーの箱型だ。天井の白いLEDと床や壁面を象るようなライン上の細い蛍光ライトが静かに彼らを迎えた。
「みなさんこんにちは。私は統合航行管理AI、レムと申します。母船エヴォリスからVAL内に通信しています。本任務は惑星OSX-9への初期下降探査、任務コード”アークウェイ”です。乗員の生体パラメータは現在正常。これより約10分で、地下20kmのシャトル乗降口まで下降します」
リフト内に入ると、窓がモニターに変化し、宇宙から見た地球の映像が映される。同時に機械音と成人男性のテノールが混じったようなAI音声が流された。間もなく、何の衝撃もないスムーズな動きでリフトが下降を始める。クルーはそれぞれ、壁に背を預けたり、手すりを掴んで体制を維持したりしながらそれを聞いていた。
「乗降階層へ到着後は、速やかにシャトル間リフトへ移動してください。リフトはそのままシャトルに直接ドッキングします。乗降後はスリーブエリアにてパーソナルケースの最終確認を行ってください。その後、各自コックピットシートに着席し、発射準備をお願いします」
淡々と発射までの手順が述べられる。まるで動いていないような、衝撃の無いリフトの中でそれを静かに聞き入れながら、ハンスは少し前の過去を反芻していた。
惑星OSX-9有人探査『アークウェイ作戦』。ハンスの中でこの話が浮上したのは、ハイラント防護外壁での警備中という日常のさなかだった。ハンスの所属する警衛(DEF)セクターには、大きく分けて二つの役割が存在する。ひとつはハイラントの塔を中心として半径約3kmの位置を取り囲む防護外壁等のエリア内警備、もうひとつは主に外部交流(EXL)セクター職員からのリーク情報で結成される、”不穏分子掃討作戦部隊”でのエリア外警備だ。前者をセンチネル、後者をダートと言い、掃討作戦の命令が下りない場合は全ての隊員がセンチネルとしての任務を行なっている。部隊はいくつかの小~中隊に分けられており、ハンスはこのうち、”ヴィクター・ソーン隊長”指揮下にある第3部隊に入っていた。
第3部隊は、ハイラント内でもっとも変則的且つ実戦的な部隊だ。隊長であるヴィクターが、戦闘スキルを認められて外部招致で住民となった、いわゆる”外の人間”であるためだ。センチネル部隊として働く頻度よりもダート部隊としてエリア外に出向くことが多く、その名目も、掃討作戦や偵察など多岐に渡る。
ハンスも、ヴィクター同様”外の人間”である。5歳の時に兄のアラン、幼馴染みのエヴァと共にヴィクターに助けられたことが切っ掛けで住民となった。故郷は、空港施設跡地を拠点としていたとあるコミュニティだったが、突然の襲撃に遭って壊滅した。ハンス自身には記憶がほとんどないが、当時”秘密基地”にいた自分たち三人は襲撃の難を逃れ、事後処理に訪れていたヴィクターに救助されたのだという。ハンスは、自分に警衛セクターの適正が出て所属することが決定した時、ヴィクターの隊に配属されることになったのは、自分が彼と同様に”外の人間”であることが大きな要因なのだろうと密かに察していた。
ヴィクターは、もとより多くを語らない寡黙な人間だ。発せられるのは任務説明や指示ぐらいのもので、世間話は滅多にしない、どこか一匹狼のような気質のある男だった。入隊してからの約10年間で、ハンスはヴィクターの弱みを垣間見たことすら無かった。
「お前は確か、戦闘機操縦のプログラムを受けていたな?」
それは突然の問いかけだった。2人でゲートの警備をしていた際、無言を貫いていたヴィクターからそう聞かれたのだ。ハンスは目を瞠って彼を見遣ったが、視線は合わなかった。
「ああ…まあ」
「何故だ?」
戸惑ったことが原因で曖昧な返事となったが、すかさず続いた問いに、さらに困惑する。こうした個人的な話はは初めてなうえに、屈強な体躯に重厚な声と、相手が普段醸し出す威圧感も相まって、ハンスは思わず固唾を飲んだ。
「何故って別に…なんとなく、ですが」
視線を逸らしながら呟くように返すと、ハンスは顳顬に相手の視線を感じて、背筋に冷たいものが走るような感覚を覚える。ただの世間話なのかもしれないが、どこか尋問じみていて居心地が悪い。──それは、質問内容が原因であるかもしれなかったが、ハンスはそれをヴィクターのせいにして誤魔化した。
「…もし、お前の兄が、宇宙に飛び立つことを望んでいるとしたら──手を貸すか?」
「…え」
思わずハンスがヴィクターを振り返ると、今度はしっかりと視線が合う。その目が、例え話ではなく確定事項だと物語っていた。
「それは、どういう…?」
「人類が移住できる可能性の高い未知惑星が発見された。本格調査には有人探査が必要不可欠だ。アランが、その主任パイロットを志望している」
端的に淡々と、嘘のような言葉が紡がれる。ハンスは困惑しながらも、どこか焦燥感のようなものを覚えた。
「航行期間は、合間に人工冬眠を挟みつつ約一年が予定されている」
二の句を継げないハンスに対し、ヴィクターは更に続ける。明らかに動揺の表情を浮かべ、ハンスは剥がすようにヴィクターから視線を外す。
「人類としては初の長期探査となる。要であるパイロットは、層が厚い方が良い」
話半分でヴィクターの言葉を耳に入れつつ、ハンスは端末を懐から取り出した。アドレスからアランの名前をピックしたところで、再びヴィクターから声がかかる。
「休憩時間になってからにしろ」
ハンスは思わず舌打ちをし、緩慢な動作で端末を懐に戻した。隣でヴィクターが、小さくため息を吐いたようだった。
かくしてハンスはその後、無事アランに説得を試みたが、彼の意志は固かった。子供の頃によく遊んだ秘密基地──廃旅客機のコックピットの中で、アランはいつも空を夢見ていた。今思えば、13歳ともなれば周りの子供たちは力仕事に従事したり、戦闘訓練に励んでいたりしたものだったが、アランは心臓に持病を抱えていて激しい運動が出来なかった。その分、自分を二の次にしてまで8つも年下のハンスやエヴァの面倒をよく見てくれていたのだ。そんなアランはハンスにとって、誰よりも”大人”だった。エヴァもまた、多忙な自分の兄の代わりにアランを慕っていたように見えた。そんな幼少期を思い出しつつ、ハンスはヴィクターにサブパイロットを志願した。そしてそれは、滞りなく許可されたのだ。
事前訓練での最初のブリーフィングで、ハンスは改めてクルーメンバーを把握した。人類初の長期探査ミッションでは、隊長をヴィクターに据えた少数精鋭が抜擢されたという。ハンスはヴィクターとアラン、エヴァ以外の2人に関しては初対面だったが、自己紹介を経て、どうやら曲者らしいと知ることとなった。
「本作戦の隊長を務めるヴィクター・ソーンだ。普段はDEFセクターの第三部隊隊長を勤めている。では、初対面の者もいると思うので、各々自己紹介をしてくれ」
ブリーフィングルームでヴィクターが円卓を囲んだクルーたちにそう促すと、最初に口を開いたのは隣に座したアランだった。
「主任パイロットのアラン・ローワンです。構造管理(STR)セクター所属、普段はアンダーデッキで機器製造の仕事をしつつ、リフレクションタイムを利用してパイロット訓練をしてました。どうぞよろしく」
穏やかにアランが自己紹介を終えると、ヴィクターの視線がハンスに流れされた。軽く眉間に皺を寄せて、ハンスが口を開く。
「サブパイロットのハンス・ローワン。DEFセクター所属、第三部隊隊員。戦闘機操縦の実績がある」
まるで業務連絡のようなそれに、アランが軽く苦笑したようだったが、ハンスは知らぬふりを決め込んだ。そんな彼にエヴァが続いた。
「構造保守技術士、エヴァリン・カーです。普段はSTRセクターで機器整備などをしています。本作戦では全船体の内部構造保守・管理、外装保守などを一手に担います。よろしく」
言葉遣いだけは丁寧に述べられたが表情は硬く、どこか堅物で職人気質が伺える物言いの彼女はそれだけ言うと、これで終わりと言わんばかりに目を伏せる。すると、意図せず並び順となっていたのを察して、エヴァの隣に座っていた少年が不敵な笑みを浮かべた。
「僕はラビ。向こうでの環境調査とかをやる係だから、公式的には先行環境調査員ってことになってるんだけど、なんかピンとこないんだよね。僕的には、未知なる環境を探るわけだから”未知的環境研究員”って肩書の方がしっくりくるんじゃないかって思ってるんだけど、まあどっちでもいっか。普段は資源生成(RES)セクターで興味分野の研究をしてて…ああ、項目が多すぎてここでは全部言えないや。とにかくよろしく!」
その場に一瞬の沈黙が落ち、眼鏡のブリッジを直すような小さな音だけが響く。独特な自己紹介に、ハンスは心の奥底で小さな燻りのようなものを感じた。ラビは語り口も容姿も規格外に見えた。白に近い金色の癖毛にアース・アイ。小柄な体躯に纏った白衣はぶかぶかで、何もかも統制されたハイラントではまずお目にかかれない種類の少年だった。
それに対して咳払いとともに、最後に口を開いたのはまさに”ハイラント出身者”だった。オフセンターパートの黒髪を片方撫で付けて耳にかけ、細い眼鏡の奥にある紫の瞳でひたと周囲を見据えている。そこまではまだ普通の範疇だったが、伸ばされた姿勢、硬質な表情、無駄のない視線の動き…ハンスから言わせれば”お利口さん”の特徴が、その人物には揃っていた。
「医療主任のケルビンと申します。任務中の生体管理、心理サポート等が主要任務ですが、ヴィクター隊長の補佐的役割として安全管理審査も担う予定です。エシュロン直属の上級職員として、安定した任務遂行のため尽力いたします。どうぞよろしくお願いします」
エシュロン直属の上級職員、つまりはハイラントで規定されている最上級ランクに位置するエリートということだ。ハイラントでは、PIランクと呼ばれるパーソナルランクに応じてアクセス可能な権利や物資が決められている。ランクは1から4まで存在するが、PIランク4を所持する人間は両手で事足りる人数しかいない、という噂をハンスは聞いたことがあった。
「では、作戦概要に入る。ケルビン、頼めるか」
「ええ、承知しました」
一通り自己紹介が終わると、ヴィクターがケルビンに概要説明を促す。彼は普段、掃討作戦などは自ら説明を行うが、それをしないのは珍しい。今回は専門的な用語も多いからなのか、ケルビンに任せる気のようだ──ハンスはそう解釈した。
「以前より観測室にて、土星の軌道外に突如、正体不明の惑星らしき反応が観測されていました。以降はこれをOSX-9──通称<レベル9>とします。このOSX-9は大気成分や質量、重力が地球と酷似しており、自然や水が存在する可能性が高い。かねてより模索していた”人類移住”の希望が持てる星であると推測出来ることが分かりました。既に無人探査機を送ってはいますが、周辺到達後に通信が途絶え、わずかなログしか回収出来ていない状況です。以上の理由から、エシュロンは今回の有人探査を決定しました。我々の目的は、当該惑星に着陸し、大気及び地質調査、物理サンプルの採取、生命体の有無を確認することです。クルーには、各分野で一定水準以上の能力を持つ職員が、必要最小限の構成で選抜されています」
ケルビンが、中央の3Dホログラムを操りながら淡々と説明する。画面が移りゆくテキストから惑星分布図に変わると、地球から土星までの各惑星のそばに、それぞれ人工衛星のような表示が追加される。ケルビンが話を続けた。
「往路・復路同様、火星・木星・土星軌道上に待機する中継ステーションで補給や調整を挟みながら目的地まで移動します。OSX-9の滞在一週間を含め、全行程約一年の予定です。我々が乗船するのはトーラス型の母船『エヴォリス』。遠心力による人工重力で通常の生活空間を保てる上に、超高速移動も可能とする優れものです。高速移動中は人工冬眠装置”ステイシスセル”により眠ることになりますが、その間の運行や生体管理は母船AIであるレムが管理します」
次々とホログラムが変化し、ケルビンの説明に補足が加えられる。ハンスはそれを眺めながら、本当にこのホログラム映像の中に入るように宇宙空間へと飛び立つのかと、作戦自体を空想的なもののように感じていた。
「一旦説明終わり?」
説明が途切れると、椅子に寄りかかって肘掛に頬杖をつき、随分とリラックスした体勢で話を聞いていたラビが口を開いた。全員の視線が彼に向けられる。ハンスも微睡から醒めたように彼に視線を向けた。ケルビンが眼鏡のブリッジを持ち上げ、短くそれに受け応える。
「何か?」
「いや、いくつか聞きたいことがあってさ。まあ別に、わからなくてもそれはそれで面白いからいいんだけど」
「…どっちだよ」
思わずハンスがぼそりと呟く。ラビはそんなハンスを一瞥しただけで、今度はテーブルに身を乗り出す形で頬杖をついた。
「”突然現れた正体不明惑星”ってさ、そもそも存在しうるの?もしそうなら周辺の天体に影響は?通信が途絶えるっていうのが現象的なものなのか作為的なものなのか、そこらへんの判断も出来てない感じなの?」
まるで小さな子供がするそれのように、ラビからケルビンに向かって疑問が投げつけられる。ケルビンは腕を組むとため息を一つ吐いた。
「その諸々の事を調査するのが我々の役目です。ラビ、想像を展開するのは出来るだけ控えてください。あらゆる事情に備えるのは賢明なことですが、それが過ぎると致命傷にもなり兼ねません」
「別に、備えるために色々聞いてるんじゃなくて、単なる興味ってだけだよ。ただ分からないなら分からないなりに、何かしらの”見解”があったりするのかなって思ってさ。ま、どうやらそういう話は無用と考えてるようだから、これ以上この話続けるのは賢明じゃないかもね」
ラビはそう言ってつまらなそうに肩を竦めた。ハンスの隣では、あの温厚なアランですら呆気にとられたような表情を浮かべている。
「…ケルビン、続いて訓練の行程を頼む」
冷静ながらもどこか呆れたような声音で、ヴィクターが話を戻す。ラビはまた背もたれに寄りかかってそこで頬杖を付いた。その場に微妙な空気が流れる中、ハンスは心の中で、「先が思いやられる」と溜息を付いた。
「ねえ、初めて喋ったけど、レムってちょっと堅苦しくない?」
記憶の旅に出ていたハンスの耳に、少年の能天気な声が飛び込んでくる。腕を組んでVALの壁にもたれかかっていたハンスは顔を上げ、向かい側でモニター画面に向かって語りかけるラビに視線を向けた。すると、隣に立っていたアランがふっと小さく笑う。
「そうだな…レム、君に、もう少し親しげにって頼むことは可能かな?」
アランがラビと同じようにモニターに向かって話しかける。どうやら訓練を経て、アランはあの厄介者のラビの扱いを覚えたらしい──ハンスはそう思いながら黙って見守る。昔から、歳の離れた子供に対しては特に寛容だったと半ば呆れながら。
「どのような形式をお望みですか?」
律儀にレムが答えると、ラビは瞬間的に思考を巡らせてすぐに提案する。
「旅行前っぽい感じに出来る?”ようこそエヴォリス航空へ!この便はOSX-9行きです。みなさん快適な空の旅をお楽しみください”…みたいなさ」
「よく知ってるな、ラビ。レム、過去の航空データなんかの知識があったら、是非頼むよ」
ラビの提案にアランが便乗する。”航空”に関することになるととてつもない興味を示すのは昔から変わらない──そんな事を思いつつ、ハンスがラビの隣に佇むエヴァを見やれば、視線が邂逅した。どうやら同じような事を考えているらしい。
「ようこそ、エヴォリス航空へ。本便は、人類未踏の宙域を経由し、正体不明惑星OSX-9を目指す特別便です。快適な旅路のため、重力制御、生命維持装置、ステイシスセルの作動をご確認ください。なお、目的地の環境に関する安全保障、ならびに帰還確約は現在未対応です。あらかじめご了承ください。それでは、快適なエヴォリスでのひとときをお楽しみください」
前よりもトーンの上がった声で、レムがスラスラと口上を述べた。アランとラビは互いに顔を見合わせる。冷静な表情が常のエヴァでさえ、レムの変容に目を瞠っていた。
「いかがでしょう?」
「最後不穏過ぎないか?」
レムの問いかけに、ハンスが思わずそう投げかけた。
「AIジョークじゃない?」
「ブラックジョークというだけの気もするが…」
平然と笑うラビに、苦笑するアランが続く。エヴァはどこか郷愁的な目をして口の端をわずかに持ち上げていた。
「…そろそろ到着しますよ」
一連のやり取りを微動だにせず黙って聞いていたケルビンが、冷静な声でそう告げる。圧力や温度、振動などが全て調整された快適な箱の中で談笑しているうちに、どうやら地下20kmという深淵まで到達間近となっていたらしい。ケルビンの隣で腕を組んでいたヴィクターが咳払いをすると、再び静かな緊張感がその場に蘇った。
六人はVALにドッキングした移動用リフトに乗り込んだ。さらにそれがシャトルと接続されると、そのまま乗船エリアへと導かれる。スリーブエリアでのパーソナルケース最終確認を終え、全員が所定のシートに収まると、透明なハーネスが自動で肩と腰を固定した。音が濃縮され、閉じ込められたような沈黙の中、着々と発射準備が整えられていく。垂直に据えられたシャトルの内壁に沿って、天に向かって並ぶシート。それに身を預ける感覚は、眠りに就く前の一瞬に似ていた。
「発射プロトコル、待機モード」
レムの音声が、刺すような静寂の空間で振動となってハンスの耳を刺激した。先頭座席に座る彼の隣は、メインパイロットであるアランのシートだ。視線だけで様子を伺うと、アランは僅かに自由な腕を動かし、胸に手を当てて待機していた。
静寂に機械音が積み重ねられていく。すると熱はないのに、空気がじんわりと膨張していくような感覚を覚える。誰も言葉を発さず、機械音の音量だけが上がっていく。それは、”これから宇宙へ行くのだ”と背中を押す声のようだった。
「カタパルトロック完了。このシャトルは大気圏を通過し、安定速度となった時点でマニュアルパイロットに切り替わります。それではみなさん、しばしスリリングな空の旅をお楽しみください。エヴォリスにてお待ちしております」
「ねえアラン、君の操縦がスリリングだってレムが言ってる」
沈黙を貫いたのはやはりラビだった。その言葉に、アランが小さく肩を揺らす。
「紛れもないジョークだな」
アランがそう言って笑った時、積み重ねられた音の層が、ついに臨界に達した。
「発射カウントダウンを開始します。──10、9、8…」
カウントダウンが始まる。衝撃に身構え得るように瞬きを耐える者、逆に目を閉じる者──再びの沈黙。
「3、2、1──発射」
瞬間、世界が押し潰された。肉体がシートに縫い付けられるようなGが全身を支配する。肺から空気が追い出され、心臓が骨の奥に引き戻されるような感覚。ハンスの視界がぐらつく。音がすべての壁を突き破って押し寄せ、鼓膜の内側で爆ぜる。周囲の様子がすべて、遠のいていく。シャトルは、真空のカタパルトを垂直に疾る。数秒後、大気圏を突き抜けた先で、空気のざらつきが急に途切れた。
──静寂。急激に訪れる、無音の世界。空に突き上げられたのに水中に飛び込んだかのような、浮遊感…まるで夢の中のような。離れゆく陸地など、目に映る間もなかった。ハンスがこのほんの数秒の感覚に溺れている間に、シャトルは宇宙へと辿り着いていた。
「……初期加速、終了。外気圏通過。マニュアル操作への移行準備に入ります」
レムの音声により、肩のハーネスが外された。誰もが一様に一息吐くさなか、アランとハンスの目前にある操作パネル群の中央から、操縦桿が姿を現す。隣でアランがすかさずそれを握り、周囲のレバーやスイッチの確認作業に入った。慌ててハンスもそれに倣う。
「ハンス、無線通信とレーダーのチェック。電磁シールドは問題なさそうだ」
「了解」
外を見る間も無く作業に入る兄弟の後ろで、コックピットの天窓から宇宙の景色を眺めていたラビが感嘆の声を上げた。
「すごい、本当に宇宙だ。なんかもっと感動するかと思ったけど、意外と景色はふつうなんだ。ねえ、エヴァ?」
「…機体の損傷や異常も無しよ」
エヴァはラビの声を受け流しながら、その隣で淡々と機体の確認作業を始めていた。素っ気ない態度にもかかわらず、ラビは面白そうに口元をにやつかせただけで何も言わない。
「予定ではマニュアル操作後、約10分後にエヴォリスと接続予定ですが、いかがですか?」
後方の席に座るケルビンが操縦席に向かって声を投げる。
「推力も問題ない。このまま行けば8分でエヴォリスに到着する」
「エヴォリスはまだ見えない?」
ハンスが答えると、天窓を見上げていたラビが退屈そうな声を差し込んだ。操縦桿を握りながら、アランが小さく笑う。
「エヴォリスが見えるのは到着の3分前ぐらいになるかな」
シャトルは安定した航行で音もなく進む。振動はほとんどなく、外の景色にも変化はない。まるで、どこにも進んでいないような錯覚すら覚える。操縦席にある計器やデジタル表示だけが、シャトルの進行を物語っていた。
「目的地が待ちきれない子供じゃないんだから、大人しく外を見ていたら?」
パネル操作で船内のチェックを終えてひと息ついたエヴァが、呆れたようにラビにそう投げかける。ラビは肩を竦めた。
「だって、こうも景色が変わらないんじゃさ。これじゃあ部屋の窓から夜空を見てる気分。母船が浮いてるのさえ見えたら、”ああ宇宙なんだな”って実感出来ると思ってね」
「このシャトルに乗ってるだけでも、充分実感出来ると思うけどなあ」
アランがそう言って操縦桿を軽く撫でた。
会話がひと段落した頃、漆黒の宇宙の向こうに、白い影がゆっくりと浮かび上がった。アランが受信した自動誘導信号により、推力がエヴォリスの航行軌道に同期される。3キロ圏内に差し掛かる頃には、白く巨大なトーラス構造が目前に迫っていた。
まるで宇宙に浮かぶ環の神殿のように、母船エヴォリスは無音の空間で凛と佇んでいた。中央のコアモジュールを中心として、四本の柱を支柱にその周囲をトーラス型のモジュールが囲んでいる。
「自動誘導リンク、完了」
ハンスが確認すると、シャトルの機体が微かに姿勢を変える。アランが操縦桿に軽く手を添え、わずかな補正操作で進入角を合わせた。
「誘導軌道に入った」
アランの操縦に合わせながら、ハンスがサブパネルの表示を端目に呟く。まるで宇宙と母船との狭間に、見えない道が伸びているようだった。
シャトルは、コアモジュール下部側面のドッキングベイに近づき、一定距離を保ったまま減速。次第に視界の隅が白い船体の陰に満たされ、ついには全面が構造物で覆われる。重力の外れた空間で、移動の感覚は曖昧になる。それでも、機体がゆっくりと引き寄せられていくのが分かった。
「接続リング接近──ドッキング完了」
モニターを確認し、アランが慎重に操縦桿を操作しながらひとつひとつ工程を確認するように呟く。シャトルの機体が微かに軋む音を立てた。
「エアロック、開放開始」
電子音とともに船内照明が切り替わり、警告灯が消える。圧力差の調整が行われる一瞬、全員の鼓膜が軽く震えた。船体内部から、金属の響きにも似た低い音が伝わってくる。
「ようこそ、エヴォリスへ」
静かな空間に、レムの音声が響いた。出発前での調整の賜物なのか、どこか柔らかく、湿度が含まれている。ラビが大きく伸びをしながら息を吸い、細く長く吐いた。
「──やっと本物の船についたって感じ」
「貴方の”本物”の定義は分かりかねますが、我々の視界に入っているものは須く本物ですよ」
眼鏡のブリッジを直しながらケルビンが言い放った正論に、ラビは肩を竦めて舌を軽く出した。
「ねえ、この人AIよりも冗談通じない」
思わず笑ったアランに、ケルビンが冷えた視線を投げる。そんなやり取りを背に、エヴァはドッキングベイ側の扉へと目を向ける。数秒の静寂の後、シャトル側の内扉が開く。金属製の通路がゆっくりと延び、母船内部のエアロックハッチと繋がる。その先では、緩やかな照明に照らされた無人の空間がクルーを待っているのが見えた。
それまでケルビンの隣で沈黙を貫いていたヴィクターが席を立ち、全員に視線を送る。彼は開いた内扉の縁をなぞり、その先の通路をひたと見据えると、ゆっくりとクルーを振り返った。
「乗り込むぞ」
ヴィクターの静かな一言で、クルーたちは順番に立ち上がり、通路へと足を踏みたした。異なる重力の移行に一瞬ふらつきながらも、六人の影は母船の奥へと吸い込まれて行くのだった。
無重力空間を泳ぎながら、一行はドッキングベイからコアモジュールのコックピットへと向かう。訓練通りスムーズに通路を進む大人たちの後ろに、遊ぶようにふらふらと軌道が定まらないラビが続く。ハンスはそんなラビをちらりと振り返ったが、しっかりとした視線の動き方を見るに、体勢を維持できないわけではないらしいと分かる。どうやらラビは”本物の重力”を感じながら”本物の宇宙船”のあらゆる箇所を観察しているようだった。
コックピットへ辿り着くと、そこはシャトルのそれよりもゆったりとした空間となっていた。座席位置の間隔が充分に保たれ、ウィンドウの視野角も広い。ハニカム型のように嵌め込まれた天窓も大きめで、まるで小さなプラネタリウムのようだ。
前方に二つ並ぶ操縦席の間に、不自然に突き出た円筒形の造形物が見える。白を基調とした船内に同化する円筒の上部は、黒い半透明のドーム型になっている。まるで星空のように内部機器のライトがちらつき、そこに外付けされたような拳大のレンズがひたと一行を見据えていた。
「みなさん、お待ちしておりました。エヴォリスAI、レムと申します」
レムの音声に合わせ、そのドーム部分の一角で小さな明かりが点滅する。さらにレンズが、一行をぐるりと見渡すように滑らかにドーム上を移動した。
「わたしのコアはエヴォリスに搭載されておりますが、このように着脱可能な多機能性ボディも存在します。OSX-9に上陸の際は、探査船イージスにわたしのボディをお持ちください。このボディには環境調査機能に加え、多機能アーム、ドローン、多様な地形に適した移動機能が搭載されています。現地の調査にお役立てください」
室内に点在するラバーバンドや短いハンドレールを掴み、一同は一様に体勢を整えながらレムを囲んでいる。レムは見下ろすほどの全長しかなく、小柄なラビですら視線がわずかに下がるほどだった。シンプルな形状と見上げてくるレンズが、どこか愛らしさを覚えさせる。柔らかいテノールの合成音声がミスマッチのようにも感じるが、どこか愛嬌にもなっていて絶妙だ。
「ねえレム、VALで堅苦しいって言わなかったっけ?」
相変わらずの気やすさでラビが問いかける。すると、レムの頭部にある小さなライトが不規則に点滅した。どうやら思考中らしい。
「そんなのいいから、さっさと作業に入らない?」
後に船内チェックを控えているエヴァが溜息まじりに訴えたが、誰かが賛同する前に、思考を整理し終えたレムが喋り出した。
「そうですね。わたしはみなさんを総合的にサポートするAIですから、堅苦しくあっては効率を損ないます。これより徐々に修正を加えます。──ところでラビ、作業効率を優先するという点では、わたしはエヴァに同意します。無駄話は後にしましょうか」
「…注意された」
「なんか、急に生意気になったんじゃない?」
ラビが目を瞠って呟き、エヴァが眉根を寄せる。アランの控えめな笑い声が白色電灯の空間で小さく弾んだ。歯止めを聞かせるようにヴィクターが咳払いをひとつすると、再び空気が引き締まる。彼の傍にいたケルビンが、場を整えるため口を開く。
「ではレム、我々は速やかにトーラスモジュールへ移動します。ポッドの用意を。ポイントは、ブリーフィングルームでよいでしょう」
「了解、ケルビン」
レムのフランクな返答にケルビンはぴくりと眉をひくつかせたが、さっさとドッキングハブに向かって踵を返す。一同もそれに倣い、コックピッドを後にした。
ドッキングハブからモジュール間移動用のポッドへと乗り換える。フォールディングシートを備えた小型ポッド内には軽い重力制御が働き、必要に応じて立つことも出来る。ハンスたちがハンドレールを腰掛けるような態勢で掴んで発進に備えるうちに、レムが目標地点を設定したようだ。フロントの窓にデジタル画面がいくつか表示される。緩やかに発進を始め、ポッドがドッキングハブを出ると、フロント窓や、両サイドに二つずつ設けられた丸窓、後部の丸窓に宇宙空間が映される。コアとトーラスを結ぶ支柱に設けられたレールを走り、トーラスの内周を回って目的地へ移動する間、一同は一様に窓の外を見ていた。六人の瞳に等しく映っているのは、星空に静かに浮かぶ地球の姿だ。
「本当に地球を出ちゃったんだ」
ラビがそう呟く。誰も応えず、それぞれの視線がただ、宇宙に釘付けになっていた。
ハンスは向かいで丸窓を覗くエヴァに目をやった。さすがの彼女もこの光景には言葉を失っているようだった。けれど、それ以上に──この空間を、誰よりも長く漂うことになるのは彼女だ。その緊張感も、どこか肌で感じ取れる気がした。それから隣のアランに視線を移す。アランはどこか遠くを見るように、窓の外に静かな視線をただ、送っていた。
ポッドはトーラスの内周を少しの間なぞり、目的地点の付近で潜り込むように側面に移動する。完全に停止すると、ブザーとともに入り口のランプが赤から青へと変わり、扉が開かれる。その先は廊下が続き、左右には部屋へと繋がる扉があった。ケルビンを先頭に、右手側の扉を通り抜けると、そこは地上のそれにも似た、円卓を囲むスタイルのブリーフィングルームだった。
各自着席すると、円卓中央にレムのボディが映される。ホログラムだ。レムのホログラムはレンズをくるくると移動させながら、全員揃っていることを確認し、いくつかのホログラム画面を表示した。
「こちらが母船エヴォリスの船内マップです。データはみなさんの端末にもお送りしました。今後の説明はケルビンにお任せします」
それだけ伝えると、レムは姿を消す。ケルビンは小さく咳払いをした後、ホログラム画面を移動させ、整理しながら口を開いた。
「では、船内説明から始めます…」
エヴォリスはエネルギー効率を考慮し、遠心力による人工重力で地球と同様の生活空間を再現できるよう設計されている。そのため複数のモジュールをトーラス型に繋ぎ、それを緩やかに回転させることで重力を発生させる構造になっている。トーラス部分には六人分の個室とトレーニングルームのあるハビタットモジュール、カフェテリアやラウンジのあるコモンラウンジモジュール、医療室・カウンセリングルーム・冬眠用ステイシスルームのあるメディカルモジュール、ラボなど、クルーの生活に必要な機能が揃っている。さらに、備蓄倉庫が連なるストレージモジュールや貯水装置、水再生ユニットなどのインフラ系モジュールも連なっており、全体としては効率的かつバランスの良い構成だ。トーラス内周には歩行用の回廊も存在するが、仕様上外周が地面となっているため、モジュールから回廊へ行くには天井のハッチをくぐり、マンホールよろしく廊下の床から這い上がることになる。ひとつひとつは大きくないが、所々にしっかりと窓が設置されているため全体的に開放感のある設計だ。それらは全てシャッターで防ぐことも可能で、これはスペースデブリ対策でもあり、宇宙空間に対して恐怖症が発症した場合の対策でもある。
宇宙空間での生活に体を馴染ませるため、クルーにはエヴォリスでの自由時間が短期間設けられている。クルーはエヴォリスで生活しながら、各役職ごとに任務作業を行う。例えばパイロット組はコックピットを行き来し、エヴァは母船内外の整備や点検を行う。ラビはラボに籠り、研究の事前準備をするだろう。ケルビンには、クルーの定期メディカルチェックとカウンセリングが任務づけられているため、医療室に個別にクルーを呼び出し、軽い面談などを行う。ヴィクターはこれらクルーからの報告をまとめ、全体管理に務める。これらをこなした後、船は高速噴射にて爆発的な高速で中継ステーションへと向かう。トーラスの回転は停止され、クルーはステイシスセルに入り、その間の制御は全てAIであるレムが管理する、とのことだった。
「まずは、三日間の順応期間を設けます。この期間で各自、ご自分の持ち場をご確認ください。アラン、ハンスはコックピット・エンジンコアの確認を。エヴァは各モジュールの設備機能の最終チェックを。事前に地球でレクチャーを受けているとは思いますが、気になる点などがあればレムに申請して直接確認してください。ラビ、貴方はラボの設備チェックと、ホワイトルームの仕様確認を。実際に探査船イージスのブランクボックスを行き来させても構いませんが、レムへの申請と最終処理はきちんと行ってください。ヴィクター隊長はお手数ですが、備蓄倉庫の装備確認をお願いします。基本的にはレムが管理していますが、人の目を通しておく必要性もあるかと存じます。その他母船全体の確認作業もされると思いますが、もしエシュロンからの直接の指示がありましたらそちらを優先してください。残りの作業は私が引き継ぎます」
全体工程の最終確認の後、ケルビンから指示が出される。アランはにこやかに、ハンスは腕を組んで黙って聞いていたが、エヴァは自分の端末を確認しながら、どうやら作業工程とルートを考えているようだ。ラビは「動かしていいんだ」と小さく呟いてから身を乗り出し、ヴィクターは黙ってそれらを見やってから、ケルビンの指示に小さく首肯した。
「なおこの期間中、メディカルチェックのため、私から個別にお呼びする予定です。時間は都度追って端末にお送りしますので、ご確認ください」
ケルビンはそこで一区切りつけ、ホログラムを切り替える。次に映ったのは、中継ステーションの映像だった。
「では続けて、各中継ステーションの作業工程についての確認です。事前にレクチャー済みではありますが、アラン、ハンス、エヴァのお三方はドッキング作業が一任されますので、冬眠前に最終確認をお願いします」
ケルビンの視線を受け、三人が一様に頷く。
「到着後、接続が済みましたら我々は中継ステーションへと移動し、そちらでしばらく滞在することになります。人員用連絡通路は移動後に解除されますので、中継ステーションへ持ち込む物はパーソナルケースに纏めておいてください。エヴォリスは滞在期間、トーラスの回転を停止し、補給作業に集中することとなります。停止中は無重力状態となりますので、私室の固定作業を徹底してください」
最後、ケルビンの視線がラビに向けられたように見えて、ハンスは内心でくすりと笑う。訓練などで長期間行動を共にして、ケルビンはラビをどこか問題児のように扱うようになった。彼は常に冷静な男だが、視線や仕草、言葉の端々というわずかな部分にその傾向が見て取れるのだ。
「それでは、一旦ここで解散となりますが、何かご質問はありますか?」
「ひとつ、いい?」
エヴァが小さく手を挙げた。全員の視線が彼女に集中し、ケルビンが「どうぞ」と促す。
「PIコアの情報取得範囲はハイラントと同じ?」
ケルビンが眼鏡のブリッジを持ち上げかけた時、ヴィクターが先に口を開いた。
「今回は”宇宙での閉鎖空間”を考慮し、取得範囲に制限がかけられる。作業中の音声ログや位置情報、生態情報の記録も自動で送られることは無い。俺たちの行動ログや生態ログは、エヴォリスや各ステーションの施設内監視カメラとサーモセンサーに頼ったものになるが、その設置箇所も制限を設けてる。例えば、居住区やカフェ、ラウンジ、トレーニングルームなどのパーソナルスペースやコモンスペースはサーモセンサー作動のみだ。つまり、プライベートは守られるということになる。…そうだな、ケルビン?」
低い声がブリーフィングルームに静かに響く。一同は、それぞれ驚きの表情を見せた。
「…ええ、その通りです。事前にストレスチェックは行っていますが、宇宙空間であることを考慮してそのような措置を取ることになったようです。ですから、私の方で定期的なメディカルチェックやカウンセリングを行うというわけです」
ケルビンが冷静に、エシュロンでの決定事項であろう情報を共有する。ラビが背もたれに寄り掛かり、楽しげににやりと笑った。
「へえ?それって結構信じがたい話だけど、本当なの?ちなみに僕のラボはパーソナルスペースに当たる?」
「お前のラボは私室じゃない。作業区画や移動区画、中央コアに関しては監視が効いてると思え」
「あなたのラボには最終的に、OSX-9の採取サンプルが運び込まれるんです。隊長の仰る通り私室であってはなりませんので、当然作業区画として登録されています」
ちぇ、と口を尖らせてみせるラビだったが、それ以上は何も続けなかった。分かった上での発言ということだ。
「しかし、意外ですね。…ハイラントの管理体制から考えると」
アランが、ヴィクターに語りかけるように言葉を投げる。すると、視線を受け止めたヴィクターは小さく皮肉っぽく笑った。
「俺が通したからな、意外なのは当然だ。宇宙空間に出てまで逐一監視されるのでは任務に支障が出る可能性がある。まあ、”記録係”はここにいる。これでエシュロンへの体裁は保っているというわけだ」
そう言って、ヴィクターは隣に座るケルビンを親指で指し示す。そんな彼を、ケルビンは一瞬だけ流し見た。
「隊長が言うなら本当なのかな?ねえ、レム?」
ラビが問いかけで、レムのホログラムが再び現れる。
「ご安心ください。わたしの目と耳には制限がかけられています。みなさんのプライバシーは守られますよ」
どこか親しげで、得意げに話しているように聞こえるのは、やたらとレムに語りかけるラビから学習しているからだろうか。そんなレムを見て、ハンスが溜息を吐いた。
「ここでの会話は聞いてたんだな、お前」
半ば呆れたようにそう言ったハンスに、レムのレンズが向けられた。
「ここは作業区画登録されているんですよ、ハンス」
当然のように答えられ、ハンスは肩を竦める。そのまま手を挙げる者もなく、ブリーフィングは終了となった。
そうして各々が作業に散り、しばらくした後にエヴォリスがゆっくりと移動を始める。順応期間中も、船はゆっくりと進行するのだ。最初の目的地は、火星軌道中継ステーション『フェリス』。彼らは冬眠前に、暫しの穏やかな船内生活を送るようだ。