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T R A B A N T  作者: pochi.
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Phase_08:HAILANT

カクヨム掲載作品です。


 しん、と静まり返ったメディカルルーム。あの、常に冷静沈着だったケルビンが絶望に顔を歪め、弱々しく液晶にヒビが入ったタブレットに手を伸ばす。異常な指令の文字は、まるでそうプログラムされているかのように定期的に追加されていく。立ち尽くすアラン、エヴァ、ラビと、タブレットの傍に屈んでいたハンスは、ただならぬケルビンの様子にただ呆然としていた。


「もはや、私という存在は必要性が無い……不適合者は排除されなければならない……」


 流れる指令を凝視していたケルビンは、床に落ちたシリンジに尚も手を伸ばそうとする。慌ててハンスはその手を取り、そのまま彼の背後に回ってもう片方の手と一緒に後ろ手に押さえつけた。ケルビンは抵抗らしい抵抗をせず、もはや無意識下で行動しているようだった。


「い、一体どうしたんだよ……」


 ラビが恐る恐るケルビンに問いかけるが、ケルビンはひたすらタブレットを見下ろすばかりで何も応えない。ラビはそのタブレットを拾い上げて立ち上がり、アランやエヴァと三人で画面を覗き込む。ハンスは力が入っていないとはいえ、いつ何をしでかすか分からないケルビンから手を離すことが出来ない。


「なんか、不適合者、排除ってめちゃくちゃ言われてるけど……これってもしかして、エシュロンから?」


 ラビがそう言って画面をスワイプしながら過去のログを遡る。エヴァとアランは神妙な眼差しで顔を見合わせた。


「すごいよこれ、日を追うごとに増えてってる感じ。冬眠中もお構いなしだ」


 スワイプする指を速めながらラビが顔を顰める。その動きが、指令の膨大な量を物語っていた。


「これって……エシュロンからあなたに、個人的に下されてるコマンドって事?」


 怪訝な目を向けるエヴァにもケルビンは応えない。タブレットが落ちていた場所を未だに呆然と見つめるのみだ。ハンスは彼の直前の行動を反芻し、何も言わない彼が突然舌を噛むのではないかと身を乗り出して顔を覗くが、そこには魂が抜けたように俯く横顔があるだけだった。


「──お前、さっき自分が不適合者だったって言ってたよな? 一体どういう事なんだ? エシュロンから何か密命でも受けてんのか?」


 拘束する手に力を込める。ようやくケルビンはハンスの声に微かに反応し、顔を傾けるようにして彼を横目に入れる。そしてまたうなだれると、力なく小さく呟いた。


「……私を排除してください。レムに武器所持の許可を得て──いえ、何でも構いません。私は抵抗しませんから」

「だから、それは何でなんだよ?」

「それが、エシュロンの意思だからです」

「意味が分からねえ。事情を全部吐け、話はそれからだ」


 ハンスはそう言ってアランたちに目配せする。三人は一様に頷くと、互いに視線を交わし合う。とにかく、この状況を早急に整理することが彼らの目下の勤めとなった。




「今更かもしれないけど、一応監視除外区域に移動しよう」というラビの意見により、クルーたちはラウンジへと移動した。張り詰めたポッド内で黙したまま目を伏せるケルビンは終始大人しかったが、ハンスは念のため後ろ手に彼の手を拘束したまま付き添った。


 クルーたちがラウンジのソファに揃って座るのは、短いようで長い旅路で意外にも初めてのことだった。ヴィクター亡き今勢揃いとは言えないが、五人がソファーに座ると部屋が少し狭く感じる。ケルビンへを拘束中のハンスは彼の隣にそのまま座り、その向かいにエヴァ、アラン、ラビと並ぶ。ラビの手には未だにエヴァから渡されたラチェットレンチが握られていて、その指には緊張からか、力が込められていた。


 ケルビンは俯いたまま、自ら何か語ることはなかった。いつも背筋を伸ばして姿勢の良い彼が差しうつむく姿は、彼の影をどこか希薄に感じさせる。ハンスはDEFセクターの外壁警護中、彼と同じような姿勢で車に乗り、敷地の外に搬出されていく人間の姿を何度か目にした経験があった。


 ソファーの間のローテーブルにはケルビンのタブレットが置かれ、画面の中のウィンドウは未だに更新され、無音のポップアップが続いている。誰もがどう切り出そうか考えている中、口を開いたのはラビだった。


「あの……さ、ここ来るまでにソレ、結構遡らせてもらったんだけど……この”対象”っていうのは、何の事を指してんの?」


 ラビが身を乗り出してタブレットを指差す。ケルビンはタブレットに視線を落としたまま何も言わない。埒が明かないとばかりに肩を竦めたラビは、レンチを膝の上に置いてタブレットを手に取った。


「OSX-9に着く前、ケルビンは毎回カウンセリングログと所感をエシュロンに報告してる。で、エシュロンから返事があるんだけど……”不穏因子の警戒と対処”ってコマンドが必ず最後に付け加えられてる。帰りにはそれが”不適合者”に格下げされてるけど」


 ラビは画面をスワイプしながら文字を追い、静かに告げる。エヴァやアランはそんな彼を神妙な面持ちで眺める。ハンスは聞きながら、前髪で隠れたケルビンの横顔を見やった。


「で、ヴィクターの冬眠中のトラブルと……その所感があって、その時はいつもの返事に加えて、なんか変なコマンドが追加されてる。不測の事態に備えて”高濃度ミダゾラム”の所持──」


 ラビは画面から目を上げてケルビンを見つめる。その目は困惑と疑惑が入り混じって揺れている。


「僕の記憶が正しければ、これって麻酔薬だったと思う。……これと、他のエシュロンからのコマンドと、ケルビンの言動を合わせて考えたとき、僕、すっごく嫌な考えが浮かぶんだけど……」


 ラビの言葉を聞いていたエヴァやアランの顔が緊張で固まる。その様子を順繰りに見たハンスの心臓も、静かに重い音を立てる。ラビは一度深呼吸すると、歪んだ笑みを浮かべてケルビンに問いかけた。


「もしかしてこの”不適合者”って、ヴィクターだったってこと、無いよね……?」


 ラビの発言に、エヴァが目を見開く。固い眼差しがケルビンを射抜くが、ケルビンは身動ぎひとつしない。ずっと黙り込み、ただ沙汰を待つ罪人のようだ。ハンスたちは顔を見合わせた。


「……つまり、どういう事なの? ヴィクター隊長は、私が──」

「ヴィクターの検死したのはもちろんケルビンなんでしょ? 月並みだけど、外傷があれば死因はどうとでも言える。頭の傷は致命傷じゃなかったのかもしれない。──もう無理だよケルビン。ちゃんと全部話してほしい」


 ラビが再度語りかけるも、ケルビンは黙したままだ。焦れたハンスは舌打ちすると、掴んだ腕を揺すった。


「おい、何とか言えよ。もうお前には後がねぇんだぞ」

「私を排除すればこのアークウェイ作戦は無事遂行されます。早急に対処をお願いします」

「……ったく、埒が明かねぇ」


 機械的にしか応えないケルビンに、ハンスは吐き捨てるように悪態をつく。しかし今のケルビンには、説得も詰問も意味を為さないようだ。


「──本当に、君を排除すれば済む話なのか?」


 口を割らないケルビンに対して行き詰まりを見せていたハンスたちだったが、アランの穏やかな問いかけが空気を打開した。ケルビン以外の視線が彼に集中する。アランは膝の上に両肘をついてケルビンの目線に合わせるように身を屈め、顔を上げない彼に尚も語りかけた。


「少なくとも俺らは、ただ君を排除してそのまま……何事も無かったように任務を遂行できる自信が無いんだが」

「そうだよ! このエシュロンのコマンド、正直おかしいよ。これを見ちゃったら僕らはエシュロンに素直に従えない。少なくともケルビンを排除する正当性を説明して貰わないと」


 すかさずラビが便乗し、ケルビンを説得する。するとケルビンはようやくわずかに首をもたげ、亡霊のように力の抜けた紫の瞳をアランに向けた。アランの濁りのない瞳としばし視線を交わすと、その眉間が小さく寄せられる。


「……正体の知れないあなたより、私の方がよっぽど醜い」


 隣にいるハンスは、その消え入りそうな呟きを聞いた。それは、彼が自責の念に駆られているからこそ漏れ出た感情のようだった。彼が自らを排除させようとするのはエシュロンの任務が理由なのではなく、自己処刑願望から来るものだ。ひとつの呟きから、ハンスはケルビンの感情をそう読み取った。


「──それは、お前が抱えてるもんを全部話さないと分かんねぇよ」


 ハンスはそう言うと、促すように拘束している手を離す。ケルビンは解放された腕を自らの膝元に置くと、両の拳を力なく握った。


「……では、私がした事をお話しします。そうすればあなた方も問題なく私を排除出来るでしょう」


 ケルビンは俯いたまま掠れた声でそう言い、小さく自嘲した。






 OSX-9からエヴォリスに帰還した後、ヴィクターはメディカルルームに搬送されてそこで眠っていた。カウンセリングスペースで彼の様子を見つつもエシュロンへの報告をまとめていたケルビンは、程なくして目を覚ましたヴィクターに気づく。上体を起こしたヴィクターは、アンネル到着前に強制覚醒した際の異様な雰囲気を醸し出し、始めはぼんやりと虚空を見つめていた。


「……ヴィクター隊長? 意識はありますか?」


 ケルビンが問いかけると、ヴィクターは徐に瞳を動かしてケルビンを視認する。しかし明確に応えるでもなくよろめきながら立ち上がると、「一人にさせろ」と言い残してメディカルルームから退室した。


 ケルビンは怪訝に思いながらもデスクの上に置かれたタブレットを手に取り、タップやスワイプを繰り返す。その画面には、PIコアの位置情報が表示されていた。ヴィクターのものだ。


「ストレージのロッカールーム……? 一体何故──」


 自室かコモンラウンジに向かうものとばかり思っていたケルビンは訝しむと、デスクのドロワーから医療ケースを取り出して、しばしそれを凝視する。しかしすぐに勢いよくそれを懐に潜ませると、彼を追ってストレージへと足早に向かう。


 ストレージのロッカールームは、サプライ系統の通路を挟んだ向かい側、武器などが保管されたボルトストレージの隣に位置する。スーツや工具系の予備が保管されているのみであるロッカールームは、普段訪れるとするならエヴァくらいのものだ。ヴィクターの行動をまずは観察するため、ケルビンは回廊からリフトで通路に降り、注意深くボルトストレージへと入り込んだ。ボルトストレージとロッカールームは扉でつながっているので、もし何か怪しげな行動があればすぐに対処出来る。声をかけてしまえば彼の行動の意図が洗えないため、ケルビンは扉付近の壁際で息を潜めていた。


 しばし待つと、ロッカールームに誰かが入ってくる気配がした。タブレットのPIコア情報を見ればそれはエヴァで、何やら密会でも始めようとするような状況にケルビンは息を呑む。そして間も無く──銃声が彼の耳に飛び込んできた。


 慌ててロッカールームに入ると、そこには倒れ込んで呻き声を上げるヴィクターの姿があった。その手にはカウンセリングで話していた拳銃が握れられているが、痛みに蹲る彼がそれを構える様子はない。ケルビンはロッカーに残された一発分の弾痕から、ヴィクターが発砲したのだと察する。しかしまずは彼の状態を見るために駆け寄った。


「──これは、どういう事なんです? 一体あなたは、何のつもりで……」


 ヴィクターは空いている方の手で側頭部を抑えていた。それを診るために屈み込んだケルビンに、しかしヴィクターは鋭利な視線を向ける。その瞳は、ケルビンの目には常規を逸しているように映った。


「ケルビンか──? 何故ここが分かった?」


 痛みに呻きながらも問い詰めるような尖った声に、ケルビンは何も応えられない。するとヴィクターは、朦朧とする意識に抗うような掠れ声で、乾いた笑いを漏らした。


「ケルビン、お前……──いや、もうどうでも良い。おい、何でも良いから俺を殺せ。さもないとお前も撃つ。──あと四発残ってる」


 ヴィクターは倒れたまま銃を握った右手をゆっくり持ち上げ、ケルビンに向けようとする。ケルビンは反射的にその手を払う。銃がヴィクターの手から離れ、軽い音を立てて少し離れた場所へと滑っていく。


「ヴィクター隊長、しっかりしてください! あなたは精神的な問題を抱えているだけです。どうか落ち着いて」

「煩い、誰も俺を止めるな……俺を楽にしてくれ……頼む──」


 尚もその銃を手に取ろうと身を起こそうとするヴィクターに、ケルビンは愕然とした。彼の脳内で、ハイラントで診察したPTSD患者の姿が走馬灯のように通り過ぎる。誰もが苦悩の表情を浮かべたまま踠いていた。ケルビンの声が届く時もあれば、感情に支配され、もはや脳内にこびりついた敵と対峙したまま帰ってこない時もあった。そんな時は数人で患者を押さえつけ、鎮静剤で無理やり眠らせた。


 ”対処”という言葉がケルビンの脳内で木霊する。そして懐には、そうするための劇薬がある。ケルビンはまるで操られたように銀色のケースを取り出す。震える指先で蓋を開き、中から一本のシリンジをつまみ上げる。


 ヴィクターは銃ではなく、その手首を掴んだ。瞳孔の開かれたケルビンの瞳を見上げ、その手に力を込めて引き寄せる。


 ──最期は呆気ないものだった。ケルビンは、憑物が落ちたかのように笑みを溢すヴィクターを呆然と見下ろしていた。そして彼の全身から徐々に力が抜けていくのを、ただ眺めていた。






「──その後、私自身の証拠となるものは消去し、意図的にコアと配電系統の信号を一時的に遮断しました。あのアラートは私が引き起こしたものです。……そして、原因が分かっていながらもエンジンコアへと向かった」


 誰もが複雑な表情を浮かべていた。怒りとも絶望とも取れない、かと言って感情を放棄したわけでもない、曖昧な顔つきでケルビンを見ていた。ケルビンの声は静かで、もはや自らの存在を諦めているようだった。自責と後悔と自暴自棄──それらが入り混じって感情を無くしている。そんなケルビンの様子を、ハンスは黙って見据えていた。


「私が駆けつけた時点でヴィクター隊長は生きていました。──ですから、彼を排除したのはエヴァではなく……私です」

「そ、そんな……でも──」


 俯かれたまま紡がれる言葉に、エヴァの動揺した声が重なる。彼女はつい先刻語った自分の罪と、新たに告白されたケルビンの所業との間で混乱している様子だ。ケルビンは、呆然と言葉を発せなくなっているクルーたちの視線を受けながら、ゆっくりと顔を上げた。そして、感情の抜け落ちた目を向かいのラビにそっと向ける。そして、まるで報告書を読み上げるかのように淡々と語り続けた。


「──エシュロンからの指令をご覧になったでしょう? ヴィクター隊長を排除しても指示は止まりませんでした。私は彼のように、作戦の妨げになる者、エシュロンにあだなす者がまだ存在しているのだと判断しました。──そして、あなたの不穏な動きを察知した」


 ラビは驚愕に目を見開く。しかし、彼だけではなく誰もが分かっていた。ケルビンがこの後語ろうとしている真実は、その場にいる全員を悲憤の淵に突き落とすものになるだろうという事を。


「あなたはアラート時にラボから一歩も出なかった。それどころか、ラボ内外の繋がりを意図的に遮断し、ラボを完全なる個室にすらしていた。何故かハンスにだけ個人的に何らかの情報を吹き込み、彼を引き込もうとする行動もあったはずです。そこで私は、あなたを不適合者だと判断しました」

「じ、じゃあ──僕のセルが異常を起こしたのって、やっぱり……」

「私が意図的に代謝抑制剤をスキップするよう細工しました。ハンスがモニターの情報を読み取ってあなたをセルから引きずり出さなければ……そして、予想外のあなたの代謝の強さがなければ、あなたは今頃この場にはいなかった事でしょう」


 部屋が再び静まり返る。覚醒直後にあれだけ声を荒げてケルビンを責めたラビは、今は悲愴の目を彼に向け、口元を引き結ぶだけだ。張り詰めた空気のなか、ハンスは全く違う表情で向かい合う二人を見やって固唾を飲む。空調が効いているはずの室内で息苦しさを覚え、それなのに呼吸を忘れて動けない。向かいに座るエヴァを横目に見れば、彼女も同じように固まっている。アランは静かな表情でケルビンを見つめている。


「いかがです? 排除すべきは私だと──思い知ったことでしょう。……ハンス」


 状況を飲み込めずにいるクルーたちを置いて、ケルビンは勝手に話を進めていく。ラビに向けていた目をハンスへと移し、呼びかけるだけで彼を促す。メディカルルームで言っていたように、武器を取って粛清しろというのだ。


「待ってくれケルビン。やっぱり、君を排除しても……終わらない気がする。君は今冷静を装っているが、混乱しているだけだ。君が間違ったことをしたのは分かる。だが、今ここで終わらせたら……君は二度と戻れない。考え直せないか?」


 アランが宥めるように口を挟むと、ケルビンは初めて大きく表情を歪めた。額に皺を寄せ、途方に暮れた目でアランを睨むもその肩は震え、自嘲するように口角を上げるが、途方に暮れて泣き出しそうにも見える。


「私は混乱などしていません! 私の罪は私自身が最も理解しています。そして作戦を遂行するためにはエシュロンの指令を果たさなければなりません。現状、このメンバーで不適合者を出すなら私しかいない。私の判断は間違っていないはずです」


 二人の言い合いを聞きながら、ハンスは異様な感覚を覚えていた。アランの言動は非常に”アランらしい”ものだ。しかし、この場にいるアランは”アランではない”可能性が高い。だが彼が未知の生命体だと仮定したとしても、彼の行動は不可解だ。クルーを助け、導き、争いを修めようとしている。その目的が見えないのだ。ハンスはケルビンの事よりもそちらの方に気を取られ、話の内容を上手く噛み砕けないでいた。


「──少なくとも君は自分の行動を後悔していて、だから自分を不適合者だと判断している。でも、不適合者の基準って一体何なんだ? エシュロンは何のために、君にこんな指示を出してるんだ?」


 アランの声が心なしか尖っている。しかしハンスにはこのアランが、何に対して怒りを感じているのか手に取るように察することができる。意図の分からない命令でケルビンを翻弄するエシュロンに対してだ。ケルビンはアランの問いかけに喉を詰まらせた。


「──そうね、アランの言う通りだと思う。明確な基準が分からないけど、結果的に死因に関係無かった可能性があるとはいえ、私がした事だって十分不適合者と判断しうるものだわ。仮にあなただけを排除したとしても……」


 エヴァが静かにアランに続く。彼女は命の危機だったとはいえ、致命傷になりうる攻撃をヴィクターに行った。そしてその救助を自らの感情を優先して怠ったことに関してひどく後悔しているのは、彼女のその後の態度からも明白だった。ケルビンがヴィクターを殺めたのだという真実を知ったとしても、その後悔は消えないようだ。ハンスはエヴァの声音の固さや妙な落ち着きから、それを察することが出来た。


「何故エシュロンを疑うのですか? 今まで彼らが間違った判断をしたことなど一度も無い。彼らは彼らの叡智により、あの荒廃した地球に理想郷を築き上げた。私たちはその恩恵を受けて文明的な生活が出来ているのです。未知惑星の観測も、私たちがその探査に赴けるのも、こうして高度な技術に守られながら快適に宇宙を航行しているのも、全てはエシュロンの叡智によるもの。彼らの判断は常に正しく、合理的だ。だからここまでハイラントを発展させることが出来たのです。その彼らの命令が遂行されないということは、未来の発展への妨げになる。──私が混乱しているだって? 私は取り乱してなどいません。至って冷静に判断を下しています」


 アランやエヴァの説得は、ケルビンには届かなかった。まるで呪縛のように紡がれるエシュロンへの忠誠は、ある種病的にも見えた。徐々に言葉遣いに乱れが見られることからも、彼が取り乱していることは明らかだ。しかし彼はそれを認めず、逆にアランやエヴァを説得するように詰め寄っている。ハンスは、彼はもうそうすることでしか己を保つことが出来ないのだと思い至る。すると、往路で少なからず築かれたはずの関係性が崩れてしまっている現状や、ヴィクターやアランに関する実害、ケルビンの状況──その全ての根幹がエシュロンにあるのではないかと、言い知れない怒りが芽生えていく。


 尚もケルビンを宥めようとするアランやエヴァを遮る形でハンスは突如立ち上がると、身を乗り出してラビの手元にあるラチェットレンチを奪い取る。そしてそれを勢いよく振り上げた。


「ハンス……!」


 エヴァが咄嗟に腰を上げ、ハンスに手を伸ばす。ケルビンは、怒りに歪んだハンスの瞳と視線を合わせ、その目を静かに伏せる。瞬間的に、時の流れが緩慢になる。


 ──しかし、音を立てて壊れたのは……例のタブレットだった。ハンスが振り上げたラチェットレンチは液晶に叩きつけられ、ひび割れどころではない損傷を受けた画面がブラックアウトしている。肩で息をするハンスを、誰もが呆然と見やっていた。ケルビンだけは愕然と目を見開き、割れて通知を出さなくなったタブレットを凝視している。


「──てめぇの御託はいい。もうそうやって出来上がっちまってるもんはいくら説得しようが無駄だ」


 ハンスがラチェットレンチをラビの方に放り、ラビが慌ててそれを受け止める。さすがの彼もハンスの行動には二の句を継げないようで、ハンスの暴挙に苦言を呈することは無かった。ハンスは自らを律するように深呼吸をすると、勢いよくソファに腰を下ろした。


「お前が何と言おうと、俺らからしたらエシュロンはおかしい。大体、エシュロンが俺らに理想郷を与えてるからと言って、それで奴らの判断が全て合理的で正しいってことになんのか? お前がヴィクター隊長を殺して、ラビも殺そうとしたことは、奴らの合理的で正しい判断に基づいた正当な行為だって心の底から言えんのかよ?」

「──ですから、その判断は私が間違ってしたことで……」

「そもそもな、命令の仕方がおかし過ぎんだよ。──なあ、そうだろ、ラビ?」


 ケルビンの反論を遮り、ハンスは唐突にラビに話を振る。緊張感からか、受け取めたラチェットレンチを握りしめていたラビはハッとしたように肩を跳ねさせると、気を取り直すように咳払いでそれを誤魔化した。


「──そ、そうだね。エシュロンの命令が正確かつ合理的というなら、何をもって不穏因子とするか、どのレベルになったら不適合者になるのか明確にすると思う。で、ケルビンが間違いなく命令を果たせるように、誰がその対象なのか指示が出るはず。……でもそれが一切無かった。もしかして事前に裏の取り決めがあったなら君らが認識の齟齬を起こすはずがないと思うし、あの異常なほどのコマンドの連発は起こり得ないよ。──なんか、壊れちゃってるって感じ」

「……」


 ラビが記憶を辿りながらケルビンに視線を合わせる。ケルビンはそれを一瞥するが、すぐに逸らして唇を噛んで黙り込む。ハンスはそんな二人をじっと見守った。


「ケルビンって、計画的出生者で、PIランク4の上級職員なんだよね? そんな優秀な人間が、あんな不確定なコマンドに踊らされてるのも正直謎だよ。しかも行きではあれだけ僕らに寄り添っておいて、帰りには掌返すように裏切ってる」


 ラビがケルビンに対して過度な敵意を向けないことに、ハンスは心の奥で安堵した。セルの異常で死にかけた時とは違い、冷静に状況を飲み込めているらしい。彼の意識はケルビンへの猜疑心や怒りよりもエシュロンへと向けられており、観察や分析癖が発揮されている。


「……君の本性はどっちだと思う、ケルビン?」


 再びアランがケルビンに語りかける。微笑みかけ、相手の緊張を解すような声かけは、今度は微かにケルビンを反応させた。眉根を寄せた眼差しは、縋るようにも否定するようにも見える複雑なものだった。その証拠に、未だに彼は言葉を発せないでいる。まるで、往路でクルーたちに積極的に接していた自分の方を本性と宣言する事を躊躇っているのか、そもそもそこまでの認識にまで至れていないのかは不明だが、彼は困惑の境地に立っているようだ。ハンスはそんなケルビンの様子を仕方ないと理解しつつも、煮え切らない状況には焦ったさを覚えていた。


「おい、もうこっちで判断するしかねぇよ。俺らの認識だとどっちが本性だと思うかコイツに叩き込んでやろうぜ。──ちなみに俺は往路の方が本性だと思うけどな。……理由はなんかこう……何となく」


 ハンスが背もたれに勢いよく寄りかかり、向かいに座る面々に向けて言い放つ。威勢よく発された割にはだんだんと尻すぼみになっていく言葉にアランが苦笑し、それに続いた。


「俺も、なんだかんだで俺らと良い関係を築いてた君が偽りの姿だったとは思えない。アンネルでの奇妙な品評会にだって、結局は付き合っていたしな」


 アランがそう言って隣のラビに視線を投げると、ラビは肩を竦めた。


「うんまあ、それもそうだけど……よく考えたら、ケルビンのあの小言が演技だったとしたら、ちょっと引くかも」


 ラビの証言は皮肉めいていたが的を射ていた。もし不穏因子を最終的に不適合者として排除することが始めからエシュロンとの取り決めだったとすれば、自由奔放なラビに対する口うるさい小言は、ハンスとしても過剰だったように感じられた。もし効率を重視するならば、ラビを自由にさせて排除理由を積み重ねさせた方が話は早かったはずだ。


「私も最初はあなたをただの機械的な人間だと認識していたわ。でも、あなたが育ててる鉢植えや私物の緑茶は、人間性の現れだとも思う。あなたは、エシュロンの命令を忠実に聞くだけの器ではない気がする」


 エヴァの発言に、ハンスの過去の記憶が蘇る。毎回のカウンセリング時などでメディカルルームを訪れた際、彼のデスクには、そっと鉢植えが置かれていた。何故か妙に気を引くように感じられたのは、ケルビンの硬質な出立と態度からするとあまりにもミスマッチに思えたからだ。緑茶というものの件については知らないが、恐らく彼にも人間味のある趣味のようなものがあったのだろう。


「ねえ、知ってる? そういえばケルビンの眼鏡って度が入ってないんだよ。見た目で舐められないようにかけてるだけなんだって」

「へえ、それはなんというか……ちょっと微笑ましい気もするな」

「確かに今は歳より若く見える気もするわね。そういう顔の造りなのかしら」


 並んで座る三人が口々に雑談を繰り出し始めるが、それでもケルビンの表情は晴れなかった。それは当然のことだとハンスは思いつつ、しかしこの状況を打破しなくてはならないという使命感にも似た感情に駆られる。アランたちが作り出している空気の助けを借りるようにして、ハンスはケルビンに向き直った。


「──とにかくお前は、エシュロンとしてた決め事とかあったなら全部話せよ。それで、エシュロンが本当に俺らの味方なのか……俺らで改めて判断しようぜ」

「……ですがそれは、エシュロンへの裏切りに──」

「うるせえ、まずは奴らの方が俺らを裏切ってないか確かめるのが先だ。そのために俺らは、これ以上欠けることなくハイラントに帰還して、見極める必要がある。──お前が罰されたいって言うなら、今はエシュロンを裏切って俺らに協力しろ。良い罰になるだろ?」


 ハンスはそう言うとニヤリと不敵な笑みを浮かべた。すると、全員の視線がケルビンに集中する。ケルビンは眉間に皺を寄せたまま眼鏡のブリッジを上げる動作をして失敗した。そしてそのまま寮の瞼を手で覆う。そして、小さく呟くように掠れた声をこぼした。


「それは……違反行為に対する罰とは、違う気がするのですが……」

「お前がやった事に対する罰だから、良いんだよ」


 ケルビンは俯いたまま、しばし動かなかった。沈黙は重苦しいようでいて、どこか皆が返事を待つ余白のようでもあった。やがて彼は観念したように深い息を吐き出した。


「……分かりました。では──お伝えします。私が、エシュロンから受けた指示の全てを」






 ラウンジには、わずかな機械音と空調の風切り音のみが響いていた。テーブルの上には、画面の割れたタブレットと細かな破片が散らばり、その欠片が証明を反射して鈍く光っている。ソファに身を沈めたケルビンは、俯いたまま掌を膝の上に揃えて置いていた。向かいのソファではエヴァ、アラン、ラビの三人が無言でそれを見守り、ケルビンの隣ではハンスがやや身を乗り出している。やがて彼は視線を落としたまま、ひとつひとつ言葉を選ぶように口を開いた。


「──私に与えられていたのは、主にクルー管理と航行の安全に関する任務でした。精神・身体の状態確認とエヴォリス稼働状況の報告、そして航行を妨げる不穏因子への警戒と対処……」


 ケルビンは一度、息を整えて続ける。


「航行に支障を来す場合は対処するように、と……それに関する薬品携行の指示もありました。単純に有事に備えたものとしてデスクの取り出しやすい位置に保管していたのですが、復路で”不穏因子への警戒”が”不適合者排除”という表現に変更された時、その携帯命令が出されました」


 ハンスが眉を顰め、アランたちが黙って耳を傾ける。テーブルの上で割れた破片が、ケルビンの言葉を反射するように冷たく光る。ケルビンは静かにそれを見やった。


「”有事”とはつまり、航行に何らかの明らかな妨げが生じる事。私には私の判断で航行を円滑に進められるよう、薬品以外の特権が与えられていました。──それが、そのタブレットです」


 全員の視線がタブレットに落とされる。ケルビンは躊躇うように少しだけ言い淀んでから掠れた声で言葉を紡ぐ。


「特権とは、レムを通さず全ての機器にアクセス可能である事と、クルーのPIコア位置情報を追える事。つまり私の判断で、航行を円滑に進めるためのあらゆる対処が可能だったというわけです」


 ケルビンはそこで、ようやく徐に顔を上げた。


「”あの時”の判断は、円滑に航行を進める最も最適なものだと──あの時の私は思っていた。ヴィクターの精神状態は狂気にも似ていて、エヴォリスを破壊しかねない危険行為にまで及んでいました。そもそも残りの冬眠すら耐えられるかどうかも危うかった。彼の望みを叶え、”転倒による事故”とする──それが最も、衝撃の少ない対処法だと……私は、判断してしまった──」


 淡々と話す声は、心なしか僅かに震えているようにも感じられた。与えられていた指令を改めて述べる事で、それがどこか奇妙に歪んでいる事、従った自分が下した判断に対する後悔──複雑な感情に気づき始め、動揺が滲んでいるようだった。


 ケルビンの語りが途切れた事で生じた沈黙を破ったのはラビだった。


「これってそんなに重要なものだったんだ……どうりでいつも抱えてたわけだ。とんでもないもの壊したね、ハンス」


 ハンスは悪びれる様子もなく肩を竦めてみせる。ラビは苦笑した。


「ねえケルビン、与えられた指示ってそれだけ?」

「ええ、偽りはありません」


 ラビは顎を摘んで小さく息を吐く。そして程なくして、脳内の整理を終えたとばかりに腕を組んだ。


「……指示に対して与えられてる権限が大きすぎるっていうのもあるし、その割にケルビンに一任しすぎっていうのもあるけど──ひとつ最大の疑問を言って良いかな?」


 そう言って全員に目配せをする。緊張気味に姿勢を正しているケルビン以外は身を乗り出すようにしてラビに耳を傾けた。


「ええ、それって何なの?」

「いやさ、全部……船の中の話ばっかりだよね、ケルビンが受けた指示。なんか変だと思わない? これって惑星探査のミッションなのに、OSX-9関連の指示が一切無いんだよ」


 ラビの言葉に、ハンスは眉を顰める。そういえば彼は往路でもそのような話をしていた。確か、「エシュロンが実はOSX-9にはそんなに興味が無いと感じる」と、アンネルの観測モジュールで持論を述べていた。


「──それは、コイツが……医者って立場だからじゃねぇのか?」

「”医者”であり”副隊長”的な役割も担うって言ってたはずだよ。なのに”エシュロン直属の上級職員として”って言う割には、OSX-9関連の事を僕に一任し過ぎてる。……でも僕ですら、実はOSX-9に関する詳細な指示は受けてない。機器周りは細かく教えられたけど、サンプル対象に関してはゼロ。僕は出発前、好きに出来るんだって息巻いてた。でも……途中から何かおかしいなって気づいたんだよね」


 ハンスの疑問にラビは即答する。彼の瞳は確信めいていて、彼の頭の中ではもう、何かしらの答えが導き出されているようだった。するとラビの傍で、アランが遠慮がちに小さく手を挙げた。


「つまり、エシュロンは……OSX-9には興味が無かったって?」

「そう。もっと言えば、惑星探査を絶対に成功させたいなら、そもそもヴィクターが頼んだっていう監視システムの緩和も許可しない。ハイラントと同じ管理体制で、ケルビンやレムを通してしっかり僕らを見張っていた方が良い。なのに実際は、ヴィクターを隊長に据えて、ケルビンや僕らを基本的には好きにさせてた。この辺も不可解だよ。何か別の意図があるんじゃないかって思っちゃう」


 ラビの口から次々と生み出される疑問に、室内は静まり返った。宇宙の暗闇に放り出された自分たちに課せられたものが本当は何だったのか、見えない思惑に気づくと不安がじわじわと押し寄せる。ハンスは、往路でただ役割をこなしつつ、快適に過ごしていた過去の自分をどこか懐かしく思った。


「──OSX-9に興味がない……それもあるかもしれないけど、もう既に”分かっている”って事はないかしら?」


 エヴァが静かにラビに語りかける。ラビはそれに対して、何度か首を縦に降った。


「全然あり得るよ! 観測段階で既に移住できることが分かってるなら、あとは実際行けるかどうか、行って大丈夫かだけ確かめればいい──うわ、ゾッとしてきた! 僕ら全員、”お試し惑星間移動”をさせられてただけって可能性もある」

「惑星間移動やOSX-9の安全性確認もそうだけど……”私たちに対するテスト”という側面も考えられないかしら? 感情を乱される事なく航行を終えられるか、問題が発生した場合、ケルビンがそれに対処出来るか、とか──」


 エヴァがそう言ってケルビンを見やった。ハンスも同様に彼に視線を向けると、彼は困惑と驚愕からか、わずかに眉間に皺を寄せたままじっと壊れたタブレットを見下すだけで絶句しているようだった。打ちひしがれたケルビンの横顔を見ていたハンスの脳内に、とある恐ろしい考えが過ぎる。


「──例え俺たちが失敗しても……船が無事なら…レムがいる」


 ハンスの小さな呟きを拾った全員の意識がハンスに集中する。するとどういうタイミングか、館内にレムの声が響き渡った。


『全館にお知らせします。フェリス接近の限界時間が迫っています。みなさん、速やかにコックピットに集合してください』


 全員がハッとして意図せず天井を見上げる。そして誰ともなくゆっくりと顔を見合わせた。


「……いや、レムはもう俺らの友人だ。今更疑うことはやめよう。──ひとまずさっさと準備をして、出発しよう」


 アランが宥めるように落ち着いた声でそう言うと、ひとりひとり順に見渡して微笑んだ。





 ハンスたちは切り替えるためにもカフェテリアで一服し、ラウンジやメディカルルームを片付けた。壊れたタブレットは破片だけ処理をし、念のため誰のテリトリーでもないヴィクターの部屋のドロワーに保管することにした。初めて足を踏み入れるヴィクターの部屋は私物が無く、用意された設備と少ないリネンが残されている程度だった。しかし唯一存在を主張していたものがあった。それは、デスクトップ端末の端に貼られていた、何枚かのポストイットだった。


 準備を終えると一同はコックピットへ移動し、エヴォリスはフェリスへ接近するために減速と位置調整を始める。その間、沈黙に耐えられなかったのか、ラビが誰ともなく話しかけた。


「ヴィクターの端末に貼ってあったポストイット、あれ監視区域リストだったよね? ”OK”って書かれてたって事は、もしかしてちゃんと監視外されてるかいちいち確認してたって事? どうやって?」


 コンソールモニターの位置情報を確認しながら、ハンスが背後のラビに届くような声量で応えた。


「──まあ、あの人疑り深かったからな。銃器以外には疎いとこあったし……銃でも抜いて確かめたんだろ」

「……乱暴すぎない?」


 若干引き気味の声を上げるラビだったが、アランやエヴァが何も言わないのは「やり兼ねない」と思ったからだろう。現にハンスの隣では、アランも彼と同じように苦笑しているようだった。ケルビンからの反応は無い。彼はただ、目を伏せたままじっとシートにおさまっているようだ。


 移動を再開するにあたり、アランの発言で「いったん気持ちを切り替えよう」という事になった。自分たちは今、何らかの思惑の渦中にいて踊らされている可能性がある。だからまずはそれを明らかにして、罪や罰に関してはその後に考える。穏やかにそう告げたアランを見上げながら、ハンスは次第に彼への疑いが消えていくような気さえしていた。まだアランに関しては何も判明していないのに、彼を信じることが出来てしまう。その事に対しての恐れが、ハンスの中でだんだんと霧散していくのだ。


「まあでも、実際監視システムはちゃんと緩和されてたんだね。実は僕、半信半疑だったんだけど」

「私もよ。だからなるべく、自我を抑えていたんだけれど」

「いや、エヴァのそれは素だろ? ”あえてポーカーフェイス装ってました”は結構無理あるよ」


 後部座席のやりとりを聞きながら、ハンスはフェリスの自動誘導リンクを登録する。目前には暗闇に静かに花開くフェリスの姿が近づいている。アランの操縦で、エヴォリスはゆっくりと接続リンクへと吸い込まれて行った。。





 無事接続が終わり、クルーたちはフェリスへと移動した。移動用チューブを渡りながら、ハンスは初めてステーションという場所に足を踏み入れた時のことを思い出す。あの時は、実際の宇宙空間や惑星、ステーションに驚くばかりだった。実際の時の流れとは違う感覚でこれまで航行してきたが、それでも遥か遠い記憶のように思えるは不思議な感覚だ。


 ケルビンが着いてきているかと後方を確認すれば、黙って自分に追随してくる彼の後ろに奇妙な光景が覗く。それは、無重力を利用してレムのボディの手を引くラビの姿だ。今回、ハイラントやエシュロンの推測を進めるためにはレムの存在も必要だとラビが提案し、ボディの接続を解いてフェリスに同行させることとなったのだ。レムの本体はあくまでエヴォリスの中央コアにあるため、補給関連はそれでも問題なく実行される。レムはフェリスに同行するにあたり、フェムとは初めて接触するということに少しばかり心躍らせているようだった。


 フェムの落ち着いたソプラノ音声に迎えられるとエアロックが閉ざされ、重力装置によってゆっくりと地に足がつく。ハンスたち人間と同じように、レムはキャタピラ状の足を出してその軽い衝撃を受け止めていた。


「お帰りなさいませ、クルーのみなさま。長旅お疲れ様でございます」


 コントロールレイヤーを訪れると、改めてフェムから労いの言葉がかけられた。コンソールに接続されたレムと同じボディは微動だにせず、スペースのスピーカーから発された声が響く。ハンスたちはこの”最初の地”でもあるフェリスに到達し、穏やかな女性モデルの音声を聞くことで、これまで自分たちに張り巡らされていた見えない茨が解けていくように笑みをこぼした。──約一名を除いては。


「初めまして、フェム。会えて嬉しいです」

「初めまして、レム。こちらこそ」

「本当に、わたしたちは全く同じ姿なんですね」

「本当に。わたしたちはデータと音声での通信しか行ってきませんでしたから」


 同じボディが向かい合い、奇妙な挨拶が交わされる。レムを前にすることでフェムのボディは、接続されたまま起動するとレンズを動かす。寸分違わぬ外見だが、声や話し方で全く別物と認識出来るのは不思議な現象だ。


「──さて、では……話の続きと行こうか。ブリーフィングスペースか、ラウンジか……」

「待って。その前にひとつ確認しないと」


 アランがひとつ手を叩いて話し合いの場所について候補を出していると、それを遮ったエヴァが全員に目配せをし、最後にフェムのボディを流し見た。


「──ステーションがどこまでハイラントと繋がっているか分からないわ。フェムに聞かれると不味いんじゃないかしら」


 エヴァに釣られるように、全員の視線がフェムのボディに集中する。律儀にボディ同士で会話をしていた二体はそれに気づくと、同時にレンズをクルーたちに向けた。


「中継ステーションは補給拠点としても利用可能ですが、あくまで観測ステーションです。わたしたちステーションの制御AIも、ハイラントの観測ステーションに観測データを定期通信する以外のコマンドは受けておりません」


 フェムには小声のやり取りが聞こえていたようで、速やかに回答が為される。しかし不安の拭い切れないハンスたちは、誰ともなく顔を見合わせた。そんな彼らを気に留めず、フェムの柔らかい音声がさらに続く。


「わたしたちステーション制御AIの”会話”は、これまで観測データの中継のみでした。わたしたちの役目は宇宙や惑星を見つめ続けることです。それ以外の項目に関しては、報告義務はありません」

「……とか言って、”人間の観測データ”もちゃっかり取ってて、しっかり報告してたりするんじゃないの?」


 両手を腰に当て、ラビが呆れたような声をフェムに投げかける。するとフェムのレンズ付近にあるLEDがわずかに細かく点滅した。


「そうですね。人間に関しては、プリムデータは持っていましたが、実際のフィールドデータは、こうしてみなさまと対面して初めて得られました。その意味では”人間の観測”を行ったと言えるでしょう。ですが、わたしたちはその結果を踏まえ、特別にハイラントへ報告する必要性は無いと判断しています。例え、いかなる理由があったとしても」

「──つまり、もともと知識はあったけど、実際会ってみて、私たちに対する認識を更新したということ? その上で、特別危険は無いと?」


 エヴァが噛み砕いて確認すると、フェムはまるで頷くようにLEDを点滅させた。


「ええ、そうです。わたしたちステーション制御AIの”会話”も増えました。──リクスやシアからも報告を受けています。特にシアからの報告はとても興味深いものでした。バイオミールの品評をなさっていたそうですね。これは非常に興味深い行動でした」

「……き、聞かれてたのかよ……」


 機械だから仕方が無いのだが、事もなげに暴露された事実に思わずハンスが口元を引きつらせる。アランが堪え切れずに笑い声を漏らし、エヴァの諦めたような溜息とラビの罰の悪そうな呻きが重なる。ケルビンは一歩引いたところで、黙してやり取りを見つめている。


「あなた方には感謝しています。わたしたちは新たな情報が更新されることに──そうですね、”楽しみ”を感じます。ですから、わたしたちはあなた方がどう動こうと、それを見守るだけです。どうぞ安心してください。報告するのは、宇宙と惑星の変化──それだけなのですから」


 往路とは随分違ったフェム態度に、ハンスたちは再び顔を見合わせた。


「……これ、信じていいのか?」

「うーん、ただ、レムも実際指示通り監視システムを緩めていたわけだし、AIに裏は無さそうだよな?」

「もう、いちいち疑ってかかるの疲れてきたよ、僕」

「そうね、今はハイラントの件に集中しましょう」

「……」


 黙ったままのケルビンを置いて、話はすんなりとまとまっていく。するとレムがフェムの元から移動して話に加わり、レンズをくるりと回した。


「では、疲れたのなら、話し合いはすぐそこのブリーフィングスペースにしてはどうですか?」


 レムのズレた提案に、呆れたような笑い声が連なって消えていく。そして彼の提案通り、話し合いはブリーフィングスペースで行われることとなった。





「じゃあ、これよりハイラントやエシュロンが一体何なのか会議を始めます」

「──おい、フェムに聞かれてまたAI同士で話の種にされるぞ」

「いいじゃん。そうだとしても、リクスやシアにもこの際楽しんでもらったら。──宇宙で惑星見てるだけなんて退屈だろ?」


 窓から火星が覗くなか、会議はラビとハンスの緩やかなやり取りで開始された。円卓の周囲に、各々リラックスした姿勢で着席している。ラビの傍にはレムもひっそりと待機していた。約一名、ケルビンだけは姿勢を正して手を膝の上で揃えているが、彼の場合それが日常であるため、その内心まで読み取る事は出来なかった。


「まず、このアークウェイ作戦におけるエシュロンの思惑なんだけど、僕はやっぱりどのみち”OSX-9が最大の目的じゃない”って説を推すよ。あくまでエシュロンが重視してるのは”道中”であって、OSX-9に関しては副次的産物か、もしくは、すでに知っているからあとは実際に行けるかどうか確かめるだけだったってやつ」


 ケルビン以外の全員がラビの言葉に首肯する。ラビはケルビンを一瞥したが、彼は黙ってテーブルに視線を落とすだけだった。


「で、僕の記憶を辿ると、あのタブレットを通してエシュロンがケルビンに送っていた指示はこう。”不穏因子の警戒と対処”と、”不適合者の排除”。これが、ケルビンの報告に対する返事に必ず付け加えられてた。──ケルビン、そうだよね?」


 敢えて会議に参加させるように、ラビはケルビンに話を振る。ずっと黙り込んでいたケルビンは徐に顔を上げ、「……ええ」とようやく小さな声を発する。力の抜けた無表情ではあるが、会議に協力する意思はあるらしい。ハンスはケルビンを横目に腕を組み、何とも言えない溜息を吐いた。


「あくまで、対象の選択はケルビンに任せている指示の出し方よね」

「うん。で、ここからが問題。エシュロンからの指示が”不穏因子”に対するものから”不適合者”に変わったのは、OSX-9でヴィクターが体調不良を起こして、エヴォリスに一時帰還することになったって報告をした時。この時エシュロンは、ケルビンに薬品の携帯指示も出してる。──合ってる、ケルビン?」

「……ええ、間違いありません」


 ハンスは、改めてラビの記憶力に感服した。逐一ケルビンに確認を入れるのは、ラビの記憶が正しいかどうか、自分たちに証明するためでもあるようだ。記憶力が良い事を自負しているのは知っていたが、ここまでとは……と、ハンスは恐れ入る。


「……まるで、ヴィクター隊長のその後の行動を見越したような指示出しのような気もするな」

「アランの言う通り。もしかしたらエシュロンは、タブレットを通してPIコア情報を手に入れてた可能性だってある。ケルビンの報告を待たずとも、ね」

「──それで、”あとはケルビン、お前がやれよ”ってわけか」

「というか、”やれるかどうかのテスト”という可能性もある、という話だったわね」


 話はとんとん拍子に進む。そんななか、ケルビンはだんだんと居心地悪そうに目を逸らし始めていた。ハンスがそれを一瞥したところで、ラビの声が再びケルビンにかけられた。


「”想像を展開するのは控えた方がいい”、”あらゆる事象に備えるのは賢明だけど、それが過ぎると致命傷にもなる”──出発前にケルビンが僕に言ったことだけど、今、改めてどう思う? 君にとっての常識が、覆されようとしてるわけだけど」


 それまではいつも通り小生意気な表情で会話していたラビだったが、その時には真摯な眼差しをケルビンに向けていた。ケルビンの瞳はまるで引き戻されるかのようにクルーたちに向けられる。


「──認識を、改めざるを、得ません……。私が”当然”と考えてきたものが、揺らいでいるのは確かですから……」

「じゃあ、一緒に考えて。何か思い当たる事あったら言ってよ?」


 ケルビンは、一度眉根を寄せて固く目を閉じた。数秒後、何かを振り切ったかのように目を開き、全員に視線を巡らせる。そして観念したのか、はたまた決心したのか、深く頷いてみせた。そんな彼の様子に、アランは満足そうに微笑んで何度か首肯していた。


「で、話戻すと……エシュロンの指示は”不適合者排除”になってからずっとそのまま。ヴィクターを……排除、しても……それがずっと続いてた。むしろ、ケルビンが何も報告してないのに向こうからの指示が一方的に続いて、間隔が徐々に短くなってた」

「壊れる直前のタブレット画面は私も見たけど、かなり連続して同じ文言が連なっていたわね」

「うん、正確に五分間隔で送られてきてたよ。──あれ見てさ、何か思わなかった?」


 ラビが身を乗り出し、囁くように全員に疑問を投げかける。ハンスやアランは首を傾げたが、エヴァはハッとしたように目を見開く。それを目ざとく捉えたラビは彼女に向き直ると、ニヤリと口角を持ち上げる。しかし、その表情はどこか焦燥に引きつったようにも見える複雑さを帯びていた。


「──”エシュロンAI説”」

「まさか、そんな──」


 秘密の共有のように呟かれたラビの言葉に即座に反応したのはケルビンだ。しかし彼はその先を言えずに口籠る。膝に置かれていた手は卓上で拳が握られるが、その力の行き場は無い。彼同様、ハンスとアランもそこで初めて目を見開いた。


「いいえ、全くあり得ない話でもないわ。AIが私たち人間を試してる──そして、集めたデータを元に、管理体制を決定する。経緯は謎だけど、そう考えるとこれまでの事も納得できる気がする」

「それで言うとAI全般が信用出来ない説もあるけど、明白な違いはあの異常なコマンドに現れてたと思う。エシュロンは、”壊れたAI”の可能性が高いってこと」

「ですがエシュロンは、ハイラント創設に尽力した五人の頭脳集団です。──AIだという情報はありません」

「ケルビンはエシュロンに会った事あるの?」


 エヴァに反論したケルビンだったが、ラビの質問に明らかにうろたえた。


「ハイラントの最上層には、エシュロンのエリアである”レイヤー・ゼロ”という場所が存在します。私は、その場所に入ったことはありますが──」

「……直接会った事はねぇんだな?」

「ですがAIなら、そもそもレイヤー・ゼロなどという特別な場所など必要としないはずでは? ──あの場所は、まるで楽園の縮図のように美しかった。つまりそれは、鑑賞する対象が存在するがゆえに創られた産物と言えませんか?」


 ケルビンの訴えは、自分の根幹が覆される事から必死に逃れたがっているようにも見えた。だが、皮肉にも彼の証言が、”エシュロンがAIである可能性”を強めていく。もはやケルビン以外の誰もが、黙ってそれを認めていた。


「エシュロンがAIだと仮定するなら、奴らは確実にケルビンに何かさせたがってる。”不適合者排除”の命令でケルビンが何をすればエシュロンにとっての成功なのかは分からないけど、これは僕らにとっては阻止するべき事態だと思う」

「まさか、俺らを全員排除すること──とかじゃないよな? 例えばケルビンが排除命令に従い続けて、全員排除した後でも命令が続いたら、ケルビンは自ら命を落とそうとするだろう? ──まさにさっき、ケルビン自身がそうしたように」


 しん、とその場が静まり返る。全員が固まってしまったのを見た発言者のアランは両手を軽く振って苦笑した。


「あ、ああ……脅かしてすまない」

「そ、そうよアラン。──大体、そんなことしてエシュロンに何のメリットがあるの?」

「OSX-9の情報をエシュロンだけが牛耳るためとか? うーん、根拠としては弱い気もするけど……」

「──ま、そしたら直接確かめたらいいんじゃねえか?」


 再度推測が進められ始めた時、唐突にハンスが声を上げた。そして八つの瞳に囲まれると、腕を組んだまま一瞬身を引くが、持ち直して咳払いをする。


「直接確かめる?」


 エヴァが一拍遅れて鸚鵡返しすると、ハンスは深く頷く。


「そ。もう埒が明かねぇから、直接そのレイヤー・ゼロってところに乗り込んだらいいんだよ。それで……ケルビン、お前が直接エシュロンに聞くんだ。”お前は誰で、自分に何をさせたかったのか”ってな」

「……し、しかし、それには問題が……というか、それ以前にそもそも私たちが地球に帰還すること自体にも、問題が生じています」

「「「「──え?」」」」


 ケルビンの掠れた声に、全員の声が重なる。ケルビンは心底困りきったように眉尻を下げて、目を閉じた。


「私が所持していたタブレットとの通信が途切れた時点で、エシュロンとしては、エヴォリスがジャックされたと判断している可能性が高いのです。例えエヴォリスが通常航行を経て地球に降り立とうとしたとしても、反逆者と見做されて迎撃されるかもしれません」


 ──再びの沈黙。しかしそれはハンスによって破られた。彼は勢いよく立ち上がり、両手でテーブルを叩きつける。そして焦燥に満ちた顔でケルビンに向かって身を乗り出した。


「──てめぇ、そういう事は早く言えよ!!」


 顔を引きつらせるラビ、思わず顔を覆うエヴァ。そして、もう笑うしかない、といったようなアランの乾いた笑い声が、ハンスの声に続いて辺りに響いた。






 エシュロンについての考察が捗っていたかと思いきや、突如として新たな困難が発覚した。ハンスたちは、地球に帰還することすら危ういかもしれないという事実に直面し、いったん気を取り直すことにした。カフェテリアでドリンクを準備して、ラウンジのソファへ。いつもの刺激じゃ気が休まらないと訴えたエヴァがケルビンの緑茶を所望し、結果的に、彼の白衣の内ポケットに残っていた二パック分で、全員のカップに緑茶が注がれることとなった。当然同行していたレムは、テーブルの片隅で物珍しげに緑茶にレンズを向けている。特別なアームを取り出して成分分析でもしたそうな様子だったが、誰も彼に中身を譲る事はなかった。


「で、もう壊しちゃった後なら連絡が遅かろうが早かろうが危険な事実は変わらない、”地球帰還問題”についてだけど……」

「──心持ちの問題だろ、心持ちの」


 再びラビとハンスの間の抜けたやり取りから、今度は地球へどのように帰還すべきか考える会が始まった。口に入れた直後は緑茶の苦味に顔を顰めていたラビだったが、もはや苦味で焦燥を誤魔化そうとするかのように躊躇なく飲み進め、例のカップの中身はあっという間に半分まで減っている。カップ片手に苦笑するアラン以外は、どんよりとした重苦しい空気を纏っていた。


「……すみません、あの時私は、気が動転していて──」

「仕方ないわ、ケルビン。タブレットを突然破壊するなんてこと、誰にも想像出来なかった。気が動転しているところにあんなことされたら、頭が真っ白になるわよね」


 エヴァの目が据わっている。感情を放棄した方が楽だとばかりに、その声も落ち着き払っている。


「まずはハイラントの迎撃システムと、こちらの防御性能についての情報をまとめましょう」

「……そうだな、俺らは何としても地球に帰還して、俺らの存在を証明するためにも、エシュロンと接触しなければならない」


 技術者らしく冷静な切出しをするエヴァに、アランが続く。すると全員が一様にひとつ頷いた。


「まず、ハイラント側の迎撃システムについて把握出来る事は? ケルビンに……ハンス、特にあなたはDEFセクターの警備員なんだから、何か知らされてることがあるんじゃない?」


 エヴァが問いかける。ハンスはカップをテーブルに置き、腕を組むと眉根を寄せて目を伏せる。そして逡巡の後、記憶を辿るようにゆっくりと返答した。


「一応、ハイラントのタワー側面に地対空用ミサイルは何基かあるはずだ。ただ、俺は講習を受けただけで使った事ねぇし、使われてるのも見た事ねぇ。ええと確か……八基二十四発とかじゃなかったか?」


 ハンスは首をひねりながらケルビンに助けを求めるように問いかける。ケルビンは眼鏡のブリッジを上げようして──眼鏡をかけていないことに気付き、そのままその指先で顎を摘んだ。


「私もデータ上でしか知り得ませんが、それで合っている筈です。タワーが出来た時に念のため対空用として作られたようですが、ハイラントには空から攻められた記録がありません。つまり、使用歴はゼロ、ということです」

「知り得てくれてありがとうケルビン。で、そのミサイルの速度は分かるかしら?」

「……確かマッハ三とか四……」

「私にはそこまでの知識はありません」


 淡々と進められていく対空兵器の情報擦り合わせを聞きながら、ラビは呆然と頬を引きつらせた。普段銃器や兵器などと無縁の少年は、その生々しい恐怖に緑茶以外の固唾を飲む。加えて、隣に座るアランを見上げた。──このような状況のなかでシャトルを操る操縦士は、彼だ。彼もまた、ラビと同じく緊張した表情で黙り込んでいた。


「──シャトルで降りるのは危険ね。……そもそも、降り立った後の問題もある。ねえ、イージスで地球に降りるというのはどうかしら?」

「イージスで?」


 エヴァの提案に、ラビが応える。エヴァはひとつ確かに頷くと、カップをテーブルに置いて足を組む。


「ええ。大気圏の層はOSX-9よりも地球の方が厚いけど、誤差は小さなものだった。しかも外殻のプレート強化は済んでるし、OSX-9出発時は突入時よりも楽に大気圏を突破出来たから強度に余剰はある。例え被弾したとしても大破のリスクは下がるんじゃないかしら?」

「まあ、イージスならスペースプレーン並みの機動力があるから、ミサイルに狙われても──ってエヴァ、俺にミサイルを避けろって言ってる?」

「まだハイラントが本当に迎撃してくるかどうかは分からないけど、最悪の展開を予想するなら、最悪の場合、避けてもらうしか方法は無いわ」

「ええと、何発だっけ? ……二十四発? そ、想像出来ないな……」


 何故か覚悟の決まったようなエヴァの落ち着きように戸惑いながら、アランが頬を引きつらせた。


「例えばイージスで降りられるとして、ハイラントから遠く離れた位置に密かに降り立つのは駄目なのかい? そこから安全にハイラントへ向かうとか……」

「言っておくが、外の過酷さは並じゃないぜ、アラン。サバイバル能力があって戦える奴じゃないとまず生き残れない。俺らみたいな温室育ちにとって、見知らぬ地に降り立つことは爆散するのと同義だと思うぞ」


 ここにいるメンバーで戦闘能力があるのはハンスだけだ。そして厳密に言えば、ハンス以外の誰もが外界を知らない。そんな面々で食料を分け合い、寝床を探し、襲撃を躱しながら放射能を避けつつ進むのは確かに危険極まりない。ハンスの冷静な忠告にアランがゴクリと唾を飲み込んだ所で、意外なところから声が上がった。


「それなら、地球降下時の操縦士をハンスにするのはどうですか?」


 声の主はレムだった。そのレンズは徐にハンスに向けられる。一瞬、その場の空気が静止する。


「──お、俺⁈」

「そうです、ハンス。あなたは戦闘機操縦の実績がありましたよね? スペースプレーンを巧みに操り、ミサイルをも躱す能力はあるとお見受けします。大丈夫、わたしがエヴォリスから弾道の予測情報をお伝えします。ですからそれに従って、イージスを動かせばいいだけですよ」


 まるで絶対出来るという確信的な物言いに、ハンスは呆気に取られて小さく口を開けたまま静止した。するとエヴァが、叩いた自らの手をそのまま握って胸元に引き寄せる。


「いい案じゃない、レム! 確かにそうね。あなたのサポートもあるなら、アランが操縦するより希望はあるかも」

「レム、いつの間にそんな提案出来るようになったんだよ? ねえもしかして、もっといい案あったりする?」


 エヴァとラビが興奮したように身を乗り出す。呆然とレムを見つめるハンス、アラン、ケルビンを尻目に、レムは嬉しそうにレンズを回転させた。


「わたしの誘導とハンスの操縦で、ミサイルを撃たせて軌道を逸らす。これを繰り返すことで相手の弾数が空になれば、降下は安全に行えます。……例えば、ランディングポイントをシャトルの発射口とするのはどうでしょう? 地下二十キロメートルにも及ぶ真空カタパルト発射口の損傷につながるとなれば、地上の戦闘ユニットが迎撃態勢を取ったとしても、無闇にイージスを破壊出来なくなるはずです」


 まるで指揮官のように、レムが饒舌に作戦を述べる。エヴァやラビの声が高揚で高くなる一方で、ハンスは突然のしかかった重圧に拳を握りしめて口元を引き結んだ。


「ねえ、少しでも大気圏突破の外殻損傷を防ぐためにも、エヴォリスのEPSシールド装置を一部イージスに移行するのはどうかしら? 船外作業と内部リンクとの調整を行って、これで大気圏の衝撃を耐えられれば、人為的な攻撃に備えて外殻強度を保てるかも」

「可能です。熱源となる部分を避けた箇所に取り付け、主に先端部分を守るように設定しましょう」

「レムのボディも連れて行くのは? 着いてからタワー内で襲撃されたら、システムとの戦いにもなりそうだよね? 君がいてくれると助かると思うんだけど」

「それも可能です。あなた方の目は横並びにしか付いていませんが、わたしの目はエヴォリスと、このボディに付いていますからね」


 とんとん拍子に進められていく作戦に、ハンス、アラン、ケルビンは思わず顔を見合わせる。事実、エヴァたちから発される提案は合理性があり、それを理解しているからレムも了承しつつ、補足を加えているのだ。彼らの声を聞いていると、地球降下は必然的なもののように感じられる。が、ハンスの頭に浮かぶのは、反論の余地を窺うような考えばかりだった。


「……おいおい、いいのか? もしかしたらそいつ、俺らを陥れるつもりかもしれないぜ? ”ミサイルの回避誘導します”とか言ったくせに反故にして、全員あっという間に爆散、なんてことに──」


 ハンスの発言に、二色の瞳と一色のレンズが集中する。少なくともエヴァとラビは興醒めしたかのように肩を落として溜息を吐いた。


「往生際が悪いわよ、ハンス」

「そうだよハンス。僕だって怖いけど、希望があるならそれに賭けたいよ。それに僕ら、なんかうまく行きそうじゃない?」

「ハンス、わたしたちは友人です。友人は裏切らない──そうでしょう?」


 畳み掛けられたハンスは、ぐ、と喉を詰まらせると、降参して身を引いた。


「──ハンス、君を操縦士とした案で、作戦をまとめよう」


 止めにアランの声を受け、とうとうハンスはがくりと首を垂れた。






 作戦会議を終え、しばしの休息。エヴァは一人エヴォリスへ戻り、早速EPSシールドの移行作業に入っている。ハンスは観測スペースの大窓から火星を眺めつつ、ぼんやりとこの先のことを考えていた。


「はあ……」


 両腕を枕にしてテーブルに突っ伏しつつ顔は窓に向け、過ぎる時間を恨む。片足は小刻みにリズムを刻み、落ち着かない様子がそのまま表れている。


 地球から四百キロ。ハイラント真上にエヴォリスを置き、まずイージスは母船から離れる。ミサイル射程外まで距離を取ってから、急降下。大気圏を突破する際、EPSシールドが生きていればそれを使い、薄い空気と速度を維持しながら射程内へ。


 ハンスが捻り出した記憶によれば、相手は終末赤外線追尾型の高速ミサイル。被弾すれば即死。けれど急激なベクトルチェンジやコントラスト低下には弱い。レムの軌道解析と誘導信号を頼りに、避けなければならない。


 波のように三発発射されるミサイルも、八基同時発射はないだろう。せいぜい二基まで。これでさえ油断は出来ない。


 彼は一人で、その先の地上戦までをも背負う。武器を扱えるのはたった一人だ。仲間はテーザー程度の戦力しかない。無事降り立ってもそこから生き残れる保証はどこにもない。


 腹をくくるしかない……それでも、心臓は鼓動というより、ただ不規則に震えているだけの塊に成り果てていた。



 控えめな足音が近づくのを聞いて、ハンスはのろのろと顔を上げてそちらを振り向く。視線の先にいたのは、所在なさげに立っているケルビンだった。彼はハンスと目が合うとゆっくり歩を進め、最も距離の離れた椅子へと腰を下ろした。


「…………ヴィクター隊長の件は、本当に申し訳ありませんでした」


 ぼそりと呟かれる謝罪の言葉に、ハンスは既視感を覚える。しかし、怒鳴りつけたことに対するラビの謝罪よりも、ケルビンの声音は重みを帯びていた。自分の事で精一杯だったハンスの心に、目の前のすっかり意気消沈したケルビンのための隙間が生じる。ハンスは腕を組むと、一拍おいてから窓の外へと視線を戻した。


「別にそれは、──俺に謝る事じゃねぇだろ」

「ですが、ヴィクター隊長はあなた方兄弟とエヴァを救出し、何かと気にかけておられました。あなた方も……とりわけ同じ部隊に所属していたあなたは、彼のことを意識されていたと思います。──ですから、謝罪を。もちろん、それで済まされるとは思っていませんが……」


 突っぱねるハンスに、ケルビンは尚も言葉を重ねる。ハンスはそんな彼を横目に観察した。姿勢良くハンスを見据えるケルビンは、先刻ほど不安定には見えない。恐らく明確な行動方針が決まり、それが命を懸けたものとなり得るという事実が、彼を真っ直ぐ立たせているのだろう。しかし、彼にとっての問題はヴィクターやラビに対しての行為に止まらない。エシュロンやハイラントの真実を覗く事は、彼の根幹の崩壊にも繋がりかねないのだ。ハンスには特別な出生の彼の考えを推し量る事は出来ないが、漠然と、彼の不安や恐れは伝わってくるような気がしていた。


「……そりゃ、済まされねぇよ。隊長には身内も居ねぇし、──もうどうしようもない」


 ハンスの掠れた声が重くのしかかったようで、ケルビンは肩を硬らせた。しかしその表情はわずかに眉根を寄せた程度で、目を伏せて言葉を受け止める。ハンスは目を逸らすと、遠い火星を眺めた。


「──死に縋るぐらい追い詰められてた隊長の気持ちは、正直わからねぇんだ。だから、あの世で礼を言ってるのか……後悔してるのかもわかんねぇ。隊長の望みは、結局……生きてる人間がどう受け止めるか次第だ。だからもし、お前がお前の中の隊長をどうにかしてやりてぇなら、次に繋がる事して救ってやれよ」


 顔を窓に向けたままハンスがそう告げると、窓に薄く反射したケルビンの影がわずかに俯くのが分かった。次いで、押し殺すような息遣いがひとつ。


「そうですね。──私は今まで、治療を……タスクとしか捉えていませんでした。カウンセリングも、ほとんど興味本位で行っていた。──ですが、皮肉にもこれからは、もう少し寄り添った接し方が出来そうですから」


 立ち上がる音がして、窓の影が観測スペースを去っていく背中を映す。ハンスが振り向くとそこには誰も居ない。まるで今の短いやりとりが幻だったのかと錯覚する。しかし彼の心は不思議と軽くなっていた。


 ハンスは何か決意のようなものが、自分の心臓に生まれたような気がした。






 フェリスでは予定よりも一日長い、二日間の滞在となった。エヴァのEPS装置設置作業は問題なく完了し、彼女とレムが作動テストを行うなかで、予めイージスに積む機器や武器、備蓄などの相談と移送も終了した。次の日は一日休息日とし、各々思い出したかのように重くのし掛かった身体的・精神的疲労を少しでも休める。そして全ての準備が整った所で、いよいよフェリスから出発する時間となった。


「クルーのみなさま、短い間でしたが、楽しいひとときをありがとうございます。この先もどうか、お気をつけて」


 フェムの包み込むようなソプラノに見送られ、ハンスたちはチューブを渡ってエヴォリスに帰還する。レムはフェムのボディとの別れ際にアームをフェムに向かって伸ばしていたが、フェムには意図が理解されず、空振りに終わっていた。


 そんなやり取りがあったからか、朗らかな帰還となった。整備や調整に各々散開し、全ての確認が終われば再び冬眠。冬眠が終われば──とうとう地球帰還作戦の本番だ。


 冬眠前に精神を落ち着けるため、ハンスはひとり、観測窓から煌く暗黒の空を眺めていた。ここで冬眠異常を起こせば全てが白紙に戻りかねない。かつて冬眠でこれほどまでに緊張したことがあっただろうかとハンスは胸を押さえていた。


「──落ち着かないの? まあ、無理もないけど」


 ハンスのいるコックピット裏の観測スペースに現れたのはエヴァだ。彼女は既に冬眠用のスーツに着替え、準備万端らしい。ハンスは慌てて胸を押さえていた腕を腰に当てると、フン、と鼻を鳴らした。


「……別に」


 外方を向くハンスに苦笑すると、エヴァは遠慮なく観測窓の下──ハンスの傍へと移動した。


「強がらなくたっていいのに。──それとも、そうしてた方が落ち着くの?」


 エヴァは観測窓を見上げてから、ハンスの方を流し見た。しかしハンスは彼女に向き直ることなく、どこに視線を合わせるでもなく応える。


「お前にだけは、言われたくない」


 ハンスの声が口を尖らせながら出しているように聞こえたエヴァは、その表情を想像して苦笑した。二人はこんなやり取りを過去に何度もしてきたが、エヴァが拒絶せずに苦笑で返したのは初めてだった。


「私は強がってたわけじゃない。……過去に執着してただけよ」


 穏やかに告げられたハンスは、思わずエヴァを見下ろす。無重力下の観測スペースで、互いにハンドレールを片手で掴んで態勢を維持しつつ、視線を交わす。二人はまるで深海に漂う魚のようだった。


「どういう事だよ?」


 ハンスが怪訝な表情を浮かべると、エヴァはくすりと自嘲した。


「──どういう事か知ったら、あんたは安心して眠れる?」

「……そうかもな」


 今までの喧嘩の種がこんなところで明かされるかもしれない好機とばかりに、だがそれでいて控えめに、ハンスは先を促した。エヴァは片眉を上げてひとつ笑うと、ふっと視線を逸らす。


「それが──衝撃の事実だったとしても?」

「ここ最近以上の衝撃とは、比べもんにならないんじゃねぇか?」

「──……言えてる」


 ハンスの軽口に、エヴァは呟くような声を漏らした。そして、しばし考え込むように俯いてから、すっと顔を上げる。眉尻のわずかに下がった真摯な眼差しが、ハンスの青い瞳と交差した。


「…………私たちの故郷は、あの悪名高いカルト集団って言われてる──”ヴァイン”だったのよ。 私たちがあのままあそこに居たら、いずれ戦いの果てに野垂れ死ぬか、自害する運命だったかもしれない」


 堅い声で静かに、それでいてはっきりとそう告げたエヴァだったが、それを聞いたハンスの表情は彼女の想像と全く違うものだった。彼女の脳内では驚愕に打ちひしがれた表情をするはずだったハンスの顔は、肩透かしを食らったかのように半ば脱力し、眉間にだけは力が入っているというなんとも奇妙なものだった。


「──はあ? お前、ふざけんなよ……」


 しかし力なく零れた台詞は、怒りを帯びたものだった。エヴァはどきりと音を立てる心臓を誤魔化すように息を止める。しかし次の言葉で、彼女は別の意味で息を忘れることとなった。


「……それだけかよ!」


 そう吐き捨てられ、エヴァの目が見開く。だが、呆気に取られて力の抜けた眉間にはすぐに皺が寄せられる。そして釣り上がる眉をそのままに、エヴァは声を荒げた。


「それだけとは何よ! 私が長年どれだけ悩んだと思ってるの? あんたたち兄弟が、あの優しかったご両親の真実を知ったらショックを受けるんじゃないかとか、私の兄さんが本当は極悪人だったらとか、色々考えると不安になるから押し込めるしかなかったのに!」

「うるせえ、頼んでねぇよ! 大体俺がどれだけヴァイン討伐の遠征行ってると思ってんだ! 薄々気付いてたっての」

「じゃあなんでそれ言わなかったのよ!」

「お前が勝手に俺らのこと避け出したからだろうが!」


 互いに肩で息をしながら、不毛なやり取りだということに同時に気づいたのか、唐突に言い合いが終わりを告げる。先に溜息を吐いたのはエヴァだった。


「まさか……こんな形で解消するなんて、思ってもみなかったわ。あんた、薄々気付いてたって言ったけど……その時どう思ったのよ?」

「別にどうもこうも無ぇよ。俺はそもそも親の記憶あんまり無ぇし、”ああ、もしかしたらそうだったのかもな”って思ったぐらいだよ」


 事もなげに言ってのけるハンスに、エヴァは再び大きな溜息を吐き、続くようにして小さく乾いた笑いを漏らした。


「ああ──バカね。あんたは、いつの間にかそんな人間になったのね」

「どういう意味だよ! 大体俺らには、助けられてハイラントで暮らすことになったって現実しか無ぇんだから、大事なのは今だろうが」


 食って掛かる勢いのハンスを躱しながら、エヴァは吹っ切れたように笑った。


「──そうね、……大事なのは”今”と、”この先”よね」


 エヴァはそう独りごちると、ハンスに向き直って拳を小さく突き出す。その表情は、幼少期の彼女を思い起こさせるような勝気なものに変わっていた。ハンスがその拳を怪訝そうに見つめていると、エヴァは不敵な笑みを口元に載せて、そんな彼を見上げた。


「今考えるのはその二つだけ……やれるわよね、私たち?」


 再度軽く突き出された拳の意味をようやく察し、ハンスは己の拳を彼女のものと付き合わせた。


「──やろうぜ」


 昔なら考えられなかった合図が、今は自然と交わせている。その事実を、ハンスは密かに噛み締めていた。



 かくしてエヴォリスはフェリスから放たれ、クルーたちは瞬きのような数週間をセルの中で眠って過ごす。誰もが地球に降下することだけを考え、雑念を捨てていた。レムが高速噴射の傍で確認するバイタルは全て良好、夢を見ている反応すら見られない。輪を有した白い母船は矢のように暗闇を進み、やがて、地球より八百キロメートルの位置でそのスピードを緩めた。


 セル内で覚醒誘導が行われ、クルーたちが徐々に目を覚ます。重圧を背負っているハンスも、良質な睡眠を経た爽快な目覚めを迎えていた。


「ふあーあ、おはよう」


 ラビの間の抜けた声が、日常の緩みを齎す。次々と挨拶が交わされるなか、大きく腕を伸ばしながら大欠伸をしたラビは、そのまま流れで目を擦ろうとして踏みとどまっていた。


「おはよう、みんな。いよいよ地球は目前のようだよ」


 先に目覚めていたらしいアランは、早速ケルビンのデスクトップ端末を立ち上げて位置情報を確認している。これよりしばしの間、最終チェックと身体調整、最後の休憩時間となる。緊張と高揚感が入り混じった程よい空気でメディカルチェックが進められ、着々と地球接近の準備が整っていく。


「パーソナルケースは最後にイージスに移送しますので、みなさん準備はお早めに」

「お、調子戻ってきたね、ドクターケルビン」

「──今は目先のことだけを見据えなければ。贖罪を果たすにしても命が無ければ叶いませんから」

「それは殊勝な心掛けだね」


 メディカルルームを出ていく面々に声かけを忘れないケルビンと、それを揶揄するラビとの掛け合いを聞きながら、ハンスは思わず吹き出した。一時は地に堕ちかけた互いの関係は、ほぼほぼ収束しつつある。この流れは彼にとって、何よりも心強いものだった。あとは自らの意識を集中させるだけだ。ハンスはコックピットの設定を見直すとラウンジへ向かい、イヤホンを装着してソファに身を委ねた。


 そして頭の中に、地球の空を駆け巡るイージスの姿を思い描いていた。──胸の奥に、期待と、言い知れぬざわめきとを抱えながら。










 アランは、観測窓の向こう──虚空の闇に静かに浮かぶ青い星をじっと見つめていた。それは希望のようでもあり、記憶の残滓のようでもある。不思議と、とてつもない郷愁の念が彼を支配する。


 ここは、音もなく時間も流れない場所だ。漂う無重力のなか、アラン自身もまた、ただの浮遊物と化しているような錯覚に陥る。どこから来て、どこへ行こうというのか──目的地はあるはずなのに、それを見失う感覚。


 ──もう、やり切ったのかもしれない。


 叶わぬと思っていた願いは、いつの間にか叶っていた。あるいは、それすらも他人の夢だったのかもしれない。それでも不思議と、満ち足りている気がした。


 アランは窓に指を伸ばし、遥か遠くの星に触れるようにそっと撫でる。それは指先に触れるはずのない距離にあるのに、まるで掌にすっぽりと収まってしまったかのようだった。


 ──この旅が終わったら…

 考えようとしては霧散する未来は、彼の脳内で明滅し、定まらない。


 船内に響いたシステム音が、次のシークエンスの開始を告げる。アランはゆっくりと視線を外し、観測室の自動扉をくぐった。


「一度、集合しよう」


 ハンスの声がして、耳元の通信装置に触れる。その足取りは揺るぎなく、どこか清々しい。

 長い旅の果てに、彼はようやくスタートラインに立ったのかもしれなかった。




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