天満宮の狛犬の首に赤い布が巻かれた理由
挿絵の画像を生成する際には「Ainova AI」を使用させて頂きました。
この堺天満宮に初めて参詣された方達は、黒い御影石で作られた臥牛像と白御影石で作られた阿吽の狛犬の首に揃いの赤い布が巻かれている事に気付かされるでしょう。
どうして三体の石像の首に赤い布が巻かれるようになったのか。
それは我が堺天満宮に起きた悲しむべき事件と、それ以上の喜ばしき出来事とに由来しているので御座いますよ。
事件当時より当宮に巫女として仕えております私が、僭越ながら語り部を務めさせて頂きましょう。
全ての始まりは、あの夏の日の朝の事でした。
境内の掃除をすべく訪れた巫女と神官が、驚くべき光景を目にしたのです。
「あっ!臥牛像の首がない!」
その者が指差す先に、私達の目は釘付けになってしまったのです。
上方落語として広く知られている「池田の牛ほめ」に倣って形容するならば、天角地眼に一黒鹿頭に耳小歯違。
そうした具合に見目麗しく整っていた臥牛像の首が、忽然と姿を消していたのでした。
当時は海外のコレクターに売りつける為に仏像の首が盗まれる事件が西日本を中心に発生していましたが、ついに我が天満宮も被害に遭ってしまったのです。
被害届は提出したものの牛の首が戻る可能性は未知数であり、かと言って修復や撤去には相応の費用がかかる。
従って数カ月の間はブルーシートを被せただけの首無し状態で晒されたのですが、その痛ましい有様は未だに忘れる事が出来ませんよ。
事態が大きく動いたのは、事件発生から数カ月経過した同年十月の事でした。
如何なる神仏の奇跡による物か、盗まれた牛の首が発見されたのですよ。
牛の首の発見者となったのは、泉南市の青少年研修センターを林間学校で訪れていた堺市内の女子小学生達だったのです。
発見する前日、彼女達は林間学校の宿舎で奇妙な夢を見たのだとか。
獄門台に晒された牛の首が悲しそうに嘶くという、それは不思議な夢だったそうです。
そうして彼女達は夢枕に立った牛の首に導かれるようにして雑木林に足を踏み入れ、臥牛像の一部が放置されている現場に出くわしたのです。
こうして数カ月振りに当宮へ戻る事が出来た牛の首ですが、どうにか接合したものの無残に切断された跡はクッキリと残ってしまいました。
傷跡を目立たなくする為の修復には費用も時間もかかってしまうため、現実的では御座いません。
そんな時に声を上げたのが、発見者である少女の一人だったのですよ。
「この際ですから、お地蔵さんみたいに赤い布を巻いてみませんか?傷も隠れますし、縁起も良いじゃないですか。」
少女が献策してくれたカモフラージュ案は、安価で済む上に臥牛像の持つ縁起物としての側面を強調する極めて妥当な方法だったのです。
こうして氏子一同と地元の皆様とで購入資金を出し合う形で赤い布が用意されたのですが、まるでマフラーや襟巻きを巻いているかのような姿から「襟巻き撫で牛」という仇名で呼ばれるようになり、我が天満宮の象徴としてそれまで以上に親しまれるようになったのですよ。
この「襟巻き撫で牛」が氏子や地元住民の間で話題になり始めた頃に、また新しい動きが生じたのです。
「どうせなら狛犬達の首にも赤い布を巻いてあげたいよね。狛犬達と臥牛像とでお揃いになるから、臥牛像も仲間が出来て喜ぶと思うけど。」
この何気ない一言を口にしたのは、第一発見者の友人の少女でした。
先の少女の一言もそうですが、彼女達の臥牛像を思い遣る優しさには頭が下がる思いですよ。
それを聞き付けた彼女の祖母が地元住民や氏子に働きかけ、狛犬達の首に巻く赤布の資金を集めてくれたのです。
こうして揃いの赤布を首に巻いた阿吽の狛犬は「ペアルック狛犬」と呼ばれ、縁結びの象徴として親しまれるようになったのですよ。
紆余曲折は御座いましたが、今では三頭は我が天満宮と地域住民との間の絆を物語る生き証人として境内を見守って下さっているのです。
彼等が今後も穏やかに過ごせる事を、巫女である私も願ってやみませんよ。