傷ついたガル1
日が暮れ始めた。昼と夜の時間が交差し、あと少しでヤルンヴィッドの森は暗闇に包まれる。空にはうっすらと雲が出ているけれど、その雲も間もなく移動するだろう。そうすれば美しい銀色の月が真っ黒な森を照らし始める。
「もうすぐ満月が出るよ」
ベッドに座り、銀色の髪を指で優しく梳いた。僕をいつも見てくれているエバーグリーンの眼は瞼の奥に隠れたままだ。横向きに寝ているからか、整った顔の半分が黒い影に覆われている。ただの影なのに不吉なもののように思えて胸がざわついた。僕は「縁起でもない」と頭を振ってから窓を開けた。
カーテンは最初から閉めていない。そのうえで窓を開ければ何にも遮られずに満月の光がベッドを照らしてくれる。夜空を見上げると、わずかにかかっていた薄い雲がすぅっと流れていくのが見えた。星が瞬く夜空に、真っ黒な森の影から綺麗な満月が上り始める。途端に森のあちこちがキラキラと眩しく輝きだした。
部屋の中に視線を向けた。灯りのない部屋を銀色の月明かりが照らしている。その光がガルの背中に刺さったままの太い針をも照らしていた。鈍く光っているその先には破れた白いシャツがあり、流れた血でどす黒く変色したシャツの一部まではっきり見える。
(本当に大丈夫なのかな)
ぴくりとも動かない姿に心配になってきた。息はしているし体が温かいのもわかっているけれど、冷たい月の光に浮かび上がる姿を見ていると不安になる。
(でも、いまのガルに僕ができることは何もない)
家に帰ってきてから、ばあちゃんが残してくれた本を片っ端から調べた。人狼に効果的な薬を探そうと書棚も倉庫も調べたけれど、人狼に関するものは絵本や昔話の類いばかりで専門書のようなものは見つからなかった。きっとばあちゃんか、ばあちゃんの母さんが処分したのだろう。
(そうでもしないとこの森に住み続けるのはつらいか)
専門書には魔女たちが人狼をどうやって妙薬にしていたかも記されていたはずだ。その知識のおかげで、ばあちゃんの母さんは番人としてのエルダーの木を育てることができた。そのことを話して聞かせてくれたときのばあちゃんは、どこかつらそうで悲しそうな顔をしていた。
(エルダーは復讐と威厳を司る木だ。その特性を利用して番人の木を作り上げた)
ばあちゃんの母さんは、鉄の木を減らすのと同時に特別なエルダーの木を育てた。エルダーの木を選んだのは魔女にとって身近な存在だったこともあるけれど、復讐を司る木だったからに違いないと僕は思っている。
(そんな木なら魔女に対しての復讐心を植えつけるのも難しくないだろうし)
そう、知識ある魔女になら難しいことじゃない。ただ道具と時間さえあればいい。
まず、かつての足枷の魔女たちが殺してきた人狼の骨から魔力を抽出する。それをある程度濃縮させてから水と混ぜてエルダーの根に吸わせればいい。準備はそれだけだ。
ばあちゃんたちは毎日毎日、それこそ何十年とそれを吸わせ続けた。そうすることでエルダーの木は死んだ人狼たちの強い復讐心を枝先まで宿し、魔女を排除すべきものとして認識する。その強い意志を番人として利用した。
オークはその次に育てた木だと聞いている。かつては雷神が宿ると言われたオークには魔女自らの生き血を与えた。エルダーの木と同じように毎日毎日与え続けたおかげで、雷のように鋭く落ちる槍を備えた兵士の木になった。もちろん、オークにはいまも足枷の魔女である僕の血を定期的に与えている。それが役目を引き継いだ僕の役目だ。
すべては、この森を二度と鉄の森にしないために。あの惨劇をどこかの魔女が復活させないために何十年もかけて施してきた様々なまじない。この森が恐ろしい鉄の森に還ることがないようにと願っていたばあちゃんから、その願いごと僕は役目を引き継いだ。
(足枷の魔女の一番の役目は、命を賭してこの森を守ることだ)
森の守り人である僕をエルダーの木々が排除することはない。同時に僕を助けることもない。エルダーの木は侵入者がいると警告音で知らせ、動けない木々に代わって僕が侵入した魔女を排除する。そういう契約を結んでいる。
排除するとき、僕の力だけで難しい場合はオークの力を借りる。オークの槍を発動させる鍵はエルダーの木が担い、動力源は血の持ち主である魔女、すなわち僕だ。魔女が勝手をできないように、ばあちゃんの母さんがこうした契約を作り上げた。
(だから僕が森を使役しているわけじゃない)
どちらかといえば足枷の魔女のほうが森に使役されている。それが僕たちの贖罪だ。ばあちゃんの母さんもばあちゃんも、そうやってこの森を守ってきた。
(ばあちゃんは新しいまじないもかけてたっけ)
オークに絡みつくヤドリギたちには、ばあちゃんのまじないが施されている。オークの槍が魔女を突き刺すと、それに反応したヤドリギたちが魔女を覆って閉じ込める。あとは少しずつヤドリギの養分にされて跡形もなくなるというまじないだ。それを僕が止めることは難しいだろう。
(だから、魔女はこの森に入っちゃいけない)
そういう意味では、ヤルンヴィッドの森はいまや魔女にとっても呪われた地になったといってもいい。だから足枷の魔女は一人で住んでいる。そんな森にガルがやって来た。
人狼だと自己紹介されたときは「まさか」と思った。いまは害がなくなった森だとしても、人狼たちにとって呪われた地であることに変わりはない。そんな場所に人狼自らやって来るはずがないからだ。
それなのに、ガルはそのまま僕と暮らし始めた。かつて同族を家畜のように飼い、死に至らしめてきた魔女の血を引く僕のそばに居続けた。それどころか使役契約をしたいと言い出し、僕と関係まで持った。
「ほんと、おかしな狼だよな」
そんなガルのことを僕は好きになってしまった。駄目だとわかっていたけれど止めることはできなかった。
(僕はガルが好きだ)
だからガルを絶対に助けてみせる。呪われたこの森で二度と人狼を死なせたりはしない。
静かに眠るガルを月の光が照らし出す。最初は足元だけを照らしていた光が少しずつ広がり、腰や腕を銀色の光で照らした。光はさらに広がり、銀色の髪をまばゆいばかりに輝かせる。あまりの美しさに見惚れていると、ガルを照らしていた光が銀粉を撒き散らすようにぶわっと広がった。
(……なんて綺麗なんだろう)
寝ているガルの周りがキラキラ光っている。まるで月の粉を振りかけたみたいだ。うっとり眺めていると、風もないのに銀の髪がふわりと舞い上がるのが見えた。いや、髪の毛だけじゃない。着ていた服までふわっと膨らんでいる。
(なんだか手足まで少し膨らんだような……)
そう思った次の瞬間、袖が破れて素肌の腕が現れた。その腕を銀色の毛があっという間に覆っていく。破れたのは腕の部分だけじゃない。シャツが破れ、ズボンが破れ、現れた肌も次々と銀毛に覆われていった。
毛に覆われたガルの体がググゥと膨らみ始めた。あちこちが歪に膨らみ、毛が揺れるたびに体の形が変わっていく。気がつけばいつものガルより大きくなっていた。腕も足も人とは違う形になり、体の分厚さまでまったく違っている。まだ毛を揺らしながら膨らみ続けているガルの体は、どこからどう見ても獣の姿をしていた。
「これが……狼の姿」
気がつけば、ベッドの上には僕よりずっと大きな銀毛の狼が横たわっていた。