赤い魔女の襲来1
ヤルンヴィッドの森は昔、鉄の森と呼ばれていた。ばあちゃんのばあちゃんより前の魔女が住んでいた頃、森の木々は鉄のように硬く冷たいものばかりで花一つ咲いていなかったらしい。動物が住むには難しい環境で、棲み処にしていたのは少しの魔物や死霊ばかりだったと聞いている。
その後、ばあちゃんの母さんの頃から鉄の木々は減り、代わりに多くの木々が育ち緑あふれる森になった。街の人たちは「緑の魔女のおかげだ」と言って感謝したそうだ。その後もばあちゃんが森を守り続け、引退を機に僕が引き継ぐことになった。命あふれるこの森を“鉄の森”と呼ぶ人はもういない。
(ヤルンヴィッドの森は、二度と鉄の森には戻さない)
森の入り口に立ち、改めてそう決意する。
「アールン、そろそろ昼飯の時間だぞ」
振り返ると少し離れたところにガルが立っていた。
「わざわざ迎えに来なくてもいいのに」
「薬草を採りに来たついでだよ」
ガルが右手に持った籠をひょいと持ち上げる。近づいて覗くと、頼んでおいた止血剤に使う薬草以外に貼り薬や解熱作用がある薬草も入っていた。どれもそろそろ底を尽きそうになっていたものばかりで、ガルに採取を頼むのをすっかり忘れていたのを思い出した。
「ありがと、助かる」
「いいよ、別に。それよりその袋は?」
「これ? アンナさんのパンだよ」
「また金を取らなかったのか?」
ガルが呆れたようにため息をついた。
僕の左手にあるのは焼きたてのパンが入った袋だ。街一番のパン屋と名高いアンナさんの店のもので、腰痛に効く貼り薬のお礼にともらった。高齢のアンナさんは長年腰痛を患っていて、数日後にはまた薬を持っていくことになっている。もちろん、そのときもお金をもらうつもりはない。
「お金はいいんだよ。薬の調合は僕の魔女としての役目だからさ」
「魔女がそんなお人好しだなんて聞いたことがない」
「そうかな」
「そうだろ」
「でも、ばあちゃんも代金は取らなかったからなぁ。それに、お金をもらっても僕には使い道がほとんどないし」
お金が必要になるのはミルクやチーズといった乳製品と肉類を買うときくらいだ。家具は昔からのものを使い続けているし、服や靴は薬のお礼に街の人たちがくれるもので事足りている。野菜やパンなんかもこうしてもらうことが多いからほとんど買ったことがない。旅に出るとか引っ越しをするとかもないから、この先大金を使う予定もなかった。
「お人好しかどうかはわからないけど、僕はいまのままで十分だよ」
そう答えたら「アールンらしい」と呆れたように笑われた。
「アールンがそれでいいっていうならいいけど。さ、帰って昼飯にするぞ」
「お昼は何?」
「タラのスープ。今日はクリームにした」
「おいしそうだね」
「この前アールンが山盛り持って帰ったジャガイモもたっぷり入ってる」
「ジョージじいさんのジャガイモだから絶対においしいよ」
「そういや皮を剥いたら中身が黄金色だったっけ」と言いながらガルが歩き出した。逞しい背中を見つめながら、すぐそばにあるエルダーの木に触れる。森の入り口には大きなエルダーの木が何本も生えている。いずれもばあちゃんが可愛がっていた木で、こうした木々も僕が引き継いだものだ。
樹脈の温かな波動に変化はない。それにホッとしながら、少し先を歩くガルの隣に小走りで駆け寄った。
「そういえば、今日は兎を見かけなかったな」
「兎?」
「薬草が生えているあたりは兎たちのねぐらが近い。いつもは何匹も見るのに、今日は一匹も出てこなかった」
「珍しいね」
ガルは人狼だけれど小動物たちに好かれている。兎のほかにも鳥やネズミ、さらには蛙や蛇といった爬虫類にまで懐かれていた。「ガルのほうが魔女みたいだ」と言った僕に顔をしかめたのは、出会ってひと月くらい経った頃だっただろうか。
(だって、魔女の僕が採りに行っても一匹見かけるかどうかなんだよ?)
それなのに、ガルが薬草を採りに行くと必ずと言っていいほど獣たちが姿を見せる。その光景を僕は何度も見てきた。ガルいわく「あいつらと喋れるからじゃないの?」とのことだけれど、人狼にそんな才能があったなんて驚きだ。
「よくないことが起きないといいけど」
ガルのつぶやきに「そうだね」と頷く。
このとき僕はガルの言葉をそれほど真剣に聞いていなかった。訪問者に敏感なエルダーの木に問題はなく、獣たちが騒いでいる様子もない。念のために帰り道でいくつか触れたオークの木も変わりなかった。
(別におかしなところは何もないし、大丈夫だよね)
一応気にしながら二人並んで家に帰る。その後、ガルが作ってくれたタラのクリームスープに舌鼓を打つ頃にはわずかな心配もすっかり消えてしまっていた。
数日後、予定どおりアンナさんに追加の貼り薬を届けるため街に行くことにした。ガルも何か買いたいものがあったらしく一緒に行くと話していたけど、結局家に残ることにしたらしい。
(また薬草茶の調合だな)
僕が家を出る直前にガルが読んでいたのは薬草学の本だ。表紙の色から煎じ薬に使う薬草が書かれている本だとわかった。その本を見ながら、仕事部屋から持ち出した数種類の薬草を睨むように見つめていた。それらを真剣な顔で天秤に載せ始めるところまで見届けてから玄関を出た。きっと薬草茶の新しい配合を思いついたのだろう。
(狼なのに薬草茶に夢中なんて、やっぱり変わってる)
僕のために調合してくれているとはいえ、薬草の匂いがする狼は世界中探してもガルだけに違いない。胸の奥がくすぐったくなりながらいつもの道を歩き、森の入り口へと向かう。「帰りに肉でも買って帰ろうかな」と思ったときだった。
キゥィィィィィン。
獣の鳴き声のような高い音にハッとした。いまのは耳から入ってきた音じゃない。直接頭に響くこの音はエルダーの木の警戒音だ。
僕は大急ぎで森の入り口に向かった。いつもと違う道を走りながら、途中にあるオークの木々たちに右手で触れていく。彼らにもエルダーの警戒音が聞こえているからか枝がざわざわと揺れていた。そこに絡みついているヤドリギたちも小刻みに葉を揺らしている。
(あれは……)
森の入り口にたどり着くと知らない人が二人立っていた。両方とも目が覚めるような赤毛をしている。すらっとしたほうは腰まである長い髪を一つに束ね、豊満な胸のほうは僕と同じくらい短い。距離を取って様子を伺っていると、気配に気づいたのか二人がパッとこちらを見た。
「あら、あれが森の主かしら」
「あぁ、あれが森の主だな」
こちらを見ている二人の眼は髪の毛よりも鮮やかな赤色をしていた。
(赤い眼なんて久しぶりに見た)
僕の母さんも赤い眼をしている。漆黒の髪に赤眼の母さんは三つ向こうの森に住んでいて“灼熱の魔女”と呼ばれていた。名前とは裏腹におっとりした性格だけれど、毒の知識は魔女一番だと言われている腕のいい魔女だ。
「この森に用事ですか? それとも僕に会いに?」
警戒しながらそう問いかけると、二人が同時にクスッと笑った。たったそれだけのことなのに首筋がぞわっとした。二人から漂うよくない雰囲気に唇をキュッと引き締め、おかしなことをしないか見逃さないようにしっかりと見据える。
「森にもあなたにも用はないわ」
「俺たちが探しているのは月の光を持つ銀狼だ」
「ぎんろう?」
「銀色の毛並みをした、それはそれは美しい狼のことよ。この森に迷い込んでいるはずなんだけど、あなた知らない?」
嫌な汗が背中を流れ落ちた。二人が探しているのはただの狼じゃない、きっとガルのことだ。
(それに、この二人は街の人でも旅人でもない)
それどころか僕とそっくりな匂いがする。
「探してどうするんですか?」
僕の質問に二人がニィッと笑った。そっくりな顔が二つ、そっくりな笑顔で僕を見ている。
「食べるに決まってるじゃないの」
「銀の狼を食べれば不老不死になれるって、魔女の世界じゃ有名な話だろう?」