棄てられ公爵令嬢は森の中で幸せに出会う ~それはトリたてて語られるわけではない話~
金の髪をなびかせて、シェイラは軽い足取りで木立の中を抜けていく。
いつもの岩場で道を折れ、白い花が咲く場所を抜け、水がさらさら流れる音が聞こえてきたらもうすぐだ。早くなる鼓動を押さえつつ木の後ろからそっと覗くと、小川の向こう側に今日は彼の姿があった。それだけでシェイラは踊りだしたくなるくらい嬉しい。
あの日。
王宮の舞踏会で王太子から婚約の破棄を言い渡された運命のときから、一年と少し。
可愛がっていた妹が言い出した思いもよらないこと。信頼していた婚約者の非情な仕打ち。慕っていた両親の豹変や周囲から向けられる冷たい視線も含め、すべてが自分に「いっそ死んでしまおうか」との思いまで抱かせていたというのに、まさか自分がまたこんな風に「嬉しい」とか「幸せ」なんていう気分を感じられるとは夢にも思わなかった。
朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、みっともないほどに緩んでしまう頬をほんの少し引き締めると、シェイラは隠れていた木から姿を現す。
「おはよう、サイモン。今日は早いのね」
何かを探すように枝を見上げていたサイモンが、シェイラへ顔を向ける。
黒い髪が風に揺れ、奥に隠れていた青の瞳が優しく輝いた。
「シェイラ。おはよう。実は昨日、珍しい鳥を見つけてね。今日もいたらいいなと思って夜明け前から探しているんだ」
微笑むサイモンはいつものように、この世の人だとは思えないほど麗しかった。
シェイラの行動は極端に制限されている。そうでなくともこの幅の狭い小川を越えることは普通の人でさえ許されてはいない。だけど声をかわすことくらいは例えシェイラであっても許されるだろう。
「夜明け前から? ずいぶん長いこと探しているのね」
「とても綺麗な赤い鳥だったんだよ。あんな鳥を見たのは初めてだったから、君にも見せてあげたくてね」
「嬉しい。私も見たいわ、どこにいるのかしら」
そう言ってシェイラは上に顔を向ける。向けながらも、ちらちらとサイモンを窺う自分を止められなかった。
三か月前に突然現れたサイモンを初めて見たときの衝撃をシェイラは忘れられない。
驚くほど整った顔立ちと均整のとれた体つきをしていたので、もしかしたら神の使いではないかと思ったのだ。
一方のサイモンもシェイラを見て立ち尽くしていたので、小川を挟んだ二人は身じろぎもせずに互いのことをしばらく見つめあっていた。最初に口を開いたのはサイモンの方だ。
「あなたは森の精霊ですか?」
「どうして?」
「とても、綺麗だから」
それは煌びやかな衣装に身を包んだ人々から何度も聞いた言葉だ。しかし今までは一度も心動くことがなかったというのに、森の中の青年からもらうそれはなんだか特別なもののように感じた。もしかしたら宮廷の人々が見ていたのはシェイラ自身ではなく、シェイラが持つ肩書に対してだったせいかもしれない。
熱くなる頬をそっと押さえ、シェイラは彼にちらりと瞳を向ける。
「こんな簡素な服を着た精霊がいるかしら?」
「ああ、服までは気づかなかったよ。でも、森の妖精と見間違えても仕方ないと思わないかい? 豊かな黄金の髪は陽の光のようだし、明るい緑の瞳は木漏れ日を受ける木の葉のようなんだ」
「……ありがとう。でも、あなたもとても素敵よ。神の御使いかと思ったくらい」
「光栄だな。僕の服もとても簡素だけどね」
おどけて言う彼の言葉にシェイラは吹き出した。確かに彼の服もとても簡素だ。
「本当だわ! 意外と気がつかないものね!」
こうして彼――サイモンと、シェイラはこの森でときどき会うようになった。
ただしシェイラはこの辺境の村で軟禁されている身だ。次に監視の目を盗んで森へ来られるのがいつになるか分からない。会う約束をかわすなんて絶対に出来なかったし、そのせいで森へ来ても彼に会えず肩を落として帰る日もあった。だからこうして会えたときは本当に嬉しい。
今日は何の話をしようか。考えながらシェイラが口を開いたときだった。
サイモンが眼を見開いて唇の前に人差し指を当て、その指をシェイラの近くにある木へ向けた。何事か、と思いながらサイモンの指先へ首を巡らせたシェイラは思わず息をのむ。
太い枝に一羽の鳥がいた。
カラスよりも少し大きいくらいの鳥だ。長い尾がとても優美な印象を与える。そして見たこともないほど艶やかな赤い羽は、木漏れ日に照らされて炎のような輝きと揺らめきを見せていた。
あまりの美しさに声もなくシェイラが見惚れていると、鳥もまたゆっくりと顔を動かしてサイモンとシェイラを見つめたように思う。そうして優雅に羽を広げて飛び立ち、離れた高い木の枝へ移った。
思わず鳥を追って足を踏み出そうとしたシェイラの動きを止めたのは、サイモンの声だ。
「シェイラ」
小川の向こうのサイモンは今までと様子が違っていた。見たことがないほどに真剣な表情だったから、シェイラは思わず動きを止めてしまう。
二人が会うときはいつも小川越しだ。五歩程度の幅しかないこの小川は底も浅くて流れも緩やかだが、シェイラも、サイモンも、この小川を渡ったことは一度もない。
どんなに小さくとも、この川は国境。
公爵令嬢であるシェイラが簡単に越えて良いものではない。
そして彼もまたこちらへ来ることはないのだとシェイラは知っていた。
「僕は願掛けをしていたんだ。もしも今日、あの鳥を見られたのならシェイラに言おう、とね」
「私に? 何を?」
「僕と一緒に来てほしいんだ。――公爵令嬢、シェイラ」
「……私の正体に気づいてらしたのですね、殿下」
「ああ、君も気づいていたのだ」
サイモンはそう言って軽やかに笑った。
黒い髪と青い瞳を持つ隣国の王太子、サイモン。
シェイラは彼と舞踏会で一度会ったことがある。
そのとき彼にまつわる奇妙な噂も聞た。それは「サイモンは王宮を出て国内をふらつき、民にまざって暮らしてみる癖がある」というもの。
森で初めて“サイモン”に会ったあとにシェイラは「まさか」と思った。だけど何度会っても彼は自分のことを何も話さないし、シェイラに関して何も言わない。だから彼はきっとシェイラの顔など忘れているのだろうと思った。
しかし。
「これでもう、私たちが会うのも最後ですね」
「最後? どうして?」
「どうしてって……私のことを知っているのでしたら、私にまつわる話もご存知でいらっしゃるでしょう?」
「毒婦シェイラの話か。――男たちに囲まれ、もてはやされることを至上としていた公爵令嬢。王太子の婚約者であることをかさに着て、周囲を見下し、特に妹に対しては酷い扱いをしていた。婚約者である王太子が妹に心を移してからは嫉妬に狂い、あろうことか妹に毒を盛って殺そうとまでしていた」
「……やっぱり……知ってらしたのですね……」
シェイラはきゅっと唇を噛む。サイモンに会ってから少し薄れていた心の傷から血が流れるのが分かった。
体が冷え、視界が暗くなり、地面の感覚も、草木の香りも消えていく。あの頃のように、すべての感覚が遠くなる。
だけどただ一つ、サイモンの声だけがはっきりと響いた。
「それがどうした?」
思わず顔を上げると、てっきり嫌悪の表情浮かべていると思ったシェイラの意に反し、サイモンは不思議そうに首を傾げてるばかりだった。
「僕はそんなことを信じていない」
「……どうして?」
「人を見る目があるからだよ」
茶目っ気たっぷりに笑ったサイモンはシェイラにウインクをして見せる。
「僕が王宮を出てあちこちに出向いているのはね、たくさんの人に会うためだよ。おかげで素晴らしい人材に巡り合えた。酒場に入り浸っていた凄腕の剣士や、研究に没頭するあまり人と話さなくなった薬師、雑貨屋を営む偏屈な賢者といった人たちをね。今や彼らは国にとってなくてはならない人物になっている。――だからきっと君もそうなってくれると信じているんだ」
「……え?」
サイモンは手を差し出した。小川の、国境の、上に。
「言ったろう? 僕は人を見る目があるんだ。ここしばらく話していて分かったよ、君は噂通りの人物なんかじゃない。……そうだろう、シェイラ?」
シェイラは大きく何度もうなずいた。
目から湧きだした涙が溢れ、頬を伝っていくのを感じる。
妹の肩を抱く王子から糾弾され、婚約破棄を宣言された運命のあの舞踏会。
あの日はもちろんのこと、以降も誰一人としてシェイラの「私はやっていない、すべては偽りだ」という言葉を信じてくれなかった。皆が信じたのは妹の「男狂いの毒婦シェイラ」という嘘だけだった。
両親からは罵声を浴びせられ、友人たちは皆離れて行った。辺境の小屋へ追いやられたシェイラはここでひっそりと死ぬのだと思っていたが、ようやくシェイラの言葉を信じると言ってくれる人に巡り合ったのだ。
「シェイラ、こちらへおいで。君は僕にとってきっと必要な人になる。僕も……君にとって必要な人になれると、思う」
「で、でも」
しゃくりあげながらシェイラは口を開く。
「殿下。私、は。そちら、の、国で。な、なにをしたら、いいの、ですか?」
「とりあえずは僕ともっと親睦を深めてもらいたいかな。だからその敬語をやめて、今まで通り親しく話してくれると嬉しい」
軽妙な口調で心が軽くなった。
そもそも国にいてたって打ち捨てられたシェイラには居場所もないし、これから幸せになれるとも思えない。ならば死んだと思ってやり直しをしてみるのもいいだろう。
それになんといっても、隣国にはサイモンがいるのだ。自分の国にいるよりずっと幸せになれるに違いない。
「わかったわ。サイモンの国へ、行く」
泣き笑いのシェイラが岸辺に靴を脱ぎ捨て、小川に向けて足を踏み出そうとすると、水音を立ててサイモンが小川を越えてくる。そうしてシェイラを抱え上げ、
「これからよろしく、シェイラ」
と言って晴れやかに笑った。
こうしてシェイラは身一つで隣国へ行くことになった。「自分の国にいるよりずっと幸せになれる」と思ったその予感が間違いでなかったことは、後の歴史が証明する。
***
「うん、今回の体も大丈夫みたいだな。さあて。国へ戻るとするか」
高い山の上にある噴火口、ほかの者ならあっという間に命を落とす熱を持つ場所で目覚め、彼は独り言ちる。
「……何しろあいつらはこのオレに感謝して、家と国の紋章をオレの姿に変えたからなあ。あの二人はいなくなったが、子孫と国は残ってる。オレを称えてくれてる以上はオレに出来る程度の加護は与えてやらないといけないから、面倒なことだが、まあ、しょうがない」
面倒、という割には妙に嬉しそうな声だった。
彼は伝説の鳥、不死鳥。身を焼くことで何度でも甦るこの鳥は、相手に不滅の加護を与えることができた。
「さあて、行くかな」
そうして翼を広げた赤い鳥は優美な尾をなびかせ、己を信奉してくれる国に向けて空を行く。山の向こうではゆっくりと陽が昇ろうとしていた。今日は飛行日和になりそうだ。