どうしようもなく大人な貴方だから
今日から大人になった君へ(https://ncode.syosetu.com/n2295jz/)の別視点になります。
ずっと、つまらないなと思っていた。
優秀な両親の間に生まれた優秀な息子。将来有望、安定した仕事、約束された未来。
学校の勉強なんて、教科書を読み教師の話を聞けばどこが試験に出るかなんて分かりきっていた。逆になぜこんな簡単なことに気付けないのかが分からない。教えられた答えを紙に書き写すだけの作業をこなせない周囲の者たちは、もしかして俺と違う言語を話す異国人なのだろうか。
言われるがまま某有名大学に進み、まあなんとなく父親と同じ職に就くのだろうな、と思っていた。資格試験だって基本的には学校の勉強と変わらない。書かれたことを覚え、書き写す。多少その分量が増えるだけだ。
卒業に必要な単位を取り終え、部活もサークルにも所属していない俺には多少の時間が出来た。そんな時だ、母親の知人の息子だという中学生の家庭教師を頼まれたのは。
正直面倒だったが、その頃始めた煙草にかかる金を親にせびるのもダサいような気がして話を受けた。
母の知人というだけあって、その家も十分に裕福そうであった。しかし何故か案内された教え子の部屋は北向きの寒い場所にあり、対面した少年の肌は青白くて年齢よりもずいぶん小柄に見えた。
「初めまして、今日から君の家庭教師を務めます。受験までそんなに時間がないから、苦手科目を中心に効率よく進めていきましょう」
「……です」
「は?」
「……適当で、いいです」
初めて聞いた少年の声はその姿に似合わず低くかすれていて、囁き程に小さなものだった。
「どうせ、兄たちとあまり差をつけると外聞が悪いから頼んだだけ。別に僕の進路がどうなろうと、あの人たちは気にしない……です」
諦めたように薄く笑うその表情には見覚えがある。新月の夜を思わせる深い黒の瞳の中に、そっくりな薄ら笑いを浮かべた俺が映り込んでいた。
「ほら、まずこれ食えよ。糖分は脳に必要らしいぞ」
「またどこぞの女性から頂いたプレゼントじゃないんですか。そんなもの、毎回僕に寄越していつか刺されますよ」
「いーんだよ。勝手に押し付けて行くだけなんだから。流石に手作りとかだったら俺も横流しはしない」
「……へぇ、意外に律儀なんですね」
「何入れられてっか分かんないだろ。だから、捨ててる」
呆れたようにこちらを見る少年は、俺がカロリーの高い食い物を持ってくるようになってから随分と健康的な身体つきになってきたと思う。そもそもが成長期だったのだろう。俺もこの年頃にぐんぐん背が伸びた記憶がある。
もともと頭も悪くないから、教えれば教えただけきちんと成績も伸びた。想像の通り彼の両親は別に何も言わなかったが、流石に成績が落ちればバイトもクビになっていたかもしれない。家庭教師代は割と高額だったのだ。
俺は多分、この頃から気付いていた。
もうこいつが、ただの教え子だと思えなくなっていることに。
甲斐甲斐しく餌をやり、肥えさせて、頼る者のいない中で俺だけに懐かせようとして。
順調に育ち、少年から青年へと移り変わるその姿を何とも言えない気持ちで見守っていた。純粋な師への敬意の他に、なにかが見え隠れするようになる様も全てだ。
「……先生は彼女とか作らないんですか」
「んー? 今はいいかな。バイトでわりと忙しいし」
「そう……ですか」
俯いた顔に喜色が浮かんでいる。柔らかそうな髪に手を伸ばしかけ、咄嗟に手を握りしめた。
まだだ。まだ、早い。
こいつがこのクソみたいな檻から抜け出して、もっと広い世界を知って、それでもなお俺を選ぶと言ったなら。その時はきっと、もう二度と離してはやれなくなるだろう。
俺を「大人だ」と言って見上げるその瞳の奥に、目を細めて笑い舌なめずりをする自分の姿が見えた。
無事教え子は志望校に合格し、俺は家庭教師を辞めた。母は別の紹介先も探したそうにしていたが、もうやらないと断った。
高校生になってすっかり身長も伸び、見た目にも気遣うようになったこいつは随分とモテるらしい。時折駅で待ち合わせると、必ずその側には華やかで自信に満ち溢れた女の子たちが侍っている。べたべたと腕に触れ、高く響く声で己の魅力を精一杯アピールする姿は発情期の獣の様で大変愉快だ。
「お待たせ」
「あ、先生」
「お友達かな? 別の日にした方が良かったか?」
「いえ、全然。じゃ、俺もう行くから。サヨナラ」
しがみつく女の子たちを素気無く引き剥がし、俺の目を真っすぐに見るその従順な姿にぞくぞくとする。
多情にもこちらを意識して頬を染め、きゃっきゃと騒ぎ立てる女の子たちにひらりと手を振ると、呆れたようにわき腹を小突かれた。嫉妬かな? そうだったらいい。その僅かにむくれた表情が可愛くて、つい笑みがこぼれてしまう。今やもうさして身長の変わらない俺をちらりと横目で見て、耳を赤くする様子も。偶然のように時折触れる指先も。
──ああ、なんて可愛いんだろう。
あと二年したら。
こいつは晴れて成人し、自らの意志で生きる道を決めることが出来るのだ。
見目も良く、頭も良く、こいつにとっては碌でもないが実家だって一応太い。未来に広がる可能性は無限にあって、多分どれを選んでもそれなりに羨まれる人生をつかみ取ることが出来るだろう。
だけど、それらを全部放ってでも俺を選ぶのだ。
そんな愚かな生き物を愛さずにいられようか。
小さくて、青白い、痩せた小鳥。今にも死にそうで、でも僅かな希望にすがろうと必死で鳴き声をあげて。
あと二年したら。
大人になったこいつを迎えに行こう。腕を広げ、この胸の中に抱きしめて、他の全てから隠し守ってやるのだ。
「なあ」
「──はい?」
立ち止まり、不思議そうな顔でこちらを見る彼の頬に手を添えて、そっと口付けを落とす。
びくりと震える肩には力が入り、きつく結ばれた唇が初々しい。
なだめる様にその背中を撫でさする。舌でそっと唇を押せばおずおずと口内へ迎え入れられて、興奮に血管が切れそうになる。不器用に舌が絡まって、飲み込んだ唾液は煙草の味がした。
「好きだよ」
「……先生」
俺の胸のあたり、縋りつくように添えられた手が小刻みに震えている。それは恐怖か、それとも歓喜だろうか。
「俺も……好き、です」
新月の夜のような黒い瞳に、満面の笑みを浮かべた己の姿が映る。
「ありがとう」
ぎゅっと身体を抱き寄せれば、今度は彼の手も背中に回り応えてくれる。
二度目の口づけは向こうからで、やっぱり俺の教え子は優秀だ。ふわふわと柔らかい髪をそっと撫で、火照った頬を撫で、親指で濡れた唇を撫でる。
「早く大人になれよ」