76、八町大気(46歳)、コツメカワウソに怒ってしまう
オーディションの兄妹対決がSNSを騒がせる中、我が家には八町大気が訪ねてきた。
謎に白スーツで決めていて、薔薇の花束を持っている。
どうした、八町?
我が家はパーティ会場じゃないぞ。
「やあ、王司さん。その後、お勉強の進度は順調かな? 今日はお母さんにご挨拶に来たよ」
「……っ?」
八町は爽やかに微笑んだ。
「あの……先生。心配しておりました。ご体調がよろしいご様子で、なによりでございます……私は『火星のキャットタワー』が好きです」
我が家のメイド、ミヨさんは、おずおずと本を出してサインをもらっていた。よかったね。
「奥様、奥様~!」
嬉しそうにママを呼びに行くミヨさんと交代するように、執事のセバスチャンが客間に通してソファを勧めている。
ソファに座る八町は、「江良君、この執事君が悪魔なのかい? 尻尾とかないんだね」と興味津々だ。遠慮なく手を伸ばして尻を撫でている。
「セバスくん、アプリを僕にもおくれよ。欲しいものをあげるから僕とお話しよう。僕は君にとても興味がある」
ねっとりと言った時、ママが入ってきた。
上品なマーメイドラインのワンピースに透け生地のショールを羽織り、扇子を持っていた。
執事の尻を撫でている手を見て、ママは一瞬たじろんだ。
「なんだこいつ。我が家に危険人物が」――そんな思いが目から溢れていて、私は何とも言えない気持ちになった。
「まあまあ、お初にお目にかかりますわ、八町さん……。我が家の執事の臀部に何かありまして? まるでセクハラをなさっているようで、驚いてしまいましたわ」
ママは余所行きの声で上品に言った。見て見ぬふりはしないようだった。
扇子をぱらりと開くと、『悪即斬』と書いてある。るろうに剣心のグッズじゃないか。
「葉室さん。初めまして。素敵な扇子ですね。実は僕も愛用しています。本日は持参していませんが」
八町は胡散臭い笑顔で執事の尻から手を離した。
「こちらの臀部は大変ミステリアスで、尻尾が生えているのではないかと思い、僕は触って確認したくなったのです。何事にも好奇心を抱き、謎を探求してみたいという衝動に突き動かされてしまうのは、作家のさが。どうかお許しいただきたい」
ミステリアスな臀部ってなんだ。
その言い訳でいいのか、八町。
ママが「この人、大丈夫かしら」って顔になっちゃってるぞ。
お前、ただでさえ泣き叫んだり自殺未遂したりの衝撃報道されちゃってるんだからさ……。
「八町さん……おひとりでいらしたの? 編集者さんとか、秘書さんとか、お世話をしてくださってる方にご連絡したいのですけど」
ママは八町の言動に責任を持つ誰かを探している。その相手に「しっかり首輪をつけておいてちょうだい」と言いたいのだろう。
「秘書という役職名にはフェチズムをそそられますが、我が社にはそういった役職の者はおりません。優秀な男性スクリプターならいます。編集者とは昨晩、熱く語り合っていましたが、彼は今、僕のベッドで寝ています」
「まあ……さようでございますか……スクリプター……」
「スクリプターとは、秘書のようなものです」
ミヨさんが紅茶を薔薇のティーカップに注ぐと、八町は自分に酔いしれた微笑で「ありがとう、メイドくん」と礼を言ってミヨさんの頬を薔薇色に染めさせることに成功していた。
そして、ティーカップを持ち上げた。
「いい香りですね。フォションのアップルティーでしょう」
「コツメカワウソのティーバッグ・アップルティーですの」
コツメカワウソのティーバッグ・アップルティーとは、可愛いコツメカワウソがティーカップにしがみつく飾り付きのティーバッグである。
これを聞き、八町は耳を赤くした。
「コツメカワウソのティーバッグなら、コツメカワウソ付きで出していただきたい。そのためのコツメカワウソでしょうに」
「初めておもてなしするお客様には可愛すぎるかと思いましたのよ。八町さんのお人柄やご趣味がわかりませんでしたもの」
紅茶ひとつでギスギスしないで。
私はこの空気をなんとかすべく、ミヨさんと一緒にコツメカワウソを持ってきた。
「ほら八町。コツメカワウソをカップに飾るよ」
「ありがとう王司さん。ところで、人前で僕を呼ぶ時は先生と呼ぶように」
コツメカワウソの頭を指先で撫でて満足げにしてから、八町は私に「先生、王司さんにおみやげがあるよ」と言ってぺろぺろキャンディをくれた。
「ありがとう先生」
「王司。ママの後ろに来なさい」
ママはすっかり八町が嫌になってしまったようで、変態撃退スプレーに手を伸ばしている。
「葉室さん。そのスプレー缶を仕舞ってください。僕は、撃退されに来たわけではないのです。本日はご挨拶にお伺いしたのでした」
八町はスプレーを向けられて少し正気に戻ったようだった。
「大変な時に、よくいらっしゃいましたわね。とてもお忙しいご身分でしょうに。面識もない我が家へ、アポイントもなしに。確か、お倒れになっていた時に王司が発見したので、そのお礼を言いたいとは聞いていましたけど……ぺろぺろキャンディを渡して気が済みましたら、お帰りになってくださる? こちらも暇ではないものですから」
ママが応接間のドアを扇子で指している。もう帰れと言うのだ。
「本日はありがとうございました、葉室さん。僕に他意はなく、ただひたすらに好意を持ってこの家にお伺いしたのです。それだけは伝わっていればと思います」
「ええ、ええ。承知いたしましたわ」
八町が帰ってくれそうなので、ママは安心した様子だ。立ち上がり、ドアの前まで行って、八町はくるりと振り返った。忘れ物を思い出した――そんな顔で。
「そうそう、最後におひとつ、よろしいですか」
「なにかしら、八町さん」
ママが問いかけると、八町はその場にさっと膝をついた。そして、ぺこりと頭を下げた。
「お嬢さんを僕にください」
「はっ?」
ママが目を剥く。ミヨさんは口に手を当て、小声で「きゃー」と言っている。
セバスチャンは気持ち悪そうに自分の臀部を撫でていた。嫌だったんだな、お前。ごめんな。
「お嬢さんには才能があります。すでにスタープロモーションに見いだされてしまって先を越されたというのが悔しいですが、僕はお嬢さんをさらに輝かせてみせましょう」
ママは扇子を投擲し、八町の頭にクリーンヒットさせた。
お見事だ。だが、八町はめげなかった。
「今後、舞台の予定があるんです。僕の権限でお嬢さんをねじ込みましょう。誰にも文句は言わせませんよ。演劇賞を取り、制作費をがっぽりと稼いで潤沢な予算で主演映画を撮りたいなぁと……あっ、葉室さん。蹴りはいけません。僕が性癖に目覚めてしまいます。スプレーもちょっと」
「出てけーーーっ!」
この日、八町大気は葉室家からつまみ出され、「今後出入り禁止」と言い渡されたのだった。
葉室王司:どうしてあんなことを
葉室王司:ママ、後半の話が耳に入ってなかったよ
八町大気:一度やってみたかったんだ
八町大気:コツメカワウソは罠すぎたな
八町大気:コツメカワウソがいないコツメカワウソなんてコツメカワウソじゃないと思う
八町大気:僕は怒ってるんだ江良君
葉室王司:その怒り、ちょっと私には理解困難だよ八町
八町はコツメカワウソなしでコツメカワウソが出された件を引きずっていた。
めんどくさい男である。
葉室王司:八町。さっきの話だけど
葉室王司:舞台に私をねじ込むのは、やめた方がいいと思う
葉室王司:大人しく脚本書くだけにしとこう、大人なんだから
八町大気:そうだね、江良君
八町大気:僕は大人なので、ちゃんと報告・連絡・相談をするよ
八町大気:企画書はもう作ったんだ
葉室王司:八町?
葉室王司:企画書って何?
葉室王司:八町?
奴とは、その後、連絡が途絶えている。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
――『おまけ枠の火臣家』
火臣打犬は帰宅した息子に動揺していた。
息子はスポーツタオルを持っていた。いつもランニングのお供にしているお気に入りのタオルだが、最近は見かけなかったのでどこかで落としてきたのかと思っていたタオルだ。
「恭彦、おかえり。パパは入れ違いに仕事に出るぞ」
「ん」
いってらっしゃい、という言葉を期待したが、息子は不愛想だった。
息子はツンデレだ。ツンツンツンツンツンデレデレだ。
たまに突然のデレを放ってくる。恭彦にはデレスイッチがあるようで、人格が変わったようにニャンニャンしてくれるのだ。そのデレがあるので、ツンが苦痛ではない。
「あっ」
「?」
息子が何かに驚いた声を出すので、打犬は振り返った。そして、タオルから何かが落ちる瞬間を目撃した。金だ。お札だ。万札だ。
タオルにくるまれ、隠されていた万札が何枚も、ぱらぱらと……。
「恭彦。その金はどうした」
コソコソとタオルに包んで隠しているなんて、怪しすぎる。うちの息子は何をしているのだ。
打犬の脳内に妄想の種が植えられ、芽吹く。
――パターンA。
怪しいモブおじさん『君かわうぃーねー、お金やるからおじさんと遊ぼう』
うちの子『ぼ、ぼくは、そういうのは……お金ならパパがくれるし……』
怪しいモブおじさん『今日からおじさんもパパだよ♡ハァハァ……』
――パターンB。
うちの子『俺のパパを馬鹿にしやがって。おら、詫びろよ。金寄こせ』
モブの子『恭彦さん、すいません。こ、これ、詫び金です。これで勘弁してください』
うちの子『ちっ、しけてやがる』
「もらったんだ。たぶん……」
恭彦は淡々と金を拾い、自分の部屋に入って行った。
「パターンAか恭彦!? Aなのか!? おい、出てきなさい。パパにお話しなさい!」
父は息子のドアを叩いたが、その日の息子は不機嫌でツンツンツンツンツンツンしていたため、真実は闇の中であった。