69、展望台のアリス、飛び跳ねて
お姉さんは持っていた『アリス』のリボンを持たせてくれた。
リボンの生地の裏側に、「今どういうシーンか」が書いてある。
「あー、あそこに誰かいるぞー!」
「ほんとーだー」
子供の劇団員が近づいてきて、見物人が釣られて私に注目する。
アリス役をしないといけないらしい。
さくらお姉さんは、私が慌てたり失敗するのが見たいのだろうか。
「あらまあ……」
この状況は、なあに? あなたたちは、誰?
私のアリスは、あけすけに思った通りのことを言うのがいいな。
カナミちゃんみたいな子はどうだろう。
「今日は、何もかも風変り!」
夜が明けているのを確認するように窓辺に向けてステップを踏むと、劇団員がついてくる。
「昨日はね、いつも通りだったのよ」
見物人が道を空けて、高層からの都市風景が見える。
風が強いのか、白い雲がぐんぐん流れている。
空を背負うようにくるりと振り返ると、劇団員は私を隠さないように立ち位置を変えた。
「あたし、夜の間に変わっちゃったのかな。起きた時は、おんなじだったっけ? なんだか、ちょっと変わった気分だったかも」
視線を巡らせると、見物人の何人かが口を押さえて隣の人と何かを囁いている。
眼鏡を外して帽子を取ると、彼らが「ほら!」「やっぱり!」と飛び跳ねるのが見えた。
私も跳ぼう。
「変わった、変わった!」
元気に、ぴょこんと、愛らしく。
「でも、おんなじじゃないなら今のあたしは、いったいぜんたい、だれ? それが肝心な謎なんだわ!」
髪をつまむ。
ドラマ用に整えている、アリスのイメージからすると「短い」と感じる髪の長さだ。
「エイダじゃないのは確かだわ。エイダの髪の毛って、とっても長い巻き毛になるの。見て、あたしの髪。まず短いもの! 長さからして足りないわ!」
近くで見ていた人が「たしかに短い!」「可愛い!」と笑ってくれる。
黒い装束のさくらお姉さんは私の手からリボンを取り上げ、劇団員の中のアリスの衣装を着た子に合図した。
すると、アリスの子が隣に来て演技を引き継いでくれる。
「って、話してたら髪、戻ったわー! 伸びたわ!」
「あはは」
見物人は笑って役者の交代を受け入れた。よし、交代、交代。
「飛び入りのご協力、ありがとうございました。それではご協力くださったお客様は、あちらへどうぞ。特別なお席をご準備しています」
さくらお姉さんは私に声をかけ、『特別なお席』へと引っ張って行った。
見物人が拍手してくれる。
いいお客さんだ。
劇団員たちも手を叩いて、「またねアリス!」と明るく声をかけてくれた。
さくらお姉さんは悪態をつくことがなかった。
「えらい可愛いアリスやね。縮こまってなくて、おもろい」
褒めてくれている。
オーディションの時とは喋り方も違う。
まあ、業界では「訛りに気を付けて綺麗な標準語を喋ってる」って人は多いけど。恭彦とかも、たぶんそれだと思うし。
「可愛い衣装着せたくなったわ。今度着て」
雰囲気が「気さくなお姉さん」って感じだ。
やっぱりオーディションのときはお芝居してたんだな?
「あ、ありがとうございます……」
怪しんでいるうちに、イベント会場から少し離れたエリアに着いた。
足元には人工芝が広がっていて、壁際に造花のひまわりが飾られている。
窓の外は相変わらずの眺望で、風に流された雲がふんわりと空を覆って曇り空を作っていた。
人の声ががやがやとしていて、家族連れやカップルがいっぱいだ。
「――……あれ……」
「あちらの方がご挨拶したいと仰せです」
さくらお姉さんは礼儀正しくお辞儀して、イベント会場に戻って行った。
そして、残された私の視線の先には、人工芝の上に座って寛ぐ八町大気がいた。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
数歩の距離に近付いて、「初めまして」と挨拶しようと息を吸った瞬間に、八町と目が合った。
眉を下げて、目を細めて、何かを確認したように顎を引いてから、八町はまっすぐ笑いかけてきた。
「江良君、ひどいよ」
「んっ?……」
「僕、うっかり死ぬところだったじゃないか。なんで教えてくれないのさ」
「は……」
え、正体に気付かれてる?
「――ええっ?」
「江良君。やべ、ばれてる、みたいな顔するなよ。友達甲斐のない奴だなぁ。僕に隠すつもりだったんだ。教えてくれるつもりがなかったんだね」
八町は拗ねたように言って自分の隣のスペースをぽんぽんと叩いた。
座れと言われているのだ。
OK、八町。ごめん。許して。本気でびっくりした。
なんだろう、この「ものすごく恥ずかしい遊びに夢中になっていたのを見つかってしまった」みたいな気持ちは。
こんなことが前にもあった。そうだ、街中で人間模写して一人遊びしていた時だ。
スマホを持ってないので生徒手帳をスマホに見立てて、一人で気持ちよくなっていた……。
「ミーコを抱っこしてるのを見たんだ。あと、ファンレターの字がまんま江良君でさ。演技を見て確信を深めたんだよね。江良君、これで『なんのことですか?』なんて誤魔化されると悲しいぜ」
「や、八町……ごめん」
喘ぐように言って隣に座ると、八町は安堵の息を零した。
そして、まじまじと顔を覗き込んで来た。痩せたな、八町。
「江良君は、別人になったんだね。憑依だ」
「八町は話が早い。そう、それなんだよ……なろう系……じゃないか……」
なろう系、と言おうとして躊躇したのは、「小説になろう」が異世界恋愛短編サイトになっているから。そして、なろう系で一般的に想像されるエンタメが異世界ファンタジーだからだ。
八町は察した様子で眼鏡をきらりとさせた。
「君は元々成り上がり系主人公みたいだなと思ってたよ。でもさ、TSまでするとは思わなかった。そんな願望があったのかい。君は精神的BL派なの? それとも百合派? まさか、恋愛しませんなんて言うのか?」
「八町が多様なジャンルに造詣が深いのは知ってるけど、性癖でTSしたみたいに言うのはやめてくれない? わざとじゃないんだよ。気付いたら憑依してたんだ」
「江良君、気を付けないといけないよ。精神的BL派と百合派はね、きのこたけのこ戦争みたいなものなんだ。どちらかを選ぶとどちらかを敵に回す。でもどちらかを選ばないといけないよ」
なんか親友にオタクスイッチみたいなのが入ってる気がする。
やめろ、性癖談義からいったん離れろ。リアルとエンタメを切り離せ。こっちはリアルを生きてるんだ。
「それにしても、さすが八町。お前、ここ数年は現実寄りの文学っぽい作風になってきていたけど、もともとはファンタジー畑だもんな。『憑依なんて現実にはあり得ない』って感性じゃないんだ」
こいつ、下手したら「僕は宇宙と交信できるけど?」って言い出しそうだもんな。
もっと早く連絡して「こんなことが起きたんだ」って言えばよかった。
自分の秘密を共有して相談できる仲間ができたかもしれない、と思うと、なんだかとても頼もしく思えた。
「八町! 頼もしいよ八町。さすが八町だよ八町。いやあ、一人で抱え込んでて、実はちょっとストレスだったんだよ。話聞いてよ八町。いっぱい話そう八町」
「江良君。あまり名前を連呼しないで。あと、抱き着くのもよくないよ。君は女の子なんだ……こっちは46歳だぜ。しゃれにならない。まさか僕と恋愛したいわけでもないだろ? 年齢差が犯罪的で逮捕だよ」
八町がちょっと焦っているのが面白い。
自殺未遂の後、未成年女子に手を出す八町大気――「終わった」って感じのゴシップが出ちゃうな。ファンががっかりしちゃう。
「親友思いの私は、ちょっと距離取ってあげよう。感謝して八町」
「わかってくれてありがとう江良君。面白いな。憑依って現実にあるんだ。元の体の持ち主は? 多重人格みたいになってるのかい? 人格が混ざったりしてる? 君、すごく女の子に見える」
「いや、元の体の持ち主はいないっぽい……私は女の子なんだよ八町。見える、じゃなくて本物なんだよ」
芝の緑と窓の都市風景を鑑賞しながら、これまでの体験を打ち明ける。
八町に「アプリがあるんだ」とスマホを見せると、八町は興味津々でスマホをいじり、アプリや写真フォルダをチェックした。
「江良君、女の子ライフをエンジョイしてるね。友達まで作っちゃって……彼氏は?」
「八町。プライバシーの侵害だよ」
好奇心スイッチが入っている八町はマッドサイエンティストみたいなものだ。
常識が通用しない。
でも、令和の時代だとそういうの、ちょっと危ないよね。たまに心配になるよ。
「可愛い写真でいっぱいだね江良君。知ってた? 精神は環境と肉体に引きずられるって説。君、女の子の裸体見て興奮とかする? 性欲どうなってる?」
「八町。セクハラだよ八町」
スマホをその手からひったくると、八町は「ごめんね。おじさん、いじわるしちゃったね」と女児をあやすようなテンションで両手を挙げておどけた。ちょっとムカつくな。
「江良君は演技を楽しんでいるんだ。演技が好きだもんね」
「そう。そうなんだよ、八町」
「そして、その役には死ぬまで終わりがない。それは、もう演技と言えるのかどうかもわからないね」
「……それな……。しかし、そんなのは当たり前じゃないかな。だって、人間は何かしら『自分ってこんな感じ』という自分の仮面を被って生きていくんだ」
まさか私に「江良君、女の子の体で第二の人生なんて、だめだよ。死んで」とは言うまい。
目で訴えかけると、八町は頷いてくれた。
「君が生きたい間は生きるといいね」
「ありがとう、八町」
「他人の体っていうのが、やっぱり気になるよな」
「それなんだよ、八町。引け目を感じちゃうよね。でも、今まで出てこないんだからきっといないんだと思う。そう思わないと、やっていけないっていうのもある」
「考えすぎるとハゲるし、いいんじゃないかな。出てきても『もう遅い』って所有権を主張してやろうぜ」
八町は私の味方だ。よかった。
私はにっこりと笑って、右手を窓に向けた。
まるでピストルを持っているかのように構えて、挑戦的に言ってみせる。
「八町。見て。あの空を晴らすよ」
窓の外の曇り空を指さしてアイドルっぽく「BANG!」と撃つと、雲がざあっと流れて青い空が見えた。
「江良君。僕は君が死んで悲しかったし、君が殺されたと知って怒りでいっぱいになったんだよ。でも君、楽しそうだね」
八町は「それがちょっと不満」というように首を振ってから「でも、君とこうして話せるのが嬉しいよ」と言ってくれた。
親友って、いいものだ。
ちょっと泣きそうになったけど、恥ずかしいから内緒にしておく。