65、坊ちゃんはもうおしまい!
――【円城寺善一視点】
「くそ忌々しいな、あの女」
女の自爆に巻き込まれた円城寺善一は、逃走中であった。
善一が乗る車を、警察が追ってくる。
善一が禿頭の運転手を「このハゲ」と怒鳴りつけていると、運転手は日頃のストレスが限界に来たのか、反逆した。
急ブレーキをかけ、「坊ちゃんはもうおしまい!」などとのたまったのだ。
「もうおしまい」でおにまいよろしく女体化でもすれば可愛らしいが、善一は女体化しなかった。
彼はただ、追いついてきた刑事と、なぜか同行してバディ面している火臣打犬に捕らえられただけだった。
「この野郎。ちゃっかり手柄ゲットしようとするなクズが!」
ナイフを懐から取り出して突き出す腕が掴まれて、視界がぐるりと回転する。
瞬きする暇もなく、善一は得物を取り上げられて地面に転がされ、取り押さえられた。
「俺に触るな変態。クズの最低男……!」
「お坊ちゃん。変態でクズの最低男は嫌がられると燃えるんだ。あまり俺を煽るなよ」
変態でクズの最低男は凶悪な笑みを浮かべ、善一を殴った。
「暴力だ。許されないぞ。お前、終わったな。やりやがったな」
「俺は変態でクズの最低男なので事実を揉み消すが、何か?」
変態でクズの最低男は、憤怒と殺意を全身から漲らせた。
「ひっ」
「江良を殺した。娘を怯えさせ、個室に連れ込もうとした。息子を降板させた」
この変態男は俺を殺そうとしている、しゃれにならない危ない奴だ。善一は恐怖し、震えあがった。
「こ、こ、殺さないで、くれ」
思わず懇願していた。すると、変態でクズの最低男はふっと平穏で理知的な刑事みたいな顔になった。
「坊ちゃんじゃあるまいし」
男は、刑事に「では決めセリフをどうぞ」とセリフを促した。
まるでドラマや映画だ。
現実と虚構がごちゃ混ぜになっているような気配だ。その気配に、周囲の人間が引きずられる。
刑事は、刑事ドラマの主役になったみたいな顔をしていた。
変態でクズの最低男の暴力を見なかったような顔をして『犯人』に正義を突きつけた。
「円城寺善一、麻薬取締法違反と殺人の疑いで逮捕する。他にも余罪があるかもしれないから、しっかり話を聞かせてもらうぞ」
その罪は多く、重く、言われなくても「おしまい」なのはわかりきっている。
「……ノコは? ノコも、捕まるんだよな」
自分は破滅するが、それならあの女も道連れだ。
覚悟の上でやらかしたのだろうが。……考えれば考えるほど、腹が立つ。
これだから、女ってやつは。
これだから、お綺麗な生き物は。
――俺が完膚なきまでに泥を塗りたくって、ずぶずぶに汚沼に沈めて浮上できないようにして、ずたずたにハートを切り裂いて、壊して、壊して、くびり殺してやらないといけないんだ。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
善一は、世の中に綺羅星のように存在する上流階級の富豪たちや、民衆を熱狂させ、応援されるアスリートやアイドルが嫌いだ。
善一は、「世の中は腐敗しているといい」と考えている。
全員が「自分たちの社会はどうしようもなくて、人生には夢も希望もなく、絶望しかない」と失望して生きる社会であればいいと思っている。
善一には怒りがある。憎悪がある。劣等感がある。嫉妬心がある。
生みの親である父親は下町育ちで、底辺を一生這いずるような生物だった。
頭が良かったり要領がいい同級生が出世していくのに、父はうだつが上がらず、低収入で、生活を改善したいのにできなくて嘆いていた。
けれど、善良で、優しい父だった。
悪いことはせず、困っている人がいたら手を差し伸べて、そのせいで借金を負ってしまったりしていた。心は正しくても能力は伴わず、生きるのが下手な人だった。
父は、自分のせいで家族に苦労させてしまうのをいつも謝っていた。息子の目には、その姿がひどく惨めで情けなく、悲しく思えたものだった。
母は若い頃に父とネトゲで知り合ったらしく、ネトゲでは姫だった。
母もまた、そんなに悪い人物ではなかった。共働きで家計を支えてもいた。
ただ、「現実では贅沢できないし、もう若くないけど、ネトゲの世界では低額の課金で十分戦えるの。見て、私のアバターやハウス。素敵でしょ? こっちが私がいる場所で、現実の自分は仮の姿って思えるわ」と言って「もうひとつの世界」を心の支えにしていた。
母は自分のことを「お母さん」とか「ママ」と言わなかった。
善一が思うに、彼女は夢の世界の住人で、永遠のお姫様だった。
二人はある時、いなくなった。
現実が辛すぎたのだと思う。
だって、苦労しても暮らしぶりはよくならないから。
父さんは腰が痛いとか、病気になったとか言ってた。
母さんは「もう遊ぶ余裕がない」とか言ってた。
大人が言うには、善一は二人に「一緒に連れて逝かれる」ところだったらしい。
けれど、ついていきそびれた。
「一緒に逝けていたら」とたまに思う。
【かわいそうに、善一君】
善一は憐れみを受けた。
彼を拾い上げたのは、雲の上の住人みたいな上流階級の夫妻だった。
父や母とは別の生き物だった。洗練されていて、背筋が伸びていて、清潔で、綺麗だった。
外側も美しければ、内側もまた立派であった。
道徳の教科書に載っているような、「これが正しいですよ」ということを自然に当たり前に口にして、行動に移していた。
【善一君。私たちを本当のお父さんお母さんだと思ってね】
彼らは優しく、愛情深く、善一を慈しんだ。
「可哀想だから」という理由で。「可哀想な子は助けるべきだから」という理由で。
心の底からの好意があった。無償の愛をくれた。
【こんなにいい成績を取ったの? 凄いじゃない。偉いわ】
【成績がふるわなかったの? 気にしなくてもいいの。成績なんて】
父と母は、まるでお人形遊びをしているみたいだ、と思うようになったのは、いつからだろう。
無条件の肯定は、中身がない。価値がない。軽い。
努力しなくても褒められるなら、努力に意味などはない。
【善一君は、運がよかったよね。君みたいな子、探せば他にもいるのに、たまたまご両親の目に留まったから引き取られたんだ。シンデレラボーイだね】
学校の友達が白い歯を見せて言ったのを覚えている。
両親が用意した「かわいそうな子」の席に座るのは、自分でなくてもよかった――そんなシンプルな現実に思い至った瞬間があった。
【ご両親に実の子が生まれるんでしょう? 善一君の立場としては、複雑だよね】
学校の友達が気を使うように言ったのを覚えている。
何度も連れていかれた金持ちが集まるパーティは、光が溢れていて、分厚くてふわふわした絨毯が敷かれていて、艶のある革靴やパリッとしたスラックスや、母さんのネトゲに出てくるようなドレスでいっぱいだった。
母さんが浸っていたニセモノのキラキラした何かには本物があった、と見せつけられて、わからせられた気分だった。
『父さん、母さん』
なあに、と綺麗な二人が微笑む。あなたは息子よと両腕を広げて抱擁してくれる。
新しい父は無限にも思える財力があって、優秀で、社会的地位があった。
新しい母は本物のお姫様のようで、悲しくなった。
『お前らを呼んだんじゃ、ない』
俺の父さんは、お前じゃない。
もっと情けなくてみじめな生き物だった。
俺の母さんは、お前じゃない。
もっと痛々しくて恥ずかしい生き物だった。
こいつらは父と母がなりたかった存在で、なれなかった存在だ。
父と母みたいな存在が抱く気持ちなんて何もわからない、別の世界の美しくて立派過ぎる生き物だ。
許せない、と思った。
もっとみじめで、情けなくて、痛々しくて、恥ずかしくなってもらわないといけないと思った。
煌びやかな光の中で笑っている全員を、父さんや母さんよりも、下にしてやりたい。
人気者、光輝くような存在感がある奴、キラキラしてて愛されてるアイドル。泥臭く努力して、それが実ってしまう青春野郎たち。要領のいい成功者たち。才能だかカリスマだか、なにかしらを持ってる奴ら。
おまえら、おまえら、全員堕ちろ。
人気のアイドルも歌姫も、俺が抱きつぶして薬漬けにしてやる。
国民が誇るアスリートも、みんなに愛されてるお笑い芸人も、壊してしまえ。
『俺、芸能人とか、好きなんですよ。ナハハ』
父さん、見て。母さん、見て。
俺、あんたらが見上げるだけだった連中を、振り回してやってる。壊せる。
俺は奴らの人生を破滅に追いやれるんだ。
あんたらの子は誰よりも偉くなった――下克上だ。
最後にたぶらかして壊した歌手の女は善一を道連れに自爆したが、あの極上の人気歌手のことは現在の両親も気に入っていた。
彼女が再起不能になって現在の両親と世間が悲しむなら、上等だ。
「彼女は、尿検査では陰性が出ている。血液検査と毛髪検査の結果はまだわからないが、主治医が数日前に検査した記録があるので、陰性になる可能性が高い」
「は?」
善一は愕然とした。
血液検査と毛髪検査の結果も陰性で、歌姫は「危険を承知で犯罪者の証拠を掴むために果敢に潜入調査に協力した」ということにされてしまったのである。
しかも、「精神的なショックのため、長期的に休養」と発表されて、表舞台から姿を晦ましてしまった。
今まで善一を庇っていた権力は、こぞって歌姫を守った。
腐ってやがる。悔しさがこみ上げた。そんな汚らしい社会を見せつけて他者を絶望させてやると意気込んできたのに、自分がされる側になると、腹立たしくて仕方なかった。
『両親』は、面会に来なかった。
善一は獄中で両親に手紙を何通も書いたが、返事が来ることはなかった。
『両親』に切られたのだ。捨てられたのだ。
当然だ、今までそうしなかった方がおかしい。ばかめ。今さら、もう遅い。
そう悪態をつきながら、なぜか善一の視界が歪む。
彼らの愛は、気持ちよかった。
王様気取りにさせてもらえて、なんでも与えられ、肯定され、許してもらって、優しくされて、他人に羨ましがられて。
失って初めて、善一はその奇跡みたいな日々を、自分が気に入っていたのだと気付いた。
ネトゲの世界を愛する母のように、ニセモノの溺愛家族と甘ったれたお坊ちゃんな自分の日常を、愛していた。
「父さん」
呼んでも、もう届かない。
「母さん」
時間はもう、戻らない。
本当の父も母も、ずっとずっと昔にいなくなっていて、善一が何をしても「ねえ、見てよ。俺やってやったぜ」と話しかけても、見ていない。知ることがない。
偽の家族は――壊れた。自分が壊した。
これが、自分という醜悪でみっともない蛆虫の、しょうもないエンディングだ。後悔しても、もう取り返しがつかないところまで到着してしまったのだった。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
――【葉室王司視点】
「チケットをもらったんです。俺は音楽が好きなので、ありがたくお邪魔しました。入ってみると知り合いの子がいて……ええ、そうです。だから、保護者とも違うかとは思うのですが、身内ってことで見守っていました。そしたら事件が起きて……ええ、ええ。そうです。血が出ていたので、焦りました……」
部屋の外で話す声で目を覚ますと、病院にいた。
事件の後、すぐの出来事だ。
同じライブ会場にいた人たちが何人も気分を悪くして運ばれていて、私もその中のひとりだったらしい。
ベッドの近くには、赤毛の執事セバスチャンがいた。
部屋の外で誰かと話していた火臣恭彦は、部屋に戻ってくることなく、私の顔を見ずに帰って行った。
「伊香瀬様の検査結果は陰性になります。ご本人は納得がいかないでしょうが」
それを望んでいたのですよね、とセバスチャンが静かに問いかける。
ぼんやりと頷くと、お水がもらえた。
冷たいお水を飲むと、頭が少しすっきりした。
「……うっ」
身を起こし、ベッドから離れて呻いたのは、私の体の下に敷かれたスポーツタオルに気付いたからだ。
血がついている。これは、もしや。
「あ、あう……」
スカートを確認すると、汚れていた。
これは「漏れた」といわれる現象ではあるまいか。
「お嬢様。そちらに恭彦様からのお慈悲がございますよ」
「慈悲ってなに……」
「憐れみの品、と言い換えましょうか?」
「ほ、ほ、ほう」
サイドテーブルには、私のバッグと一緒にコンビニのレジ袋が置かれている。その下の床には、紙袋もあった。
見てみると、可愛いデザインのナプキンがあった。
そうか、わかった。ベッドを汚さないようにタオルを敷いてくれて、コンビニでこれも買ってくれたのか。
紙袋はなに?
がさがさと漁ると、フリーサイズの上下セットのジャージが入っていた。
なるほど、なるほど。ありがとう、正直とても助かる。そして羞恥心がすごい。穴があったら入りたい。
「お、おトイレ行ってきます」
「いってらっしゃいませ、お嬢様」
トイレで気づいた。
パンツは替えがないんだな、恭彦……いや、そこまで求めるのは贅沢だ。
汚れたパンツに上から新品のナプキンを貼り付けてワンピースからジャージに着替えると、「これで外を歩ける」という気分になった。
顔も洗おう――ああ、恥ずかしい。
病室に戻ると、ママが迎えに来たところだった。
おじいさまも一緒にいて、「着替えを済ませた後でよかった」と心から安堵した。
その日の顛末としては――
円城寺善一は逮捕され、彼を今まで守っていた権力者たちは彼の擁護を諦めた。
スポンサーたちは満場一致で『鈴木家』のキャスティングを元に戻すことに同意した。
ノコさんのライブ動画は拡散を禁止されたが、何が起きたのかは世間に伝わり、騒がせた。
彼女を熱心に支持してきたファンたちはこの世の終わりのように嘆き悲しむ一方で、身を挺して悪を告発した彼女を正義と呼んだ。
破滅的で美しい正義が見た人の心を傷付けた一方で、子供たちの解放区は爽やかに終わりを宣言した。
『同志諸君。どうも大人の世界では恐ろしい事件もまた起きてしまったようだが、ひとまず俺たちの目的は達成できた』
なぜだか体育着姿になっていて泥だらけの二俣夜輝の隣には、同じ体育着で泥だらけになった円城寺誉がいた。覆面ではなく、堂々と顔を晒していた。
『ミッションクリアーだ。任務完了だ。大勝利だ。全員、自分を誇れ、互いを褒め合え。パーティをしよう』
立てこもった生徒たちは、全員が真面目な軍人みたいな顔をしていた。
彼らが着ているのは泥だらけの体育着で、どうも子供っぽさが濃く感じられて、そこが歌姫の事件にショックを受けていた大人たちを何とも言えない気持ちにさせた。
『俺たちの祭りは、引きずらない。花火みたいにパッと騒いで締めて、これからまた日常だ。全員のこれからの人生に、幸あれ。文化祭にはピーターパンの劇でもするかな』
その夜、解放区の上空に花火が打ちあがった。
バリケードの外側の大人たちと内側の子供たちは全員、同じ夜空を見て、合図に合わせて同じ言葉を唱えた。
「ばいばい、解放区」
それは神聖の儀式めいていて、どこか虚しく、けれどあたたかで、美しい景色だった。