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48、大丈夫。今のは演技だ

――【葉室(はむろ)王司(おうじ)視点】


 週末を控えた撮影日。


 スタジオでは、ごもっともすぎる疑問が蒼井(あおい)キヨミから発せられていた。


翔太(しょうた)って、お風呂のシーンでも音楽を聴くんですか?」


「えっ……」


 ぎくりとした顔の火臣(ひおみ)恭彦(きょうひこ)は、音楽がないと大根役者になってしまう特質がある。

 いっそ事情を打ち明けて協力を仰いでは、と思うのだが、本人は言わないようだった。


 私はただでさえ「葉室さんは信用できない」と言われているので、「実は~」と事情を広めることはしないが、代わりに助け船は出そう。


「音楽大好きな人は、お風呂でもどこでも音楽漬けでもおかしくないと……私は思います」

 

 口を挟むと、スタイリストさんが「王司ちゃん、ちょっとメイク直そっか」とその場から連れ出そうとする。子供扱いされているんだ。

 

「は、はーい……」


 移動する後方でやり取りが続いている。 

 

「……それっぽい曲を用意したんで」

「……そ、それっぽい曲ってなぁに……ASMRとか……? このシーンって、あれよね。家庭教師のお姉さんを思い出して悶々と……あの、セクハラみたいになってたらごめんなさいね……」

「いえ……」


 何とも言えない空気に切り込んでいく西園寺麗華の声が、以前よりも元気さを取り戻しているように聞こえた。

 

「えっ。私も気になっちゃいます。恭彦君~! ちょっとそのイヤホン貸して!」

「い、いやです」

  

 話題になっているシーンは、台本には「濁り湯なので見えないが、湯の中で自分を慰める」などという指定がされているシーンだ。お姉さんたち、セクハラだよ。


 こんな時、38歳の江良であれば堂々と輪に入って行って「オナニー中にムーディーなBGM聴くことあるよ、あるある」と口添えするのに。


「音楽聴いてもいいと思うんですけど~。あんまりおもしろがって話題にしないであげた方がいいと思うんですけど~」

   

 とても気になるのだが、スタイリストさんはグイグイとその場から引き離して、「ちょっと刺激が強いよね。やだねー」と正義感たっぷりにしかめっ面をしてくれた。

 かなり気になるのだが、この調子だと撮影現場は見せてもらえないんだろうな。

 

  

   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆


――【蒼井(あおい)キヨミ視点】

 

 全く、どうかしてるわ。

 家族もののドラマにセンシティブなシーンを挟むなんて。

 

 蒼井(あおい)キヨミは、お金を稼がないと生活できないから仕事をしている。


 夢やロマンなんて抱いていたのは20年も30年も前のことだ。

 今は、現実の地に足をつけて、「世の中はこんなものね」とシニカルに笑い飛ばせる。自分はキヨラカではない。ヨゴレだ。その上で、愛想たっぷりに「いいおばちゃん」の仮面を被れる。

 そう思っているのだが、ここ最近、活動していて高まるのは、「それにしたって倫理観が欠如しすぎじゃない?」という思いだった。コンプラコンプラと世の中は口うるさくなっているのに、加地監督の現場はどうかしている。


 これからセンシティブなシーンを演じる新人、火臣(ひおみ)恭彦(きょうひこ)は19歳。父親との関係が異常で、世間に心配されている青年だ。

 性格は、普通に接していると大人しい雰囲気。草食系というやつだろうか。

 

 役者としては、スイッチが入る時と入らない時の差が激しいピーキーな性質。

 そんな繊細な青年にセンシティブなシーンをさせてはいけない。

 公共の電波に映像やメッセージをお届けするというのに、あまりにも配慮がない。

 

「恭彦君。ほんとにシなくてもいいからね」


 ――監督の声が腹立たしい。

 

「『それっぽい?』『もしかしてそういうシーンなのかな?』とSNSで話題になって『そんなわけないじゃん、穿った目で見すぎ』って笑いにできる程度でいいんだよ。ちょっと恥ずかしそうにもじもじするだけでOK」


「はい」


「中で手をバタバタってさせて、お湯を波立たせるんだ。あとは表情をちょっとだけ『もしかしたら、しちゃいけないことしちゃってるかも』感で」


「はい」

  

 センシティブなシーンだと役者には指定しつつ、世間には「そう見えました? そんなシーンじゃありませんけど?」で通そうとしている。

 インティマシー・コーディネーター(性的なシーンを演じる際に俳優と監督の間に入ってサポートするスタッフ)もいない。

 

 彼の父親の暴露によると、火臣恭彦は遊んでいそうな外見の割りに中身の性格は真逆だという。

 そんな青年が年上のお姉さんに欲情して自慰するシーンを撮って話題性を煽るなんて、趣味が悪すぎる。大問題だ。

 本人は演じる気がある様子で、気持ちを作るための必須道具らしき音楽プレイヤーに縋るようにしていたが。

 

 ……大人として、今からでも「NO」の声をあげるべき?

 

 羽山(はねやま)修士(しゅうじ)がいたら、大人の男性としての意見を言ってくれたのに、と思う。彼は今日、いないのだ。

 作中の鈴木(すずき)美里(みさと)もこんな気持ちになることが多い日常だろう、と想像すると、役への親近感が高まった。


 ――カチンコが鳴り、水音がぱしゃりと立てられて、どきりとする。

 

 邪魔にならないよう、カメラの後方から覗き込んでしまうのは、「心配で目が離せない」のか。それとも、「いけないものを見たい」と思う心理なのか。


 作り物の浴室の空間に、呼吸するのをためらってしまうような静寂が満ちる。

 バスタブには、エメラルドグリーンの湯が張ってあった。清潔な印象だ。

 

「……」

 

 青年は、バスタブの中で身を縮めていた。居心地が悪そうだ。

 長い睫毛を伏せて俯く仕草につられて、濡れた金髪の毛先から湯の滴がしたたる。


 落ちた先の湯面で滴が波紋をつくった瞬間、青年の肩がもぞりと動いた。

 

「ン……」


 悩ましく押し殺された声が、漏れ聞こえる。

 腰のあたりに熱を誘い起こすような甘さのある声だった。


「……」

  

 眉根を寄せ、何かに切なく堪えるように呼吸して、青年が首を軽く振る。

 吐息を吐く唇が、色っぽく潤っている。

 

 ――……? これ、大丈夫?

 

 青年の瞳には、濃い背徳感と欲情の色が滲んでいた。

 

 何かへの憧憬を抱いている。

 憧憬から派生した狂おしい熱に、戸惑っている。

 熱が自分の中で暴れていて、持て余している。

 じっとしていられない、もどかしさがある。

 どうしよう、という焦燥を抱えている。

 

――強い衝動があって、流されようとしている。

 

 「いけない、だめだ」と我慢しようとして、けれど、抗いがたい官能の波を自ら掻き立ててしまう。


「ふ、……っ」


 抑えきれない興奮の吐息が鼻から漏れて、青年が湯の中で身じろぎする。

 表情に悦楽が覗いて、「ああ、気持ちいいんだ」とその色香にどきどきする。

 

 ゆら、ゆらと湯が揺れる。 

 

 今、見えないところで何をしているの? 

 本当にしているの?

 ――目が離せない。


 加速する。

 情動が、高まっていく。

 ――熱い。

 

「はっ、は、は……っ……ん、ふ……――」


 息づかいが荒くなり、声をおさえるために唇が噛まれる。

 

 「秘密の行為を覗いている」と思うと、見ている側には強烈な高揚と背徳感が湧いた。

 

 早く、早く、もっと強く快感を追求したい。出したい。

 これは気持ちいい。もっとほしい。

 頂きまで追い詰めて、この熱を放ちたい。

 そんな切望を湛えた瞳に、まぎれもなく行為への抵抗感も同居している。

 それが、堪らない気分にさせる。

 

 びくり、びくりと全身が湯の中で快感を伝えて、表情が歪む。

 気持ちよさそうに、あるいは、苦しげに。――痛々しく。

 赤く上気した顔が泣きそうな子供みたいに見えて、大人たちの心を抉る。


 今、自分たちは、大変な現場を見ている。絶対にだめだ。

 見てはいけないものを見てしまっている。こんなことはいけない。

 そんな気持ちでいっぱいになる。

 ……けれど、誰も止められない。


 もう少しなのだ。

 邪魔してはいけない――神聖さすら感じさせるその行為は、フィニッシュに向かいつつあった。

 

 気付けば、皆が固唾を呑み、瞬きすらできずに、見守っている。

 大勢の視線に晒されながら、青年が達しようとしている。

 その絶頂感が、わかる。


 ……なんて表情。

 

「……っ、……、ふ、ふ、……っ」

  

 こんなことをしてはいけない。

 なのに、止まらない。

 気持ちいい。

 だめだ。

 いい。

 もっと。もっと。もっと。

 

 あ――――、イく。


「――――っ」

 

 ぐっと両肩をあげ、喉を逸らすようにして、びくりと絶頂を演じる青年は美しかった。

 

 ……いや、これは――――演技?


「カ、カット……!」


 はぁはぁと息を乱す青年は、バスタブの中でイヤホンを取った。

 そして、困ったように――粗相をしてしまった幼い子供みたいな調子で、言ったのだ。


「すみません……なんか、盛り上がっちゃって……、ほんとにやっちゃいました」


「……‼」

「きょ、恭彦君……!」


 監督が飛んでいって、心配になるぐらい褒めちぎっている。あの監督は過激を愛するので、大喜びだ。


「いや、よかったよ! お父さんに未編集の映像データを売ったら高値で買ってくれそうだよ。売ってもいい? だめ? そうだよね。いやいや、冗談だよ、売らないから安心して。それにしても君、すごいねえ、スイッチが入っちゃったんだねえ! 君が身体を張って演じてくれた芸術的なシーンは無駄にしないからね!」   

 

 居合わせた関係者は、「13歳の葉室王司をこの現場から遠ざけておいてよかった」と安堵するとともに「監督はああ言っているが、撮れてしまった映像をどうしよう。よほど気を使って編集しないとレーティングが上がってしまうぞ」「しかし、このシーンの撮り直しはしない方がいいのでは」と議論することになった。


「気持ちよかったかい、恭彦君。すごい気持ちよさそうだったぜ。俺も一緒に扱こうかと思った」

「は、はい……」 

「お湯が気持ちよかったんだよな、恭彦君。大丈夫。今のは演技だ。それっぽく見えたけど演技だから大丈夫だ。すごい演技だったなぁ!」

  

 監督は訴えられた方がいい。

 そして、恭彦君は素直に答えなくていい――若者って怖い。

 

 みんながそんな思いを胸に抱きつつ、問題シーンの撮影は幕を下ろしたのだった。

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