39、よくできました、お嬢様
「お前……セバスチャン……何、言ってるんだよ……」
赤リンゴアプリは、SNSで都市伝説的に噂されていたアプリだ。
選ばれた人しかアプリが現れない、とか。
選ばれる条件はよくわからない、とか。
代償を自分が決めてアプリに捧げると、願いを叶えることができる、とか。
実際には存在しない怪談みたいなものだと思って面白がっていたら、とあるVtuberが配信中にアプリがあると言い出して、配信してみせたとか……。
――王司のスマホにあったけど、消えてしまったアプリだ。
煩い蝉の声がフィルタリングされたみたいに、世界が不自然に静かな感じがした。
自分の心臓が騒がしい。異常な現実に、夏の暑さに起因しない汗が出る。
「使い方を説明しないとわかりませんか? お嬢様?」
赤毛の執事は、小ばかにするような冷ややかな目をした。
言葉はいつものカタコトじゃなくて、流暢だ。
「真っ赤に熟した楽園の林檎は、望みを叶えてくれる奇跡の苹果。楽園の禁忌でもございます」
ゲームじゃないんだぞ。ふざけてる場合じゃないんだ。
「実った果実は枝から落ちるもの。水瓶から零れた水は元には戻らないもの。そんな自然に抗い不自然に歪めるならば、人は代償を払わないといけません」
そうだ。ドッキリかな?
ドッキリのカメラとか、……ないの?
「その望みが齎す社会への影響力――不自然さが大きければ大きいほど、お嬢様は大きな代償を払わなければなりません」
周囲を探してもカメラはなくて、ネタばらしをしてくる仕掛け人も来ない。
代わりに、冷たくて動かなくなった八町がいる。
ああ、そうだ。八町を助けなきゃ。一刻を争うんだ、こういうの。
「お嬢様は、八町大気の命を救うことができます」
「……!」
顔をあげると、赤毛の執事が傲然としていた。
「お嬢様は、Apple Pointをお持ちです。足りない分は代償を払っていただきます。何が代償として失われるかは、払ってからのお楽しみ。それは所持金や大切な所有物かもしれませんし、ご自分の生命かもしれません」
「……たまに、くれてたやつ」
アッポーポイントだ。あれ、使えるんだ?
「八町大気は死んでいます。けれど、お嬢様以外にそれを知る者は、まだいません。現時点では軽い代償で済ませることが可能です。ですが、もし世間にその死が知れ渡れば、認知度の高い死の現実を覆すには莫大な代償が必要となるでしょう」
助かる。助かる。助けられる。
「教えてさしあげましょう、お嬢様。こちらに向かってくる人がいますよ。複数人です。3分もあれば彼らは八町大気の死を知り、彼らが通報することで本日中に社会は『八町大気の死』を事実として受け入れることでしょう。そうなる前に望まれるのがよろしいかと」
なるほど――理屈は理解した。
八町とアプリを見比べる。
赤毛の執事を見上げると、虫を愛でるような眼差しで死体を見ている。
――「Don't wish.」
王司の手書きの文字が脳裏をよぎる。
とても不可解で恐ろしい現実が目の前にあって、それに手を伸ばすのが危険だと思う自分がいる。
だけど、八町が冷たい。
人が来て、その死が知られてしまう。
……時間がない。
「たす、けて」
私は願った。
望んだ。祈った。懇願した。
「代償を払う。八町を、生き返らせて。セバスチャン」
赤毛の執事は、口元を歪めた。
目元が笑っていない笑顔は、得体が知れない感じがして、怖かった。
「よくできました、お嬢様」
執事は肌を隠していた白い手袋を外し、アプリを操作した。
自分は悪魔ですとか言っちゃって、奇妙なアプリを見せてきて、中二病みたいなことを真実味たっぷりに言って、超然とした気配でいるくせに、こいつは手袋をしたままスマホが操作できないんだ。
それが異様に生々しくリアルで、不気味に思える。
「不足分の代償が決まりました。お嬢様の望みは、叶います」
「――あっ……」
言われた途端に、灼熱感が右目を襲った。
手を当てて苦痛をやり過ごし、落ち着いてから恐る恐る手を離す。
「……」
違和感の正体は、すぐにわかった。
目だ。右目が見えなくなっている。
これが、代償?
これで、八町は助かったの?
「や、八町……」
八町に手を伸ばした時、人が来た。執事の予告通り、複数人だ。
倒れている人のそばで私が座り込んでいるのを見て異常事態を察した様子で、駆けてくる。
「おい。どうした。大丈夫か、そこの子……!」
「あ……」
そのメンバーを見て、目を瞠った。
「どうしたんですか? おや、君は……?」
問いかけてきたのは、ニュースやネットでたまに見かける、二俣グループの総帥。白のポロシャツ姿だ。
彼は、息子の手を引いていた。
父親に手を引かれる息子、二俣夜輝は紅白ボーダー柄のカットソーにベージュ色のハーフパンツ姿で、「お前、何してんの」と目を丸くして私を見ている。
しかも、同行者も知っている顔ぶれだ。
「救急車を呼びなさい、恭彦」
「はい」
黒のテーラードジャケットを脱ぎ、八町に心臓マッサージと人工呼吸を施し始めたのは、火臣打犬。
そして、父親の指示に従うのは、火臣恭彦。
頭がクラクラする。この現実は、なんだろう。
おかしなことばかりじゃないか。
「おい。平気か? アイス食うか?」
「ひっ」
二俣夜輝が右側からアイスを差し出してくる。
……ガリガリクン?
右目が見えないので、そちら側からアクションされると反応が遅れるのだが。
しかも、そのアイスは食いかけじゃないか。
というか、アイスどころじゃないだろ。状況わかってる?
「アイスはいりません。それどころじゃない……」
キッと睨んでやると、二俣は憎らしいほど落ち着き払っていた。
「俺たちにできること、ないだろ。大人が全部してくれてる……お。戻ったって言ってるぞ」
「……!」
ほんとだ。
大人たちが八町を囲んで「呼吸と脈動が戻った」と言ってる。
救急車もやってきた。八町が運ばれていく……。
助かったんだ。
八町は、死なないんだ。そう思ったら、涙が溢れた。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
倒れていた八町の第一発見者は、私だ。
その後、私は騒然とする現場から移動させられて、事情を聴かれた。
「倒れていたんです。睡眠薬の小瓶が近くにあって……救急車を呼ぼうとしたところに、他の人たちが来ました……」
八町が助かってよかった。よかったよ。
鼻をぐすぐす言わせながら説明すると、大人たちは同情的に接してくれた。
「びっくりしただろう、怖かったね」
「親御さんにも連絡を入れたからね」
「運ばれたおじさんもすぐ元気になるよ」
「ありがとうございまふ」
八町が死ななくてよかったよ。
それにしても、衝撃的なことが続きすぎて頭が疲れた。
脳疲労だ。クタクタだよ。
自分のスマホと執事が怖いよ。何だこの現実は。ファンタジーか。オカルトか。
「大丈夫? お家帰れる?」
「ふぁい」
火臣打犬が「俺が家まで連れていこう」と提案してくる。はいっ?
「執事がいるので執事の車で帰ります」
嫌だ。打犬は嫌だ。1秒も一緒にいたくない。
怪しい執事の方がましだ。
恭彦はなんで父親と会っちゃったんだ。
ダメだよー恭彦ー、裏切者ー恭彦ー。
「大丈夫ですか、葉室さん」
裏切り者の恭彦がティッシュをくれる。ありがとう。鼻水ね。ずびーっ。
「ありはとう、ございまふ」
「腹へってないですか」
ごそごそとバッグを漁って、何かくれる。
ほう、激辛柿ピー。食い物で誤魔化されたりはしないが、いただこう。
「ありふぁとございましゅ。……恭彦お兄さんは、どうして変態に会ってしまったんですか」
「お盆でしたし……」
わ、わかんない。
お盆だからって理由で、どうして変態に会うんだよ……。
話している間、ねっとりとした視線で見つめてくる打犬が嫌すぎる。
全力で視線を逸らすぞ。
「そ、それでは、私は帰ります……」
赤毛の執事セバスチャンは、いつもみたいな親しみの湧く空気感に戻っていた。
「自分は無害デスヨー」って顔をしてる。
「お帰りマスカ、お嬢様」
うわー、カタコトだ。
何もおかしなことはありませんでしたよって言うような、日常感だ。
「エスコートデス」
手を差し出してくる。うわー。
車までエスコートしますよって? うわー。
しかし、他の人が見ている。この執事を拒否ると、怪しまれるだろう。
怪しまれるだけならまだいいが、「では俺が送る」と打犬の送迎コースになったら目も当てられない。
「う、うん。帰る」
そーっとエスコートの手を取ると、セバスチャンは顔を私の耳元に寄せて、囁いた。
「情が湧いたのでサービスしてあげましょう、お嬢様。3か月です」
う、う、うわーー!
お前、やっぱり日本語ぺらぺらじゃないか。
変な演技しやがって。怖っ。何?
「……なっ、なっ、な、……何?」
「説明しないとわかりませんか? 愚鈍ですね。代償の症状を期間限定にしてやるって言ってるんですよ」
蔑む口調で言って、セバスチャンは顔を離してカタコト外国人の演技に戻った。
「では、ゴーホーム! イエー!」
「ひ、ひぃ……」
愚鈍なんて生まれて初めて言われたよ。
演技と素の落差が怖いよ……。