27、真夏の太陽
鈴木美咲は、どこか地に足がついていないまま成長してきた。
家は中流家庭で、親も兄も優しい。
学校では少ないけど気の許せる友達がいる。いじめられたりは、していない。
成績はまあまあだ。可もなく不可もなし。
日常生活は平穏で、ピンチと言えば「教科書忘れた」とか「今日は指名されて発表しないといけない」とか「宿題が多い」みたいな。
今日と同じ明日が続く。
将来のことは、あまりイメージできてない。
先のことはゆっくり考える予定で、昨日とあまり変わらない今日を生きている。
世の中には、オカルトとかファンタジーなことがあると思う。
アニメとか漫画みたいな不思議なことだ。
みんな、不思議なことなんてないって思いこんでるけど、あるよ。
だって私は宇宙と交信できるもん。
私は特別なのかもしれない。
でも、部屋の外では普通のふりをしてる。
あ、もしかしたら、探したら私みたいな特別な人が他にも隠れてるのかな。みんな、普通のふりをしているのかも。
仲間を探してみたい。きっと私たちには使命があるんだ。
最近、暑いし。温暖化を魔法の力で止めたりできるかもしれない。
私たちは将来、地球を救うのかも。
家族は、父と母と兄。これまでずっと一緒にいて、これから何年も変わらないメンバーのはずだった。
なのに、お父さんが死んだ。
嘘だと思った。でも、目の前に人形みたいになったお父さんがいる。
近寄るのが怖い。
お母さんが泣いている。ドラマや映画のワンシーンみたい。
でも、演じてる役者の場所で泣いているのはお母さんで、お父さんは呼吸をしていない。
ぴくりとも動かない指に触れるのが怖くて、泣き声が迫真で、私は気づいてしまう。
これ、現実だ。これが、私のリアルだ。
えっ、お父さん、死んだの。
もう喋ったりしないの。生きてないの?
――足元から、冷たくて暗くて恐ろしい影みたいなのが登ってくる気がした。
「……っ」
なんで? なんで? なんで?
――きれいで心地のいい揺り籠みたいな夢の世界に、ひびが入る音が聞こえた。
現実が見えてくる。解像度を増していく。
くつがえらない、決定的な事件が起きてしまった。
もう、元に戻らない。
昨日までのままではいられない。
そんな変化の始まりの地点に自分がいるのがわかって、怖くなる。
お父さんがいなくなったら、うちはどうなるんだろう。
哀しみより先に、不安が心を騒がせた。
お金だ。お父さんは、生活費を稼いでくれていた。
そのおかげで私たちは生活できていて、お父さんがいなくなると――どうなるのだろう。
ふわふわとした夢の中で育ってきた美咲は、あまり現実的なことに目を向けてなかった。
だって、お父さんもお母さんもずっといるから。
生活は安定していて、不安がないから。うちは大丈夫な家庭だから。
でも、大丈夫じゃなくなってしまった。
ローンとか。借金とか。学費とか。
バイトとかする? この家に住んでいられなくなったりしないかな?
一家ばらばらになっちゃったりして?
お母さんが病気になったらどうなる? あ、親ってずっと生きていないんだ。
お兄ちゃんも、大人になったら家を出て行ったりする。
あ、あ、あ。
ずっと続くと思ってた日常って、そうじゃないんだ。
『次の休みは回転寿司に行くか』
『めんどい。寿司買ってきてよ。家で食べるから』
最後にお父さんが背中をまるめて家を出て行ったのを思い出す。
情けない、かっこ悪い、ださい。
現実的で、つまらないものの象徴みたい。そう思って視線を外して、私はスマホでゲームをした。
それが最後になってしまった。
あの時、お父さんの顔をろくに見もしなかった。
でも、『そうか』と言った声は小さくて、寂しそうで――
「……っ」
だって、帰ってくると思ったから。
だって、いつもと同じだったから。
だって、最期だと思わなかったから。
……後悔しても、もう遅い。
ごめん、なさい…………っ。
哀しみが膨れて、心の中がぐしゃぐしゃになって、頭がぐちゃぐちゃになって、わけがわからなくなってしまった。
「すごくいいよ、美咲ちゃん。君は本当に上手だなぁ」
「ありがとうございます」
撮影はスムーズに進んだ。
心配していた火臣恭彦は、さっきみたいなフラッシュバック状態に陥ることもなく、下手なんだけどセリフはちゃんと言えている。
下手だと言われるのは免れないだろうけど。
……精神に不調をきたすより、下手なほうがいいよ。
火臣恭彦はまだ19歳だっけ。人生、まだまだこれからじゃないか。
「本日の撮影は以上です」
「おつかれさまでした!」
その日、撮影する分が無事に終わり、西園寺麗華が「おつかれさま!」と声をかけてくる。
そういえばこのお姉さん、面倒見がいいんだよな。それに、演技に真面目に取り組んできた人でもある。
「麗華お姉さん、すみません。今日、最初来たときに恭彦さんが調子悪そうにしてたんです……」
「王司ちゃんは優しいわね。敵の息子なのに心配してあげて」
「えっ」
て、敵。
まあ、確かに火臣打犬は敵ではあるか。
「あの男は女の敵よ」
「は、はい。お姉さん」
お姉さんの目には殺意があった。ちょっと怖かった。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
――実力が違う。
火臣恭彦は、現実を痛感していた。
セリフを覚え、役について考えて、うまく演じてやると意気込んできたのに、いざ撮影が始まると練習の半分も没入できない。役になりきることができない。
他の役者たちは人が変わったように表情や佇まい、全身の雰囲気が代わり、空気に飲まれてしまう。
演技は自然で、自分だけが異質に思えて仕方ない。
たぶん、自分がいない方がいい。
美しい絵画に一点だけ墨をべちゃりと落としてしまうみたいに、自分がいることで台無しにしてしまう。
交代した方がいい。ちゃんと演技できる別の誰かに。
「お兄ちゃん、これからどうなるんだろう」
ソファに座り、クッションを抱えてぽつりと呟く妹は、演技をちゃんと勉強し始めたのがつい最近のはずだ。
なのに、この異様な自然さはなんだろう。
そういう人物がそこにいるのだと思わせてくれる、この演技力はなんだろう。
ものが違う。才能の差を感じる。
中途半端に勉強して、練習したから、なおさらわかるものがある。
高い壁があるんだ。俺と彼女の間には。圧倒的で、決定的に、差があるんだ。
俺は、ゴミだ。石ころだ。
きらっきらの宝石の中に混ざってしまった異物だ。
なんて惨めなんだ。
……こんな気分を、何度も味わって生きてきた。
父に連れられて遊園地に行って、「辛い体験をしていると演技に活かせる」と言って置き去りにされた時。
映画館の椅子に座らされ、「今日はこの席で1日過ごせよ」と言われて延々とひとりで映画を観て――おしっこを漏らした時。
今日中に読めと言われて30冊の分厚い本を積まれて、まったく内容が理解できずに3冊めで頭が痛くなって熱を出した時。
1位になってこいとピアノのコンクールに出されて、ぼろぼろの演奏をして途中で弾けなくなった時。
レッスンに連れていかれて、イントネーションが違うと言われて何も言えなくなった時。
『俺が一番カッコいい』
親父の自信満々な姿が思い出された。あまりにも、違う。
『世の中の愚民どもなんて、どうでもいい』
俺を見下す目が蔑んでいる。お前は何をしているんだと呆れている。
『俺の遺伝子持ってるのに、なんでできないんだ?』
出来が悪い、と落胆されている。
親父は視線を外し、いつものように彼が執心してやまない好敵手の映画を観始めた。
江良九足だ。
画面の中で、清潔感のある黒髪で、トレンチコートを翻して知的な笑みを浮かべている。
相手には全くライバル視されていないのに、親父は彼にずっと対抗意識を燃やしている。
母いわく、演技の道というのは上を見ると果てしなく、どんな上級者も「これで極めた」と言わずにより良い演技を試行錯誤しつづけているらしい。
求道者ってやつだ。
熱心にそれをする役者は、同じように実力が高く、演技の道を模索しながら上手くなるために努力している者と認め合ったり、ライバル意識を燃やしたりするらしい。
嫉妬してしまうわ、と言いながら「無理してそっちに行かなくてもいい」と言ってくれた母は、優しかった。
同時に、期待されていないのだというのがわかった。
夜中に父が母に「あいつは才能がないな」と言っているのを聞いたことがある。
「お前のせいかもな」と笑っていた。母は謝っていた。
『努力して出来ないのはダサいから、あいつはやる気がなくて真面目にやってないってことにするか?』『遊んでこい』『ピアスつけてやる』
――悔しい。
悔しい。悔しい。
『江良はもういなくなってしまったんだな』
父が泣いたのを見て、俺は思った。
俺が死んでも、父はこんな風に泣かないだろう、と。
その時とても腹が立って悲しくなったが、それは父にというよりは――才能がない自分に腹が立ち、悲しくなったのだ。
火臣恭彦は、自分をそう分析した。
「恭彦君、話、聞いてる?」
「あ……」
気付くと、現実の世界で西園寺麗華と葉室王司が自分を見ていた。
「明日、早く来ますか? 一緒に練習したいなって思ったんです」
可愛い妹は、演技がうまい。
同じ父親の子なのに、なぜこんなに才能に違いがあるのだろう。
自分は幼い頃から読書をさせられたり、映画を見せられたり、楽器演奏や演技のレッスンをさせられたりしてきたのに。
うんざりするほどスケジュールを埋められて、普通の子よりずっと素養があるはずなのに。
最近まで何もしていなかったという、この華奢で弱々しい女の子にどうして圧倒的に劣るのだろう。
「……俺が一緒に練習すると、お二人に迷惑では……?」
「そんなことないですよ」
「やだ。卑屈なこと言わないでよ~! お姉さんは美少女と美男子が一緒にいるだけでテンション上がるんだから!」
できる奴は、できない奴に優しい。余裕があるんだ。
「みんなでいい作品にしましょうね!」
「がんばりましょう!」
そして、才能がある奴は、努力だって人の何倍もする。
だから、凡才の俺はきっとめちゃくちゃ努力しても追いつけないんだ。
だって、才能がある親父が「こいつはだめだ」と判断してる。実際に、天才が目の前にいる。
素材の違いを見せつけられてしまった。わからせられてしまった。
……眩しい。
3人で話しながら外に出ると、真夏の太陽が青空の頂点でギラギラ輝いていて、目が眩むようだった。