26、ああ、演技だったんだ
撮影の日は、雨模様だった。
鈴木美咲の制服衣装に着替えて控室のドアを開けると、火臣恭彦がいる。
鈴木翔太用の男子高校生な制服姿だ。
テーブルの上にはノートが2冊と台本が1冊置かれていた。
「おはようございます?」
声をかけて近づいても気づかずに独り言を言ってる。
「妹が生まれた時は両親が取られたみたいで寂しかったし嫉妬もした。でも小さくて弱々しい妹は守るべき対象だと理解もできたし、可愛いとも思えた。隣の部屋で宇宙と交信してるのは痛いと思う。そういう年頃なんだ。俺はそういうことはしなかったけど。バンドは楽しい……」
集中力がすごい。
役作りノートを見ているようだ。
台本に書いていない人物像を考えてきたんだな。偉いじゃないか。
「学校よりも学校の外がいい。制服を脱ぐと本当の自分になった感じがする。普段はなんか窮屈なんだ。お行儀よく勉強して就職する人生は1から10まで普通で、普通ってのはどうもかったるくて虚しい、つまらない。でも普通が一番いいともわかっている。父親はダサい、ウザい、キモい。でも模範生だとも思う。結婚して子供作って食わせて学校行かせてるから普通の人生のお手本みたいだ。でも羨ましいかと言われるとそう思わない気もする。朝は憂うつだ。夜は楽しい時間だよな……」
これは邪魔しちゃいけないな。
こっちも鈴木美咲の演技を準備しよう。
鈴木美咲は今まで江良が演じたことのない人物で、面白い。
宇宙と交信するんだもんな。
彼女にしか見えない世界が彼女の中に広がっているんだよ。
火臣恭彦と微妙に距離を空けて座り、自分のノートを広げて思いついたことを書いていくが、どうも独り言が気になる。
「おやじは……おやじは…………嫌いだ」
なにやら溜まりに溜まった怨念みたいなものが感じられるドス黒い呟きだ。
鈴木翔太ってそんな負のオーラを漲らせたキャラかな?
そーっと横目で様子を窺うと、火臣恭彦は両手で頭を抱えて項垂れていた。
「恭彦さん?」
「推しを祀る神棚ってなんだよ。賽銭箱まで置きやがって……くそっ……」
呻くような声だ。
なんだそれは。それはどういう悩みなんだ? 意味不明すぎて気になるよ。
「恭彦さん? 声きこえてますかー?」
「嫌いだ。嫌いだ。絶対、嫌いだ……」
「……現実に戻ってきてくださーい?」
なんでこれだけ呼びかけてるのに気づかないんだよ。
これはもう、嫌な思い出をフラッシュバックして苦しんでるだけなのでは?
思うに、彼が挑戦したのは自分の体験や心の傷をキャラクターに重ねていく手法ではないかな。
心身の健康を損ねた例が結構あるので、ちょっと心配になる。
役者は、演技法を常に試行錯誤している。
よく話題にのぼるのが、メソッド演技法。
例えば「大切な人が死んで泣く演技」をするときに自分の大切な人が死んだ体験を思い出して泣く方法だ。
過去の自分のトラウマや苦しかったこと悲しかったことを思い出して演技にその感情を活かす――役と自分を同化させる。
あとは、カメラが回っていない時でもそのキャラクターのように生活したりも。
盲目の男性を演じる時に、役に備えて盲学校に出席したり視力を失った設定で生活したり。
タクシー運転手を演じる際に、実生活でもタクシー運転手として働いたり。
ボクサー役を演じるにあたり、ウェイトトレーニングで身体を大改造したり。
不眠症を演じるにあたり、睡眠時間を2時間にして過ごしたり。
……「レイプ魔を演じる人が役に没入しすぎてリアルでもレイプしちゃった」「虐待親を演じる人が家に帰ってからも役が抜けず、我が子を虐待してしまった」なんて事件もある。
「あのう、演技も大事だと思うんですけど、ご自分を壊さないようにするのも大切だと思うんです……コーヒー置いときますね」
タレント業は、ストレスが大きい。
ライバルはたくさんいて、常に競争だ。
役を演じるときには、ライバルを押しのけて自分だけが演じる権利を獲得した強烈な優越感とプレッシャーがある。
公然と晒した自分の顔や体、人格は、めちゃくちゃ賞賛されたり否定される。
承認欲求のジェットコースターだ。
何気なく会話した発言の一部が切り取られて悪意的に解釈され、拡散される。
気が抜けない。
そんな環境で、さらに演技がストレスを増やすのだ。
心の傷を掘り起こしたり、自分の傷ではない傷を自分のものだと強く思いこんだり、痛みを理解するために自傷したり。
積極的に心をぐちゃぐちゃにして、その努力の成果に対して不特定多数に好き勝手言われる。そりゃ、メンタル病むよ。
火臣恭彦は親が炎上しているし、高ストレス状態だよな。
レッスンの先生は誰かな? ちゃんとした人かな?
ここは(精神的に)大人であり先輩の身として、気を付けて見ていてあげていた方がいいかもしれない。
コーヒーを置いて反応を見ようと顔を覗き込んだ時、ドアがノックされて、部屋の外から声が聞こえた。
「すいませんー」
「あっ。はい」
大人の声だ。よかった。「あの人、ちょっと調子が悪そうです」とか言って面倒見てもらおう。
ドアを開けると、あの殺人犯の男がいた。今日もスーツ姿だ。
「――……!」
見た瞬間、ゴキブリに遭遇したみたいに反射的に悲鳴をあげて逃げそうになった。
しかし、なんとか耐えて見上げる姿勢でじっとしていると、男はパァッと顔を輝かせて頭を下げた。
太陽のような笑顔だ。
疚しいところなんて何もないって感じだ。それが逆に怖いんだけど。
「あっ。おはようございます。葉室さんですよね、お会いできて嬉しいです。学校では弟もお世話になっているのでしょう?」
「ひ、え、え、えぇ……」
白い歯を見せて名刺を差し出してくる。営業マンって雰囲気だ。
震える手で受け取ると、男は右手の人差し指で名刺に書いてある自分の名前をつついた。
「円城寺善一です。親がつけてくれた超いい名前で気に入ってるんですよ。いいことして生きていきたいって。ナハハ。先日ご挨拶できなかったので、ご挨拶をと思いまして。差し入れも持ってきたんですよー」
嘘つけ、悪党。
お前は全然善人じゃない。
俺はつっこみたくて仕方ないよ。
あと、弟とはあまり似てないな。
「……そ、そうでしたか」
「俺、タレントとかクリエイターとか大好きなんです。家族にも呆れられてるんすけど、ナハハ。握手してもらっていいですか?」
ハイテンションだ。エネルギーがすごい。
握手すると、「手がちっちゃいな! 可愛いなー! こういうこと言うと事案って言われますかね、すみません」と笑ってる。
ここは調子を合わせよう。変に思われたら危険だ。普通に、普通に。
「あ、あはは。て、照れちゃいます……」
恥じらうように視線を外して後退ったところに、後ろから救いが現れた。
「おはようございます。すみません、なんか気づくのが遅れてしまいました」
おおっ、火臣恭彦!
現実に戻ってきたんだな! ナイスタイミングだ。
後ろに隠れさせてもらおう。あとは対応してくれ!
「ああ……火臣ジュニアさんじゃないですか。お疲れ様です。差し入れ置いていきますね、がんばってください」
「どうも……ありがとうございます」
火臣恭彦の後ろに隠れるようにすると、円城寺善一は差し入れを置いて出て行ってくれた。
男相手だと愛想がないな。わかりやすい。
あと、二世俳優だからってジュニア呼びはどうなんだろう。
火臣恭彦は機嫌を悪くした様子はないけど、テーブルに置かれたコーヒーに不思議そうな顔をして私に問いかけた。
「あのコーヒーはミサ……あなたが?」
今「美咲」と呼ぼうとしたのかな?
「あ、そうです。さっき呼びかけてたんですよ。気付きませんでした?」
「寝てたかもしれないです。失礼しました」
「……目が覚めてよかったです」
この人、大丈夫なんだろうか。
レッスンの先生に「あなたの教え子、なんかおかしくなってましたよ」って教えてあげた方がいいんじゃないかな?
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
――撮影が始まる。
緊迫した雰囲気だ。狭い部屋の中、横たえられた父親の遺体に、別れを告げる家族たち。
「あなた! どうして……! こんなに、急に――……っ」
父親の魂の抜けた手に母親がすがりつき、泣き崩れる。
号泣する母親の後ろで兄妹は呆然としていた。
兄は少し狼狽えた様子で妹を見ている。
妹は、奇妙な表情をしていた。
たった今、夢から醒めたばかりのような。
それも、とても穏やかで気持ちのいい、居心地のよい夢だったのに、誰かに冷水をかけられてショックを受けたみたいな。
なんだか怖くて酷なものに、たった今気付いてしまった、というような。
そんな心情が、無言の少女の全身から感じ取れた。
よく手入れされた黒髪がさらさらと揺れて、現実から目を背けるように妹が軽く顔を傾ける。
カメラマンはフレームの中のリアルに没入した。
その顔を見ることに、奇妙な背徳感と興奮を感じた。
「……」
少女は、とても傷付いた顔で、一筋の涙を流した。
静かに透明な涙が一滴だけ、白い頬を伝い落ちる。それが、とても美しくて残酷な光景に思えた。
――泣かせてしまった。
大切に守られていないといけない、真っ白で無垢な子供が。
夢を見ていた女の子が、傷付いてしまった。胸を痛めて、その可愛らしい顔を曇らせてしまった。
カメラマンは彼女を囲む大人たちが寄ってたかって残酷な仕打ちをしているような気分になった。
今すぐ駆け寄り、謝らないといけないような後ろめたさを感じた。
ごめんね、と頭を下げて、この可哀想な少女の心を守り、癒さないといけないと思った。
……けれど、「カット」の声が響くと少女は柔らかで無垢な笑顔を浮かべた。
ハッとした。
――ああ、演技だったんだ……。
カメラマンは胸をなでおろした。
彼は一瞬、撮影をしている現実を忘れていたのである。