237、 あのときの
監督は指揮杖を握りしめ、現場を仕切り始めた。
彼の名前は、八町大気というらしい。
「八町監督。葉室王司さんにこの状態で演技をさせるなんて無理です」
「シーンが成り立たないですよ、代役を検討すべきです。セリフも言えないのに」
反対意見が多いな。
でも、八町監督は全く気にする様子がない。
「僕が正しい。誰も僕の邪魔をしてはならない。絶対だ」
まるで神様にでもなったみたいに笑って、スタイリストに指示を出して葉室王司の準備をさせる。
でも、この子は本当に棒立ちで、なにもわかってないよ。
「王司ちゃん、こっち」
「葉室さん、このあたりで立っていてください」
役者仲間が手を引いてサポートしてくれる。
王司と同じくらいの年齢の女の子は、入院中にもお見舞いに来てくれてた子だ。確か名前は、アリサちゃん。
開始のカチンコの合図で、アリサちゃんが恭彦に詰め寄り、セリフを言う。
「ほら。千歳ちゃんが呆れて黙っちゃったじゃないですか」
自然な演技だ。上手い。
カメラマンを見ると、千歳が立っている姿を一瞬映してサッと他の二人に戻している。
ボロが出る前に他の2人に焦点を当てているのが職人技だ。
「お父さんの声が聞こえたの。『未来に帰ってきなさい』って。お父さんたちは、時間遡行技術を本国に報告せず、闇に葬るつもりだって」
SFなことを言ってる。
この子は未来から来たの? 未来にお父さんがいるの?
あれか。時間制限があるから急いで未来に帰るよって展開か。
「一緒に未来に行きましょう。人間がいっぱいいて、あなたは人間社会の一員になれる」
未来人らしきアリサちゃんが提案するけど、恭彦は心が動かないようだった。
恭彦は心配するように王司を見て、彼女の前にしゃがみこんだ。
「千歳。俺に怒っているんですか」
千歳っていうのが王司の役らしい。
彼女は人形みたいに黙っている。演技じゃなくてずっとこうなんだけど。
それを見て、恭彦の瞳が揺れる。
柔らかな金髪が照明に淡く照らされて艶めき、涼やかな目元には深い痛みと愛しさが刻まれる。
繊細な顔に浮かぶのは、切ない表情だ。哀切だ。まだ若いのに、どれほどの苦難を経てこれほどの感情の深みを知ったのか。
知っているだけではなく、伝える技術もある。
おかげで、自分事のように感情が動かされて仕方ない。
――心が揺れる。
この役者は、特別だ。他の役者とは違う何かがある。
きっと、こういうのを天才と呼ぶのだろう。
「水居さん。千歳ちゃんは言ってました。水居さんには、ちゃんと他の人間と関係を作って、仲良くしてもらって、ひとりぼっちじゃなくなってほしいって」
「遠子さん。千歳は優しい子ですね。ですが、それは本心ではないのでは? 黙っているのが気になります。まるで嘘を突こうとして拒絶反応が出て固まってしまっているような……?」
二人は千歳を会話の中心に据えて、千歳が話さなくても済む会話を展開した。おそらくアドリブだろう。
これなら棒立ち無言でも成立する。二人とも上手い。
……でも、なんだか悔しいな。変だな。
観ているともどかしい。焦燥感みたいなものも湧いてくる。
演技を期待されていない。誰にも見られてない。
足手まといで、寄ってたかってカバーされている。
――――そんなの、屈辱だ。
沸々と感情が湧いてくる。
――こんなの、主役じゃない。
そうだ。だめだ。
他の誰もがOKって言っても、だめだ。
このまま撮影を終えたくない。絶対だ。
こんな内容でオーケーをもらって作品の形で残るのは、嫌だ。
――なんでこんなに、嫌なんだ?
シーンが中断されたのは、そのときだった。
「カット!」
八町監督が芝居を止めたのだ。
「驚いた。全然だめだ」
声は研ぎ澄まされた刃のように鋭く、遠慮がなかった。
監督の瞳は、心臓を凍えさせるような感情を湛えていた。
――失望されている。
できると思ってたのに、期待外れだと思われている。
「江良君。どうして棒立ちでセリフのひとつも言えないんだい? また舞台のときみたいに調子が悪かったとでも?」
江良君、というのは、視点少女の『葉室王司』のことだ。
1秒で理解して、カッと頭に血がのぼる。
この監督は何を言ってるんだ。日常会話すらできないのに、責めるなよ。
期待するなよ。なんでわからないんだ? 無理なんだよ。
がっかりするなよ。こっちだって悔しいんだ。くそったれ――
周囲から反発の声が上がる。
「か、監督。あまりにもひどいです。演技なんてできる状態じゃないってわかってるじゃないですか」
そうそう。ひどいよ。
「人としてどうかと思います、仕事ができるコンディションじゃないのに仕事をさせようとして文句を言うなんて……」
そうだよ。人としてどうかと思うよ。
「江良さんじゃないんですよ。恐れ入りますが、八町監督も、仕事ができる状態ではないと思います。ずっと思ってました」
そうだよ、仕事ができ……。なんか、むかっときたな。
この感情のもやもやは何事だ?
自分で自分が理解できない。むかむかするし、いらいらするし、もやもやがすごい。
「黙れ」
周囲があれこれと意見する中、八町は指揮杖を振って全員を黙らせた。
「江良君は仕事への執着が強い子だ。欲がある。責任感もある。プライドがある。そうだろ、江良君」
モニターから目を逸らしたくなる。でも、目が逸らせない。
他人事に思えない。さっきの恭彦と言い、観てるだけなのに感情を激しく揺さぶって、落ち着かない気分にさせてくる。
……まるでホラー映画だ。怖いのに、強烈に惹き付けられている。逃げられない。
「や、八町監督。落ち着いてくださいっ、彼女は江良さんではありません……!」
真っ青になって止めようとする助監督。
しかし、監督は止まらない。
「江良君。君は周囲に食われてる。主役の存在感がどんどん薄くなっているよ。他の子たち、上手いよ。才能がある子ばかりだ。手を抜いていたら君は完全に見劣りする。主役の君が足を引っ張ってしまう。それでいいって思う?」
よ……よくない。
「江良君。江良君。このままじゃ君は、肩書きだけで中身のない主役になるよ。周りの子が気を使って君を中心に置いてくれるけど、無理やり持ち上げられている裸の王様みたいになってしまうよ。君のプライドと役者魂は、そんなのだめだって思うよね」
あ、あ、当たり前だ。
そんなのだめだ。だめすぎる。
「じゃあさ、江良君、主役やめる? 降ろそうか! 役者、引退しようか!」
な、なんてこと言うんだ。ひどい。
主役は譲りたくない。
降板は嫌だ。引退しない。
「江良君。嫌だったら、動きなさい。セリフを言うんだ。芝居をしろ。君は演技がしたくて生きてるんだろう。できないなら死ね。僕が殺してあげてもいい。心中するか。一緒に死ぬか」
――死にたくない!
「――い、やだ」
王司の唇から、声が出た。
「……い、今、……王司さんが……」
「喋った……!」
現場の空気が動く。
それを感じて、ハッとした。
動いた。動かせた。やっぱり、動かせるんだ。
希望みたいなのが掴めた手ごたえに拳を握っていると、モニターの映像世界に登場人物が増えていた。
ひょろりとした高身長の、赤毛の執事だ。外国人だ。なんだかすごく懐かしい感じがする。
「お嬢様。お休みをいただいていましたが、本日より復帰いたします」
執事は流暢な日本語で言い、恭しく王司にお辞儀した。
お休みしていた人なんだ。
復帰、という言葉が、なぜだか喜ばしくて仕方ない出来事に思える。
――よくわからないけど、復帰おめでとう。
そう思った瞬間に、ふっと映像世界が揺らいで消える。しかも、モニターごと。
「え……っ?」
な、な、なんで?
モニターどこに消えた?
瞬きをして、きょろきょろと周囲を見て。
モニターのあった場所をじーっと見る。
けど、いつまで待ってもモニターは戻ってこない。
「うっそぉ……、今、なんかいいところだったじゃん……」
ずっとのらりくらりと無反応の王司を観てた生活が変わりそうだったじゃん。
執事が挨拶してたじゃん。消えたあとのアッチの世界、どうなってるのか気になって仕方ないよ。
「困る。困るよ。動かせなくなっちゃうし。何が起きてるかわかんなくなっちゃったし。気になるし。主役降ろされちゃう。殺されちゃうよ。戻して。モニター戻して。ねえ。誰か」
声を発するけど、答える者がいない。
ここは真っ白で、だんだん前後左右、上も下もわからなくなってくる。
「で、出たい。ここから出たい。どうやったら出られるんだろう。出たいんだけど――どこに行けばいいんだろう……?」
立ち上がる。
「誰かーーー……」
声は無限の空間に吸い込まれていくようだった。
足を動かすと、歩いている感じはする。
でも、真っ白な世界は景色が全く変わらない。
前に進んでいるつもりだけど、進めているのかわからなくなる。
振り返ると、もうさっきまでどの辺で座っていたのかわからない。モニターがあった場所が見当もつかない。
「……」
王司を動かそうとしたのがいけなかったのだろうか?
黙って見ていれば、ずっと映画を観ていられたんだろうか。
消えたあと、動かないでいたらモニターは戻ってきた?
何もしない方がよかったのか……?
「…………どうしよう……」
ここには、何もない。
悩んでも、解決できない気がする。
怖い。不安だ。孤独だ。苦しい。寒い気がする。
ここはだめだ。こんなところにいたら、おかしくなってしまう。
何かを考えたらだめだ。考えない方がいい。無だ。無の方がいい。
自我があっても苦しいだけだ。捨ててしまおう。何もわからなくなった方が楽になれる……、
思考が危うい方向に傾いたとき、声が響いた。
【……どうしたの?】
「……!」
人の声!
ゆっくりと顔を上げると、目の前にゆらりと飛ぶ光の塊みたいなのがあった。
最初は蝶々だと思って、テントウムシかも知れないと思い直して、リンゴにも似てるように見えてきた。
これが何なのかはどうでもいい。
大切なのは、これが喋ったということだ。
会話できる相手がいるって、すごく大きい。
他人がいることで、自分が自分でいられる気がする。生きていられる気がする。
「……どこに行けばいいのかわからなくて」
こっちの言葉が、意思が、伝わってほしい。
藁にすがるような気分で必死に心を音声に変えて発すると、光の塊は優しくふわふわと飛んだ。
【私、わかるよ。教えてあげる。あっちだよ】
……?
このセリフ、知ってる。私が言ったんだ。
強烈な既視感と共に、記憶が蘇る。
色彩豊かな記憶だ。
『少年とテントウムシ』の展示。大きな青薔薇の門。眠って、夢を見たんだ。
門をくぐった先に白く広がる無限の空間。ぼんやりと立ち尽くしている『誰か』――。
「あ、……あのときの……」
何かが繋がった。そんな感覚と共に、白い世界に色彩が生まれる。
前後、左右。真っ白一色だった世界が、赤や黄色、緑、青、紫、ピンク、オレンジ、といったカラフルな色彩に塗り替えてられていく。
同時に、繋がった記憶は解像度と質量を増してリアルになっていく。
「……スキー旅行、温泉旅館のときの、私だ」
――自分だ。思い出した。
八町が呼びかけていた「江良」。
ずっとみんなを心配させていた「王司」。
彼は、彼女は。
「王司さん?」
「王司ちゃん、大丈夫?」
大切な仲間の声がする。
右側にスタッフたち左側に役者たち、正面にエスコートの手を差し出す赤毛の執事。
ああ、悪魔だ。
セバスチャンが元に戻ってる。
上を見ると天井が見えて、下は自分の足と床が見える。
窓から注ぐ陽射しは眩しくて、窓から吹き込む風は涼やかだ。
熱した機材の金属臭、塗料の樹脂香、汗とメイクの粉っぽさが混じる独特の匂い……。
ここは撮影現場で、葉室王司は私だ。
右手を前に出して執事の手を掴むと、現実の感触がする。
この現実には色があり、温度があり、匂いがあり、悪意があり、善意がある。
他人には全てが理解されつくされることがない私がいて、私には全てが理解しきれない他人がいる。
不思議なことなんて何もない、世の中の現象は説明ができるのだ、と叫ぶ学者と研究者がいて。
彼らの理論の網をすりぬけるようにして、理屈の通らない怪奇現象がオカルトや奇跡やファンタジーとして楽しまれている。
憔悴した顔でこちらを凝視する親友の充血した目を見返して、笑ってみせる。
八町。お前、よくもやりやがったな。感想を言うよ。
「八町大気は天才だと思う」
ファンタジーは、ここにある。
よかった。
心中エンドなんて、ごめんだよ。