235、【????】
霧が煙るような朝だった。
八町が待っているというので、私はモモさんに連れられて那智の滝へと向かった。
苔むした階段を速足で登り、鳥居をくぐる。
霧が出ていて、視界はあまりよくない。
朝早いせいか、人もほとんどいない。
滝の音がだんだん近づいてくる。
ゴオオッという低く響く音は、まるで大地が息をしているようだ。
「ほら、王司ちゃん、急ぎましょ」
「はい……」
モモさんが急かすので、私は参道の石段を踏み出した。
八町は朝っぱらから何をしているのだろう。
目を凝らしていると、モモさんが手を握ってきた。
顔を見て、どきりとする。
彼女の目には、明らかに敵意があった。
「王司ちゃん。いいえ、江良さん。あなたは江良さんよね?」
……え?
「私ね、江良さんが……嫌いよ」
「へっ? ……い、痛っ」
手を握る力がぎゅうっと強まり、痛みに顔を顰める。
そんな私に、モモさんは底冷えのする声で言い放った。
「まず男ってだけで嫌なの。私の好きな女性の恋愛感情攫っていくし」
「な、なんの話? あの、手が痛いです」
「伊香瀬ノコのどこがいいの。麗華さんの方が健気で一途じゃない。どうして麗華さんの好意に気づかないの。せっかく死んだのに、なぜ生き返ったの」
憑依のことを知ってるんだ、この人。
「それも、女子に憑依するなんて……気持ち悪……」
「え……」
なんてはっきりとした悪意だろう。ぐさぐさ来る。
思えば、八町は本当に例外的なイイヤツなんだ。
モモさんの反応は、おかしくない。
「モモさん……」
「馴れ馴れしく呼ばないで。ほんとは女性を見下してるくせに。江良さん、匿名掲示板に麗華さんや私の悪口を書いていたでしょ。女はお花畑とか、性を武器にしてて男を引っ掛けて破滅させていくとか、年増とか」
「な、何それ?」
「江良さんなら書きそう。恋愛ドラマで偉そうに女を見下ろしてばかりだったもの」
ドラマはそういう役だったんだよ。混同しないでほしい。
というか、なんで正体を?
話が通じそうな雰囲気じゃないけど……もしかして、結構危ない?
危機感を募らせていると、後ろから足音が近づいてきた。
――よかった、誰かが来た。
ちょっとホッとした瞬間、その人物は駆け寄ってきて、私の腕をモモさんから取り上げた。
「私の娘に何をしてるのよ……!」
んっ?
「あれ? ママ……」
ママだ。なんか黒づくめで仮装してる。
目元はサングラスで、口元はマスク。
甘い香水――ジルスチュアートのオードトワレ。
右利きっぽい。
……おや? これは、ママじゃないのでは?
「……みやびさん?」
名前を呼ぶと、彼女はハッと驚いた顔で私を見て、手を離した。
「王司……ママがわかるのね……?」
サングラスの奥の瞳は、得体の知れない感情に揺れていた。
喜び? 戸惑い? 気まずさ? 罪悪感?
いろいろ混ざってる。
そもそもなんでここにいるんだ? わけがわからない。
空気が張り詰める中、滝の音だけが低く響く。
よくわからないが、この場をなんとか収拾しよう。
私が口を開きかけた時、地面が突然揺れた。
ゴゴゴッという不気味な音とともに、足元がぐらりと傾く。
「――地震だ」
苔むした石段が地震の揺れに震える。
私は足元をすくわれ、ふらりとよろめいた。
霧が立ち込めてぼんやりとした視界で、モモさんがよく見えた。
異様な光を宿した目が刺すように私を捉えて、彼女の手が伸びてくる。
「――死んで」
真っ赤な唇が呟いたのは、濃厚な殺意の言葉だった。
言葉と同時に、彼女は私の胸を強く突き飛ばした。
「――っ!」
心臓が凍りつくような衝撃。
揺れ続ける足元で、もともとよろめいていた私は踏みとどまることができなかった。
「……!」
「王司!」
後ろに倒れそうになった瞬間、みやびさんが私の腕を引っ張り、支えようとしてくれた。
でも、地震の揺れが収まらず、彼女もバランスを崩してしまう。
「ひゃ……っ!」
「きゃあ!」
私とみやびさんは絡まるようにして石段を転がり落ちた。
ガンッ、ガンッ!
石段に体が叩きつけられるたび、鋭い痛みが走る。
しまいには、頭に強烈な衝撃を感じて、まずいと思った。
視界が白く爆ぜて、暗くなる。
周囲の音が遠くなる。
まるで世界から一瞬で締め出されたみたいに、闇が私を飲み込み、意識は深い淵へと沈んでいった。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
――【モモ視点】
霧が重たく垂れ込める朝。
モモの胸は、燃えるような憎しみで締め付けられていた。
モモは確かめたかった。
本当に、彼女の体に江良の魂が潜んでいるのか。
――イケメン俳優、江良九足。
あの男、麗華さんや私を匿名掲示板で貶めていたに違いない。
証拠はない。
でも、「女はお花畑」「性を武器に男を破滅させる」「年増」――そんな下劣な書き込みを見るたび、頭に浮かぶのは江良が演じたことのある俺様男キャラだった。
江良が死んでいたら書き込みできないけど、生きているなら書き込んでいるに違いない。
そして、モモは王司を観察して確信を抱いた。
――江良だ。
胸がじっとりと悪意を煮詰める。
なんて気持ち悪いんだろう。許してはいけない。
この不快感を、自分だけで持て余してなるものか。
全世界に教えてやらないといけない。
「勘違いするな、あなたは生きていてはいけないのだ」と本人にわからせてやらないといけない。
どうしてやろうか。
邪魔者がやってきて考えていると、地面が揺れた。地震だ。
目の前でよろめく江良を見て、頭の中で何かが弾けた。
――地震に乗じて突き落としたら、事故に見える。
保護者っぽいのがいるが、一緒に殺してしまえばいい。
衝動に突き動かされるようにして手を伸ばし、モモは江良を全力で突き飛ばした。
場所が霊験あらたかな土地だ。鳥居がすぐそばにある。
地震は私に味方してくれている、と思った。
目の前の亡霊男を、この土地は許さないのだ。神様は味方だ。
――私は、正義だ!
揺れが収まらない視界で、『葉室王司』とその母親が石段を転がり落ちていく。
その光景は悪夢のようで、なんだか現実感がなかった。
思えば、自分の手で人を殺めるのは初めて……。
地震がおさまると、周囲が騒がしくなる。
誰かが駆けつけてきた。
人々の声が聞こえる。私は事故を装った。
「地震でバランスを崩して落ちちゃったみたいで……」
誰も疑わないはず。事故だ。
地震のせいだ。
そう思っていたら、誰かが叫んだ。
「これ観て!」
スマホ? 葉室王司の母親の?
スマホを掲げた人が、動画を再生する。
画面の中で、私の手が王司ちゃんを突き飛ばす瞬間が、はっきりと映っていた。
「ヒュッ……」
自分が息を吸う音が、生々しく聞こえた。
まずい、まずい、まずい!
頭が真っ白になり、足が勝手に動き出す。
「お、おい、待て!」
いやよ!
私は道を外れ、霧の中へ逃げ込んだ。
石段を駆け下り、参道を離れ、森の奥へ、ただひたすら走る。
私の人生、どうなっちゃうの?
早まった。いつもなら、もっとうまくやるのに。
全部、江良のせいよ。
死んだあとで女に憑依するなんて、ありえないでしょ!
あいつ。あいつ。あいつ。
許せない。許さない。許さない。
逆恨みが胸の中で膨らむ。
走りながら、涙が溢れた。
麗華さんの笑顔が、脳裏をよぎる。
「麗華さん……麗華さん、麗華さん、麗華さん」
麗華さんはあの動画を見てどう思うだろう。
嫌われてしまう? …………いやだ……。
時間を巻き戻してやり直したい。
……そうだ。赤リンゴアプリとやら。ないの?
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……! あ、悪魔様。悪魔様、助けて。願いを叶えて。代償……払うから」
走りながらスマホを探るが、アプリはない。
メモ帳アプリに悪魔への懺悔を書く。悪魔への願いを書く。届いて、このメッセージ。ネット繋がらないけど。
「はぁっ……、あ……?」
足を止めたのは、異変に気付いたからだ。
気づけば、周囲の風景が変わっていた。
霧が赤く染まり、木々が歪んで見える。なに、これ。
まるで地獄の底に迷い込んだみたい。おかしい。怖い。
遠くで、足音が聞こえる。重く、不気味な響き。
振り向くと、黒い影が動いた。
目が、赤く光る。悪魔だ。
私の罪を断罪しに来た悪魔。江良の怨念が、形になったかのような。
「ひっ……!」
恐怖が全身を支配する。
私は木の陰に隠れ、息を殺した。
心臓が破裂しそう。スマホを握りしめる。
これが、唯一の心の支え。でも、バッテリーが残り少ない。
ネットは繋がらない。誰も助けてくれない。
……助けて……
悪魔が近づいてくる。
足音が、どんどん大きくなる。
逃げられない。
本能が、そう告げる。
私は、震える手でスマホに文字を打ち込んだ。
「麗華さん、ごめん。あなたを守りたかっただけなの。加地さん、みんな、わ、私を助けて。い、いや。いや……これなら、逮捕されたほうがまし……」
涙が画面を濡らす。言葉が、止まらない。カチカチと震える歯が音を立てる。
「悪魔が来る。断罪される。地獄に落ちた。助けて、助けて、助けて! ひっ、……ひぃ……っ」
バッテリーが切れた。画面が暗くなる。
闇が、私を飲み込む。
遠くで、悪魔の咆哮が響く。
私はただ震えながら、絶望の淵に沈んだ。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
――【????】
気付いたら、真っ白な空間にいた。
真っ白な空間には、自分しかいない。
目の前には、大きなモニターがあった。
映画鑑賞みたいだ。
モニターは誰かの視界みたいに見えた。
視線が下に動くと胸や脚が見えて、いる場所は病室みたい。
ベッドの脇にあるのは、テレビ? 流れているのはニュース?
字幕付きで、ニュースキャスターが情報を伝えている。
「和歌山県の那智の滝で発生した衝撃的な事件について、最新の情報をお伝えします。
那智の滝の参道で地震が発生した混乱の中、俳優の葉室王司さんが石段から転落し、頭部に重傷を負いました。彼女は病院に搬送されており、命に別状はないようです。ただ、共に転落した40代の葉室みやびさんは、打ちどころが悪く即死。痛ましい結果となりました。
事件の背景には、さらに驚くべき事実が隠されていました。
葉室みやびさんが撮影していたスマートフォンの動画により、放送作家の田中桃花さん、別名モモさんが、地震の混乱に乗じて葉室さんを突き飛ばし、殺害しようとした疑いが浮上しています。
田中桃花さんは事件後行方をくらましていましたが、本日未明、和歌山県内の山中で遺体で発見されました。
警察の調べによると、逃亡中に滑落し遭難した可能性が高いとみられています。
田中桃花さんの所持していたバッテリー切れのスマートフォンには、自白とも取れる文言や、友人・知人への別れの言葉、深い後悔の念が綴られていたほか、錯乱状態を思わせる記述も確認されています。
『悪魔が私を断罪する』『地獄に来てしまった』といった、極端な恐怖と精神的な追い詰められた状態を示す言葉が含まれ、彼女の最期の心境を物語っています。
警察は、田中桃花さんの動機や事件の全容を解明するため、引き続き捜査を進めています。この事件は地震という自然災害と人間の闇が交錯した、悲劇的な結末を迎えました……」
ぼんやりと眺めていると、病室に女性がやってきた。
憔悴した様子の黒髪の女性は、見覚えがある気がする。でも、思い出せないや。
「王司。起きていたのね。気分はどう? 今、先生を呼んでくるわね!」
どうも観ていると、視点キャラ……この映画の主人公は王司という女の子なんだな。なんか、聞いたことがある名前。
「先生。この子、呼びかけに反応しないんです。ずっとぼんやりしてて……」
王司はお人形になったみたいに大人しくて、まるで魂が抜けているみたいだ。
母親らしき女性が泣いていて、胸が痛くなる。これは鬱ドラマか?
余命ものとかじゃないよな?
あと、今いるこの白い空間はなんだろう?
自分の名前とか、全然思い出せないんだけど……?