219、火臣恭彦の答え合わせ
――【火臣恭彦視点】
スキー旅行で温泉旅館に宿泊した夜のことだ。
俺は父と二人で和室に宿泊した。
父はたいそう機嫌がよく、自分の娘、葉室王司を自分が抱っこしている動画を見てデレデレとしていて、キモかった。
和室がまた静かで、呼吸の音や動画の音漏れが良く聞こえるのが妙に神経に触って、苛々する。
しかし、父がせっかく娘と旅行できて幸せそうなのだから、フキハラをするのも親不孝に思える。
――自分の機嫌は自分で取ろう。
気を紛らわせようと思い、恭彦はネットで昔の曲を漁っていた。
昨年、突然活動を再開して「生きてたんだ!?」と大騒ぎされたアーティスト――自分の親世代が学生の頃からネットでボカロPとして活躍していた作曲家Qが、最近のお気に入りだ。突然消息不明になり、10年20年経って復活なんて、なんだか格好いいじゃないか。
『♪もてねーOREダチもいねーでも生きてますぅ今日も明日もヨワヨワMIND飼い猫いるからもうGOHOME!』
この自棄になって怒鳴ってるみたいな曲が特にいい。
メンタルが底を這いずり「これが当たり前だぜ慣れてるぜ」と血涙を流しながら自虐したくなる。気持ちいい。きっとこの頃の作曲家Qと俺は気が合うのではないか――そんな気がしてくるのだ。
ふう。
曲に浸っていると、ねっとりとした視線を感じた。父だ。
父は無言の視線に様々な情報を付与できる能力者だ。例えば、「ねっとり」「なんかキモイ」「貞操の危機を感じる」みたいな――独特の粘度と熱がある。
「恭彦。父さんはお前のファンだ」
「あ?」
「お前を推している。ショートドラマもアプリをインストールして全部観てるぞ。お前は顔がいいからショートドラマでアップが多く映ってスクリーンショットがどんどん増える」
なにやら情熱的な口調で語り出している。
「恭彦。夕食の後は貸し切り風呂に入ろう、風呂の後は布団を並べて寝るぞ……父さん、大切な話もあるんだ……」
俺の貞操、大丈夫か。
思わず尻を庇っていると、父は天地がひっくり返るようなことを抜かした。
「恭彦。父さん、病気でな。余命宣告されたんだ」
何を言うのか。
ドッキリか。演技だろう。
最初はそんな感想で、カメラを探した。
しかし、父は診断書を見せてきた。
自分に信用がないのを理解しているのかもしれない。
「芝居ではないんだ」と呟く声は、「信じてほしいけど無理だろうか」という諦観まじりのものだった。
それがなんだか真実味を感じさせる。
脳がぼんやりと痺れて、どうリアクションを取っていいかわからなくなる。
「父さん、最後に思い出を作りたくてな。友人になりたかった江良とは、まともな雑談もできずに死別したし……」
父は思い出が作りたいのか。そうか。
「父さんはあまり良い人間ではないので、お前をたくさん嫌な目に遭わせてきたな。傷付けてばかりだったように思う。すまなかった。金の心配はいらないし、父さんがいなくなっても大勢の記者さんや江良組の俳優たちがお前の味方をしてくれる。みんな家族だ。たくさん頼りなさい」
そして、申し訳なさそうに微笑んだ。
「お前はまだわからないかもしれないが、男というのはなかなか父になれない。子どもと関わっているうちに少しずつ親になっていく。だから、俺の血を分けた娘は確かに可愛いし大切だが、俺を父親にしてくれた恭彦のことを俺は一番……」
ドラマじゃねえんだぞ。やめろよ。
スマホに通知が出たのは、そんなタイミングだった。
通知してきたアプリは、赤リンゴアプリだ。
どきりと心臓が跳ねた。
アプリを開くと、悪魔がちょっと中二病感のあるフレーズで誘いをかけてきた。
【我こそは尽きせぬ欲望を満たす者】
【光を遠ざける銀の舌なり】
【さあ、赤き取引をしましょう】
このアプリは、代償と引き換えに願いを叶える。
【私の坊ちゃんがつまらぬ男の死を悲しむのを見たくありません】
思い出すのは、執事服の悪魔。
奴は、妹――葉室王司の執事セバスチャンだ。
仕えている主人が女子なのに、相変わらず坊ちゃんと呼んでいる……いや、この坊ちゃんはもしかして俺?
どっちだ? わからん。
【創造主も落ち込み、命を絶ってしまうかもしれません。親を慕う子はこんな時、救おうとするのではありませんか。あなたには、その能力がある。手段がある。道は拓かれているのです】
悪魔は誘惑した。
恭彦は能力と手段について考え、その道を歩むことに決めた。
運命を変えるのだ。
「恭彦、お前はこんなときにスマホを……いや……拒絶……逃避反応、だろうか……。楽しくない話をしてすまなかった。忘れていい。ストレスを感じさせてしまったな」
父親が余命のカミングアウトをしたのにスマホばかり見ている息子はダメすぎた。
恭彦は「ごめん」と謝り、心の中で付け足した。
確かに、楽しくない話だった。
だから俺はその楽しくない運命を変えるぞ、親父。
「親父。態度が悪くてごめん。別にストレスが酷くてメンタル鬱ったわけじゃない……」
「そうか、なら、大切な話だから話させてくれ。……父さんは、昔知った。真面目に地道な努力を積むことは大事だ。だが、今の世の中は人としての尊厳や良識を捨てて面の皮を厚くした恥知らずの憎まれ者が強い」
父の声に苦い感情がまざっているので、驚いた。
もっと「炎上商法上等」という人間性かと思っていた。
それに――どうしようもなく思い出されるのは、父が人としての尊厳を踏みにじられた過去だった。
例えば、葉室みやびに。
例えば、恭彦の母に。
それに――「死ね」「クズ」「キモい」という、日常的に浴びせられている無数の罵詈雑言、誹謗中傷……。
「俺はクズで変態だ。そして、息子はクズで変態な父の被害者として同情を集められる。クズで変態な父の被害者であるお前は、それでも父を拒絶せず最期まで献身的に看病したと言うがいい。優しく、哀れな息子だ……父を踏み台にして成功するんだ」
湧き上がったのは、拒絶の感情だった。
いらない。
俺はそんな悲劇がなくても欲しいものを手に入れる。
人としての尊厳を捨てて面の皮を厚くした恥知らずの憎まれ者。それは別に抵抗感はない。
だが、同情されるのは……その役は、なんか違うだろう。
その役がふさわしい子を、俺は知っている。
……妹だ。
「葉室さん。パトラッシュには親父の相手をさせているのですが、カメラを借りてきました。あと、ノートパソコン。簡単な設定での即興劇エチュードを配信したいのですが、付き合っていただけますか?」
「展示室で? いいですけど……」
「助かります。葉室さんは演技がお上手ですし、可愛くて人気があるので」
妹が協力してくれたおかげで、父を助けることができた。
妹には感謝している。恩を感じている。
ショートドラマ出演戦略の成果で日ごとに増えるフォロワー数は、自信をくれた。
父の言葉は――意識を変えた。
ありのままの本心を見せるのではない。
他者には、見せたい自分を演じるのだ。
そういう人物だと信じさせる――父がそう生きるように、俺も。
――俺も、強い男になる。
……実際にそんな人間でなくとも、そんな人間であるように演じてみせる!
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
解放区の配信画面に若手イケメン俳優が映り、コメント欄が騒いでいる。
:おい、TV局の中継見ろ
:お?
:お
:あ
:あ
風が流した白雲の隙間からは青空が覗いていた。
陽光がきらきらと降り注ぎ、火臣恭彦の髪色を明るく艶めかせている。
身長が高く姿勢のよい20歳の青年は、日差しの中である種のカリスマ的なオーラを放っていた。
「きゃーっ! 恭彦くーん!」
「本物〜♡」
「こっち向いてー!」
カメラマンをお供に立っているだけでどんどん周囲に人が集まってきて、現場は騒然となった。
場所は、人質立てこもり事件が起きているテレビ局の本社ビル。
地下2階,地上25階,塔屋1階。
メディア棟とオフィス棟からなるツインタワーを空中回廊が繋いでいる建築だ。
カメラが幾つも向けられ、建物の内部にいる犯人グループも顔を覗かせて注目してくる中、彼はカメラマンが設置したマイクに向かって発言した。
大きな声ではなく、穏やかと言っていい滑らかさと低さの美声は、不思議なほど発言者の怒りと悲しみを感じさせた。
「この建物の中にいる人たちのどなたかが、俺の妹をいじめて泣かせようとしているのです。団結して物作りをしている仲間たちの制作物を潰そうとしているのです。俺はそれがたいそう気に入りません。なにが正義や。仲間の邪魔して人質取って女子供泣かせて正義を騙るな。しかも……」
――――ざざっ……
解放区放送の画面にノイズが走り、ブラックアウトする。
コメントも何も見えなくなった画面には、白い文字が表示された。
『日本のみなさん、こんにちは。私の名前はマーカス。ブラックハットです』
「…………え……?」
配信を観ていたリスナーが困惑する。
別の場所――電波が停まっていなかった別のテレビ局のニュース番組のスタジオでは、キャスターが言葉を詰まらせていた。
「立てこもり事件は現在も……あ、あれ?」
モニターというモニターが全て、プツン、とブラックアウトしたからだ。
しかも、プロンプターの文字も消え、イヤモニからの音声も途切れてしまっている。
スタッフの動揺が広がる中、「ただの放送事故だ」と思う間もなく、異変は広がっていく。
『日本のみなさん、こんにちは。私の名前はマーカス。ブラックハットです』
渋谷駅前ビジョンが、道頓堀の巨大LEDビジョンが、ノクティビジョンが。
電車を待つ人々が、買い物を楽しんでいた家族が、病院の待合室の患者たちが――それぞれに視線を向けていたディスプレイが。
映画館の上映中のスクリーンまで。ありとあらゆる国中の画面が――
「なんだこれ?」
「えっ、停電じゃないっぽいけど」
――すべてが例外なく、真っ黒に塗りつぶされた。
どこにチャンネルを変えようと、スマホを再起動しようと、ノートパソコンのタブを開き直そうと、結果は同じ。
――黒。
ただの暗転ではない。
ゆっくりと白い文字が浮かび上がる。
『日本のみなさん、こんにちは。私の名前はマーカス。ブラックハットです』
小さな子どもが、母親の服の裾をぎゅっと握る。
『私の名前はマーカス』
ざわめきが、まるで心臓の鼓動のように街全体へと広がる。
『ブラックハットです』
ビルの谷間にこだまする動揺と困惑の声。
病院のモニターに目を奪われる患者たち。
温泉旅館のロビーで、浴衣姿の宿泊客が顔を見合わせる。
映画館は「演出?」「事故?」とざわめいている。
無音の映像。
無慈悲に現れる文字。
『ハッカー、あるいはクラッカーと名乗った方が、みなさんにはわかりやすいでしょうか?』
「マーカス・ヴァレンタインだ」
誰かが言った。
それは有名なハッカーの名前だった。
彼に憧れてなりすます国際サイバーテロリストが出るくらい、腕のいいハッカーだ。
「なにやってんだ、あいつ」
彼のご主人様である葉室王司は、執事の暴走に唖然としつつ事態を見守った。
兄も執事も、自分の知らないところで何を始めたのだろう――と。