207:Happy Valentine's Day!
「銅親監督! リョウスケ先輩が体を張った熱演をしてくれたんです。ぜひ観てください」
「えっ?」
撮影データを銅親監督に渡してから、私たちは火臣家へ向かった。途中でコンビニに寄ってプレゼントも購入済だ。
火臣家の庭には、不特定多数が自由に寝泊りできる小屋があり、ところどころ地面に穴が空いている。
大きくて立派な家なんだけど、見た目も中身も変人の巣窟だよ。
「ただいまっすー。妹ちゃん連れてきたっすー」
パトラッシュ瀬川は、まるで我が家のような顔で家に入っていく。
「お邪魔しまーす」
挨拶して居間に入ると、記者たちが親戚のおじさんみたいな笑顔で歓迎してくれた。ここがパーティ会場か。
「おおっ、本当に連れてきたのか」
「やるなパトラッシュ」
テーブルには大人数用のご馳走とケーキが並んでいて、何人かは足元に缶ビールを転がしてソファで寝ている。
中にはノートパソコンで原稿を書いている記者も……おや、なんか今スルーできない文字が見えたぞ。
「やばいって。葉室王司さんが来たぞ」
そこのおじさん~?
何の原稿を書いているのかな?
話しかけちゃうぞ?
「わあ、お仕事中ですか? お疲れ様です」
「お、王司ちゃんっ。見ちゃだめだよ!」
慌てて隠そうとするけど、もう遅い。
「わあ~、『現代のロミジュリは監督宅のベランダが舞台!? 新人女優、葉室王司に監督相手に枕営業の噂?』『ドラマ制作チームと役者は倫理観に欠けていて空気が読めない』……?」
「わ、わあ~~!」
監督の自宅に行ったこともないのに、何書いてるんだ。
いたいけな新人女優をいじめて、悪い大人だな。
「ひどい……、私、監督のご自宅の住所も知らないのに。なんでこんな嘘、書くんですか? 名刺いただいてもいいですか?」
「ち、ちがうよ! これはリーク募集フォームから送信されてきたメールだよ。おじさん、ボツにするつもりだったんだ。怪しいリークがあったんだけどデマだとわかってるから、おじさんは採用しないよ!」
記者はメールを目の前で削除してくれた。お仕事お疲れ様です。
「では改めて、お邪魔します」
見た感じ、家主である火臣打犬は留守のようだ。
忙しいのか――最近、SNSも大人しいしな。
お誕生日会の主役である火臣恭彦は、なぜか料理を担当していたようで、台所からオードブルの皿を持って現れた。
恭彦はライトグレーのカシミア×シルク混のニットとブラックのスラックス風テーパードパンツにソムリエエプロンを着用していて、愛用のマグロのペンダントとファミリーリングが光っている。
明るい金髪は軽くエアリーなスタイリングで美青年オーラが凄まじいのだが、なぜかイロモノ感もあるのがこの兄の不思議なところである。
「葉室さん。お祝いに来てくださったんですか、ご多忙でしょうに」
「恭彦お兄さん、お誕生日おめでとうございます。これはバレンタインとお誕生日のダブルプレゼントなチョコです」
以前CMで共演したチョコのバレンタインバージョンを買ってきたんだ。
ひとくちサイズの可愛いチョコだよ。
「ありがとうございます。葉室さん」
恭彦はオードブルの皿をテーブルに置き、チョコを受け取ってくれた。
そして、テーブルに置かれていた缶ビールに視線を止めた。
「葉室さん。これはビールです」
見ればわかるよ、そんなの。
飲むなって言うんだろ。恒例行事だ。
「飲みません」
「葉室さんは飲めませんね。しかし、兄はこれが飲めるのです」
「うん?」
何を言われたのかと思って目を丸くしていると、恭彦は缶ビールの蓋をプシュッと開け、くいっと飲んでみせた。
もしかして今、私は見せつけられている?
マウントか?
「……ふう」
CMでも狙っているのか――恭彦が満足そうな顔で吐息を零すと、周囲から拍手が湧いた。
なんだこれ。ネットニュースにでもなるのか?
撮られまくっている……。
私もポーズ撮っておくか。ピースピース。
「葉室さん。このドリンクは大人マグロの飲み物です」
「あっ、はい。大人マグロ?」
「ドラマ撮影が大変だと聞いていますが、兄は応援しています。ひっく。何かあればこの兄を頼るといいでしょう。ひっく」
ほんのりと目元を赤くした恭彦は、気のせいか、微妙に偉そうになった。
まさか今のひとくちで酔ったのか。弱……。
記者たちが「このチョコCMのやつじゃないか。あれやってよ」と無責任な声をかけてくる。
カメラを向けられた兄はチョコを一粒私の口に運び、「俺はあげ専」とCMのセリフを再現してサービス精神を発揮した。
チョコは美味しかった。もぐもぐ。ごっくん。
「恭彦お兄さん。お酒はちょっとずつ慣れるといいと思います。いきなりいっぱい飲むと危ないかも」
「ところで、葉室さん。先ほど『監督の自宅でロミジュリごっこ』という記事がありましたが、大人に誘われてもノコノコと付いて行ってはいけません」
「付いて行かないです。ロミジュリごっこしてないです。あれ、デマですよ」
「ですが葉室さん。今日もパトラッシュに付いてきて我が家にいらしたのでは? そういうところですよ」
私はなぜ説教されているんだ?
解せぬ……。
「聞いていますか葉室さん。大人は油断ならないのです。隙を見せてはいけないんですよ。大事なことなんです……そもそも葉室さんは」
あっ、スマホに通知が届いてる。
八町から「今日はどうだった?」だって。
八町~、私は今、酔っ払い兄に絡まれてるよ~。
あ、あと、もうひとつ報告することがあったな。
葉室王司:今日、八町を殺したよ
八町大気:君は何を言ってるの?
「葉室さん。兄の話を聞いていますか。俺は20歳なんですよ」
「立派な20歳の大人マグロですね、お兄さん」
「そう、20歳の大人マグロなんです……なのにピカチュウの君がお祝いのファンレターを送ってくれないのですよ。もう別の推しを見つけてしまったのでしょうか。俺はどうして生きているんだろう……また調子に乗ってしまった。死にたい……ちょっと庭に穴を掘ってきます。ライフワークなんです、穴掘るの。それしか取り柄がないとも言う……俺は実はモグラなのかもしれない。ひっく」
いきなり憂うつモードにならないで。
八町~、このお兄さん、お酒飲ませない方がいいタイプなのかもしれないよ。
「ただいまー」
酔っ払いに絡まれながらスマホを弄っていると、家主の火臣打犬が帰宅したようだ。
よーし、そろそろ帰るか。
「私、裏口から帰りまーす」
記者さんたちが察した様子で「おじさんが肉壁になって隠してあげる」「おじさん時間を稼ぐよ」と笑ってくれる。
さすが、わかってる~。
「はっ。娘の匂いがする」
廊下から気持ち悪い声が聞こえてきた。
お前の鼻はどうなってんだ。最悪だな火臣打犬。
「王司ちゃん、お土産にケーキどうぞっす」
「ありがとうございます、パトラッシュさん」
パトラッシュ瀬川にケーキ入りの箱をいただき、私は無事に火臣家から脱出した。
帰宅してからスマホを見ると、火臣打犬が久しぶりにSNSを更新している。
火臣打犬:今日は息子きゅんの誕生日なので全世界に祝って欲しい
火臣打犬:それと、すごいことを発表する予定があるかもしれない
火臣打犬:なんだと思う?
――『ファン(アンチ)の反応』
:引退かな?
:週刊誌にドギツイ不倫ネタがリークされたのかな
:ついに息子さんと結婚ですか
:マジレスすると娘が自宅に来てたよっていう喜びの報告だと思う
:もったいぶっちゃって……
:打犬さん♡子供ができました♡
:打犬さん! ↑この女誰よ! 本命は君だけだよって言ったのに!
:彼の本命は俺だよ
:恭彦君ハッピーバースデー!
:妹ちゃんとのツーショットが公開されてるぞ
:仲良し兄妹だねえ
:ビール飲んでる
:王司ちゃんの顔がなんか羨ましそうで草
:妹ちゃんにはまだ早いね(笑)
:王司ちゃん可愛いな
SNSはいつも通り賑わっていた。平和だなー!
あ、そうだ。
恭彦に改めてメッセージを送っておこう。
葉室王司:恭彦お兄さん、メッセージでもお祝いしておきますね
葉室王司:お誕生日おめでとうございます!
葉室王司:お酒はほどほどに
恭彦からは、モグラのスタンプが返ってきた。
火臣恭彦:ありがとうございました
火臣恭彦:俺は今日からモグラになります
マグロの次はモグラか。
相変わらずよくわからない感性だ。
葉室王司:お兄さんは、チワワも似合うと思いますよ
「王司、お友だちからチョコが届いているわよ」
「えっ」
私がスマホで遊んでいると、ママがチョコを並べてくれた。
ほう。こっちはアリサちゃん。こっちはカナミちゃん……あれ、これって送り合うやつ?
私も送った方がいいのでは?
グループチャットを見ると、二人とも「ハッピーバレンタイン!」とチョコの写真とメッセージを送信していた。
三木カナミ:あたしのチョコは「はじけるキャンディチョコレート」!
三木カナミ:本当は手作りに挑戦しようとしたんだけど
三木カナミ:うまくできないから買っちゃった
高槻アリサ:私はお兄ちゃんとデートして選んだよ
高槻アリサ:週刊誌の記者さんが写真撮ってきたから二人で一緒にピースしてあげた
三木カナミ:草
三木カナミ:それは何の記事になるの
高槻アリサ:わからない!
高槻アリサ:記事楽しみにしてますって言っておいたよ
わあ、わあ、話が弾んでる。私もチョコ買いトークしたいよ。
「王司。ママとチョコ選びデートする?」
「する!」
葉室王司:二人とも! チョコありがとう!
葉室王司:私、これからママとチョコ買いに行くよー!
二人に宣言して、私はママに連れられて銀座に行き、ピエール マルコリーニで初めてのチョコ選びをした。
LOVEジュエル7の全員で食べる用と、ママと一緒に食べる用。セバスチャンにも分けてあげるよ。
ポーチがおまけについているチョコがあったので、アリサちゃんとカナミちゃん、自分用にゲットした。
3人でお揃いポーチだ。やったね。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
――『おまけの八町大気』
葉室王司:帰る途中でポケモンのチョコを見かけたから、火臣家に送っておいたんだ
葉室王司:ピカチュウがどうとか言ってたし喜ぶだろうって思ってさ
「江良君。僕には……?」
震える指が文字を入力しかけて、止まる。
『僕もチョコがほしかった』……その一文を書くと、自分の中の大切な何かが失われる気がしてならない。
江良君。
僕は。僕は。僕は、君からの特別扱いが欲し、
葉室王司:あ、寝る時間だ
葉室王司:おやすみ八町
あ、ああっ……。
親友はこちらの気持ちを知らずに眠ってしまい、僕は一人寂しく枕を濡らした。
これでいい。
これでいいんだ。
しかし、夜明けとともに我が家に配達員がやってきた。なんと配達員は、親友からの贈り物を届けてくれた。
「こ、これは! チョコレートではないか!」
え、え、江良君……!
君ときたら、人たらしな真似をして。
油断させておいていきなり贈ってくるんだ。
僕の情緒を弄んでぐちゃぐちゃにして、いけない子だよ……!
「ガナッシュ ピュール、5個入り……か」
SNSをチェックすると、娘からチョコがもらえなかった火臣さんが「中学生の娘ちゃんはパパいやーんってなる年頃なんだ。俺は詳しいんだ。健全な発育に乾杯」と強がっている。ふっ……。
本日は天気快晴、白雲は穏やかに大空を流れていく――麗しい朝だ。
実に紅茶が美味しい。実の父親がもらえなかったチョコを、僕はもらえたのだ。
それではチョコをいただこう。
ハッピーバレンタインだ!
ベランダの銅親監督「妻からバレンタインチョコがもらえませんでした」