番外編:八町大気は文学少女なのかもしれない!
番外編書いてみました
46歳の八町大気は、ある夜、女子になってしまった。
八町(女子)は震える手で親友である江良に電話をかけた。
つけっぱなしのテレビがACジャパンのCMを延々と垂れ流している。
『え~~し~~♪』
『八町~? 今、寝るところだったんだけど?』
「え、え、江良君。た……大変だ。僕が本格的に……『おいたわしい』かもしれない」
八町は混乱しつつ、経緯を話した。
『え~~し~~♪』
新作の映画撮影が進行中の、とある夜の出来事である。
江良が出演するドラマほどではないが、八町のドラマもなかなかに余裕のないスケジュールとなっていて、八町は日中に撮影した映像データを確認しながら構成を練り直し、絵コンテの修正作業をしていた。
「そして、気づいたんだ。なんか僕の体、ピチピチギャル(死語)じゃないか、と……!」
『え~~し~~♪』
鏡を見ると、江良君もびっくりのキャワワな美少女が映っている。
丸みを帯びた頬がぷるぷるで、触り心地がとてもいい。まつ毛も長くて、目がウルウルのキラキラだ。
『八町、声が変だね。話してる内容も変だけど』
『え~~し~~♪』
「そうなんだよ。本当に僕はおかしいんだ、江良君」
喉に触れると、喉ぼとけが消失している。
「江良君、大変だ。僕の喉ぼとけが家出してしまった」
『喉ぼとけもたまには外出したいのかもしれないね』
「江良君。僕、結構可愛いんだ。世界で一番お姫様な気分だよ」
『うん、うん。八町は世界一だよ』
あと、僕(女子)、若いぞ。
何歳くらいだろう?
なかなか発育がいい。高身長わがままボディだ。
さすが僕。自分の好みの外見だ。
自分でなければ「理想の嫁」と呼んで赤い薔薇を贈ったかもしれない。
『え~~し~~♪』
服装はいつもの白衣なのだが、胸のあたりがふんわりと盛り上がっているさまが、いとをかし。
清少納言がいたら、きっと枕草子に書いてくれただろう。
『八町大気の胸のあたり、ふくらみたるさま、いとをかし。
ささやかにあれど、なよやかに心地よき衣を押し上げて、ふんわりとたゆたふ。
その様子、春の花の蕾ほころびて、かすかに風に揺るるがごとし。
まことに艶やかにして目を喜ばし、また、袖越しに手触りなど感じやせむと思ふも、つつしむべきかは、と惑ひたる心のわびしきかな……』
すーっ、と息を吸い、はーっと吐くと、胸が上下する。
自分の体だって感じがするのだが、あまり見てはいけない気がする。自分の体なのだが、「犯罪だ」なんて思ってしまうのである。
触る勇気は……実はある。ふにふに。
「柔らかいんだ、江良君。僕の胸部が大変、高い柔軟性を誇っている。力を入れると若干、痛む。これより服の内側に手を入れて確認してみようと思う……これなら紫式部に勝てるぞ」
『八町? こっちは明日も撮影なんだけど。もう寝る時間なんだけど……それ、寝言? 実は八町、寝ながら電話してたりする?』
『え~~し~~♪』
親友である江良は、僕の心をわかってくれない。いつも――いつもだ。
「江良君っ。僕は……っ」
『ごめんね八町。本当にもう寝ないといけないから。また明日。おやすみ』
46歳の男性であるときは「僕は大人だからな、お兄さんだからな」と我慢していたが、今の僕はメスガキ(推定)だ。
ゆえに、物申そう。きっと許される。
「江良君はわかってないよ。僕のハートは繊細なんだ。今、僕はギャルなんだよ? もっと優しくしないといけないよ。どうしてわかってくれないんだ? 僕はこんなにひとりで寂しい夜を過ごしていて、ついに女の子になっちゃった! 僕は君がおんにゃのこになっても、すぐにわかったし受け入れた! それなのに君は!」
――くっ。電話がもう切れてるじゃないか!
寝る時間か?
そうだな、君は中学生で、睡眠をちゃんと摂取しないといけないな。
明日も早いのだろう。
おやすみ江良君、ゆっくり休んでくれたまえ。
『え~~し~~♪』
スマホを見つめていると、特徴的なCMフレーズが聞こえてきた。
作業用画面の近くに置いてある薄型テレビから聞こえるのは、親の説教よりも多く聞いたACのフレーズだ。
テレビ局は、ACのCMばかりが流れるようになっている。
『え~~し~~♪』
そんなAC続きのCM枠に、突如として異物が混入された。
それは、自社の番組宣伝――に見せかけた、もっとエグみのある何かだった。
『監督は朽木ルキアと脳内で結婚しています』
生真面目な顔で言う銅親絵紀は、役者たちに号令をかける。
『卍解ッ』
な、なにをやってるんだ。銅親君……。
僕の現実が本当におかしい。
先ほどまで「僕、可愛い」と不思議なハイテンションになっていた心が、じわりじわりと沈んでいく。この落ち込み沼は底なしだ。いけない、浮上しないと恭彦君になってしまうぞ。
「こんなときは夏目漱石先生にあやしてもらおう。僕には夏目漱石先生がついている……」
錯乱した八町が頼ったのは、読書であった。
本棚に整然と並ぶ宝物の中から一冊を取り出すと、夏目漱石先生は優しく八町の心を抱擁し、坊ちゃんの世界へといざなってくれた。現実逃避は最高だ。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
教場がざわめいている。
妙な雰囲気が漂う中、控所に入ると、教師たちがずらりと並び腰をかけていた。
皆、妙齢の女性教師が入室したのを見て、一斉に視線をこちらに向ける。
なるほど、これが女子教員の宿命というものか。見世物でもあるまいし。
心中で呟きながらも、冷静に職務を全うする所存である。
順に辞令を配り、挨拶を進める。
教頭のなにがしという男に差し掛かった時、おれ……いや、わたくしは一瞬息を呑んだ。
彼は、派手な襦袢の上に真っ赤なシャツを纏っている。
加えて、うら若き乙女のような甘い声で話すのだから、どうにも油断ならぬ人物である。
否――うら若き乙女は、わたくしだ。
この赤シャツは、さてはこの学校の有力者であろうか。
ならば、わたくしは、赤シャツと権力争いをし、この学校に咲き誇る一輪の清楚なお花……『姫』を目指そうか。
――姫教師に、わたくしはなる!
そんなわたくしの目論見を知らず、赤シャツは立ち上がり、柔和な笑みを浮かべながらわたくしに歩み寄る。
「八町先生、ご丁寧なご挨拶、感服しております」
その声が妙に耳に残る。
わたくしは軽く会釈をするが、赤シャツは両腕を広げて何かを待つ姿勢である。わたくしは嫌な予感を覚えた。
「八町先生は、実に風雅な立ち振る舞いをされますなあ。いやはや、われわれ男共には到底及ばぬ気品と申しますか――まことに、春風のごとし」
どうやらこの男、口説くつもりではなかろうか。
「そうでしょうか。教師というもの、厳格であるべきと心得ております」
わたくしがそっけなく返すも、赤シャツは意にも介さぬ様子で、さらに言葉を重ねる。
「いやいや、そんな冷たくせぬよう。わたくしなど、八町先生のお姿をひと目拝見しただけで、心が暖かくなりましたぞ。そう、まるで愛の花が咲き誇るかのように」
何が愛の花だ、ばかばかしい。
わたくしは目を伏せつつも、心中では冷笑していた。
「それにしても、八町先生はお若い。まさか我が校に、これほどの名花が咲き誇るとは――いや、失礼、これは教師同士の社交辞令というものですぞ」
「さようですか。では、ご挨拶も済みましたので、失礼いたします」
そう言って場を去ろうとすると、赤シャツはわたくしの前にすっと立ちふさがる。
「ぜひとも、今度のお休みの日には、校外でお話を――」
この誘いには、流石に我慢の限界が来た。
「赤シャツ先生、これは校務でございますか? お話をされるのでしたら、授業の進行に関する事項をお申し付けくださいませ」
わたくしがピシャリと言い放つと、相手の顔がわずかにひきつったのが見えた。
しかしそれも一瞬、再び笑顔を浮かべた赤シャツは、余裕綽々たる態度でわたくしを見送った。
教員控所を後にすると、体操教師である火臣がわたくしに声をかけた。
「おい八町君、あいつには気をつけた方がいいぜ。ああ見えて、女好きで通ってるんだ。ごほん、ごほん」
「心得ております。次は容赦なく、赤い襦袢ごと討ち取りましょう」
火臣が「おお怖ええ! ごほんごほん」と笑いながら咳をして去って行く。体操教師のくせに、体調不良か。
それにしても、あの赤シャツの調子の良さには辟易した。
清少納言なら、きっとこう書くだろう。
『赤襦袢の男の言い寄りたるさま、いとをかし。さもなき事を春風に例え、無理難題を申すも、心知らぬふりにて教師の矜持守るこそ、いとあはれなれ』
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
「監督……八町監督…………」
「……はっ」
目を覚ますと、撮影現場であった。
おや?
僕は今、眠っていたのか。
「お疲れのご様子で……急に気絶するように意識を失われて、なかなか目を覚まさないので心配しておりましたよ」
目を擦り、現実に意識を慣らしていく。
「うぅん……僕は……今ちょっと女の子なんだ……」
「や、八町監督?」
目の前には、自慢の制作チームメンバーと優秀な役者たちが揃っている。
「ここ数日、根を詰めていたから睡眠不足で……本当にすまない。眠ってしまっていたんだね。心配をかけてしまって……」
ぺたりと自分の胸を触るが、そこには平たい胸板があるのみだ。
「ふう……僕は男子だね」
「監督。あなたは男性です……」
ざわざわとした声が現場にあふれる。しまった。いささか失言だったね。
「おいたわしい……」
「これが我が国が誇る『世界の八町大気』か……」
現場の士気にかかわるので、健全な姿を見せないといけない。
説明しよう。ただちょっと夢を見ていただけなんだよ、と。
「違うんだ、みんな。聞いてくれたまえ。僕は今、脳内で新たなインスピレーションを得たところだったんだよ。自分が女の子になるという、なかなか刺激的な夢だったのだが、江良君はわかってくれなくて電話を切ってしまったんだ。僕は淋しくて、夏目漱石先生の本を手に取った。そして……」
夢の話を詳細に語り終えたとき、現場のメンバーは「もうお休みください」と言って涙を流していた。
別に、泣かなくてもいいのに。僕、そんなにおいたわしい?
八町大気:江良君。君はどう思う?
親友にメッセージを送ると、江良はすぐに返事をしてくれた。
葉室王司:おいたわしい