190、蝶と太陽
クリスマスが過ぎると、今度は年末ムードが増してくる。
私は約束通り八町の撮影現場にお邪魔した。
この日の現場は、八町の家だ。
八町は白衣を翻して出迎えてくれた。
「江良く……王司さん。よく来たね。中学校は冬休みだっけ。テストはできたかい?」
「うん、うん。問題なくできたよ」
「素晴らしい。僕のエースが優秀で結構」
八町は保護者のような顔をして、視線を私の同行者に向けた。
私が連れてきたのは、チョコレート色の髪が特徴的な美少年――円城寺誉だ。
「撮影現場の見学を許可してくださって、ありがとうございます」
「いつもお父様にお世話になっています」
確か、円城寺の父親が重役を務める会社は八町の映画のスポンサーだ。
八町はお接待モードで見学用のこたつに案内してくれた。みかんのいい匂いがするよ。
「あれ、よっくん」
見学席には、二俣夜輝が座っていた。
こちらもスポンサー令息として来ているらしい。
二俣はみかんの皮をむきながら、ふんぞりかえった。
「ふん。お前たち二人きりで絆を深めるつもりだった様子だが、残念だったな。まあ俺のことは気にせず好きにくつろぐといい」
なんか機嫌が悪いな。
さては、ニコイチコンビの円城寺が取られると思って嫉妬しているのだろう。
ちなみに、今日の撮影現場には主役がいない。
代わりに西園寺麗華が演技をしている。相変わらず、見ていて安心感のある演技だ。
それにしても、みかんをいただきながら鑑賞していると、「私はなぜニコイチコンビとこたつで温もっているんだろう」という疑問が湧いてくる。
「よっくん。幽霊が映るカメラって見た?」
「誉もオカルトを確認しに来たのか。そうだと思った」
二俣は円城寺に話しかけてもらえて嬉しいのだろう。
雑談するうちに、目に見えて機嫌を上昇させている。
そういえば幽霊の件で来たんだった。
思い出したので、カメラマンさんを教えてあげよう。
「カメラマンの田中さんは、あの方ですよ」
「ありがとう。幽霊、映っているのかな……?」
私がカメラマンさんを教えてあげると、円城寺はカメラを覗ける位置へと移動した。
一緒についていくと、当然のように二俣もついてくる。
お仕事をお邪魔しないように気をつけながら覗き込むと、カメラには黒くモヤモヤした幽霊がばっちり映っていた。
もうみんな慣れた様子で、幽霊が映っていても「問題なし」って感じだ。
八町はあの幽霊を江良だと言っているが、田中さんはそれを信じているのだろうか?
「田中さん、すみません」
田中さんは社会見学に来た子供を見るような目でこちらを見た。
そして、一瞬だけ傷付いたように表情を歪ませ、サッと顔を逸らして表情を大人の仮面で取り繕った。
ああ、息子の友達が目の前に来ると、やっぱり辛かったりするのかな。ごめん。
私が黙った隙に、円城寺が尋ねた。
「あの、この黒いもやもやって幽霊だってネットニュースで見ました。しかも田中さんのカメラにしか映らないって記事に書いてあったんですけど本当ですか?」
「……そうだね。本当だよ。おじさんは江良九足さんと一緒に仕事をした経験が何度もあるから、きっと安心して映りに来てくれるのかな。光栄だね」
田中さんは明らかな動揺を見せた。
さてはこの人「もしかして幽霊は息子なのでは?」と思っているのではないだろうか?
「八町先生~」
私は八町を呼んだ。八町はのほほんとした笑顔で近づいて来る。
「どうしたのかな、王司さん?」
「八町先生、私たち、あの幽霊が江良さんではないと思うんです」
じっと八町を見上げると、八町はこちらの言わんとすることを理解した様子だった。
「あー、それね……」
「それです」
見つめ合うこと、しばし。
八町はふっと脱力したような微笑を浮かべた。
「そうだね」
周囲には他の人もいる。
それもあってか、八町は言葉を選んでいた。
「僕も、もしかしたら違うのかな~なんて、最近思うようになったんだよね。でも、だとしたら野良幽霊ということになるのかな。お祓いとかした方がいいのかな?」
「八町先生、私たちは思うんですけど、あの幽霊って、田中たけし君っていう子じゃないかなって。カメラマンさんのお子さんで、私や円城寺さんのお友達でもある子です」
「え、そうなのかい……?」
八町はさすがに心を痛めた様子で、気づかわしげな視線をカメラマンの田中さんに向けた。
カメラマンの田中さんは、八町に視線を返すことなく、カメラに映る『幽霊』を見つめている。
「……」
空気が張りつめていて、誰もなにも言えない。
そんな中、『幽霊』は、形を変えた。
なんだか、人の体で右手を「そう、その通り」みたいにブンブン振っているように見える。
あんまり怖くない幽霊だ。
田中君、ブログ見た感じ、すごくいい子だしな。手を振り返してみようかな?
私が手を振り返していると、幽霊に近づいた円城寺が「田中君」と声をかけた。
「田中君だよね。僕のことわかる? 君ってさ、お父さんのお仕事を見に来てるの? 江良さんだと言われてるけど、お父さんは君のことをわかってくれてるっぽい。それが君もわかってるんだ。そうだろ」
幽霊は体を上下に動かしていた。
多分あれ、「うんうん」って頷いているんじゃないかな。
円城寺はおっとりと幽霊に話しかけた。
「僕ね、君のことを友だちだと思っているよ。僕、君に……ごめんねとか言わないからね。だって僕、別に謝るようなことは何もしてないから。僕のことをブログに書いていなくて、ちょっと寂しかった。……じゃあね」
円城寺はそう言ってカメラマンの田中さんの後ろに回った。
呼吸音を立てることすら遠慮してしまう、痛いほどの静寂。
それを、田中さんの震える声が破った。
「たけし」
田中さんが嗚咽しながら息子の名前を呼んだ。
「お父さんのカメラに、映りに来てくれてるんだな」
その瞳に涙が溢れる。
今までどれだけ息子の名前を呼びたかったことだろう。
田中さんは涙を拭う余裕もなく息子に話しかけている。
「お父さん、お前がいなくなって寂しいし悲しいし辛いよ。お前のことが、大好きだから……」
幽霊の田中君はそんな父親にペコリと頭を下げたようだった。
八町が神妙な顔で見守っている。
お前、そのまま大人しくしていろよ。大人なんだからさ……。
「会いに来てくれてありがとう。お父さん、嬉しい。お父さんな、八町先生といつもこんな風に映画を撮ってきたんだ。これからも撮り続けるんだ」
父親の声に幽霊の田中君は、ふわふわゆらゆらと全身を揺らした。
言葉はなかったが、暖かいな、と思うような雰囲気だった。
そしてしばらくしてから、田中君は両手を「バイバイ」というように振り、お辞儀をした。そして、その輪郭を小さく濃縮するように縮めていった。
「……あ」
蝶々だ。
小さくなった田中君は、黒い蝶々にその姿を変えた。
そして、窓から外へと出て行った。
ひらりと曇り空に飛翔する姿は、なんだか自由な感じがする。
きっと、これでお別れなんだろう。
そんな予感を胸に空を見上げると、空の高いところで黒い蝶々は二匹の白い蝶々に迎えられた。
あれって、もしかしてマーカスと王司ちゃんだったりするんだろうか。
私が今なにか言ったら、リアクションを返してくれたりするんだろうか?
「あの……」
空に向かって、声を放つ。
周りには人がいる。
なので、言葉は選ぼう。
「私、たくさんの人のおかげで今を生きています。そのことに感謝しています」
白い蝶々の片方が、少し高度を下げて近づいてくる。
淡く発光しているような、幻想的できれいな蝶々だ。
この子、たぶん、王司ちゃんだ。
「友達ができました。家族と仲良くなりました。お芝居も楽しんでいます」
胸の前で両手を握り、声を小さくして蝶々に向かって語りかけると、蝶々は私の手にふわりと止まった。
神聖で汚れのない感じがして、自然と背筋が伸びる。
蝶々は、ゆったりと翅を動かした。言葉もなく、ジェスチャーにしては頼りない。
その動きは、優しく感じられた。
この体で生きる後ろめたさが、蝶々に許してもらえたような――そんな気がした。
「……ありがとう」
そっと心からの言葉を吐息に混ぜると、白い蝶々は私の手からさっと飛び立った。
まるで、未練なんてなにもないって言うみたいに。
自由な身を喜び自慢でもするかのように、空を飛び回った。
しばらくしてから、蝶々は仲間たちと一緒に、雲の隙間に消えていった。
「よくわからなかったが、オカルトだったな。やはり怪奇現象というのは存在するんだな」
見学を終えて撮影現場から帰ろうとしたところ、二俣は生真面目な表情で語り、私と円城寺を自分の家の年末パーティーに誘った。
何気ない風情を装っているけど、必死な感じだ。
こいつ、実はパーティに誘う目的だけで撮影現場に来ていたのでは……。
「年末はおうちでゆっくり過ごそうと思っていたんですけど、ちょっとだけでよかったら顔を出します」
可愛げを感じた私は、つい誘いを受けてしまい、パーティに顔を出す予定が増えてしまった。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
――【黒田太陽視点】
チェキ会で逮捕された男は、本名を黒田太陽という。
彼は、自分の人生が「詰んだ」と感じていた。
思えば、少しずつ詰みに向かって進めてきた人生ゲームだった。
例えば、馬券を買って外すとか。
ちっともわからない難しい勉強に背を向けてゲームに明け暮れていたら、ますます勉強がわからなくなったとか。
結果、資格試験や就職の面接に落ちたり、遊ぶ金がなくなったとか。
そんなちょっとした因果応報の積み重ねが、人生を下り坂にしていったように思う。
そして、その下り坂を一気に急な角度に変えたのが、円城寺善一という男との出会いだった。
太陽が飲み屋で友人を殺したときのことだった。
その夜は久しぶりに同級生の友人グループで集まり、飲み会をしていた。
太陽は前夜にゲーム配信をしていた。
弱小配信者で、リスナーが一桁しかいない。配信していれば増えるかと思ったが、まったく増えない。配信を始めて1年経っても収益化もできず、まったく楽しくないし儲からない。やりがいもなく、ゲームが上手いわけでもなく、なにも良いことがない。そんな配信だった。
「コメントが来たら雑談して盛り上がれるんだよ。でもお前らコメントしねえじゃん? コメントがないのに延々と独り言トークすんの、難易度高いだろ。女配信者の囲いみたいに俺をちやほやして褒めたり話題振ってくれるコメントがいれば、俺だって楽しくトークできんだよ」
キレ気味に愚痴を言うと、元から少なかったリスナーが無言で去って行った。それにカッとなり、配信を終えた。
自分はなんて可哀想で、世の中はなんて優しくないのだろう――そう思っていた。
「嫌なことがあったんだ。あと、金がねえ」
友人たちにむすっとして言うと、友人たちは優しく「そんな日もあるわな」「どんまい、飲んで気晴らししようぜ。奢るよ」と言ってくれた。
太陽は「金がねえし、帰ってゲームしてえ。こいつら人生楽しそうでむかつく」と思いながら、友人たちが奢ってくれる串焼きを頬張った。「食うだけ食って、帰ろう」と思っていたとき、太陽の地雷は踏み抜かれた。
「俺さ~、試験に合格したんだ。三回も落ちてさ。ようやくだよ。頑張った……しんどかったぁ~~やっとだよ~」
喜びの報告をする友人がいたのだ。
確か、「家庭の事情で進学を一度諦めたものの、働きながら勉強し、某大学を受験。三回落ちた末に、ようやく合格した」という友人だった。
仲間たちは友人に「おめでとう」と言った。
太陽が内心で「こいつは俺より人生終わってる」と見下していた相手だった。
そんな相手が喜んでいるのが面白くなくて、妬ましくてたまらなかった。自分は辛いのに、幸せ自慢しやがって。くそが。
「俺がこんなにうまくいっていないのに。俺の目の前で成功の報告をするとかさ、ありえないだろ。性格が悪い。喧嘩売ってる。むかつく」
太陽は、拳を固めて相手を殴りつけた。
自分が正義だ、と思いながら。
相手はびっくりした顔をして倒れこんだ。しかも、近くにあった机と椅子を巻き込んで、かなり派手に転がった。
油断してたな。俺は気に入らなかったら制裁するんだよ、間抜けヅラめ――「痛い目に遭わせてやった。ざまぁみろ!」と、胸がスッとした。
相手は、倒れてそのまま動かない。
大げさだ。さっさと起きて俺に謝れ――太陽は蹴ってやりたくなった。
「――おい! しっかりしろ!」
「太陽! お前、なんてことを!」
周りにいた仲間たちは太陽を非難し、倒れた友人に駆け寄った。
なんと打ちどころが悪かったようで、友人は――。
「し、死んでる」
「きゃあああ!」
「心肺蘇生! 救急車!」
――大騒ぎになり、救急車で運ばれて行ったが、友人は助からなかった。
は? てめぇ、俺が悪いのか?
なんで死んでるんだよ。俺を加害者にすんなし。
俺は被害者だぜ。今だって、周り中からいじめられている気分だ。
太陽はパニックに陥りながら、強い被害者意識を抱いた。
「み、みんな。俺を責めるなよ。いいか、教えてやる。俺は不幸で辛い。だから俺は悪くない。俺に配慮すべきだ。わかるか? 勝手に死なれて俺が悪いということにされるのは迷惑だ。俺は不快に思ったから相手を殴っただけだ。俺に不快に思われるようなことをして殴られて、勝手に転んで死んだ相手が悪い。あ、あ、当たり前だろ。殴った俺を悪いと言うのは間違っている。俺は悪くない。なんでわからないんだ、頭が悪いな。俺はかわいそうな被害者だ。なあ、そうだろ。わかれよ」
周囲の「こいつ、頭がおかしい」という目が腹立たしい。
相手が死んだせいだ。むかつく。
「ずるくねえか? あいつ、俺を刺激して怒らせてさ。俺が怒ったら死にやがってさ。俺を悪役にしやがる。わざとだ。陰謀だ。忌々しい、引っかかっちまった。うまくやられたよ。胸糞悪い。これがわかんねえの、頭悪いよ。みんな、わかってくれよ」
「なにを言ってるんだ」「お前、おかしいよ」とか誰かが呟くのが、不快でたまらない。
ああ、俺は加害者だ。人生が終わる。当たり前の帰結だ。
わかってるよ、俺は終わりだよ、くそったれが――泣きたい気分になった太陽を助けてくれたのが、円城寺善一だった。
「ナハハ。君は面白い主張をするね~。その気持ち、わかるよ。君はどんどん人を殴ってイイっ。殴られた相手が悪いのさ! 君が殴ることについて文句を言う人は間違っている! 相手は死んでしまったんだから、生きている君の心を守るべきだよね。俺はぁ~、そう思うよぉっ♪」
何を言ってるんだ?
やべー奴じゃん。
自分を棚に上げて、太陽はドン引きした。
しかし――なんか、味方してくれて、守ってくれるっぽいぞ?
相手は明らかに異常なことを言っているが、常識の枠の中にいては、自分は断罪されて終わるだけだ。
こいつとつるむ方が、自分にメリットがある。
「そ、そうだ。この人の言う通りだ!」
「ナハハ。俺は聞いていたけど、倒れた人って、酷いことを言っていたよね。太陽君にさ。生きてるのが恥ずかしくないのかとか、なんで同じグループにいるんだ、出て行けよとか」
「へっ?」
そんなことは言われていない。
けれど、「言われた」ことにできるのが、円城寺善一だった。
「ナハハ……倒れた人は、太陽君を殴ろうとした。でも、太陽君は避けた。すると、彼はバランスを崩して倒れた。そして勝手に死んじゃった」
そんなわけはない――なのに、数日後、それが真実だと世間に周知された。
居合わせた人はみんな、「おかしい」「真実はそうじゃない」とわかるはずだ。
だと言うのに、みんな口をつぐみ、目を逸らし、「そうなの?」と問われれば「そうです」と答える。
まるで現実が嘘のシナリオで塗り替えられていくようで、太陽は増大する嫌悪感と違和感を飲み込むのに苦労した。
気色の悪い嘘のシナリオは、太陽を守ってくれるシナリオだったからだ。
円城寺善一は、こうして太陽を無罪にしてくれた。
故人は最低の人間性だったことにされた。
暴言を吐いて暴れたのち、勝手に転び、打ち所が悪くて死んでしまったことになった。
誰も故人に同情しない。
伝えられた虚偽の情報を真実だと思いこみ、深く考えることも調べることもなく、「へえ、そういう出来事があったのか」と呟いて、過ぎ去りし過去として処理する。
……自分にとって都合がいいはずなのに、自分の中のなにかが「嫌だな」と反発した。
おかしな現実だ。
世の中は腐っているし、大衆は盲目で、愚かだ。
1年。2年。3年。
その思いは、年々強くなっていった。
――そして、円城寺善一が逮捕され、チェキ会で事件を起こした太陽もまた、捕まった。
「一番愚かなのは、俺か。ずるずると円城寺善一と付き合い、クズな人間性をよしとする仲間うちで骨の髄まで腐り切って……」
ついに「事件を起こさねえと問題視すらされねえのな。起こしてやんよぉ!」と事件を起こし、逮捕されたのだから。
やっとだ。やっと罪人になれた。
そこまで考えて、自分の心に気付く――俺は、自分が捕まるべきなのに放置されている不条理な現実が気に入らなかったんだな。
誰がどう見てもどうしようもないドクズな加害者の自分が守られ、なにも悪くないのに突然の暴力で命を奪われた友人がクズのレッテルを貼られて事故死扱いされた。誰も「そんなのだめだ」「おかしい」と言う者がいなかった。
それで何年も経過してしまい、「ほっとけば本当に真実は闇に葬られたままなんだろうな、永遠に」という失望みたいな思いが心に濃く影をもたらした。
世の中終わってんな。
こんな現実、だめだろう。
ちゃんとしろよ社会!
助けてもらったくせに、嫌悪感でいっぱいになってしまったのだ。
歪んだ正義感が拒絶反応を起こして、時間が経てば経つほど、許せなくなっていった。ちょっとしたことが全部ストレスに直結して、自分や他人への破壊衝動が高まっていった。
苦しかった。終わらせたい、と思った。結果、事件を起こし、捕まった。
さて、現在、円城寺善一は起訴済みで裁判中。拘置所に収容されていると聞く。
チェキ会で逮捕された黒田太陽は、薬物犯罪という罪状の関連性や管轄区域の点から、円城寺善一と同じ拘置所に収容された。
以前、下されなかった正しき審判が、ようやく下される。
自分が悪い、世の中が悪い、全部悪い。円城寺善一も悪い。
……円城寺善一は、かなり悪い。だいぶ悪い。めちゃくちゃ世の中に迷惑だと思う。諸悪の根源レベルで悪い。あいつが悪だ。悪魔のような奴なんだ。
噂によると、円城寺善一は後悔の念を抱いているらしい。
太陽からすると「なんだそれは」と言いたくなる話である。
おそらく、裁判で心証をよくするためだろう。
奴に人生をぐちゃぐちゃにされた人が、何人もいる。
不正義の種をばらまいて胸糞の悪い現実を作り、楽しんでいた悪魔のような男が、後悔なんかするかよ。
てめえは極悪人だ。
人の心がないクズだ。悪魔だ。
悪魔としてこの世の中から退場しろ。……俺がそうさせてやる。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
拘置所内が静寂に包まれた深夜、突然、館内全体が暗闇に包まれた。
停電だ。
非常灯がぼんやりと灯り、警備室から焦った声が聞こえる。
「停電か? こんなタイミングで……」
「監視カメラが止まったぞ。点検班、早く確認しろ!」
混乱の中、管理区域の一角で、円城寺善一が黒田太陽に接触されて、驚き混じりの声を零した。
「太陽君。久しぶりじゃないか、ナハハ。誰も見向きもしない、みんな俺のことを忘れてしまったって思ってた……協力者がいるのかい? 嬉しいな、嬉しいなあ。味方なんて誰もいなくなったと思っていたよ……今、何が起きてる?」
「いいから黙ってついてこい」
「脱走するのか? できるのか? 誰が協力してくれているんだ? ……なぜ刃物を俺に向けるのかな、ナハハ?」
困惑の声が不安の影を濃くしていく。
「おいっ。意味がわからない。俺は、君の恩人だろ? なんで――や、やめろよぉ……?」
「この世がいかに不条理で、どれだけの矛盾で溢れているか。俺みたいな人間がそれをちょっとでも変えられるなら、最高だとは思わないか? 俺はクズでどうしようもなくて、何してもうまくいかないけどさあ。法が裁かない悪魔を、お、俺が。俺が……」
黒田太陽が円城寺善一に向かって突進する。うおおお、という雄叫びは、相手を威嚇すると同時に、自分を奮い立たせるためでもあった。
「ひぃ!」
円城寺善一は恐怖を浮かべ、必死で刃を避けた。そして、バランスを崩して倒れ込んだ。
その体に覆いかぶさるようにして、太陽は悪魔の首に刃を突きつけた。
「うぎゃっ」
「はぁっ、はぁっ……俺はお前を許さない。ここで会えたのが最後だ。……俺が裁いてやる。死ね。お前は俺のボスで、黒幕だ。俺を呼び出して脱走を企て、俺と揉めて自滅した悪人として死ぬんだ」
悪魔が標本みたいに床に縫い付けられて、怖がってら。
震えあがり、「やめろ、やめろ」と懇願する円城寺善一を見下ろし、黒田太陽は「自分の人生はどうしてこうなってしまったのか」と自嘲した。
どん底まで落ちた人生を振り返れば、幸せな瞬間だってあった。
友人と買い食いしたり、ゲームしたり、励まし合ったり……ああ、あいつを殺したのは、俺なんだ。あいつ、名前なんだっけ。
「や、やめろ。太陽君! いやだ! よせ――いやだぁっ……!」
お前、なにも悪いことしてなかったのに。やっと努力が報われたところだったのに。
「――……」
ごめんなあ。
俺、壊れちゃって。
もう、お前の名前も思い出せねんだわ。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
年の瀬も押し迫ったある日、多くのニュースが飛び交う中、拘置所でのショッキングな出来事が世間を震撼させた。
ニュース番組の画面には、キャスターが険しい表情で映し出されている。
「本日未明、拘置所内で発生した事件について速報です。収容者である円城寺善一と、新たに収容された黒田太陽の両名が、相打ちの形で死亡しているのが発見されました。捜査関係者の発表によると、拘置所内で何者かの手引きによる停電が発生しており、これが脱走未遂に繋がった可能性があるとのことです」
画面が切り替わり、拘置所の外観が映される。鉄格子の向こう側に冷たくそびえる建物の前には、取材陣が集まり、フラッシュが絶え間なく焚かれていた。
「2人は脱走の計画を共有していたとみられますが、脱走の最中に何らかの行き違いがあったと考えられます。殺害現場には激しいもみ合いの跡が残されており、円城寺、黒田両名の遺体には致命傷が複数見られました」
キャスターの声に続いて流れるのは、インタビューを受ける市民の声だ。
「とんでもない事件だよ。管理側はなにやってんだ。しっかりしてくれよ。こんな事件起こさせるなよ」
怒りをあらわにする初老の男性。
「被害者やその家族のことを思うと、話題になること自体がつらいっていうか……どう思ったらいいのかわかんない」
コメントに困っている女性もいる。
また、黒田太陽が使用していたSNSの裏アカウントが事件後に発見され、そこには過去の罪を示唆する投稿が残されていたことが新たな波紋を呼んでいた。
「死んだ友人のことを今まで信じてあげられていなくて……イイヤツだったのに暴言吐いたんだって思ってて……どうして信じてやれなかったんだろう……」
「わたし、真実を知ってたんです。でも言えなかった……っ、ごめんなさい……!」
友人たちの声が悲痛に響く。
映像がスタジオに戻り、キャスターは神妙な面持ちで締めくくった。
「世間を騒がせた2人の人物が拘置所内で命を落とすという、何ともやりきれない結末です。この事件の真相がどこまで解明されるのか、引き続き注視する必要があるでしょう」




