130、銀河鉄道の旅、始まる
――『三日目・銀河鉄道の夜』
――『ジョバンニ/ 葉室王司』
観客席に、知っている顔が何人も見えた。
自分への好意を感じる。
自分を思いやる感情を察することが、できる。
その時、私は、学校の授業でカンパネルラが自分に気を使うように正解を避けたのを見たジョバンニの気持ちになった。
そして、自分ごとのような他人ごとのような心境になった。
よく集中できている――そう思った。
役を演じている自分がいて、それをもうひとりの自分が少し距離をあけて客観的に見降ろしているような――そんな「ゾーンに入った」と言われるような状態だ。
江良は、この感覚になったことが何度もあった。
とても調子がいいと、こうなりやすい。……気持ちがいい。
明るい光に包まれた昼の世界に、ジョバンニ少年がいる。
少年は、まるで怒っているようだ。
膨れ上がった感情が爆発しそうで、危うく感じる。
現実世界は、苦しい。
息が詰まる。
ジョバンニという少年には「つらい」「苦しい」「生きにくい」という感情の土壌がある。
少しずつ、多様な負の感情が混ざり合って豊かになった土は、表面が踏み固められていて、中身はやわらかい。
少年は、その感情を他人を傷つけるために発露させることがなかった。
優しいのだ。
少年は、髪を切る余裕がないのか、少し長めの黒髪をうなじのあたりで結んでいる。
くたびれた服は、ほつれたり汚れたりしていて、手足は心配になるくらい細い。
ケンタウル祭の夜。
少年は友達の心情を想い、母親を思いやり、夜の坂道を下っていく。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
――『ザネリ/ 高槻大吾』
高槻大吾には、「自分は特別だ」という意識がある。
脈々と続く伝統芸能の家の看板を背負う自分は、特別だ。
彼は、物心ついた時にはすでに歌舞伎界の御曹司だった。
家柄が物を言う特殊な世界で、彼は舞台に立つ切符を生まれながらに所有していた。
大人たちは彼という『特別な存在』を大切に育て、才能を磨いてくれた。
兄弟は、いなかった。
けれど、妹は産まれた。
歌舞伎の舞台に上がるのは男、という伝統があって、その風潮はまだまだ強い。
だから、妹が「役者になりたい」と言っても、ライバルにはなり得なかった。
――だけど、幼い妹には、才能がある。
師匠たちは、その才能に気付いていた。
『本人にもやりたい気持ちがあるのに「女だから」という理由だけで後継ぎにできないのが残念だ』
……そんな声が聞こえて、「性別が女でなければ、自分は後継ぎの座を追われていたのかもしれない」と思ったものだった。
さて、ザネリ少年は、裕福な家の子だ。
親から愛情を受けて大切に育てられていて、友だちもいる。
取り巻きみたいな友だちもいるし、対等以上の存在感で、魅力があって人気者な少年カンパネルラもいる。
そんなザネリの日常の中で、ジョバンニという少年は、浮いていた。
ジョバンニは、家の都合で、子供なのに労働に明け暮れている。
そうなる以前は、カンパネルラと親しかった。
ザネリは、二人が仲よくしているのを知っていた。
大人たちは、「ジョバンニの父親が密漁仕事をしているのではないか」とか、「ジョバンニの父親が帰ってこないのは捕まったからではないか」とか噂している。
「母親が病気で、子供は可哀想だ、大変だ」と同情する口ぶりなのだ。
大人たちは、可哀想だと言いながらも、境遇を改善するための手伝いをすることはない。
そういう善意を装った悪意は、子供の心に影響する。
あの子は、なんかボロボロで汚らしい。臭い。
うじうじしていて暗くて、いつもくたびれている。
異分子だ。
群れの中にいて、大人が「あれは助けなくていい」「あれについては仲間同士の暇つぶしみたいに噂していい」と子供にわからせている、格下の存在で、鼻つまみ者で、殴ってもやり返してこないサンドバッグだ。
――兄の心は、意地悪な少年になった。
【アリサ。お前が演じられない役を、僕は演じるぞ。お前は、悪く言われるのがいやだから目立ちたくないって言ってた。だから僕が代わりに目立って、お前を世の中の全員が忘れさせてやろう】
ジョバンニ。お前と仲良しだったカンパネルラは、僕と一緒にいる。
【僕はそう思っていたのに、「もう目立ってもいい」とアリサは言ったね。そして、本当に舞台に立ってしまった。この演劇祭が始まりだ。父もアリサを売り出す気でいる。アリサはこれからもっと目立つだろう。世の中は、これからどんどんアリサを知っていくのだろう】
ジョバンニ。お前の父ちゃん、捕まってるんじゃねーの。
【けれど、アリサはアリスの役やアイドルはできても、僕の地位を脅かすことはできないんだ。家を継ぐのは僕だ。歌舞伎をするのは、僕なんだな】
ジョバンニ。お前は夜になっても家のためにお使いか? 僕たちは、楽しいお祭りに行くんだぜ。
【可哀想になあ、アリサ。お兄ちゃんは、こんなにお前に意地悪なことを考えているよ。僕の妹は、可哀想だなあ……!】
「ジョバンニ! お父さんから、らっこの上着が来るよー!」
「僕が何もしないのに、ザネリはどうしてあんなことを言うのだろう――ザネリがばかだからだ!」
【罪の意識なんて、抱かない! 僕はばかだ……ばかな御曹司なんだ!】
「あはは! あはははは……!」
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
――【葉室王司視点】
年齢が離れているけれど、高槻大吾は距離を使ってうまく演出をした。
器用なお兄さんだ。
長身なのに、小さくてすばしっこい少年のように思わせてくれる。
小物感があって、嫌なやつ。
性格の悪いことを言って、人を傷つけても、ぜんぜん自分が悪いと思っていない。
自分は傲慢に振る舞っても許される王子様で、ジョバンニは自分に傷付けられてもいい奴なんだ――そう信じて疑わない笑顔で、声で。
子供っぽく悪意を吐いて、退場していく。
だから、ジョバンニは主人公になれる。
彼がヘイトを集めてくれたおかげで、ジョバンニは可哀想だと思われながら銀河鉄道に旅立った。
極寒の冬に暖かな部屋に入ってほっとするように、ギャップは安らぎや楽しさを生んでくれる。
カンパネルラは、江良星牙が演じている。
金持ちの子らしさが、衣装や座る姿勢、所作から滲んでいる。
表情はやわらかで、思慮深そうだ。それに、どこか物寂しい。
「水筒を忘れてきた」
カンパネルラは、言った。
「スケッチ帳も、忘れてきた。でも、構わない。もうじき、白鳥の停車場だから」
ジョバンニが持っていない黒曜石の地図をぐるぐる回して、言うのだ。
「僕、白鳥を見るのが好きだ。遠くを飛んでいたって、僕には――きっと、見える」
その地図は、どこでもらったの。
ジョバンニが問いかけると、カンパネルラは「銀河ステーションで」と答えた。
「ジョバンニ。君はもらわなかったの」
「僕、銀河ステーションを通ったかなあ……」
列車が動き出す。
二人で窓の外を見て、幻想的な風景を共有していく。
蒼白く光る銀河の岸に、銀色の空のススキが並んでいる。
視界一面、風に綺麗に揺れて、光の波を立てている。
なんて美しいのだろう。
「カンパネルラ。あの川原は、月明かりで光っているのかな」
「ジョバンニ。この風景は、月が出ている夜の風景ではないよ。銀河だから光っているんだよ」
ああ、ここは現実離れしている、幻想の銀河世界だ。
時間が気にならないや。のんびりしていられる。
あれをしなくちゃ、これをしなくちゃ、というのが、遠く遠く地上に置いていかれたみたい。
僕、自由だ。
僕は、子供だ。
家のためとか、お金とか、食べ物とか、いろんなことを気にせず、今は座って「景色が綺麗だね」と無邪気に雑談できるんだ。
それも、疎遠になってしまっていた友達と一緒なんだよ。
カンパネルラと話していると、まるで以前に戻ったみたいだ。
僕たち、前はこんな感じだったよね。
図鑑を一緒に眺めて、これはこうだね、ああだねってのんびりと他愛もないことを話して笑っていたんだ。
「見て、カンパネルラ。天の野原だ」
僕は、愉快でたまらない。
星めぐりの歌の口笛をふきながら、足を鳴らして窓から顔を出して――嫌なことを言う奴も、注意してくる大人も、ここにはいない。
「ジョバンニ。リンドウの花が咲いている。もう、すっかり秋だね」
カンパネルラは、きっと同じ気持ちに違いなかった。
今までどうだったとか、お家はどうとか、そんな気が重くなるつまらないお話はせず、ただ現在の旅の時間を満喫するように、窓の外を指して楽しい話をするんだ。
ああ、線路のわきの短い芝草の中に、月長石で刻まれたような花が咲いている。
優しい色彩。赤と青の中間みたいな、紫のリンドウだ。
「カンパネルラ。僕、飛び降りて、あの花を取って、また飛び乗ってみせようか」
やってみせる。
僕には、できる。
きっと格好いいぞ。見てろ。
胸を躍らせて冒険王の気分で言ってやれば、カンパネルラは首を横に振った。
「もうだめだ。あんなに後ろへ行ってしまったよ」
ああ、本当だ。
列車は速いから、景色はどんどん後ろへ後ろへと過ぎていくんだ。
今という時間は、一瞬なんだね。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
――『観客席』
――これが日本の俳優か。
マーカス・ヴァレンタインの一件がきっかけで演劇祭の存在を知り、フットワーク軽く日本にやってきた映画監督グレイ・ジャーマンは、観客席で少年たちの旅を興味深く鑑賞していた。隣には、ゴージャスな黒髪と黒い肌が魅力的な妻がいる。
午前の部、午後の部。
両方のチケットが運よくゲットできたので、立て続けに観劇しているが、なかなか楽しい。
彼は正直、日本のレベルが低いと思っている。
だが、同時に日本の演劇関係者たちの中に「低い評価のままではいないぞ」という下克上の意思があることも知っている。
例えば、日本人の有名な芸能プロモーターが「日本の舞台芸術のレベルを世界水準にまで上げたい」と発言した。
4大国内機関(日本国内の演劇全体を統括する演劇協会や興行(公演のプロデュースや運営)に特化した演劇興行協会、子供や青少年向けの俳優育成プロジェクトを行う児童青少年演劇協会、大衆演劇にフォーカスしていて「伝統」と「現代エンターテイメント」の融合を図る文化大衆演劇協会)が協力してプロジェクトを企画中だとか、世界を意識した戦略が進行している噂もある。
4大国内機関の代表は、芸能プロモーターや海外識者を混ぜた討論会で、以下のように語っていたものだ。
少子高齢化によって、日本の人口が減少していく。
世界で稼げるようにシフトしていかないと、産業自体がシュリンクしてしまう。
さて、マーカス・ヴァレンタインの一件によって、海外はこの演劇祭に注目している。
そして、この若き俳優たちは――海外勢を驚かせるポテンシャルを見せている。
不思議の国のアリスでは、マーカスタイプと思われる不安定ながらも強く人を惹き付ける憑依型の才能の持ち主がいたし、調べたところメソッド演技者でもあって、海外のフォーラムではメソッド演技のリスクについて語る者が続出した。
胸に意見を秘める者たちに「さあ、この問題についてみんなが話す機会ができたよ」と賛否を唱えるきっかけをくれる――バズる才能の持ち主ともいえる。
そして、彼の血縁者だという『ジョバンニ』――小さな少年は、わかりやすく「モノが違う」。
煌めくオーラみたいなものがあり、初々しく年若いのに、なぜかベテランのように安定していて、安心して見ていられる。
あの少年は、すでに完成されている――いや、まだ伸びる。年齢は、まだ14歳になったばかりというではないか。
――葉室王司。
その少年の名を、海外の演劇ファンは、これから熱狂的に話題にすることになるだろう……。
「クレイジーボーイ、オージ! いいね!」
才能ある若者は、いいものだ。
未来が明るく感じられるし、わくわくする。
「ダーリン、念のため言うけど、He is She!」
「なんだって!」
妻が教えてくれたので、もう一度『少年』を見る。
美少年だとばかり思っていた。美少女だったらしい。
さらに、妻はショッキングなことを耳元で囁いた。
「彼女はキュートなアイドルよ」
「なんだって!」
あの少年(少女)がアイドル・スターをしているのか。
日本のアイドルについては、彼も知っている。モエモエ・キュンキュンで、可愛いんだ……。




