126、【私、私、私。――私がナンバーワンよ!】
――【西園寺麗華視点】
――『ショーマストゴーオン!』
……The Show Must Go On!
【東】チームでは、この三日間、舞台袖でずっとその言葉が合言葉のように交わされている。
『舞台はいったん幕が開けば何があっても中断してはならない、最後までやるんだ!』という意味の慣用句である。
いつから。
どこから。
なぜ、こうなったのかしら。
演劇祭の三日目、満員御礼のステージで、西園寺麗華は、観客の注目の外にいた。
では、誰が注目されているかと言うと、デビューして一年目の新人の火臣恭彦――後輩である。
彼は、ヘタクソな後輩だった。
最初はやる気もないのかと思っていた。
でも、少しずつやる気が見えてきて、努力をする姿を見るようになったから、麗華は「可愛い後輩ね」と思ったものだった。
彼は、不憫な境遇で、歪んでいる――拗らせている。
麗華は「心配だわ」と思ったものだった。
麗華が脅威に思っていたのは、彼の妹、葉室王司の方だった。
そして、火臣恭彦は妹に対して麗華と似たスタンスで、味方としての立ち位置でありつつも、妹に劣等感を抱いたり、嫉妬したりしていた。
だから、麗華は――「恭彦君は、私の子分みたいな子。大した子じゃなくて、ライバルではない」と油断していた……。
そんな青年は、今――繊細な表情をスポットライトに照らされていた。
他の役者たちは、何かを言おうとしては躊躇っている。
その気持ちが、麗華には痛いほどわかった。
観客が全員、その姿に見惚れている。
何を言うのかと、待っているのだ。
……こんな空気の中で、邪魔をしてはいけない。
ここは彼の独壇場だ。
麗華たちは引っ込んでいた方がいい――なぜか、そんな気がしてしまうのだ。
火臣恭彦は、間をたっぷりと取った。
満員御礼の会場は、恐ろしく静かだ。
やがて――しんとした世界を恐れる様子もなく、吐息に感情を織り交ぜるようにして、彼は言った。
「寂しい」
なんだか、私の心を代弁してくれたみたい――麗華は、そう思った。
彼は、何が寂しいとは言わなかった。
そのせいだろうか。
人間は、生きていれば誰しも寂しさを抱え込む。
その広いストライクゾーンを狙って、投げかけられたひとことは、会場中に寂寥の感傷を呼び起こした。
「むなしいよ……」
彼が、また感情の波を起こす。
それが、波紋のように会場に広がっていく。
麗華は、むなしい気分になった。
芸能活動とか、評価されることとか。
仕事を獲得することとか、演技の実力とか。
興行収入とか、ライバルとか――日頃当たり前のように意識している全部が、意味なく思えた。
それらに価値があると思っている自分の心が、さもしく感じられた。
麗華は、演技を忘れた。
なんだか、世界が真っ白な冬になったよう。
胸にぽっかりと穴が開いた気分。
自分という存在がちっぽけで、無力で、何も意味がないのだと思える。
……全身から力が抜けていく……。
そんな時、白い空虚な世界に、アリスのあどけない声がきらきらと響いた。
「えっ? これ、夢?」
底抜けに明るい声は、おひさまのようだった。
少女の声が響くと、世界は雪解けを迎えたように色彩と温度を取り戻した。
あたたかい――。
アリスを演じる高槻アリサは、ぴょんっとウサギのように跳ねて、大きな着地音を立てた。
タンッ。タンッ。ダンッ!
この強弱の付け具合が、いつか八町大気がピアノで奏でてみせた抑揚に似ていることに気付いて、麗華はどきりとした。
高槻アリサは、ただいまのセリフと音で、すっかり会場中の注目を奪っていた。
彼女は、観客に顔を向けて、表情を大きく変えた。
目を大きく向いて、口をあんぐりと開けて、しかめっつらをして――変顔と言われるような顔だ。
観客の視線は、火臣恭彦ではなく、可愛くて面白いアリスに釘付けだ。
アリスは、バッと両手を広げ、首を回して、視線を会場の奥へと向けた。
すると、観客の誰かが……奥の席にいた年配のおじいさんが、掛け声を送ったではないか。
「……京高屋~~っ!」
――歌舞伎のテクニックだわ!
『京高屋』の屋号を聞いて、麗華は思い出した。
『振付けが決まってるダンスショーみたいでしたね。首を回したり、足踏みして静止したり……』
『現代みたいなスポットライトがない頃の工夫で、観客の視線を役者に集中させるための誘導なんですって』
今、高槻アリサは、舞台を独り占めする火臣恭彦と戦ったのだ。
そして、観客を奪った――勝利したのだ。
「主役は、わたし!」――それを、高槻アリサはやってのけたのだ。
「へーんなの! 帽子屋さんは、ずっと、へん!」
可愛いアリスは、小さな全身を躍らせ、火臣恭彦に体当たりするように抱き着いた。
「わっ……、アリスっ……?」
アリスは、驚く帽子屋の頬に触れ、首筋に指をぴとりと付けた。
「とくんとくん! 脈がありまーす! あなた、こんなにあったかくて生きてるじゃない!」
勝者のアリスは、青年の頬にキスをした。
「わたし、あなたのことなんか、知らなーい! あなたのパパとか過去も、ぜんぜん知らない! きっと私がいなくても、ここのみんなは今まで通りよ。だって、みんなみんな、生きていると思うから!」
「わたしがそう思うから、そうなの」――子供ならではの自信にあふれた決めつけは、なんだか希望の象徴めいていた。
観客がニコニコしている。可愛いな、明るくて楽しい劇だな、という顔だ。
みんなが楽しんでいる。そんな雰囲気に、高槻アリサが持って行ったのだ。
静止していた役者たちの中で、そんな芝居の流れを受けて動き出した者がいる。
チェシャ猫――羽山修士だ。
おそらく、ずっと「どこかで俺は動くぞ」とタイミングを見計らっていたのだろう。
「にゃあ! 裁判は、もうしないのにゃあ? ここに新しい証拠があるにゃあー!」
ああ、芝居が動く。
私も続かなきゃ。麗華は女王の自分を強く意識した。
麗華、前に出るのよ。
麗華、麗華、動くのよ。
じっとしてちゃ、だめじゃない。
あなたは光の中に飛び出して行って、「負けないわよ!」ってふてぶてしく目立つのよ。
それができるのが、西園寺麗華でしょう。
「――……」
なのに、セリフが出てこない。
なのに、声が出せない。
どうして私は、怖がっているんだろう。
「おばさん」
「……!」
麗華は、耳を疑った。
今、アリスが私に呼びかけた。
アリスは、不遜な顔でこっちを見ている。
そして、無礼にも腰に手を当て、人差し指で私を指さすのだ。
「おばさんは、かんしゃくもちで、きょーりょーだわ。しょけい、しょけいって、ナンセンス!」
なんて?
癇癪持ち? 狭量?
ナンセンス? ……おばさん?
目を見開いて驚いていると、アリスは続いてトコトコと近づいてきて、「おばさん」ともう一度言った。
そして、変顔をした。
臭いものの匂いをかいでしまったみたいな、とっても嫌なものを見たみたいな顔をして、小生意気な調子で。
「女王様は、カレーの匂い!」
――と言うではないか。
カレー?
――加齢?
「こ、この小娘――」
麗華の頭に、カッと血が上った。
冷え切っていたはずの休眠火山が強引に刺激されてマグマを噴出させたみたいに、全身に怒りがみなぎった。
「だまらっしゃい!」
あっ、これは台本通りのセリフだわ。
麗華は、カチリとスイッチが入ったのを自覚した。
中断して再開する糸口がつかめなかった悪役女王の時間が、再び息を吹き返すのが感じられた。
すうっと息を吸うと、空気が熱い。
胸いっぱいに酸素を入れて、女王は会場中の心をビクリと震わせる怒号を発した。
「――この者の首を、刎ねよ!」
悔しい、腹立たしい、苛立たしい。
そんな負の感情が、腹の奥で荒れ狂っていた。
高槻アリサは、私の演技を引き出した。
私は今、自力では芝居ができなくなっていた。
高槻アリサは、それを見透かした。
そして、私を怒らせて、演技をさせたんだ。
――悔しい! むかつく。いらいらする。自分が残念で、悲しい。
自分という器の中で、ありとあらゆる感情がぐつぐつと煮えて、溢れて、止まらない!
麗華が激情に悶える中、月組の役者たちは、筋書通りのクライマックスを演じようとした。
トランプ兵がアリスに襲い掛かるのだ。
――やっておしまい。
麗華は、怒りに打ち震えながら恐ろしい女王の号令を畳みかけた。
「トランプ兵! かかれ!」
この小娘を、私は決して許さない!
トランプ兵の槍が一斉にアリスに突き出されて、アリスは「きゃあ!」と悲鳴をあげる。
このあとは、ふっと明かりが落ちて暗くなり、夢から醒めるオチに繋がる予定だ。
しかし。
一瞬の暗転を演出しようと裏方が動きかけた時、帽子屋は再び暴走した。
「――アリス……!」
「帽子屋さん!」
スタッフは、明かりを落とす手を止めた。
舞台の上では、トランプ兵の槍からアリスを守って倒れる帽子屋と、彼にすがるアリスの姿があった。
ええい、いまいましい――今度は帽子屋ね!
女王の心に、新たなさざ波が生まれた。
「どいつもこいつも! わたくしの国で好き勝手、主役みたいな顔で暴れて! 腹立たしい。生意気よ。分を弁えなさいな!」
女王は叫び散らし、地団太を踏んだ。
けれど、この時、麗華の脳は、怒りながらもどこか冷静だった。
感情的に喚き散らしながらも、自分が退場する方法を考えていた。
【私たち、舞台を終わらないといけないわ。ここからどうエンディングを迎えたら、お客さんに納得してもらえるかしら?】
思考する自分に気付いた麗華は、自分と年下の新人役者たちとの違いを意識せずにいられなかった。
自分は職業役者として、作り物の劇のタイムリミットと観客が納得する物語のテンプレートを考えている。
でも、目の前の新人役者たちは、まるで本物。その世界に生きているみたい。
「帽子屋さん。帽子屋さん。ねえ、しっかりして!」
呼びかけるアリスに、トランプ兵が迫る。
「にゃあ! 気が向いたから、遊んでやるにゃあ!」
羽山修士のチェシャ猫が割って入り、トランプ兵を防いで好感度を上げている。
ずるい――あんなキャラ、人気が出るに決まってる。
麗華はまたひとつ嫉妬を覚えつつ、演出家の合図に気付いた。
――八町先生。
八町大気が、麗華を見ている。
他の誰でもない、自分に向けて、「この後のお姉さんとの現実シーンをカットする」と伝えている。
「夢から醒めた後のシーンをなくすので、君がこの舞台をしめくくれ」――そう言っている!
先生が、私を見てくれている!
先生が、私に任せてくれた!
「アリス。俺は……いいことに気付いたよ。俺は、刺されて痛い。生きてるんだ」
弱々しく告げる帽子屋に、アリスは泣き出した。
子供っぽく、現実を拒絶するように――嫌なのに無力で、何もできずに望まぬ事態になってしまうというように、わんわん泣いた。
そんな後輩たちを、麗華は女王の顔で気高く見下ろした。
麗華は、「自分はこの子たちより、上位存在よ!」という感覚になっていた。
「勝ったのは私なの」――そんな風に思えていた。
だって、だって、八町先生が私に「君に頼る」って顔をしたんだもの。
私を選んでくれたんだもの。
――私はベテランで、プロだもの!
……こんな無責任な暴走役者たちに負けっぱなしでいるものですか!
おほほほ、と高飛車に笑って、麗華は女王の演技からスタートした。
「アリス。お前は、その帽子屋を助けたいのね。なら、歌いなさい。楽しいお歌、哀しみや怒りが去っていくお歌を――お姉さんは、呆れています。お前がずいぶんよく寝ているものだから。さぞ、へんてこりんな夢を見ているのでしょうね!」
麗華は、セリフの途中で役を変化させた。
女王から、アリスの姉へ。
ここは夢の中。
私は、アリスの夢見る女王――けれど、姉でもある。
姉は、現実世界でアリスのそばにいて、夢見るアリスに呼びかけるのだ。
「もうお茶の時間なのよ。へんね。目を閉じると、お姉さんにもあなたの夢が見えるみたい。けれど、お姉さんにはわかるわ。目を開けたら、この夢はつまらない現実になってしまうのでしょうねえ!」
お姉さんな麗華は、高槻アリサが何かを言おうとした気配を察して、ハイヒールでステージを踏み鳴らした。
あなたに舞台は譲らない!
おだまり、歌舞伎娘!
「アリス。女王が怒っているのね? 今、お姉さんにも音が聞こえたわ」
麗華は、女王の冠を床に投げた。
そして、アリスの隣に座り込んだ。
舞台の光が絞られる――帽子屋でもアリスでもなく、今や『お姉さん』な麗華にのみ、スポットライトが当たっている。
八町大気が、そう指示を出しているのだ。
ふふっ……!
麗華の胸に、歓喜が湧いた。
【私、私、私。――私がナンバーワンよ!】
久しぶりに、そう思えた。
観客の視線が、気持ちいい!
この舞台は、もらったわ!
「ああ、アリス! 私の小さな妹は、将来、どんな大人になるのかしら。この無邪気できらきらした子供の心を持ち続けるのかしら。今の私みたいに、幼い子供たちを周りに集めて、ファンタジーの世界に連れて行って、みんなをたーっくさん、わくわくさせるのではないかしら……!」
言った。
言い切った。
先生、やりました!
エンディングよ――麗華が爽快な気分で笑顔を浮かべていると、誰かが後ろにスッと立つ気配がした。
……え?
「親愛なる友達、アリス。君のことを考えて、僕はこのお話を紡いだよ」
優しい青年の声がする。
「君は僕の知らないところで、大人になっていく……僕は、それが寂しいよ。けれど、このお話を形にして君に届けることができてよかった。君の心のどこかに、あの美しい日々が残っていたら、嬉しいな」
……――火臣恭彦!
麗華の腕に鳥肌が立った。
ワッと拍手と歓声が湧き、舞台の幕が下りていく中、青年は優雅に片足を引き、帽子を胸にあててお辞儀をした。
この青年は、最後にルイス・キャロルを演じたのだ。
物語をアリスのために紡ぎ、アリスに会えなくなった寂しいルイスの愛と友情を見せて、美味しいところを搔っ攫ったのだ。
「わああああああああああ!」
「恭彦くーーん!」
そして、この観客たちは、リピーターも初見も「わけがわからなくて、予想できなくて、いかれていて、変!」という暴走ショーに魅了されている……。
「く、……く、くう……」
く、や、し、い……。
幕が下りた舞台の上で、麗華は悔しさに頭をかかえた。
勝ったと思ったのに、負けちゃった。
今のラストシーンは、負けだ。
自分が負けだと思ってしまったので、他の誰が「よかったですよ麗華さん」と言っても、もう麗華の中では敗北だ。
「大丈夫ですか? 麗華お姉さん」
高槻アリサが心配そうに声をかけてくる。
ふええん。ひっぱたいてあげたいっ。
思わずそんな衝動に駆られつつ、麗華は涙目で後輩たちを睨んだ。
「あ、あ、明日は、負けないわよっ!」
ああ、よかった。
私、まだ戦う気力があるわね。
涙目になりつつ、麗華は自分の心が折れていないことに安心したのだった。




