カフェオレ
気が付くと、僕は病院のベッドの上で横になっていた。雨の匂いが混じったそよ風がカーテンを揺らしている。左腕が疼く。酷く痒く、酷く痛い。包帯でグルグル巻きになった左腕の中身を見たくない。
視界が狭い。左側の視点が足りない気がする。顔の左側に恐る恐る手を近付けると、人の肌とは違う布の感触がした。
あの屋敷からどうやってここへ運ばれたのか。気を失う前と後の中間の空白で、何が起きたか。どちらも分からない。一つ分かるのは、胸の内にそよ風がよく通っている事だ。失恋をすると、心にポッカリ穴が開くというが、これは失恋による穴じゃない。両親を失った時に開いた穴と同じ穴だ。
つまり、僕は酷く落ち込んでいる。幸か不幸か、捻くれ者になったおかげで、以前のように殻に閉じこもるようにはなっていない。ただ悲しく、ただ無気力になっているだけだ。
ベッドから立ち上がり、窓から見える枯れた木を眺めていると、病室のドアが開く音が聴こえた。振り向くと、手ぶらで来た花咲さんだった。花咲さんは僕の姿を見たまま、ドアの前で立ち止まっている。おそらく、目を覚ました僕を見て驚いているのだろう。そして叫ぼうとしているのだろう。
しかし、花咲さんは叫ばなかった。その代わり、僕に駆け寄って抱き着いてきた。窓から身を落としそうになったが、腰の力を目一杯使って踏ん張り、部屋の中に留まった。
されるがまま抱きしめられていると、花咲さんは僕から少し離れ、涙でグチャグチャに顔を僕に見せた。こういう時、映画なら綺麗な涙とか微笑み顔を見せてくれるのだが。でも、おかげで少し温かくなれた。
僕達はベッドに腰かけ、花咲さんに買ってこさせた缶コーヒーを飲みながら、僕が気を失っていた間に起きた事を話してくれた。
「佐久間君は、あの火事から生き延びた唯一の生存者です。でも、左腕と左側の顔に酷い火傷を負ってしまいました。皮膚はおろか、機能が完全に死んでいるんだそうです」
「右足の次は、左腕と左の顔か……あの屋敷の火災について、ニュースとかは?」
「……それが、全く無いんです。人気の無い場所に建っていたっていうのもあると思いますが……おかしいのは、リリーさん達の事について誰も話題に出さなくなったんです」
「あの謝礼金の事も?」
「はい。そもそも、その事についての記事や投稿も消えていて……まるで、全て夢だったかのように」
「夢……」
いや、あれは紛れもない現実だ。それに、もし、あの日々が夢だったとしたら、僕の体に傷なんてつかない。悪夢に苦しめられてきた僕が言うんだ。この体と心が現実だと証明する。
でも、確かに不可思議な事だ。誰もが夢中になっていた出来事そのものが消え、人々の記憶からも忘れ去られた。それなのに、僕や花咲さんはハッキリ憶えたまま。当事者だからなのか、あるいは何らかの操作から外れたのか。非現実的な考えだが、これまで非現実的な体験ばかりしてきたんだ。これくらい起こっても、あまり驚きはしない。
「……敦子姉さんは?」
「出張だそうです。まったく! 佐久間君が大変な時に、仕事を優先するだなんて!」
「出張? 何処に行くとか、言ってなかった?」
「全然。出張に行くとしか」
「いつ?」
「佐久間君を病院に運び込んですぐの事です」
僕が気を失い、この病院に連れて来られた後に、敦子姉さんは出張へ行った。その間、僕と花咲さんを除いた人々の記憶からリリー関連の事が忘れ去られた。
敦子姉さんが人々の記憶からリリー関連の記憶を抹消したんだ。どうやったかは分からないが、そう考えると納得がいく。そうなると、敦子姉さんもリリー同様、普通の人間とは違う何かだ。
人の記憶とネットの海に流れている異物を取り除く力……いや、それだけじゃないはず。あの人はいつも僕が危機感を抱いた時に現れる。まるで、そうなる事を知っていたかのように。リリーの事も、花咲さんの時も、宮田さんの時も、敦子姉さんは勘付いていた……いや、知っていた。
「花咲さん。携帯持ってますか?」
「携帯? 持ってるけど」
「少し借りてもいいですか?」
花咲さんから携帯電話を借りて、敦子姉さんに電話をかけた。この不信感を拭う事は出来ない。なら、いっその事全てを打ち明けてほしい。自分が何者で、今まで何をしてきたか。知った所で、敦子姉さんを嫌うわけじゃない。いい加減知りたいだけだ。いつまでも謎のままでは、抱いている不信感は嫌悪感になってしまう。
しかし、敦子姉さんが電話に出る事はなかった。出る暇が無いのか、花咲さんの携帯からだから無視しているのか。どちらにせよ、真偽を明らかにするのは先になりそうだ。
なら、今は考えないようにしよう。敦子姉さんの正体についても、胸の奥に開いた穴の事も忘れて、ただ生きている事に安堵しよう。辛い事は色々あったが、それでも生きている。生き続けられるのは最大の幸福だ。
「それにしても、花咲さん。この缶コーヒーのチョイスは……センス無いですね」
「だ、だって! 苦いのが苦手なんですもん!」
「もんって……ん? ちょっと待ってください。これコーヒーじゃなくて、カフェオレじゃないですか!」
「同じでしょ!?」
「どう味わったら同じなんですか!? どうりで甘ったるいと思ってたんですよ……」
「わざわざ人が買ってきた物にそこまで言わなくても……次はお汁粉買ってきてやる……!」
「聞こえてますからね? ほんっとに、お汁粉は駄目ですよ? 僕小豆が駄目なんですから」
「美味しいじゃないですか、お汁粉」
「趣味が合わない」
「え~」
窓から入ってくるそよ風が背中を撫でていく。もう少しで冬になる。枯れ木には雪が飾り付けられ、除雪車や除雪機の音で朝を迎える日々が続く。世界の色が、黄色から白色に移り変わり、寒い季節が訪れる。
温かいカフェオレをもう一口飲んでみた。口の中で広がる牛乳の風味の主張が強い。これじゃあ温かいミルクだ。やっぱり僕には甘過ぎる。




