前編
– 1 –
何も聞こえない、声も出せない。
あの眼差しも、握り締めた手の感触も忘れてしまった。
あなたは誰なの?
暗闇の中に浮かぶ人影。
とてもよく知っているはずなのに顔を思い出せない。
頭から原油を被った海鳥のようにドロドロなシルエット。
誰? 誰なの?
彼の姿がゆっくりと遠のいていく。シルエットの輪郭がぼんやりと薄らいでいく。
待って、置いて行かないで!
私を一人にしないで––––––––––––
– 2 –
「・・・・・・・・・・・・・ここは・・・・・・どこ・・・・・・?」
見覚えのない天井。日常感のない清潔感に溢れた布団とシーツ。使い慣れない枕の感触。
ここは病院のベッドの上・・・・・・?
さっきのは夢・・・・・・? なんだかよく覚えていないけど、すごく寂しい夢だった気がする・・・・・・。
ガラッ。
突然、病室の扉が外側から開けられた。
「・・・・・・目が覚めたのか?」
扉を開けた男の人がそう呟くと、とても慌てた様子で私の傍まで駆け寄ってきた。
「僕のことが分かるかい? 何があったのか覚えてる?」
「何があったのか・・・・・・? うっ・・・・・・!?」
頭にズキッと鈍い痛みが走った。
反射的に手を当てると包帯の感触があった。
私は交通事故にでも遭ったのだろうか?
「一体、何があったんですか・・・・・・?」
「そ、そうか・・・・・・。覚えてないのか・・・・・・。
丸一日も意識を失っていたんだよ・・・・・・?
幸い、外傷は大したことないみたいだけど・・・・・・。
左足首を少し捻ったくらいで、あとはかすり傷らしい。
自分の名前は・・・・・・言えるかい?」
「名前・・・・・・・私の名前・・・・・・なまえ・・・・・・思い出せない・・・・・・?
私は・・・・・・誰・・・・・・なの?」
– 3 –
「––––––––––––いわゆる記憶喪失という奴ですね。
事故のショックでしょう。神社の階段で真っ逆さまに転げ落ちた訳ですから、相当の恐怖だったでしょう。幸い軽症で済みましたが頭も少し打ったみたいですし、それらが原因でしょう。
一種の防御反応というやつです。一概に言えませんが・・・・・・アルバム写真を見たり、思い出話を聞いたり、よく知っている人と会ったりして、少しずつ記憶を取り戻すキッカケを与えていくしかないでしょう。ご家族はどちらに?」
「いえ、彼女は僕と二人きりで旅行に来ていたので・・・・・・。
ご両親は健在ですが、場所は離れていますね。
いつ頃、退院できるんでしょうか?
僕でダメとなると、ご両親に会ってもらうのが記憶には一番と思うのですが・・・・・・。」
「身体の方の精密検査の結果は幸い大したことなかったんですがね。
左足首を捻って少し腫れてしまっていましたが、骨に異常はなく腫れも大分引いてきていますね。
ただ、転院にかかる手続きや連絡が必要なのと、あと記憶喪失に関しての診断が必要なのであと2・3日はうちで入院してもらいたいですね。
ついさっき目が覚めたばかりですし、しばらくは人の目の届く所で過ごしてもらいたいですし。」
– 4 –
私が目を覚ましてすぐに、彼に呼ばれたお医者さんの診察を受けた。
目を覚ましてすぐに話した男の人は「坂東」と名乗った。
どうやら私の恋人らしい・・・・・・。旅行で訪れた神社の階段で足を滑らせて転落した私を、丸一日以上付きっきりで看病してくれていたみたいだ。
「ごめんなさい。折角、年末年始のお休みを使っての旅行だったのに・・・・・・。
治療費まで出してもらって。あとで必ずお返しします。
えーっと、坂東さん・・・・・・?」
「恋人なんだから気にしないでよ。
とは言ってもまだ付き合ってから一月ほどだけどね。」
大した怪我ではないのだけれど、念を押して坂東さんは私を車椅子に乗せて押してくれていた。
「それに謝るのは僕の方だ。
すぐ傍に居たのに何もできなかった。
今回は運良く無事で居てくれたけど、万が一のことがあったら後悔しても後悔しきれなかった・・・・・・。本当に、そうなったら茜さんのご両親に合わせる顔がなかったよ。
記憶の方は残念だけど、気長にやっていこう。僕にできることなら何でも言って。
まあ、記憶にない男の僕がいつも近くに居るのは居心地悪いかもしれないけど・・・・・・。」
身体の傷の方は大したことなく、せいぜい歩く時に少し左足が不自由する程度で。
記憶喪失だと言っても、私からすればどんな記憶をなくしたのかも分からないのであまり深刻な気分にはなれなかった。
坂東さんがずっと傍に居るという安心感もあって、悲壮感的なものは全くなかった。
坂東さんから私の名前が「茜」であることや出身地についての話、家族構成について聞かされても特に記憶が揺さぶられることはなかった。
自分の保険証に載っている自分のパーソナルデータを見せられても「はあ、そうなんですか・・・・・・。」という感想しか出てこなかった。
鏡で私の姿を映し見ても特に感じる所はなかった。
あまり手入れのされていない長い黒髪。目の下に少し隈ができている二十歳そこそこの女の顔だ。体型は少しやせ気味で、胸も目立つほど大きくはない。
対して坂東さんは髪の毛を茶色に染めているけど、物腰が柔らかく優しい感じの好青年の爽やかなイケメンだ。
こんな私と付き合っているなんて俄かには信じられなかった。
歳は私より一学年上で、大学で同じサークルに所属していたのが縁らしい。
しかも坂東さんの方から告白したとか。
やっぱりちょっと付き合ってる所が想像つかない。
流石にもう話すのは慣れてきたけど、恋人っぽく振る舞うのはまだ無理そうだ。
「医者も言っていたけど、記憶を取り戻すには思い出の場所に行くのも一つの手だと思うんだけど、明日病院からの許可が出たら一昨日立ち寄った場所をもう一度見て回ってみないかい? できるだけ交通ルートや時間帯も再現するようにしてさ。
ああ、でも。その足だと神社の階段を登るのは止めて置いた方が良さそうだね。」
「私はもちろん良いですけど、どうやって回るんですか?」
「前と同じようにレンタカーをまた借りてくるよ。
それじゃ、OKっていうことでいいね?」
病院の許可は案外簡単に出た。
元々怪我も大したことないし同伴者が居るので、気分転換とリハビリを兼ねて都合が良いだろうと言われた。
ただ私の一生分の思い出がすっぽりと抜け落ちているだけだった。
だけどそれはレントンゲンには映らない。