8月31日/ねらわれた男
本作の描写は暴力、出血、性的なほのめかしを含んでいます。
1
「今夜はスーパームーンって言うんだって」
そんなふうに話したのを覚えている。
マッチングアプリで知り合った女と最初のデートだった。夜のレストランからは地球に最接近した満月がよく見えた。
女はしきりに頷いて話を聞いていた。ニュースで見かけた程度の浅い話題だが、女はニュースさえ見ていないに違いない。扱いやすい女だと思った。
濡れているんじゃないかと思うほど真っ黒な髪の女だった。
お試しのデートはうまくいっていた。会話の5割は女を褒めるのに使う。誰とでも話せるどうでもいい話題が4割。自分のことは1割。相手の情報は聞き出しながら、自分をミステリアスに演出するのが、女を引っかけるコツだ。
アプリの自己紹介には「結婚相手を探してます」と書いたが、それが建前に過ぎないことはみんなわかっている。わかっていない奴がいたら……そんな女に「社会経験」を積ませてあげるのも、男としての役割ってやつだろう。
彼女はディナーコースの料理をほとんど残していた。少食なのか、それとも少食のフリをしたほうが男受けがいいと思ったのか。
たしかに、俺は細い女の方が好みだった。疲れやすいほうがいい。疲れている時は簡単に言うことを聞かせられるからだ。
だが、いきなりコトに及ぼうとするほど俺はバカじゃない。手を出していい相手かどうかの吟味はじっくりおこなう。ホテルに連れ込むのは3回目と決めている。最初の2回は、信頼を作りながら相手の情報を聞き出す。家族、交友関係、生活環境……ターゲットのことを理解してからのほうが、何だってやりやすい。
「まあ、今回は『アタリ』だな」
機嫌良く、帰り道を歩く。
「男性経験は少ない、友達はいない、家族とは疎遠……」
まさに狙い所。他の男にさらわれる前に次のデートの約束を取り付けておいた。「悪い人も多いから、気をつけて」と言ったときにも素直にうなずいていた。俺のことを優しい、良い人だと思っているだろう。
もちろん、俺はやさしい良い人だ。彼女に快楽と社会経験を与えられる。良好な関係を結べば長続きするだろう。もしうまくいかなくても、失敗をバネにして成長するチャンスを与えられたということだ。
ふと立ち止まる。大きな月が頭上から俺を見下ろしていた。
妙な感じがした。誰かがすぐ近くにいて、俺のことを眺めているような。
高いビルとビルの隙間の路地。室外機が生ぬるい風を吐き出している。
曲がり角――ビルが月の明かりを遮ってできている暗がりの中に、誰かがいる。
なぜか、説明できないイヤな感じがした。
見えない暗がりの中から、誰かが俺を見ている――確信がますます強まっていく。
俺は引き返すことにした。こんな夜中に、他に誰も見ていない場所だ。何か、ろくでもないことが起きても不思議じゃない。遠回りになるが、別の道を通ることにした。
しばらく歩いたところで、ふたたびイヤな予感がした。
別の路地、別の暗がりから、また視線を感じた。第六感というやつだろうか。
近づけば、痛い目に遭う。
「……チッ」
俺はまた、進路を変えることにした。
表通りに出てしまえばいい。交番の場所だって知っている。
ところが、少し歩くたびに暗い路地に行き当たる。そこからは決まって同じような、イヤな視線を向けられている感じがするのだ。
こう何度も続くと、腹が立ってきた。さっきのレストランで慣れないワインなんて飲んだせいかもしれない。
月が大きく明るいせいで、暗がりが恐ろしく見えるだけだ。そうに違いない。
「大の男がビビってんじゃねえよ」
自分に悪態をついて、大股で歩いて行く。暗がりの路地の横をあっさりと通り抜け――
そして初めて、そこが行き止まりだったことに気づいた。どこかのビルの裏口に行き当たった。分厚い鉄製のドアがあるだけで、どこにも進めない。
「なんだよ、ったく……」
ビビりすぎて、道に迷っていたらしい。デートを成功させていい気分だったのに、台無しだ。
酔い覚ましにこめかみをぐりぐりやりながら、振り返った時……
「こっちがお家じゃなかったの?」
女が立っていた。
さっきまで、レストランで会っていた女だ。ぺったりと濡らしたような、長い髪の女。袋小路の出口を塞ぐみたいに立って、こちらを向いていた。
「帰ったんじゃなかったのか?」
「お家、この近くだって言ってたでしょ?」
女は後ろに手を組んだまま、もじもじと体を揺すった。
「家まで誘ってくれてるのかもと思ってェ……」
「駅まで送っただろ」
「気が変わるかも知れないじゃない?」
路地には灯りはなく、スーパームーンだけが光源だ。白い顔にふたつ並んだ、黒々とした瞳が俺に向けられていた。
「俺のことを尾行してたのか?」
だとしたら、ビビってあっちこっち歩いていたのも見られていたに違いない。ダサいと思われたら、3回目でホテルに連れこむ計画が台無しだ。
「私に気づいたら、声をかけようと思ったんだけど」
「それ、ストーカーだろ。迷惑だからやめろ」
声のボリュームを上げて威圧する。俺はこの後の展開を考えていた。
デート中はおとなしくしていたが、この女はややアブない相手だったらしい。相手をするのは面倒だが、悪いことばかりではない。精神的に不安定なやつは依存させれば何でも言うことを聞くようになる。真夜中でも呼べば来るぐらいに「しつけ」をしてやろう。
そのためには、俺の方が強くて逆らえないと思わせなければならない。ストーキングにビビったと思われたら終わりだ。
「警察を呼んでもいいんだぞ。最近は女でもなんでも、すぐぶち込んでくれるからな」
初犯のストーカーがどう扱われるかなんか知ったことではないが、とにかく女をひるませるためにでまかせを言う。
こうなったら、おとなしく帰らせる気はなかった。泣くまで追いつめて、弱ったところで家に連れ帰り――体に「しつけ」をしてやろう。
「なあ、わかってんのか? 自分が何したのか、ほんとうにわかってんのか?」
優しくしてやったからつけ上がったに違いない。ナメられる前に、俺が怖い相手だとわからせてやらないと。
だが――女は泣かなかった。
それどころか、俺は後悔することになる。
このときすぐに、警察を呼ぶべきだったのだ。そうすれば、あんな目に遭わなくて済んだのだから。
2
「おい、聞いてんのか!」
あまり大声を出しすぎてもまずい。誰かがこの状況を目にしたら……男が女を恫喝しているのだ。十中八九、俺が悪いと思うだろう。
「でも……」
女が言い訳しようとしたので、俺はその肩をつかんだ。
「やっていいことと悪いことの区別もつかねえのか」
怒りに任せて、女の体を壁際に押しやる。「壁ドン」というやつだ。体格の差をわからせて、反抗心を折ってやる。男と女、腕力で敵うわけがない。
身長差は15センチぐらいだろうか。腕を女の横の壁について、逃げ場をなくしてやる。
「統計学で、運命の相手を見つける方法があってェ……」
だが女は俺を恐れる様子もなく、もじもじと話を続けた。
「はぁ?」
ビビらせようとしているのに、あまり効いていないらしい。ますます腹が立ってくる。
「最初に3人、付き合ってみてェ。その3人は絶対、断るの」
女が俺を間近で見ていた。瞳に月が映り込んで、黒目まで白く光っているみたいだった。
「で、4人目からは、『最初の3人よりいいな』と思ったら、その人は出会える中でいちばん相性がいい相手である確率が90%以上なんだってェ」
「だから何だよ?」
「あなたが11人目なんだけど、はじめていいなって思えて。だから、運命の相手だなってェ」
「気持ち悪いな……」
「だから私、このチャンスを逃したくないの」
そう言って、女は抱きついてきた。生ぬるい気温に対して、ベージュのワンピースから手足を出している女の体は妙に冷たく感じた。
「やめろ、うざったい!」
ぐっと女の体を押しのける……だが、妙な感触。そこにあるはずの女の体が、急に消えてしまったような。
厚手のカーテンを押したときみたいな、あっさりした感触。思わずつんのめった。
振り返ると、女は壁際に立ったままだ。
「つきまとうな。俺は帰る」
とにかく、人通りのあるところまで出てしまおう。俺は歩き出した。
「やっぱり、決めてはにおいかなァ。相性がいい人って、においを心地よく感じるって言うでしょォ?」
大股で歩く俺の横を、サンダルの女が平然とついてくる。デートの続きをしているだけですよ、とでも言いたげだ。
無視だ、無視!
せっかく今日はアタリだと思っていたのに、すっかりその気は失せていた。メンヘラ女につけ込むようなテンションではなくなっている。
「ねぇ、聞いてる?」
女が俺の腕をつかんだ。振りほどこうとするが……
がくんっ!
思いっきり腕を引っ張られた。全体重をかけて飛びついてきたのか、異様に重い。姿勢が崩れて、膝をついてしまった。
「今日は、逃がしたくなくってェ」
しがみついてきたのかと思ったが、女は平然と俺を見下ろしていた。
何かがおかしい。
この女はまずい。
関わってはいけない何かだ。
俺は女の方を見ないようにして、そのまま走り出した。
「あっ!」
女の声が背中に聞こえる。白々とした月の下で、とにかく女とは逆方向に走った。
このまま帰り道を行ったら、たちの悪いストーカー女は俺の家までついてくるつもりだろう。どこかに逃げて、つきまとわれないようにしないと。
それにしても、さっきから人の気配がない。いくら路地裏でも、誰ともすれ違わないなんてことがあるか。それに、かなり走っているのに、ぜんぜん大通りにたどり着かない――
ふと気づくと、目の前が壁になっていた。
「うっ……!」
激突する前に体をひねり、肩からぶつかる。考え事に気を取られて、また袋小路に突っ込んでしまったらしい。
「おかしい……」
走ったせいで、心臓がバクバクしている。まとわりつくような暑気。汗が噴き出る。
「逃げられないから、諦めたら?」
そしてまた、女が立っている。暗がりからスーパームーンの明かりの中に進み出てきた。
バクバク動いている心臓の血が、いっぺんに頭に上ってきた。俺は怒りに任せて、女に殴りかかった。
「ふざけんな!」
優しい俺は基本的には暴力反対だが、世の中には殴られないとわからない奴がいる。この女はそういうタイプだ。ここに至って、平手で済まそうなんて気はなかった。握った拳で、頬を狙う。
が、拳は女に当たらなかった。今度は動きがはっきりわかった。しゃがんで避けてから、俺の体を肩で押したのだ。獣のような反射神経と、格闘技の達人のような身のこなしだ。
「ぐっ……」
胸郭の真ん中を細い肩で押されて、息が詰まる。
うめき声を上げながら、突き飛ばされる。体重は俺の方があるはずだ。なのに、俺は行き止まりの壁に押しやられて背中をしたたかに打った。
「ねぇ、二人っきりだね」
今度は俺が壁を背にしている。女が俺の胸に手を押し当てている。
「ドキドキしてるね」
「お、おまえは……なんなんだ?」
背中にびっしょりと汗をかいている。汗から壁に体温が吸われて体が冷えていく。急速に俺は冷静になっていた。
「あなたにとって、忘れられない人になってあげる」
女が耳元で囁いた。うなじの毛が逆立つような、ぞわぞわする声だ。
「や……やめろ!」
総毛立つような嫌な感触。思わず力が抜けて、壁際でしゃがみ込んでしまう。
「ふふ。かわいい」
女が、俺を見下している。その時、俺の心にふたつの選択肢が浮かんだ。
泣きながら許しを請うて、女に身を委ねるか。
男として立ち向かい、身の程を分からせるか。
(俺は男だ。馬鹿にされてたまるか)
心を決めると、急に視野が開けていった。しゃがんだおかげで、今まで見えていなかった周囲の様子がはっきり分かる。
袋小路の壁際にはゴミが溜まっていた。誰がいつ捨てたんだかわからない、それぞれには何の関連性もないゴミたち。
その中に、赤錆だらけの鉄棒があった。コンクリートの鉄筋の端材だろうか。表面がゴツゴツしたやつだ。
(あれだ!)
俺は犬のように四つん這いで飛び出して、鉄棒を握った。ゴミの中から引き出すと、棒は30センチほどの長さがあった。武器として充分だ。
「照れなくてもいいのに」
女はまだ俺を見下ろしている。ますます体に教えてやらないといけない、と思った。
「お前のせいだぞ!」
むき出しの二の腕を狙って棒を振る。ビュンと音を立てた棒は、そのまま空を切った。
女がどうやってかわしたのかはよくわからない。怒りで視野が狭くなっている。呼吸も荒い。手加減して、力を入れなかったせいだろうか。
「ダメだよ。やるなら、殺すつもりでやらないと」
今度こそ、怒りは限界だった。どうなっても知ったことかと思った。
「じゃあそうしてやるよ!」
思いっきり棒を振りかぶる。今度は手加減なしで、女の頭を狙う。当たり所が悪ければ命に関わるだろう。そうなればいい。男を馬鹿にした報いだ。
がきん、と鉄棒が女の頭を打った。激しい衝撃で手がしびれる、鉄棒はがらんと落ちた。
「はぁ……はぁ……」
汗が急に冷えたように感じた。女の頭を思いっきり殴った感触。罪悪感と、ざまあみろという感想が半分ずつだ。
だが、すぐに妙だと思った。殴られた女は立ったまま。そして、アスファルトの上に落ちた鉄棒が……ぐにゃっと曲がっていた。
「殺すつもりでって言ったのに」
女は立ったまま、額についた赤さびをこすって落とした。
それだけだった。倒れるどころか、血も出ていない。思いっきり殴ったはずなのに。
「そろそろ……いいよねェ? もう我慢できない」
3
こめかみの下の血管が膨らんで、脈動が耳の裏側に響く。
興奮を伝達していたアドレナリンが尽きて、緊張に取って代わられていく。
心臓のあたりから本能が叫んでいる――「逃げろ!」
しかし、鉄棒を取り落とした手は冷えている。体を支えるのに精一杯で、立ち上がることさえできない。
がらん。
ひん曲がった鉄棒を蹴飛ばして、女はせせら笑っていた。
「月がいちばん大きくなる夜なんて、ドキドキしちゃう」
不気味に白い手がベージュのワンピースの真ん中に触れる。女はぎゅっと自分の胸をつかんでから、その下に手を滑らせていく。
「でも、うれしいなァ。武器まで使って、それって私に対して本気ってことだもんねェ」
女の手は腹の下あたりを撫でてから……ビッ、と音を立ててその生地を引き裂いた。
「だから、私も見せてあげる」
そうして、ワンピースの中から現れた白い肌に……女は自分の爪を突き刺した。
「なにを……」
それ以上は言葉が継げない。まだ呼吸が落ち着いていない。
ぶちゅ、と肌と肌の裂け目から赤い血がこぼれ出す。爪が深く肌に食い込み、ずぶずぶと入り込んでいく……
「っはぁああぁん……!」
苦悶の声。苦痛ではない。女はあきらかにその行為に快感を得ていた。
「あん、もっと奥に……くゥん」
爪が腹に突き刺さって。
そのまま、指が。
手が。
手首まで。赤い血をぼたぼたと垂らしながら、女は自分の腹へ手を突っ込んでいた。
「何をやってんだ……」
喉の奥にぬるい感触がこみ上げてくる。体力を使い果たしていた俺は、そのままアスファルトの上に吐瀉していた。
「はじめては、みんな驚くモノだから……」
女は笑っていた。蔑んでいるのではない。まるで怒った子猫をなだめようとするときのような笑い方。
自分の優位を確信している。
「ほら、見てごらん」
ずる、ずる……腹の中に突っ込んだ手が、何かを引っ張り出す。赤黒い血にまみれた、刃渡り20センチはあろうかというナイフがその手に握られていた。
「普段は隠してるのォ。無害な顔をしてないと、男の人って優しくしてくれないでしょ?」
血まみれのナイフに月光が反射している。刃が俺に向けられていた。
「なんで……」
「私たち、おんなじだと思うけどな」
ふっと、月に影がかかった。
「体が目当てでしょ」
暗闇のなかでもはっきりわかるほど鮮明に、赤い刃がひらめいた。
「っぅ!」
情けない声を上げながら、俺は腕を突き出した。上腕の肘から手首にかけて、熱い痛みが走る。
斬りつけられた。
俺を殺そうとしている!
スーパームーンの月光が再び路地裏にさす。女は下半身を血まみれにしながら、平然とナイフを左手に持ち替えた。
「手加減したのに」
ケガをしたのは俺のせいだと非難するような言い草。
「くそ……」
罵声を浴びせようと思ったが、それ以上は思いつかなかった。それよりも速く逃げなければ。
必死に体勢を立て直す。女の異常な自傷を眺めている間に、走り出せるだけの体力が戻っていた。
「ダメだってェ」
がくんっ!
走り出そうとしたとき、再びあの重みが腕を引っ張った。前のめりに倒れそうになるが、それすらできない。腕を後ろに引っ張られ、俺は体をねじりながら尻餅をついた。
「いいにおい」
女は俺の手首を掴んでいた。
ただ掴んでいるだけなのに、俺は動けない。締め付けられて、腕の傷から血がどろりと垂れ落ちる。
「味見しちゃおう」
女がその腕を引っ張る。体ごと持ち上げられてしまいそうだ。抵抗していたら肩が抜けていただろう。
赤い舌が、俺の腕を舐めあげる。粘付いた感触が皮膚の裏側を這い、傷口から血をすすられる。
「あぁ……」
女の目が陶酔に染まる。頭上の月を見上げてその口から吐息を漏らした。
行列に何時間も並んでようやく手に入れた一杯を飲んだときのような、充足感に満ちたため息だった。
「おなかがすいちゃう。さっきは我慢してたから」
「そんなもの入れてるからだろ……」
ナイフは女の左手でぶらぶらと揺れている。
女はにやにや笑いながら、俺の肩を押した。
「ぅっ……」
押し倒され、のしかかられる。女の下半身に垂れた血が、俺のズボンをべっとりと汚す。
今更のように腕の痛みがじんじんと響いて、体に力がはいらない。いや、もし無傷でも敵うはずがない。
あきらかに、この女は俺よりも強い生き物だ。
月を背にして女の顔が隠れる。血のついた唇が動いた。
「いちばんおいしいところが欲しいなァ」
赤黒く濡れた刃が滑り……俺の胸の上でぴたりと止まった。
「やめ……」
刃の数センチ下で、心臓が跳ね上がる。両手で女の手を掴む。ケガをした腕には力が入らない。片手で食い止めようとするが、押し返すことさえできない。
「あんまり暴れると、入るときに痛いかも」
顔の見えない女が笑っている。
腕が痛い。
血が流れて指先がしびれている。
全身が汗まみれだ。
冷たいアスファルトに体温を奪われていく。
寒気がする。
女が俺の上にいる。
(痛いのはイヤだ)
頭の裏側がしびれて機能を失っていく。
押し倒されたまま力が入らない。
女の手を掴んでいた手から力が抜けて、俺は両手足を投げ出した。
(この後はどうなるだろう)
ストンとまぶたが落ちた。全身麻酔のように、体から力が抜けていく。アドレナリンにはもう期待できそうにない。
路地裏で胸をえぐられた変死体を見て、警察が動くだろうか。ニュースになるだろうか。もしそうなっても、きっとこの女は平気だろう。平然と、また別の獲物を探すに違いない。
そういう生き物に目をつけられてしまった。
「それじゃあ……」
つう、と、冷たい感触が胸の上を滑った。Tシャツと一緒に皮膚が切られた。もう痛みは感じなかった。
「いただきます」
ドクン、と鼓動を感じた。体がこわばる。
女は重心を動かして――
そのまま、立ち上がった。
「やーめた。一度に食べちゃったら、もったいないもんねェ」
哄笑が路地裏に消えていく。
俺は目を開く力もなくして、冷たいアスファルトの上に寝転んでいた。
女は足音もなく消えた。
立ち上がれない。
この路地裏から這い出したとして、いつあの女がまた俺の前に現れるのかわからない。今までと同じように生きていくことはできない。
二度と立ち上がれない気がした。
大きな月が真上から俺を見下ろしていた。
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