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小さな事件  作者: 若葉
5/5

その五(完)

雪でも降りそうな寒い帰り道、空は重たい雲に覆われていて、足元から立ち上る冷気に足が重かった。


彼の吐き出した言葉の意外な重さが、辛かった。

その一言一言が、どうにも重くて、私はなす術のない自分の圧倒的な無力さに、彼の今までの苦痛に、言い知れぬ戦慄と苛立ちとを覚えた。



災害というものがある。

また戦争というものがある。

時として人の命まであっけなく奪い去ってゆく災害や戦争。それは多分生きてゆく上である日ある時から問答無用に誰かの上に避けようもなく降りかかり苦しめるものなのだろう。決して彼が悪いわけではない。心の災害。心の銃弾。彼がそれによって深く傷付いた事実になんらの偽りも間違いもない。ただ、大規模な多くの人が一度に傷付く災害ではなく、また大空襲でもなく、ただあくまで個人個人の人間関係や社会関係の問答無用の暴力によって心身の深手を負ってしまった。壊れた街や体の損失、負傷と違って多数の人の目にはそれが見えず、映らず、また怯えて挙げられることのない声に気も付かず、やっと挙げた幽かな声にも気も付かず、見てみぬままやり過ごしてきただけなのではないか。


私の前で小さく青白く笑う彼は確かに五体満足で、今のところ食うに困らぬ有り難い身分の者であろう。

しかし彼の心は誰とも比較する意味もないくらいに、はっきりと焼けただれ傷付いていた。

暗い部屋で傾聴しただけの私には、彼の傷の全容は掴めなくとも、彼の心の傷口から滴る赤い血だけは、それだけははっきりと見えたのだ。


私には、ただ虚ろな彼の前で鼻を小さくすすり、涙の一欠片を瞳の縁に湛えるより他になかった。


残酷な姉の影。

今ものうのうと生きている。

幸せかどうか知らぬが結婚して子供まで設けている。彼を精神的に追いやり今日の無惨な姿にした第一の悪人。


私は、それは他人事には過ぎないながらも、彼の姉の所業の胸くそ悪さに思わずヘドが込み上げてきた。


帰り道、いくら歩いても寒さとやるせなさに体と心の細かい震えが収まらなかった。

仕方なく、無い金で安い紙パック大容量の日本酒を買い、アパートに帰るなり煽るように飲み、テーブルを何度も何度も力の限りに殴り付けた。


新芽のように幼い柔な心を繰り返し繰り返し、来る日も来る日も踏みにじり痛め付ける…。これは魂の殺人である。魂の拷問である。それを解決しようとせずに、見てみぬ振りをして、事無かれ主義で、なぁなぁで放置して済ましてきた親父も同罪である。いや、最も罪が重たい。何故自分の娘を止められなかったか。何故然るべき場所に相談なりしなかったか。


結果息子の精神は日毎磨り減り摩耗して表情さえも失った現実を、情けない、だらしないと一言で他人事にしている。

何を考えている。


酔うほどに私はやりきれなくて、歯を食いしばったまま一夜まんじりとも出来なかった。



それから数日、小さな街に冷たい雨が降り続けた。


私も薄暗い部屋にこもったまま、時々煎餅などかじっては残っていた酒を飲み、もやもやした心を抱えたまま横になって過ごしていた。

とても出歩く気持ちにならなかった。


そんなある夜、例のラーメン屋で事件が起きた。


犯人の姉と父とが刃物で刺され、命に別状はないものの重症であると、テレビニュースの男性キャスターは緊迫した面持ちで伝えた。

犯人も自殺を図り一命をとりとめたものの重症であるという。


彼はその場で確保され、救急搬送された。


私はテレビから流れる音声を布団の中で背中に聞いていた。

一報を聞き、慌てて起き上がりテレビの画面を食い入るように凝視した。

当たり前だがテロップに出てきた彼の実名と、現場となった店の写真とが映る事件の報道を見て、驚きよりも、虚しさが私の心に重くのし掛かっていた。


ああ、やってしまったか…。我慢できなかったか。

とっさにそう思った。


彼は打ちのめされた自分を想った時に、自分を守るために怒るしかなかったのだろう。

どす黒い怒りの炎は、彼の周囲ばかりか彼自身をも焼き尽くした。


崩れそうな脆い一つの心が、一面の黒煙と砂煙とを舞い上げながら一気に崩れていったのだ。


誰が彼を責められるだろう。


無論、悪として犯罪者として法の下に罰を受けるのは彼一人であろう。

それは彼も当然覚悟の上だろう。


私は、違う、と思った。

彼は確かに越えてはならぬ一線を越えてしまった。


その犯罪行為は断じて許されるものではない。

けれどもその遠因は何処なのか。何故彼がそこまでうちひしがれ追い詰められてしまったのか。


悪びれもせず、いやそもそも罪の意識など一欠片も持たぬまま、しゃあしゃあと生きている悪はいる。

なんでもない顔をして、罰を受けもせず、被害者面して平和に暮らしている。


そこは誰も問い詰めないのだろうか。


いくら思い憤ってみても、現世の日本の多分世界中の法律がそれを認めている以上、私なんぞのしゃしゃり出る幕ではない。


報道は翌日まで時おり繰り返され、やがて全く報道されなくなった。


世の中は新たなニュースに溢れている。

次から次に起こる、また別のニュースに話題は移り変わっていったのだ。


昨日の小さな街の小さな事件など、世間の大きなニュースによって過去へとあっさりと押し流されていく。


関係者以外の広く大きな世間にとっては、よくある小さな街の、よくあるほんの小さなちっぽけな事件に過ぎないのだ。


そんな現実の受けとり方、あっけなさに対して、私はただ暗憺とした。


私は何をしに彼の部屋を訪れていたのだろう。

彼の助けになるはずが、逆効果だったのかもしれない。むしろ却って彼を徒に傷付け刺激してしまっただけだったのかも知れない。


私も含めてこの一件に関わる誰もが深く傷付いてしまった。



親父はしばらくラーメン屋を休業した後、いつしかひっそりと店をたたんだ。そのまま誰知らず消息を絶ってしまった。

私には親父のその後を知る術もなかった。


あの事件からもう何年経つだろう?長い年月は時に呆気なく、時にじっとりとした果てしなさを経て、あくまでも淡々と流れていった。



今日、雑踏でふとすれ違った男。


年格好、あの泣きべそみたいな目。項垂れた面持ち。あの時の彼の姿によく似ていた。しかし今ならもっと老けて、私同様の中年になっているはずだ。

いくら何でも若すぎる気がする。


あれから何があったのか。多分刑期を終えて出所しているであろう彼は今はどうしているのか。

少しでも笑顔を取り戻せたのだろうか。

そして、今は何を思い日々を暮らしているのだろうか?


道行く人々一人一人、マスクの下はどんなだろう。心の中、どんな過去があるのだろう。


私には何もかもが分からぬまま、またマスクだらけの雑踏の中にそっと紛れ込むしかなかった。


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