フェイズ05-1「新旧対立と三十年戦争(1)」
16世紀が始まって四半世紀を過ぎた頃から、白人社会は大きく「二つと二つ」に分裂していた。
ヨーロッパとアスガルド、カトリックとプロテスタントのそれぞれ二つにである。
(※18世紀に入るまでのロシアは、ヨーロッパの辺境のとるに足らない勢力でしかない。)
ヨーロッパ世界は、ルネサンスを経て中世のまどろみから目覚めたが、それが「二つと二つ」を作り出した。
特に航海技術と船の製造方法が発達しなければ、ヨーロピアンが再び新大陸に至ることは無かった。
ヨーロピアンが来なければ、自ら断絶した白人社会を形成したアスガルド人は、依然として中世のまどろみ中にあった可能性は極めて高い。
また中世の悪夢から覚めなければ、ヨーロッパにおいてプロテスタントが興る事もなかったかもしれない。
ある意味、禁断の扉を開けてしまったわけだ。
そしてそれぞれ時代の変化が求めた結果であり、ヨーロピアン達にとっては次なる過酷な時代の始まりでもあった。
15世紀末にヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見して以後、一見ヨーロピアンによるアジア進出と収奪、ヨーロッパへの富の集積は順調に見えた。
イスパニアやポルトガルは、アジア各地に植民地も建設した。
ヨーロッパの一部の町並みも、アジアからの収奪によって随分と立派になった。
そうした一部は、ヨーロッパでは地震が少ないこともあって、当時の景観を今に伝えている。
イスパニアやポルトガルの一部の瀟洒な町並みは、アジアからの収奪が無ければかなり違った形になっていたかもしれない。
統計的に見たヨーロッパ世界の富みの全体も、この時期に確かに大きな上昇曲線を描いていた。
だが、もしグリーンランドのヴァイキング達が新大陸に到達していなかったり、グリーンランドで死に絶えたりしていたら、という感情が当時のヨーロピアンの間に強くあった。
新大陸にあった原住民による国家を倒し、莫大と言う言葉すら不足する巨大な富を得たのは、かつてヨーロッパで最も辺境に住んでいたヴァイキングの末裔だったからだ。
富と栄光を得るのが自分たちでない事への不満がかなりのものだったことが、当時の文献などから伺い知ることが出来る。
ヨーロピアンがアスガルドを憎むのは、単に宗教上の事だけではなかったのだ。
しかも、簡単に莫大な富が得られなかったばかりか、せっかく見つけた新大陸に行くことすら叶わないという状況は、ヨーロピアンにとって大きな不満だった。
アスガルドの大地を占めるのが元はヨーロピアンなのに、古い神話を奉じる邪教徒となれば尚更だった。
しかも彼らの外見は、単に白人であるだけでなく金髪碧眼で大柄という特徴を示すことが多く、そうした点もヨーロピアンの負の感情を増幅させていた。
当時、世界の銀の一大産地を持つアスガルドがヨーロッパの別世界に属している事は、それほどヨーロピアンに負の感情をもたらしていた。
また、アスガルドと日本という当時の銀の最大の産地が自分たちの影響により強い軍事力を有するに至ったことも、予想すらできなかった大きな誤算だった。
アスガルドの大艦隊が目の前に現れるまで、ヨーロピアンの多くはアスガルドという相手を、衰退したヴァイキングの亜流で所詮は弱小勢力でしかないと思いこんでいたからだ。
そして何より、新大陸以外の他の地域で同じような事がほとんど起きていないだけに、ヨーロピアンに富を渡すことを良しとしない何らかの力が働いているかのように思えた。
ヨーロピアンによる世界進出は、アフリカやアジア沿岸の文明進歩の後れた地域では比較的うまくいっていたが、物理的限界もあってアジアへの進出は常に限られていた。
何しろアジアは、遠い上に人が多すぎた。
ポルトガルが得た植民地も、ごく限られた都市などだけでしかなかった。
アフリカに対しても、沿岸部はともかく奥地はヨーロピアンを襲う恐ろしい疫病や厳しい自然環境のため、事実上進出するのが不可能だった。
北アフリカは若干の例外だが、当地域の多くはイスラム教との勢力圏で、さらには強大なオスマン朝トルコの支配領域だった。
イスパニアが勢力を伸ばせるのは、西地中海沿岸の一部港湾都市に限られていた。
それ以上は依然として強力なイスラム教徒のため、コスト面で長期的支配が不可能だったからだ。
大砲や鉄砲は、ヨーロピアンの専売特許ではなかったのだ。
アフリカの西部、中西部の沿岸では武器や鉄の道具、衣類などの加工品を売ることでボロ儲けできたが、彼らの持っている金銀はたいした期間をおかずに魅力ある分量ではなくなっていた。
文明発祥以来の金の採掘により、既に多くが尽きていたからだし、現地の人々は砂漠を横断するイスラム教徒との繋がりも続けていたからだ。
そしてヨーロピアンの工業製品との主な対価は、限られた量の金を除くと、当時の最重要品目の一つだった砂漠の奥地で取れる岩塩と、一部の希少品や珍しい現地の物産となっていた。
現地での部族抗争の過程で発生する奴隷も、商品の一部として受け取る事は出来るが使い道も限られていたし、黒人をヨーロッパの農場で奴隷として使おうとは流石のヨーロピアンも考えなかった。
それでも当時小国(※総人口は100万人程度)だったポルトガルにとっては、アフリカ沿岸やアジアで得られる富は莫大であり、これがポルトガルがアジア、イスパニアが新大陸と勢力圏が分かれていれば問題も少なかっただろう。
アフリカ沿岸はともかく、人の溢れるアジアは富みも溢れていた。
それにアジアでは、ヨーロッパで希少な胡椒やナツメグなどの香辛料を安価に得ることができた。
しかしヨーロピアンには、喜望峰を通る海の道しか使うことができなかった。
地中海から紅海、インド洋へと抜ける海の道は、依然として強大なオスマン朝トルコが押さえていた。
また不用意に新大陸に向かうことは、アスガルド人が決して許してくれなかった。
ポルトガル人が16世紀初頭にブラジルと名付けた南の新大陸の一角も、既にアスガルド人が警戒の目を光らせていた。
それでも短期的に南アスガルド大陸に行くことは出来るが、アスガルド側が常に警戒しているため、長期間となると極めて難しいのが現状だった。
そして当時ヨーロッパ随一の大国だったイスパニアにとって、アジアで得られる限定的な富では、帝国の拡大どころかヨーロッパでの領土維持にすら足りていなかった。
イスパニアの歴史上で最大級の繁栄を達成したと言われるフェリペ二世の時代でも、イスパニアは何度も債務不履行を出している程だ。
しかも時代が下ると、アスガルド人が新大陸のエーギル海の島々で大量生産するようになった砂糖が、北ヨーロッパやイスラム世界を経由してヨーロッパに輸出されたため、ヨーロッパから銀がアスガルドに流れることになっていた。
アスガルドからヨーロッパに流れた銀が、環流しているに過ぎない状態だった。
一時期は北欧経由でアスガルド人によく売れたガラス製品を始めとする高度な加工品、工業製品も徐々に売れなくなっていったため、ヨーロッパでの銀(貨幣)の流通量は徐々に停滞を余儀なくされた。
そうした状況は、早くも17世紀初め頃に現れ始めていた。
そうした中、ヨーロッパ辺境のイングランドが16世紀中頃に注目したのが、北大西洋海流を使って北ヨーロッパ諸国にやって来るアスガルド人の船だった。
アスガルド人の船は、北ヨーロッパやイスラム教徒、つまり異教徒と邪教徒ととの取引のため、船には砂糖や煙草などの商品と共に、大量の銀を積載していることが多かった。
この銀を奪って短期的に国力増大を図ろうというのが、当時裕福とは言えない国だったイングランド王国の構想だった。
イングランドでは、アジアから帰ってくるイスパニアの船を狙う事も行われたが、距離の問題、密度の問題、そしてアスガルド人を攻撃してもヨーロピアンからは殆ど文句が出ないという政治的理由から、16世紀中頃からアスガルド人が攻撃対象とされた。
そしてある程度の頻度でアスガルド船の襲撃に成功するも、イングランドはアスガルド人の激しい怒りを買い、アスガルドからは主に洋上で激しい攻撃を受けるようになった。
陸地でも、アーサー王伝説の地とも言われる西部のコーンワル半島やウェールズの一部沿岸は、一時期酷く荒れ果てた。
1588年には、数十隻ものアスガルド人の大艦隊がイングランドに襲来し、テームズ川を遡上して首都ロンドンに火を放って大火をもたらした。
それ以外にも、往年のヴァイキングのように何度かブリテン島を荒らし回った。
イングランドも船の扱いには長けていたが、かつてヨーロッパ最強を誇ったヴァイキングの末裔達も、同等かそれ以上に船の扱いには長けていた。
また、北ヨーロッパの国々からも、かなりの恨みを買うことになった。
何しろ、間接的に彼らの富を奪っているのがイングランドだからだ。
このためアスガルド人以外から攻撃を受けることも以前より増えるようになった。
イングランド側も果敢に反撃したが、アスガルド大陸にまで本格的に攻め込む力はなく、エーギル海での小規模な海賊活動が精一杯だった。
一時期英雄とされたドレーク提督も、エーギル海でノルド王国海軍に追いつめられ敗死している。
イングランド近海以外での戦い以外となると、アスガルド人の植民地となったアイスランドへの嫌がらせ程度の攻撃が精一杯だった。
イングランド単独で見た場合、アスガルド人の方が既に十分強大な相手となっていたからだった。
おかげでイングランド王国は、奪った以上の富がブリテン島から失われたとも言われた。
それでも、その後もイングランドはアスガルド船襲撃をしぶとく継続し、相応の成果を得ることができた。
イングランド以外の他の国も、私掠船や海賊でアスガルド船の襲撃は行ったが、アスガルド側の個々の戦力が強いため危険も多く、そしてこの頃アスガルド人が主に北大西洋の北側を利用した事から、ヨーロピアン優位とまではいかなかった。
船の航行が比較的容易い春から秋までの北大西洋航路は、流氷以外で危険に満ちた海となった。
なおアスガルド人は、自らが主に北ヨーロッパに赴くときの帰り道として、ゆっくりと北太平洋北部を戻る以外に、スコットランド、アイルランドを経由して、イベリア半島沖を通過してイスラム勢力圏の北アフリカに入る海の道を、特に冬の間使っていた。
各地を経由するのは、そうしなければ自分たちがカトリック系キリスト教国から一方的叩かれてしまうからだ。
このため、アスガルド人の血にケルト民族の血が若干入っていることを表向きの理由として、ノルド王国はスコットランド王国、アイルランド王国への援助を行っていた。
武器や資金の援助が主で、ブリテン島主要部を占めるイングランド王国が勢力を付けるのを阻止していた。
このためイングランドは、ヨーロッパ大陸の旧教国と新大陸の双方から叩かれたため、ヨーロッパ世界でも早い段階での農業改革(大規模集約農業や第一次囲い込み)や毛織物産業での成功で作り上げた経済的成功を過剰なほど国防に費やさざるを得ず、また周辺部に対する勢力拡大も抑制され、長らく低迷を続ける事になる。
一方大きく隆盛しつつあったのが、ブリテン島のほぼ対岸に位置するネーデルランド地域だった。
ネーデルランドの隆盛は、北海のニシン(鰊)が産卵場所をネーデルランド近辺の沖合に移した事で始まると言われる。
キリスト教を中心として動くヨーロッパ社会では、イエス・キリストが荒野で絶食した故事に習って、復活祭前の40日間は獣肉を食べない習慣があった。
この時期は、主にタラ(鱈)やニシンが大量に塩漬けされてヨーロッパ中で食べられる。
魚の保存用に使われる塩の量も膨大で、中世からルネサンス期は塩(岩塩)の取引が商人の最も大きな商売だったほどだ。
そして莫大な富を産むニシンたちは、地球が温暖な間はデンマークのあるユトランド半島近辺で産卵したため、これを捕らえるデンマーク王国が大きく経済力を上げ、北ドイツのハンザ同盟が繁栄した。
しかし15世紀なると、ニシンたちは北海の沖合に産卵場所を移動し、これを捕まえる船を建造するライン川河口部つまりネーデルランドの経済発展が始まる。
また海水温の変化によって、タラが生息地を変えていった事もネーデルランドには有利に働いた。
初期はアントウェルペン(アントワープ)、後にアムステルダムがネーデルランドの経済の中心地となり、近在が毛織物産業の中心地であったこともあって、ヨーロッパ経済の中心となっていった。
加えて、ヨーロッパ世界で先駆けた農業改革の進展が、ネーデルランド経済をさらに拡大させた。
そしてこのネーデルランドはイスパニア=ハプスブルグ領であり、イスパニア経済と国家戦略の重要な一翼を占めていた。
しかし経済的成功を掴んだ人は自由を求めるようになり、これに宗教改革が加わり、独立への動きが出来上がる。
実際16世紀中頃に入ると独立戦争が開始され、40年近く戦った後に事実上の独立を勝ち取る事に成功する。
ヨーロッパ随一となった経済力と合理的な社会、そして合理性が産み出した新たな軍隊が勝利をもたらしたのだった。
しかしそのネーデルランドには、大きく二つの懸念あった。
一つは、宗主国のイスパニアが、16世紀末の当時ではヨーロッパ最強の国家だった事だ。
余程イスパニアが衰えるか窮地に陥らない限り、イスパニアからの干渉の排除と完全な独立は難しいだろうと考えられていた。
しかしイスパニア本国は財政基盤が強いとは言えず、アジアから得られる限定された富みだけではネーデルランドと戦うための戦費を賄えず、ヨーロッパ経済の中枢を牛耳るネーデルランド人は、事実上の独立を勝ち取ることができた。
だがそれでもイスパニアは強大であり、依然としてヨーロッパ世界の盟主であった。
そしてネーデルランドは、そのイスパニアに刃向かう勢力だったので懸念が大きいのは当然だろう。
もう一つの懸念は、新大陸のアスガルド人が、民族的繋がりを理由として北ヨーロッパ諸国との関係を深めた事だった。
地球規模での寒冷化以後低迷が続く北ヨーロッパ諸国は、プロテスタントに国ごと改めた事により国家、経済など多くの面で合理性を実現しようとしていた。
本来なら、同じプロテスタント国家のネーデルランドと連携できる筈なのだが、彼らは民族的繋がりを理由として、実際は経済的利益を得るために新大陸で古い邪教を復活させたアスガルド人との繋がりを深めた。
何しろアスガルド人は、うなるほどの銀を持っていた。
デンマークの首都コペンハーゲン、ノルウェーの首都オスロにやって来るノルド王国船に乗り込んだアスガルド人達は、当面自分たちが作れない加工製品、工業製品と交換するため、大量の銀と共に新大陸の物産として大量の銀と砂糖や煙草を持ち込んでいた。
このため、豊富な銀と贅沢の象徴である甘味、新たな嗜好品に吸い寄せられたヨーロッパの物産と銀の多くが北ヨーロッパ諸国に流れ、必然的にコペンハーゲンやオスロは経済的に発展した。
そしてアスガルド人が持ち込んだ大量の銀と他の物産での売り上げで、ヨーロッパやイスラム世界の優れた文物、書物、技術を買いあさった。
それ以外にも、アスガルド大陸で不足する希少価値の高いものを積み込んで、アスガルドへと帰っていった。
そして巨大な取引のため、ヨーロッパ中の商人達が宗教対立を少しばかり見なかった事にして北の港町へと足を運んだ。
このお陰でコペンハーゲンは、ニシンの群で溢れかえっていた頃の繁栄を取り戻す事ができた。