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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ04-1「銀の国ジパング(1)」

 ヨーロッパでは、アスガルド世界から間接的に流れてくる銀、アジア各地での収奪や掠奪、さらには日本や明から貿易で得られる銀により、徐々に銀の価値の下落つまり物価の高騰が起きて、貨幣流通量の拡大によって商業の大幅な発展が見られるようになっていた。

 これがヨーロッパにおける、「価格革命」だった。

 豊富な銀が、商業の発展と貨幣経済の発達を促していたのだ。

 

 そうした中心にあったのが、キリスト教世界で世界の海の優先的使用権を実力によって持っていたイスパニアであり、彼らは新大陸で得られる筈だったと彼らが考えているものの代わりをアジアに求めた。

 

 そして、当時世界の銀の半分近くを産出する岩見などの銀山を持つ日本との関係を作り上げることが、16世紀半ば以後にアジアを目指すヨーロピアンの一つの目的となっていた。

 

(※神の視点より:メキシコのサカテカス銀山はアスガルド人が有するが、アンデス山脈のポトシ銀山はこの頃まだ見つかっていない。

 インカ帝国が本格的膨張期に入る前にアスガルド人のもたらした疫病で衰退、さらには侵略を受けて滅亡した影響とする。

 ポトシ銀山の発見はもう少し先。

 )


 当時日本列島は、「戦国時代」と呼ばれる一世紀以上続いた大規模な戦乱期(内乱期)にあり、日本列島内の険しい地形障害を挟んだ各所に、それぞれ大きな勢力を持つ戦国大名と呼ばれる諸侯が乱立していた。

 当時日本列島の総人口は1500万人程度だったと言われているので、ヨーロッパの大国一国分程度による内乱であったが、食糧供給能力の高い米を主食としている事など様々な要素が重なっているため、年中行事のように大規模な戦闘が行われつつも、地域全体では経済発展が促されるという状況が、日本列島で行われていた。

 

 そうした「悪魔的」な日本列島にポルトガル人、イスパニア人、そして少し遅れてアスガルド人がやって来た時、日本人達が興味を示したのは彼らが持っていた優れた文明の文物だった。

 特に新兵器である鉄砲(火縄式マスケット銃)には極めて強い興味を示し、アスガルド人よりも短い時間で量産化を行い、半世紀後には世界で最も多数の鉄砲が保有されるまでに急拡大していく。

 日本人も、ヨーロピアンに負けず劣らず騒がしい人種だった。

 

 そして戦乱に明け暮れる日本において、ポルトガル人は商売を念頭に動いた。

 イスパニア人は、より高いレベルでの商売、最終的には植民地化による収奪を画策していた。

 実際、日本に近いフィリピンと名付けた大きな諸島への侵略を、日本への商業進出の傍ら現在進行形で行っていた。

 日本ではなくフィリピンが選ばれたのは、現地に国家と呼べるものがなくて制圧しやすかった事と、日本だけでなく中華帝国(明朝)との貿易も想定していたためだった。

 一方ポルトガルは明朝からマカオを得て、東アジアの橋頭堡としていた。

 

 他にも、大東洋を押し渡り少し遅れて日本へと至ったアスガルド人が、自分たちにとっての世界の裏側からキリスト教徒の国に襲われる可能性を阻止するべく、別の邪教徒であるアジアの人々との取りあえずの連携を模索しようとした。

 

 なお、アスガルド人が広大な大東洋を渡りきって最初に到達したのは琉球諸島で、彼らの言葉を聞いて周辺で最も武力を持つ地域という日本へと至っている。

 この時琉球の民が中華地域を示さなかったのは、自分たちの貿易を少しでも邪魔されたくなかったからだと言われている。

 

 もっとも、当時ヨーロッパから最も遠く、アスガルドからも辺境に至った上に世界で最も巨大な海洋を渡らねばならない地域への進出は、常に限定的とならざるを得なかった。

 

 アスガルド人による最初の航海(大東洋横断)でも、西暦1573年に4隻の船でパナマ地峡を越えた大東洋側の港湾拠点ノーアトゥーンを出発するも、三ヶ月後に琉球まで到着したのは3隻。

 その後1576年にアスガルドに戻れたのは2隻だった。

 

 両者にとっての例外は宗教で、イエズス会によるキリスト教の布教は、当時の日本人社会に蔓延っていた急進的かつ政治的な仏教(※主に「一向宗」)の打破という目的もあって各領主の庇護を受けられたため広まった。

 遅れてアスガルド人が持ち込んだラグナ教も、日本人の多神教に受け入れられやすく、他の宗教勢力を衰退させるという目的のため一部で広がることになった。

 だが例外は宗教ぐらいで、ほとんどが日本人の都合で戦国時代は進んでいくことになる。

 

 日本での戦乱は、鉄砲を得たことでさらに加速及び拡大したが、外国からの影響が直接戦乱に影響する事はほとんどなかった。

 

 天下統一つまり日本統一に最初に最も接近したのは織田信長だったが、彼は1582年にクーデターにより呆気なく倒された。

 織田信長の事業を引き継ぐ形になった元家臣の豊臣秀吉(羽柴秀吉)が日本統一を成し遂げるも、彼には後継者が不足し、当人も政権が安定するまで生きながらえる事が出来なかった。

 そして最終的に日本統一を達成したのは、1600年の関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康となった。

 

 革新的過ぎる前者二人よりもやや保守的な人物が勝者となったのは、実に日本らしいと言うべきなのだろう。

 


 なお、アスガルド商人にして貴族であったシモン・ロキソンが、アスガルド人として初めて日本人に仕えた人物である。

 すみれ色の瞳を持つ大柄なアスガルド人は、三人の覇者それぞれに仕える事で、当時の日本事情をアスガルド世界に伝える役割を果たしている。

 また彼は、日本で最初のアスガルド語(ルーン語)を教える学校を開いた人物でもあり、日本語を巧みに操り、アスガルド語の和訳辞書を最初に作った人物としても知られている。

 日本では紫の目の茶人としても知られ、日本のお茶など様々な文物をアスガルド大陸に伝えたのも彼だと言われる。

 また彼は、約30年間、安土城完成の頃から江戸築城の頃まで日本各地に客人や相談役、そして商取引や外交の窓口として滞在した。

 そして日本語では紫紋鹿尊と称し、日本人女性との間に子孫も残した。

 

 なお彼も、先に紹介したトルコに行ったロキソン侯爵家の系譜に連なる人物で、ロキソン侯爵家は16世紀から17世紀にかけて商人貴族、航海貴族として一族の多くが活躍している。

 日本に、トウモロコシ、パタタ芋、カモテ芋、カカオ、煙草、チリ、バニラなど、新大陸の物産を最初伝えたのも、主に彼と彼の一族である。

 


 ちなみにアスガルド人の名前だが、15世紀頃からヨーロッパ一般と同じく「名+姓」となっている。

 元々北ヨーロッパ系の名前の付け方は、二番目の名前に父親の名に息子又は娘を表す言葉を付ける形だった。

 父の名がトールなら、トールソンやトールディースとなる。

 そうすることで、自らの出自を分かりやすくしていた。

 

 だがアスガルド世界で人口が大幅に拡大すると、名前の種類が元々少ない上にキリスト教系の名前もほぼ全て棄てられたため、似たような名前が並び不便になった。

 そこで14世紀頃から、貴族から民衆に至るまで名+姓という形に変化していった。

 名+姓の形が上流階層以外にも早くから普及したのは、世界でもアスガルドは早い方である。

 

 しかし今度は、名前から先祖や系図の流れが追いにくくなったので、系図や系譜を記録することが必要になり、神殿がその機能を担うようになって民衆に広く浸透するようにもなっている。

 

 また、名前にも連動する身分階級だが、王族=貴族=戦士=民という形に一応はなっていた。

 しかし全ての者の出自は、突き詰めてしまえば全員開拓民となる事を誰もが知っていた。

 建国話に出てくる「赤毛のエイリーク」やレイブ・エイリークスソン、トール・エリークスソンは、昔話として誰もが知っていた。

 

 このため身分階級も、特に王国初期においては特権や称号よりは役職の向きが強かった。

 このためヨーロッパでの、「ド」「フォン」などの出身地を示す冠詞は生まれず、姓名の間に戦士や貴族の階級を表す言葉を直接入れる事が一般的となっている。

 皇族だと、称号としてのカイザー(※皇帝又は皇族を示す)の言葉が入る事になる。

 また、貴族の階位そのものは、ヨーロッパとほぼ同じだった。

 少し違うのは「騎士」と「戦士」の違いで、船に乗ることの多いノルド系民族だったため、馬に乗る事が特別ではなく、死後「戦いの野」に召し上げられる事を望む高貴な人々という意味で、武装階級を「戦士ヘリム」と呼ぶようになっている。

 ただし、ヨーロッパでは敢えて騎士と翻訳されている。

 


 話を戻そう。

 

 内乱終了後の日本では、徳川家康によって新たな幕府(=政府又は王朝)が開かれた。

 そうして新たな統一国家ができた日本では、国内での急進的キリスト教徒への対処の苦慮、キリスト教を先兵としたイスパニアの侵略という虚像に怯え、侵略の阻止と内政安定の手段としての鎖国へと動いていた。

 貿易統制、外貨流出の阻止、そして内政安定のための鎖国政策は、東アジア世界ではよくある事だった。

 

 そしてイスパニアによるキリスト教を利用した侵略という点に大きく注目したのが、アスガルド人による大ノルド王国だった。

 

 アスガルド人は、日本の中央政府(当時は豊臣政権)が最初にキリスト教を禁じた1587年(伴天連追放令)に、時の支配者である豊臣秀吉に全面的な協力を行うことを約束した。

 1589年に日本のキリスト教宣教師追放を知ったノルド王国は、早くも1592年に特使を送り届けている。

 

 実際この頃、アスガルド人はイスパニアを攻撃し、フィリピン侵略を実施してもいた。

 

 この事を時の日本の権力者達も知っており、アスガルド人に様々な交渉や取引を持ちかけている。

 

 アスガルド人との接触期間が比較的短かった織田信長は、アスガルド人と何を行ったのかよく分かっていないが、貿易の促進、ラグナ教の布教の許可、そして帆船技術の供与について話したと言われる。

 実際、その後定期的にアスガルド船が、日本にやって来るようになっている。

 織田信長が保護したキリスト教についても、アスガルド人との間に何らかの合意があったと考えられている。

 

 豊臣秀吉が天下統一する前後に、ノルド王国がイスパニアとの間にフィリピンでの戦いを始めると、フィリピンでの戦いに際してアスガルド船への補給と支援を実施し、ノルド王国との交易を深める文書をかわし、半ば見返りとして外洋帆船の技術供与を求めている。

 

 ただし帆船は、日本の侵略戦争には間に合わなかった。

 

 アスガルド人から帆船の技術供与は行われたのだが、日本で最初の外洋型の帆船が完成したのは1595年の事で、豊臣秀吉による朝鮮出兵の最後の頃に若干数の外洋船舶が軍用船として使用されたに止まっている。

 二度目の朝鮮出兵ではかなりの数の外洋帆船が急ぎ建造され、外洋帆船の技術で多数の船が改良されたのだが、海上輸送や海上交通防衛で力を発揮するも、時の豊臣政府が朝鮮半島という帆船が無くてもよい場所に固執したため、あってもなくても大した違いがなかった。

 しかも当時の朝鮮水軍は、日本以上に沿岸海軍のため沖に出たくても出られず、狭い海で帆船を使いこなすほど当時の日本人も熟練していなかった為、使うべき場所が限られてもいた。

 豊臣秀吉が、直接明朝に侵攻しなかったのも、船員の習熟不足が一番の原因といわれる。

 

 その後日本では商船として帆船の普及が進むのだが、技術と戦争が伴われないと言う事例の典型例だったと言えるだろう。

 

 しかも海外進出の手段を得たのに、日本では政権が豊臣から徳川へと移り、日本は海外進出どころか鎖国へと動いていた。

 

 そしてアスガルド人は、徳川家康とその系譜の人々とその後長く交流を持つことになる。


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