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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ03-2「新旧大陸進出競争(2)」

 アスガルド人の海外展開を可能としたのが、自分たちのヴァイキング船を大幅に改良した外航用の帆船だった。

 この船は、バスクの漁民の船やコロンブスの帆船を始めとして新大陸に到達したヨーロッパの船を模倣したものが始まりだった。

 もともとガレオン船、カラック船が北欧系列の船の長所を多く取り入れているため、アスガルド人達が模倣や改良を施すのも他の技術に比べれば比較的容易かった。

 造船は、手先の器用なノルドの民にとって、基本的技能の一つだった。

 

 また銃や大砲に使う火薬については、存在そのものはヨーロッパと一度断絶する前にイスラム商人から知識として得ていた。

 そこに、南アスガルド大陸の大東洋南岸を探検中に大規模な硝石鉱山が半ば偶然発見されていたため、ヨーロッパ船からの知識による利用法の模倣は、基礎的な技術の消化さえ終わってしまえばかなり容易だった。

 コスト面での有利は、疑うべくもなかった。

 

 無論、鉄砲や大砲、帆船に使われている滑車や金具などの製造に苦難は伴われたが、アスガルド人達はもともとはヨーロピアンの一派だった。

 しかも、中世の時代におけるヴァイキング達は最も器用な民族の一つであり、そうした血をアスガルド人も十分に引き継いでいた。

 

 その上、基礎となった技術のかなりをもとから持ったままだった上に、アスガルド人の社会が一定レベルの人口を要し、知識人、技術者、職人が既に豊富だったため乗り越えることもできた。

 そして経験と時間の差を原因とする知識不足、技術不足を、交流再開と共に猛烈な勢いで埋めようとしており、少なくとも表面上の技術格差については補えるようになっていった。

 

 またアスガルド社会全体は、14世紀頃から人口の大幅な拡大期に入っていた。

 北アスガルド中部の肥沃な土地で収穫率の高いトウモロコシと、トウモロコシを飼料とした家畜群を主食とすることで、爆発的な人口拡大が数百年間続いていた。

 主食の一つとなる動物の肉も、ヴァイキング時代から最も好まれていた豚へと変化していた。

 しかも新作物としては、15世紀中頃に荒れ地でも簡単に育つアステカのカモテ、インカのパタタという二種類の異なるイモ類を入手していたので、北部の開拓、荒れ地の開拓、そして新天地の開拓も遙かに容易となっていた。

 もともとヴァイキングだった頃住んでいた地域に比べ、気候が温暖なアスガルドの大地では羊や牛、豚などの家畜の飼育と繁殖も簡単であり、膨大な食料がアスガルド人の人口爆発を促し続けた。

 

 しかも近世における最大の膨張時期が、15世紀末から以後二世紀の間だった。

 ヨーロッパ世界と再接触した15世紀末に約400万人だったアスガルド社会(大ノルド王国社会)の人口は、僅か一世紀で4倍近くの1500万人に膨れあがっていた。

 当時地球全土で寒冷化、小氷期が本格化しようとしていたが、もともと寒い時期に進出を始めたため、アスガルドでは特に悪い影響は見られなかった。

 

 アスガルドの大地には、手つかずの森に覆われた肥沃な平地が幾らでも余っているので、倍々ゲームのように新たな入植地が開かれた。

 各地で生産される豊富な食料が出生率を引き上げて死亡率を引き下げ、病気にかかる可能性も下げた。

 医療が現代のように発達していない時代において、いかなる薬や治療法よりも豊富な食料と高カロリー食品こそが人口拡大と長寿に直結していた。

 

 アスガルド人が達成した数字は、16世紀末に約1億人程度だったヨーロッパ全体の総人口から比較してもかなり大きな人口だった。

 ユーラシア大陸からの技術導入による革新的な技術発展も重なっており、産業の発展と拡大も急速だった。

 加えて、ヨーロッパ社会という新たな敵を得たことで目標が生まれたため人々の意識も向上し、拡大と発展に拍車がかかっていた。

 

 しかもアスガルド人による勢力圏の拡大と、北アスガルドを中心にした農地の開拓、人口爆発は、さらなる拡大傾向を見せていた。

 北アスガルド大陸内での勢力拡大にも、一層拍車がかかっていた。

 

 新天地では、少しずつパンデミックから立ち直りつつあった原住民との衝突や戦闘が起きたが、鉄の刀剣や防具に加えて火薬を使う武器を得たことで、アスガルド人の武力はさらに大きく増し、原住民の駆逐と征服活動も勢いを大きく増していた。

 


 なおアスガルド人は、新大陸を始め各地に先住していた原住民のことを、古ノルド語で「愚劣な民」を意味する「スクレーリング」という言葉をそのまま使っている。

 その後ヨーロッパにも一般的に流布して、その後アスガルド大陸のほとんどの先住民全体を示す言葉として定着した。

 16世紀ぐらいにヨーロッパで使われた「アトランティス人」や「インド人」という意味の言葉は、すぐにも廃れていた。

 


 一方ヨーロピアン達は、17世紀に入っても新大陸にほとんど進出出来ていなかった。

 アスガルド人の大ノルド王国とは、慢性的な紛争状態だった事が一番の原因だった。

 しかもヨーロピアン達は、アスガルド人を謎の白人勢力と見る向きが強く、長らく大ノルド王国の所在地すら正確には知らず、新大陸は謎に満ちた異教徒の世界、神の威光の届かない暗黒の世界だった。

 

 ヨーロピアン達が、アフリカ西岸から大西洋を押し渡って温かいエーギル海の僻地や南アスガルド大陸の北部沿岸などで密かに入植地や拠点を作っても、北アスガルド大陸を策源地とするアスガルド人がすぐにも押し寄せ、拠点ごと根絶やしに潰されるのが日常となっていた。

 当時は、経済的、技術的理由からヨーロッパから新大陸に出せる船の数が知れているので、新大陸では数と密度が違いすぎて勝負にならなかった。

 しかも新大陸の熱帯、亜熱帯地域は、ヨーロピアンが定住するには過酷な場合が多かった。

 加えて、秘密裏に拠点を設けてもアスガルド人に対して極秘の拠点のため、いっそう環境が悪い場合がほとんどだった。

 たとえ長期間見つからなくとも、定住するにはほど遠い状態が続いた。

 イスパニアが最初に築いた南アスガルド大陸南部に築かれた拠点(マゼラン由来)も、寒い気候に苦心惨憺して病人や病死者が絶えず、しかも十年とたたずにアスガルドの軍勢が押し寄せ、焼き払われ皆殺しにされてしまった。

 そうした時のアスガルド人達は、まさに狂戦士、神話に出てくるエインヘリヤル(バーサーカー)のごとき恐ろしさだったと伝えられている。

 

 無論ヨーロピアンも、黙ってやられていた訳ではない。

 富を産み出す場所を得たいという欲望も十分以上に持っていた。

 しかも、一方的にやられっぱなしでは、ヨーロッパ各国も民衆に対して示しがつかない。

 教会の権威も落ちてしまう。

 

 一度イスパニア・ポルトガルなど幾つかの国々がキリスト教会の調停を受けて連合を組んで、大型ガレオン船を中心にした30隻以上の大艦隊を編成して新大陸に赴き、大ノルド王国本土の攻撃を企てた。

 とにかく相手の概要すら分からないのでは、作戦の立てようがないからだ。

 

 「探索艦隊」と名付けられた彼らは、これまでの苦い経験を踏まえてアスガルド人を出し抜き、1568年に北アスガルド大陸東部沿岸へと進んだ。

 沿岸にも近づき、霧や闇夜を突いて短時間の上陸も行われた。

 そして新大陸に築かれた中世時代のヨーロッパの雰囲気を多分に残す町並みを見ることにも成功する。

 

 その間散発的な迎撃に出てきたアスガルドの軍艦、武装商船などを撃退し、士気も大いにあがった。

 だがアスガルド人の本国近くへの進出は大きな警戒と反発を招き、亡国の危機とばかりに動員された大ノルド王国の大艦隊を呼び寄せることになった。

 

 結局ヨーロピアンの艦隊は、長旅と散発的戦闘の連続で疲れていた事もあり、アスガルド人の主力艦隊の迎撃を受けて撃退され、目的を達する事は出来なかった。

 派遣された約30隻の艦隊も、半数以上がアスガルド近辺で沈み、ヨーロッパに戻れたのは全体の二割程度でしかなかった。

 戦死者の数も、全体の80%以上に上る事が文献には記されている。

 

 それでもたどり着いた東部沿岸で、ヨーロッパほど密度は高くないが高度な文明社会が構築されているのを確認し、ヨーロッパ様式とは少し違った建造物を多数目撃し、その報告をヨーロッパにもたらした。

 様々な階層の捕虜と、道具などの文物も少しばかり持ち帰られた。

 

 彼らの見たヴァイキング最大の都市は、数万の人々が居住できるだけの規模を持ち、港には無数の船がたむろしていた。

 そして沿岸部の城塞には、数えられないほどの砲台が建設され、敵対者に容赦なく砲門を開いた。

 迎撃に出てきた艦隊も、以前より強大なものとなっていた。

 

 新大陸は悪魔の住む大地ではなかったが、キリスト教徒にとって悪意に満ちた大地であることが分かったのが最大の収穫だっただろう。

 その証拠の一つとして、キリスト教会の象徴である十字架は、どこにも見つけることが出来なかった。

 

 新大陸は「神々のアスガルド」ではあっても、唯一の神の恩寵が得られる場所ではなかったのだ。

 


 一方では、アスガルド人が北ヨーロッパ地域に時折姿を現しているので、撃退したりアスガルド人を捕まえて相手の情報を引き出した。

 アスガルド人に対する海賊、私掠活動は、「神に対する善行」として教会からも奨励された。

 

 また、キリスト教会とカトリック教国が、金銀につられて徐々にアスガルド人と繋がりを深める北ヨーロッパ諸国を糾弾したりした。

 だが、それがかえって北ヨーロッパ諸国の団結を高めさせ、また外への膨張や新天地へ至ることを誘ってしまう。

 事実、16世紀末頃から、北ヨーロッパや貧しい土地のアイルランドからは、少しずつではあったが北アスガルド大陸に移民する流れが出来始めていた。

 北ヨーロッパ地域が、いち早くプロテスタントが普及した事からくるカトリックに対する反目もこれを助長した。

 

 スカンディナビア人などのアスガルド大陸への移民に際しては、キリスト教を棄てることが前提だったので数は少なかったが、自作農となる可能性を求めた人々が一念発起してアスガルド人が寄越した船に乗り込んでいった。

 15世紀から本格化した地球規模の寒冷な気候は、かつてのヴァイキングほどではないがヨーロッパを蝕んでいた証拠でもあった。

 

 ブリテン諸島でも、アスガルド人たちは自分たちの系譜に近いスコットランド王国やアイルランドの人々を援助しており、大西洋方面に進出を企て始めていたイングランドを押さえ込む行動を取った。

 かつてのヴァイキング達の体には、ノルド系以外にも若干ケルトの血も流れていたからだ。

 これに対してイングランドは、民族的に遠い上にかつてのヴァイキング達が作った王朝を打破しているので、十分に敵たり得ると考えられていた。

 そして北に位置するブリテン島などに行くことは容易く、また一部の場所は北ヨーロッパに至るまでの中継点ともなったので、アスガルド人は比較的頻繁に訪れた。

 場合によっては、かつて自分たちの同胞が国を作り、自分たちの系譜となる人々の末裔やケルト人が多く住むノルマンディー半島に赴く事もあった。

 

 そうしたケルトの人々の一部が、隠れ里などでキリスト教を拒んで生きながらえ、そしてアスガルドへと逃れた事も、アスガルド人がケルトに対する好感情を増やす原因となった。

 なおこの頃のケルトの移民が、アスガルドでケルト神話を復活させる事にもなる。

 

 そして当時のアスガルド人は、基本的に敵対するローマ教会カトリック以外なら、ほとんどの場合受け入れる姿勢を示していた。

 そうしなければ、自分たちが負けて滅ぼされてしまうかも知れないと考えていたからだ。

 ローマ・カトリック(キリスト教)に対する恐怖心や警戒心は、アスガルド人にとってもはやトラウマのようなものだった。

 


 一方、アスガルド人がイベリア半島に手を付けることは難しく、主にイスパニアとの間にアスガルド大陸又はヨーロッパの北大西洋沿岸北部もしくはエーギル海での戦闘が頻発し、互いを強く意識するようになっていく。

 それぞれの地域の、敵対勢力に対する海賊行為は日常茶飯事だった。

 このため両者の商船は、経済効率を無視してでも武装を施して兵士を乗せるのが当たり前だった。

 船団を組むときには、最低でも1隻は護衛の高速武装商船か専門の軍艦を伴った。

 そして不意の遭遇の時などは、自らが優位と判断した側が即座に海賊となって相手を襲う事が非常に多かった。

 大西洋では、武装していない帆船に出会うことの方が難しいと言われたほどだった。

 

 なおアスガルド人達は、ヨーロッパの様々な場所にも進出を行っていた。

 多くは略奪的な交易活動で、相手が自分たちの事を邪教徒などと言って交渉を蹴ると容赦なく襲いかかり、洋上でもキリスト教徒の船を見つけると機を見て襲撃した。

 その姿は往年のヴァイキングを彷彿とさせ、大砲や鉄砲で武装した帆船で海賊活動を行う邪教徒の群、新時代のバイキングとしてヨーロッパの人々から恐れられた。

 こうした活動のため、フランス、イスパニアの沿岸も一時期かなり荒れることになった。

 

 またアスガルド人は、ヨーロッパとの対決姿勢をとっているイスラム勢力のオスマン朝との関係も年々深め、イスパニアの目を盗んで北アフリカの大西洋岸に到来する機会も増えた。

 モロッコなど北アフリカの大西洋岸に至り、そこからラクダや馬を使って陸路で進んで地中海に入るため規模は限られていたが、16世紀から17世紀にかけてのアスガルド人、オスマン朝双方にとって重要な繋がりとなった。

 

 一方イスパニアも、アスガルド大陸に押し渡ってアスガルド人への攻撃を行うことが徐々に増え、中にはアスガルド本土のノルド王国領内の沿岸部を砲撃したり、場合によっては上陸して破壊や掠奪を行うことも行われた。

 エーギル海には、何度も秘密の拠点が築かれ、アスガルド人との間に戦闘を起こした。

 

 当然両者の敵愾心は煽られ、北大西洋は十字軍遠征頃の地中海さながらの危険に満ちた海となった。

 ただ、オスマン朝を味方に、北ヨーロッパ諸国を友好的中立相手にしたアスガルド人の方が、ゲームを有利に運んだ。

 イスパニアが如何に努力しようとも、新大陸で彼らがまともな橋頭堡を得ることが出来なかった。

 何しろアスガルド大陸には、ヨーロピアンの味方となる勢力が存在しなかった。

 この差は大きいと言えるだろう。

 アスガルド人は、内輪もめをしていてもヨーロピアンに対しては全てを棚上げして立ち向かうという性質を持つのは、こうした経験が大きく影響している。

 


 そうしてアスガルド人は、北ヨーロッパとオスマン朝から自分たちに足りない技術や文物を持ち帰り、その見返りとして莫大な金銀や新大陸の珍しい物産を相手に渡した。

 場合によっては、人間もやり取りされた。

 

 二つの地域から新大陸で豊富に産出される銀が特に流入し、それらの銀が順次高度製品を産み出すヨーロッパに還元されたため、徐々に銀の価値下落が起きて、貨幣流通量の拡大によって商業の活性化を促した。

 

 そして北ヨーロッパからドイツ北部やネーデルランド地方への銀の大きな流れがあるため、ヨーロッパ世界は邪教徒と交流を持つ北ヨーロッパ諸国を切り離したり遮断することも出来なかった。

 しかも北ヨーロッパ諸国は、莫大な銀を用いて自らの商業発展を行い、新教の教えに従って商工業を保護育成したため、スカンディナビアとその対岸地域の商工業が大きく発展する事になる。

 これが新教と旧教の対立を激しくさせる一因ともなった。

 

 またオスマン朝も、アスガルドからの金銀の流れと交易により資金的に一息ついたため、ヨーロッパ世界の中枢が受ける圧力が増し、イスパニアも安易に新大陸に遠征している状況でもなかった。

 そして当時ヨーロッパ世界を背負っていると自負していたイスパニア(ハプスブルグ家)としては、自らの力を付けるためにアジアへの進出こそが第一に行うべき事となっていた。

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