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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ03-1「新旧大陸進出競争(1)」

 16世紀前半頃のアスガルド人達は、新大陸にやって来るヨーロピアンに対して、現状では数の優位を活かして圧倒できるが、文明レベルが劣っていることを痛感していた。

 西暦1492年(アスガルド歴442年)の「コロンブス襲来事件」は、極めて大きな衝撃となっていた。

 

 コロンブス以後のヨーロピアンの襲来(探検)によって、かなりの先端技術を得て実用化することはできたが、それだけでは不足だった。

 革新的な技術を用いた帆船の建造は何とか模倣できたが、帆船に使われていた滑車や帆布などの大量生産の為に越えるべき技術の壁は高く、コロンブス襲来から10年ほどは失敗と試行錯誤の連続だった。

 またアスガルド世界そのものが、文明程度、人口規模、社会資本、どれをとってもヨーロッパに対して劣勢だった。

 特に知的財産の蓄積では、勝負にならないほど不足していた。

 押収したガラスなど工業製品製品一つとっても、何もかもが劣っていることを実感させられるだけだった。

 それが、アスガルドが文明をほぼ最初から再構築した事、小さな世界に住んでいた結果による弊害だった。

 

 そして、ヨーロピアンが数を揃えてアスガルドに来たら、最悪の事態も容易く想像できた。

 何しろアスガルドの大地には、キリスト教が存在しなかった。

 中世ヨーロッパの暗黒を知るアスガルド人にとって、キリスト教の持つ極度の排他性は悪夢でしかなかった。

 


 しかし16世紀の最初の四半世紀のうちは、ヨーロピアンは積極的にアスガルドの大地にやって来る事はなく、アスガルド人の警戒は半ば杞憂に終わった。

 また散発的にやって来る船と人間を新たに捕獲して、当面必要な程度の技術向上を図ることはできた。

 捕虜とした船員の中には、キリスト教を棄てて協力的になる者もいた。

 アスガルド人も、旧大陸の最新技術を得るためそうした人々を優遇した。

 

 そして何とか帆船(※この当時は、ガレオン船の前身である、カラック船やキャラベル船で、1492年以前のアスガルド船は、ヨーロッパで言うところのコグ船やクナール船に当たる)の模倣と改良型の生産にまでこぎ着けた意味は、極めて大きかった。

 これでアスガルド人達が、ヨーロピアンと同様に大西洋の中心部を横断していく事が可能となるからだ。

 つまり、自分たちが比較的容易くヨーロッパに再び行けることを意味していた。

 海上で使うための球形の仕掛けを持つ方位磁石(=羅針盤)も、仕掛けさえ分かってしまえばアスガルド世界でも生産は十分に可能だった。

 

 武器の方も、数十年の努力の末に鉄砲、大砲の製造が可能となった。

 鉄砲(火縄式のマスケット銃)、青銅製の大砲の生産なら、アスガルド人達が有している冶金、鍛冶技術の応用でも何とかなったからだ。

 ただし16世紀前半頃は、青銅製の大砲、完全な模倣のマスケット銃の製造が精一杯だった。

 グリーンランドの頃に比べて飛躍的に社会が大きくなったとはいえ、500万人の人間が出来ることは限られていた。

 

 このため船で旧大陸に自ら行けるようになると、アスガルド内で有り余る蛮族から得た金銀を用いる事を思い至る。

 宗教も人種も新旧大陸の差も、そして人の心も金銀の前には全て霞んでしまうからだ。

 

 加えて、16世紀に入ってからの捕虜から得たヨーロッパ最新事情は、アスガルド人にとっては好ましい状況が到来しつつあることを教えていた。

 16世紀前半頃からバルト海沿岸ではキリスト教自体の分裂が起きて、南からはイスラム勢力の侵略が拡大していたからだ。

 

 そしてイスラム勢力からと、ヨーロッパでの宗派による激しい対立、スカンディナビアの人々を利用することで、ヨーロッパの様々な技術や知識の吸収と獲得に躍起になった。

 そうしなければ短期間はともかく、長期間は生き残れない事を、この頃のアスガルド人達は熟知していた。

 民族存亡の危機感が、この頃のアスガルド人達を突き動かしていた。

 


 一方、自分たちがキリスト教を完全に棄てたという点は、不利益ばかりをもたらさなかった。

 キリスト教だけが、世界の宗教ではないからだ。

 特にアスガルド人達にとって価値があったのが、16世紀に入り東地中海を支配するようになった強大なイスラム教世界だった。

 イスラム教世界は、中世ヨーロッパの頃から地中海世界、アラブ世界で強大な国家と文明を作り上げた。

 ルネサンス、十字軍の遠征を経たヨーロッパが文明的な発展が出来たのも、イスラムの偉大な知的財産を強引に得ることに成功したからだった。

 

 そして16世紀、当時のイスラム教徒達は強大で勤勉で、商売にも長けていた。

 国力面では、18世紀までイスラム世界の方が圧倒的に優勢で、知識や技術もヨーロッパ世界には負けていなかった。

 そして何より、イスラム教世界はキリスト教世界と対立していた。

 

 アスガルド人達が、これを利用しない手はなかった。

 自分たちのラグナ教は、キリスト教からは異端や異教どころか邪教とされていたが、そうであるなら対応策を採るまでだ、という開き直りにも似た行動だった。

 

 アスガルド人達の大ノルド王国の使節が、大西洋を押し渡ってオスマン朝トルコの都イスタンブールへ赴いたのは、早くも16世紀中頃の事だった。

 アスガルド人達は、自分たちが大西洋を押し渡れるようになると、すぐにも大西洋横断に乗り出した。

 そしてその一部が北アフリカ西部でイスラム商人と最初に接触を持ち、小規模ながら交易を開始。

 持ち込んだ大量の銀と交換でユーラシア大陸の優れた文物を手に入れつつ、支配層への献上品、賄賂を増やしてオスマン朝トルコへと近づいた。

 

 そして時のオスマン皇帝スレイマン1世は、海の彼方のキリスト教を信奉しない白人の存在を知ると、アスガルド人との謁見を求める。

 これに大ノルド王国も即座に反応を示し、莫大な献上品と国書を携えた使節団を編成。

 ヨーロピアンの妨害に備え、大ノルド王国建国以来の遠征艦隊を仕立てて、一路イスタンブールを目指した。

 

 当然とばかりにイスパニアが妨害に出たが、当時の地中海の半分以上はオスマン朝のものだった。

 基本的にイスラム世界の勢力圏は東地中海だが、大ノルド王国の船団が北アフリカ西部のモロッコ近辺に近づくのに呼応して、イスラム系の海賊が活動を非常に活発化。

 さらにオスマンの大艦隊が、地中海側のモロッコ近辺にまで接近。

 陸でも、北アフリカ西部の部族が、北アフリカ側のイスパニアの拠点を攻撃。

 陸海双方からジブラルタル海峡でも攻撃を行い、この混乱に乗じて大ノルド王国の船団が地中海入りを果たす。

 

 そして1561年、大ノルド王国は当時ユーラシア西部で最強を誇っていた強大な帝国、オスマン朝トルコとの正式な交流を持つことに成功する。

 

 大ノルド王国側の特使には王族にも連なるホーコン・ロキソン侯爵が立ち、スレイマン1世の謁見に望む。

 ここで大ノルド王国は、オスマン朝トルコに莫大な献上品を納め(※膨大な金銀と共に、この時初めてユーラシア大陸に煙草とカカオ、チリがもたらされた。)、オスマン側も返礼のための使節と船団を派遣したいと提案。

 既に晩年にさしかかっていたスレイマン1世は、大ノルド王国の使節のために盛大な饗宴を催した。

 この時、オスマン朝の軍楽隊を見たアスガルド人は、自分たちにも斬新な軍楽隊を取りれるようになる。

 その他、料理や衣服など、アスガルド人がこの頃のオスマン朝トルコに受けた影響は大きい。

 

 その後謁見や重要人物との会議が一ヶ月以上の期間にわたって続き、双方の交流の促進、特にアスガルドの金銀とユーラシアの知的財産や技術の貿易を行う約束が交わされる。

 この中で大ノルド王国がオスマン朝に渡せるものは、金銀以外だと新大陸の珍しい物産ぐらいしかなかった。

 しかし、意外なものもスレイマン1世は入り用としていた。

 それは大西洋での航海技術だ。

 

 オスマン朝というよりイスラム世界の船舶建造技術は、当時のヨーロッパ世界に比べて劣ったままだった。

 地中海では特に必要がないためと言えばそれまでだが、大西洋の荒波を越えるための帆船は、少なくともオスマン朝はほとんど有していなかった。

 

 これは死にものぐるいで技術を奪ったアスガルド人達からすれば、イスラムのとんだ怠慢であると同時に、自分たちが売りに出せる「商品」が存在することを意味していた。

 

 そしてアスガルド人達にとって何より重要だったのは、イスラム世界の盟主と反キリスト教で連携する約束が交わされた事だった。

 距離の問題があるので連携は難しいが、何も知らないままヨーロッパ世界に個々で対応するよりも効果があると考えられた。

 


 この後の交流は、イスパニアの妨害が強くなったため、北アフリカの大西洋側から一度陸路でオスマン朝の勢力圏に入るルートが主に使われたが、交流自体は交易を中心に活発化した。

 金銀を欲しがらない者はなく、特産品の煙草とカカオはオスマン世界でも非常に珍重された。

 生きた七面鳥がユーラシア大陸に持ち込まれたのも、16世紀後半の事だった。

 

 そしてオスマン朝ではスレイマン1世が世を去り、1571年にイスパニア・ヴェネツィア連合艦隊に「レパントの戦い」で敗北すると、自らの側からアスガルド人達との交流積極化を望むようになる。

 オスマン皇帝はセリム2世に代わっていたが、アスガルド人達との関係はますます深まった。

 オスマン朝は、イスラム世界の北アフリカ西部の拡大も積極化して、ジブラルタル、モロッコ近辺ではイスパニアとの衝突も増えた。

 西地中海のイスパニアやヴェネツィアの拠点の幾つかも無理を押して奪回され、アスガルド商人がもたらす、金銀や新大陸の物産入手に力が入れられた。

 サハラ砂漠を東西に貫く通商ルートも、いっそう整備された。

 

 またイスラム以外では、スカンディナビア地域に最初のアスガルド船が訪れたのは、早くも西暦1536年の事だった。

 赴いた先は、アスガルド人の出発点でもあるノルウェー。

 当初、大砲で武装したアスガルド船を警戒したノルウェー側だったが、取りあえず言葉がある程度通じるので交渉を行うと、態度を大きく変えるようになる。

 アスガルド船が、多くの銀を持ち込み交易を求めたからだった。

 銀の効果は絶大で、当初は密貿易が主体ながら貿易は拡大の一途を辿った。

 

 キリスト教とラグナ教という違いについては、お互い見なかったことにして、取りあえず同じ言葉を話すという点だけを重視して交易が行われ、交易相手は新教プロテスタント国の北ヨーロッパ各国に広がっていった。

 そして莫大な銀の流れができ、多くの賄賂が教会にももたらされると、アスガルドとの半ば公然の貿易ですら黙認されるようになる。

 逆に、アスガルド船が大量の銀を持つというので海賊も多く出現したのだが、流氷の危険の多い北の海で活動したがる海賊は小数派で、またヨーロッパに来るアスガルド船は武装しているのが常のため、初期の頃はあまり海賊も活発ではなかった。

 

 こうしてアスガルド人達は、人材はともかく即物的なヨーロッパとイスラムの知識、技術を急速かつ広く取り入れる事になる。

 特に書物の収集には力が入れられ、キリスト教関連の書物であっても大切に扱われた。

 そうした書物のルーン文字への翻訳、ヨーロッパ、イスラム言語の専門家の育成にも力が入れられた。

 アスガルドに最初の図書館と大学が誕生したのは16世紀中頃で、以後急速に教育の拡大も行われていくことになる。

 

 またキリスト教と切っても切れない文明の利器として、アスガルドでも非常に重宝されたのが三大発明の一つ活版印刷術だった。

 印刷技術の向上は知識の広範な普及に不可欠であり、文明を中世から近世へと誘う重要な道具だったからだ。

 16世紀の後半になると羊皮紙は完全に廃れ、アスガルド文字(ルーン文字の派生語)で書かれた書物が大量に生産されるようになっていく。

 

(※製紙法は、完全な決別前の14世紀に入手されていたが、これまではあまり普及していなかった。)


 しかし、それだけではまだ不足だった。

 

 ユーラシア世界との接触を深めれば深めるほど、自分たちとヨーロッパの差を思い知らされるだけだった。

 

 このため、イスパニアなどが行っている大航海を自分たちも実施する事で、さらなる味方や友邦、市場や植民地の獲得も急ぎ行われた。

 多くは南北アスガルド大陸各所への探検と入植の実施だが、うち幾つかは国家が支援した大規模な探検事業となった。

 この時期に開かれた新たな入植地や拠点も多い。

 同時に、ヨーロピアンがアスガルド人に隠れて建設していた拠点も、見付け次第文字通り殲滅されている。

 

 既にパナマ地峡から大東洋に出ていた人々は、まずは大東洋側の陸地に拠点を建設。

 そこに造船所を設けて船を建造した。

 南方特有の疫病が彼らの進出を妨害したが、幾つかの失敗を経てもくじけることなく続けられた。

 そうして拠点と船を造り、北アスガルド大陸の大東洋側を海流に逆らって風だけを使いひたすら北上する探検隊を編成し、かつて住んでいたグリーンランドに似た北の大地に至った。

 これが現在のアラスカだった。

 

 南北アスガルド大陸の沿岸と行ける限りの河川を隈無く探し回った探検隊もあった。

 南アスガルドのムスペルヘイムの大密林では何度も遭難をしたが、それでも探検隊は何度も出された。

 もっとも、調査は主に気候が比較的穏やかな地域を中心に行われ、ミシシッピ川の支流について詳細な事が分かったのも、北アスガルド大陸内陸部に探検のための拠点や入植地が作られたのもこの時期になる。

 そうした地域では蛮族と接触し、友好、敵対双方はあったが交流を持つことになる。

 そして他の場所と同様に、相応の期間滞在した場所では、ユーラシア原産の凶悪な疫病を広めてまわる事にもなった。

 

 そしてさらに、大胆な行動にも出る船団もあった。

 

 パナマ地峡から海流と風に乗って危険な大航海に出た冒険的な探検隊は、途中大東洋各地の小さな島々を見つけつつ、ついにアジアの東端に到達する。

 西暦にして1573年の事で、また新たな南蛮人の渡来に現地の日本人達を驚かせた。

 

 他方ヨーロッパに対しては、彼らの故郷にして始まりの地である極寒の地グリーンランドに約200年ぶりに進出して、入植ではなく軍事を目的とした拠点が建設された。

 当時のグリーンランドはかつての自然破壊の爪痕がまだ残り、また気候も厳しい状況が続いているため、豊富な備蓄食糧と燃料を持ち込んだ軍隊以外が逗留できる場所ではなかった。

 

 さらにその先のアイスランドには、数千の軍勢を含んだ艦隊を派遣して武力によって自分たちの勢力下に置き、北ヨーロッパ諸国との連絡路を確保すると共にヨーロッパ列強を監視するようになる。

 アイスランドの制圧は、1576年の事だった。

 

 ヨーロッパ世界も、しばらくして邪教徒(アスガルド人)がアイスランドに進出した事を掴んだが、極北の地に対する興味の薄さ、航海での危険の多さからキリスト教徒による奪回という話しにまではならなかった。

 近隣となるイングランドは強い警戒感を持ったが、当時のイングランドではアスガルド人に対して強く何かが出来る国力も軍事力もなかった。

 

 こうして、かつての海の道を使って北欧諸国にまで航路が開かれ、16世紀後半になると定期的にアスガルド人たちの側から北ヨーロッパに赴くようになった。

 夏以外は氷山のある北の海は、ヴァイキングとその末裔である自分たち以外では、利用することのできない海であることを利用したのだ。

 

 その上、ユーラシア大陸ヨーロッパからアスガルド大陸に戻る経済的な航路を設定するため、アフリカ大陸西岸にもかなり進出が行われた。

 そしてアフリカではイスラム教徒(オスマン朝の場合もあった)と協力して拠点を確保し、北大西洋の経済的な周回航路を作り上げた。


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