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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ23「近代の幕開け」

 産業革命と自由主義革命は、二重革命とも呼ばれる。

 そしてこの二つが達成された国々が世界を主導する時代を、いわゆる「近代」と呼ぶ事になる。

 

 浪漫の時代、王侯貴族が優雅さと権勢、そして武勇を誇った時代が過ぎ去り、一人一人の国民の時代、機械化文明の時代の到来だった。

 


 アスガルド人にとっての近代に向けての時代の流れは、17世紀半ば以後から連続して続いていた。

 ノルドとアスガルドの分裂戦争、ノルド連合王国での立憲君主体制への道のりによって始まり、同じくノルド連合王国での産業革命の開始、そして第二次アスガルド戦争、アスガルド帝国でのフレイディース一世治世下の黄金時代の到来によって一つの頂点を迎える。

 

 このためアスガルド人の間では、フレイディース一世こそが近代の扉を開いた人物だと捉えられる事が多い。

 二重革命の双方を最初に行ったノルド連合王国が最終的に後塵を拝したのは、基本的な国力、国内の地下資源の有無の違いはあったが、やはりより強力な指導者を得なかった事が、アスガルド帝国の優位を許した最大の要因だろうと言われる。

 

 現にアスガルド以外の世界でも、日本では革新派が旧王権を復活させるという形で近代的な中央集権国家を一気に作りあげて、がむしゃらに進み始めていた。

 ヨーロッパでは、それぞれの列強が多民族化した自らの大きな国土を持てあましつつも、体制刷新を行い有力な指導者を得た国が一歩先を進んでいた。

 19世紀半ば以後だと、ナポレオン三世を得たフランス帝国、宰相ビスマルクを得たスウェーデン(北欧帝国)がその典型例と言えるだろう。

 ドイツは国内の他民族が多すぎるため、近代に進む大きな障害となっていた。

 このためドイツ・ハンガリーという形の二重帝国化によって、問題解決を図りつつあった。

 

 そしてアスガルド帝国においてアスガルド歴804年(西暦1854年)にフレイディース一世が禅譲し、さらにアスガルド歴829年に没した時、世界は「近代」へと突入しつつあった。

 また同時に「帝国主義」という言葉は、これ以後半世紀の時代にこそ相応しい言葉となり、「帝国主義時代」と冠されるようになる。

 

 この時代は、本当の意味で世界がごく僅かな数の列強によって分割された時代であり、光を受ける列強とその影に沈んだ植民地や弱小国という極端に二つに分類される時代でもあった。

 

 そうした象徴的事件がアスガルド帝国による歴史的に見ても最大級の大規模な膨張政策だったが、中華地域の次に標的とされたのがロシア帝国だった。

 


 ヨーロッパ東部に国土を持つロシア帝国は、規模の大きな白人国家ながら様々な国家体制の古さと列強としての競争に大きく出遅れていたため、東アジアの清朝同様にアスガルド帝国に目を付けられた形になるだろう。

 

 アスガルド帝国に対する二度目となる敗戦後のロシア帝国は、敗戦による国威の低下により内憂外患に陥ってしまう。

 戦後の混乱の中で皇帝(アレクサンデル二世)すら暗殺され、国力拡大のための南や西への膨張どころか国家の維持にすら苦労する状況がかなりの期間続く事になる。

 

 この証拠として、アスガルド帝国との仲介役となったスウェーデンが、ロシア領の白ロシア(リトアニア内陸部)での大きな経済権益を得たことを挙げる事ができる。

 

 こうして、アスガルド帝国によるロシアへの強い圧力は、必然的に他の地域にも影響していった。

 

 特に、今までロシア帝国の脅威を受けていたロシア周辺国はロシアからの圧力が軽減し、中でもロシアの伝統的な南下政策の脅威にさらされていたオスマン朝トルコの受けた恩恵は大きかった。

 しかもオスマン朝トルコには、同じアスガルド人国家のノルド連合王国が19世紀中頃から対ヨーロッパ政策と中東への進出のため肩入れを強めていたため、ロシアの南進はさらに止められていた。

 

 そしてこの情勢を利用したのが、ドイツ・ハンガリー帝国(以下ドイツ)と改名したヨーロッパ中原に位置するオーストリアだった。

 

 この頃の状況について、ヨーロッパに重点を当てて少し見ておこう。

 


 ドイツ(オーストリア)は、ロシアがアスガルド帝国と二度目の戦争をしている最中、オスマン朝トルコとの間に戦端を開いていた。

 そして一方的な短期間の戦争による講和において、多くの成果を勝ち取った。

 これはドイツ地域でのスウェーデン、イタリアとの戦争の失点を取り返すという側面もあり、しかも、ノルド王国がトルコに肩入れする前に行われた事もあり、この時のドイツにとっては大きな成果となった。

 

 この戦争でオスマン朝トルコは、バルカン半島の多くの領土(ルーマニア地域、ユーゴスラビア地域)を現地白人民族の自主独立という形で手放すことになった。

 現地にはドイツの後押しで現地民族による国家(王国)が建国(再興)される運びとなったが、当然現地はドイツの勢力下となる。

 しかもロシアからの干渉も引き続きあるため、多くの国や地域が以後もドイツの圧力を受け続けることになる。

 

 そしてアジア系国家のトルコを追い出した殊勲と、さらに白人国家の再興という名目のため、ヨーロッパ各国もドイツにあまり文句を言うことが出来ず、バルカン半島でのドイツの利権拡大が大きく進むことになる。

 そして以後のトルコは、近代化の遅れから国威の低下に悩まされるようになったため、ドイツを中心とするヨーロッパの脅威に立ち向かうため、一層ノルド連合王国やアスガルド帝国の影響が強まっていく事になる。

 「ボルガ・ウラル戦争」の終盤に、トルコがアスガルド帝国寄りの姿勢で動いた背景の一つにそうした国際事情があった。

 

 そしてカトリック教国であるドイツによるオスマン朝トルコに対する強い圧迫は、アスガルド人に「反キリスト教」という古い伝統を強く意識させることにもなった。

 

 それまでアスガルド人は、ウィーンを中心とする内陸国家だったドイツ(=オーストリア)をほとんど意識したことはなかった。

 主に大西洋に出てこない国だからだったが、これ以後ドイツがアフリカでの植民地争奪にも乗り出したため、以後新たな仮想敵としてアスガルド人の関心を集めるようになる。

 とはいえドイツは、地中海(アドリア海)にしか面していないため、海外進出となると大西洋、インド洋に出るのは難しく、植民地帝国主義の傍流でしかなかった。

 


 ビスマルクという天才的政治家を得たスカンディナビア・バルト連合王国(スウェーデン=北欧帝国)は、こちらはヨーロッパでの今以上の拡大がロシア方面の一部以外では難しい事を受けて、自国の産業革命進展のための市場と資本投下先を得るべく、海外植民地の獲得へと傾倒していた。

 

 主な目的地はアフリカ大陸の人口過密地帯で、中西部のナイジェリアなど多くの場所へと探検隊を送り込んだり測量を行い、今後のための進出を強めた。

 ここでは一部ヨーロッパの国との間に紛争すら引き起こしており、北の軍事大国の面目躍如たる姿を見せていた。

 

 またスウェーデンは、アジアへの進出にも積極的であり、東アジアでも日本人、アスガルド人との間に巧みな外交を展開し、武器を用いずに中華市場へと進むことに成功している。

 そして清朝の漢民族はなぜかスウェーデン製の兵器を好んだため、スウェーデンの中華進出は順調に推移した。

 

 また一部だが、フランスと現地の対立を利用する形で、インドにも橋頭堡を設けることにも成功していた。

 

 こうして海外進出の遅れていたスウェーデンは、一気に植民地帝国主義の主要国家へとのし上がっていった。

 この背景には、国内の急速な産業化と人口拡大があり、近隣のロシア、ドイツとの対立も日常となったため、海外進出に全ての力を注ぐことは難しかった。

 


 一方、過去の一時期に世界進出に成功したライン王国(=ネーデルランド)は、かつての栄光を取り戻すべく、こちらも海外進出に力を入れた。

 

 ネーデルランドは、当時でもヨーロッパで最も経済と産業が発展し、さらに産業革命も進んでいたため、市場と資源供給地を求めた進出はスウェーデンよりも激しいものとなった。

 国内が十分過ぎるほど発展しているため、商業的な帝国主義に必要な市場、資源、資本投下先の全てを海外に求めなければならず、他国との競争と自らの基礎的な国力の問題から、自らが持っている時間も限られていたからだ。

 

 主な進出場所はアフリカ大陸とインド東部(イスラム教地域=後のパキスタン)で、さらにチャイナ進出を目的として東アジアも目指した。

 他にも、まだ誰も領有宣言を出していない海洋上の小さな島嶼も積極的に探して周り、誰も領有宣言を出していない場所に自国の三色旗を立てていった。

 この過程でライン王国の探検隊は、南米大陸から伸びる地域ではあったが、南極大陸にも上陸している。

 ゼーゴイセン(海の乞食)の面目躍如と言えるだろう。

 


 上記以外だと中規模な列強となるが、こちらも活動は活発化していた。

 

 ローマ以北のイタリアがまとまった北イタリア王国は、国家としてのまとまりはそれなりに強かったし、産業や経済も相応に発展していた。

 だが、ルネサンスが発祥したように地方ごとの自立心が強く、また国民性の問題もあって伝統的に国民国家としての団結や熱意が他国に比べて弱かった。

 また北イタリア地域は、ヨーロッパ世界でも最も成熟した地域の一つにあったため、かえって海外への進出は低調だった。

 加えて、列強としては人口規模がやや小さく、当然だが国力と軍事力にも影響した。

 さらに本国に地下資源が少なかった事も重なり、海外で大きな国威を示すことがほとんどできなかった。

 アフリカの一部に、植民地を少しばかり得ただけだった。

 ネーデルランドと状況は少し似ていたが、ネーデルランドよりも保守的だった。

 

 また北イタリアは、ドイツ(オーストリア)との間の「未回収のイタリア」問題、フランスとの間には両シチリア王国の主権問題、さらにはローマを中心とする教皇領問題が横たわり続け、根本的な問題としてイタリア民族の統合という問題があった。

 そうした点からも努力は近隣に注がれ、海外進出は低調とならざるを得なかった。

 このため植民地を得ることは殆ど無く、帝国主義国としては傍流の地位に甘んじざるを得なかった。

 

 ようやく周辺地域を勢力下としたブリテン連合王国は、急速な産業の近代化に手を付けつつ、同時に植民地獲得にも躍起となり、何かと他の国とぶつかる傾向を強めつつあった。

 だが、他の列強と比べると完全に競争に出遅れていたため、非常に厳しい状況が続くことになる。

 進出も強引な事が多く、特にヨーロッパ諸国との対立が常に付きまとった。

 

 そしてヨーロッパ随一の大国であるナポレオン一族を君主とするフランス帝国だが、第二次大西洋戦争敗北後に体制を立て直し、主にインド進出の強化とアフリカ大陸の制覇に力を投じた。

 エジプト、ケープ、西サハラとアフリカの要所を占め、これらを橋頭堡としてインド、アジアにも精力的に進んだ。

 

 しかも新たに帝位に就いたナポレオン三世は膨張主義者でもあり、他のヨーロッパ列強を押さえ込みつつインド支配を進め、さらには東アジアに大きく勢力を広げる日本の勢力圏にすらちょっかいを出していた。

 ただ、スウェーデンやネーデルランドのアフリカ、インドへの進出が強まっているため、インド以東のアジアへの進出はチャイナだけに止まっていた。

 

 以上が、主にヨーロッパでの動きの概要となる。

 


 一方、「持てる陣営」であるアスガルド人と日本人だが、こちらは既に多くの場所を得ているので、それを守り発展させるのが主な帝国主義的活動となった。

 このため、一見活動が大人しいように見える事もある。

 

 しかし帝国主義国家である事は間違いなかった。

 

 国民国家となった日本は、隣国朝鮮を長い間の無視を捨て去って、極めて短期間で帝国主義的手法をもって服属させている。

 圧倒的な国力差と、近代と前近代という差が、長年のつき合いがある近隣諸国への蹂躙となったのだ。

 そして自らの生き残りという問題もあるため、近隣諸国にも容赦なかった。

 アスガルド人の強引な海外進出を見慣れた日本は、その忠実な模倣者でもあったのだ。

 日本の一部には、文明の先達や隣人という感情論を持ち出す者もあったが、東アジア、豪州、大東洋の西半分に大きな勢力を持つようになった日本という名の帝国主義国家は、あくまでも帝国主義的に隣国を踏みつぶしていった。

 武士の国ならまた違っていたかもしれないが、この時期の日本は明確すぎるほどの帝国主義国家だった。

 

 さらに日本は、混乱する中華情勢につけ込んだ進出も強めていった。

 また、大東洋地域の開発にも力を入れ、工業化の進展で人口が大きく拡大した日本本国から豪州大陸、新海諸島への移民事業と現地の開発を押し進めた。

 東南アジア各地でも、地下資源の開発、単品農作物栽培の促進など、帝国主義的行動を加速させた。

 今までの武士による疑似封建国家から国民国家へと変化したため、日本人達も自分たちの欲望に極めて忠実となっていた。

 

 そうした日本の姿はヨーロッパ勢力に対しても示され、一度は叩き出されたインド洋に再び足を踏み入れるようになった。

 

 日本の姿は、日本人を(宗教的な)友人としていたアスガルド人にとって、それなりに好ましい状態だった。

 


 そのアスガルド人は、主にアスガルド帝国がユーラシア大陸を大東洋側から鉄道を引きつつ西にばく進していた。

 アスガルド大陸西海岸のアールヴヘイム地方は、大東洋、アジア、ユーラシア進出が強化されるにつれて拠点として発展し、中心となるイズン市一帯は新天地となったフレイディア(旧シベリア)への進出と発展に伴い、副首都のような賑わいを見せるようになっていた。

 北西部最大の拠点のスヴァルト・アールヴヘイム地方の港湾都市ブリーシンガメンは、世界の僻地から最もユーラシア大陸に近い拠点へと変化した。

 

 そしてアスガルド帝国は、ユーラシア北部から旧清朝領域の北部領域をほぼ全て飲み込んで新たな足場として、中央アジアにも勢力を広げつつあった。

 世界で最も巨大な国力と工業力を実現したため、そうした強引で急速な拡大が可能となっていたのだ。

 また同時に、巨大な工業力と経済力の受け皿となる資本投下先にして、今後の市場となるべき場所がいくらでも必要だったと言えるだろう。

 そして世界国家へと進むアスガルド帝国では、今まで蛮族として蔑んでいた人々への態度を大きく変え、自らの支配へと巧みに組み込んでいく事になる。

 

 この結果、アスガルド先住民は古ノルド語で「愚劣な民」を意味する「スクレーリング」という名前から解放され、法律上においてもアスガルド帝国臣民となった。

 (※ただし、感情面での差別が無くなるには、まだ長い時間が必要だった。)

 そうしたアスガルド帝国に対して、ノルド連合王国は多少は穏健だった。

 ノルド連合王国は、古くから有する南方のエーギル海沿岸地域、南アスガルド大陸の殆どの開発を進めることで順調な発展を続けていたのが主な理由だった。

 それでも大西洋を越えてアフリカ、インド洋沿岸への進出も徐々に強めつつあり、ヨーロッパ勢力との間には衝突や対立が頻発していた。

 トルコへの援助とアラブ地域への進出も、基本的にはヨーロッパとの争いが理由だった。

 

 ただし、南アスガルド大陸の一部にアイルランド移民を受け入れた事などから、少しずつ変化も進んでいた。

 南アスガルド大陸では、国家規模ではない程度のキリスト教が認められるようになり、アスガルド地域以外からの移民も少しずつ受け入れられるようになった。

 この背景には、人口規模でアスガルド帝国に対向できなくなったノルド連合王国が、アスガルド世界視点での均衡を求めた末の決断でもあった。

 そして以後のノルド連合王国は、排他から寛容、受容へと大きく舵を切り、世界国家としての道を歩むようになっていく。

 

 一方、アスガルドで最も保守的なエイリーク王国だが、本国の国土面積だけはノルド連合王国より広いので、主に内陸部森林地帯の開発に傾倒していた。

 もともと保守的な国のため海外進出は最低限であり、既にミーミルヘイム共和国と共に永世中立宣言を出し、アスガルド、ノルド両国にも認められていた。

 父祖の地とすら言えるグリーンランドの領有権も認められるようになっていた。

 

 また独立して最も日の浅いメヒコ連邦共和国だが、こちらもアスガルド各地からの移民を受け入れつつ、国土開発に力を入れていた。

 総人口ではエイリーク王国を上回るとはいえ、隣国となるアスガルド帝国とでは比較にならない差があり、また国内開発、産業の遅れもあるため、少しでも差を埋めようと言う政策が熱心に行われることになる。

 

 こうした行動はややもすると消極的ではあるが、他の二国アスガルドとノルドがあまりにも懸絶した国力を有するため、同じ行動を取る愚を行わない事で生き残りを図ろうとした結果だった。

 しかし国内産業の育成は熱心に行い、少し後にはそれぞれが高度工業製品の生産で世界をリードするようになっていく。

 


 そして列強による世界分割がいよいよ頂点を迎えようとしていた頃の西暦1879年(アスガルド歴829年)、アスガルド帝国中興の祖と言われたフレイディース一世が85才で世を去った。

 

 アスガルド帝国を近世から近代へと押し進めた女帝の崩御に、アスガルド帝国国民は涙し、偉大な功績を称えた。

 

 しかし人類の歴史の中で、彼女の死は一つの通過点や一里塚に過ぎず、その後も世界は続き、容赦のない帝国主義、民族主義、国家主義、思想主義の時代へと順次入っていくことになる。

 

 一方でフレイディース一世が生きた時代は、アスガルドという世界が成立してから初めて、アスガルド人が最も海外に出ていった時代ともなった。

 

 それまでのアスガルド人も、西暦1492年に世界との断絶が終わって以後、それなりに海外へと出かけてはいた。

 しかし多くの領土を獲得するという行動は少なく、世界政治に影響を与える事もヨーロッパ世界以外では比較的限られていた。

 それは彼らが、自分たちをヨーロピアンの異端、キリスト教を棄てた民族だという負い目があったからだと言われることもある。

 また、自ら孤高を選んだが故の行動だったとも言われる。

 そしてアスガルドの豊かな大地は、孤高や断絶を可能とする豊かな実りをもたらす大地だった。

 

 だがその豊かな大地を有した事こそが、アスガルド人を世界に進出させる大きな要因となったことを理解するべきだろう。

 模倣ばかりと言われつつも順調な発展を続けた文明と技術は、巨大な人口を有していなければ不可能だったし、豊かな物産がなければ人口の拡大も産業の発展も難しかった。

 

 21世紀初頭の現代において、地上の約半分の地域でアスガルド語が話されている事だけでも、アスガルド人が得たものの大きさを知るには十分だろう。

 


 古来アスガルドとは神話において「神々の国」の事を指すが、かつてのヴァイキングだったアスガルド人にとって、彼らが移住を選んだ大地はまさに神々の国に匹敵する恩恵をもたらしたのだと言えるのではないだろうか。

 





本編はこれにて幕となります。

あとは、私どもの戯言を書いているだけですので、最後は読まれなくても構わないかと思います。


今回も拙作にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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