フェイズ22-2「縮小するロシア(2)」
ロシア帝国も、ウラル山脈の向こう側の情勢が分かるようになってくると、負けずとウラル、ボルガ開発、辺境開発で巻き返しを計ろうとした。
だが、西からは北欧帝国とドイツ(オーストリア)、東からはアスガルド帝国が圧力をかけるためうまくいかなかった。
トルコですら、ノルド連合王国からの支援を受けて、コーカサスや黒海での巻き返しを計ろうとしていた。
このため東部開発は資金不足に悩まされて思うように進まず、ユーラシア大陸奥地での開発では決定的な差が開いてしまい、フレイディア縦貫鉄道の存在がロシア人に極めて強い脅威を与えることになる。
フレイディア縦貫鉄道の開通以後ロシアの態度は硬化の一途を辿り、フレイディア副帝領との軋轢が増えるようになった。
このためアスガルド帝国も、本国からの続々と師団を送り込み、副帝領内でも屯田兵としての軍備増強が実施された。
現地での自活のための工業の建設も本格的に行われるようになった。
1862年の鉄道開通から僅か十数年で、200万ものアスガルド人が黒土地帯を中心に移民し、既にオビ川上流域の資源地帯では数十年かけて開発されていた重工業が稼働し始めていた。
1870年代に入ると、年間50万人以上の規模で移民が続々とフレイディアへと流れ込みつつあり、ロシア中央では四半世紀で自分たちが圧倒されるという悲観的な予測がなされたりもした。
このため圧倒的不利にならないうちに、領土奪回を図ると共に国家の縦深を確保する為の予防戦争を行うべきだという意見がロシア帝国内中枢で俄に台頭した。
しかしロシア国内での鉄道網の不備、特にボルガ川以東での不備は問題視され、とにかく自分たちも鉄道を引くことを考える。
しかし当時のロシアには金も技術もなく、仕方なくフランス帝国とライン王国を頼ることになる。
だが伝統的にロシアの拡大を嫌うスウェーデン(北欧)、オーストリア(ドイツ)の妨害と嫌がらせもあり、またヨーロッパ世界がシベリア(フレイディア)奥地でのアスガルド帝国の実状を詳しく知らないことも重なって、ロシアの外交と鉄道敷設はあまりうまく進まなかった。
ロシア人の話には大きな誇張が混ざっていると、ヨーロッパでは長い間考えられていたほどだった。
これに対してフレイディア副帝領を治めるグラズヘイム副帝家は、本国からの移民拡大と国土の開発をより一層促進すると共に、境界線近くでの軍備増強も熱心に行った。
フレイディア縦貫鉄道も1873年までに殆どの区間で複線に拡張され、海の玄関口ギャッラル市には本国からやって来た鋼鉄製の巨大な移民船が多数接岸するようになった。
また、マンチュリアと改名された満州地域でのアスガルド人及び日本人移民の人口も激増し、フレイディアの開発と発展に貢献した。
なおグラズヘイム家は、名前こそ違え古くから皇族(ステイグリム家)の一家であり、扱いとしては副帝家とされ、副帝領当主は皇帝以下、皇族の系譜に連なる公爵家や属領の王族以上とされていた。
副帝領自身も準国家扱いの自治領とされ、外交、交戦権以外のほとんどを有しており、国際的には保護国又は自由国に近い位置となる。
ただし副帝家の存在自体は皇帝と議会の双方の承認を必要としており、その気になれば本国が廃位する事も可能となっていた。
また、総督府も別に設置されており、本国の意向を無視した事が出来るわけではなかった。
それでも、グラズヘイム家はアスガルド人、混血のミッドガルド、日系移民、さらには現地の元蛮族などを巧く使いこなしており、統治は概ね良好だった。
中央アジア地域への進出と事実上の侵略を半ば日常としていたため、小規模な衝突や戦闘は絶えなかったが、侵略による報償の形での出世競争が、かえって統治を円滑としていた。
そしてその延長としてロシアとの対立があり、副帝領自身にとってはロシアが戦争を吹っかけようとしているのは、むしろ望むところだった。
防衛戦争ならば、自分たちの裁量で始めることも出来るからだ。
そして即位したばかりの第十代アスガルド皇帝のフレイソン三世は、帝国臣民の安寧を図るという名目でロシア帝国のウラル山脈近辺での軍備増強と挑発に強い警告を発する。
同時に、副帝領に現地での戦争の全権が与えられ、当時のフレイディア副帝ロレンツは、軍の指揮官となるための大元帥の地位を得て副帝領の軍権を掌握。
事実上の戦争準備に入る。
これに対してロシア帝国は、アスガルド帝国こそが侵略的行動を繰り返していると強く非難。
ヨーロッパ各国に理解と助力を求める。
だがヨーロッパ各国の反応は今一つであり、スウェーデンなどはロシアの常套句が出たとしか見なかった。
いかにアスガルド帝国といえども、何もないユーラシアの奥地ではロシアの方が優位と見られていたためだった。
そしてロシア側が、戦争準備が整わず愚図ついている間に、副帝領は一族のロレンツ元帥を名目上の総司令官として、ロシア側の越境と副帝領内における掠奪や殺戮などの悪行に対する報復として戦端を開く。
西暦1877年、アスガルド歴827年5月の開戦で、戦争の名は「ウラル・ボルガ戦争」と呼称されることになる。
同戦争は、アスガルド帝国での新帝即位に合わせたものと見られる向きが強かったが、実際はアスガルド帝国議会と宰相サンデルのもとで帝国議会が承認したのであり、新帝即位がたまたま重なったに過ぎないとされる。
当時のアスガルド帝国は、既に民政議会と民主憲法を持つ立憲君主国家へと完全に変化しており、既に皇帝や皇族が直接何かを行うという時代は過ぎ去っていた証拠でもあった。
戦争は、民衆の意志を受けた国家が行ったと見るのが正しいだろう。
しかし辺境である副帝領のフレイディアは多少例外であり、まだ個人が活躍する余地が残されていた。
西暦1877年(アスガルド歴827年)に始まった「ウラル・ボルガ戦争」は、当初ヨーロッパ世界からはそれほど注目はされなかった。
ロシア帝国でも、アスガルド帝国の脅威こそ叫ばれていたが、軍備については少なくとも兵力数の面で自分たちが優越しているという考えが強かった。
このため小競り合い、せいぜい中規模の戦争以上に発展することはないだろうと考えられていた。
また、当時のロシア帝国は総人口が約6500万人と、既にヨーロッパ随一の人口大国となっていた(※当時のフランス本国で約4000万)。
数百年にわたる地道な開拓の成果だった。
このため、簡単にロシアが敗北する事は無いという予測があった。
対するアスガルド帝国のフレイディース副帝領のアスガルド人人口は、全てを合わせて約1500万。
混血、日系移民など戦力として数えられる人数を合わせても2000万人程度な上に、領域広くに分散して住んでいた。
しかもロシアは、アスガルド人の数を実際の半数程度と考えていた。
この状況が、ロシア側の油断を呼び込んだと言えるだろう。
しかしロシア帝国との境界線には、アスガルド本国から派遣された精鋭部隊を含めて3個軍団20万の兵力が常に配備されていた。
鉄道の有無による近代化の差も既に大きく出ていた。
完成したばかりの要塞も鉄筋コンクリート造りとなっており、既に前近代的な攻撃では対処が難しくなっていた。
対するロシア帝国の開戦時の現地戦力は8万に過ぎず、軍自体の状態も前のシベリア戦争と大きな違いはなく、ロシア側に油断があったことは間違いない。
しかもアスガルド帝国は、戦争を決意した段階で本国から2個軍団の派兵を開始し、副帝領では総動員が開始されていた。
そして戦争開始後は、ロシア側が皇帝アレクサンデル二世が総指揮官となったため、アスガルド帝国側でも皇帝か皇太子が出陣するのではないかと言われるも、第十代皇帝フレイソン三世が命じる形で副帝領当主ロレンツ・グラズヘイムが名目上の指揮官になったに過ぎなかった。
実際の現地での総指揮は、軍人として帝国元帥に上り詰めた平民出身のティールソン元帥が行っている。
アスガルド帝国にとってのこの戦争は、既に国家元首が総指揮官となる必要性がない時代に入っていたことを示している。
戦争自体は、敵野戦軍の撃滅というこの時代の一般的な戦争となった。
近代戦争の特徴の一つと言われる総力戦をするには、双方とも現地での兵力と鉄道網が足りなかった。
またロシア奥地は、塹壕を作ったりする戦争が出来るような広さ(狭さ)ではなかった為だ。
当時のアスガルド帝国は、鉄道線と電信設備を重視し自国領内での整備には出来る限り力を割いていた。
既に、ユーラシア大陸からアスガルド大陸を結ぶ電信網も整備されていた。
帝都からウラル山脈において、従来からは考えられない速度での連絡すら可能となっていた。
だが、主な戦場はロシア辺境でしかないウラル山脈、ボルガ川東部地域のため、軍隊の迅速な移動に必要な道路や鉄道が不足しており、近代的戦争をしたくても出来ないと言う物理的要素があった。
広すぎる戦域のため、多連装銃(グングニル砲)が多数配備されるようになっても、騎兵が主要な役割を果たすことになった程だった。
またロシア軍は規模こそ大きくなったものの、依然としてナポレオン戦争時代の軍制と装備からあまり進歩していないのに対して、アスガルド帝国軍は当時の最新兵器である後部装填式大砲、後装式軍用ライフル銃(小銃)を標準装備しており、科学技術、軍事技術面での違いは明らかだった。
圧倒的弾幕を形成する多連装銃の装備数でも、計数的な差が開いていた。
工業の差による生産力が桁違いの為、弾薬そのものの量にも大きな違いがあった。
しかもアスガルド帝国軍は、戦争中も占領地に対して自国領から鉄道網を延ばしており、現地の鉄道網の少なさからロシア軍が途中から採用した後退戦術があまり機能しないという事態に陥っていた。
そして時間が経つに連れて、アスガルド帝国軍の数は増えていった。
本国からの増援に加えて、現地での動員が順調に進んで50万の兵力が鉄道によって前線に送り込まれたからだ。
終戦までに前線に送り込まれたアスガルド帝国軍の数は80万に達し、ロシア側が動員して前線に送り届けた60万人を越えていた。
ロシアには財政や鉄道網などの問題があるため人口ほど兵士の動員ができず、仮に動員が出来てもそれを前線に送り届け、さらに戦わせるだけの能力や物資に欠けていた。
戦費についても、大いに不足していた。
前線に送り込まれた軍隊同士の差も大きく、騎兵同士以外での戦闘では、アスガルド帝国軍の十字砲火に銃剣突撃するロシア兵という構図で動いた。
しかも分進合撃したアスガルド帝国軍の行動が素早かったため、ロシア軍主力は後退戦術を実施しているにも関わらず、アスガルド帝国軍主力に捕捉されてしまう。
ボルガ川東岸のクイビシェフ近くのブグルスランで行われた会戦(=「ブグルスラン会戦」)では、25万のアスガルド帝国軍に対して、アレクサンデル二世率いる17万のロシア軍が散々にうち破られた末に包囲殲滅され、壊滅的打撃を受けてしまう。
ロシア皇帝は辛うじて後方に逃げ延びたが、戦争はこの戦いでほぼ決着が付き、アスガルド帝国軍がボルガ川東岸一帯をほぼ占領した時点で、ロシア側が講和を求める形で終戦となる。
物流の大動脈でもあるボルガ川の制川権を失っては、ロシア軍にとって現地での戦争継続は不可能だった。
だが、皇帝自らが戦った上で惨敗したため、ロシア帝国はその後しばらく内政的な混乱が起きた。
さらに自らの体面とアスガルド帝国への恐怖からロシア政府の行動は後手後手に周り、その後もしばらく戦争は続くことになる。
このため、決戦後も敗走するロシア軍を追う形でアスガルド軍の進撃は続き、主力部隊はボルガ川を渡河してボルガ川中流域のカザン、ゴーリキーへと進軍。
モスクワまで約400キロと迫った。
この距離は、近世型の戦争であるならば、ロシア側の野戦軍が壊滅した状態では、既に距離はなきに等しかった。
さらに騎兵を中心とした別働隊は、アスガルド軍はボルガ川中流域から下流域にかけてを制圧し、さらにドネツ河目指して西へと進軍していた。
アスガルド帝国は、大西洋に向けた海の出口をどさくさ紛れに得てしまおうという野心が芽生えていたのだ。
そしてこの段階でオスマン朝トルコが動き始め、コーカサス地域の「奪回」に向けた軍の動員が本格化した。
だが、ロシアが惨敗しトルコが介入し始めた時点で、戦争は完全にヨーロッパの戦争となった。
このためヨーロッパ各国が干渉を開始し、ロシア側が講和を求めたこともあり、戦争はようやく幕を閉じる事になる。
戦争期間は1年半で、実質的には二度の夏の戦いで全てが決していた。
講和会議はボルガ川流域のゴーリキー市で行われ、完全な二国間会議となった。
交渉の初期においてロシアは、ボルガ川一帯でアスガルド軍が渡河準備を進めている中で、広大な領土を割譲するか、莫大なアスガルド側の戦費を賠償金として支払うかの二者択一を迫られる。
交渉を蹴っての再戦はあり得ない。
モスクワが落とされ、より状況が悪くなるだけだから。
だが、この時のアスガルド帝国側の賠償請求にはヨーロッパ各国から強い非難があり、講和がこじれる事による泥沼状態の戦乱の拡大を嫌ったアスガルド帝国も折れることになる。
ヨーロッパ世界が過剰反応に近い反応を示したのは、単にアスガルド帝国がロシアを一方的に破った事ではなく、地中海への出口の第一歩を記しそうになったからだった。
そしてその後、アスガルド帝国が今回もスウェーデン(北欧帝国)への仲介を頼んだため、ストックホルムで講和会議を仕切直された。
結果、賠償請求は大きく下げられた形で講和条約が成立するも、ロシアはクィビシェフ市以東のウラル山脈全域、クィビシェフ市以南のボルガ川下流域東岸という広大な領土を失う事になる。
賠償金は少なく済んだが、これはこの時のロシアに支払い能力がなく、また同時に多額の借款に応じられる国がなかったためでもあった。
しかも割譲を免れたとはいえ、ロシアの手に残ったボルガ川西岸地区は、アスガルド帝国に半包囲された形で人質も同然の場所だった。
しかし、コーカサスに至る地域をアスガルドが得られなかった事は、その後も両者の間に大きな問題を残し、その後も紛争の原因になっていく事になる。
また賠償として渡した土地には、当時約350万人のロシア系住民が住んでいた。
彼らに対して双方の政府は、どちらかの国土に移住するか棄教と帰化の二者択一を求める。
移住の場合は、双方の政府が援助することも約束された。
このため約80万人のロシア人がロシア帝国領内に移住し、残る270万人が新たにアスガルド人となる決断を下した。
なおこの時一つの問題が起きた。
アスガルド帝国への割譲地に住んでいたユダヤ人問題だ。
数は約50万人で、アスガルド帝国は他と同様に棄教と帰化か援助金を与える形での領内退去を命令した。
しかし彼らは、差別の酷いロシアを嫌って残留を望んだにも関わらず、アスガルドへの完全帰化と棄教を断固として拒絶した。
ロシア側も、難癖を付けて受け入れを拒んできた。
ロシア人としては、せめてこれぐらいの厄介事を押しつけなければやってられない、と言った所だったのだろう。
このためアスガルド帝国は、ペルシャやトルコなどに受け入れを打診するも、全ての国や地域が強く拒絶してきた。
このままユダヤ人の居直りが押し通るかと思われたが、この時のユダヤ人にとって相手が悪かった。
蛮族よりも一神教を嫌うと言われるアスガルド人が相手だったからだ。
この頃になるとアスガルド人も、アスガルド原住民のスクレーリングや日本人など一部民族に対するように、蛮族(有色人種)相手にはかなりの寛容さを持つようになっていた。
キリスト教、イスラム教との妥協と共存も少しずつ進んでいた。
国内には「近世の人頭税」と言われる宗教制度も作られていたが、極端に酷い制度ではなかった。
しかしアスガルド人にとって、一神教の源流ともいえるユダヤ教は、この時ほぼ初体験の出来事だった。
そしてユダヤ教を信奉するユダヤ人の頑迷さは、アスガルド人にとって許し難いものだった。
そして全ての説得と脅しが通じないと分かると、歴史的悪行とも言われる一種の絶滅政策が国家規模で実施されてしまう。
アスガルド人の統治に反発した全てのユダヤ人は、信教の自由を認める代わりに他宗教者との接触を禁じられる。
そしてことごとくが旧シベリア奥地の「居留地」へと送り込まれ、過酷な環境での生活のため殆どが短期間で死に絶えることになった。
とはいえこの段階で棄教した者も多く、全体の半数程度だったと言われる。
しかしこれが噂を聞いたロシア人の間で「ポグロム」と言われ、「ホロコースト(絶滅政策)」としてヨーロッパに伝えられる事になる。
近代より以前の時代で行われた事なら、極端に歴史に残ることも無かったのかも知れないが、この事件はその後も「悪の帝国」であるアスガルドの悪行の最たる事件として語られていく事になる。
そしてこれ以後ヨーロッパ社会の一部で、根強い反アスガルド感情が生まれ、ヨーロッパ世界とアスガルド世界の対立が再び深まりを見せるようになっていく。
ヨーロッパ経済に大きな存在感を持つ各地のユダヤ人達が、アスガルド人を明確に「敵」と認識したのだ。
もっとも、前後してロシアでもユダヤ人に対する大規模な弾圧が実施されているし、ヨーロッパ各地での反ユダヤ人感情は根強いため、大勢に変化はなかったという説も強い。
それでも、アスガルド人がヨーロッパ世界に踏み込んだ事を示す事象だと言えるだろう。