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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ22-1「縮小するロシア(1)」

 ロシア帝国は、基本的に開拓国家としての性格が強かった。

 

 ロシアの大地は、西暦で10世紀より前の時代は見渡す限り湿地と荒野、そして原生林であり、この地域に最初に入り込んだヴァイキングの一派がロシアの語源となったほど、何もない場所だった。

 東スラブ民族の数も、ほとんど見ることが出来なかったほどだ。

 

 しかしモンゴル人が東の果てやって来る頃に徐々に国家の形成が始まり、モンゴル人が草原に去る頃にモスクワを中心としたロシアという国家が成立した。

 その後ロシア人は荒野や原野、森林の開拓を徐々に進めながら勢力と人口を拡大し、国家そのものを巨大化させていった。

 この動きは、北アスガルド大陸での状態に似ている。

 

 そして時は経ち、西暦17世紀から18世紀にかけては、ユーラシア大陸北部一帯に広がる広大な大地を領有するようになっていた。

 大陸の北東部は日本人の領域だったが、実質はともかくロシア政治上での形式ではそうなっていた。

 その後は、スウェーデンの前に西進が一向に叶わないも、南のトルコに対する進出によって黒海に出ることに成功していた。

 国土の開発も進められ、ヨーロッパの辺境という位置付けはそのままながら、ヨーロッパ最大規模の人口を有するほどに多くの人々が住むようになっていた。

 だがヨーロッパ西部と比べると国家、制度、産業の進歩は大きく遅れ、産業の革新についてはほとんど何も行われていなかった。

 17世紀末に改革と近代化を志したピョートル皇帝も、志半ばで倒れていた。

 その後も、近代化を行えるほどの名君が出ることはなかった。

 

 このためポーランドの分割にも、おこぼれに預かった程度で満足しなければならず、ヨーロッパ世界からは「東の蛮族」と見下され続けた。

 

 そして西暦1832年に、突如アスガルド帝国がユーラシア大陸北東部を日本から譲り受けると大きな変化が訪れた。

 


 アスガルド帝国は、ロシアそのものの後進性とロシアの辺境での弱体を見透かして、すぐにも拡張主義を取って戦争を行い、ロシアから広大という言葉すら不足するほどの領土を奪い取った。

 アスガルド帝国は清朝に対しても容赦なく、一気にユーラシア大陸の人口希薄地帯を奪っていった。

 

 アスガルド帝国の拡張主義はその後も続き、中華地域ではさらに広大な土地を奪い取り、サハ(シベリア)から中央アジア地域への浸透も実施し、そしてロシアとの対立も続けた。

 このためロシアのトルコに対する南進政策はとん挫し、多くの努力をアスガルド人に向けなくてはならなくなってしまう。

 

 しかしロシアとの対立は、アスガルド人からすれば当然の事だった。

 基本的にアスガルド人は伝統的に反キリスト教主義であり、ロシアはキリスト教の一派(ギリシャ正教)を信奉する国家な上に、彼らの民族的つながりが極めて強いスカンディナビアの国とたいていの場合対立していた。

 

 またアスガルド帝国にとってのロシアは、初めて国境を接するキリスト教国だった。

 このためアスガルド帝国は、国民の支持が得やすいこともあって、何かあればロシアとの対立状態を作り上げた。

 清朝は踏みつぶす相手に過ぎないが、白人国家は自己満足を満たすために殴りかかる対象だと説明すれば分かりやすいだろうか。

 


 そしてアスガルド帝国は、西暦19世紀において間違いなく世界最強の国家であり、国力、人口、工業力、そして軍事力、全ての面においてロシア帝国を圧倒していた。

 

 ロシアもロシアなりに国土開発を進め、人口の拡大は政策として押し進めてはいたが、ヨーロッパの大国と呼ばれる国々の中では最も産業の革新が遅れていた。

 しかも政治制度は、農奴が存在するという一事をもっても大きく遅れていると言え、実際皇帝ツァーリによる遅れた絶対王政が続き、農奴を抱えた貴族達も大きな権力を有したままだった。

 国家に臣民はいても国民はいなかった。

 農奴はいくらでもいても自作農は少なかった。

 コサックという例外はいたが、彼らの数はけっして多くはなかった。

 

 多くの列強が立憲君主制の国民国家となり、君主はいても権威君主となっている事と比べると、その後進性は明らかだった。

 国家自体も、人口が増えただけで貧しいままだった。

 裕福に見えるのは、国民の搾取を続ける貴族と皇族だけだった。

 

 故に産業の革新はまだほとんど始まっておらず、19世紀半ばの時点でも国内の鉄道敷設すら他国に比べて大きく遅れていた。

 この遅れの原因は、技術力もさることながら資本力や国民の民度も影響しており、特に資本力の低さは辺境開発に大きな悪影響を与えていた。

 


 これに対して、現地をフレイディア副帝領と名付けたアスガルド帝国は、精力的な現地開発を行っていた。

 莫大な投資を行って鉄道敷設を進め、鉄道を中心にして都市、工場、入植地、鉱山など国家として必要な全てのものを急速に作り上げつつあった。

 加工品の多くは本国からは帆船を使って物資を運ばねばならないので、その手間と時間、経費の高さを疎んだため、近在の産業国日本で多くの発注が行われたりもした。

 日本については、帰化を前提とした移民も受け入れた。

 

 なお、鉄道が発明されたのは西暦1814年(アスガルド歴764年)、アスガルド帝国においてだった。

 以後アスガルド帝国は、広大な自国領内の鉄道敷設を熱心に行い、早くもアスガルド歴784年(1834年)に自国内の帝都フリズスキャールヴと西海岸のギムレー間で大陸横断鉄道を完成させている。

 ホッカイアを得た事、ロシアとの戦争が始まった事が、鉄道の完成を数年前倒しで実現させることになり、本国中枢から西海岸に伸びる鉄道が、アスガルド帝国の長大な兵站を支える大きな力となった。

 

 そしてフレイディアという名の広大な領土を得ると、すぐにもフレイディアを貫く縦貫鉄道の敷設が開始された。

 1840年代のうちには、早くも満州地域の主要鉄道が開通していた。

 あまりの開発のため、清朝の皇帝が激怒したほどの開発の早さだった。

 そしてそのままの勢いで、ユーラシア大陸の奥地へと鉄道敷設を押し進め、ウラル山脈の側からの工事も急激に進められていった。

 フレイディアの発展は、鉄道発展の歴史と平行しているほどだった。

 

 そして西暦1862年(アスガルド歴812年)には、ロシアとの境界線にあるウラル山脈のフレイディル市(旧エカチェリンブルグ)までの開通をみている。

 

 フレイディア縦貫鉄道の建設は、西暦1836年に早くも調査が開始されていた。

 その後、平野部での敷設は素早く進められたのだが、山間部や大規模な河川での橋梁などでの難工事のため予定した通りには進まず、約25年の歳月をかけた末に完全開通した事になる。

 それほどの熱意を以て、この時期のアスガルド帝国は拡張を続けていたのだった。

 


 鉄道の完成によって、アスガルド本土から移民が続々と流れ込むようになる。

 ただし1860年代に入るまで、技術的な問題から蒸気船による大東洋の短距離横断が実現しなかったため、アスガルド本土からフレイディアへの移民拡大には、物理的な限界もあった。

 フレイディア奥地でアスガルド帝国人が増えるのは、フレイディア縦貫鉄道と蒸気船によるハワイを経由する北大東洋の往復航路が開かれる1862年以後を待たねばならない。

 

 このため1840年代から50年代半ばにかけてのフレイディア開発では、様々なものが不足した。

 その補填分を、近在で最も高い経済力、産業力、さらに民度、教育程度を持ち、かつて一部を有していた日本から得た。

 一時労働者としての日本人も重宝されたが、特にアスガルドへの帰化を前提とした日本人移民はさらに重宝された。

 無論、アスガルドへの完全帰化を前提とはしていたが、初期の社会資本建設、黒土地帯東部への農業移民として、積極的に受け入れられた。

 日本政府としてはあまり面白い状況ではなかったし、強大化が目立つアスガルド帝国への警戒感も強まったが、取りあえず金儲けが出来ることを当面は喜ぶことにしていた。

 

 一方でアスガルド帝国は、万里の長城を越えてくる漢族の移民、流民に関しては、清朝以上に厳しく制限していた。

 漢族は地続きのため際限なく流れてくることが強く警戒され、日本人は海を隔てている上に完全帰化を前提とした移民としての了解の上での移住という違いがあったためだ。

 また日本人は、江戸時代という安定した封建時代を経験したため、組織や政府に従順な傾向が強かったという点をアスガルド帝国は高く評価していた。

 

 そしてアスガルド帝国は、万里の長城辺りに監視のための軍隊を置き、許可無く越境する者は容赦なく追い返すか、酷い場合は射殺してすらいる。

 入り込んできた不法移民に対しても、国外追放や収容所送りなど極めて厳しく対処された。

 全て、新たな領土をアスガルド化する為だった。

 

 もっともアスガルド帝国による非漢族化政策は、満州、蒙古各騎馬民族から広く支持されての事でもあり、実際の取り締まりのかなりの部分を現地騎馬民族が自ら請け負っていた。

 フレイディアのアスガルド人は、かつてのモンゴル帝国の次なる後継者でもあったし、彼らは進出してくる漢族を酷く嫌っているためだった。

 


 アスガルド帝国による開発は、清朝から得た沿海州、満州北部を中心かつ起点に開始され、ロシアとの境界線となるウラル山脈東側まで隈無く進められていく。

 また北満州縦貫鉄道は1840年代に開通を見ているため、北満州での開発は非常に早かった。

 さらに港が一年中使える遼東半島から伸びる南満州鉄道の敷設も早く、1850年以後は実質的な最重要路線となった。

 

 なお、西暦1851年、アスガルド歴だと801年つまり9世紀の始まりという区切りの良い年の統計だと、既に約30万人のアスガルド人がフレイディア各地に移民しており、採算度外視で作られた数々のアスガルド風文物が、そこの主が誰であるかを無言のまま教えていた。

 

 アスガルド歴800年には、再び清朝とアスガルド帝国の戦争があったが、それもアスガルド帝国の覇権拡大を助長するだけに終わった。

 

 そして西暦1860年代に入ると、アスガルド本国での産業革命の進展とより簡便な交通路の開設が、巨大な移民の流れを作り出す。

 アスガルド大陸の大陸横断鉄道、蒸気船による大東洋横断航路、フレイディア縦貫鉄道という、今までとは次元が違うほど便利で快適、そして極めて短時間となった移動手段によって、一気にアスガルド人が旧大陸へとなだれ込み始める。

 移民の流れは年々拡大し、西暦1860年代は平均で毎年10万から15万人のアスガルド人がユーラシア大陸北部へと移民していった。

 

 物資の流れも急速で、フレイディア縦貫鉄道が開通してしまうと、かつてシベリアと呼ばれていた場所は、日本で言うところの雨後の竹の子のように鉄道沿線に都市が誕生していった。

 

 この状況は、ウラル山脈の西側にいるロシア人にはあまり見えておらず、しかも大陸奥地での出来事のためヨーロピアン達が詳しく知ることもなかった。

 このため殆ど誰にも邪魔される事なく開発が進められ、開拓と土木技術に秀でたアスガルド帝国にとっては、夢のような開拓と開発の時間が過ぎていく。

 

 この流れは年々拡大し、次の十年ではさらなる飛躍を遂げることになる。

 


 1870年のアスガルド帝国本土の総人口は、約1億7000万人。

 白人世界では最大規模であり、中華地域が混乱する状態のため名実共に世界一の人口国家と言っても良いぐらいだった。

 当時の人口規模的で比較すると、ロシアを除くヨーロッパ全体の80%にも達していたことになる。

 そして当時のアスガルド帝国本国では、産業革命の爆発的進展に伴う急速な人口拡大のため、多くの「人あまり」が起きていた。

 

 このため北アスガルドからフレイディアへの人の流れは凄まじく、毎年30万人〜50万人もの移民の波が押し寄せるようになる。

 アスガルド大陸から移民を送り込むための移民船も、次々に造られ年々巨大化していった。

 船の建材も、木から鉄へ、そして丈夫になった鋼鉄へと変化していった。

 アスガルド帝国本国内でも、大陸横断鉄道が何カ所も引かれるなど、東部から西海岸に向かう鉄道が異常なほどの発達を遂げている。

 本国の出発点となったギムレー、ブリーシンガメンなどの港湾都市も、重工業が発展すると共に移民の出発地ともなって巨大都市へと変貌した。

 おこぼれで、日本の海運や港湾、海運、各種産業までが発展した。

 アスガルドの船だけでは足りないので、日本の商船会社までが大東洋航路の移民船を複数運航させたりしていたのだ。

 

 フレイディア副帝領の遼東半島に作られた海の玄関口にしてフレイディア縦貫鉄道の起点となるギャッラル市は、瞬く間に総人口数十万の大都市となった。

 そしてフレイディア各地の開拓のため人々は移民し、鉄道沿線はすぐにもアスガルド人で溢れた。

 

 西暦1840年の開発開始から約40年で、現地での自然増加を含めて1500万人以上ものアスガルド人が占めていたほどだ(※日系移民は、古くからの住民を合わせても300万人程度)。

 アスガルド帝国内での人口飽和と強引な拡大の賜物だが、国家が総力を挙げた社会資本、交通網整備をしなければこれほど短期間で実現できなかっただろう。

 見渡す限り平原でしかなかった黒土地帯の東部は、数十年で蒸気トラクターがうごめく穀倉地帯へと変化していった。

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