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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ21「列強の再編成」

 日本語訳での「列強」という言葉は、ラテン文字系言語を単純に直訳すると「強い力」「偉大な力」となる。

 つまり強い力を持った国家又は政府の事であり、18世紀末から開始された産業の革新に成功した一定規模以上の国家が、19世紀における「列強」足り得る資格を有していた。

 

 そして「列強」を目指す国々は、相手に負けないため、より強くなるために周辺部または世界各地に対する急激な膨張政策を実施し、各地を蹂躙したりそれぞれがぶつかり合った。

 そうした中で、特にヨーロッパでは大きな再編成と国民国家に向けた胎動が続いた。

 その中で中心となったのだ、ドイツ地域だった。

 


 ドイツ地域は、17世紀前半に行われた「三十年戦争」で総人口の三割以上を失うほど大きく荒廃した。

 その後オーストリア、スウェーデン、ネーデルランドにより、大きく分割された状態となった。

 かつて神聖ローマ帝国と呼ばれた地域が、隣国ポーランドと似た運命を辿ったわけだ。

 

 ポーランドとの違いは、蚕食した国としてネーデルラントとロシアが入れ替わることぐらいだった。

 そしてドイツを三分した国が統治した地域が、ドイツ民族が地域それぞれで異なる気質を持っていた事、スウェーデン、ネーデルランドが勢力圏内での基礎教育や啓蒙活動などによる言語の変更や国民意識の醸成などを熱心に実施して自国化を進めた事もあって、200年近くも分裂したままで過ごすことになる。

 当然だが、様々な面での違いも大きくなった。

 

 なおそれぞれの地域の気性とは、北西部は商業的で合理的な考えを持ち、北東部は質実剛健と尚武を旨とした。

 また北東部は、さらに東の武装開拓民である旧ドイツ騎士団領との歴史的つながりもあって、ドイツと言っても少し雰囲気からして違っていた。

 また北部全体としては、中世時代のハンザ同盟の頃の繋がりもあった。

 そして南部は他二つに比べてややのんびりとした気性を持ち、同じドイツ民族が住むオーストリア本国の気性も南部に近かった。

 南部は、芸術家的気性だと言われる事もある。

 また北部はプロテスタント、南部はカトリックという大まかな宗派の違いもあった。

 またあえて一つの職業にたとえるなら、北西部は商人、北東部は騎士、南部は農夫か芸術家に例えられる。

 特にこうした見方が強かったのが、北東部だった。

 彼らは、自らがヨーロッパ世界をフン族(ロシア人などの東方蛮族)から守ることを常に思い描いていたと言われる。

 伊達に、国旗に十字を背負ってはいなかった。

 

 そうしたドイツで、1848年に一種の革命騒ぎが起きる。

 

 ドイツ地域とされる地域に住む自由主義者、民族主義者達が、ドイツ民族は列強の支配を脱し一つになるべきだとして商都フランクフルトで会議を開き、神聖ローマ帝国以来のドイツ民族の統合を画策したのだ。

 フランクフルトが選ばれたのは、単に当時ドイツ地域最大の都市(当時は自由都市)だったというだけでなく、ネーデルランドとオーストリアの境界線に立つ都市だったためだ。

 


 ドイツ民族統一に向けた動きは、18世紀のオーストリアの女帝マリア・テレジアの時代から始まっている。

 オーストリアは、自分たちがドイツ民族ながら国家が多民族国家であり、しかも神聖ローマ皇帝の位も持っているという複雑な事情から、国家として一定の団結を求める向きが強かった。

 

 このためドイツ民族を緩やかに団結させて国家の中核とする、いわゆる「大ドイツ主義」を起こす。

 この考えにいまだ「三十年戦争」の荒廃から立ち直れていない南部、中部ドイツのかなりが賛同した。

 しかしそれぞれドイツ北部の自国化を進めていたスウェーデン、ネーデルランドが反発し、領土問題も絡んだ結果「七年戦争」となった。

 

 この戦争にはフランスも介入し、ポーランド、ロシアも首を突っ込んだ大規模な戦争となり、スウェーデンの一定の勝利によってオーストリアは自らの考えを後退させざるを得なかった。

 北東部がほぼ完全にスウェーデンのものとなったのも、「七年戦争」以後の事となる。

 

 しかしオーストリアは、「大ドイツ主義」自体をドイツ語を話す人々の間にしみこませることには成功した。

 以後オーストリアは、「ドイツ連邦」もしくは「中部欧州連合帝国」とでも呼ぶべき国家に向けた動きを進めていくようになる。

 

 なお対局に位置する「小ドイツ主義」はこのまま緩やかに、地域ごとに分立していくというもので、北部の中産階級ではかなり強い意見だった。

 北部、特に北西部は、南部と東部を蔑む傾向が強く、貧乏な他の地域と一つになりたくないと言う思惑が強かったからだ。

 また東部も、軟弱な西部、南部を嫌っている。

 こうした地域感情の違いも、ドイツ統一を隔てる要因となっていた。

 

 そうしてナポレオン時代を迎えて神聖ローマ帝国は遂に滅び、ウィーン会議によって一旦はヨーロッパ世界の保守固定化が図られる。

 中小の王国や諸侯に分かれたドイツ地域の多くも、周辺列強に飲み込まれた。

 この時完全に各国に併合された地域も多い。

 

 しかし旧時代的で保守的な押さえ付けは人々の抑圧を産み、それが人々にかえって権利と自由、民族主義を呼び起こすことになった。

 そもそもフランス革命とナポレオン戦争がヨーロッパの民族主義を呼び起こしたのだから、抑圧がいずれ限界を迎えるのは時間の問題だったと言うべきだろう。

 

 そしてウィーン会議後も、ドイツ民族の統合という考えは少しずつ浸透し、1848年の市民達による騒動となった。

 

 この時ライン川中流の商都フランクフルトで「ドイツ国民会議」が行われ、ドイツ各地から選ばれた人々が集った。

 会議では大ドイツ主義が大勢を占め、オーストリア皇帝をドイツ皇帝とするドイツ統一が採択される。

 しかし会議は一枚岩ではなく、北部は全体的に否定感情が強かった。

 会議そのものに参加しない地域も少なくなかった。

 

 北西部のネーデルランド領内では、既に公教育としてのネーデルランド語普及が進み、これまでの公用語としての強要もあってドイツ語が廃れつつあった。

 また、ヨーロッパ世界全体の経済重心として産業的、経済的に最も発展しているため、貧しい地域と一つの国家になる事への抵抗感が強かった。

 会議場となったフランクフルトですらそうだったのだ。

 ただ北西部には小さな王国、公国、自由都市など単体では立場の弱い地域もまだ多くあったため、ドイツ統一には一定の理解もあった。

 またネーデルランドという国家で考えると、国土も国境線も不安定だった。

 

 一方北東部だが、こちらはスウェーデンによる「バルト帝国化」が早くは17世紀から進み、地域全体としても「反ロシア」で団結がしやすく、今更ドイツとしての統合には否定的だった。

 会議の方も、北東部の特に東方地域は自分たちはドイツではないと言う意見が強かった。

 東プロイセン地方などは、ウィーン会議の時点でドイツ地域からも切り離されていたほどだ。

 

 地域的にいえば、ブランデンブルグ、シュレジェン、ポンメルン地方がスウェーデン領のドイツ北東部となり、その南にあるザクセンは地形の問題もありスウェーデンとオーストリアの係争地域だった。

 また早くからスウェーデンの支配下にあったプロイセン公国(=選帝侯のホーエンツォレル家)は、既にスウェーデン王家との姻戚関係で合同し、もともとドイツ地域の辺境ということもあって、最早スウェーデンによるバルト帝国の一部だった。

 ナポレオンによって神聖ローマ帝国が滅ぼされた時も、渡りに船とすら考えていたほどだ。

 なお、これより少し後に登場するスウェーデン宰相のオットー・ビスマルクの出身地は、ブランデンブルグ地域だった。

 

 エルベ川から東は、ドイツではなくスウェーデンもしくはバルトの国というのが、この時期にはほぼ固まっていたほどだ。

 

 そうした中で注目されたのが、半ば緩衝地帯として独立を維持していた北部中原のハノーバー王国だった。

 

 当時ハノーバー王国は、三国の境界にあるためどこにも属していないドイツ北部の邦国の中で最も大きく、またこの地域を得ればオーストリアが北海の出口ブレーメンを得ることにもなり、オーストリアがアプローチをかけ、ネーデルランド、スウェーデンが連携して邪魔し続けていた。

 


 もっとも同会議は、ドイツで起きた革命騒ぎがウィーンにも飛び火したため、市民達はともかく各国共にドイツの分割どころではなくなってしまい、話しは耶無耶になってしまう。

 

 特にオーストリアでの混乱は大きく、宰相メッテルニヒが辞任する事態に追いやられている。

 スウェーデンでも、ベルリンでプロイセン系の人々が自治拡大や独立を叫んだりしたし、ネーデルランドもライン川中流域の商工業都市でかなりの混乱が見られた。

 このため各国共に、自国領内のドイツ問題、少数民族問題で手一杯となってしまう。

 

 そして1848年の革命騒ぎは、ドイツ民族の分割をさらに進める結果になったといわれる。

 この会議以後、危機感を強めたネーデルランド、スウェーデンはそれぞれさらなる自国化を進め、それを嫌った一部のドイツ人が南部へと移住したからだ。

 

 ドイツ統一問題が最終的決着を見たのは西暦1870年頃で、オーストリアはハンガリーを内国(=自治地域)としてある程度自立させた上でドイツ帝国の成立を宣言。

 南部を中心にしたドイツ地域バイエルンなどを各国了解の元で併合し、オーストリアを中心にして「ドイツ=ハンガリー帝国」を成立させた。

 

 この間1860年代には、スウェーデン、オーストリアとの間に戦争も起きてスウェーデンが勝利していたが、オーストリアとしてはそれなりに満足できる結果だったと言えるだろう。

 特に多くのドイツ民族を自分たちの国に抱え込めた事は、内政上で大きな勝利だと考えられた。

 

 対するスウェーデンは、宰相ビスマルクの強力な指導と巧みな政治によって地域全体の大同団結と、伝統のロシアの孤立を目的とした外交を展開した。

 加えて、世界的にも有名な軍人モルトケの指導によって、軍の改革も実施して精強な軍を作り上げ、ヨーロッパ随一と呼ばれる軍事国家としても改めて注目された。

 「北の大帝」グスタフ・アドルフ以来、スウェーデンは常に「北の軍事大国」だった。

 

 国号も「スカンディナビア・ヴァルト連合王国」に変更し、世界に打って出ていく。

 オーストリアとの戦争も実施して、遂にシュレジェン地方の完全な獲得にも成功していた。

 アスガルド帝国によってシベリアを失ったロシアに対しても、かなりの優位を保てるようになった。

 そして以後のスウェーデンは、長い国名で呼ばれるよりも「北欧帝国」や「北欧連合」もしくは「バルト帝国」と呼ばれるようになっていく。

 

 そして北欧帝国と呼ばれるように膨張主義を取り、近在では自らの域内に取り込んでいたリトアニアの国土回復という名目でロシア領内の白ロシア、ウクライナの獲得を目指した動きを取り、遠方ではアフリカでの植民地の獲得のため活動した。

 

 一方ネーデルランドも、微妙な差のある域内の様々な面での統一をねばり強くかつ精力的に行い、国名も新たに「ライン王国」を成立させる。

 ドイツ北部中原のハノーバー王国も、国民投票の結果ライン王国への参加を決めた。

 国内には、首都アムステルダムを中心にブリュッセル、ブレーメン、ヘッセン、フランクフルトなどヨーロッパ中央部の大都市の多くを内包した、全ヨーロッパを代表するような商業国家の誕生だった。

 この国家は、後に後進国に落ちぶれたポルトガルと戦争を起こすなど、市場と資源を求めて植民地帝国主義を押し進めていく事になる。

 

 かくしてドイツ地方は、「南ドイツ」、「ライン」、「バルト」の三つに分かれ、以後の歴史を歩んでいった。

 


 一方、ヨーロッパ中原の動きに刺激されたのが、イングランド王国だった。

 イングランドは、長らく争っていたスコットランド王国を、遂に同君連合に合意させて事実上併合しブリテン島を統一。

 国号もブリテン連合王国として、ようやく世界競争に出る体制を作り始める。

 加えて、飢饉で壊滅的打撃を受けたアイルランド王国への支配権を強めることにも成功した。

 このため19世紀末頃からのイングランドは、自らの事を島の名もあってグレート・ブリテンと呼称し、他国に遅れながらも帝国主義への道を進み、そして様々な外交問題を起こしていく事になる。

 

 イタリア地域では、北西部のサルディニア王国が北部の統一を精力的に進め、オーストリアを中心にしたヨーロッパ各国の混乱と戦争につけ込む形でイタリア語圏内の奪還を精力的に行い、西暦1866年に「ルネサンス王国」とも呼ばれる「北イタリア王国」を成立させている。

 

 国家建設には一部でフランス帝国の支援を得たため、フランス帝国属領となっている両シチリア王国の復帰は叶わなかったが、北イタリアの人々にとっては教皇領以北こそが彼らにとってのイタリアなため、この時点では十分な結果だと考えられた。

 しかし、北イタリア、教皇領、南イタリア(シチリア)というイタリア語圏の分裂状態は、この地域にこの後も不安定さをもたらす事にもなる。

 

 こうして、近代に向けたヨーロッパの統合と再編成が進み、一定の力を得た国々は産業の革新を進めつつ、世界の覇権争いに参加していく事になる。

 

 一方、依然としてヨーロッパ最強を誇るフランス帝国は、ナポレオン三世の代になると国内での改革と産業の革新が進められ、海外での植民地拡大活動も活発化させる。

 彼はイタリア半島南部でのイタリア統一運動を事実上挫折に追い込み、地中海での覇権拡大を精力的に推進。

 他国を誘ってエジプトでの巨大運河建設を成功に導き、自らヨーロッパの先駆けとしてインド、そしてアジア進出の尖兵となった。

 レセップスの手によってエジプトのスエズ地峡に運河が開通したのは西暦1869年。

 以後フランスは、今まで以上にアジアを重視し、インド支配を強めていく事になる。

 また同時に、スエズ運河が出来た事でヨーロッパ列強がこぞってアジア進出を強化するようになる。

 

 そしてヨーロッパで新たな国民国家や列強が出揃う頃には、同地域での産業革命も進み、他の地域と共に世界分割と植民地化を進めるようになった。

 


 他の地域とは、主に北アスガルド大陸と日本になる。

 19世紀も残すところ四半世紀となった頃に、産業革命を達成した国や地域が他にはなかったからだ。

 また日本は東アジア世界の地域覇権国家であり、北アスガルド大陸にある国々は世界でも最も豊かだった。

 産業革命の進展速度は、発祥地でもある北アスガルド大陸が一番進んでおり、次にヨーロッパの一部、そしてその後ろを東部を除くヨーロッパの多くと、アジアで唯一日本だけがヨーロッパより早いぐらいの速度で追いかけていた。

 日本が、最後の新大陸とも言われた豪州大陸を自らの縄張りに組み込むことができたのも、日本が列強だったからに他ならない。

 

 そうして19世紀後半に列強と呼ばれる国々の主な競争場所となったのは、アフリカ大陸とインド洋沿岸だった。

 大東洋は、17世紀の頃から日本とアスガルド帝国により平和的に二分されていき、東アジアもほぼ同様だった。

 中華王朝が少し異なるが、人口があまりに大きすぎるので、インド同様他のアジアとは違う一つの別地域と考えると、日本人とアスガルド人により分割されたという形になるだろう。

 また、日本人の国家と勢力圏を東アジアではなく「環大東洋」として見ると、状況としてはむしろ分かりやすいかも知れない。

 日本は、大東洋の西半分をほぼ全て有していたからだ。

 


 かくして、世界分割の焦点となったのは、「暗黒大陸」として他の地域の人間が奥地に入ることを拒み続けていたアフリカ大陸となる。

 

 アフリカ大陸には、15世紀の頃から沿岸部に進出していたイスパニア、ポルトガルが権利を主張していた。

 しかし現地民族による国家すら存在する場合が多く、疫病や厳しい自然のため白人達が奥地に入り込むことは極めて難しかった。

 そもそも地形障害が大きいため、内陸部に入ることはほとんど不可能だった。

 白人達が主張した権利も、ほとんどが沿岸部だけだった。

 

 しかし文明の革新が、暗黒大陸の天然の防壁を越える手段となりつつあった。

 蒸気で駆動する船、鉄道は、多くの状況を容易く克服する手段となったのだ。

 

 このアフリカでの競争に初期の段階で有利に立っていたのが、フランス、ネーデルランドとなる。

 フランスは古くから地中海対岸(アルジェリア、モロッコ地域)の進出を精力的に行っていたし、初代ナポレオンによって南アフリカ(ケープ)も得ていた。

 ネーデルランドは、「第二次大西洋戦争」でポルトガルからアフリカ植民地の権利を一部買い取っていた。

 しかし19世紀半ば以後になると、スウェーデン、ノルド、アスガルドと列強が次々に橋頭堡を確保していく。

 少し遅れてオーストリアが入り、最後にブリテンがモロッコをかぶりつくように奪って、列強間の軋轢を表面化させる。

 日本人も、インド洋を越えて何かを得られないかとうろついていた。

 

 アフリカでの分割は1885年の「ストックホルム会議」で各国合意の元で決められ、それぞれの列強は既に得ていた海岸線からの人工的な線引きによって、互いの領域を確認しあった。

 

 しかしこの時の線引きは、かりそめ、取りあえずという向きが強く、19世紀末にライン王国ネーデルランドのトランスバール、オレンジ自由国で歴史上最大規模の金鉱が見つかると、近在の南アフリカを有するフランス帝国が食指を伸ばし、両国を中心として激しい争い(「仏蘭戦争」)へと発展していく事になる。

 

 だが金鉱を巡る争いは19世紀末の事であり、それ以前の段階では多少の不満を抱えつつも、力の均衡もあって列強達はアフリカ大陸という巨大な陸塊を中心にして、パイを切り分けるように世界分割に勤しんでいく事になる。

 

 それが「近代」と呼ばれる時代の幕開けにあった、強欲な国々による最も活発な外交活動であった。

 そして列強の中でもとりわけ強大な力を有する国家、ヴァイキングの末裔であるアスガルド帝国による膨張政策が「近代」と「植民地帝国主義」をより華麗で苛烈なものとしていく。

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