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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ18-2「中華世界の混乱(1-2)」

 一方北の大地での陸上戦闘だが、こちらも近世と近代の国家、軍隊の違いを見せつける戦いとなった。

 

 かつて中華の大地を制した清朝の誇る八旗兵は、基本的には満州族による騎兵だったが、旧式ながらもマスケット銃や砲(旧式の軽砲程度)も有していた。

 かつては明朝軍をうち破り、他の騎馬民族の台頭を阻止し、半世紀ほど前の乾隆帝の時代には中華史上最大の版図を作り上げた東アジア最強の近世型軍隊だった。

 その戦闘力は、恐らく戦国時代終末期の日本軍よりも相対的に強力だっただろう。

 

 しかしアスガルド帝国軍は、最新の軍制に作り替えた近代的軍隊を投入してきた。

 しかも兵士達が装備する銃はライフル(施条)銃であり、中には現代では当たり前の後装式の最新銃、つまり小銃もあった。

 後装式の銃は、その後列強が世界を完全に征服する原動力となった兵器の一つだった。

 アスガルド帝国軍造兵廠で生産が開始されたばかりの銃は、単に後ろから弾が込められるというだけで劇的な変化をもたらしていた。

 発射速度が従来の前装銃の3倍ほどあり、しかも「伏せて撃つ」事が出来るという極めて大きな特徴を備えていたからだ。

 つまり、一人で数倍の火力を発揮し、しかも相手からは撃たれにくいというわけだ。

 せいぜいが、火縄銃しか持たない清朝の兵士が敵うはずもなかった。

 ロシアとの戦いでもごく少数が使われ威力が立証され、大増産されたものが大量配備され始めていたので、数の不足もかなり緩和されていた。

 

 各種砲の威力と射程距離も桁違いで、何より軍隊の制度そのものに大きな開きがあって、部隊の機動性、柔軟性が全く違っていた。

 その上多くの部隊が、ロシア軍と戦ったばかりで実戦経験も豊富となっていた。

 

 しかもアスガルド帝国軍は、これまで清朝が相手にした事のあるロシアのコサックや日本の北辺の武士とは、規模の点で格が違う相手だった。

 今度のアスガルド兵の中には現地日本人部隊も含まれていたのだが、それは一部でしかなかった。

 現地アスガルド軍の兵力の数は初期で3万、最盛時で10万を数え、それらが十分な支援を受けて動き回っていた。

 しかもロシアを破ったばかりの兵士も多く、士気は非常に高かった。

 全軍の指揮も、北部の軍が主力となったため、臨時に当時フレイディア副帝を兼ねていた皇太子フレイソン元帥が行っていた。

 

 皇太子親率のアスガルド帝国主力部隊は、ロシアとの戦いから引き続いて日本の樺太島を借り上げる形で橋頭堡を確保しつつ満州各地に軍を進め、自国領である外満州から沿海州、北満州と次々に占領地を拡大。

 大興安嶺山脈、小興安嶺山脈も簡単に越えて満州平原へと軍を進めた。

 そしてフレニアと日本に準備されていた大量の物資と兵団が占領下の沿海州各所に上陸して、北満州の主力部隊に合流していった。

 

 この時、南ではアデレイド皇女率いるアスガルド海軍が猛威を振るっており、そちらに清朝の目が向いている間の電撃的な侵攻だった。

 


 北からの侵攻に慌てた清朝は、それでも中華本土北部と満州南部で慌てて集めた、合計15万の軍勢を迎撃に向かわせる。

 この時期の清朝としては、既にかなりの無理を押して用意した大軍だった。

 それだけに、清朝軍としては十分以上の軍隊だと考え、場合によってはフレイディアへの逆侵攻を行うことで海での敗北と相殺しようとすら考えていた。

 だからこその大軍だったとも言えるだろう。

 自慢の騎兵も十分に用意されていた。

 

 だが、一度行われた満州北部での戦闘で、清朝軍は惨敗を喫してしまう。

 

 西暦1838年、アスガルド歴788年秋に行われた「長春会戦」は、清朝側の予測に反した大軍を擁するアスガルド帝国軍のため、双方合わせて20万以上の兵力が激突する戦闘となった。

 後に征服帝と呼ばれるフレイソン皇太子が待ちに待った、大平原を埋め尽くす大軍同士が正面から向き合う一大決戦だった。

 

 この時皇太子は、愛馬の上で「そうだ、これがやりたかったのだ」と叫んだと言われる。

 

 そして戦場では、合理的な師団、軍団単位で機敏な戦術運動を行うアスガルド帝国軍が、柔軟性と火力の高さを遺憾なく発揮。

 近世アジア的な戦闘を挑んだ清朝軍を、一方的な運動戦に引きずり込んだ上で、包囲殲滅の形で完全に粉砕してしまう。

 

 清朝軍は、急ぎ寄せ集めたとはいえ『八旗兵』の半数以上の旗が翻っていた精鋭部隊で、自慢の騎兵の数も多いし戦場は満州兵にとっての祖国、故郷と言える場所だった。

 当然ながら地の利も持っていた。

 それなりに火力もあった。

 だが、一部の騎兵同士の戦い以外では、一方的な戦闘展開となってしまった。

 しかも自慢の騎兵ですら、ほとんどがアスガルド軍の歩兵と砲兵の制圧射撃の前に簡単に粉砕されてしまい、崩れた所をアスガルド帝国軍重騎兵の突撃を受けて全軍崩壊に至っている。

 清朝側は、総指揮官すら失う惨敗だった。

 

 その後の清朝軍は現地軍が潰走したため、アスガルド帝国軍に対してほとんど為すがままとなってしまう。

 

 その間、主にアスガルド側の偵察部隊との間に小競り合いも何度か発生し、互いに激しく機動する騎兵対騎兵の戦いは刀剣や槍による戦闘のためそれなりの戦いとなったのだが、ライフル銃、野戦砲群の十字砲火を前に清朝軍は為す術もなかった。

 


 しかもアスガルド帝国軍の侵攻は満州正面の一カ所からだけではなく、領土としたフレイディア各所を起点として、新疆(東トルキスタン)、外蒙古からも騎馬部隊が長躯進撃した。

 

 新疆方面では、アスガルド帝国軍以外にも他の中央アジア部族の兵も加わっており、現地の清朝軍が対応するには当時の清朝の軍事能力を超えていた。

 相手のかなりが清朝を快く思っていない上に数も多く、しかもアスガルド帝国から武器の供給を受けていた。

 しかもアスガルド帝国側は、中央アジアの騎馬民族などから協力を仰ぐため、金銭や武器の報酬などの慰撫も行っていた。

 

 急な全面戦争に対する清朝は、国庫を越えるほどの軍事費を泥縄式に投じたがとても足りず、予算面からも国力の違いを見せる戦いとなった。

 

 なお、一連の北東アジアでのアスガルド帝国軍の活動のため、実質的な兵站拠点となった日本列島では一時的な戦争特需が発生したほどだった。

 そしてこの時、主に西日本地域と日本海側の一部が兵站拠点とされ、江戸幕府に反抗する勢力が大きな利益を上げ、自分たちの革命を押し進める軍資金としている。

 

 前近代的と言いながら金を惜しまない戦争をしている点で、アスガルド帝国が時代を大きく先に進んでいたとも言えるだろう。

 この時の現地アスガルド帝国軍は、総力戦をするつもりで色々な文物を準備していたにも関わらず、実際の戦争は前近代的な戦争だった。

 このため、むしろ戦費や物資に余裕をもって戦争を進めていたので、他国への発注や多民族の慰撫に力を入れることも出来たのだ。

 

 ロシア、清朝との戦争でのフレイソン皇太子による「大盤振る舞い」も、その内実はそうしたものだった。

 


 幸いと言うべきか、その年は冬を迎えたためアスガルド軍の進撃は一旦止まったが、翌年の1839年初夏にはアスガルド帝国軍は進撃を再開。

 しかも南のフレニア群島には、本国から増援の大艦隊も到着。

 現地アスガルド帝国海軍を統べるアデレイド海軍元帥は、3万の大軍を以て揚子江河口部に本格的な強襲上陸作戦を実施。

 このため沿岸部でも地上戦が行われたが、こちらの戦場でもアスガルド帝国軍の圧勝だった。

 榴弾や奮進弾による艦砲射撃が加わる分だけ、清朝軍の惨状は酷かったほどだ。

 

 そして満州方面を進撃したアスガルド帝国軍主力は、そのまま南下を続けて万里の長城にまで到達。

 そこで使節を出して清朝政府に降伏を勧告し、講和会議の開催を要請した。

 仲介する国がないため、直接持ちかけるしかなかったからだ。

 

 しかし清朝側は、万里の長城に集めた自分たちの大軍と、アスガルド軍が万里の長城を越えずに講和を求めたことを自分たちに都合良く誤解。

 清朝政府は講和を拒絶し、程なく戦闘が再開される。

 ここでアスガルド軍は、万里の長城の要所、山海関の海沿いにある要塞を、沿岸からの艦砲射撃を含めた砲撃戦で瓦礫の山になるまで砲撃戦を実施。

 その後海兵隊が多数の砲と共に上陸して、その後も砲撃戦を続ける。

 陸上でも、時を同じくして陸軍部隊が間断ない砲撃戦を実施した。

 

 砲撃戦は一週間も続き、歴史的要衝は廃墟と化した。

 元来艦艇の沿岸要塞攻撃は不利だとされるが、もともと山海関はこの時のような激しい艦砲射撃は全く想定しておらず、さらに技術格差、戦力差が艦艇側の不利を問題としなかった。

 それに長城自身が騎馬民族を防ぐためのものであり、海洋民族の軍隊を防ぐものではなかった。

 当然だが、陸からの砲撃戦もほとんど想定されてはいない。

 

 また長城沿岸部以外の他の要地の進撃でも、まずは長時間の砲撃が実施され、清朝軍の士気を砲撃戦によって砕いた。

 アスガルド軍の砲撃に業を煮やしたため、何度か清朝軍の側から長城を越えて出撃が行われたが、野砲の弾幕とライフル銃の十字砲火の前に死傷者の山を築き上げるだけに終わった。

 


 そして10万に達するアスガルド帝国軍がほぼ無傷で万里の長城を越えると、清朝の道光帝は僅かな臣下を連れて北京棄てて奥地の西安を逃亡。

 北京の城壁を越えたアスガルド軍は、宮殿にして政庁である紫禁城に残った官僚達との間に、とりあえずの交渉を持つことになる。

 なお講和会議は、フレイソン皇太子が接収して滞在場所としたヨーロッパ風庭園を持つ円明園で開催されたが、アスガルド帝国にとって相手国の首都へと攻め込んだ初めての会議でもあった。

 

 この一連の侵攻において、アスガルド軍は過度の掠奪や暴行とは無縁だった。

 直接的には皇太子が強く命じていたからで、国家としては交渉の手段とするためだった。

 そして掠奪や暴行がないと知った道光帝が北京に戻ると全権を円明園に呼びつけ、アスガルド帝国側が用意した講和条約の文書に、ほとんど無条件で調印させてしまう。

 皇帝を呼びつけなかったのは、アスガルド帝国側のせめてもの配慮だったが、かえって屈辱と取られたとも言われている。

 

 西暦1839年秋に結ばれた「北京条約」では、アスガルド帝国へ沿海州と北満州の割譲と、蒙古、内蒙古、東トルキスタン(新疆)を雑居地とする事が条件の主体となった。

 無論莫大な賠償金、賠償物品もあり、戦争に協力した日本にも占領した海南島を割譲させていた。

 清朝側が拒絶したのは、父祖の地である南満州を雑居地とする事だけだった。

 ただし、アスガルド帝国に南満州での鉄道の敷設権、新たな港湾の建設権、土地の租借権などを与えねばならず、清朝側に大きな不満が残る結果となっていた。

 

 しかし講和の中には、清朝の開国、海禁政策の廃止は含まれておらず、アスガルド帝国側の戦争理由は、あくまで外交を無視し、最初に攻撃を行ってきた清朝への懲罰とされた。

 実際、この頃のアスガルド帝国は、清朝との大規模な交易、中華地域の市場化が必要だとはほとんど考えていなかった。

 巨大な人口を抱える地域の市場獲得も、現時点では面倒が多いと考えていた。

 阿片やコカの販売促進についても、国家としては半ば嫌がらせであり別段必要だとは考えていなかった。

 広大な領土を割譲したのも、直近に北の大地を得た事が理由であり、どうせなら南に広げておこうという程度でしかなかったといわれる。

 だが帝国中枢の一部では、今後半世紀、一世紀後のことを考えての領土獲得であると言われる事も多い。

 コカや阿片の密売以後の構図からも、後者の方が結果としては正解となるだろう。

 なぜなら以後アスガルド帝国は、ユーラシア大陸東部への進出と開発、そして入植を精力的に押し進めるようになるからだ。


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― 新着の感想 ―
[一言] 各作品、あいかわらず清朝は餌にされてますねえ。 この手の作品の中で、中華勢力が(ある意味順当に)覇権を握るパターンの作品もありますか?
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