フェイズ18-1「中華世界の混乱(1-1)」
中華地域は、有史以来世界で最も多くの人が住む地域だった。
また四大文明の一つが発祥した場所であり、古代から中世においては、世界の人口の3分の1の人が居住していたとすら言われる程だ。
歴代中華王朝は、最盛時に1億を数える人口を抱えた、世界そのものといえるほどの大国であり、巨大な人口と国力により常に周辺世界に強い影響を与え続ける存在だった。
中世までは、「中華」という自負に溢れた言葉もあながち誇張ではなかった。
しかし白人社会での革新的な変化の連続が、圧倒的だった筈の優位を簡単に崩そうとしていた。
清朝(大清国)は西暦1636年に成立し、建国から18世紀末に至るまで名君、賢君に恵まれた事、中華王朝の完成系ともいえる優れた支配機構を有していた事、そして支配民族となった満州族(女真族)が周辺民族に対して全般的に寛容な政策を行った事から、歴史上空前の繁栄を達成した。
これは総人口と領域の双方に言えている。
総人口については、農法の発展とトウモロコシ(コーン)、金芋(カモテ芋)など新作物の導入もあって、従来の最大人口の約二倍に当たる4億人に達するほど拡大した。
正確な統計は取られていなかったが、最大で5億人近いという推計もある。
しかし時代の経過と共に、中華世界の伝統とも言える官僚腐敗と政治の劣化が進み、土地(農地)に対する人口飽和の圧力に晒されるようになる。
西暦1796年に起きた「白蓮教徒の乱」が、分かりやすい事件と言えるだろう。
中華地域では、儒教の教えなどから遺産を家族で分散する習慣を持つため、農民達は王朝の安定が続くと自然に一人当たりで持てる農地が限られていく。
このため簡単に飢餓域にまで人口が増加し、ちょっとした天候不順で大規模な飢饉が起きて、それが王朝の倒壊へとつながっていくのだ。
三国志の時代だと、最盛時の10分の1以下とすら言われるほど人口は減少する。
その上19世紀においては、それまでの中華世界ではあり得ないほど遠方から、強大な力を持った国家の干渉が行われた。
この国こそが、アスガルド帝国だった。
アスガルド帝国と清朝の関係は、17世紀末頃から貿易という形で本格的に始まるも、あまり活発ではなかった。
当初、清朝からは一定量の絹と陶磁器が輸出されたが、アスガルド人には紅茶(黒茶)も烏龍茶もあまり馴染まなかった。
陶磁器も当時は日本の生産量がダントツに多く、アスガルド帝国はその後も国民の嗜好に合わせて日本製を輸入している。
絹も多くはアスガルド国内で生産していた。
清朝から輸入するべき工業製品や贅沢品も、極めて限られていた。
このため清朝からの輸出量は少ない状態が続く。
一方アスガルド側からも、銀を例外とすると一部農作物と漢方薬に使う珍しい動物の乾物、動物の毛皮ぐらしか輸出物がなかった。
ノルド王国が輸出するカカオの方がよく売れていたほどだ。
しかし、アスガルド帝国から徐々に伸びていった輸出品がある。
それがコカとコカの低濃度精製品だった。
コカは、お茶と新たな漢方薬の材料として一時期清朝全域で珍重されたため、フレニアで栽培して大量に輸出され、アスガルド帝国は大量の銀を得るようになっていた。
アスガルドの一部では、フレニアのようにわざわざ清朝への輸出用に栽培されたほどだった。
だが清朝は、貿易不均衡と銀の流出を嫌うようになり、18世紀末頃にはアスガルド帝国との取引量を大きく制限する。
また高濃度のコカにはかなりの中毒性があるため、清朝はコカの取引を嫌った。
当然アスガルド帝国側は抗議したが、外交という概念の存在しない清朝政府からは門前払い状態だった。
これを恨んだアスガルド帝国は、対向外交としてコカの密輸を始め、さらにはより危険な阿片を密輸品の中に加えていった。
そして現地結社、暴力団体と結びつく事で莫大な利益を上げ、そして常習性薬物による害悪を清朝領域に振りまき、既に傾きかけていた清朝を一気に蝕んだ。
清朝近在のフレニアでも、阿片の栽培が積極的に行われた。
この一事をもって、フレイディース一世は名君であったが善君や善人でなかった何よりの例だとされる。
一方では、清朝を集中的に狙い、近在の日本には日本政府の許可を得た上で精製していないコカ程度しか輸出していない。
もっとも日本に対する場合は、日本をヨーロッパに対する防波堤として利用することが、アスガルド帝国側の基本戦略だったという要因を考慮すべきだろう。
19世紀前半の時点で、清朝が強大な海軍を持ち産業革命に手を付けていれば、様相は変わっていたかもしれない。
アスガルド帝国の無体に対して、清朝も黙ってはいなかった。
阿片の販売禁止から根絶の為の強引な措置まで行った。
コカに対する取り締まりも、いっそう強く行うようになった。
場合によっては外国商人から阿片やコカを強引に没収して処分することもあり、アスガルド帝国との間で外交問題にも発展した。
この時点で西暦1820年代末頃になる。
しかしこの時点でアスガルド帝国は、抗議程度に止まっていた。
しかしアスガルド国内では、自国の商人が他国人に裁かれた事への反感が募り、反清運動が起きていた。
そうした中、アスガルド帝国が日本から北海州を購入し、ロシアと数年間戦ってフレイディアという広大な領土をユーラシア北部一帯に作り上げる。
そしてアスガルド帝国は、新たに得た領土の確定と安定に力を入れ、境界線となる地域を積極的に調査した。
ここで清朝との間に国境紛争が起きる。
西暦1835年(アスガルド歴785年)に起きた事件そのものは、境界線地域に住む人々による越境が理由で、境界線の辺りがロシアや日本と接している頃には問題視されることはほとんどなかった。
しかしアスガルドの役人、軍人たちは、厳密な措置を熱心に行う。
その中でアスガルド側が、ほんの少しずつ領土を南に押し下げているという報告が、外蒙古の辺境、黒竜江の辺境から清朝中央にもたらされた。
このため清朝は現地に役人を派遣したが、今まであいまいなまま放置していた地域で明確な権利を主張する事も難しく、交渉は証拠を揃えたアスガルド帝国の優位で進展した。
このため現地に派遣された清朝側の役人は、近くに駐留していた軍隊を呼び寄せ、自分たちの後ろに待機させた上で交渉を再開。
当時ロシアと戦争をしていたアスガルド帝国側は、現地の判断で引き下がる形で一旦は終息した。
だがアスガルド帝国側には、清朝の外交への無理解、横暴、強引なやり口を非難する声が一層高まる事になる。
アスガルド帝国本国も正式な抗議を実施するが、抗議は完全に無視される。
清朝は基本的に海禁政策を実施しており、伝統的に自分たちこそが世界の中心で優れているという意識を持ち、他国人、他民族を野蛮人扱いしていたからだった。
この場合アスガルド人は、中華世界での新たな「北狄」、つまり北の蛮族という事になるだろう。
交渉においても、自分たちの方式を取ることを当然と考え、しかも自ら出向くことが皆無だった。
伏礼や叩頭など、頭を地面に擦りつけるという行為に慣れていないアスガルド人との交渉が、うまくいく筈も無かった。
当然問題はこじれ、アスガルド帝国の怒りは増幅。
アスガルド帝国は追加の軍を派遣し、対向外交としての軍事威嚇を実施。
力を伴う外交を展開する。
これに清朝側も過剰反応を示し、小規模な軍隊を派遣して自らの領域を相手に再確認させようとする。
場合によっては小競り合い程度の戦闘を予測したもので、規模も数百騎の騎馬兵を中心とした。
そしてその騎馬達は、モンゴルの大地は自分たちのものだとしてアスガルド領域側に入り込み、自分たちに反発した者達に対しての暴力と略奪行為にまで及んだ。
清朝側にしてみれば、今まで通りの当たり前の対処でしかなかった。
しかし、清朝側の行動に対して、設置されたばかりの現地アスガルド総督でもある皇太子フレイソン元帥は、清朝によるフレイディアへの侵略と判断。
事前に本国からの許可を得ていた事もあって、断固たる反撃を行う。
当時の現地アスガルド総督府は、軍団規模の司令部と組織を持ち、残留した日本人開拓者なども行政及び軍事組織に加えているため、清朝が予測したよりもはるかに多くの兵力を擁していた。
しかもこの時期の現地アスガルド軍は、ロシアとの戦いを終えたばかりで帰国途上にある部隊が多く、帰国予定以外の部隊もかなりがフレイディア各所に残留又は駐留した状態だった。
ロシアとの戦で使う予定で運び込まれた兵站物資も、まだ豊富に残っていた。
続けて戦うのならば、日本人が勝手に戦争を見越して用意しつつある物資についても勘定に入れることができた。
清朝の侵略を受けたという報告は、距離の誤差を最小限とする時間差でアスガルド本国にもたらされた(※アスガルド歴774年(西暦1834年)には、アスガルド帝国内最初の大陸横断鉄道が開通している)。
そして対ロシア戦用として念のため本国の西海岸で待機していた新鋭の艦隊が、多数の兵士と武器を載せて出航した。
名目上はロシアに備えた艦隊であり、戦争が終わった後は兵士を本国に戻すための船とその護衛だったが、何を意図していたかは明白だった。
この艦隊は、海流や風を出来る限り無視して大東洋をほぼ最短距離で進んでいる。
一部の行程を蒸気船で他の帆船を曳航しての進撃だったが、少なくとも準備に数年かけている事は間違いなく、紛争を前提として既に出撃体制にあった事も間違いないだろう。
蒸気船が実用化されたと言っても、まだ蒸気の力だけで広大な大東洋を横断できる時代ではないため、先鋒は報告を受ける前に出撃している可能性も高い。
大東洋という世界最大級の自然の防壁と渡るために必要な時間を考えると、この時のアスガルド帝国の行動は奇襲に等しかった。
しかも同時に、東南アジアのフレニアに駐留するアスガルド艦隊も活動を活発化し、そのうち数隻が清朝の開港地・広州に赴いて北京に対する外交文書を渡した。
この外交文書は、清朝に越境と戦闘と掠奪の損害に対する謝罪と賠償を求めたものであり、文書そのものに問題はなかった。
しかし相手は、まともな国際外交が必要だとは考えていない頃の清朝だった。
清朝の絶対君主である道光帝は、無礼だとしてアスガルド帝国の出した正式な使者(外交特使)を広州で散々待たせた末に事実上追い払ってしまう。
清朝側としては、無礼な蛮族の使者を殺さなかっただけ寛容さを示したといったところだった。
だが、この行動を世界中にも伝えたアスガルド帝国は、清朝による事実上の最後通告と同義だと判断し、次に赴かせた軍艦に宣戦布告文書を持たせた使者を乗せた。
しかも巧妙というべきか、国境紛争での戦死者の中に現地日本人が含まれていたことから戦争には日本も強引に誘い、当時まだ国内での混乱が続く江戸幕府はこれを断れず共犯者となっていた。
この戦争は、原因はともかく「コカ戦争」と呼ばれる。
紛争は1837年秋に起き、戦争は1838年初夏に勃発した。
まさに狙い澄ましたような時期であり、夏の時期でなければ気候の関係上北の大地での戦争は不可能だった。
残されている文献などからも、清朝に対する戦争は十年以上かけて計画されていた事がおぼろげながら見えてくる。
日本から北海州を買った理由も、ロシアとの不毛な大地での戦争よりも、満州地域を狙っての事だったと考える方が自然だろう。
そして戦争そのものは、ロシアとの戦い以上に一方的展開となった。
海では、清朝の擁するほぼ全ての主要港湾に、アスガルド帝国海軍の誇る蒸気艦隊が襲来して、一方的に破壊と殺戮を振りまいた。
清朝の海上戦力を徹底的に破壊し、船舶や港湾を破壊し、海上交通網を麻痺状態に追い込んだ。
この時、40隻の大型戦闘艦と200隻以上の小型艦や私掠船が遠征艦隊として用意され、これらのうち3割は蒸気機関を備えていた。
海上での兵員数も、乗り込んだ海兵隊員を含めると7万人を越える大艦隊だった。
その上、本国のアールヴヘイムからフレニアを主要拠点とするべく派遣された大東洋方面艦隊は、第二皇女アデレイドが新たに総指揮官(提督・海軍元帥・当時21才)として皇族自らが親率していた。
ここでは皇族が名目上の総指揮官という点よりも、若い女性を指揮官に当てることが、清朝というよりアジア世界に対する強い当てつけや嫌がらせでもあった。
また清朝側の判断力を怒りや嘲りで鈍らせるため、あえて若い皇女が総指揮官になったといえるだろう。
皇女当人の人となりは後世にあまり伝えられていないが、写真などからは容姿は両親の特徴を半分ずつ持つことが今に伝えられている。
そして、「航海皇女」や「海賊皇女」という異名を持ように、子供の頃から船が好きで乗っていたという少し変わり者だと言われる。
そしてこの時の戦争では、戦争手腕の才能も見せることになる。
皇女は、まさにヴァイキングの末裔だった。
風や波の動きを無視して動き回るアスガルド蒸気船に対して、清朝の海上戦力は無力で、戦闘は一方的だった。
アスガルド艦隊の戦い方も秀逸で、清朝の船を港などに追いつめて一気に放火して葬り去るなど容赦もなかった。
また半ば巻き込まれた形の江戸幕府も、国内の混乱があるにも関わらず若干の艦艇を出撃させていた。
アスガルドにならって自前の蒸気軍艦を送り込み、日本人も自らの文明の革新が今以上に必要だと言うことを身を以て学んだ。
清朝側のジャンク型帆船も、一応の外洋航行能力を備え旧式ながら大砲を装備していたのだが、アスガルド帝国海軍が有する高速帆船群だけでも荷が重い以上の状態なのに、蒸気の力で自由に動く相手では歯が立たないどころか、標的程度の価値しかなかった。
短期間の間に、清朝の海上戦力は活動不可能なまでに破壊され、多くの船が沈むか拿捕されたため海運も大混乱に陥った。
幾つかの港湾と島が占領され、主に揚子江近辺の島の一部と海南島が日ア連合軍による占領下となった。
港湾都市の幾つかも、掠奪や焼き討ちされて廃墟と化した。
揚子江にもアスガルド艦隊は遡航し、南京の街までが砲火に晒された。
接舷切り込みや接近戦になると清朝の兵もかなりの脅威となるが、ほとんどの場合は砲撃戦でケリがついていた。
希に接舷して白兵戦となったが、武器の差は如何ともし難く、結局アスガルド海軍が艦艇を失う事はほとんどなかった。