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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ17-2「シベリア戦争(2)」

 その後戦争は、現地アスガルド帝国軍がチンギス・ハーンの再来とも言われる進撃路を中心に進み、ロシア側は戦略的な劣勢もあって後退戦術を取る形で戦争が推移した。

 

 しかし、ほとんど戦わないまま後退を続けるロシア軍も、流石に後退しすぎて危機感を募らせたため、戦費を惜しまず本国からの大規模な増援を決意。

 ウラル山脈方面に無理を押して10万近い兵力を送り込み、さらに最前線となる地域にはシベリア鎮定軍として4万の兵力が差し向けられた。

 ロシアがウラル山脈以西にこれ以上の大規模な戦力を投じられなかったのは、ロシアという国家自身が遠方の辺境で大軍を養うだけの能力に欠け、さらに戦費が不足していたからだった。

 また北極海沿岸の防備も行わねばならず、これが現地に送る戦力を限定させる大きな要因ともなっている。

 スウェーデンを始めとする、ヨーロッパ諸国に対する備えについては言うまでもない。

 

 これに対してアスガルド軍も年々兵力を増強させ、中央アジア平原での各地の懐柔政策が功を奏した事もあり、3万近い兵力を最前線に投入するようになる。

 

 そして双方の思惑の合致から、1836年初夏に「オムスクの戦い」と呼ばれる戦いが行われる。

 この戦いは、「シベリア戦争」で初めての会戦もしくは決戦と呼びうる規模の戦いとなり、さらには双方が自らの勝利を目算していたためか、黒土地帯の果てに広がる平原での正面からの激突となった。

 

 初期の戦闘は、両者が大量の騎兵を投じた、ある意味前近代的な戦いを中心に展開される。

 だが中盤以後は、防御から攻勢に転じた施条銃(ライフル銃)を装備したアスガルド歩兵師団はほとんど無敵だった。

 

 黒衣に白をあしらったアスガルド兵(近衛兵)の軍服は、既にロシア兵の間で恐怖と共に語られていた。

 当時の野戦砲に匹敵する有効射程距離で制圧射撃を仕掛けてくるライフル兵は、当時それほどの脅威だった。

 なお、この時アスガルド軍が装備した銃の一部には、マスケット型の銃ではなく最初の小銃(銃弾を後ろから手早く装填できる)が試験的に用いられていた。

 そしてこの時の戦いは、歩兵銃による防御戦闘が騎兵を粉砕するという形を最初に見せた大規模な戦いでもあった。

 

 そして優れた兵と武器を縦横に駆使したフレイソン皇太子の指揮もあり、戦闘はアスガルド帝国軍の圧倒的勝利を以て幕を閉じる。

 


 その後ロシア軍は、次なる決戦を避けてウラル山脈に後退。

 

 対するアスガルド帝国軍は、補給線を確保しつつ迅雷のごときと言われる進撃を続け、各所で小規模な勝利を重ねる。

 また、中央アジア地域に対する慰撫と恭順にも力が入れられ、反ロシアという分かりやすい大義名分のもとで多くの地域で強い影響を行使できるようになっていた。

 現地で不足する物資も、フレイソン皇太子が持ち込んだ莫大な戦費よって、かなりが中央アジアから賄われ、ロシア軍が想定した後退戦術がアスガルド軍には殆ど機能しなかった。

 こうした状況は、一面ではモンゴル軍に似て見えたため、「タタールの再来」、「白いタタール」としてロシア兵の士気をさらに下げ、ロシア側に厭戦感情を高めさせることになる。

 

 そしてロシア軍が籠もるウラル山脈東方のチャリャビンスク、エカチェリンブルグでの戦いが最後となったが、当時はそれぞれ都市とは言っても規模が限られ、増援を加えた大軍が籠もる事が出来るほどの城塞、要塞設備は存在しなかった。

 当然だが、近代的装備を持つ大軍を迎え撃てるだけの設備もなかった。

 そもそもシベリア出発のための拠点でしかなく、近代的な軍隊に攻め込まれることを考えてすらいなかったと言える。

 また、新たに強化するだけの時間と物資、資金もなかった。

 このため現地での戦いも野戦となるが、相手の約二倍という数に頼って総攻撃を行ったロシア軍が、アスガルド軍の防御射撃の前に散々に粉砕され、そのまま街に籠もることも出来ずに敗退した。

 

 この後ロシア軍の後退は、ほとんど潰走といえる状態となり、ボルガ川にまで後退してようやく止まる。

 アスガルド帝国軍は、後退するロシア軍を追いかける形で進むだけとなり、彼らが進撃の先で最後に出会ったのが、ロシア帝国政府の講和を求める使者であった。

 


 結局、主に夏の間の戦いが断続的に3年強続いた「シベリア戦争」は、ロシア帝国がアスガルド帝国軍の圧力と自らの戦費の双方に音を上げてアスガルド帝国に講和を請い、スウェーデンが仲介国となって王都ストックホルムで講和会議が行われる事になる。

 

 また戦争中のロシア帝国は、前線に皇帝どころか皇族が出てくることはなく、常に前線にあったフレイソン皇太子を酷く落胆させると同時に、「ロシア恐れるに足りず」という感情をアスガルド人に植え付けることにもなった。

 

 そして弱腰を見透かされた講和会議でのロシアは、そのまま全権大使となったフレイソン皇太子の巨躯に気圧されるように、占領されたままの広大なシベリアのほぼ全てをアスガルド帝国に割譲する事になる。

 ボルガ川からウラルの間の占領地は辛うじて返還され、ウラル山脈の東側はロシア人住民が比較的多い地域について売却という形を取ったが、その金額からすれば割譲とほぼ同義でしかなかった。

 しかもこの頃、アラスカで大量の金が見つかったアスガルド帝国にとって、その金額は費やした戦費に比べればたいした金額でもなかった。

 

 また、シベリアに収容されていた罪人の多くが講和条約によってロシアに戻されることになり、そうした人々のために戦後ロシアではかなりの混乱が続く事になる。

 当初アスガルド帝国は、罪人や政治犯に対して棄教と帰化をするなら恩赦の上で居住を認めたが、殆どの者がキリスト教、ユダヤ教などを棄てることが出来ず、ロシアへと戻ることになったからだ。

 

 こうして、アスガルド帝国が日本から購入した頃は夏川(レナ川)流域西部だった自然境界線は、新たにウラル山脈へと書き換えられた。

 フレイソン皇太子が特に望んでアスガルドに割譲されたエカチェリンブルグ市は、新たにフレイディル市と改名されることになる。

 

 中央アジア地域に対する優越権もアスガルド帝国のものとなり、カスピ海の東岸からロシア人は姿を消すことになる。

 

 また、アスガルド帝国領となる地域に住んでいたコサックなどのロシア人のかなりが、ロシア領に移住する事にもなった。

 一部の者は残り、帰化と改宗とを引き替えにアスガルドの臣下になることを誓っているが、去った者との比率はおおよそ2対1で、残った者の方が少なかった。

 改宗という要素が、やはり大きな障害となっていたからだ。

 その点、アスガルド帝国の勢力に含まれるようになった中央アジア地域では、イスラム教の精神的な浸透が比較的薄かった事と、当時のアスガルド人がイスラム教に対して比較的寛容だったため、大きな混乱はなかった。

 それどころか、アスガルド人がもたらす新たな流通網、情報網に乗っかるため、比較的簡単に改宗と宗教地図の変化が進んでいる。

 

 ただし、その後アスガルド帝国は、キリスト教徒を含めて「宗教税」を導入している。

 この宗教税は、一神教徒は現世で多くの恩恵を受けているので、それを社会に還元しなければならないという、ある種逆転の発想による税金だった。

 この「人頭税」のような「宗教税」のため、その後多くの者が一神教(キリスト教、イスラム教)から改宗していく事になる。

 無論、宗教税に対する反発も強かったが、新たな領土でのアスガルドの領土化には極めて大きな貢献を果たしている。

 


 なお、新たな地域全体を示す言葉として、アスガルド帝国は時の皇帝の名をとって新たに「フレイディア」と命名し、シベリア地域の名も現地語から単に「サハ」もしくは「サハランド」「サハイア」と改名した。

 ただし本国から遠方すぎるフレイディアは帝国の直轄領とはされず、現地自治政府を置く形の「副帝領」とされてた。

 

 当面の統治については、ロシアとの戦争中は遠征軍総司令官となったフレイソン皇太子自身が代理総督として統治を実施。

 その後は、フレイディース一世の叔父にあたるグラズヘイム公爵アンドレアが一族と共に現地に赴き、その後彼の一族によって統治される半自治地域へと変化していく。

 

 なお、グラズヘイム公爵家の当時公子だったヴォルフが、フレイソン皇太子の配下として活躍したことが、グラズヘイム公爵家が副帝領の統治を任された大きな要因だと言われている。

 また、その後フレイソン皇太子の王女がグラズヘイム家に嫁いで、副帝家としての立場を強化してもいる。

 


 なお、アスガルド帝国にとって有利な事に、ロシア人が叩かれることにヨーロッパ世界はかなり冷淡だった。

 もともとヨーロッパ世界にとって、ロシア人とは「東の蛮族」だからだ。

 しかも近年ロシアの脅威を感じているスウェーデン、オーストリアなどは、あからさまに喜んですらいた。

 ロシアからの圧力を受けていたオスマン朝トルコも、数百年ぶりにアスガルド人との握手を求めようとした。

 

 一方ロシア以外の世界だが、東アジア進出を狙っていたフランスを始めとするヨーロッパ諸国は、貿易以外で東アジア進出を図ることは基本的に出来なかった。

 内乱中であっても、既に産業革命を実施している日本の基本的な国力、軍事力は十分に強大だったからだ。

 またヨーロッパからアジアの距離はまだ遠く、大きな力の投射は難しかった。

 

 その上17世紀中頃からずっと日本人が立ち塞がるとなると、足場を作ることすらできなかった。

 ヨーロッパ諸国としては、日本の混乱を利用してインド洋から日本の影響を低下させることぐらいしか出来ることがなかった。

 しかしそのインドでも、日本人、アスガルド人が現地国家に武器や近代的文物を売り、場合によっては援助すらしていたので、モザイク状態の植民地から進むことが出来ないでいた。

 中東もまだ現地イスラム国家が相応の勢力を維持しているので、あからさまな侵略も難しかった。

 

 ならば文明的に遅れたアフリカ大陸への進出を強化すべきだという意見もあったが、アフリカは早くから進出の進んだ沿岸部はともかく、入り込むのが地形的に極めて難しい奥地は原住民すら脅かす強力な疫病と過酷な自然があるため、進出することは極めて難しかった。

 

 唯一の例外は温帯の気候区分に属する南アフリカのケープで、ナポレオン戦争でフランスが現地の権利を得て、その後積極的な開発が進んでいた。

 このためケープでは原住民(コイ族、サン族といった褐色系の先住民族)がほとんど駆逐され、代わりにヨーロピアンが大挙入植していた。

 ケープでは、白人の土地を確保するために、原住民の絶滅政策が当たり前のように行われたほどだった。

 

 1830年頃の白人人口は500万人を越えており、毎年数万の移民が、しかも19世紀半ばからは、フランス以外の多くの地域からも移民が押し寄せていた。

 ヨーロッパでの産業革命の開始が、ヨーロッパ各地に過剰な人口増加を促すも、余剰人口のはけ口となるのが南アフリカしか無かったためだ。

 現地では原住民を駆逐した上での開発と開拓が急速に進められ、巨大な白人社会が出現していた。

 

 スウェーデンは、ロシアに接する北東部領域の開発と入植を進めることである程度人口問題は解決ができたが、ライン王国ネーデルランドはフランスに頭を下げてでもかつての自国領に移民を受け入れてもらうしか無かった。

 ライン王国もアフリカに植民地は持っていたが、白人が大量に移民できる場所は皆無だったからだ。

 このため、産業革命以後のライン王国は、フランス帝国との関係を重視する向きを強めるようになっていく。

 

 ただし南アフリカでは、言語、単位は全てフランス基準であり、フランスの総督府が統治を行っていた。

 このためケープに移民した場合は現地に帰化しなければならず、公の場ではフランス語を話さねばならなかった。

 もっとも19世紀半ばまでで現地に移民したヨーロピアンは、以前から入植していたネーデルランド系、新たな主人であるフランス系を除くと、若干のアイルランド系がいる程度だった。

 ブリテン島のイングランドでも、18世紀ぐらいから人口飽和が起きていたが、フランスが許さないためどこにも入植することが出来なかった。

 このためイングランド国内には貧困者が溢れ、産児制限を行う停滞した状況に置かれ続けた。

 

 そしてケープは、ヨーロッパ以外でのほぼ唯一のヨーロピアンの植民地であり、まともな新天地だった。

 アスガルド人や日本人が世界各地に広大な植民地を構えていたことと比べると、大きい差だといえるだろうが、それが現実だった。

 

 そしてアスガルド人が産業革命を最初に始めそして進展させた事と領土の違いが、遂にアスガルドがヨーロッパを追い越すことになる。


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