フェイズ17-1「シベリア戦争(1)」
ユーラシア大陸北東部の「ホッカイア(北海州)」という新たな領土を得たアスガルド帝国は、近在のフレニア諸島、対岸のアラスカなどから続々と北海州入りした。
そしてすぐにも、不確定のままだった境界線近辺での自分たちに都合の良い占有権を主張し、ウィーン体制成立後のすぐから現地の日本人を威嚇していたロシア人に対する積極的な挑戦を実施する。
その行動は、遂に自分たちが単独でヨーロピアンの一派を叩けるという、ある種の民族的興奮に満ちていた。
アスガルド帝国人にすれば、遂に「邪教討伐」の時が来たという心象風景になるだろう。
「ヨーロッパを叩け」というフレーズは、アスガルド人にとって何よりの士気高揚だった。
アスガルド帝国の準備は周到だった。
ホッカイア進出のため特別訓練の部隊編成と訓練は、西暦1829年(アスガルド歴779年)に本国北部領域のニヴルヘイムや極寒の地のアラスカで開始されていた。
購入すぐの1833年の初夏には、1個旅団5000名の兵力が黒竜江を遡って現地入りしていた。
部隊が帝国本土を旅立ったのは、日本からの正式購入前の事だった。
そして北海州が正式にアスガルド領となると、小規模な現地ロシア勢力との間にすぐにも国境紛争が発生。
小規模な小競り合いは徐々にしかし急速に拡大して、紛争、そして戦争へと発展。
早くも購入翌年の1834年7月には、アスガルド帝国が宣戦布告する形で「シベリア戦争」が勃発する。
文明の利器をもってすら人が入ることを拒むような北辺の地に、大挙して船と物資そして軍を送り込んだことに、アスガルド帝国の意図、そして野望を見ることが出来るだろう。
戦争初期の戦場は、エニセイ川、夏川(レナ川)の間とバイカル湖近辺。
この辺りが、日本領時代のロシア(+モンゴル系民族)との自然境界線となっていた。
そして現地は、余りにも人口密度が低すぎるため、日本、ロシア共に自らの領有権を明確に示すことが難しかったからだ。
アスガルド帝国が動員した戦力は、初期の段階で全てを合わせても2万人ほどだった。
本国からの新規部隊、アラスカの北方辺境兵、元フレニア駐留軍からの転属部隊、北東アジアにいた艦艇乗り組の海兵隊員、さらには北海州の現地日本人の侍達に、ロシア人を恨むモンゴル人などの騎馬民族、などなど雑多な勢力で構成されていた。
中には、純粋に金で雇われた日本人や漢族、蒙古族の傭兵もいたりした。
しかも、余りにも広大な地域の為、一カ所に全ての兵力が固まっているわけではないので、兵力の密度はアスガルド大陸やヨーロッパと比べると驚くほど低かった。
分隊(10名ほど)の騎馬偵察隊などザラだった。
対するロシアは、彼らにとってはユーラシア大陸北辺の所有者が変わるという突然の外交上の変化にとまどい、対応が後手後手に回った。
今までのシベリア(ロシア側通称)は、消極的な日本人との小競り合い以上の戦争は想定していなかったため、一部重要拠点の守備部隊と収容所や監獄の看取を除くと、コサックが広く浅く屯田兵として駐留するばかりだった。
シベリア東部で限定すると、数は3000名を越えていなかった。
最東の拠点だったバイカル湖近辺だと1000名程度でしかなく、アスガルド軍の最初の攻撃でバイカル湖近辺のコサック達は完全に駆逐されている。
現地に住むロシア人も、その殆どが流刑として送り込まれた様々な罪人とその看取達で、開戦当時ウラル山脈より東に住むロシア人の数は、多く見積もっても10万人程度だったと言われている。
何しろ罪人も看取も、人口を増やすことがないからだ。
しかも罪人には少数民族や政治犯が多く、ロシア帝国に対して反抗的だったため、「解放後」にアスガルド帝国に寝返る者もかなりいた。
現地の産業についても、既に毛皮も取り尽くしていたので、毛皮となる獣の畜産化や、精々罪人達にシベリアの木を切らせて、それをロシア本土に送るぐらいしかなかった。
コサック達も、一部で農業を行った以外では、現地の人々と同様に羊や牛、トナカイの放牧などで細々と生計を立てるしかなかった。
交通手段が限られ過ぎている上に寒冷な気候のため農業を行うには難しく、また行うだけの資本と技術が後進国のロシアにはなかった。
広大な陸地での戦闘のほとんどが、騎兵、馬を用いたやや古くさい戦いとなったが、世界で最も辺鄙で寒冷な場所での戦争は双方ともに大軍を用いた活発な戦闘は行いたくても行えなかった。
戦いそのものも限定され、夏場のシベリア低地は一面湿原や泥の海となるので氷が溶けた河川以外が使い物にならなかった。
逆に冬は世界最強の極寒さのため、人間の限界に挑むような戦いが断続的に続けられることになる。
またアスガルド人は、現地に入ったばかりで土地に不慣れだったが、今回の戦争に備えて厳しい訓練を積んだ兵士が多い上に、現地入りした兵団を中核戦力とした事、現地に慣れたモンゴル系住民やツングース系住民、現地日本人移民、モンゴル傭兵などを案内や先鋒とした事で欠点は補われていた。
現地のモンゴル、日本の馬は小さく一見非力に見えたが、シベリアの気候に対してはヨーロッパ生まれの馬よりも余程合致した耐久力を持っていた。
北部に住むアスガルド人が使い慣れていたトナカイ(カリブー)も、輸送手段などで活躍した。
その上ロシア帝国に対して総人口で三倍、経済力で10倍以上の差を持つアスガルド帝国は、北辺での領土拡張を本気で行い、必要な人と物を遠路船で運び込んできた。
足りない分は、日本すらも後方拠点として活用し、日本で調達できる近代的文物は、本国からわざわざ運ばずに日本人に代金だけ渡して多くを日本で調達した。
そうしてロシア人への圧迫を継続し、希薄なロシア人を一気に西へと押し戻していった。
しかもアスガルド帝国は、自らの領土拡張の決意を示すべく、フレイソン皇太子を元帥、つまり現地軍の鎮定軍総司令官として派遣した。
同皇太子は、1832年の来日後はフレニアなどを視察中だったが、この戦乱を予期しての長期のアジア派遣と見て間違いないだろう。
そしてこの戦役以後、ユーラシア大陸東部、北部を縦横に暴れ回る事になるフレイソン皇太子は、その功績から後に「征服帝」という別名を国から贈られている(※王(又は皇帝)の別名は、古いノルド系国家の特徴の一つ。
本名はフレイソン・アレクサンデル・チュール・カイザル・ステイグリム/1811年生まれ)。
父(ヴァンヘイム大公爵)を越える身長2メートル近い長身で、騎兵を愛する古代のローマ皇帝のような人物だったと伝えられている。
1840年頃から撮影されるようになった写真でも、他者から抜きん出る筋肉質な巨体は大きな存在感を放っている。
また、父と同様に赤毛だったため、アスガルド帝国人からは赤毛のエイリークの再来とも言われた。
性格は、戦いと酒と女性を愛すると自ら豪語するほど豪放磊落で、人間的魅力に溢れた人物だったと言われる。
しかし単に勇猛果敢な武人だっただけでなく、雑多なホッカイア(北海州)のアスガルド軍と民を、非常にうまくまとめ上げる手腕も発揮している。
軍事についても、歴史とその後の記録が示すとおり非常に優れた指揮官だった。
そして彼自身の存在が、現地での軍の運営を円滑にすると同時に、アスガルド帝国をその名の通り帝国的な侵略国家として世界に印象づけることになったとされる。
深紅のマントをなびかせて大柄の黒馬に騎乗する姿は、まさに神話に出てくる軍神もしくは侵略者の首魁それだった。
ロシア人達は、フレイソン皇太子の事を「悪魔」や「魔王」もしくは「覇王」といって恐れた。
もっとも、世界で最も辺鄙な場所での戦争は、近代的文物の存在が勝敗を決することになった。
この戦争でアスガルド帝国側の輸送手段として威力を発揮したのが、当時最新の文明の利器の一つだった蒸気船だったからだ。
今まで北極海には、海流と風の影響で氷が減る夏ですら帆船ではまともに入り込む事は難しく、大東洋側から入ることはほぼ不可能だった。
しかしアスガルド帝国軍は、蒸気の力で機動する船によって北極海へとやすやすと入った。
初期の段階でも、日本からの購入すぐにも北極海から夏川(レナ川)の拠点に兵と物資を運び込み、その上で戦争を始めていた。
しかも丈夫な蒸気船、薄い氷で傷つかないようにスクリュー駆動の蒸気船で「北斗艦隊」を仕立て、夏の薄い流氷を突破してエニセイ川、オビ川、さらにはバレンツ海にまで大東洋側から入り込んだ。
こうして「その速さ迅雷のごとし」と言われるアスガルド帝国軍の進撃を実現し、依然として古くさい軍隊だったロシア軍の度肝を抜いた。
また、当時フレイソン皇太子の部下だったグラズヘイム公爵家のヴォルフ公子は、総司令官の名代としてスウェーデン領のムルマンスクまで赴き、世界で初めて北極海を船で横断した人物となっているほどだ。
これまでは、発明されるも蒸気船の能力をそれほど重視していなかった世界が、初めて蒸気船という気象や自然環境に関係なく動ける装置の威力を知った事になる。
こうしたところにも、フレイディース一世の先見の明を見ることが出来る。
オビ川流域のロシア軍拠点が、夏の泥の海の中で次々に攻略されていったのは、間違いなく蒸気船の力によるものだった。
当然だが、当時蒸気船を有しなかった貧弱なロシア海軍は、突如出現したアスガルド帝国軍の攻撃で壊滅的打撃を受け、残存戦力がアルハンゲリスクなどの拠点に逼塞するまで追いつめられている。
しかも、この時に呼応して大西洋側からも、各国の了解を取り付けた上でアスガルド帝国の艦隊が北極海入りして現地軍に合流し、一気にロシアから北の海の制海権を奪っていた。
このためノヴァヤゼリヤム島など、ロシアが一応の領有権を主張していた北極の島のいくつかも、アスガルド帝国軍の拠点として占領されていた。
しかも、北極海を越えたアスガルド帝国艦隊は、短い夏の間以外はスウェーデン領の凍らない場所で越冬しており、戦争中北極の制海権は常にアスガルド側の手にあった。
ノルド王国やスウェーデンと話しを付けて、辺鄙ながらそれぞれの地域での越冬はロシアにとっても予想外だった。
このため、戦争中ずっと、ロシア海軍は北極海や北極海に注ぎ込む大型河川での活動が出来なくなってしまっている。
ちなみに、この戦争中のスウェーデンは、こうしたアスガルド艦隊に越冬のための泊地を提供して有償補給も行っているが、スウェーデンにはヨーロッパ世界での外交があり、ロシアもこれ以上敵を抱えたくないため、アスガルド艦隊はスウェーデンの「把握していない場所」に潜伏しているという事になっていた。
一方、ユーラシア大陸北原を西へとひた進んだフレイソン皇太子率いるアスガルド帝国軍は、一年当たり1000キロメートルもの進撃を実現した。
この距離は、世界史上でもモンゴル帝国と並んで最高記録とされている。
馬による機動性を、近代的文物である蒸気船による補給が大きく高めた結果だった。
とはいえ世界の僻地に対して、アスガルド帝国が現地に投入できる軍事力は常に限られていた。
これに対してロシアは本国からの地続きのため、辺境警備の主力であるコサック騎兵中心ながら相応の規模の軍を派兵することが可能だった。
このため初戦は兵力の優位、奇襲の優位、戦略の優位など様々な面で優位に立ったアスガルド軍が電撃的な侵攻を実施するも、戦場が大きく西に移動するにつれて地の利はロシアへと傾いた。
何しろアスガルド帝国軍は、攻勢発起点から3000キロメートル以上も進撃していたのだ。
大西洋側からも物資を満載した艦隊を送り込んでも、出来ることには限界があった。
この時のアスガルド帝国にとっても、シベリア奥地は流石に遠すぎたと言えるだろう。
それでも勝敗を分けたのは、蒸気船など近代的文物の有無となったと言われる。
想定外の場所で戦争をさせられた上に、今までの常識を無視して北極海を使われてしまっては、ロシアとしては戦略の立てようもなかった。
結局ロシア軍は、オビ川の制海権(制川権)を取り戻すことが出来ず、現地アスガルド帝国軍は夏の間は十分な補給を受けることが出来ていた。
しかも中央アジア地域でもロシア人は嫌われていたので、アスガルド軍は少なくとも弾薬以外での物資の不足に悩むことは無かった。
もっとも、戦闘自体は施条銃(ライフル銃)の有無、もしくは数の差の方が、戦況に与えた影響は大きいとも言われる。
そして全ては、工業化しつつある国と旧態依然とした近世国家の違いといえるだろう。
かつてのマヤやインカほどではないが、文明発展程度の大きな違いが勝敗の明暗を分けたのだ。