フェイズ16-1「帝国主義時代開幕(1)」
一般的にフレイディース1世は、対外的には開明的な変革者にして改革者、国内的にはアスガルド帝国中興の祖と言われる。
そして同時に、帝国主義の扉を開いた人物として語られることも多い。
「フレイディース時代」という言葉は1830年代に登場し、その後産業革命の波と共に世界を覆っていく事になる。
そして19世紀を代表する言葉となった。
フレイディース1世の治世そのものは、西暦1811年から1854年(アスガルド歴761年から804年)まで続いた。
43年の治世は、アスガルド歴代皇帝の中では最も長い。
しかも、60才の時に禅譲によって次代の皇帝に帝位を明け渡すも、1879年に85才で没しているので禅譲から四半世紀の間存命だった。
そして子供の頃の父帝への助言を含めると、生涯全てにおいて帝国の政治に影響力を与え続けたと言えるだろう。
このため「大帝」や「母帝」として称えられる事もある。
フレイディース1世が生きている間に、アスガルド帝国は後期型の絶対王政から立憲君主体制に移行し、皇帝の権力はある程度残るも民政議員選挙と民政議会開設を行うまでになった。
憲法自体も、初期の欽定憲法から民主憲法へと順次移行できた。
禅譲後の彼女が存命の間に皇帝となった第九代皇帝のフレイソン二世、第十代皇帝のフレイソン三世は、皇帝となって後は立憲君主としての自らの役割をよくわきまえていた。
宰相や各大臣となった者達も、概ね自らの職責をうまく全うしていった。
1850年代から1880年代にかけては、平民出身のエリアス・バルドルソンが外相や二度の宰相になるなど政治家としての辣腕を振るっている。
女帝自身も、禅譲後の晩年まで悪政、愚政を行うこともなく、おおむね名君、賢君であり続けた。
アスガルド帝国国民からも、「大帝」や「母帝」と称えられたのも頷けるだろう。
帝国自身もより豊かとなり、それまでとは違い世界に大きな影響力を発揮するようにもなった。
アスガルド、ヨーロッパ(主にフランス)、アジア(主に日本)で世界の棲み分けが半ば固定化し、さらにノルド王国の存在があったため、アスガルド帝国が世界に覇を唱えるには至らなかったが、その国力は世界最大へと躍進した。
一方では、いち早く産業革命を達成したアスガルド大陸にあるアスガルド帝国、ノルド王国が、この時点では世界を完全に握れなかった事を意味している。
ヨーロッパ列強と日本が、少し遅れて産業革命に自らも突入したからだ。
そして産業革命を達成した国々は、産業革命を達成しそしてさらに飛躍させるため、次世代の帝国主義へと突き進んでいった。
しかしアスガルド人たちは、止めることが難しい技術の流出と輸出に対して、一つの決めごとを設けていた。
それは自分たちの国に学びに来る事、技術をもらいに来る事が大前提であり、自分たちの側から輸出したり人を派遣することを、国民に対しても国が許可した以外では原則禁止していた。
特許や技術基準に関してもうるさかった。
国外で技術漏洩した者は、厳しく処罰もされている。
当然だが、やって来る者にはアスガルド語とルーン文字、アスガルドの単位系修得を必須として求めた。
ただ、別に技術輸出を禁止しているわけではないので、大したことはないと思われるかも知れないが、ヨーロピアンにとって心理的にかなり過酷な条件だった。
何しろアスガルド人の勢力圏では、依然としてキリスト教(+ユダヤ教)がほとんど禁じられているため、ごく限られた場所を除いて司祭や牧師もいなければ各教会もないからだ。
このためヨーロッパ諸国の産業革命は、人の意識の面で多少の遅れを見せることになり、アスガルド人も意図して行った嫌がらせであった。
ただし別の一面もあり、今までヨーロピアン世界では「神秘のベール」「宗教の闇」で覆われているとすら言われていたアスガルドの実状を、多くの人間に知ってそれを伝えて貰うという面だ。
なお、たいていの場合、産業革命には、製品を作る場所(国)とそれが可能な一定の教育がされた国民、製品を売るための市場、原料供給地、さらに次の段階として資本投下先となる次世代の植民地や未開発の土地が必要だった。
19世紀半ばまでに産業革命に突入できた列強は、アスガルド人によるノルド王国、アスガルド帝国、エイリーク王国、ミーミルヘイム共和国以外に、ヨーロッパのフランス、スウェーデン(バルト帝国)、ネーデルランド(ライン連邦)、オーストリア(ドイツ)、イングランド、東アジアの日本になる。
ロシアは統治体制の古さもあってまだ産業革命には至らず、イタリア地域は民族的な統一がままならないので、北部を中心に相応に工業化は進んでも帝国主義化には至れず、列強ではなかった。
また上記したうちでも、オーストリアは産業革命の進展がやや遅れていた。
他の地域では、インド地域とアフリカ地域が列強の圧力の前にのたうち回り、世界で最も巨大な人口を抱える清朝は、いまだ近世のまどろみの中で停滞していた。
アスガルド、ヨーロッパ西部の先進地域以外で特に大きな変化が見られたのは、中南アスガルド地域と日本だった。
順に見ていこう。
中南アスガルド地域は、古くは16世紀の頃からノルド王国の植民地だった。
16世紀以後、ほぼ全ての地域がノルド王国領であり、原住民のスクレーリングを除けばアスガルド人以外が立ち入ることを許さなかった地域だった。
エーギル海のある中部アスガルド地域の主に島嶼部は、主に砂糖、煙草などの南方系単品作物の栽培をするための拠点として機能し続けていた。
特に砂糖栽培では欠かせず、変わり種としてはアスガルド帝国領のフィマフェング島の一部では、世界最高品質の綿花が栽培されたりもしている。
ただし栽培するのは、別の場所から奴隷として連れてこられた連れられてきたスクレーリング達だった。
南アスガルド大陸は、主に金、銀、銅、硝石の供給地とされていた。
17世紀後半になると、温帯地域のアルゼンチンへのアスガルド人農民の入植が少しずつ進められるようになり、その後入植は各地に広まっていった。
入植したのは主にノルド王国の人々であり、それ以外であっても必ずアスガルド人だった。
ごく一部に、同じノルド系もしくはケルト系人種のヨーロピアンが加わっていることがあったが、この場合キリスト教を棄てて入植しているので、準アスガルド人と言って問題ないだろう。
ヨーロッパから専用の移民船が出ることも無かったので、移民数もごく限られていた。
そして南アスガルド大陸への入植は、ノルド王国で人口が飽和するようになった18世紀に入ると活発化し、19世紀初頭までには合わせて1000万人を越えるアスガルド人が住むようになっていた。
先住民との混血も非常に多くなっていた。
人が増えると共に、社会的熟成と発展も進んだ。
当然と言うべきか、現地の人々はアスガルド人としての権利を求めるようになるが、ノルド王国は現地を従来の開拓地の延長としてよりは純粋な植民地として見る向きが強く、現地の不満はそれなりに溜まっていた。
そうした中で第二次アスガルド戦争と、ノルド王国のヨーロッパへの軍事干渉が長期間実施され、そこで必要とされる税負担のかなりを植民地が負わされることになる。
必然的に反発が強まり、一時は内乱状態に近くなって、ノルド王国は多くの努力を各植民地に注がねばならなかった。
そうして1822年には、生粋のアスガルド人移民が多いアルゼンチンの自治を認めるに至り、以後十年ほどの間に多くの地域で今までよりも高いレベルでの自治もしくは準じた権利を与えなくてはならなくなってしまう。
このためノルド王国は、この間経済、政治双方の混乱が見られ、隣国のアスガルド帝国への積極的な政治干渉を行うことも出来ず、しかも植民地経営への努力のために国力を吸い取られ、産業革命でもアスガルド帝国に追い越されてしまう。
広大な植民地を持ったが故の弊害が出た形だった。
しかし完全崩壊に至らずにむしろ再編成に成功し、ノルド王国を中心とした連合体として中南アスガルド地域は改変されることになる。
これがアスガルド歴775年(西暦1825年)に成立した「ノウム・ガルザル憲章」であり、基本的に以後のノルド王国は「連合王国」と国号を変更し、各地域も王家を立てて内政自治を進めた上で、「ノルド連合王国」と呼ばれる事になる。
また南アスガルド全体を、アスガルド人との混血人を意味する「ミッドガルド」の名で呼ばれることも増えていく。
だが、再編成が完全に成功したわけではなかった。
南アスガルド大陸の大東洋側の一部はアスガルド帝国の権利を認めざるを得ず、事実上の独立戦争を行ったメヒコ共和国の独立も受け入れなければいけなかった。
メヒコでの独立運動は、撤兵したアスガルド帝国軍にかわってノルド王国軍が入ってくる頃に始まった。
独立戦争として戦闘が始まったのは、アスガルド歴767年(西暦1817年)で、そこからはノルド王国にとってかなり不毛な戦闘が、メヒコ地域で断続的に続くことになる。
メヒコでの独立運動はアスガルド帝国が水面下で支援した事も、ノルド王国のメヒコでの影響力低下を助長した。
それでもノルド王国は、他のアスガルド地域へ独立運動が飛び火することを警戒したため、多くの努力を投入せざるを得なかった。
ノルド王国の姿勢が変わったのは、「ノウム・ガルザル憲章」成立以後であり、以後メヒコでの戦いは下火となり、独立に向けた交渉と調整が本格化するようになる。
メヒコ連邦共和国の完全独立は1830年で、国の上層部は全て現地のアスガルド人が牛耳っていた。
なおメヒコ地域は、最も早くノルド王国の植民地となった場所で、19世紀初頭の頃には既に主要銀山も枯渇しており、当時のアスガルド人の中では遅れた農業地域でしかなかった。
それでも開発と移民が早かったため、アスガルド系の人口がそれなりの数に増えて固有の社会を形成しており、そうした点から独立できたと言えるだろう。
先住民を含めた人口規模も、アスガルド世界第三位だった。
また独立に至れたのは、第二次アスガルド戦争の序盤でアスガルド帝国に占領されていた間に、ノルド王国の勢力が大きく殺がれ、現地土豪・豪族が地方権力を握るようになっていたためだった。
そしてこの時自立心が強くなった事が、独立への大きな原動力となっていた。
独立ではアスガルド帝国の主に水面下での援助も受けたが、ノルド王国、アスガルド帝国のどちらにも傾き過ぎず、可能な限り他のアスガルド国家と対等の立場を望む姿勢を示していた。
いわば、五番目のアスガルド人の国家だった。
そしてメヒコの独立は、その後のアスガルド情勢をむしろ安定化させる緩衝剤となっていく。
1840年代にはノルドとアスガルドの融和も再び進められるようになっている。
そして独立後にはかなりの苦労が伴われたため、南アスガルドに対しても一定の抑止力となった。
独立したらどれだけ苦労するかの「見本」とされたわけだ。